天使像 あの日、ここにそびえる二つのビルは衝突してアーチを作った。衝突した箇所を中心に外壁が崩落し、砕けた窓枠は今も空に向かって突き立っている。砂で曇ったガラスが窓枠に三角に張り付いて、通り一帯が巨大な生き物たちの下顎のようだ。月明かりに照らされて、その歯列は黒々としている。
月は通りの手前にいる一行にも光を投げかける。その中に人間の青年の姿をした神がいた。青く長い髪を揺らめかせて、手元の刃は燐光を放つ。彼は知恵を得た神、ナホビノだ。その肉体は神のもの、意識は知恵たる人間のものだった。
威光を示す宝玉の輝きも、厳めしい鎧もないが、彼が他の三者を率いている。
手持ち無沙汰に通りを覗き込んでいるハヌマーンは猿に似た姿をした幻魔で、崖に囲まれた街でナホビノと戦った。話を聞いてほしいと言われて斬りかかる手を止めると、その旅はなかなかにハヌマーンの興味を誘い、金品と交換で力を貸すことにした。
サラスヴァティとドミニオンは、邪教の儀式によってナホビノに呼び出され、顕現して以来行動を共にしている。邪教と言っても、サラスヴァティは技芸を司る女神、ドミニオンは位の高い天使であった。ナホビノが目指すところに不満はない。戦いから得るところがあればナホビノに褒美の一つくらい与えても良いと思っていた。
彼らとて知恵を取り戻せばナホビノになることができる。しかしそれを望むのは一部の悪魔だけだった。例えばドミニオンは自らを知恵を奪った神の御使いだと位置付けていて、ハヌマーンがいくら盲信だと笑っても、神の意思を疑うことはなかった。
「わからんのう、オヌシはその神を疑わぬようぢゃが、向こうはそうではなかったのではないかのう」
「何を仰りたいのです」
「オヌシら天使も知恵を奪われておろう? 自らに仕える者が信頼に値するなら、なぜ奪うのぢゃ。配下のみに力を残せば此度のような失態は防げたとは思わんか」
「全ては深きお考えあってのこと。天使は復活の日を待ちます。大いなる意思を推し量らんとすることもまた、驕りというものでしょう」
「信仰とは大したもんぢゃの」
「あなたは神の身でありながら信仰を以て他者をあざけるのですか」
「しばし目を閉じて祈りを捧げるのは良かろう。ワシが言うておるのは食事の時間には目を開いておくが良いということぢゃ」
「特別なことを閃いたと思う者ほどむなしく堕天するものです。既に天使はあるべき役割を与えられ導かれているのですから、役割に値する存在であるかを己に問うのです」
ドミニオンが仕える神は先の戦いで魔王に破られ存在を消失している。それでもこの天使の忠誠は揺るがなかった。統治を司る天使ドミニオンであるが故か、固有の思考によるものか、天使との接触機会がないハヌマーンには判断がつかなかった。
ハヌマーンはまだ目の前の大きなガラスを諦めない。このビルを使用していた人間たちは光へのただならぬ執着があったのか、あるいは自分たちの繁栄を表現したのか、一枚一枚の窓がハヌマーンよりもはるかに大きい。
「あの隙間、通れそうぢゃが」
ナホビノを振り返ったが、ナホビノは首を振り、踵を返して冷たい光を放つ自動販売機へと向かってしまった。ハヌマーンはガラスに向き直り、腕で表面についた砂をぬぐってみる。
「元は道なんぢゃ。少しうるさくなるが、全部壊してしまえば通れんことはないわい」
この幻魔は己の叡知に不真面目なところがあった。
ドミニオンはハヌマーンが奮闘している通りを見た。そもそもの通りの幅が天使の翼には些か窮屈だ。この通りを抜けろと言うのであれば、ドミニオンはビルより高く飛ぶ。瓦礫を壊さずとも、サラスヴァティもハヌマーンも飛翔できるのだから、いざとなればナホビノの小さな体一つ、彼らが運べば良い。途中で仲違いさえしなければ、安全に通りを抜けられる。
(それよりも……)
ナホビノの向かった方に視線を動かそうとして、サラスヴァティと目が合った。ガラスの隙間に体をねじ入れようとしているハヌマーンをそのままに、彼女は軽やかに近付いてきた。ドミニオンが首に掛けるストラに、たゆたう羽衣が触れる。目に映る像の上では確かに触れたのに、実体を持たないかのように幽かで柔らかい。サラスヴァティはヴィーナと呼ばれる楽器を抱きながら意味ありげに微笑んだ。少し距離を取ろうとしたドミニオンを追うように、彼女は天使の耳元に唇を寄せる。
「お気付きでしょう? 何もあのような隙間を通らなくても、彼がいつも避けている通りがあることを。昔々、あちらには信仰深き民が集う小さな教会がありました」
「なぜ避けるのです」
サラスヴァティはナホビノの背中に視線を滑らせる。ナホビノは二台目の自動販売機を覗き込んでいる。重たい瓶ばかり集めていないといいが。
「人の子は、人形が壊れると悲しみます」
ドミニオンは僅かに眉根を寄せる。
古びたカードを収集していたナホビノは、背後に仲魔の気配を感じて立ち上がった。振り返ると少し離れて視線の高さにドミニオンの衣の裾がある。ナホビノが怪訝な表情を浮かべる中、ドミニオンは高圧的に言葉を発す。
「来なさい。あの通りへ入ります」
指し示されたのはガラスが突き立つ通りではなく、その奥の、舗装が崩れて地面が剥き出しになった広い通りだった。ナホビノはその先がどうなっているかも知っていた。一見通り抜けられないようでいて、実は倒壊したビルの壁面を足掛かりにすれば、ハヌマーンが通り抜けようとしていた通りの先と繋がっている。歩いたこともある。あのとき既にサラスヴァティは仲魔にいた。そうだ、彼女は知っている。
ドミニオンの背後で、ごめんなさいね、という顔を浮かべて見せたサラスヴァティが後ろを向く。彼女はどこまでドミニオンに話しただろうか。見上げてもドミニオンの表情は読み取れない。
「こうも簡単に抜けられる道に気付かぬとはのう」
ナホビノとハヌマーンが窓を踏みぬかないよう一行は足場を選んで歩く。ハヌマーンの手と顔にはガラスの奥を覗き込もうとしてできた小さな切り傷があった。サラスヴァティが呆れて治してやらなかったのだ。ナホビノとドミニオンは日頃から口数が少なかったので、ハヌマーンは何も気が付かない。通りに出ると、時折しゃがみこんで瓦礫で魔石や宝石を掘り出していた。
「ドミニオン、もう少しゆっくり飛んでいただかなくては困りますわ」
サラスヴァティが声を掛けても、ドミニオンは通りに立ち並ぶ大小の建築物に目を走らせながら進んでいく。ナホビノはその背を見ながら歩調を速めた。ハヌマーンはよそ見をして遅れては駆けてくる。あまり速く歩くと別の悪魔と不意に出くわす可能性もあったので、本来なら交差点や遮蔽物の横を通過するときはもっと慎重に進むべきだ。先行しすぎているドミニオン、遅れているハヌマーン、どちらかが不意打ちを受けたとき、加勢できるかどうかが危ぶまれるほど列は引き伸ばされていた。
やがてドミニオンは背が低いビルの間に周囲と不釣り合いな建物を見つけた。大小の四角い箱が横に並んだ建物だ。色は僅かに暖かな色を混ぜた白で、大きい方の建物には高い位置に丸い大きな穴が空いている。かつては色ガラスが嵌まった窓だったのだろう。外壁はよく残っているものの、建物の屋根は大きく落ちてしまったようだ。
ドミニオンが知る教会の姿とは大きく異なるが、これがサラスヴァティの言う教会で間違いない。
「他の仲魔を下げなさい」
ドミニオンはひとこと背後に言い残すと振り返らずに教会へ向かっていく。ハヌマーンもドミニオンのいつもと違う様子に気が付いたようだ。
「珍しい、気高き天使様が苛立っとる。どうやったのかあとで小僧に訊いておいて損はあるまい」
教会の前でナホビノはハヌマーンを待った。
「話をしてくる」
「なんぢゃ。通りを見物しとるから行って来ればよかろう」
「……聞き耳を立てる」
「傷付くのう。そこいらの悪魔に不意を突かれて死んではつまらんぞ」
ナホビノはそれ以上何も返事をしなかった。ハヌマーンが下がってから、ナホビノはサラスヴァティに向き直る。何も言わずに表情で問いかけるとサラスヴァティは弁明した。
「私、大したことはお話ししていませんわ。あなたが避けている通りがあるとは申しましたけれど」
「この場所のことは」
「ただ、あるとだけ」
サラスヴァティは微笑むと姿を消した。
(待たせすぎた)
ハヌマーンやサラスヴァティのような悪魔は退屈を好まない。教会の前を通らぬよう、遺物を回収したら少し引き返して別の道を行こうと決めた矢先のできごとだった。
見ればドミニオンは小さな建物を覗き終えて、大きな建物の方へ入っていくところだった。ドミニオンは何もかもを見るだろう。ナホビノは周囲を警戒しながら敷地に足を踏み入れた。
(ここには幼子が集められていたようですね)
ドミニオンが小さな建物を覗いたとき、破れた窓の向こうには小さな椅子が円形に並んでいた。壁には荷物掛けが連なっていたが、こちらも低い位置にあり、子どものためのもののようだ。小さな楽器や絵本が散らばっている。建物の隣に大型の車があった。あれに乗ってやって来て、この場所で崩壊に巻き込まれたに違いない。
ナホビノが隠したがっているものはこれではない。
ドミニオンは大きな建物へ向かう。建物の正面には幅の広い半円形の階段が三段あって、その先は両開きの扉になっていた。どちらも蝶番が外れて倒れている。扉の下に色ガラスが散らばっている。初めに建物上部の丸窓が割れ、扉は後から外れたらしい。両の扉が外れていても間口は十分に広いとは言えず、ドミニオンは翼を少し寄せて建物に入った。
建物の手前は暗く、屋根が落ちたところから先にだけ月光が差している。天井は高い。翼を遮る柱もなかったので、ドミニオンは外と同じように羽を広げることができた。
縦長の窓には長方形の色ガラスを縦横に繋げた単純な図形が描かれる。祭壇は小ぶりだ。全体としてドミニオンの知識にある石造りの教会と比べると質素な印象を受けた。見れば、椅子も長椅子ではない。金属の管を折り曲げて作った脚の上に布張りの座面が付いたもので、脚を押さえれば畳めるようになっている。
祭壇に近付くと、壁に描かれた天使たちが月に照らされていた。
絵の心得がある信者が描いたのか、名筆とは言えないが、丁寧な筆致がうかがえた。色数も多く、衣服の陰影は幾重にも塗り重ねられている。長い時間を掛けて制作されたに違いない。恐らくドミニオンの目の前に描かれていたのはガブリエルだろう。十分に近付いたドミニオンが断定できないほど、絵画の損傷は激しかった。
(これが、私に見せまいとしたものですか)
通りから見えなかった奥の壁面には大きな亀裂が走り、そのまま上半分が外側にずれ落ちていた。その結果として屋根も落ちていたのだ。ガブリエルと思しき天使も鼻から上がない。ただし、損傷はそれだけが原因ではなかった。
悪魔の爪痕が天使たちの頭を、翼を、腕を抉っている。ドミニオンが指先で触れると、塗料が混ざった微細な欠片が壁を伝って流れ落ちていった。一つとして無事な絵はなかった。ここに来た悪魔は一体ではないらしく、大小の爪痕のほか、中には炎で焼かれたものもある。下部が変色した天使に近付くと刺激臭がした。尿を掛けたのだ。
ベテルの天使は使命のために多くの悪魔を殺した。憎まれてもいるだろう。
(ばかばかしい)
変色の状態を確かめるためにサンダルを地に付けたドミニオンは、自分の足が紙を踏んだことに気が付いた。
本を小脇に抱え、空いた手で拾い上げて見ると、折った紙を繋ぎ合わせて作った小さな天使だった。口を大きく開けた満面の笑みが不器用な線で描かれている。先程の建物にいた幼子が作ったのだろうか。周囲にいくつか同じ形の物が落ちている。
この抽象的で拙い作りの天使たちは破壊を免れたらしい。先程から風が吹くとぱたぱたと音がする暗がりがある。あそこから剥がれて落ちたのだろうか。
(おや、これではクピドです)
別の天使を拾うと赤いインクで弓矢が描かれていた。持ち物から言えば神クピドだが、幼子にとっては天使に見えたのだろう。あるいはこの地では区別が曖昧なのかもしれない。
ドミニオンは床で小さな音を立てる簡素な天使像を順に拾っていった。裏を見せて落ちている天使を拾い上げると、また笑っている。目を閉じて胸の前で両手を合わせている天使を拾った。その表情は夢見る少女のようだ。
一通り拾い上げた小さな天使達に目を落としながら、ドミニオンは教会の入口に声を掛けた。
「どうしました。私の感想をお待ちですか」
先程からずっとそこで動かないので、ドミニオンもあえて声は掛けなかった。扉の形の逆光の中でナホビノは何も言わない。ドミニオンも返答があると思ってはいなかった。紙がはためく音を頼りに暗がりを進む。
ドミニオンの目が暗がりに慣れると、大きな白い紙が壁に貼られているのがわかった。紙製の天使がまだいくつも残っている。いずれ糊が古くなれば剥がれるだろう。
「人間たるあなたの半身が通っていたであろう、学び舎の話をしましょう」
ナホビノは、暗がりの中から広がるドミニオンの声を聞いた。
「教室の外に見える梢に、ある日小鳥が巣を掛けたとします。あなたはそれを退屈な日々の慰めとしていた。ある朝、小鳥の姿は見えなくなり、巣だけが残された。巣は日に日に朽ちていきますが、あなたはそれを直すことはしないでしょう。失われて寂しいのは小鳥がいた日々であり、巣ではありません」
扉からの明かりが届く範囲にドミニオンが現れた。その手にはまだ天使たちの束があった。
ドミニオンには紙の天使たちが人の子の安らぎのためでなく、自らが幸福であるがゆえに笑っているように見えた。ドミニオンはしばらくナホビノを見下ろしたあと、ついに何も尋ねなかった。彼は天使の顔を描いた本人ではなかったし、この年頃の人の子は悪魔を描かせても笑顔にするのかもしれない。知識の象徴を手にした主天使でも、想像するしかないことだった。
ドミニオンは教会の奥を振り返った。扉から吹き込む風によって指先から天使たちが去っていく。ドミニオンは、床を滑って暗がりの中に消えていく紙の天使を見送った。
ナホビノはいいのか、とだけ言った。
教会はもう見えない。ドミニオンはナホビノの少し後ろで羽を広げ、手にした本の表紙を無意識に撫でていた。彼はこの本の内容を諳んじていたから、どこかのページに天使の形をした栞が挟まっているのか、あるいは挟まっていないのか、誰も知りようがない。