あなたを綴るはなし【×月×日 そろそろ新しいクラスにも慣れてきた。生徒会は四月で人が入れ替わるわけじゃないから気が楽。ボーダーも忙しくてやりがいがあるけど、両立するのはちょっと大変なときもある。蔵内先輩はすごいなって思う。】
ぱたん、と音をたてて閉じられた分厚い日記帳は、父から譲ってもらった思い入れのある品物だ。
綾辻遥は机の上の文房具を片付けて、ふう、と一息ついた。
寝る前にその日あったことを書き留めるのは、彼女の習慣だ。ボーダーであったこと、学校であったこと、いつもと違うできごとや、いろいろな人のこと、思い付くままに綴って記憶の整理をする。
──シュークリームをおすそわけしてもらったから、明日はおかえしを持っていかなくちゃ。ついでに隊室で食べるおやつも買おう。生徒会の予定はどうなってたかな。
──そうだ、会長のようすが気になったんだった。蔵内先輩はいつも落ち着いたひとだけど、今日はちょっぴり元気がなかったような……。どうしたんだろう。先輩はたしか、午前中に防衛任務で、そのあと学校に来てたはず。ボーダーでなにかあったのかな? もし明日も元気なかったら、さりげなく訊いてみましょう。
【×月×日 蔵内先輩はお付き合いしてる人とケンカをしたみたい。…私のせいかも?】
なんだかお元気ないですね、どうしたんですか。
生徒会室でふたりきりになったタイミング。できるだけ軽く、なんでもない調子で訊いたつもりだったけれど、それを聞いた蔵内先輩がめずらしく渋い顔をしたので(蔵内先輩の表情は滅多に変わらなくて、いつもだいたい微笑んでる)、私はちょっとびっくりする。それこそ、顔には出さないけど。
「なんでもないよ」
「……私、なにか悪いことを聞いちゃいましたか? だとしたら、ごめんなさい」
一拍置いてそんな答えが返ってきたので、私は素直にそう言った。蔵内先輩はこんなにわかりやすい「ごまかし」をするひとじゃないはずだから、よっぽどのことだと思ったのだ。
先輩はすこし困った顔をして、それから口角をちょっと上げた。たいしたことじゃないんだが、と笑う。
「ちょっとな。……友達を怒らせてしまったというか、悲しませてしまったというか……どうしたらいいか、すこしだけ考えてたんだ」
「会長でもそんなことあるんですね」
「もちろん、あるよ」
けっこう本気でそう言ったのだけれど、先輩は冗談だと思ったのか、今度は目を細めて笑った。
「よかったら、お話聞いてもいいですか。私にも、なにか力になれることがあるかも」
「綾辻は本当に頼りになるな。そうだな……」
このひとはてらいなくそういうことを言う。でも、上から目線のようにも下心があるようにも感じないのは、蔵内先輩の人徳だなあ……と、私は思う。その辺りはすこし嵐山さんに似ていて、安心する。
先輩はしばらく首を傾げて考えたあと、ためらいがちな様子で口を開いた。
「……最近、変な噂をされてるだろう?」
「もしかして、私と会長が付き合ってる、っていう」
「うん、それだ。……友達に相談したら、ちゃんと否定しなよ、って怒られてしまって……心配をかけたんだと思うんだが」
新年度になってからひそかに囁かれている噂は、実にありふれたしょうもないものだ。
──会長と副会長、付き合ってるらしい。
私たち本人からしてみれば誤りでしかないそれは、だけどなぜだか妙な説得力をもって学校に広まっている。──支持を集めている、といったほうが、正しいのかもしれない。「でも、本当かと思っちゃった」「もし本当に付き合ってたらお似合いだと思って……」そんなふうに面と向かって言われたこともあるそれは、いい加減はっきり否定をしておきたいな、と思っているものだった。
「怒られちゃったんですか?」
「ああ、あいつがあんな言いかたをするのはめずらしいんだけどなあ……」
ほんとうに困った様子でそうため息を吐くので、あ、と私は気がついた。
これはたぶん、蔵内先輩の──お付き合いしているお相手のひとのはなしだ。
先輩には、恋人さんがいる。先輩自身はそれを明かしてはいないのだけれど、恋人としての話をするときはわざわざ名前を伏せて友達と呼ぶし、そしてなによりずいぶん気をゆるしている様子なので、お相手の話をしているんだということがとってもわかりやすい。たぶん、蔵内先輩と仲のいい先輩方は、お相手がだれなのか知っているんじゃないかな。神田先輩とか、あと、ボーダーなら王子先輩とか。もしかしたらその先輩方の中に、お相手ご本人がいるかもしれないし。
とにかく、先輩にはお付き合いしている人がいて、私はそれを知っているけれど、先輩は「私が知っているということ」を知らない。なので、私はちょっと迷ったあと、でもやっぱり正直に言った。
「……やきもち、じゃありませんか?」
「えっ」
「噂が流れるくらい近い関係だと思って、構ってほしくなっちゃった、とか」
「……」
そうだったらかわいいな、なんて思っただけなのだけれど。おそるおそる、といった様子で、先輩はこちらを見てくる。
「やっぱり、そう思うか?」
「……ええ。かわいいお友達ですね」
蔵内先輩自身も、そう思ってたみたいだった。それはちょっとお相手さんに──愛されている自信がありすぎるんじゃないかしら、なんて思いながら、私は話題を噂のことに移す。この藪は、つついたら蛇が出てきそうだから。
「噂のこと、そろそろはっきり否定しておきたいですね」
「そうだな……。ただ、否定しても信じてもらえなかったり、するからな……」
「あ、それなら」
うーん、と考え込んだ先輩に、私は提案する。
「会長さえお嫌でなければ、こういうのはどうですか」
嵐山隊は後方部隊で、口さがない不特定多数の人を相手にしなくちゃいけないことも多々ある。
私が蔵内先輩に伝えたのは、根付さんに教わった手段のひとつだった。
【×月×日 噂の対処はうまくいったと思う。よかった!蔵内先輩はお付き合いしてる人と仲直りできたみたい。 でも、】
「生徒会長と副会長は交際をしているのでしょうか。学内で噂になっています」
その質問が出たとき、体育館内はにわかにどよめきを見せた。なんだろうこの質問は、と、だれもが思ったことでしょう。私はちらりと先輩を見る。
私もそうだけれど、蔵内先輩も、この質問に驚いたりはしなかった。それは当然のことで、いまの質問はまるでこの場――生徒総会に相応しくもない、質問者が思い付きで言ったかのような内容だけれども、実はきちんと用意された質疑応答のひとつだった。
これが根付さんに教えてもらったやりかたのひとつ。
噂は、あくまで「噂」の段階だから、否定することも反論することも難しくなってしまう。だから、あえて直接質問されるように仕向けて、真っ向からきちんと否定する。──仕向けて、なんていうのはさらに難しいことなので、所謂サクラを仕込んだりする。ボーダーが会見をするとき、仕込みの記者さんがいるのとおなじ。いましがた質問をした子は、私の友達の後輩だ。
ざわめきをものともせず、蔵内先輩は演台の前に立ち、落ち着いた様子でマイクスタンドの長さを調整して、応じた。
「交際は、していません。私にとって副会長、そして生徒会のみんなは、よき仲間であり、──また、よき友人でもあると思っております」
そんなふうに言われて、すこし胸のおくがむずむずする。先輩の言葉があんまりにまっすぐで、眩しいから。
嵐山さんがものすごーく公明正大なひとだから、私は普段からこういう物言いに慣れていると思っていたけれど、それが自分に向けられていると、やっぱり、すこし照れます。なんて思いながら、蔵内先輩の話を聴く。
「……また、校内で風紀を乱しているというのであればともかく、単なる好奇心から他者の交際に口出しをするのは、決して望ましいことではありません。だれとだれが付き合っている、なんて噂をすることが品のよいことかどうか、皆さんならわかると思います。節度をもって、学校生活を送りましょう」
やさしくてしっかりした蔵内先輩にしてはすこし手厳しい言葉。体育館に座っている生徒のうち、何割かがぎょっとしたのが、手に取るようにわかった。これ以上くだらない噂はやめましょう、と、釘を刺したのだということがはっきりと伝わったようで、安心する。
「──会長」
生徒総会が終わって。
教室へともどっていく一般生徒の列を眺めながら、私はそっと先輩に話しかけた。蔵内先輩は視線だけをこちらにくれて、なんだ、と聞く。
「昨日、お友達とは、どうだったんですか?」
「ああ、それなら」
にこ、と──こんな笑顔で答える時点で、先輩の答えはもう、わかっていた。
「ちゃんとわかってもらえたよ。さっきの答弁、実はすこしその友達が考えたんだ。綾辻のおかげだ、ありがとう」
「いいえ。よかったです!」
「うん、本当によかったよ。…………嫉妬してるのがかわいいだなんて、思っちゃいけないことだからな」
「……え?」
ぽつりと呟かれた言葉に、私はとっさに反応できなくて、首を傾げてしまった。
「え? あ──悪い、……忘れてくれ」
「……」
先輩は私が疑問符を浮かべたのを見て、なにかに気付いたように目をまるくした後、さっと視線を逸らした。
それがあまりにもめずらしくて、私はしばらく考え、──そして、気がついた。
蔵内先輩の悩みは──お付き合いしているお相手さんが怒ったこと、ではなく、お相手さんが怒ったのをかわいいと思ってしまったこと、だったのだ。
なんて──なんて、驕った! もちろん、先輩本人だって、それはわかっているんでしょうけど。
「ごめん、本当に、忘れてくれ……」
顔を手のひらで隠して恥じている、この殊勝な態度の先輩のこころの奥底に、まさかそんな俗っぽい感情があるだなんて、とっても意外なことだった。
それと同時に、理解する。蔵内先輩のそんなところを引き出すことのできるお相手さんは、きっととても、先輩にとってかけがえのないひとなのだ。
私はちょっとだけため息を吐いて、先輩の顔を覗き込むみたいにして、笑った。
「……会長でも、そんなこと、あるんですね」【×月×日 噂の対処はうまくいったと思う。よかった!蔵内先輩はお付き合いしてる人と仲直りできたみたい。 でも、先輩にも意外な一面があって、びっくりした。】