魂にまぎれた卵 オバリヨンは大きな手をしている。人間にしがみつくのに便利だった手だ。いまでこそ東京は魔界になってひとっこひとりいなくなってしまったが、彼らはずっと昔からこの国の、人間の周りで暮らしてきた。夜の藪で突然人間の背中におぶさって絶対に離れない。絶対に、というのが彼らの誇りだ。人間に与えてやる抜け道は彼らの重みに負けず帰宅する、このひとつだけ。そうでなくては面白くない。長い歴史のなかで手を滑らせたオバリヨンは一人もいなかった。
だから人間がいない魔界で過ごすうち、なんとはなしに信号機にぶらさがってみもするのだ。手に力をこめると気持ちがよい。それに高ければ高いほど多くが見える。ときには信じられなくて目をこするようなものも。
魔界中の悪魔を集めて、人間に近寄られるのがうとましい悪魔と、人間の姿がなくては張り合いがない悪魔に分ける。多いのは後者で、オバリヨンもそうだった。だから風のうわさにきいていた悪魔が想像よりも人間に似ていたとき、何も求めずに天使の基地の方角を教えてやった。
この気まぐれが彼らをカミヤチョウの最年長者にした。奇妙な悪魔は彼ら以外を皆殺しにしてしまったからだ。仲魔を引き連れ通りを進み、折れて、また引き返して、とにかく手当たり次第だった。オバリヨンたちは猛るツチグモがガラスを粉々にする音を聞いてビルにしがみつき、落命して消えていくスダマが残した赤い光が瓦礫を染めるのを見て壁をのぼった。
虐殺のあと、ぎこちなく遊んでいるふりをしているオバリヨンたちにどんどん近づいてくる悪魔を見て、彼らは観念した。散り散りに逃げるのが正解だったように思われた。ところが悪魔は彼らの脇にある青い光の柱にしばらくふれただけで踵を返し、坂をのぼっていった。坂の先が騒がしくなる。もうビルにのぼってみる気にはならなかった。互いの震えはじめた手足を見て、生きのびたらしいと頷きあった。
「へーえ。それがオイラたちが生まれたてな理由だって? 疑うってよりそんな悪魔のはなし、あっちじゃ聞いたことないからさ。ま、オイラが担がれてるんじゃないなら生存者ゼロで決まりだなー。オイラたちアイトワラスってのはそういうケンカは買っちゃうほうだし、逃げきってたらあとで武勇伝を聞かせに戻ってくるほうだよ。どいつもこいつもオイラもね」
オバリヨンは長話をするあいだずっと信号機を支える鉄棒に片腕でぶら下がっていた。アイトワラスという小さな悪魔が足裏の肉球を落ちつかせるには細い足場に気を取られながら相手をしている。
坂の先のアイトワラスが全員魔界に現れたばかりなのは間違いなかった。しかし、ここから見えるツチグモたちやモコイたちまでが生まれたてかどうかは聞いて回ってみなければわからない。アイトワラスはオバリヨンのはなしには誇張のひとつやふたつあるものと考えながら、納得したように言っておいた。
大きなおかっぱ頭が上を向いて、にやにや笑いが向けられた。
「キミもせいぜい気をつけなー」
「わーかってるってセンパイ。あっ、アイツら帰ってきた。オイラそろそろ行くよ」
空を横切る黒い点を見上げて、邪龍アイトワラスは翼を広げた。
オムレツに執着する悪魔アイトワラス。彼らは魔界に野生の鶏さえいたならば、人間がいなくても楽しくやっていけた部類かもしれない。言い換えれば、卵が手に入らない場所は魔界でもどこでも我慢ならなかった。
彼らは人間界に行くための情報を集めていた。
「ラフム?」
「ふっるいカミサマだってさ」
「どこにいんのさ」
「騒ぎを起こしてみろ、ぜぇったい天使のヤツらが来るぜ。そのカミサマにはたっぷりひっかきまわしてもらわないと困るね。こっちは卵の殻にヒビがはいらないよう細心の注意を払うんだ、アイツらの相手なんてしちゃいられない」
「ラフムが暴れて時間ができるってんならオイラ動物園に行きたいよ」
「馬鹿だなー。めずらしい卵目当てだろうけど、よっぽど運がなきゃ人間がどこかに持ってっちゃったあとだぜ」
「運試しくらいしたっていいじゃんか。鶏の卵がどこの店でも売られてたって調べたのはオイラだぜ? 動物園に行って、駄目なら近くの店に入るって」
「それで人間界に置き去りになっても知らないぞ」
「人間界に危ないヤツがいなけりゃオイラそうしたっていいんだ」
「……なあ、それなんだけど」
オバリヨンと話してきたアイトワラスが口を開いた。
「いるのかよぉ」
「そいつが人間界に興味あるかはわからない。ただ、少し前にここを通ったらしいんだ。その場にいたアイトワラスは全滅して、オイラたちが生まれた」
彼らのしっぽの炎は大きくなったり小さくなったりした。怒ったのも、弱気になったのも、動揺したのには違いない。
「アイトワラスの土地で好き勝手してくれちゃうね! 礼儀知らずの極悪悪魔じゃないか」
「いまのはなしじゃ人間界でかちあうって決まったわけでもないだろー」
動物園に行きたがっていたアイトワラスが尋ねる。
「で、どんなやつなんだよ」
「思ったよりムキムキしてなかった、らしい。待てって、オイラ基準がわからないって当然言ったんだ。絵心があってくれたらよかったんだけど、うまくいかなかった。まあさ、つまりは見た目に騙されたら駄目ってことだよ。ツチグモたちを皆殺しにできるけど、体はツチグモよりずっと小さくて、人間の子どもみたいな背格好。仮に人間界にいたとしても頭が青いからよく目立つ。角こそ生えてなかったけど鬼みたいに残虐で……オイラたちオニをよく知らないけど、とりあえず角はない。役に立つ情報にはなってるだろ?」
「もう一回ゆっくり言ってくれよー」
「そうだそうだ!」
アイトワラスたちが人間界になだれこむときは間近に迫っていた。侵入をもくろむ悪魔のうちで、人間のあたたかな皮の内でなく、ひよこ一匹出てこない冷たい殻の内によだれを垂らしていたのは彼らだけだった。
人間界に出ると、ぬくもりはじめた午前の空気が鱗に触れて冷たかった。どうやら学校らしい。四角い大きな窓が一定の間隔を空けて並んでいる。魔界でのアイトワラスたちの調査によれば、学校は鶏の羽毛が度々確認されている場所だ。期待にせわしなく羽ばたいた彼らは校舎前に陣取ると、漂いだした血の臭いにも関心がない様子で、手早く捜索範囲の分担について打ち合わせた。
結界が破られてからまだそれほど時間は経っていない。窓の向こうでは生徒たちが逃げまどい、一人の男子生徒が警察に電話をかけようとしていた。震える指で懸命に画面を操作しようとして、ほかの人間よりも動きが鈍った。彼はたちまち狙われ、弾き飛ばされたスマートフォンとそれを掴んでいた手首が窓にぶつかってひびを入れる。
その音がすぐ近くだったので、アイトワラスたちもさすがに目をやった。
「ちょっとちょっと。そんなに殺しちゃって。次世代の養鶏はだれが担うのか考えてくれないかなー」
「塩と胡椒とバターの準備もな!」
「鶏に限定するなって」
「あーっ! おいアレ!」
血がついた窓に空が映っている。そのなかに小さく光ったのはエンジェルたちの頭上で輝く金の円盤だ。天使は悪魔を殺す。アイトワラスたちはなるべく短く罵って、ほとんど枠ばかりになった正面扉から校舎内に逃げこんだ。
なかはひどく騒がしくて散らかっていた。まだ湯気を立てている血だまりに、皮張りの羽を持った悪魔が座りこんでいる。体は上半身と下半身で二つに分かれていて、赤く汚れた下半分を気にするそぶりもない。壁に散ったものをこそげた指先が口のなかに運ばれるのが見えた。惜しむように指を舐める舌を見れば、彼女の好みにぴったり合ったことが遠目にもわかった。
卵も人間と同じくらい簡単に手に入るならよかったのにとアイトワラスたちは羨ましく思った。人間の食べ物の匂いが右の部屋から漂っている。背後の天使が恨めしい。確かめる時間はなかった。
「天使は窓を割って入ってくると思うかい」
「いーや、優勢ぶらなきゃ気が済まないヤツらだぜ」
「じゃあ奥だ奥! そこから上がるんだ!」
階段をなにかが塞いでいる。岩塊のように見えた。簡素な机を大量に巻きこんで熱気を放っている。机の脚も溶かさない程度の熱など彼らにはどうということもなかったし、おまけに天井とのあいだには十分な隙間がある。接触しないように飛び越すと、のぼってくる熱で腹の鱗がほのかに暖かかった。
このかたまりの存在理由はどうあれ、人間の足止めには役に立っているらしい。踊り場では大小の赤い悪魔が女子生徒の衣服を剥ぎ取って楽しんでいる。四人分の上着が落ちているのを数えたアイトワラスがいた。
(人間てのはオムレツを焼くためならバターでも塩でも揃えてみせるくせに、こういうことになるとてんで駄目だね。卵からくちばしが出てようやく叫んでら。悪魔なんて昔からいただろ?)
もうひとつ階段を上がってみたが、見たことがない緑の結晶が通路を塞いでいてなんとも不気味だった。おまけに先ほどと違ってきっちり上まで塞がっている。引き返すほかなかった。
二階に戻り、別の階段を探そうと左に曲がったところで、後ろから重いものが落ちる音や草が引き抜かれるような音がした。開いた扉が勢いよく叩きつけられ、部屋のなかに隠れていた三人の生徒が飛び出した。続いて教室の入り口を器用に這い出したのは赤い髪を振り乱した巨大なツチグモで、最後に静かに扉を閉めたのは梟頭の堕天使アンドラスだった。もっとも、扉はアイトワラスたちからは死角になっていたので、彼らはなにが来るのかわからなかった。
アイトワラスたちは廊下の右側にあった割れ窓の向こうに避難した。するとそんな気はまるでなかったのに、横切った彼らの黒い影に気がついた一人の生徒が身をすくませた。残念ながらこれが命取りだった。彼の胴体はツチグモの太い円錐形の爪に貫かれ、はらわたが音を立てて切れた。
「なあなあ、いまのってオイラたちのせい? ちがうよな?」
「遅かれ早かれだって」
「おい、向かいの扉から食いものの匂いがしないか?」
「デカブツさん、とっとと通過してくれないかなあ」
そこは調理室の向かいに位置する小さな部屋だった。ロッカーだけが申し訳ていどに並んでいる。そこに身を隠して廊下を窺っていると、ツチグモの八本の脚がふいに前進するのをやめた。アイトワラスたちが足止めを食ってため息をつきたくなるなかで、教室の窓枠に大きな爪が掛けられて、また一枚ガラスが割れる。
「助けてください!」
追われていた生徒の声がだれかに助けを求めた。もうひとりの生徒は泣いている。
相手を見ようとロッカーの端のほうに移動したアイトワラスたちは、たなびく白い衣に慌てて首をひっこめた。エンジェルたちだ。四人いる。
天使たちは黙っている。水気を含んだ音に続き、槍の穂先が床に当たる冷たい音が二つして、詰まるような息を最後にすすり泣きが途切れた。
天使は悪魔だけを殺しに来たのではなかった。救える人間は救う。しかし悪魔に魂を奪われるくらいなら、その前に人間を殺してしまいたかった。彼らの主がかつて神々とその眷属から奪い、いまは人間たちのうちに宿る知恵を取り戻させるわけにはいかないのだ。殺してしまえば転生までのあいだ誰も手は出せない。
助けを求めていた少年が束の間の沈黙を破る。
「う、うあ、うわあああっ……! どう……してえっ……あああお前たちも、お前たちもなんだ!」
「……あわれな人間よ」
「ひいっ、ひいっ」
この生徒は助かりようがなかった。逃げる力もなく、戦う力も持たず、廊下の隅で体を丸め、目を固く閉じてしまった。顔色が悪い。こみ上げてきた朝食のパンが制服を汚した。彼にはツチグモの低い声も届かなかっただろう。
「嘘こけよ」
少なくとも彼はツチグモの爪にかかるよりは苦しまなかった。
生徒たちが息絶えた廊下で、ツチグモと天使たちが向かい合う。ツチグモが後方の脚の爪を壁に掛けると、エンジェルが回りこめるような隙間はなくなった。撫でつけたような青い毛に覆われた蜘蛛の腹が持ち上がり、赤毛がかぶさった目許はいやらしく笑っている。
「よォ雑魚天使ども。オマエらしか来てねえじゃねえか。だあれもお守りをしてくれなかったのか? しょうがねえよな。人間のお守りもやめちまったんだから。パパがいないと悲しいねェ! 役目もなくして簡単に上級の捨て駒にされちまって」
空気が張りつめた。エンジェルたちは菱形の陣形を組むと勢いよく飛びかかった。
「その冒涜、決してそそがれぬものと思え!」
額を狙った先頭の槍はツチグモの左前の爪に切っ先を逸らされた。がら空きになった天使の腹を逆側の爪が裂く。その隙に二人の天使が左右から躍りかかって両の前肢を縫いとめて、最後の一人がツチグモの喉から脳天に槍を通してくれようと潜りこんだ。
勝利を確信したその無機質な目に、ふとツチグモの背後に立つ者が映る。青と黄の風切羽、朱の体。顔は見えないが、エンジェルの緊張を茶化すような格式ばったおじぎをしたのが何者であるかはすぐに知れた。
ツチグモが腹を上げていたのは進路を妨害するためだけではない。隠すものがあったからだ。
堕天使の暴風が天使を切り裂くと、廊下に残った窓ガラスが風圧で音を立てた。二度目の風によってもう一人、残る一人はツチグモが己の爪が砕けるのも構わずに壁に叩きつけた。その音があまりに大きくて、ロッカーの裏から飛び出しそうになった一羽をアイトワラスたちは必死で押さえつけていた。
ツチグモが壁を片側に這いあがってアンドラスを前に通す。狭い廊下では後ろを向くのが億劫だった。
「気色わり。声色なんざ真似やがって。あそこまでぶちギレさせるとは思わねえから見ろよこの爪。大体バカだろアイツら。オレが天使どもの内情なんざ知るかよ」
「失礼。失礼。ふむ、その粗野な勢いは再現しきれていませんでしたな。次は気をつけるといたしましょう」
堕天使はやや上の空で答えた。天使たちに不和をもたらせるか否かが近頃の彼のもっぱらの関心ごとだった。秩序への信仰はいまだしぶとい。
「てめ」
「楽しまずにどうします」
やかましく校舎を傷つけながらツチグモたちが去っていく。アイトワラスたちは空から見おろすツチグモなんて怖いと思ったことは一度もなかった。それなのに廊下いっぱいの青い巨躯は、どれだけ強がったってまだおっかなかった。
この事件はアイトワラスが勇猛果敢であることを彼らに取り下げさせはしなかったが、狭い空間を飛ぶあいだじゅう両の翼に取りついた。
建物の内部は枝分かれした四角い筒の組み合わせで、蛇のあばらのようなアーチが邪魔だった。ときどきは魔界由来と思われる結晶や氷柱が鍾乳石のように突き出していて、魔界の廃墟より飛びづらい。下方では数を減らしつつもまだ人間たちが逃げまどっている。彼らは神経をすり減らしながら最大速度で飛んだ。
ようやくのことで四階にたどりつくと、ここが最上階らしかった。岩塊に遮られた短い通路を覗けば人間も悪魔も天使もいない。彼らはほっとして、勢いよく狭い隙間に飛びこんだ。
出会いがしらの不運な事故だった。岩塊のすぐ脇は生物室で、入りこんだ悪魔によって無人になったところだった。中にいた悪魔はシキオウジ。強力な式神だ。折った紙でできた体が、閉まったままの扉のわずかな隙間を抜けて廊下にすべり出た。そこに後ろの仲間を振り返っていたアイトワラスがつっこんだ。
アイトワラスのしっぽの炎がシキオウジの胸を焼く。火はたちまち頭へと駆け上がり、みんなで叩いて消しとめたころには彼を瀕死に至らしめていた。彼のものも言えない有りさまに、誰も何も言えなかった。ケンカをふっかけてきた相手なら、得意の火球でひどい火傷を負わせるのも痛快でたまらないのに、これはどうにも気分が悪く、居心地の悪さが彼らの尾を横に向けたり上に向けたりする。
放っておけば通りがかりの天使か、この姿を面白がった悪魔に殺されてしまうだろう。人間にでも負けてしまうかもしれない。ぶつかったアイトワラスは仲間たちを振り返る。
「な、なあ。だれかなにか持ってないか?」
羽一枚分でも体を軽くしようとなにもかも置いてきた。自分たちの身になにかあっても回復できないが、それだけの覚悟でここに来ている。それはこのアイトワラスも当然知っているはずだ。返事を待った彼は遠くで人間の悲鳴が聞こえるなかであいまいに笑う。
「だよなあ。オイラさ、ここに残るよ」
上体が後ろにだらりと垂れたシキオウジから見えないように、別のアイトワラスは翼を振って訴えた。
(一大事なんだ。その兄さんには悪いけど置いていこう)
「一生に一度しか食べられないかもしれないオムレツだろ。気持ちよく食べたいんだ。ほら、みんなは行けって。この階はまだ結構人間たちがぎゃーぎゃー言ってるのに天使が来ない。ってことは、どっかで騒ぎが起こってるか、負けがこんでんだ。チャンスだって。オイラは誰か来たら魔石でも分けてもらって、それから追いかけるからさ」
人間界に攻め入っているような悪魔が魔石を親切に譲ってくれるわけがないと思いながら、せっかくのオムレツが楽しめるかどうかという問題になれば仲間たちはもうなにも言えなかった。聖域だ。
飛び去る仲間を見送ったアイトワラスは、しっぽの先をシキオウジから十分に離した。小さく抑えられた炎が心細げに揺れる。
「辛抱してくれよ兄さん。あーあ、いっそ人間の一人でも走って来てくれればいいんだけどさ」
全員が同じ場所の卵を探したって仕方がない。ここからアイトワラスたちはそれぞれの勘を頼りに別行動を取ることにした。
(天使ってのは悪魔を殺すから人間に大事にされるもんだと思ってたのに、人間も躊躇なく殺してるじゃんか。これじゃ教会で清めた蝋燭なんてのもムカついてくるや。清めた、なんて人間にとって正しい側だって思われてなきゃ言われるもんか。カミサマってのはどんなだか知らないけど、オムレツを食べそこねたアイトワラスが浮かばれないよ。はん、オイラたちのほうが清らかじゃないってさ!)
見れば掃除用具入れに瀕死のエンジェルがもたれかかっている。ちょうど死ぬところだ。命が尽きると、槍の穂先に引っかかっていた革靴が床を転がった。その音すら彼の鱗を逆撫でする。
蝋燭のことを正当化された毒だと吐き捨てるように言って、このアイトワラスは怒りのこもった翼で窓から飛び出していった。
校舎の外に出たのは、彼と動物園を目指したアイトワラスの二羽であった。
一方、オバリヨンと話をしたあのアイトワラスは、引き返さずにシキオウジが出てきた部屋を過ぎ、突き当たりの階段をおりることにした。
(なにか出るならさー、いまにしてくれよなー。オイラ焼きたまごを持って帰るのはごめんだよ)
彼は珍しい卵などと夢は見ない。ありふれた鶏の卵で極上のオムレツが焼けるのがアイトワラスであって、珍奇なオムレツを焼いて目立つことに彼は大きな価値を見出さない。とにかく早くごく普通の卵を調達して魔界に帰りたかった。
これまでに通った場所のうち、オニグモとアンドラスから隠れた部屋の向かい側と、正面玄関の脇からは食べものの匂いがしていた。これだけの人間がいて、食べものを置く部屋があって、卵が存在しないなど考えられなかった。そうなるとあとは退路が気になり、来た道を引き返さずに探索しながら進んでいる。愛するオムレツのもとは憎らしいほど熱に弱く、割れやすく、運びにくい形をしている。くちばしに咥えてひとつ、脚と腹の間に挟みこんでふたつ、これがアイトワラスの限界だ。うかつに炎を使えば卵は焼けて駄目になってしまう。天使に遭遇しても逃げることしかできないとなれば、身軽なうちに迂回路を把握しておいたほうが得策だった。
三階の様子を窺う。人間の叫び声は聞こえるが、ここからその姿は見えない。二階へ続く階段にそびえた岩の塊を抜け、二階の廊下から調理室のほうを覗くと、すぐそこにこちらに背を向けている悪魔がいた。
廊下のまんなかで人間の上着を拾いあげている。脱がされたときには深手を負っていたのは明らかで、血が重く染み、白かったサツキの花模様が源平咲きに変わり果てていた。
「ヒホ……花はぐちゃぐちゃにしたらいかんホ。ティターニアが悲しむホ」手にした上着を引きずっていく悪魔の呟きは、アイトワラスには届かない。
彼は廊下に面した図書室の扉を開け、そのなかに上着を避難させた。なかから小さく息を飲む音がしたが、好奇心が校舎に向いているいまの彼にとってはどうでもよかった。閉めた扉が汚れる。てのひらを見ると、雪でできた肌が上着の血を吸ってすっかり赤くなっていた。赤くなった層が削れるまで扉になすりつけてから、凍った息でよく吹いておく。霜の精ジャックフロストだ。彼が入ってきた非常口の扉はすっかり凍りついている。
(あ、あ、あっ……)
アイトワラスはすぐには動けなかった。子どものような体格、青い頭、帽子のツノ。殺した人間の痕跡を消す狡猾さ。
(皆殺しの悪魔!)
一階から上がってきたマナナンガルが硬直しているアイトワラスをみつけて怪訝な顔をした。正面玄関にいた、体が上下にわかれた悪魔の仲間だ。さっきまで下でオニと一緒にいたが、マナナンガルが人間の血をとっくに吸いつくしているというのに、オニがいつまでも自分の獲物をいたぶっているので時間がもったいなくなった。何度も転がされて汚くなった人間をオニから奪うより、新しい人間をいちから恐怖に突き落とすほうが好みに合っている。
今度彼女の前に現れた悪魔は小さいが、なかなかすばしっこそうだ。
「ねえ、一緒に人間を捕まえましょうよ。もう数がいないのよ。協力してくれたら……そうね、あなたの体は小さいけど、ちゃんと半分あげるわ。上でも下でも選んでいい。その代わりおなかに赤ん坊が入っていたら必ず私のよ」
さっき食べた胎児を思い出すとよだれがしたたりそうになる。彼女にとって若い人間ばかりのここは可能性に満ちていた。
アイトワラスはジャックフロストから目を離さずに小声で言った。
「姐さん、まずいんだ。オイラのねぐらの周りでも、近くの街でも、あそこにいる悪魔が暴れて、手当たり次第に殺しまわった。目をつけられたやつは全滅さ。オイラも生まれてからそんなに経ってない。そっちに降りたら逃げられるかい?」
マナナンガルは静かに階段を上がりきり、アイトワラスの隣に下半身を座りこませた。
「あの坊や、そんなに溜めこんでるの? 見かけによらないのね。いいわあ……わたしがもらってあげる。ああ、下には大岩があるからだめよ」
「よせって!」
「ねえ、そこの坊や……」
アイトワラスは一階に向かって逃げだした。
(あーもう、人間界に来てる。食べものの匂いがする部屋はあっちだってのに!)
一階の廊下を矢のように飛ぶ。オニの足元で身を縮める人間に一瞬だけ影を落として、岩壁を減速せずにすり抜けた。オバリヨンの話を聞くかぎり、マナナンガルひとりで勝てる相手だとは思えない。こうなったら彼女を足止めに利用して、先に正面玄関脇の部屋を調べたかった。
正面玄関の内側に天使の姿はない。外には一人。人間を生かしてそばに置いている。あれならすぐには動けない。アイトワラスはあたりを見回して人間に似た姿の悪魔を探した。
「なあ、そこの二刀流の兄さん」
「あ? なんだァ、チビ」刀身に乗った天使の頭を振り落として、マガツヒの赤い光を背にしたラクシャーサが振り向いた。
「怖い顔すんない。あの部屋から物音がしたから教えてやろうと思ってさ。オイラには手がないだろ。だから開けちゃいないけど、ひょっとしたらまだ人間が隠れてるかもしれないぜ」
「怪しいな、オレに教えた理由をちゃんと言いな」
「だから手がさ」
「ちがうね」
薄い刃がアイトワラスに向けられる。
「……兄さんには敵わないよ。あっと、斬らないでおくれ。オイラはアイトワラス、人間の食いものに興味があるだけのしがない悪魔さ。あのなかを確かめたいだけなんだ、本当だよ。音がしたのも本当」
なかで音を立てていたのは業務用の冷蔵庫と冷凍ケースで、アイトワラスが冷凍ケースの窓を覗くと、寒い季節のことだから、底のほうに定番商品のアイスがいくつか冷えているだけだった。
「スカだな」
一人と一羽は冷蔵庫のなかに人間が隠れられないことを確かめた。
「そうらしいや」
彼は茹でられて半分に切られた卵を見つけ、透明な蓋越しに翼で撫でた。机の上には弁当のほかにパンが並んでいる。そのうちのひとつを咥えて引き出した。
「兄さん、面倒かけたね、これでもつまんでみてくれよ。ちょっと人間の指みたいだろ。味もきっと兄さん好みだ。酒好きだろ、ちがうかい?」
「あのなあ、オレもほかのヤツも人間の魂狙いで来てんだよ」
ラクシャーサは刀を机に軽く刺しておいて、爪の先で袋を裂いた。肉の塊以外は下に落ちて軽い音を立てた。
「ぼちぼちだな」
「食いものに火を通すってのは人間の最大の発明だってオイラ思うんだ」アイトワラスは机の上にとまって、指についた脂を舐めていたラクシャーサの様子を窺うように一歩近づいた。「あのさ、実はもう一ヶ所気になる部屋があってさ」
「行かねえぞ」
「聞いておくれよー。音がしたわけじゃないけどさ、人間の食いものの匂いがするんだ。人間だって逃げまわれば腹が減るだろ? こっちにいなきゃあっちにいるんじゃないかと思うんだ、思うんだけど……」
「あ? 聞いてやってんだぞ。言うなら最後まで言え」
「皆殺しの悪魔がうろついてるんだよぉ」
机の刀が手に取られる。
「……へえ。どんなヤツだよ」
アイトワラスの説明を聞いて、ラクシャーサはげたげた笑った。
「ソイツ見たぜ。天使の仲間だ。人間に化けてたオレにてんで気がつかねえで、助けに来たなんて言ってどっか行きやがった。助けねえのかよってな。あんな鼻の利かねえ野郎が? ま、天使に媚売ってチビどもを皆殺しなんざいかにも三下がやりそうなこった。どこにいるって?」
「兄さん!」
「誤解すんな。そんなに悪魔を殺せるってんなら、ソイツの通ったあとには助けられた人間が間抜け面で喜んでるんじゃねえか? オレはそいつらに用があるのよ」
ラクシャーサは体が大きく、岩の塊を抜けられない。一人と一羽は長い廊下を歩いていった。窓ガラスはどこも割れ放題で、特に図体の大きなツチグモの痕跡が目立った。壁の高いところまで巨大な爪が深い溝をつけているのを目で追っていくと、あるところでぱったりと途絶えている。床にも続きがないのを見れば、どうやらここで一悶着あったらしかった。
教室の床が血でぬめっている。人間をいたぶる癖のある悪魔に捕まった人間はまだ息があった。恐怖で体が動かない者はまだその怯えた表情で悪魔を楽しませることができるかもしれない。抗う姿で悪魔を興がらせた者は、体力を失うとともに面白味が欠けていく。長くはない。扉の裏や、ときには教室の中央で、人間は悪魔に屈服していた。
階段を上がり、二階に出る。アイトワラスは廊下に出るや否やラクシャーサを盾にした。廊下の先で皆殺しの悪魔が笑っている。貼りつけたような笑みだった。白い体が薄ぼんやりと光って見えた。
「移動してるかもしれねえだろが。ダセェことすんなよ」
「かもしれないって? 兄さんはオイラたちより目が悪いんだ。この先にいるよ」
「……はァ? もしかしてアイツのことか? オレが見たヤツと違うぞ」
「じゃあそっちがにせものだよ、だってあの悪魔を追いかけてった姐さんがいないじゃんか」
「ビビりやがって。オイ! そこのテメエ!」
「ヒホ?」
ジャックフロストの足元が軋んだ音を立てる。雪だるま状の体を支える二本の脚は太かった。先ほど血に染まっていた大きな手がいまは無垢なまでに白いのを見ると、アイトワラスは肩のあたりが落ち着かなくなった。ラクシャーサは爪先に霜の精の冷気が触れる距離まで近づいた。間合いに入らない程度には警戒している。
「テメエ、さっき追っかけられてたろ? アイツに用があんだよ。どっち行った?」
悪魔は自分が追いかけられたときに凍らせた廊下をしばらく振り返って目許を困らせた。
「ヒホホ……死んだんだホ。用事があったとはお気の毒だホ」
緊張が走った。ラクシャーサは気取られまいとすぐに返事をした。
「なんだ、そんならいいさ。野暮用でよ。へーえ死んだのか。アイツ、そこそこのヤツだと思ってたけどよ、どうやって殺した?」
戦術の一部でも聞き出せれば御の字、目論見を見透かされれば戦闘になる。片足で床を確かめた。蹴りこんだほうが速度が出る。冷たい床だ。背負うように構えた刃で促すと、アイトワラスも翼で隠した炎を大きくした。ラクシャーサが押されるようならすぐに逃げるつもりだった。
「ヒホッ? オイラじゃないホー! 通りがかりの悪魔が助けてくれたんだホ……じゃなくて、殺しちゃったんだホー。オイラたちヘイワシュギなんだホ」
「……どんなヤツだ?」
「髪の長い見たことない悪魔だホー。ほかの悪魔とつるんでたホ」
「ああ。知ってるヤツだ。青い髪だったろ」
「友達かホ?」
「いいや」
アイトワラスがそろそろと近づいてきて、ラクシャーサに刀の柄でこづかれた。ジャックフロストは額をぬぐう。
「キミってなんだかとっても熱いんだホ。もうちょっと離れてほしいんだホ」
じぐざぐのしっぽから水滴が垂れて、地面で薄い氷となった。アイトワラスが飛びのくと、ジャックフロストは冷気を吐き出しながら天井を仰いだ。
「こりゃ無駄足になりそうだな。行くぞチビ。そいつの冷気で扉が張りついてやがる。ぶち破ったら呼んでもねえバカが来るかもしれねえ。炙れ」
熱を持った扉を開けるとかすかに甘い匂いがした。背後のジャックフロストが指を咥える。生徒たちは今日、ケーキを焼くはずだった。冷蔵庫では担当教諭が見本に焼いたケーキが冷えている。
その部屋には掃除が行き届いた銀色の調理台が並んでいた。アイトワラスがもの珍しげに見渡しているあいだに、ラクシャーサは通路に誰も隠れていないことを確認して回り、ずかずかと奥の準備室に入っていった。
ラクシャーサの刃が床に落ちて音を立て、若い男女の悲鳴がくぐもる。アイトワラスが駆けつけてみれば、ラクシャーサが左右の手でそれぞれ人間の顎を掴んでいた。彼らの足の先は地面から離れそうになっていて、興奮した羅刹の赤い前腕を必死で掴んでもがいている。まったく無駄な試みだった。
「おいおい、新品のつがいときた。チビの与太話なんざ信じちゃいなかったけどよ、大当たりじゃねえか!」
「落ち着きなよ。人間には息をさせてやらなきゃ死んじゃうぜ」
見渡した限りではこの部屋にも卵はない。入り口の裏で残された希望が低い音を立てている。誰も扉を開けてくれそうにはないので、アイトワラスは左右の足を突っ張って、自分でなんとかしなければならなかった。翼を暴れさせて、脚をくじきそうになりながら、二度、三度と踏んばった。炎が触れた扉の表面から食欲を削ぐ異臭が漂う。
そしてついに扉が浮いた。素晴らしい光景だ。内部を控えめに照らす照明の下に鶏たちの卵が現れた。十個ずつに分けられて、薄くて硬い透明な箱に詰められている。魔界で見た容器と同じだ。バターまである。
「……オイラって本当に魂が足りてないのかな。この丸い卵がアイトワラスの魂じゃないなんてさあ、そんなわけないだろ」
「本気で言ってそうだなオマエ。ま、オレも魂がどうとか、コイツらを見ててもピンと来ねえ。とりあえず殺しとけば損はねえんだからいいけどな」
人間たちの目が潤む。
アイトワラスはラクシャーサが二人も人間を手に入れたのを見て、容器の端をくちばしでこじ開けるのをやめた。卵二個では少ないような気がした。じっと人間を見る。
「なあなあ。遊び始める前にさ、ちょっといいかい」
「ギリギリな。オレはいま機嫌がいい。次はねえぞ。で、どうした、ほしくなったか? 手柄は認めてやるよ。でもオマエ、チビだからなあ。小指くらいにしとけ。腹壊すぞ」
二人を座らせ、刀の腹を這わせて遊んでいたラクシャーサが、ふと女子生徒の手に目を留めた。整えられた楕円形の爪が薄桃色に色づいている。刀を脇に置いてその手を引き寄せると不自然な照りがあった。唾をつけた指先でこすってみたが取れそうにない。
「女の爪は喰えねえなコレ。変な爪紅がついてやがる。なあ、好みもあるけどよ、女のほうが骨も細いからチビには喰いやすいぜ。爪剥がしてやるから喰ってみな」
「待って待って待って。オイラ人間が着てる服がほしいんだ。布でつつめば卵をもっと持って帰れるだろ。血がつく前に頼むよ」
「おっ、いいねえ。欲はかけるときにかいとけ。聞こえてただろ、赤ん坊じゃねえんだ、とっとと脱ぐんだよ」
躊躇うことも許されず、目を伏せて互いを見ないようにする姿が悪魔の刃に映っていた。命令されるままに這いつくばって床に服を広げる裸の二人を見ていると、アイトワラスはこんな生き物が鶏を閉じこめて管理していることが不思議に思えてきた。寒い季節だったから人間は全身に鳥肌を立てていた。むしられる羽も持たず、剥がされる鱗も持たず、二十のやわらかい爪があるきりだ。世界中の鶏が一度に反乱を起こしたら、本当に人間よりも弱いのか疑わしかった。
「これにするよ」
男子生徒の襟つきのシャツを翼で示した。大きくて軽くて丈夫そうだった。自分で卵の容器を包もうともたついていると、男子生徒が突き飛ばされてきて、布の隅と隅を結んだ。彼は、かつて自分が弁当箱の包みを結んだ手を思い出していた。
「なんで人間てさ、こんな格好なんだろ。ほら、牙とか、鱗とかさ」
「食べやすくていいよな。あったけーし、柔らかいところも硬いところもいい塩梅であってよ。人間の形を決めたヤツがいるって本当か? 正気でこんなすぐに死に絶えそうなもんを世に放つかよ。オレぁ一回くらい礼を言ってやってもいいぜ」
「え、でも、それってさ……」
話した拍子にくちばしで挟んでいた骨が折れてしまった。
開け放したままの冷蔵庫から冷気が床に流れている。奥から取り出したバターの箱を布包みに挿して、結び合わせた袖に頭を通したアイトワラスはその場で何度か跳ねてみた。結び目はしっかりしている。さっき急に周囲の空気が濃くなった。どこかに魔界と繋がる大穴が開いている。引き上げ時だ。
ラクシャーサに魔石を持っていないか尋ねたが、断られてしまった。きれいにしゃぶられた骨が飛んできた。
「欲をかけとは言ったが、目が眩んでんなら煩悩ごとたたっ斬るぞ。魔石じゃ割れた卵は元に戻らねえ。よく考えろチビ」
(ひとつ、まだ誰かが通りかかるのを待ってる。ひとつ、魔石が手に入ったからもういない。ひとつ、死んだからもういない。……オイラは卵を十個持ってる。全員がオムレツを作れる数だよ。バターは? バターが融ける気温じゃない。だけど、オイラのしっぽの火は消せない。バターと卵があるから、あの熱い岩ももうくぐれない)
「……オイラ、帰るよ」
誰も振り向かなかった。
アイトワラスが提げた包みに気がついたジャックフロストが、よく見ようと身を乗り出したとき、準備室のなかでラクシャーサが悪態をついた。
「くそ! もうマガツヒになりやがった!」
(きれいに食べたほうだと思うけどね)
食べものを大切にする悪魔には好感が持てた。礼だとわかる肉を断るにはこのアイトワラスは食文化を大切にしすぎていて、ほかの悪魔の好物を知れば舌の肥やしになると頭のなかで唱え、骨を残してきれいに食べた。言われたとおり、男子生徒の骨はいくぶん太かった。
ラクシャーサは裸になった女子生徒を見て思いなおしたように、連れ帰って腹を膨らませてみると言った。肉づきの悪い人間だった。それで男子生徒のほうを食べたのだが、あの羅刹が何を振る舞うつもりなのか、アイトワラスには皆目見当がつかず、まさか人肉ではあるまいしと首をひねった。
(卵も太らせてから食べられたらもっと楽なんだけどさ)
無人の教室で空間が割れている。彼は暗闇に飛びこみ、魔界に鶏の卵を持ちこんだ最初の悪魔となった。
ねぐらに帰るとなにも知らない二羽の新参者が羽ばたいていた。仲間の死を予想していなかったわけではない。むしろ自分のほかにまだ誰かが生き残っているとわかって驚いた。あの教室にもすぐに天使が網を張っただろう。人間界に取り残されているとしたら、帰ってくるかどうかあやしかった。フライパンを置いていったから戻る努力はするだろうが、当面は人間のフライパンでオムレツを焼いて過ごす気になっているかもしれない。彼自身、あの豊富な卵を見て、人間界で暮らすのも悪くないと思っていた。
生意気そうな顔をした後輩が翼を体の前で組んで胸を張った。
「キミ。ここはオイラたちの縄張りだぜ」
首から包みを外すのに苦戦して足先を使いながら、アイトワラスは言った。
「オイラもだよ」
二羽は納得がいかない顔をしている。
「留守にしてたんだ。ほらこいつがオイラのフライパン。別に信じなくってもオイラ気にしないよ。信じなくったってさ、もうすぐキミたちのくちばしはオイラが正しいって言うために開くんだぜ」
布包みが裂かれる。十個の卵は無事だった。バターのほうも少し柔らかくなっているだけだ。
「なあキミ、それってまさか鶏の卵かい!」
「キミは人間界帰りってわけ? 信じられないや。ええっと、悪かったよ。オイラたち慎重派なんだ。最近なにかと物騒だからさ。わかってくれよな」
「ああ、わかるよ」
卵が包みなおされるのを見て、二羽は控えめに声をかけることにした。咎めたように聞こえないよう注意を払う。卵を持つなら王様だ。
「いまはまだ焼かないのかい」
「立派な大きな卵だったよ。きっと新鮮なんだろ?」
王様は空を見ている。
「オイラたちにはあと一羽、仲間がいるんだぜ。あの月、もうすぐきっかり半分になる。それまでだけオイラは待ちたいんだ。フライパンの手入れでもしててくれよ」
二羽がフライパンをみがき終わって、当たり障りのないお悔やみの言葉を考えていると、荒っぽい羽ばたきが聞こえてきた。
天使の人間殺しに機嫌を悪くして飛び去ったアイトワラスだった。口に小さな箱を咥えている。
待っていたほうのアイトワラスは嬉しかったのに、あまり喜ぶといなくなった二羽のことが懐かしくなってしまう気がして、わざと平然とした調子で言った。
「いいときに帰ってきたね。そろそろオムレツを焼こうと思っててさ。キミの分の卵とバターもあるんだぜ。四羽分だろ、重くて苦労したよ」
「オイラたちだけってわけかい」
「……いいほうだろ?」
「そうかもね。じゃ、キミが笑ってくれよな」
アイトワラスが持ち帰った卵は一つだけだった。小さく作ったあの透明な容器に入っている。初めはオムレツにするには卵が足りなくてひねくれているのかと思ったが、容器をこじ開けるとどうもおかしい。彼が持ち帰ったのは生卵ではなかった。
「なーにやってんのさ。半端に熱が入っちゃってるよ」
「オイラじゃない。途中で揺れがおかしくて気がついたんだ。容器がこれだろ。思いこんだまま人間界を出ちゃったわけ」
その身を案じていたのに、肩を落として自嘲気味にあれこれ話しかけてくる様子がおかしくて笑ってしまった。
「元気だせよ。続きはオムレツをつっついてからでも遅くないぜ」
準備は整っていた。塩と胡椒が取り出される。並べられた皿は白く、先ほど改めて生まれたてのアイトワラスの翼できれいに拭きあげられたばかりだった。
各々の力作を囲んで四羽はすっかり仲良くなった。食後には講評の時間が取られ、皆もう一度オムレツを焼きたくなった。そこからは後輩にせがまれるままに、二羽が喋り疲れるまで人間界の話をした。彼らが特に気に入ったのは、天使の欺瞞に腹を立てたアイトワラスが、道行く若者の尻から財布を掠めとって、卵を盗った店に置いてきたというくだりだった。
「高値で買ったってわけさ。店主と卵に対して実に誠実にね」
何度も笑っているうちに彼らは眠たくなってきた。魔界にめんどりを連れてこられたら最高だけれど、大きいし、餌もないよ、そうやかましかったくちばしも、崖の上の安全な場所で一羽、また一羽と静かになり、やがて小さな寝息がしっぽの先の炎を揺らすばかりになった。