審神者ちゃんの人生5周目っ! 入社式であの真っ白な頭を見つけた時はマジで人生詰んだと思った。
嘘じゃん、最終面接でもすれ違いもしなかったのに、なんでアンタ新入社員席に堂々と座ってる訳?
あ り え な い ん で す け ど !!
実は前世の記憶がある。……って言うとすごい勢いで変人認定されるから、誰にも言ってない。けど、ある。
そしてそれはなんなら、前前前前世の記憶まで。
いつか流行ったあの歌より、一個多くの前世の記憶を私は持っていて、年数にすると大体……100年ちょっとくらいだろうか。人生5周目にしては短いと思われるだろうが、私の今までの人生は最長でも46歳だからしょうがない。どの人生でも、私はあんまり長生きじゃないのだ。多分。
何故「多分」なんて曖昧な表現を使うかっていうと、私自身に死んだ記憶が無いからである。というか……世界が終わって、以降どう生きたか、覚えてない。
どういう意味かというと、「肉体の死」と「精神の死」はハッキリと、明確に違うってことだ。鞘が無くても刀は刀であれるけど、鞘だけでは刀とは言えないのと同じように。
私が記憶している最初の人生。私は【審神者】という職業についていた。つまり刀の付喪神を率いて、来る日も来る日も戦のことばかり考える戦争従事者だったわけだ。
といっても18歳になって半ば強制的に審神者になった私にそこまでの自覚は無く、就職の心配もしなくて良いし、ラッキーかも。くらいの気持ちだった。大人たちはピリピリとしていたけど、私は戦争というものをリアルに想像することは出来なかったから。
勝手に戦争なんか始めて一般人を巻き込まないでよね、という憤慨の気持ちは多少あったけど、学校は啓蒙教育に、娯楽を創造する系の会社は戦争情報を発信する会社にシフトチェンジして、楽しいことと言えば過去の出版物を読み漁るくらいしかなかったし。
これは神様が自分にくれたちょっと長めの、体験型夏休みなのかもしれない、と思った。目新しい娯楽も何もない世界で、新しいことを経験できるのは審神者だけだった。
ところが、ある日突然に戦争は終わった。
最近前線では大変な戦闘が続いている、という話を聞いた直後のことだったので、とても驚いた。追い詰められた相手方の最後のあがきだったのだと気付いて、なんだかポッカリと穴が開いたようで、寂寥感すら感じた。
戦争が終わったら、審神者なんて沢山いたってしょうがない。前線で戦っていたような優秀な審神者はそのまましばらく残党狩りに残るという話だったけど、私は平々凡々な審神者だったので特にお声もかからなかった。同じ研修を受けた子なんかは、再就職先をどうしようかと嘆いていた。職歴に審神者って書けるだけで、特に私たちに優遇は無かったし、それは当然の嘆きに思えた。
だけど、私の頭は再就職先のことより何よりも、ただ一つのことに占められていた。
恋だ。
……100年以上の人生ストックがある今は思う。あの時の私って、とんでもなく能天気だったなって。ホント、返す返すも若さって勢いだけで何の役にも立たねぇな、と苦い気持ちでいっぱいになること山の如しなのだが、当時の私にはそれがこの世で何よりも大事なことだったのだ。
終戦宣言が発布されて私たちが再就職先や恋に憂いている数週間後、本丸からの撤退許可が出た。といってもそれは許可ではなく命令で、3カ月以内には本丸貸出終了するからそれまでに荷物まとめて出ていってくださいね、というようなことをものすごく堅苦しく書いたものであった。同時に、刀剣は顕現したまま置いて行っても良いし、刀解しても良いとのことだったが、持ち出しは固く禁じる旨も書かれていた。
私には将来の不安だとかより、それが何よりの死刑宣告だった。護衛役に一振りくらい持ち出せるのでは、なんていう噂もあったから、より深く打ちのめされた。
私の恋の相手は神様で、刀で、人ではなかったから。
本丸から出る前日、みんなが宴を開いてくれた。
食べて、飲んで、歌って、踊って。
燭台切は私に煮びたしの作り方を教えてくれて、私は彼にトリュフチョコレートの作り方を教えた。
次郎は私に日本酒を舐めさせ、私は彼に甘いチューハイを干させた。
歌仙は私に和歌の読み方を教えてくれて、私は彼にお気に入りの洋楽を教えた。
今剣は私に白拍子を教えてくれ、私は彼にオクラホマミキサーを教えた。
そうやって本丸中の刀が、私に何かをくれた。物理的なものだったり、心に残るものであったり、様々だったけれど。
そうして最後はみんなでマイムマイムを踊って、そのままバカみたいな笑い声をあげているうちに眠ってしまった。無茶な学生みたいだなって、朝日が昇るのを三日月と一緒に縁側で眺めて思った。
ひとつ弁明させてもらえるなら、私に戦争従事者としての自覚が芽生えず、最後まで恋だなんだと浮かれたお花畑野郎だったのは、私が人を斬っていたわけじゃないからだとも思う。慈愛深い神様たちが私たちを守るのに、代わりに戦ってくれたからだ。人間を、愛してくれたからだ。
「大好きよ、三日月」
ほとんどの刀が酒に潰れてしまった大広間を背中に、私は言った。
「あぁ。俺も、人の子は好きさ。特に主、おぬしのことは特別愛している」
良き時代を生きろ、そう言って三日月は私の額に唇を落とした。彼は私に加護をくれた。私は彼に、生涯祈りを捧げることに決めた。
私たちは神様と人で、それでいて友人でもあった。今じゃ考えられないことだけど、無知で厚かましい子供だった私は、そんな風に気安く彼らと向き合っていた。しかしこの神に愛された記憶が、後の4度の人生で心細くなった時どれ程私を支えてくれたかを思うと非難も出来ない。けど……恋はするのはやっぱり間違っていた。何度人生を歩んでも、これだけは言える。
この恋は、間違いだ。
思い思いに別れを告げ合い、初期刀の歌仙が鶴丸を促して私を大門まで送らせた。私の恋心を知る歌仙の粋な計らいであることは言うまでもない。
私の恋した神様は、鶴丸国永だった。
朱塗りの大門をくぐれば、私は審神者ではなくなる。最初この大門を見た時はまるで遊女のようだと怯えたものだけど、こんなに名残惜しく見上げる日が来るとは思わなかった。少しでも別れを遅くしたくて、大門前まで付いてきてくれた鶴丸を見上げて立ち止まった。
「つるまる、」
彼はまっすぐ大門の向こうを見つめていた。平素は壁にしか見えないはずのそこを、ジッと静かに。私の呼びかけに、応えもしなかった。
その時、あれと思った。いつもは友人らしい気安さに満ち溢れた神様が、神様にしか見えなかったから。
あれ。おかしいな、なんでこっち向いてくれないんだろう。聞こえてないわけはないのに。あれ。そういえば、鶴丸からは何も貰ってないな。ねだるわけじゃないけど、何か、現世に帰っても思い出せるようなものがあれば良いのに。あれ。待って、最近鶴丸と話したっけ。話した。話した、けど。全部私から話しかけてた気がする。まさか、
もしかして鶴丸、気づいてるんじゃないの?
血の気がザッと引いた。指先が氷のように冷たくて、開こうとした唇は乾燥でくっつくばっかりで、
「つる、」
「それじゃ、またいつかどこかで会おうな」
──それは柔らかな拒絶だった。
彼は常と変わらぬ笑顔で、その日初めて私を見た。いや、もしかしたら、終戦の通達があってから初めてだったかも。
臆病な私が、最後のチャンスでしか勇気が出ないことを見越して、彼は今までは側にいたのかも。それで今になって私を遠ざけていたのかも。遠くから彼を見つめる私の物欲しげな視線にも、話し掛ける声が少し上ずるのも、ずっと、ずっと気づいていて、最後の最後でもまだ、私に言わせないようにと、最後だというのに、それでも聞くだけも嫌だと。
そんなに、疎ましかったのだろうか。浅慮な人の子が、神に恋など烏滸がましいと。
息が出来なくて、血が巡らなくて、指先が氷のように冷たかった。世界がワントーン暗くなって、鮮やかさを失って、唇がいやに乾燥していた。
なんでもない日。なんにも、起こらなかった日。起こせなかった日。起こすことを、止められた日。
拒絶はどんなに優しくされても拒絶で、それ以外ではないことを思い知った、人生で一番、心を壊された瞬間。
私は、──初めて世界が終わるのを感じた。
幕が引かれるような優しさではなく、ぶっつりと電源を落とされるようなブラックアウト。
最初の人生が終わったのは、戦争が終わったのと同じ頃、私が22歳のことだった。
二度目の人生で、私は渡り鳥だった。
自分が人間だったと思ってるなんて、と周りの鳥からはちょっと敬遠されていたけど、私はそのことに何の疑問も抱いていなかった。そもそも当時の私の本質は鳥だったし、季節から季節、土地から土地へ行くことは変わらない。私はそうやって彼との記憶を抱えながらも、生きているから生きているといった風に過ごしていた。
ある時、とある島に降り立った。そこは水が多く、食べ物の充実した、まさに理想郷ともいうべき島だった。そしてそこに……鶴丸がいた。水の畔で彼は多くの渡り鳥に囲まれて、水滴を弾いて笑っていた。
私は彼を見つけて、一目散に彼に向かって走っていった。
「お、なんだきみ。元気が良いな」
私は彼の周りを走り回って
すきなの、つるまる
と騒ぎ立てた。前世では拒絶された言葉だから、今世ではどうしても伝えたかった。だけど告げようとしても、鳥の言葉は彼には伝わらない。くちばしで彼の唇をつつくくらいが、私に出来た精一杯だった。彼はそれをくすぐったそうに受け止めて、私の翼を撫でてくれた。
私は群れを離れ、その島で生きることを決めた。鶴丸は長いこと、毎日私に会いに来てくれた。彼は恋人のように私に寄り添い、時折悩み事などをこっそりと教えてくれた。幸せだった。
しかし彼はまたもや私から離れて行ってしまう。働き口が無いから島を出るというのだ。その頃の私はもう鳥としては良い歳で、彼について海を渡れる体力はなかった。彼もそれを知っていたし、私は彼に飼われていたわけでもない。野生の鳥を捕まえて連れて行こうなどとは夢にも思っていないようだった。
「それじゃ、またいつかどこかで会おうな」
そう言って、彼は私の翼を撫でた。元より人と鳥だもの、この恋が伝わることも無いと知っていた。けど。
私は、二度目の世界が終わるのを感じた。
二度目の人生が終わったのは、彼が島を出ると言ったのと同じ頃、私が13歳のことだった。
3度目の人生で、彼と私は高校の同級生で、男同士だった。
入学式で彼を初めて見た時、それまで何か、ちょっとした欠陥なのだろうと思っていた自分の前世の記憶は全て事実だったのだと気づいた。雷に打たれたようだった。
鳥だった時には話も出来なかったから、私は入学式が終わってすぐ、彼のクラスまで駆けて行って彼にこう聞いた。
「前世の記憶、ある!?」
……大きな過ちだったと思ってる。私はその時周りにいた他の同級生にとんでもない電波野郎だと思われたし、鶴丸も怪訝な顔をしていた。初対面でそんなことを聞いてくる男は信用がならぬ。私だってそう思う。だけど彼は持ち前のおおらかさで
「きみ、面白いことを言うなぁ」
と笑っていた。前世の記憶は無いようだったが、鷹揚な所は全く変わらなくて安心した。
私はその笑顔に、今度こそ彼とずっと一緒にいることを決意した。前世では、自己満足ながら思いは伝えられた。ならば今度は! そう意気込んでいた。
私は彼を追いかけてマネージャーとして剣道部に所属し、彼を追いかけてなんとか生徒会の書記に滑り込み、最後の年には彼と同じクラスにもなれた。体育祭も文化祭も、ずっと彼を追いかけた。
周りの人間にどう思われていたかは知らない。けど、私は彼とずっと一緒にいて、彼は私の呼びかけに応えて笑ってくれて、それがこの上なく幸せだった。
だけどそんな蜜月も長くは続かなかった。私と彼ではオツムの出来がそもそもべらぼうに違っていて、3年の秋口には私は地元の専門学校に、鶴丸は都内の超有名大学にと、それぞれの道に進むことが決定していた。
「それじゃ、またいつかどこかで会おうな」
卒業式の後、そう鶴丸は笑って、手の中の筒を高く掲げた。桜舞い散る蒼穹に輝く笑顔は、神様みたいに美しくて。もう彼は神様じゃないのに、自分と同じ人間だっていうのに。触れられない宝石を前にしたような、そんな歯がゆい思いで胸が潰れそうで目を閉じた。
この3年間、私は誰よりも鶴丸の近くにいた。それでもう、満足しとけよってことなんだろう。そう思った。
私は、3度目の世界が終わるのを感じた。
3度目の人生が終わったのは、高校の卒業式と同じ日、私が18歳のことだった。
4度目の人生で、私は43歳の時に鶴丸に出会った。
この人生では出会えないのかもしれないと思っていたので、かなり驚いたのを覚えている。たまたま入ったバーで彼はバーテンダーをしていて、まだ30歳にも届かないくらいの若い青年だった。私は結婚をしていて、その頃にはもう子供がいた。心を殺すほどの恋をしていた相手である彼とは、今世では出会えないだろう。そう考えて忘れて、他の相手を見つけていたのだ。
「結婚されているんですね」
そう彼に聞かれて、思わず左手を隠した。後ろめたかったのだ。けれど私は夫と子供を愛していたし、そもそも年が離れているから、たとえ結婚していまいが結ばれるようなことは無かっただろう。思い返してもバカなことをしたと思う。
その時の人生では、私は正直自分を見失っていた。自己満足ながら思いは告げた、一緒にもいられた。これ以上彼に会って、何を望むのか。自分でも分からなかったくせに、私はことあるごとに店に通い、彼に会いに行った。
彼は私を常連として扱い、通う内に私たちは知り合いになった。その流れで、今回は前のような轍は踏まないよう慎重に探りを入れたけど、今回も彼に前世の記憶は無いようだった。
カウンターからこっそりと覗く彼はいつ見ても美しくて、私はそれだけで満足だった。このまま彼が幸せになっていくのを、遠くから見守っていけたらいいと思っていた。
しかし案の定、彼は私から離れていく。外国を転々として写真を撮る旅に出るのだという。常連だけを集めて開かれたささやかな送別会で、彼は花束を抱えながら最後にスピーチをした。
「それじゃ、またいつかどこかで会おうな」
と、集まった人々に向かって彼は幸せそうに笑った。店内の薄暗い照明の中、ピンスポットを浴びる彼と影の中にいる自分。昔も今も結局別世界だと、ひしひしと感じた。
幸せな結末を見届けることは出来ないけど、幸せの道中にいる彼を見られた。いつも私の願いは半端にしか叶わない。それでも恋を告げることも許されなかった最初の人生に比べれば上出来だ。
私と彼は人生の中間地点で巡り合い、交差する線がやがて離れていくように別れる。そういう宿命なのだと思った。
私は、4度目の世界が終わるのを感じた。
4度目の人生が終わったのは、彼が旅立つ少し前、私が46歳のことだった。
そんなもんだからこの5度目の人生が始まった時も、私は至極冷静であった。はいはい、オールリセットってことね、理解理解。みたいな。
人生5周もしてたら生に対するありがたみなんて大体こんなもんだ。
理解と同時に私はこの人生では、鶴丸に関わらないようにすることを決めた。なるべくなら出会わないように、出会ってしまっても、避けて通るように。何故かというと、──私は本当は、ずっと彼に恋をしていたからだ。
審神者の時も、鳥の時も、男の時も、アラフォーの時も、私は彼に恋をしていた。想いを告げられたら、側にいられれば、幸せを見届けられたら。それだけでもう何も望まないなんて、詭弁ばっかりの人生にはほとほと飽きた。私はずっとあの男が好きで、欲しくてほしくて堪らなかったのだ。
だけど人生を何周やり直したって、どの種族、性別、年齢だって、結局私は鶴丸と恋人にはなれない。今までの人生を振り返ってみてもそれは明白である。
だったら最初から出会いたくない。恋人にもなってくれない、私の恋を殺すばかりの死神に、どうして再び出会いたいなんて望むだろう。
この恋は最初から間違っていた。神様と恋なんて、血迷ってたとしか思えない。もう彼のことは忘れて、今世は人間らしく、自由恋愛に生きよう。そう固く決意して産声を上げた。だというのに。
入社式であの真っ白な頭を見つけた時はマジで人生詰んだと思った。嘘じゃん、最終面接でもすれ違いもしなかったのに、なんでアンタ新入社員席に堂々と座ってる訳? あ り え な い ん で す け ど !! 危うく入社式でガチギレしそうになったけど、そこはそれ、さすがに累計100年以上生きてないから何とか叫びは飲み下した。
大丈夫、まだ焦るような段階じゃない。なにせ私が運よく滑り込んだ会社は、異動・転勤当たり前の超マンモス企業。その中で100人以上の新入社員がひしめいているのだ、部署被りならまだしも支社まで被ることなどまずありえない。例え奇跡的に支社が被った所で、部署まで一緒なんてこたぁそうそう無いだろう。私はそう自分に言い聞かせた。ところが。
「五条鶴丸だ。よろしく頼む」
「ジーザス」
「なんだって?」
「いいえ、なんでも。こちらこそよろしく」
私は差し出された手を控えめに握り、パッと離した。目の前に立つ白髪の美男子は、人生でそんな対応をされたことが無いのか、パチクリと瞬いた。チッ、イケメンめ。言っとくが私は今世でこそ、お前には塩対応を貫くし、なんなら一生関わり合いにはならんぞ!!
期待を裏切り、私と五条鶴丸は同じ部署で、同じ支社の配属になった。だと思ったよ、畜生!! あまりの無情さに思わず天を仰いで「ジーザス」なんて呼びかけてしまった。いや、かつての神なら目の前にいるんだけど、そーゆーことじゃなくてだな……。
とにかく! こうなってしまったからには仕方ない。そう簡単に会社は辞められないし、私も腹を括ろう。しかし絶対に業務連絡以上のことはしないし、不用意に近づかないし、一緒にランチも行かない。絶対だ!!
「何食う」
「……ラーメンで」
「初日から豪快だな。じゃぁ中華にするか」
………社会人というのは嫌いな人間を避けて通れるようにはなってない。それが社会の歯車になるということだ、無情だね。
研修中の新入社員に回す仕事なんか最初は無いのが当たり前だし、昼休憩なんて不公平にならないよう同時に取らせるのが当然だ。この部署で新人は私と鶴丸のみ。そしたら必然、一緒に飯を食う流れになってしまう。
もしかして研修中の半年間、ずっとこの感じなんだろうか。すでに発狂しそう。休職したい。
私が不穏な考えで頭をいっぱいにしている間に、鶴丸は近くの路地にひっそりとあった中華料理店を目ざとく見つけ、私を引き連れ入って行く。
厨房と向かい合うカウンター席につくと、のっそりとした熊のような店主が注文票を手に持った。私が目当てのチャーシューメンを頼むと、鶴丸は餃子と春巻きと半チャーハンとラーメンを頼んだ。前前前前世から思ってたけど、その細い体のどこにその量は吸い込まれていくんだ。
「めちゃめちゃ頼みますね」
「きみは少食だな」
「いや、一般女子にしては食いしん坊な方だと思いますよ」
鶴丸はそれを鼻で笑った。道理でプクプクしてるはずだ、ってか。嫌味なヤローだ。アンタに比べりゃ人間誰だってちょっとはプックリしとるわい!
しかし伏し目がちに笑うその顔は、壁の油のシミや、パッキリとした安っぽい白色光、体重移動の度にガタガタとうるさく鳴る丸椅子なんかに、ちっとも似合ってなかった。
掃き溜めに鶴っちゅーのはまさにこういうことだな。私がボンヤリ思っていると、彼は顔を上げた。視線がうるさかったのだろう、彼は自分の髪を一束指先で持ち上げてみせると
「先に言っておくが、これは地毛だ」
と釘を刺すように言った。
「は?」
「なんだ、気になって見てたんじゃないのか?」
「え? あぁ、すいません。ちょっと考え事をしてただけです。気に障りましたか」
率直に尋ねれば、彼は少し面食らったようだった。そのやりとりで、私は彼が容姿のせいで今まで沢山の好奇の視線にさらされてきたことを知った。けれど私からすれば鶴丸は出会った時から白髪で、そういう生き物なので、髪が黒かったら逆に不気味に思うだろう。
私が何も言わずにいると、彼はまた少し目を伏せた。そして一言、小さく
「この髪は存外気に入ってる」
と言った。私は、……私もその白を愛していました、とは言えずに、一言、
「でしょうね」
と返した。厨房の向こうからは、餃子の焦げる音と、香ばしいごま油の焼ける匂いがしていた。
この店が、後に私たちが幾度となく議論を交わし、嫌味な先輩の愚痴をこぼし合う場になろうとは、この時の私は予想もしていなかった。けれど【ただの同期】という名の他人を決め込む予定だった鶴丸は、他に気安い相手がいない寂しさからか、研修期間が終わった後も度々私を昼食に誘った。そしてその度私はこの中華料理店を指定していた。
何故ここかというと、私が単純にラーメン好きだからなのと、色っぽい雰囲気が皆無だったからだ。ここならあんまり噂も立ちそうにないし、私がうっかり彼への恋心を思い出しそうにもない。
今までは美しい水辺とか、青春の宝庫とか、薄暗いバーとかだったからダメだったのだ。場の雰囲気が完璧にそういうスイッチを押すチョイスだったからな。
「相変わらずチャーシューメン美味しい。鉄板」
入社から一年半ほどが経ったある日も、私たちは一緒に昼を食べていた。私が麺を啜りながらひとりごちると、鶴丸は
「そりゃ良かった。ほら、餃子も食え」
と言って横から私の口元に餃子を寄せてくる。綺麗な箸遣いがらし過ぎて、やっぱりこの店に彼は恐ろしく似合っていない。つくづくこの店を選んで正解だった。100年の恋も踏み留まる。
「人のものに手を出すほど卑しくないんですが……」
「俺は人にものを与えるのが好きなんだ。ほら、この春巻きも食え」
「ちょ、汁の中に入れんでください! ビシャビシャする!!」
慌てて春巻きをスープの中から引き揚げれば、彼はカラカラ笑っていた。パリパリの皮が命の春巻きになんちゅう仕打ちだ。仕方なくそのまま素早く口に運ぶと、油の匂いの隙間からほのかにラーメンの味がして、それから口の中でくしゃりと鳴った。じゅんわりと零れだしてくるアツアツの餡が舌を滑る。美味い。咀嚼しながらいまだスープの中に浮かぶ餃子は、とりあえず一旦レンゲの上に避難させた。
鶴丸は相変わらずニヤニヤしている。
「五条さん。食べ物を粗末にしないでください」
「食べてるだろう」
「一番おいしい状態で出されてるものを食べないのは粗末にしているのと同義です。食べないなら頼まんでください」
ピシャリと言っても鶴丸は微笑んだままチャーハンを頬張るばっかりだ。どこ吹く風の鷹揚さ。この5周目の人生で分かったことは、鶴丸国永はいつの時代も鶴丸国永だということ。
飄々とした態度の割りに仕事が出来、会話はウィットに富んで、煙草も酒も誘われれば嗜むし、付き合いも良い。人間離れした容姿や能力を驕ることもなく、退くときは退いて、求められればきちんと自分の意見も言う。
いつしか彼は職場の太陽みたいな存在になり、上にも下にも好かれる無くてはならない歯車の一つになっていた。そんなきらめかしい存在と私の組み合わせは、あけすけな上司曰く「王子とお付き」らしいのだが、全く言い得て妙だと思う。
確かに私たちは、どの人生でもそんな感じだった。
「そういえば、噂になっているらしいな」
不意に鶴丸が言った。
「何がです」
「きみと俺だ」
ブッ!!
図らずも餃子が気管に詰まる。酢醤油が肺の入り口を焼いて、しばらくその場でのたうち回った。鶴丸はチャーハンをせっせと口に入れながら背中をさすってくれた。片手間も良い所だ。
「……っ否定、しといてくれたんでしょうね!?」
「濁しはした」
「はっきりきっぱり否定してくださいよ!! 私とアンタは真っ赤な他人だろうが!?」
烈火のごとく怒れる私の背中をそれでもさすり続ける鶴丸は、とうとうレンゲを置いてカウンターに片肘をついた。
「つれないな、同期だろう」
「世間ではそれを他人と呼ぶんですよ! ちっくしょう、こんな色気もへったくれもないランチの、どこにそんな要素を見出すバカ野郎が……っ!」
「おいおい、支社長になんて口をきくんだ」
絶句。
支社長って、支社長ってあの上の階にいる? この支社のトップのこと? そりゃ鶴丸が彼にめちゃめちゃ気に入られてご挨拶回りの度にかりだされているのは知ってたけど、特に目立つところもない一般社員の私なんか気にも留めてないはずでは。まさか鶴丸を気に入りすぎて素行調査を……? そんな形でトップに存在を認知されることになるなんて。え、生きづら……。
私が放心していると、鶴丸は笑った。
「自然と耳に噂が入ってくるらしいぜ。つまり、俺ときみは随分前からこの支社では注目の的だったというわけだ」
「否定、否定に回らなければ……こんなところで悠長にラーメン食ってる場合じゃない、」
「流しておけよ、どうせすぐに風化する」
噂なんてそんなものだろう、と鶴丸は再びレンゲを手に取り食事を再開した。私は伸びていくラーメンを気にしつつも、正直食事どころではなくなってしまった。
「呑気なこと言わんでくださいよ……私にとっては死活問題だ」
ついに両手で顔を覆い天を仰ぐ。三日月、私に加護を与えてくれた唯一神よ、どうか我をこの苦しみから救い出だしたまへ……
「俺はそこそこ今の状況を楽しんでいるぜ」
「他人事だと思って……!!」
キッと睨み上げれば、視線だけをこちらに流して彼は言った。
「慌てた時だけだ、きみの素が出るのは」
きみはいつまでたっても敬語が取れないからなぁ、そんなまるで踊るみたいな拍子の言葉を面白そうに口にする。
小汚い中華料理店までをも、神の踊る舞台にしてしまう。これだから鶴丸は。私は苦虫を噛み潰した気分で、かすかに塩素の匂いのする冷やをぐいと飲み干した。
鶴丸と他人でいる。私の固い決意とは裏腹に、私たちの仲はこんな風に、周りが認知する形で深まっていった。
私のミスをフォローしてくれるのは大抵鶴丸だったし、上司の尻拭いで残業を重ねた時も一緒にみんなの栄養ドリンクを買いに出された。出張で相手がいない時は、「寂しいでしょ」なんてからかわれて、私たちはいつもニコイチのように扱われた。
鶴丸は相変わらずちっとも私のことを好きじゃなさそうだったけど、そのニコイチ扱いを「ただの噂だ」と言って、特段気にもしていないようだった。まぁ、好きじゃないから気にならないんだろうとも思う。私のことをちっとも意識していないから受け入れる。つまり、鶴丸は私を女として甘く見ていたのだ。
腹立たしいことこの上ない話だが、鶴丸と他人でいたかった私には、彼のそういった無頓着さは逆にありがたかった。
鶴丸は私を好きじゃない。鶴丸と他人でいたいという願いが叶わなくなってしまった今、それだけが私の希望だった。
本当に、……本当にそのはずだったのだ。
4度目の人生で私はこう悟った。
『私と彼は人生の中間地点で巡り合い、交差する線がやがて離れていくように別れる。そういう宿命』だと。
だけどそれは少し違っていて、
『私と彼は人生の中間地点で巡り合い、(図らずも私が彼に恋をしてしまい)交差する線がやがて離れていくように別れる。そういう宿命』
だったのだ。
何が言いたいかっていうと………私は本当に、100年以上生きた今でもなお、とんでもない脳内お花畑野郎だということだ。
別の生き物であるということは寂しくて、胸が引き絞られるほど苦しい別れがあるということを、知らないわけではなかったのに。
2月某日。
五条鶴丸が入社2年目にして異例の大出世で、3月に支社から本社に異動することが決定した。
同期の私は支社に残り、鶴丸は栄転と、それぞれの道に進むことになる。上司や先輩はニコイチ扱いだった私たちを「寂しくなるね」「出世の早い旦那だね」と口々にからかって、太陽がいなくなる寂しさを埋めているようだった。
その点、彼を特別に可愛がっていた支社長は大喜びした。少なくとも、寂しそうな様子はチラとも見せなかった。こういうのが上に立つ人間の器なのだろうなと私は思い、自分が審神者であった時の女々しさや無知さだとかを今さらながらに呪った。
しかしどんなに呪おうと私は初めから女々しいタイプの人間であったので、彼のランチの誘いをその辞令から全て断っていた。
決定的な言葉を聞きたくなかった。あの物悲しい別れの言葉を、なるべく遠くに置いておきたかった。
そして彼の最後の出社日である金曜日。支社長の計らいで、一人のために開くには豪勢な送別会が行われた。
食べて、飲んで、歌って、踊って。
みんな寂しさを吹き飛ばすように騒いでいたけど、私はあの小汚い中華料理店のラーメンが恋しかった。頭の中で永遠に繰り返されるのはきっとこの景色ではなく、あの二人きりの油まみれの狭い部屋だろう。
その別れの宴は盛りを少し過ぎた良い頃合いで終わり、帰り支度をする鶴丸に「また遊びに来なよね」と誰かが言った。鶴丸は「はい」とお行儀よく答えていたけど、そこにいた誰もがそんな日は来ないだろうと知っていながら慎重に黙っていた。
先輩のみんなが鶴丸に私を送っていくように言い渡したが、私はそれを丁寧に辞した。
「一人で帰れますから」
「ままま、積もる話もあるでしょうしね! そう言わずに!!」
「いや、無いですよ」
「またまたぁ。明日明後日休みなんだし、なんなら月曜も休んで良いんだよ? カバーしとくよ?」
「そうだよー、五条君もう荷造りほぼ終わったんでしょ? この土日なんてやることないんだしさぁ」
「遠恋の心得でも二人で作んなよ」
「セクハラ及びモラハラで訴えますよ。酔っぱらいはさっさと帰って寝てください」
出るとこ出たら完敗しそうな言葉を並べ立てる先輩全員をタクシーにぶち込んで見送ったら、そこには鶴丸と私しか残らなかった。セクハラから逃れるためとはいえ、これはこれで完璧なミスだ。気まずい気持ちで恐る恐る鶴丸を見ると、彼は静かに笑っていた。
……相変わらず、鶴丸はちっとも私のことを好きじゃない。
下世話なからかいも、噂も、彼にとっては風が吹くのと同じだ。好奇の視線にさらされてきた彼にとって、好きでもない女と噂になるのは日常茶飯事。今さら気に留めるほどのことではない。ましてや、もう二度と会わない女相手に、一体何を思えというんだろう。
だけど私は死ぬほど苦しかった。彼が私に興味が無くても、興味が無いからこそ。ランチに誘われたら嬉しかったし、二人で冬の夜に出かけた買い出しは奇跡みたいに私の心に収まってる。好きだからこそ気安い距離は無視できないし、下世話な噂もからかいも、むきになって否定してしまう。
鶴丸は私を好きじゃない。そんなの知ってる。ずっと前から、アンタが神様だった時から、そんなこととっくに知ってる。私がどれほど愛していても、アンタはいつも私を甘く見て、私が「好き」を零そうとすると離れていく。
これだから二度と会いたくなかった。イライラして、ムカムカして、だけどやっぱりドキドキするから、二度と会いたくなかった。
私を殺せるのは、この男だけだから。
「乗らないのか」
鶴丸は止めたタクシーの前で棒立つ私を不思議そうに眺めた。私は小さく「乗ります」と言って、タクシーに乗り込んだ。
私が乗ったのを見届けると、彼は開け放されたドアの前で、屋根に片肘を乗せて言った。
「それじゃ、またいつかどこかで会おうな」
鶴丸は微笑んで、反対側の手を掲げた。駅のライトを背負って、逆光の中でなお輝く笑みは映画のワンシーンみたいに美しくて、マグネシウムがぱっと燃え上がるように鮮烈だった。それに私は、
──私は、世界が終わるのを感じた。
恋が終わる。私の恋が。今度こそ、ぶっつりと電源を落とされるようなブラックアウトではなく、幕が引かれるような優しさで。終わっていく。
鶴丸を幸福にしたかった。鶴丸に恋をしたから私、世界中の誰よりも貴方を幸福にしたかった。だけど私に恋をしていない貴方のことを、私の恋は幸福に出来ない。このまま何度やり直しても、幾度続けても、永久に。
私が鶴丸の幸せに本当の意味で貢献出来ていたのは、本丸で、仲間で、鶴丸が刀だった間だけなように思えた。それも私の恋がぶち壊してしまったのだけど。
鶴丸はもう刀じゃない。神様として、刀を振るっていたのは前前前前世で、だから私は、もうお役ごめんなんだってことを。ずっとずっと知っていた。知っていたのに見ないフリをして、バカな振りして、ここまでズルズル彼を好きなままで居続けた。
だからこの恋はもう終わりにしなきゃ。
そう気づいた瞬間、何か、薄氷の割れるような音が聞こえた。それと同時に肌の表面から、私を覆っていた何かが剥がれ落ちていく。私は直感的に、これは三日月の加護だと思った。なんでもお見通しだったあの神様は、どの時代でも、どの姿でも、私が愛しの君に会えるようにしていてくれたんだろう。迷わず会いに行って、私が後悔しないように。
もういいのか、主
そう囁く三日月の声が聞こえた気がした。
うん。もう良いの。もう、──―十分だわ
私は鶴丸を見上げた。私の頬はいつの間にか涙に濡れていたけど、構わなかった。今度こそ詭弁じゃなく心の底から言うわ。
お別れね、鶴丸国永──
「貴方の幸せを願っています」
鶴丸は案の定、すごく驚いた顔をしていた。当たり前だ、急に同期の女が泣き出して、電波なこと言って来たら私だってびっくりする。だけど知ったことじゃない。私はこの100年すごく苦しんだ。アンタも2・3日くらい悩めばいいのよ。それで、……すぐにドライに忘れてくれればいい。それが私の恋を昇華させてくれなかった代償だ。
半ば八つ当たりめいたことを思いながら、私はその瞳が揺れるのを見ていた。そしてすぐに
「すみません、忘れてください」
と言って目を伏せた。
「きみ、」
「本社でもお元気で。五条さんの益々のご活躍をお祈りして……っ、」
言い切らない内に手首を取られた。無防備だった裸の部分に急に触れられて、思わず肩が跳ねる。
「なに、」
「きみ、家はどこだ」
「は」
「家はどこだ」
重ねて問うてくる眼力の迫力に気圧されて、最寄り駅を告げる。すると彼は一言、遠いな、と言った。
「会社まで一本で来るんですよ。急行止まらないけど、その分家賃も安いですし」
癪に障ったので弁明をすると、鶴丸は車のステップに足をかけてきた。ん? と思う間もなく彼はグイグイと車内に乗り込んでくる。
「ちょ、なんすか。なんで乗るんすか」
「もう少し詰めてくれ、狭い」
「いやいやいや、意味が分からないですよ。家近いから徒歩で帰るって、さっき言ってたじゃないですか……って、痛い! イタイイタイ膝で押さないで!!」
抵抗むなしく、太ももを肉の薄い膝で押し込められて奥へ奥へ追いやられる。いまだに腕も掴まれたままだから手で押しやることもままならない。そのまま彼はどっかりと出口のほうに居座ってしまった。運転手が怪訝な様子で振り返る。
「あの……」
「待たせたな。出してくれ。真っすぐ行って大通りに出たら左、で、3つ目の交差点を右折してくれ」
「はぁ」
言うと車は発進してしまい、スピードが上がるのに比例してネオンがどんどん、流星群みたいに後ろに流れていく。あまりの急展開に、しばらく呆然としてしまう。
「タクシー、使うなら言ってくださいよ……。なんで相乗りなんか……」
しかもこの感じで行くと、彼の家は私の家と逆方向だ。わざわざ遠回りの相乗りするとか意味が分からない。じろりと彼を睨みつける。
「タクシー代、出してくださいよ」
「もちろんだ」
「言っときますけど私の家までここから5000円はかかりますからね。五条さんの家がどれほど近いか知りませんけど7000円はかたい……」
「鶴丸だ」
「はい?」
改めて名前を告げられて、そんなもんとっくの昔に知っとるわい、と自然眉根が寄る。彼は私の手首を握ったまま、窓の外を見つめていた。白皙の横顔に色とりどりの光が流れては消えていく。
「きみは俺の名前を呼ばないな」
「いや、……同僚を下の名前で呼ぶのはなかなか勇気のいることだと思いますよ」
「なら、きみはどんな関係が良い」
一瞬、音がすごく遠くなった。鶴丸が振り返る。コマ送りみたいにゆっくりと。
金の瞳が暗い車内で妖しく光った。
「なぁ、──主」
ガコン!! 思いっきり引いた手が滑って大きな音を立てた。右手がジンジンと痺れて痛い。
「ちょっとお客さん! 何してんの!?」
運転手の叱責が飛び、私は自分がロックがかかって開かないドアノブを咄嗟に引いていたことに気が付いた。走行中の車から飛び出そうなんてバカも良いとこだ。けど、私は逃げ出したかった。なにはなくとも、逃げ出したかった。
私は開かなかったドアノブを見つめる。彼の指は私の左手首をとらまえたままだ。強く握られているわけではない。けれど、空気も入らないほどにピッタリと密着していた。
「……手を、放してくれませんか」
「断る」
即答である。汗の一つもかかない冷たい掌は、絡んだ糸のように離れる気配が無い。呼吸が浅くなって、肌が泡立つ。
私は慎重に息を吐き出して問うた。
「………いつからですか」
たった一言だった。けど、その一言で、鶴丸は全てを理解したようだった。
「今さっきだ。きみが俺から逃げようとした瞬間、5周分の全てが流れ込んできた」
「逃げるって、」
「逃げただろう。幸せを願うなどとふざけたことを言って、きみは俺から遁走する気だった」
違うか、と分かり切ったことを確かめるように聞いてくる。私は静かに目を閉じた。
──終わりだ。私には、最後の美しい幕引きも許されない。彼の中に、ただ美しい記憶として留まることも出来ないのだ。
「怒ってるんですか」
「まぁな。三日月も、厄介な加護をくれたものだ」
重いため息に胸が痛む。前前前前世のことなどとっくの昔に忘れ去り、審神者も主もない人生を謳歌していたというのに。彼の人生を、私はまたもやぶち壊した。未練がましく追いかけてきたせいで、彼は。
「ごめんなさい、私、こんなつもりじゃ」
「謝らなくていいさ。むしろ、きみには感謝しているぜ。こうして俺の前に現れてくれて、加護を解いてくれて」
最初の人生では、彼は私を振らなかった。振らないようにするために、私の口を閉ざした。今思えばそれは、彼にとっての慈悲だったのかもしれない。どんな形でも主を傷付けることを良しとしなかった、彼の矜持だったのかもしれない。
だけど今、私は彼の主じゃない。だから、
だから今、こっぴどく振るつもりなのかもしれない。
目の前の景色が滲んできた。目の端のネオンはキラキラと美しいのに、私はこんなに惨めで無様だ。
と、急に左手首を鶴丸の親指が擦ってきた。脱力していた身体が硬くなる。優しく、薄い皮膚を何度も何度も往復するその指は、ともすれば恋人を撫でるような仕草にも思える程だった。
「三日月の加護は、君を幸せにするものだ。だから、俺はきみを見ても何も思い出さなかった」
「………?」
何の話か分からなくて、とうとう振り返って目で尋ねる。鶴丸はフッと笑って言った。
「きみの幸福に、俺は無用というわけさ。きみが俺を捨てられるようになるまで、きみの魂は三日月の加護で隠されていた」
「どういう、意味」
鶴丸の指は遊ぶように手首から掌へと滑っていく。時折爪を立てるから、気になって気になって仕方ない。
鶴丸は言った。
「つまり、俺の狂気に気づいていたのは三日月だけだってことさ。奴はきみを気に入っていたからな」
くつくつと喉の奥で笑う姿に、ゾクリと総毛立つ。なんとなく居心地が悪くて身じろいで、奥のドア側に身を引いた。冷たい手が私の体温を根こそぎ奪うように、指の間にみっちりと絡む。
「とりあえず、手を放してください」
「駄目だ。君は逃げるだろう」
「逃げませんよ。走る車から飛び降りるわけにいかないし、」
繋がれた手とは反対の指先が頬に触れる。音もなく私の肌をなぞり、踊るような優雅さで翻弄する。
薄い唇から赤い舌が覗く。何故か一瞬、死を感じた。
「一度目は、君は人間だった。だから逃げられた」
質の良いテノールが鼓膜を叩く。
「二度目は、君は鳥だった。だから逃げられた」
節くれ立った繊細な指先が肌を引っかく。
「三度目は、君は男だった。だから逃げられた」
立ち昇る香りが脳を揺さぶる。
「四度目は、君は人のものだった。だから逃げられた」
金の瞳が心臓を射抜く。
白髪の、人間離れした美貌。得体の知れない男がそこにはいた。流星を背負い、狭い薄暗がりの中で、私を捉えるかつての神。
その景色に、私は唐突に気が付いた。
燭台切は嗜みを。
次郎は酒を。
歌仙は唄を。
今剣は舞いを。
三日月は加護を。
そうやって本丸中の刀が、私に何かをくれた。物理的なものだったり、心に残るものであったり、様々だったけれど。
鶴丸は何もくれなかったんじゃない。私に、恋する心を残したのだ。あの美しい箱庭で起きたことを、決して夢にさせないように。私が彼を覚えているように。彼に恋を告げたら、私には何も残らない。過ぎていく記憶を思い出にするばかりなことを見越して。
彼は私に、彼に恋したままでいるように仕向けた。私が彼を追いかけるように。次も、その次も、そのまた次も、出会うように。
最初っから、全部。掌の上で、
男は笑った。うっそりと、金色の瞳を弓張り月の形に歪めて。
「もう、逃がしてやれる理由は無いぞ」
鶴丸国永の人生5周目っ!(ただし、前前前前世は神である)