シスター審神者は覚えてない
和泉守兼定の主が審神者になったのは、戦争が最も激化していた2200年代後半のこと。彼女は志願ではなく、徴兵されて審神者になった人物であった。
徴兵された当時、彼女はもう三十歳を超えていて、自分の生き方をすっかり決めた後だったと聞く。
国民は十七になると審神者適性検査を受けなくてはならず、その時は審神者になれるギリギリのラインだったので放免されたが、その後の十数年で戦況が変わり、猫の手でも借りたい政府が今までの検査結果を見直して、少しでも能力のある人間は問答無用で本丸に押し込めた。その見直し時期にちょうど引っかかったのだという。
「神様のために生きるって決めたのは良いとしても、まさか別の神様のお世話をすることになるなんて思わなかったわねぇ」
後年、彼女は刀にそう語った。出会った頃からずっと着ていた黒色のぼっかりとした服と、頭を隠すようなベール姿で。それは誰かが言うには、女性キリシタンの正装、ということらしかった。
祈りの時は手を合わせるのではなく組み合わせ、祈りの言葉も時々に変わる。和泉守の聞いたことの無いような歌を歌い、これは神を賛美する歌だと彼女は言う。
彼女の歌に出てくる神はどうやら自分たちとは違う種類のもののようだったし、彼らに馴染み深い仏教ともまた違うようだったが、歌全体には神聖な言霊を感じ、本丸に響く彼女の歌は心地よかった。
◆
新入生歓迎会の翌日、具合が悪くなって学校を休んだ。病院に罹ったら季節外れのインフルエンザだと診断された。問答無用で一週間のお休み。二年生から三年生に上がる時にクラス替えの無い高校で良かった。新しいクラスに馴染むのに遅れを取るところだった。
一週間後の月曜日、全快したので登校すると、朝の通学路で
「部長!」
と部活の後輩に呼び止められた。前部長から受け継いだ名称には未だに慣れない。
「おはよう、朝から元気だね」
「もうインフル治ったんですか?」
「おかげさまで」
「マジでタイミング悪いっすよね。今更インフルなんて」
「ははは。でも良かったよ、新歓には出られたし」
新入生歓迎会では、部活ごとにステージ上でパフォーマンスする時間が設けられている。せいぜい三〜五分程度の短いものだが、新入生が一人も入らないと予算カットの憂き目にあいかねない。皆、どんなにダルくても一応参加はしてくる。弱小は特に。バスケ部とか吹奏楽部みたいなメジャー所ならともかく、広く名前を知ってもらわないことには新入生がゲットできないからだ。部長なのに参加しない、なんてことは許されない。
「あ、そうだ、それですよ! 部長が休んだ後、大変だったんです」
「え、何が」
「部活ですよ。とんでもない新入生が入部希望をしてきまして。まぁ他にも色々事件はあったんすけど」
「とんでもない新入生?」
「そうなんですよ、もう、なんでウチみたいな弱小文化部来た? ってくらいのハイスペックイケメンで! マジで宝の持ち腐れ感ヤバイっす」
「へぇ」
「なんすか、そのうっすーい反応はぁっ!」
「だって、実際見てもいないのに、なんとも言えないよ」
困って返すと、それもそうか、と後輩は怒りを引っ込める。
「じゃぁ今日の部活で紹介しますよ。今は一応仮入部中ですけど、彼も来るんで」
「はーい」
「見て腰抜かさないでくださいよ!」
駄目押しされて、下駄箱で別れた。上履きに履き替えながら夢想する。
ハイスペックイケメン……どんな人だろう? 良い声の人だと良いなぁ。あと欲を言うなら声量があって、声が低くて……多分後輩の言う「ハイスペック」はそういう意味ではないと知りつつ、夢は無責任に膨らむばかりだった。
北校舎の三階、一番奥、音楽室Bの入って右半分。そこが私たちの活動場所だ。A教室はもっと広いのだけど、強豪の吹奏楽部が使っているから、私たちは入り込む余地がない。本当はB教室も吹奏楽部の拠点なのだけど、月木だけは軽音部と私たちの部活があるから場所を空けてくれているらしい。ありがたいことだ。
ちなみに私の所属する部活は……ゴスペルクラブ、という。通称ゴスクラ。
他校の人に話すと、キリスト教の学校特有だね、とも言われるが、実際は良く分からない。確かに珍しいとは思うけど、私は他の学校の内実を知らないからだ。
三ヶ月に一度、礼拝で壇上に上がってゴスペル風の賛美歌を歌う、という結構重要な役割を担っている割に、大会などが無い分目に見える結果が皆無で、弱小扱いの部活だ。まぁ実際、人前で歌を歌う……特にゴスペルを歌うということに抵抗がある人が多いらしく、人数もそんなにいないのだけど。歌が歌いたければ軽音部に行く、という人も少なからずいて、敬遠されがちな部だ。
私は三年続けたのもあって、結構好きな部活なんだけどな。
「和泉守くーん、部長来たよーっ!」
放課後、音楽室に到着すると、朝に会った後輩が挨拶も無しに私の腕を掴んで大声で奥に呼びかけた。奥には軽音部の男子と混ざって、うちの部活の数少ない男子部員がたむろしている。その中心、呼ばれて、一際背の高い男の子が長い黒髪を揺らして振り返った。
広い肩幅に長い脚、うっすら健康的に日焼けした美しい男の子。瞳はブルーで、物語の登場人物みたいだった。
私は彼と目が合った瞬間、モーセに割られる海の気分だった。だって、彼が振り返ったと同時に、私と彼の間にいる沢山の人たちが、目に入らなくなってしまったのだ。
まるで視線だけで人波を割る神話の人。
あまりの衝撃に呆然としていると、彼が近づいてくる。私は一歩後退って、彼の迫力におののく。か、顔が良い上に背も高い。なんという圧迫感だ。
彼が私の前に来て言う。
「あんた……」
「ちょーいちょいちょい! こら一年、うちの部長になんつー口利くんすか!」
ぐわ、と横から差し込まれた後輩の腕に、はたと思考が現実に戻ってくる。
「初対面の上級生捕まえて『あんた』は無いでしょ! いくらイケメンだって許されないことはあるんだよ!」
喧々諤々怒る後輩が彼に詰め寄って指導を始めた。彼はたじろいだ様子で、さっきの私と同じく一歩引いてワタワタしている。
「良いか、うちに入るなら礼儀はきっちりしてもらう。この人のことは、きちんと『部長』と呼びなさい!」
「すません……」
「す み ま せ ん 、でしょ?」
「……すみませんでした」
敬語が苦手なのだろうか、はちゃめちゃ怒られている。しかし正論ではあるので、誰も止めようとしない。どころか、みんなちょっと笑いながらそれを見ている。
結局見かねた顧問の音楽教師が「まぁまぁ」と間に入る羽目になっていた。
「部長、優しいのが顔に出過ぎてっから舐められるんすよ! もっと怖い顔して!」
「えぇ、難しい……」
今度は逆にこちらが怒られ、頬を掻く。どうすれば良いんだ。
とりあえずこの話は横に置いて、置いてけぼりの男の子に自己紹介をすることにした。
「えーっと、入部希望だったよね。初めまして、私がこのゴスペルクラブの部長で、」
とそこまで言ったところで、彼が私の名前をポツリと呟く。
「あれ、知ってるの? 誰かに聞いた?」
「や、新歓で……」
「あぁ、そうか。自己紹介したんだっけ。えーっと、で、君は、」
「オレは和泉守兼定、……です」
後輩の横からの睨みに、彼が語尾を付け加える。早速対立関係ができてしまったみたいだった。参ったな、朝は結構後輩も気に入っているっぽかったのに、なんという急な好感度ダウン。敬語じゃなかったのが、よっぽど気に入らなかったらしい。
そこまで上下関係厳しい部活じゃないんだけどなぁ、と苦笑いして、
「あれ、そういえば……他の入部希望者は……?」
と思い至ったことを口にした。いつもは少ないながら、二、三人は見学くらいは来てくれるのだけど……。
私がキョロキョロしていると、「それが……」と先生と後輩、それに近くにいた副部長の男子が気遣わしげな声を出す。目の前のたった一人の入部希望者は明後日の方向を向いている。まるで疾しいことでもあるみたいに。
私は頭に疑問符を浮かべて首を傾げた。
「か、帰したぁっ!?」
「はい。そこのデカイのが」
後輩は、ピ、と親指で行儀悪く和泉守くんを指す。和泉守くんはバツ悪そうに音楽室の床に正座させられていた。い、いつの間に。
「いや、違う、聞いてくれ」
「聞 い て く だ さ い」
「……聞いてください。別に理由なく帰したわけじゃなく、あんま真面目にやる気配がねぇから……」
「つまり、全員そこのデカイの目当てだったわけですよ、今年の新入部員は」
再び親指で指され、和泉守くんはますます居心地悪そうに縮こまった。
「デカイのって……」
「最初は和泉守一人だったんだよな。初日に入部希望って来て、俺らも諸手を挙げて喜んでたんだけど……」
「ところがその情報がどこかから漏れて、次の日にはわんさか入部希望の紙が積み上がったんす。……一時期、二十人超えてたんですよ、入部希望」
「に、にじゅう」
今の時点でも十人に満たない弱小クラブだというのに。あまりのことに頭がクラクラしてきた。それだけいれば、コーラスがどれほど豪華になるか。
「それで一応先生も、じゃぁ仮入部から〜って練習始めたんだけど……ものの見事にまとまんなくて」
「いやぁ、イケメンの効果はすごいよね。女の子が彼のところに鈴なりで、僕の声なんか全然届かなくってねぇ」
人の良い初老の顧問が呑気に笑う。確かに話を聞けば、真面目とは程遠い印象である。おそらく、仮入部に来た、というより、和泉守くんを見にきた、というのが彼女たちにとっては正しかったのだろう。
「結局その日、練習にならずに開始十五分が潰れたんす。で、私が怒ろうとしたら……」
「和泉守のほうが先に爆発したんだよなぁ」
お前より短気な奴初めて見た、と副部長が後輩に言う。後輩は余計なことを言うな、とばかりに唇を尖らせた。
「やる気がねぇなら帰れ、だったっけ? 他にも色々言ってた気もするけど、まぁだいたいそんな感じでね。鬼気迫るっていうのはああいうことだね」
「とまぁ、目当てのイケメンにガチギレされた一年女子は蜘蛛の子散らすようにいなくなって、今日に至るってわけです。新歓から一週間の今日が、一旦入部希望の締め切りなんで……」
「じゃぁ、今年の一年生は、和泉守くんだけ……ってことなんだね」
三人に頷かれ、ふぅ、と思わず溜め息が出た。あぁ、幻の二十人。我が夢の豪華コーラス部隊よ……。和泉守くんは肩身が狭そうに正座したままだ。それを見ると、途端になんだか可哀想になってきてしまう。
確かに新入部員二十人の可能性を失ったのは残念ではあるけれど、それは別に彼のせいではないのだし。元から絵に描いた餅だった、というだけの話だ。
「でも、一人は入ったんだもんね」
私が言えば、和泉守くんはようやっと顔を上げた。本当に、見れば見るほど綺麗な顔だなぁ、と感嘆しながら手を差し伸べる。彼は私の手を見つめたまま動かない。
仕方なくしゃがみ込んで、膝に置かれた彼の手を無理やり握る。
「これからよろしくね、和泉守くん」
ニッコリ意識して笑えば、彼は何も言わず、ただ一度小さく頷いた。
最初は姿勢の取り方から始まって、同時にゴスペルの発声方法、リズムの取り方を先生と共に教える。彼は今まであまり音楽に触れる機会が無かったらしく、最初は楽譜もチンプンカンプンだったみたいだけど、同じパートの副部長が一節歌えば、それと同じように歌える程度には音痴じゃなかったから良かった。
楽譜の見方は私が教えた。教えればすぐに飲み込んでくれるので、とっても教えがいのあるタイプだった。すぐ覚えちゃったから、指導期間も一週間くらいで終わってしまったけど。
特にリズム感は飛び抜けていて、メトロノームのように正確無比。そのことを褒めたら自分では自覚が無いらしく、へぇ、とか、はぁ、とかあまり響いていないような返事をされた。和泉守くんは時々、ぼーっと人の顔を見ているような時がある。もしかしたらあの時も、実は何も聞いてなかったのかもしれない。
「和泉守くんって、今、身長どれくらいあるの?」
メモを片手に尋ねる。その時もぼーっとしていたので、もしかしたら聞こえていないかもしれないと疑っていたけど、彼は間髪入れずに
「179っす」
と答えてくれた。メモに書き込む。
「ひゃくななじゅう、きゅ、っと……」
「それ何書いてんすか」
「ん? 身長表。歌う時に、頭の位置が波打ってたら不恰好でしょ? だから……でも、和泉守くんは聞かなくてもずっと後ろの一番端っこで固定だろうなぁ」
自分よりも全然高い位置にある彼の顔を見上げて笑う。「和泉守くんより背の高い男の子、なかなかいないもんね」と私が言えば、「まぁ」とやんわりとした肯定が返ってくる。
「ガウン、余ってるの着れば良いって先生は言ってたけど、新しく買ったほうが良いかもなぁ。つんつるてんになっちゃいそう。まだ背ぇ伸びてるの?」
「一応」
「えぇ、良いなぁ。私、中三で止まっちゃったよ。本当はもうちょっと欲しかったんだけど」
「でもオレも、多分、186で止まると思いますけど」
「? 何それ。予言?」
「そんなもんす」
真顔で言うのでおかしくなって笑った。
「和泉守くんって面白いねぇ」
「部長、笑いの沸点が低過ぎっす」
横から後輩に突っ込まれる。だって、と笑ったが、後輩は「部長は和泉守に甘いっす!」と目を吊り上げていた。そんなつもりはないのだけど。
梅雨。和泉守くんが入部して二ヶ月がたった。
「彼が入って、低音が分厚くなったね。良いねぇ」
と先生は言い、私も同意する。和泉守くんがいるのといないのとでは、音の深みが違う気がする。和泉守くんはリズム感が良い上に元々の声も、声量も抜群で、とにかく最高の人材だった。『宝(の持ち腐れ)』と称した後輩の目は間違っていなかったみたい。
いつもは一番前でも堂々寝ている生徒たちが散見される礼拝でも、きっと和泉守くんが歌うとなればみんな目を輝かせて彼を見るだろう。見た目での客寄せパンダ的な効果だけでなく、その力強い声に魅せられて。
これは来年の入部希望者の数が楽しみだなぁ。ま、その時はもう私はこの学校を卒業しているから、見ることはできないのだけど。
「じゃぁ練習始めます……って、和泉守くんは?」
練習を始めようとすると、彼の不在に気がついた。副部長に尋ねる。
「野球部の練習試合の助っ人行っちゃった」
「あらま。こないだはバスケ部だったのに」
「あいつ良い加減休み過ぎっすよ。……シメていいっすか」
「まぁまぁ。和泉守くん、運動神経良いんだってねぇ」
後輩をなだめながら言うと
「あぁ、そうらしいっすね。二年生の俺んとこにも噂、流れてきます」
「やたらと他の部活の助っ人に駆り出されてますもんね」
「運動好きそうなのに、なんでうちの部にしたんだろ?」
「うちにとってはありがたいけど、軽音のほうがまだ似合うよね?」
と、それぞれ疑問が浮かぶ。
「はいはい。いない奴のことはほっといて、サクッと練習始めましょ。本番も近いことですし」
後輩がその様々な疑問をサクッと切り、ゆるゆると練習が始まる。しかしみんなの言う通り、本当に疑問だった。
なんで和泉守くんはわざわざ、この部活を選んだんだろう? 楽譜もろくに読めない男の子が、急に音楽を……それも軽音ではなくうちを選ぶ理由って、一体なんなんだろう? 謎だ。
部活が終わり、みんなで連れ立って駅まで歩いていると、野球少年のいがぐり頭に混じって歩いている和泉守くんを見かけた。思わず「おーい」と手を振ってから、邪魔しちゃったかな、と急に不安になった。運動部に混じって帰るほうが、もしかすると彼にとっては居心地が良いんじゃないかと思ったから。
しかし和泉守くんは私に気付くと、ゆるく手を上げてから野球部の面子に何言か告げ、こちらに走ってきてしまった。あまりの躊躇のなさにギョッとする。
「あ、ご、ごめんねなんか。見かけてつい声かけちゃっただけで、別に呼びつけたかったわけじゃなかったんだけど」
私がしどろもどろに否定すると、彼はなんの謝罪か分からない、というように少し首を傾げた。
「向こう、大丈夫だった?」
「大丈夫っす。ただの助っ人なんで」
「和泉守ぃ、あんたまた部活休んでぇ。そんなんでゴスクラのテナーが務まると思ってんのか!」
「副部長には良いって言われましたよ」
「はぁ!? ちょっと先輩!!」
「いやだって〜、助っ人だって言われたらさぁ」
絡んできた後輩が彼の言で攻撃の方向を変えると、彼はホッとしたように息をついていた。男の子に少々当たりが強い後輩なのだ。
「練習試合、どうだった?」
「勝ちました。ホームラン打ってきました」
「おぉ、さすが。カッコいい」
「当然、……っす」
無理に敬語に直した気配がして、ちょっと笑った。
「運動得意なんだねぇ」
「まぁ、それなりに」
「私、運動は全然駄目なんだよねぇ。野球とか特に。こう、何かで何かを打つ、っていうのが苦手で。自分の手で打つ、バレーとかならまだいけるんだけど……」
「知ってる」
「え?」
「……や、そんな感じします」
「今ディスった?」
「そっちが先に言ったんじゃねーですか!」
妙な敬語で怒るので、面白くてまた笑った。
「あはは、そりゃそうだ。でも、そんなに運動得意なのに、運動部入らなくて良かったの?」
私が聞くと、彼は「あー……」と少し考えるそぶりの後
「運動は、他に道場行ってるから。学校でやんなくても別に良くて」
「あ、そうなんだ。道場ってなんの?」
「剣道です」
「に、似合うなぁ」
道着姿を頭の中で思い描けば、想像ながらにたじろいでしまうくらいの男前っぷりだった。聞けば小さい頃からやっていると言うので、それであのリズム感の良さなのかもしれない、と妙な納得を得た。
でもそうか。彼なりに、うちの部にいる理由があるなら良かった。
ホッとして、ホッとするのもなんだか妙な話だな、と思った。部活なんて強制なわけじゃあるまいし、好きなところに入ってるのが当たり前なのに。
もしかしたら私が一番、和泉守くんのこと、ゴスクラに似合わないって思ってたのかもしれない。
なんでゴスクラに? って、そう疑問に思っていたのかも。
チラと彼の顔を見る。頭一つ高い位置にある、端正な顔。
運動が好きで、剣道をしていて、人に助っ人を頼まれたら、基本的に断らない気っ風のいい男の子。うちの部活の宝物。
大事にしてあげないとな、とぼんやり思った。こういうところが「甘い」と言われる所以なのかもしれない。
「あ、待って和泉守くん、襟曲がってる」
制服の上からすっぽりと被るタイプの襟付きガウンを無造作に着たままの首元を正し、少し調整。襟が真ん中に来て、よし、と手を離す。
暗い赤色のガウン。襟の真ん中には金の十字架の刺繍。ガウンはゆったりと肩から落ちて彼のくるぶしまでを隠し、広い袖口から彼の骨ばった指がチラリと覗く。そこに紺のカバーの楽譜を持たせれば、ゴスクラ期待の新人の完成だ。
私は彼の出来栄えに満足して頷く。やっぱりガウンを新調して良かった。こんなに綺麗なのに、丈が彼だけ短かったら悲しいもの。しかしこうやって黙ってガウンを着ていると、本当に神々しいな。まさに神の申し子って感じだ。
みんなは少し敬遠するけど、私はこのガウンに腕を通すのが結構好き。実は入部の動機も、歌が好きだったのももちろんあるけど、ちょっと魔法使いみたいでカッコいい、と思ったからだったりする。
「準備できたかな? そろそろ向かうよ」
「はーい。和泉守くんも、行って行って」
彼の背中を押すようにして外に促し、パート分けした背の順で並んで礼拝堂に向かう。今日は和泉守くんの入部三ヶ月の特訓の成果を全校生徒に見せる日だった。
「やばい、これタンスの匂いがする、ガウン」
「虫食いの穴が空いてないだけマシじゃん」
「はい、喋らなーい」
先生に宥められつつ礼拝堂まで急ぐ。扉の外でしばらく待つと、中から入場のオルガンの音が聞こえて、先生が扉を開けてくれる。しずしず歩き、壇上の椅子に着席。心なしか、生徒がいつもよりざわついているような気がした。やっぱり和泉守くんの効果かな。
私からは壇上に座る和泉守くんのこと見れないけど、さぞや美しく在ることだろう。
ていうか、緊張と無縁そうなタイプだったから失念していたけど、ちゃんと歌えるかな? 和泉守くん。一回練習機会を設けたほうが良かった? 声、裏返ったりしないかな? 一応ガウン着る前に声出しはしたけど、それだけじゃ足りなかったかも。あぁ、でも、もう始まっちゃう。
ぐるぐる考えていると、全校生徒と共に歌う賛美歌のオルガンが始まる。歌っている間、耳を澄ませていたけれど、和泉守くんの声は微かにしか聞き取れなかった。でも、別に緊張している雰囲気はなさそう。私がそう思いたいだけかもだけど。
顧問でない先生の簡単な説教を聞きつつ、楽譜を握る。やだな。そんなこと考えてたら私のほうが緊張してきちゃった。じわりと手のひらに汗をかき始めたのが分かって焦る。しかし焦れば焦るほど水分は吹き出してくる。とうとう額にまで汗し始めて、
「では、ゴスペルクラブの皆さん、お願いします」
ハッと現実に引き戻される。立ち上がり、前を見る。全校生徒の目がこちらに突き刺さってくる。いつもは寝ている人たちの視線もみんな、こっちに。
くらりとした。まるで部活入りたて当時の緊張感。
先生が指揮をするために前に立つ。楽譜を開く。目の前はグニャグニャ、声なんかとても出る気がしない。なんてこと。
その時、後ろからバサッと音がした。パッと振り返る。和泉守くんが楽譜を床に落としていた。しかし当の彼は素知らぬ顔。平然と
「すません、ちょっとタイム」
と言って楽譜をゆっくり拾い出す。誰か生徒の吹き出す音が閉め切られた礼拝堂に反響し、それを皮切りに笑いが全校生徒に伝染していく。それはついに壇上まで伝染し、副部長が閉じた口の隙間から「くっ」と笑ったのを見ると、私も思わず笑ってしまった。
何してるの、こんな人初めて。
口元に手を当て、楽譜を拾う彼を見つめる。と、ふと目が合った。彼は私が笑ってるのを見て、ふいに微笑んだように見えた。ドキ、と心臓が跳ねる。
慌てて顔を前に戻した。
なんだろう、今の。まるで全部見透かしたような、大人びた微笑みだった。
さっきとは違う意味で心臓がドキドキしてきて、どうしようもなく苦しくなる。
なんでこんなにドキドキしてるの。私、もしかして、和泉守くんのこと、好きなの?
胸を軽く抑え、バレないように少しだけ深く息を吸う。鼓動が少し収まって、ホッと息をつく。
和泉守くんが楽譜を拾い終えるのを見て取った先生が、す、と胸元まで手をあげる。楽譜を開き、指揮を待つ。
先程までの嫌な緊張は、和泉守くんの楽譜のことですっかり吹き飛んでいた。
最初はソプラノから入る。私のパートだ。
先ほどまで出るか出ないか分からなかった喉はきちんと開き、おでこからカン、と突き抜けるようにして礼拝堂の奥まで届くのが分かる。出だしは上々。
それからアルト、テナーと合流して、リズムを作る。体を横に揺らし、リズムに乗ってスイング。
ふと、和泉守くんの声が聞こえた。耳に心地いい、柔らかいのに強い、最高の声。
全校生徒に、全世界に、それこそ神様にも、自慢したいな。
歌いながら思った。
彼のこと、みんなが知ってくれたら良いのに。
「あれ、和泉守くん。お疲れ様。帰ったかと思ってた」
「……っす」
礼拝が大成功に終わって、次の部活日。帰ったと思った和泉守くんが音楽準備室を訪ねてやってきた。来週からはテスト週間が始まってしまうので、部活はお休み。次は合宿までゴスクラの活動は無い。自主練をするほど熱心な部活でも無いしね。
「先生に用事? さっき職員会議に呼ばれちゃって、今いないんだけど」
「や、大丈夫っす」
「そう?」
「……部長は何してんすか。パソコン?」
和泉守くんが私の前にあるノートパソコンを顎で示して言う。
「うん。先生に借りて、合宿でやる歌をリストアップしようと思って。先生の意見を聞くためにわざわざここでやってるんだけどさ〜」
「会議行ってちゃ決まんないよねぇ」と笑うと、「あぁ」と納得したように頷かれた。そしていつものように人の顔をぼんやり見て、言う。
「ずっと聞きたかったんすけど……」
「うん? 何?」
「部長はシスターになるんすか?」
「はいぃ?」
なんだその質問は。藪から棒に。しかし存外真剣な目をするので、戸惑いながらも
「え……っと……今の所、その予定は無い、かな。普通に就職すると思うよ。それにほら、うちの学校プロテスタントだし」
彼は気が抜けたような顔で「そっすか」と言う。それきり何も言わないので、無言が居心地悪くなり
「あ、そうだ。この間の礼拝、本当にお疲れ様」
と告げる。彼は怪訝な顔で
「さっきも聞いた、それ」
と言う。
「そうだっけ? でも個人的には言ってなかったと思って。そうそう、最初の楽譜落としもすごかったよね」
「……手が滑って」
「ふふ。私、あれでちょっと緊張吹き飛んだんだ。感謝してる。ありがとうね」
礼を言えば、ふ、とこの間のように微笑まれる。それにまた心臓が跳ねて、パ、と思わず顔を背けた。
もしかして和泉守くんは、私が緊張していたの、知っていたのかもしれない。ふとそう思った。だからわざと楽譜を落として、私が緊張がほぐれて笑った時、微笑んだんじゃないかな。
出会ってまだ三ヶ月、そんなに膝を詰めて話した経験もないのに、なんでかそう思った。そんなはずないのに。でも、ならどうして全部知ってるみたいな顔、するんだろう。知られている気分になるんだろう。
「部長」
「うん!? 何?」
考え込んでいたところに呼びかけられ、思わず素っ頓狂な声が出た。しかし和泉守くんはさして気にしていないように
「その合宿の歌って、賛美歌じゃなくても良いんすか」
と続ける。
「う、うん。次の礼拝までまだ時間あるから練習はまだだし、合宿の間は結構何歌っても自由だよ。他にも……文化祭のステージでも、結構自由だけどね」
「へぇ」
「文化祭、楽しみだなぁ。和泉守くんがいるからきっとお客さんいっぱい入るね」
「オレ、リクエストしたい曲があるんすけど」
「うん? 合宿に?」
「はい」
なんというやる気! 私は驚いて「待ってメモ取る!」とメモ帳を取り出す。
「知ってるかもしれないんすけど」
「うん」
「I Say a Little Prayerって曲」
「ごめん、発音が良すぎて聞き取れなかった、ワンモア」
「貸してください」
メモを取られ、サラサラと書き込まれた。戻され、見る。
「アイ、セイア、リトルプレイヤー……」
「英語苦手なんすか」
「う、うるさいなぁ」
意外だ、というように棒読みを指摘され、ちょっと恥ずかしい。私先輩なのに。でもこのタイトルって……
「プレイ、って、Rだから……祈るって意味だよね? 賛美歌じゃなくて良いかって聞いたのに、賛美歌のリクエストなの?」
疑問に思って尋ねれば、彼は少し面食らったようだった。
「知らねぇすか?」
「え、ごめん、そんなに有名な曲なの?」
「いや……でもこれ、賛美歌じゃないっすよ」
「そうなの?」
「オレ、賛美歌嫌いなんで」
「え!?」
じゃぁなんでゴスクラに入ったんだ。信じられない気持ちで見つめるが、彼は訂正するでもなく
「これが、オレはあんたにぴったりだと思って」
あ、またあんたって言った。ぼんやり思った。ここに後輩がいたら蹴り倒されそう。だけど、なんでだろう。和泉守くんにこう呼ばれるの、あんまり不快じゃないんだよな、私。
「ぴったり? なの?」
彼は無言で頷く。
「ふーん……調べてみても良い?」
「どーぞ」
許可を得て、【I Say a Little Prayer ゴスペル】と検索エンジンに打ち込む。狙い通りゴスペル動画が出て来たので、クリック。
最初、マンマミーアに出てくる曲みたいだ、と思った。1900年代に流行ったようなキャッチーなメロディ。最初はしっとりしてるのに、途中で拍子が変わって一気にヒートアップしたようになる。
これ、そのままアレンジせずに歌っても良いやつかな? というか、これ、どういう歌だろ?
リスニングが苦手な私の耳に断片的に聞こえてくる英語は、タイトルの他に「wake up」、「make up」、「dress」、「forever and ever」、「together」それに……「I love you」。
「You」は神を指すとしても、「make up」に「dress」という単語は神を讃える音楽には珍しい気がした。まぁゴスペルでは普通の歌を歌うこともあるけど。
別の窓を開いて歌詞の和訳を確認する。
「……え?」
思わず声が漏れ、スクロールする手が止まった。
普通のポップスの表記に驚いたのではない。歌詞に、驚いた。だってこれは、……愛の歌だ。
朝起きて、化粧をする前にも、髪を梳かす間にも、今日の服を決めている間も、ずっとあなたに祈ってる。恋しいあなたに、自分の愛の祈りにどうか応えてほしいって歌う、狂おしいほどの愛の歌。
かぁ、と一気に顔が熱くなる。これって、これがぴったりって、もしかしてそういうこと?
和泉守くんって、私のこと、好きなの?
後ろには未だ出て行かない彼の気配を感じる。身の危険と、少しの期待が入り混じり、とてもじゃないけど振り返れない。だって、こんな告白、される日が来るなんて思ってもみなかった。
と、じわりと視界が滲んだ。え、と思った瞬間、ツゥと涙が頬を流れる。
「え、なんで……」
意識しない涙がボロボロ、後から後から止まらない。一生懸命指で拭う側から濡れていく。
なんで? そんなに感動したの? 私。自分でも気づかないうちに? そんなことある? こんな、涙が自分の意思じゃ止まらないくらい? こんな、子供みたいな。
しかしどんなに拭っても、止めようとしても、涙はちっとも止まらない。まるでバルブを引っこ抜かれたみたいに、ただただ滂沱の涙が流れていく。こんなことは初めてだった。
後ろから和泉守くんが近づいてくる。
「ちが、あの、違うんだよ、和泉守くん、これは……」
涙を拭いながら首を振る。止まらない。和泉守くんに気を遣わせてしまうのに、分かってるのに、どうして止まらないの。
目の前に立つ彼を見上げる。彼は青い瞳を眩しそうに細め、すいとこちらに手を伸ばす。そして私の後頭部に添えると、そのまま自分に引き寄せた。
椅子に座ったままの私と立っている彼。ちょうどお腹あたりに耳を当てる形になり、そうされると、なぜだかもっと泣けてきた。
「ふぅ、うっ、ごめ、ごめんなさい、」
嗚咽まじりに彼の制服を汚してしまうことを謝る。彼はそれには答えず、
「……思い出すな。オレが全部覚えてっから……それで良いんだ」
と言う。意味が分からなかったけど、むやみに涙が出るので、ついに聞き返せなかった。
結局、動画の歌が止まるまでずっと涙は止まらなかった。
彼の主は事あるごとに、古株の審神者から疎まれた。白に緋色の袴を身につけた新人審神者の群れの中で、彼女の黒は特に目立ったからだ。
彼女が支給された審神者の制服である袴に袖を通すことは終生なかった。彼女の正装はあくまでもあの黒色の服とベールであり、それが神に仕えている証明で、彼女の誇りだった。
しかしそれは多くの審神者には彼女の誇りとは受け取られず、彼女が周囲に馴染もうとしていない、場の空気を乱す不穏分子の証左であると捉えられた。
彼女は会議参加のために集合している新人の中で、上の者から何か質問がある度に指名された。まるで見世物のようにその場に立たされ、それでも彼女は毎度、毅然とその場に立った。
「君は?」
所属と番号を言う彼女の声を、質問者が遮る。
「そういうことを聞きたいんじゃない。その服はなんだ」
「これは私の正装です。会議には正装で参ぜよとのことでしたので」
「君は……シスターかね?」
「はい」
質問者はこれ見よがしに嘆息する。
「シスター! はっ、もうそんなところにまで手を借りなければならなくなっているのか。世も末だな。どうせはした金で売られたクチだろう。今やどこも資金難だ。……こうなる前に救わなかった神など、信じていても仕方ないからな」
後ろで控えていた和泉守はその侮辱に、とうとう我慢がならず鯉口を切った。周りに着席していた緋袴たちが、彼女を避けるようにザッと距離を取る。彼女は敵しかいないその中心で、それでも毅然と立つ。微動だにせず。
「和泉守、おやめなさい」
和泉守は深く息をつく。憤懣やるかたなく、どうしても刀を納める気になれない。ここであの質問者を斬れば、自分はおそらく処分されるだろう。しかし猫の手も借りたい今の状況では審神者をクビにすることは不可能なはずだ。
和泉守さえあれを斬れば、彼の主は畏怖の対象になれる。近づく者は、金輪際出てきやしない。
そこまで考えたが
「和泉守兼定。……刀を納めなさい」
と主に再度言われ、渋々刀を納めた。彼女は刀が納まるのを見届けると、質問者に向き直って答えた。
「自分がこの戦争において、異端であることは理解しております。ですが私はこちらに神の意志で遣わされました。この胸に十字架を提げた以上、神の命令に背くつもりはございません。職務を全うすることに、なんら問題はないと思っております」
「それは君の言い分だろう。我々は君を、審神者としてふさわしい人物だとはどうしても思えない」
「それはなぜですか。私が支給の制服を着ないから? ですが、そのことと私の職務実行能力は全く別のところにございます。まさか我々の仕事は制服を着ることだとでも?」
「規則だと言っているんだ」
「存じております。ですが私にはあの服は動きにくいのです。初動に時間もかかりますし。着慣れているもののほうがいざという時の対処も容易かと」
「……君はここに喧嘩を売りに来たのか」
「とんでもありません。ですが、……個人の宗教を害することは、いつの世も戦に繋がってまいりました。私としましても火種の元になるのは避けとうございます。ですのでこの機会に、どうぞご許可をいただければと」
彼女はそう言ってにこりと笑った。質問者は苦々しげな表情で
「脅すつもりか」
と問う。彼女はまたも「とんでもございません」と返す。質問者が激昂して立ち上がった時、
「もういい」
と壇上の誰かが言った。質問者は発言者に顔を向け、戸惑ったように拳をおろした。自分より上官の審神者だったのだろう。
「彼女の言い分は正しいところもあった。我々も個人の信念を曲げさせるつもりはない」
「ですが、」
「もう口を開くな。無駄な議論で会議が押してる」
一刀両断された質問者はぐっと押し黙り、のろのろと着席した。
「では、お許しいただけると?」
「たかが服だ。好きにしろ」
「感謝いたします」
彼女は会釈をするように小さく膝を曲げた。
異端であり続けることを、彼女が勝ち取った瞬間であった。
会議が終わると、彼女は颯爽と廊下を歩き、本丸に戻った。しかし、その後すぐに自室に引っ込み、寝入ってしまった。
何かあったのかと他の刀に聞かれたが、言うのは憚られた。それは彼女の口から報告すべきだし、彼女が言わなくて良いと判断したことを吹聴するつもりもなかった。
だから沈黙して、彼女の世話を焼くことにした。きっと気疲れで寝入ったのだろうから。
夜、部屋に夕飯を運ぶと、彼女が目を開けた。
「悪い、起こしたか」
聞けば、ゆるゆるかぶりを振る。
「少し目を瞑っていただけ。夕飯を持ってきてくれたのね、ありがとう」
彼女が夕飯を食べる間、今日あったことを皆に報告するかの判断を仰いだ。彼女はキョトンとして、
「別にどちらでも構わないけど……あぁ、でも、言うと面倒そうね。いいわ、何も言わないで」
「分かった」
「ありがとう。……今日はあなたにも嫌な思いをさせてしまってごめんなさいね」
と言う。和泉守は何を謝られているのかあまりピンと来ない。
「気にすんな。オレはあんたの刀なんだからよ」
「そう?」
「そうだろ。オレたちは常にあんたの後ろに控えて、あんたに害なすものを斬る。そういうもんだ。それに、嫌な思いしたのはあんただろ。オレのことはいいから、もうちょい自分を気遣えよ」
燭台切に言って桃でも剥かせるか? と聞けば、彼女は笑いながら首を振る。
「良いわよ、そんなの。でも……ふふ。刀って本当に神様みたいね」
「はぁ?」
「神は常に私たちの側で見守っていてくださる。……その教えがこんなに現実感を伴う日が来るなんて、現世にいた頃は思ってもみなかった。そう考えると、やっぱり私がここに来れたのは神の思し召しね」
彼女はそう言って箸で煮物をつまみ、口に入れる。和泉守には話の半分も良くは理解できなかったが、彼女が幸せそうに笑うので、口は挟まなかった。
和泉守の主は全てを愛した。神も、平和も、刀たちも、その身に降りかかる苦境すらも。
奉仕の精神という意味合いで、彼女は審神者に向いていた。口さがない人間は都合良く使われているだけだと噂したが、本人にとっては誰かの役に立つことは一番の望みだったので、気にする様子はなかった。
彼女は呼ばれたらどこにでも行った。南で手入れ要員が足りないと聞けば駆けつけ、北で激しい戦闘があると聞けば刀剣を派遣し、必要があれば自らも出向いて指揮をとった。
そして刀剣たちを戦地に送り出す時は必ず彼らのために祈った。胸元で十字を切り、
「神のご加護を」
と囁いた。よその神が付喪神を救うかは分からなかったが、彼女の祈りは本物だった。
「あんたにも」
彼らのために祈る彼女に、皆そう言って出陣した。
自分たちは良い。どこで死んでも。
ただ、自分を「神の端た女」と言う彼女を、どうにか安息の地で眠らせてやりたかった。「唯一神と結婚した」と言い、他の誰にも身体を許さず、その神と心中する覚悟を決めてこの泥舟に乗り込んだ彼女を、どうにかその神の御許で眠らせてやりたい。それくらいは、彼女が当然得るべき権利なはずだから。
そして彼女は戦の後に一際長い祈りを捧げた。戦場で倒れた全ての魂が救われるように、彼女は敵のためにも祈った。
彼女は勝利を得るためではなく、戦がなくなることを夢見て、この本丸を最後の地と定めたのだった。
そうやって積み重ね、彼女が戦に従事して三十年がたった。その頃にはもう誰も彼女の服装を揶揄することはなくなっていた。それどころか長きに渡り奉仕し続けた彼女のことを「シスター審神者」と呼び、慕うものまで出てくる始末。人というのはすぐに移り変わる生き物である。
そんなある日、聞き慣れない歌が彼女の部屋から聞こえた。いつもの神に祈りを捧げる厳かな雰囲気とは違うものだ。彼女の声でもなかったので、興味本位で部屋をひょいと覗いた。
部屋には出会った頃より幾ばくか痩せた彼女がいた。彼女は和泉守の視線に気づき、ちょいちょいと彼を手招く。入室し、彼女の前に座る。彼女の手には小さな機械があり、そこから歌が聞こえるようだった。
「なんだそりゃ」
「これはカセットよ。音を録音できたり、聞けたりするの。荷物を整理していたら出て来てね、つい懐かしくて」
「へぇ。こんな小せぇモンになぁ……」
手に取り、裏返したりして見る。柔らかい女性の声が手の内から響き出す。
「その歌ね、I Say a Little Prayerって言うのよ」
「あい……、なんだって?」
耳慣れない言葉に聞き返すと、彼女はメモにさらさらと題名と振り仮名を書きつけて寄越す。目でなぞり、口の中で呟く。
「この歌好きでね。昔は良く歌ったわ」
「ふぅん」
「……考えると、あなたに贈りたいくらい、とってもピッタリな曲だわね」
「そうかぁ?」
歌詞が良く分からないので盛大に首を傾げる。すると彼女は
「これはね、恋しいあなたに、自分の愛の祈りにどうか応えてほしい、私にはあなたしかいないって歌う、狂おしいほどの愛の歌なのよ」
と言って、小さく微笑んだ。その笑みがあまりにも意味深なので、和泉守は何度か瞬きをし、それからふと頬を緩める。
「……神と結婚したんじゃなかったんかよ、あんた」
「ふふ。そうね。だから内緒よ」
彼女は口元に人差し指を当て、今度は少女のように笑った。
お互いに、他よりも少しだけ特別に思い合っていることは知っていた。だけど彼女はその先を望まなかったし、和泉守も同様だった。神と結婚をしていると言う彼女を奪うつもりはなかったし、刀と人の領域を踏み越える気もなかった。
ただこの穏やかな時間が、いつまでも続けば良い。そうして彼女が逝く時は、手を握っていてやりたいと、そう願っていた。
「審神者様ーっ! 大変です、至急の救援要請が来ておりますーっ!!」
管狐が飛ぶようにして門から救援要請の書面を咥えて駆けて来た。主はさっと文面に目を通すと、管狐に聞く。
「これ、いつ来たの」
「今さっきでございますよぅ、新しい戦場で、待ち伏せにあったとのことです! あまりの戦力差に第一線は破られる寸前、逃げ遅れた審神者が取り残されているので、その救援にとぉっ!」
「分かりました。すぐに向かいます。和泉守、第一部隊を集めて。私もすぐに用意します」
和泉守は一度頷いたが、ふと審神者の腕を掴んで聞いた。
「あんた、本当に行くのか」
「え?」
「最近膝が痛ぇって言って伏せってたじゃねぇか。指揮ならオレが、」
この頃、彼女は以前よりも伏せることが多くなっていた。それを心配したのだが彼女は
「大丈夫よ。……大丈夫。さぁ、用意してちょうだい」
と和泉守の手を軽く叩き、微笑む。和泉守はその言葉を信じて準備のために身を翻した。
取り残された審神者が固まって、急場凌ぎで築いた山の上の簡易砦にゲートを開く。山の下では所々で火の手が上がっていて、戦闘の激化を思わせた。
「あぁシスター! 来てくださったんですね」
「助けてください、どうか」
「下ではまだ刀剣たちが戦っています。後から来た救援部隊は下で時間を稼ぐと……」
「状況は分かっています、安心して。ゲートは安全の問題上、ここにしか開けません。ですので皆さんは男士を即刻戦線から離脱させ、山の上まで来るように指示を出したら、すぐにゲートをくぐって本丸に帰還してください。残った刀剣たちの誘導は私の第一部隊が行います。部隊の損傷が一番酷い所から優先的にゲートを通します。さぁ、急いで指示を」
彼女がそう言うと、審神者たちは急いで指示を出し始めた。
「第一部隊、すぐに麓に刀剣男士が来ます。彼らを上まで誘導して」
「分かった。あんたはどうする」
「私はここに残って、全員の帰還を見届けます。……神のご加護を。行って」
「あぁ、あんたにも」
和泉守たちは指示に従い、麓までを駆け下りる。刀剣男士の足なら目測三分もかからないだろう。そう思った。
その時だった。
和泉守は空に青い光を見た。
流星のようでもあり、雷のようでもあった。そして次の瞬間、地を割るような衝撃と轟音が、和泉守たちを襲った。
「……っ」
目を開けると、地に伏していた。一瞬気を失っていたらしい。キィン、と耳鳴りがして、音が感知できない。砂塵が舞っている。頭がグラグラする。前には同じ部隊の堀川国広が倒れている。のろのろ起き上がり、彼の元まで行く。彼は和泉守が揺らすと目を開け、そして彼の後ろを青ざめた顔で指差した。
ふと振り返る。
山が拓けていた。
先ほどまで木々が生えていたところも全て、削ぎ落とされているような。
「あぁ、主さん、主さんが、」
和泉守は山頂までを一も二もなく駆け出した。後ろからは堀川の声が追って来る。しかし振り返らなかった。
祈るように心の中で彼女を呼ぶ。なぜこんなことに。もう少し遅く来ていれば。いや、やはり本丸で養生させておくべきだった。色んな思いが頭を巡る。山頂までが永遠のように感じた。
辿り着くと、そこには多くの屍があった。
一人も立っていない。
皆、すでに事切れていた。
和泉守はその中心に、呆然と歩を進める。主を求めて。
彼の主がどこにいるかはすぐに分かった。顔が分からずとも、すぐに分かった。一人の緋袴を庇うように、上に覆い被さる黒があった。彼女の誇りだった、神に仕える証の衣。
和泉守は数多の骸の中から、黒一色の己の主の骸を、身体が崩れないようにそっと抱え上げた。
──何が神だ。
──何が唯一神との結婚だ。
──何が。
重たく冷たい骸を腕に抱き、和泉守は涙した。
この女が何をした。
平和に暮らしていたところを攫われ、望まぬ戦に身を投じ、それでもなお味方のために奔走し、敵のために祈り、これも神の意志だと役割をこなしてきた彼女が。こんな死に方をする謂れがどこにあるのだ。
なぜ、彼女が信じた神は、彼女を見捨てたのだ。
戦は良い。この細腕に、重い責を負わせたのも許そう。しかしそれならばせめて、安らかに死なせてやることはできなかったのか。どこか美しい、のどかなところで。親しい友や家族に囲まれ、最後の時を迎えさせてやることは。
和泉守は咆哮する。砂塵の舞い散る戦場の真ん中で。ささやかながら気持ちの通じ合った女の亡骸を抱き、慟哭に似た叫びを上げる。
その瞬間、和泉守は拳を握って己に誓った。
──オレが救う。
彼女の神が彼女を救わないのであれば。こんな惨い死に方を彼女に強いるなら。
──今度はオレが、この女を、神の御許から攫ってきてやる。お前には過ぎたものだと、神の顔を踏みつけて。彼女がそうは望まずとも、必ず。
必ず。
◆
「兼さん、本当にやるの?」
「だぁら、付いて来なくて良いっつってんだろ」
山ほどの学校資料を片手に、和泉守は後ろに付いて来ていた堀川に言う。
「でも……心配だよ。やっぱり」
「何がだよ」
「だって、主さんに記憶が無かったらどうするの? 兼さんだって、僕と会うまでは記憶、無かったんでしょう?」
「そりゃ、まぁな……」
和泉守兼定が今世で前世の記憶を取り戻したのは、堀川に会った時だった。一学年下の彼が偶然──彼は偶然だと主張している──和泉守と同じ中学に入学した廊下で「兼さん!!」と声をかけて来た時、和泉守はその場に卒倒した。突然流れ込んで来た記憶があまりにぶっ飛んでいて、凄惨なシーンもあったからだ。
「記憶のない人にいきなり、前世の刀です、って言って受け入れてもらえるかどうか……」
「テメェにだけは言われたくねぇよ」
「しかもオープンキャンパスで記憶を頼りに探すなんて……主さんが転生してるかどうかも、高校生かも分からないのに。仮に高校生だったとしても僕らは主さんの若い頃を知らないんだよ? 幾ら何でも無謀なんじゃ」
「うるっせぇな! やるっつったらやるんだよ!!」
がなり立てると、堀川は閉口した。しかし目は未だ責めるような色をしている。
「……仕方ねぇだろ。居ても立っても居られねぇんだ。記憶が戻ってから、教会は虱潰しに探した。でも見つけられなかったんだ。……主がシスターなんぞになる前に止めねぇと」
堀川は溜め息をつき、分かった、と頷いた。
「僕も協力する。手分けして探そう」
「恩に着る」
「良いよ。僕は兼さんの助手だし、……主さんのことは、僕も気になってたから」
あの後、審神者に群がる遡行軍を第一部隊で蹴散らしている間、和泉守は折れた。その尻拭いを務めたのは、堀川だったという。戦場に残った数多の骸を残った仲間たちとともに全て自分たちの本丸に送り、折れた和泉守と審神者の骸を背負いながら、彼は重傷状態で帰還した。
そして主を失ったことで霊力の供給が絶たれ、どんどん薄まる意識の中で担当を呼び、骸を本丸ごとに識別して送り、全ての審神者を手厚く葬り祈りを捧げることを約束させてから消失したらしい。
「悪いな、今も昔も」
和泉守がポツリと言えば、彼は
「兼さんらしくないなぁ」
と笑った。
それから宗教関連の学校に当たりをつけ、二人で手分けをして探すことにした。しかし、どこに行っても彼女は見つからなかった。
「ここがラストか……」
和泉守は賑やかな文化祭の中でオープンキャンパスが開催されているという、とある学校の前で独り言ちる。
ここにいなかったら、あとはどこを探せば良いのだろう。今度は自分より年下の可能性を考えなければならないだろうか。高校生男子が無関係の小学校に出入り……何処と無く犯罪臭がしてしまう気がして、今から背筋が震える。
生まれ変わっていないなら、それでも良かった。もう彼女が傷つかないのであれば、それでも。
しかしもし今世にいるなら? まだ出会えていないだけなら?
最後の最後まで諦める気にはなれなかった。
和泉守は覚悟を決めて校舎の門をくぐる。
彼女がここにいることを神には祈らない。ただ、己の縁を信じた。
校舎の中には大きな礼拝堂があって、そこからは、かすかな歌声が聞こえてきていた。
元付喪神は知っている(シスター審神者のささやかな祈りを)