日々「ただいま」
かけた声に返事が無い。この瞬間の、条件反射の如くささやかにさざ波立つ自分の感情にいつも呆れてしまう。返事をするはずの相手の不在は、もう一時的なものだというのに。
あの日、行ってきますと出て行ったあさぎりゲンは唐突に行方を眩ませた。無事であると知らせる、けれど現在の居所は決して知らせないハガキだけが届く日々は五年ほど続き、出て行った時と同じように唐突に奴は戻ってきた。抱えていたすべての感情に折り合いをつけ、俺の傍らに在り続けると決めて。何処へ行こうとあの男は俺を寄る辺として戻るのだと理解しているし疑うべくもない、それでもまだ、急な不在には心が揺れてしまう。
情けねえ話だ、と溜め息を吐きながら玄関から居間へと進むと、机の上にメモが貼られているのを発見した。
『ルリちゃんに呼ばれたので行ってきます』
……珍しいこともあるものだ。龍水などにはしょっちゅう呼び出されているようだが、ルリがゲンを呼び出すことなど今まであっただろうか? いや、俺が知らされていなかっただけで案外よくやりとりをしていたのかもしれない。不在の五年間、ネタばらしのように『実はあの時……』とゲンの暗躍と武勇伝を人伝によく聞かされたものだ。
「……飯どうすっかな」
どうせメモ残すんなら夕飯要るかどうかも書き残しとけよ。俺はネクタイを緩めながら、着替えの為に自室に向かった。
『――皆さん、こんばんは。今週も始まりました、ルリの夜語りラジオ。今夜もどうぞ、よろしくお願いいたします。お相手は……』
そういえば今夜はルリのラジオ番組の日だ、と気付いたのは生姜焼きを作っている時だった。呼ばれた、というのはラジオ番組に関係があるのではないかと思い、晩酌のアテ代わりにラジオを流す。
定時になり、音楽を背景に流れてきた声は少し無理をしているようにも聞こえた。
『ぅえっほッ!』
「あ゛!?」
大丈夫か? と訝しんだところで突然に響く男の苦しそうな咳。しかも、めちゃくちゃ聞き覚えのある、それは。
『いやぁ~、やっぱりカワイイ女の子の声って真似すんの難しいよね~! ってことで、ルリちゃんファンの皆メンゴ! 体調不良のルリちゃんからのヘルプ要請により、今夜はこの俺あさぎりゲンが代わってお相手させていただきまーす!』
ゲストにでも呼ばれたのかと思いきや、まさかのピンチヒッターだった。
『あ~待って待って、変えないで! この番組のファンなら小うるさいのは嫌だよね~? これ以降はルリちゃんに倣って、出来るだけお淑やか~に進行していきますのでお付き合いシクヨロ! ……ではなく、よろしくお願いいたします』
「いや、テメー本当にやれんのかよ」
『大丈夫、穏やかに大人しく喋るのももちろん出来るから』
「……あ゛?」
『テメーに本当にやれんのかよ、なぁんてリスナーちゃんたちの心配はご尤もですが、俺もルリちゃんの番組の雰囲気好きだからね~。その辺はご安心ください』
……盗聴されてねえよな? なんでそうピンポイントで反応がくるんだよ、てか俺の言ったことまんまじゃねーか。ありえないと分かっているが、ついコンセント周りに怪しい機器がないかを確認してしまった。何も無かった。いっそ何かあった方がよかった気がする。
『あっ、今ドキッとした人居たでしょ~?』
まさに此処に。
『ほら、音響ちゃん顔背けた~。さっきのツッコミみたいなこと図星だった? スタッフのみんなも知り合いもそういうの言いそうな人間だらけだからね~、分かっちゃうだけよ~。ってことで、みなさんの心を読んだとか盗聴されてるとかじゃないから大丈夫です』
……あ゛ー、こいつ、今すげえニヤついてんだろうな。足組んで椅子の背に凭れて、ニヤニヤと笑いながら、防音ガラス越しのスタッフに手なんか振ったりして。目に浮かぶようだ、あの顔が。
『ていうか、盗聴器ってそう簡単につくれるものなの? 俺それなりに色んなもの作らされたけど、さすがに盗聴器の作り方は知らないな~……今度千空ちゃんに聞いてみるかな』
絶対ェ教えねえよ。使う使わないはさて置いても、あさぎりゲンが盗聴器の作り方を知っているという事実があるだけで不信感増すわ。それよりも盗聴器の見つけ方……はアイツのが知ってそうだな、どういう場所によく仕掛けられるか等よく把握していそうだ。つまり仕掛ける側になったら逆手にとって見つかりにくい場所に仕掛けることも可能ということだ。やっぱり絶対ェ教えねえ。
『ウケる~、今ねスタッフ全員がでっかくバツ印を作ってます。ええ? 絶対に教わるなって? は~い、メンタリスト自重しま~す。さぁてとバカ話はこの辺にしておいて、と。昔ほどパソコン持ってる人は少ないと思うけれど、この番組はメールの受け取りできたよね? ルリちゃんへのお見舞いメッセージや、俺への質問なんかもあればお待ちしてまーす。もちろん読むのはあとになっちゃうけど、お手紙でのお見舞いメッセージは大歓迎だよ~。それじゃあ、いつも通り先ずはお便りのご紹介から』
そうして、ゲンは以前やっていた自分の番組よりは穏やかな語り口でハガキを読みだした。
同じ家に住み、必要事項もどうでもいいことも様々に話しているというのに、コイツがこんなに喋っているのは久しぶりだな、と何故だか思う。
(……あ゛あ゛、そうか)
思い出す。出会った頃、まだ村に旧人類が俺とゲンしか居なかった頃。村人たちは寝静まり、誰の声もなくなった夜、時折あの男は一人語りをしていた。客は俺だけ。眠気覚ましだと言って、うるさくならない程度の声量で、自分がそこに居ることを主張するように、ゲンは訥々と語っていた。こんな風に。
『……では次のお便りに行く前に、一曲――』
懐かしさを感じながらグラスを傾ける。今夜の酒は、美味い。
がちゃ、と玄関の扉が開く音が聞こえた。
「……、あら? まだ起きてたの、千空ちゃん。明日も仕事でしょ」
「論文読んでた」
帰宅したゲンは、居間で夜更かしする俺を見咎めながら傍に寄ってきた。ふわ、と酒の匂いが立つ。コイツも飲んできたらしい。
「ルリの調子は?」
「あー、それが喉痛めちゃったみたいで。風邪の引き始めって感じかな? ルリちゃん電話くれたんだけど殆ど喋れなくってさぁ、久しぶりにモールス信号使ったよ」
ていうかラジオ聞いてたんだ、とこそばゆそうな顔でゲンが笑う。たまたまな、と返したら、小皺の増えた顔は笑みを深めた。
「はちみつあったから大根飴仕込んで持ってってあげたんだ~。クロムちゃんもルリちゃんも経験則で対処療法は色々と知ってるだろうし、大丈夫だと思うよ」
あの夜に語らっていた頃から比べたら、随分とコイツも歳を取った。勿論、俺も。
「……、どうかした?」
ろくに相槌も打たない俺へ、ゲンが尋ねる。誰かを気にかける時、この男はこういう声音を使うのだ。ひどく柔らかで、深く穏やかな声。今まで何度も向けられてきた声。
「何も」
「そう? やけに優しい顔しちゃって」
「何もねえよ」
「ふぅん……いいけどさ。何を考えてたって」
こちらへ伸びてきた手の甲が、するりと頬を撫でる。そういう自分がどんな顔をしているのか、お前は分かっているんだろうか。俺は最近になってようやく、その表情にあるのは慈しみであり愛しみなのだと気が付いたばかりだ。同じ物を向けられ続けていたというのに、ずっと労りなのだとばかり取り違えていた。優しさを正しく扱える男なのだと知っていたから。向けられてきた情の深さを知らず、気付こうとせず、無自覚のまま享受していた過去の俺はきっと傍から見れば狡い男だったのだろう。
「ところで千空ちゃん。がんばって夜遅くまでお仕事して帰ってきた俺に何か言うべきことがあるんじゃなぁい?」
「奇遇だな、俺も言われてない」
触れられていた手を掴む。指を絡めるように握り返される。
「ただいま、千空ちゃん」
その言葉が、お前の戻る場所を俺に知らしめるのだ。言われる度に俺がどれほど満足感を覚えているか、お前は知らないだろう。
「おかえり。ゲン」
……いや、コイツなことだからとっくにバレてんのかもしれねえな。満更でもなさそうな顔でにんまりと笑うゲンを見て、俺は思わず苦笑した。