ARCANASPHERE13「ハルヒ!」
爆発と同時に軍施設へ向けて走り出そうとしたハルヒをクロノスが止める。
「行ってもお父さんはいない!」
「そんなのわかんねえだろ!」
「言っただろう!ゴザの町に生き残りはいなかった!」
「でもあんたは、父さんの死体を見たわけじゃねえだろ!」
ハルヒは自分の腕を掴むクロノスの手を払い除け、斜面を滑り降りた。
「ハルヒ!」
クロノスは振り返るが、まだカゲトラとナツキの姿は見えない。だが、ハルヒをひとりで敵地に向かわせるわけにもいかない。
「クソ……!」
いま話すべきことじゃなかった。だが、口から滑り出した言葉は取り返しがつかない。写真を見て動揺した自分を叱咤し、クロノスはハルヒを追って斜面を滑り降りた。
ハルヒは既にフェンスを乗り越えようとしている。有刺鉄線が見えないわけがないだろうに、とにかく焦っているハルヒをクロノスはフェンスから引き剥がす。
「邪魔すんな!」
「少し落ち着いてくれ!ナツキくんたちはどうするんだ!」
「おまえが残って、俺は中に入ったって言え!」
「きみだけを行かせるなんてそんなことできるわけがないだろう!」
「おまえには父さんを探すことは関係ないだろ!もう案内は必要ない!仲間のところへ帰ってさっさとマーテルへ逃げろよ!」
「きみがいなければ指輪だけあっても意味がない!」
クロノスはわかっていた。自分の名前が刻まれた大切な指輪を、マーテルの王子がどうでもいい人間に渡すはずがない。マーテルのへの亡命は、ハルヒがいてこそ成功する。ここでむざむざ死なせるわけにはいかない。
「ハルヒ。頼むから落ち着いてくれ。軍施設に入るなとは言わない。きみがここでお父さんを探すと言うのなら最後まで手伝う。だが、どうか慎重になってくれ」
弟のためにもと、クロノスは付け加えた。
滑り降りた斜面の上にはもう戻れない。何かナツキとカゲトラにメッセージを残せないか。少しは冷静さを取り戻したハルヒは、頭に巻いていたバンダナを外すと、フェンスに括り付けた。これできっと施設内に入ったのだと気づいてもらえる。
「……それは大切なものなんじゃないのか?」
こんな時代だ。大切なものは、一度その身から離せば二度と取り戻すことはできない。ハルヒは無言のまま何も言わなかった。
■□■□■□
ようやくナツキの様子が落ち着いたのは、休憩してかなりの時間が経ってからだった。ひどい発作にはならずに済んだことにカゲトラは胸を撫で下ろしたが、ナツキは泣き出しそうな顔をしていた。
それはハルヒたちと別れてかなりの時間が経過したからだ。ハルヒは軍施設前で待っていると約束はしたが、本当に待っているかどうかは半々だ。元々ハルヒがナツキの同行を良くは思っていなかったことは、本人もよくわかっていた。
「僕ってだめだね……」
歩くことさえ他の人と同じにできない。早く歩こうとすれば、すぐに胸が苦しくなる。ハルヒが連れて行きたくない気持ちもわかる。自己嫌悪でナツキの目には涙が浮かぶ。
「フィヨドルはスタフィルスと近いから風に砂が舞う。そのせいもある。だからそんなに気にするな。マーテルではあんなに元気だったじゃないか」
確かに、カゲトラの言う通り、ナツキはマーテルではほとんど発作を起こさなかった。
カゲトラとしても、ナツキを連れてきたくはなかった。だが、ハインリヒの死で思い知ったこともある。いつまでも子供たちのそばにはいられるなんて保証はない。ずっと守ってやるつもりでいても、突然の別れはくるかもしれない。
いま、ハルヒとナツキがアキラのことを知りたいと思うのなら、それに力を貸し、できる限り守る。カゲトラはそう心に決めてフィヨドルへやってきた。おそらく、アキラはもう生きてはいないだろうと思いながらも。
「そろそろ行けると思う」
深呼吸をしてナツキは立ち上がった。地響きのようなものを感じたのはその直後だった。震える枯れ葉が鳴らす音に顔を見合わせたカゲトラとナツキはハルヒたちの後を追った。
■□■□■□
軍施設に侵入したハルヒの目的はヴィルヒムだった。
以前、スタフィルスで研究施設に捕まったとき、ハルヒは初めてヴィルヒムと会った。そのとき、彼は父親のことはアキラに聞けばいいとハルヒに教えた。
だが、アキはアキラのことは知らないと答えた。
(知ってたんだ……)
ハルヒは強く拳を握り締める。
(クサナギは知ってて、俺に黙ってた……。言わなかった)
ハルヒは本気で父親の行方を知りたかったのに、アキは平気な顔をして嘘をついた。知らないと言い捨てた。
「ハルヒ。大丈夫か?」
頭の中で、遠ざかっていくアキの背中を見ていたハルヒは、クロノスの呼びかけで我に返ると頷いた。そして、混乱している軍施設内に目をやる。
慌てふためく兵士たちの会話を盗み聞いた限り、どうやら爆発が起こったらしい。不始末が起こした事故か、それともアメストリアの仕業か、原因は不明だ。だが、可能性としては前者が濃厚だろう。アメストリア軍が動いたのなら、国境線で動きがありそうなものだが、そこは静かなものだった。
軍施設内でゴタついているのなら、それはハルヒにとっては好機だった。
「行くぞ」
ハルヒはクロノスにそう言って、軍施設へ足を踏み込んだ。元はフィヨドル軍が所有する施設だったため、施設内の地図はクロノスの頭の中に入っていた。
クロノスはヴィルヒムを知らなかったが、要人が使いそうな部屋は把握していたため、そこを目指して先行する。
自分が死んでも、ハルヒを死なせるわけにはいかない。逆に、ハルヒとキュラトスの指輪があれば、自分はいなくてもラウルとロクサネはマーテルへ亡命できる。そのためには早くヴィルヒムを見つけなければならない。
クロノスが改めて自分の中で目的を確認すると、通路の向こうに見えていた扉が吹き飛んだ。中から炎がほとばしり、また爆発かと思ったクロノスがハルヒを下げようとしたとき、ヌッと黒獅子の軍服を着た男が室内から出てくる。
「……!」
炎を身に纏ったその姿に言葉を失ったクロノスの背後で、ハルヒも自分の目を疑った。それはルシウスだった。
「なんであいつが……!」
この爆発は、黒獅子軍の失態でも、アメストリアの攻撃でもない。ルシウスが原因だとハルヒの中で答えが出る。
「どこに隠れた、ステファンブルグッ!!」
ルシウスは怒鳴り散らし、その手から炎を放つ。見る間に軍施設は燃え上がっていく。
「冗談だろ……っ」
ルシウスの狙いもヴィルヒムだ。あの様子では、ルシウスはヴィルヒムを見つけたら問答無用で焼き殺すだろう。ルシウスよりも早くヴィルヒムを探し出さなければならない。ヴィルヒムが死ねば最後、もうアキラのことは聞けなくなる。それは間違いなかった。
■□■□■□
フェンスに巻き付けてあったハルヒのバンダナの意味を汲み取ったナツキとカゲトラは、ハルヒたちの後を追って施設内に入った。だが、その頃にはすでに施設内は火が回っていて、中に入るなり煙を吸い込んだナツキは激しくむせ込んだ。
「ナツキ!」
せっかく落ち着いていた呼吸が乱され、喉の奥でゼロゼロと嫌な音が鳴り出す。とても進める状態ではないと判断したカゲトラは、すぐにナツキを抱えてフェンスまで戻った。
ナツキはヒューヒューと風穴が胸に開いたような音を鳴らしている。いつ発作を起こしてもおかしくない。
ハルヒはクロノスと一緒だろう。フィヨドル人の亡命を望んでいるクロノスにとって、キュラトスの指輪を持っていたハルヒは特別な存在だ。
(あの男ならば、ハルヒを見捨てて逃げはしない……。いまはナツキを安全な場所に……!)
煙は風に流れてスタフィルス方面へ向かっている。風向きから考えて、森の中にいれば煙に巻かれることはないだろう。
ナツキを森へ連れて行こうとしたカゲトラは、軍施設前に乗り付けた軍用車に気づく。フェンスにぶつかりかけて停止した車から降りてきたのはココレットだった。
いまごろ、ココレットはマーテルへ向かう船に乗っているはずのだ。それなのに、彼女はカゲトラたちには気づかずに、炎に巻かれた軍施設の中へ入っていく。
「トラ……ッ」
同じく、ココレットの姿を目撃したナツキがカゲトラの腕を掴む。
「僕は大丈夫だから……っ」
ココレットを追いかけてくれ。冷や汗を流しながら、苦しい息の合間にナツキは懇願する。
カゲトラが自分のことよりも優先するのはハルヒとナツキだ。だが、ココレットを放っておくわけにはいかないし、彼女がここにいるということは、マーテルへ亡命するはずだったフィヨドル人に何かがあったと言うことだ。
「森の中なら風上になる。そこで隠れているんだぞ」
「わかった……っ、コホコホッ」
咳き込むナツキの背中をさすり、カゲトラは軍施設内へ駆け込んでいった。
軍施設からは次々と兵士が逃げ出している。彼らはカゲトラとすれ違っても、それを気にする余裕もないようだった。
カゲトラを見送ったナツキは、言われた通り風上へ向かう。その手にはハルヒが置いていったバンダナが握られていた。
(姉ちゃん……)
ハルヒはきっと大丈夫だ。そう自分に言い聞かせて、滑り降りた斜面を見上げる。森の中に戻るためにはこの斜面をのぼるか、迂回して街道から入るしかない。
斜面をのぼることは諦め、ナツキは街道へ向かおうと足を向けたが、数歩で激しく咽せ込む。軍施設の煙はフェンスの外までも漏れ出していた。
カゲトラの言う通り、ナツキはマーテルでほとんど発作を起こさなかった。だが、少し無理をすればこのとおりだ。少しもこの身体は思い通りに動かない。
(森に戻らなきゃ―――)
フェンスに寄りかかりながら、ナツキはフラフラと歩く。
(お父さん……)
ふいに、懐かしい父親の顔が脳裏をよぎった。ハルヒと違い、ナツキにはアキラの記憶などほとんどなかった。ナツキの中で形成されているアキラは、家に残っていた唯一の家族写真と、ハルヒの話で聞いた父親の姿だ。
(僕の……お父さん)
ナツキがアキラを探す理由は、ハルヒが父親を求めるからという理由が大きかった。本人もそれに気づいていた。父親が見つかればきっとハルヒが喜ぶから。ナツキを突き動かす原動力はそのほとんどが姉のためだった。
「ねえ、大丈夫?」
フェンスに寄りかかって目を閉じていたナツキは、その声に瞼を震わせた。ぼやけた視界に自分を覗き込む、知らない顔が見える。それは黒髪の少女だった。
「ここはもう危険よ」
それを知らせる言葉は優しいはずなのに、少しも感情がこもっていないからなのか、ナツキの耳には機械的に聞こえた。
「……っつ、ひっ」
黒獅子の兵士には見えない少女がだれなのか、それを聞こうとしてナツキは息を詰まらせた。ついに発作が起こる。
(息が……!)
まともに息ができなくなると、血液の循環が悪くなり、手足が痺れて目の前の景色が涙に滲んで見えなくなる。明らかに呼吸がおかしくなったナツキに気づき、周囲を見回した。
バキバキと音を立てて扉が焼け落ちる。考えなしに暴れるルシウスのせいで、火の回りが早い。このままここに止まれば焼け死ぬことになるだろう。
少女はナツキの腕を自分の肩に回すと、その身体に風をまとった。
□◼︎□◼︎□◼︎
フィヨドルの軍施設はもう放棄する。
この場にいないゴッドバウムに代わり、ヴィルヒムはその判断を下した。ここまで破壊されてしまっては修復するのは難しく、そこまでする理由もない。いっそ、修復不可能なくらいに潰しておいてくれたほうが、アメストリアに渡る物資も少なくなると言えた。
「ドクター・ステファンブルグ。お急ぎください」
兵士に催促され、ヴィルヒムは研究資料を詰めた鞄を閉めて部屋を出た。そして緊急用の通路を進んで屋上へと出る。そこにはヘリが待機していた。
プロペラが激しく回転し、いつでも離陸可能な状態にあるヘリへ先行して兵士が向かう。それに続こうとしたヴィルヒムはピタリと足を止めた。次の瞬間、炎の直撃を食らったヘリは大爆発を起こした。
飛び散る破片から風で身を守り、ヴィルヒムはヘリポートの入口に立っている男を振り返った。
「これでもう逃げられまい……」
ルシウスは歪んだ笑みを浮かべた。
「あなたもしつこい方だ。大佐」
鞄を持ったまま肩をすくめるヴィルヒムは、少しも慌てた様子を見せない。風神の適合者である彼は、いざとなればヘリポートから飛び降りても死にはしない。風の能力は攻守に長け、逃げる手段としても万全だった。
「なぜそれほど私が憎いのですか?」
「……なんだと?」
「私としても、アスタエル少尉を不適合者にしたくはなかった。ですが彼女には資格がなかったのです。私やあなたのように神に愛されなかった。仕方のないことです」
「………」
「それに、瀕死の状態で運び込まれた少尉を助けるには、もはや神の力に頼るしかなかった。手術をしなければ彼女はどのみち助からなかった」
ルシウスは無言のまま両手に炎を宿し、放った炎はヴィルヒムへ真っ直ぐに向かっていく。その前に、大爆発を起こしたヘリの中から黒い影が飛び出した。それはヴィルヒムを庇い、ルシウスの炎をまともに受けた。
また仕損じた。噴煙に紛れて逃げられてたまるかと、ルシウスは白い煙の中を走る。その真横からヌッと黒い影が姿を見せる。迫ってくる拳を咄嗟に受け止めようとしたが、彼の身体は軽々と吹き飛ばされてヘリポートに転がった。
「……げっほッ!」
一瞬、呼吸が止まったルシウスはむせ込んで、その拳を受け止めたことを後悔する。まるで直に内臓を殴られたような衝撃だった。むせ込みながら、ルシウスは煙の晴れる先、ヴィルヒムの前に立っている人物に目をやり、その顔つきをさらに険しくした。
「……クリム?」
そこにいたのは、クリム・グレイスターだった。野心家の友人だった男の顔を見間違えるはずがない。だが、その腕は岩に覆われ、マーテルで目にしたチグサのように人の形を失っていた。性格の悪さがにじみ出ていた顔の表情は皆無で、開いているだけのその目がルシウスを認識しているとも思えない。
クリムは事故死したと噂で聞いていた。スタフィルスの内乱から逃げる途中でヘリが墜落したらしいと。
(生きていたのか。いや、生きているとは言えないか……)
目の前にいる男は、クリムの顔を一部残した別人だ。現に、クリムがルシウスのことを認識しているようには見えなかった。
「私が神の研究を始めてからかなり経ちますが、このところ由々しき事態に陥っていましてね。適合したのに、あなたのように逃げ出してしまう者が増えまして。それで、ちょっと脳のほうもいじってみることにしたんですよ」
「………」
「我がスタフィルス軍には従順な兵士が必要でしたので―――。以前と比べて、彼はどうですか?」
ルシウスは脇腹を押さえて立ち上がる。クリムは石神の適合者なのだろう。不意打ちだったとはいえ、たった一撃でルシウスの肋骨にはヒビが入っていた。
ルシウスは鼻で笑う。ヴィルヒムの話を聞いていると本当に頭がおかしくなりそうだ。いや、まだ正常だからこそ、おかしくなりそうなどと言えるのか。ルシウスにはわからなかった。自分が狂っているのか、そうでないのかさえ。ただひとつわかることは、ヴィルヒムを殺すにはクリムを沈黙させなければならないと言うことだけだ。
「では、捕獲といきましょうか」
クリムはヴィルヒムの命令に従い、一歩前へ出た。彼は軽口も叩かなければ、あのニヤけた表情も見せない。ただ人形のようにヴィルヒムに従うクリムだった男は、ルシウスに向かって突進した。
□◼︎□◼︎□◼︎
ココレットは屋上への階段を汗だくになりながら上っていた。すでに彼女の足はフラフラになっているが、手すりにつかまってなんとか重い足を持ち上げる。
ようやくその足が最上階へたどり着く。扉は開いていた。それにココレットが手をかけようとしたとき、勢いよくなにかが叩きつけられた。
ココレットは悲鳴を上げて身を竦ませる。そして自分の足元にあるその正体を確かめて、また悲鳴を上げた。それは炭化したクリムの死体だったが、ココレットにはそれが彼だとはわからなかった。
ガクガクと脚が震え、立っていられなくなったココレットは扉にしがみついたまま座り込む。その視線の先にはゼエゼエと肩で息をするルシウスの姿があった。
「お、にい、様……っ」
ヴィルヒムの手から風の刃が放たれる。顔を逸らしてそれを避け、ルシウスはその手に炎を握り締め、声の限りに叫びながらヴィルヒムに殴りかかる。一撃目でヴィルヒムの頬はごっそりと溶け、次の一撃で胸に大きな穴が開く。骨がドロドロに融解する。
炎がヴィルヒムの全身を包み込んだ。決着がついた瞬間だった。
「エルザの無念を思い知れ……!」
ルシウスはさらにヴィルヒムを殴りつける。ヘリポートから巨大な火柱が上がる。夜明け前の空は昼間のように明るく照らされていた。
ヴィルヒムはすでに事切れている。骨まで焼き尽くす炎により、もはやその死体は男女の判別すら難しくなっていた。それでもルシウスは攻撃をやめなかった。
「!」
ルシウスの首から頬にかけて血管が浮き上がっていく。それにココレットが気づいた。それは心臓から伸びてきた血管の膨張だった。ルシウスはリバウンドを起こしかけている。だが、それに構うことなく、ルシウスはヴィルヒムの死体を破壊し続けた。
「やめて……」
リバウンドを起こした適合者がどうなるか、話で聞いただけではあっても、ココレットは知っていた。
「お兄様!もうやめてくださいッ!」
ココレットの声はルシウスに届かない。彼は自分の命が尽きることがわかっていても、炎を放ち続けた。ヴィルヒム・ステファンブルグは死んだ。エルザの仇はとった。目的を達した彼には、もう何も残っていなかった。
「やめてええええッ!」
ココレットは声の限りに叫び、ルシウスの背中に抱きついた。ルシウスの目はようやく、自分の腰にしがみつく腕を見下ろす。
もうやめてにぃなん
(……そんな声が聞こえるはずはない)
大切なものはすべて失った。
(もう、私を引き止める声など、聞こえるはずはない……)
「……離せ」
ルシウスは掠れた声を漏らした。ピシピシとその頬がひび割れを起こす。
「離せッ!」
力任せに振り払われたココレットだったが、すぐにまたルシウスの脚にしがみついた。
「やめて!それ以上力を使ったら死んでしまいますッ!」
「私が死のうが生きようがおまえには関係ないッ!」
「関係ありますッ!」
ルシウスが大声を出せば、怯え、震えて泣き出す。そうだったはずのコレットがルシウスに言い返した。顔を向けたルシウスの目に映ったのは、強い光をたたえた目で自分を見上げるココレットの姿だった。
「あなたは私の兄ですッ!関係なくなんかないッ!」
「だ……、黙れッ!」
たかがココレットという存在に動揺している自分に気づき、ルシウスはさらに狼狽えた。
大切なものはすべて失った。なにもないからこそ自分は復讐者という存在になれた。エルザは死んだ、リジカも死んだ。ルシウスが生きるための糧となる、すべてのものは失われた。
「死んではだめです!エルザ様はそんなこと望まれていませんッ!」
「黙れと言っているッ!」
頭に血が上ったルシウスは、ココレットを突き飛ばして彼女に右手を向ける。炎を放てば、ココレットの顔面は焼け爛れる。外しようのない距離だった。だが、ココレットは逃げようとしない。
「……おまえに、エルザの何がわかる」
「………」
「彼女が、どんな死に方をしたかも、知らないくせに……」
クーデターが起こったスタフィルスでリジカを見つけたあと、すぐにエルザを探していれば。見つかるまで探していれば、彼女は死なずに済んだかも知れない。あんな姿にならずに済んだかも知れない。それよりも前に、彼女を一緒にアメンタリへ連れて行っていれば……。
「何も……知らないおまえに……」
エルザの笑顔が、ルシウスの目の前をよぎった。穏やかな顔、凛とした顔、気遣うような顔。不適合者としての最期の姿など記憶の隅に追いやられて、思い出の中の彼女の微笑みはいつまでも色褪せない。
ルシウスがガクリと膝を折ると、胸ポケットに入れてあった懐中時計が落ちた。ルシウスは無言のまま薄汚れたそれを拾い上げた。
懐中時計は、彼女の時間が途切れた時刻のまま止まっていた。ルシウスはそれを額に押し付けると、心臓を締め付ける痛みに襲われ、その場に倒れ込んだ。
「お兄様ッ!」
ドオン!と、近くで爆発が起こる。ココレットは倒れたまま動かないルシウスの頭をその胸に掻き抱いた。
ルシウスが広げた炎はあちこちに燃え広がり、もはや生半可な消化活動ではどうにもならないまでになっていた。このままでは炎に巻かれて命はない。
「……っ」
ココレットはルシウスの両脇を抱えて引きずろうとしたが、渾身の力を振り絞っても意識のないルシウスの身体は重く、ほとんど動かない。逃げ場を求めた煙がヘリポートへのぼってくる。ココレットはゴホゴホと咽せ込んだ。
「ココレット!」
カゲトラの声にココレットは顔を上げる。
ヘリポートへと駆け込んできたカゲトラは、ココレットのそばで倒れているルシウスにその顔をしかめた。この火事は十中八九ルシウスの仕業だ。その方程式を解くことは至極容易かった。
ココレットがなぜここにいるのか。ルシウスが何をしていたのか。ドロドロに溶けている死体がだれのものなのか。聞きたいことは山ほどあるが、ここで悠長に話している時間はない。
「来るんだ。ここはもう保たない」
「お兄様も……っ」
「な……」
マーテルから始まり、フィヨドルでもルシウスのやったことはめちゃくちゃだ。どうにもならないことだったとはいえ、ルシウスはハインリヒも殺している。ルシウスを連れて行くと言うことは、いつ爆発するかもわからない爆弾を抱え込むようなものだった。
「お願いします……っ」
「……!」
迷っている時間はそうはない。そして、ルシウスを連れていくことを承諾しなければ、ココレットはここを動きそうにない。
「……あぁ、クソ!」
火だるまにされないことを祈るしかない。覚悟を決めたカゲトラは、ルシウスの身体を肩に担ぎ上げた。
□◼︎□◼︎□◼︎
カラカラの唇を冷たい水が潤す。欲求に体は正直で、自然に口を開けて催促すると、誰かが口の中に水を含ませてくれる。水を一口飲むと、重くて開かなかった瞼がやっと開いた。
「………」
虚ろな意識のまま、視線だけを動かしてナツキは周囲の状況を確かめる。あたりは涼しく、炎の熱さも息苦しい煙の気配も感じなかった。
「もっと飲む?」
そう言ったのは、フェンスのそばで見た少女の姿があった。ナツキが頷くと、少女は少しずつナツキの口にボトルに入った水を流し込む。
(木……、葉っぱ……、風……)
辺りは腐葉土の森に囲まれていた。少し離れた場所から建物が崩れ落ちる音が聞こえてくる。ここは軍施設からもそんなに離れてはいないのだろう。
「助けてくれて……ありがとう……」
「大丈夫?」
ナツキは頷く。目が覚めるまで側にいてくれたのだ。少女の名前を聞こうとしたナツキは、大きく崩れ落ちた軍施設にびくりと肩を震わせた。
「ほとんど逃げ出してるわ。大丈夫よ」
少女はナツキに嘘をついた。そうしなければせっかく助けた命が無駄になるからだ。
「お父さん……」
「……施設の中にお父さんがいるの?」
「わかんないけど……、お父さん、スタフィルス軍の研究員なんだ」
「名前は?」
少女は聞いた。研究員はあらかた脱出したはずだが、知っている研究員なら後から安否を教えてやれる。そう思ったからだ。
「アキラ・シノノメ」
「………」
「知ってるの……?」」
「その研究員なら死んだわ」
「え……?」
ナツキはそう言った少女を見つめる。
「何年も前に、バルテゴの研究施設からナンバーズを逃がして、そのナンバーズに殺されたと聞いたわ」
「……うそ」
「実験体って……」
「B-101。アキ・クサナギ」
少女は淡々と、ヴィルヒムに聞かされた話をナツキに伝えた。
ガサガサと腐葉土を踏み分ける音に、だれかが近づいてくる気配を察知した少女は、別れの言葉を口にしてその場から立ち去ったが、ナツキには聞こえていなかった。
直後、そこへココレットと、ルシウスを担いだカゲトラが姿を見せる。
言ってあった通りにナツキは森へ避難していた。カゲトラはホッと胸を撫で下ろしたが、すぐにその様子がおかしいことに気づく。
「ナツキ。大丈夫か?」
顔や身体は煤で汚れているが、ナツキに大きな怪我は見当たらない。カゲトラは腰を曲げてナツキに目線を合わせようとするが、ナツキとは視線が合わない。
「ナツキ」
カゲトラが肩を掴んで揺すると、ようやくナツキの意識が現実に戻ってきた。どうしたんだというカゲトラに、ナツキはなんでもないと首を振った。
□◼︎□◼︎□◼︎
バラバラと音をたて、ヘリがフィヨドルの大地から飛び立っていく。前線にいる兵士を置き去りに、軍幹部たちは次々と船に乗り込み、用なしとなった軍施設から逃げ出していった。
その様子を空から見ていたアキは、ようやくヘリポートへ現れたヴィルヒムの姿を見つけ、彼が乗り込んだヘリに向かって風を放った。
プロペラを切断されたヘリは浮上できなくなり、切断されて飛んだプロペラの直撃を受けたヘリが爆発炎上する。爆風は森の木々を揺らし、降り積もっていた枯れ葉が舞い上がり、ヘリポートへも降り注ぐ。白獅子の襲撃だと、慌てふためく黒獅子軍の真ん中に、アキは音もなく舞い降りた。
飛べなくなったヘリからは数人の幹部と、ヴィルヒムが姿を見せる。アキはヴィルヒムに狙いをつけて風刃を放った。迷いのない一撃に彼の身体は真っ二つに断ち切られた。
適合者だ。幹部のひとりがそう叫んだ。兵士たちがアキに向かって銃を構える。アキはそれに対して眉ひとつ動かさず、すでに死んでいるヴィルヒムを見下ろした後、幹部の男に顔を向ける。
「……ヴィルヒム・ステファンブルグはどこ?」
「な、何をばかなことを……!」
ヴィルヒムの死体ならそこに転がっている。幹部にはアキの質問の意味がわからなかった。会話は成立しなくても、幹部の受け答えでアキは自分が知りたいことを知った。
ヘリでの脱出手段を失った幹部たちは、ヘリポートから逃げ出していく。
(ここじゃない……)
別のヘリポートへ移動しようとしたアキは、ズキンッと痛んだ頭を押さえた。
燃えるような夕焼け。切り刻まれ、バラバラになった人間の死体の山。その中心で立ち尽くす。血まみれになった彼の手を握って。
「……っ」
思い出すなと身体が拒否している。決していいことにはならないから、アキラのことは思い出すな。ハルヒに言えないような記憶なら、思い出すんじゃないと、そう言われているような気がした。
そのとき、背後で息を呑む音がした。
「……クサナギ?」
久しぶりにそう呼ばれたアキは顔を上げた。そしてすぐに後悔した。空から舞い落ちる枯葉の中では、マーテルにいるはずのハルヒが立っていた。夢か、それとも幻か。足を退いたアキにハルヒが気づく。
「アキッ!」
ハルヒにそう呼ばれて、それに戒められたようにビクリとアキの動きが止まる。
「アキ……」
ハルヒは繰り返した。それがアキを止める唯一の方法だったからだ。
「……僕は、アキじゃない」
そんな名前じゃない。それは、本来の名を捨てるためにアキラから貰ったものだった。ハインリヒにバルテゴの王子だと悟られないために、咄嗟に使った偽名だった。だからそんな名前を名乗る資格なんかない。そして、こんな力を得た時点で、もうラティクスでもない。
「……聞きたいことがある」
ハルヒはそう言った。
「父さんを殺したのはおまえなのか?」
風が吹き、いつの間にか大量に降り注いだ枯れ葉がアキの足元を流れていった。
「……たぶんそうだよ」
―――わからない。
「僕が殺したんだ……」
―――はっきりとは覚えてないけれど、ヴィルヒムはそうだと言った。きみがその力で彼を引き裂いたと。
「きみのお父さんを……この力で」
―――だけど、だれか違うと言って欲しい。
「ズタズタに引き裂いた……」
―――あれは悪い夢で、真実は別にあると。
ハルヒはゆっくりと腕を持ち上げる。その手には銃が握られていた。
―――ああ、ハルヒに殺されるもの悪くはない。
アキは思った。このまま罪悪感を抱えて生きていくよりはずっと。ヴィルヒムだけはこの手で殺してしまいたかったけれど、ハルヒがそうしたいのならそれでいい。殺されてやるべきだ。ハルヒになら。
枯れ葉が擦れ合う音の中、アキは静かに目を閉じた。
「……っ、違うって言え」
「………」
「違うって言えッ!」
目を開けたアキは、手の甲で乱暴に涙を拭ったハルヒの姿を見る。
「違うって!自分がやったんじゃないって言えよッ!」
「……ハルヒ」
「ううっ……うっ、うっくっ」
拭ったところで、どんどん溢れてくる涙がハルヒの顔を濡らした。
「なんでだよ……!なんでだよ!なんでだよッ!なんでおまえが……!」
「……わからない」
アキはポツリと呟いた。
「え……?」
アキは額を押さえ、すっぽりと抜けてしまっている記憶を探る。だが、そこはやはり真っ白で、見えるのは血塗れのアキラだけだ。
「わからないんだ……。覚えてなくて……、思い出せなくて……」
「……クサナギ」
ハルヒがアキに手を伸ばす。
アキに違うと言って欲しかった。クロノスが見たものはなにかの誤解で、アキは父を殺してなんかいない。都合のいい願いだと言うことはわかっていた。クロノスの話を聞く限りでは、その望みはあまりに儚い。だけど、それでも願ってしまう。未練がましいにも程があることがわかっていても、アキではないとハルヒは信じたかった。
「クサナギ……っ」
アキにそばにいて欲しかった。たとえ、彼が本当に父を殺していたとしても―――。
「見つけた、アキ!」
ハルヒはビクリと肩を震わせ、ヘリポートの入り口を振り返る。そこには、その能力と同調したかのような赤い髪の少女、ミュウが立っていた。
ミュウはハルヒには見向きもせず、アキの腕にしがみついた。
「ここはもう保たないよ。それに国境線の白獅子が動き出した。こっちに向かってくる」
ミュウの言葉を聞いたアキはハルヒを見た。言葉としては聞こえなかったが、唇の動きで「逃げて」と言われているのがわかった。
アキはミュウを抱えて上空へ舞い上がると、森の中に見えなくなった。
アキの風が巻き上げた枯れ葉の中で立ち尽くすハルヒのもとへ、時間短縮のために別行動を取っていたクロノスが合流する。
「向こうにはだれもいなかった。こっちはどうだっ……、ハルヒ……これはどういう……」
枯れ葉の中には真っ二つにされたヴィルヒムの死体があった。立ち尽くしていたハルヒが振り返る。
「……白獅子軍が動いた」
「なんだって?」
「脱出する」
振り返ったハルヒはもう泣いてはいなかった。
□◼︎□◼︎□◼︎
軍施設の入口まで戻ってきたカゲトラは、ココレットが乗り捨てた軍用車の後部座席にルシウスを放り込む。続いてココレットが乗り込むと、カゲトラは街道へ車を走らせた。
とにかく出火している建物から離れなければ火と煙に巻かれてしまう。軍施設から離れた森のそばまで車を走らせたカゲトラは、ココレットにここで待っているように言って、カゲトラはナツキを探すために森へ向かった。
ナツキには森の中に行くように言った。賢い子だ。絶対に約束を守って風上にいる。それを信じてカゲトラは森の中を進む。
「ナツキ!ナツキ!どこだ!」
ココレットの話では、フィヨドル人たちがマーテルへ亡命するための船は燃え尽きた。自分たちが乗ってきた小さな船では、あれだけの人数はとても運べない。
「ナツキ!」
この状況でできることは、小船でだれかがマーテルへ戻り、大きな船でこのフィヨドルへ戻ることだ。マーテル海軍の船ならばフィヨドル人全員を乗せることができる。だが、そんな余裕はきっとない。
軍施設は夜空を赤々と照らしている。この火は国境線まで丸見えだろう。アメストリアがこの機を逃すはずがない。きっと彼女はここへやってくる。いや、もう動き出している。甲冑に身を包んだ白獅子の騎士たちが、フィヨドルを覆い尽くす。
「ナツキ!」
「カゲトラ」
ナツキの声はカゲトラの背後からした。振り向いたカゲトラは、木々の間から姿を見せたナツキに胸を撫で下ろし、その身体を抱き寄せる。
「ナツキ!ああ、良かった……!」
風上にいたナツキは発作を起こした様子もない。カゲトラはナツキを抱いたまま森を車まで駆け戻った。
ナツキを車に乗せたカゲトラは、彼に怪我がないかようやく確かめた。
「大丈夫だよ」
ナツキは少し煤に汚れている程度で、どこも怪我はしていない。だが、少し煙を吸ったせいか視線が虚ろなのが気になったが、受け答えははっきりとしていた。
あとはハルヒとクロノスだ。ハルヒにはクロノスがついているとはわかっているが、この火事の大きさだ。
もう一度、軍施設へ戻るべきか、森へ迫る火を振り返ったカゲトラは、蹄の音を聞いた。力強い蹄の音は、煙が充満する軍施設からこちらに近づいてくる。
馬の嘶きと共に、煙から出てきたのは馬に乗ったクロノスとハルヒだった。
「アメストリアが来る!」
クロノスの背に掴まったハルヒが叫ぶと、カゲトラは運転席に飛び乗って、街道へ向けてハンドルを回す。
馬が先行し、その後を車が追う。数分間全速力で走ると、背後で一際大きな爆発が起こった。
黒獅子軍は総崩れとなった。アメストリアがフィヨドル全土を掌握する前に、どうにか海を渡る方法を見つけなければならない。ハルヒたちにとっては絶望的な状況だが、まずは入り江に戻ることが先決だった。
□◼︎□◼︎□◼︎
入江へ向かったハルヒたちは森に隠れていたフィヨドル人たちと再会した。そして、そこでクロノスを待っていたのは、ラウルの死という信じたくもないような現実だった。
マーテルへ亡命しようとしていたフィヨドル人たちの中に、ラウル以外の被害者はいなかった。ロクサネを含めるこれだけの人数を彼はひとりで守り切った。
フィヨドル人たちからの話を聞きながら、クロノスはロクサネを強く抱きしめた。
ラウルの遺体を前に立ち尽くすクロノスの背中に、ハルヒは既視感を覚えた。それは少し前の自分自身とよく似ていた。
あの日、ハルヒが起こした行動で、叔母のウララはその命を落とした。砂が纏わり付くような暑さの中、ビニールシートからはみ出した叔母を見たとき、ハルヒは自分を責めずにはいられなかった。
あんなに自分たちを愛してくれた叔母に、あんな惨い死に方をさせてしまったのは自分だ。そうに違いないと思った。
「自分を責めるな。おまえが殺したんじゃない」
ハルヒはクロノスの背中にそう言った。
自分を責め続けても、自身がボロボロになっていくだけだ。そんなことウララが喜ぶはずはない。親代わりにずっとハルヒとナツキを育ててくれた彼女が喜ぶはずはない。クロノスの姿を見たハルヒはやっと、あの日の自分を客観的に見ることができた。
「動く船がないか見てくる」
入江にあった船はすべて燃やされてしまっている。動く船は残っていないとは聞いていたが、自分の目で見たもの以外は信用しない性格であるハルヒは、その場から立ち去った。
ロクサネ・ディル・フィヨドル。フィヨドルの名を継ぐ彼女は、黒獅子軍のフィヨドル侵略の際に、たったひとりだけ城から逃げ出せた王族だ。
クロノスとラウルは彼女と落ち延びたフィヨドルの騎士で、身を隠しながら本土を脱出する機会を伺っていた。
黒獅子軍の侵攻はフィヨドル神を手に入れた後も止まることはなく、彼らは目に映るもの全てを侵略していった。抵抗した人々は殺され、捕まった人々は実験体にされた。そんな中、ある噂が飛び交った。
―――実験体にされた王族は必ず適合者になるらしい。
神話でも、王族は神の血を引く者とされているため、頷けない話ではない。ゴッドバウムはそのことを知っていたのか、知っていてあんなやり方を取ったのか。
ロクサネの情報が漏れないように、クロノスとラウルは彼女を必死に守った。そして、同じように黒獅子軍から逃げる人々を、騎士である彼らが放っておくことはできなかった。
手伝いたいという人々の申し出を断り、クロノスはひとりでフィヨドルの森に向かうと、腐葉土の下へラウルを埋葬した。
血の気を失って冷たくなった頬に土をかけるようとして、躊躇ったクロノスの手は震えた。騎士として国と共に死ねなかった。ラウルはずっとそれを悔やんでいた。
ラウルは、偶然にもロクサネ王女を護衛する日に黒獅子軍が攻め込んできた不運を幾度となく呪っていた。だが、彼は最期まで彼女を守り抜いた。若さ故に憤り、騎士道故に葛藤もしたが、彼は誰よりも騎士だった。
「同じ騎士として、きみを誇りに思う……。ロクサネは必ずマーテルへ逃がしてみせると誓う」
だからゆっくり休んでくれと声をかけ、クロノスはラウルの顔に土を乗せた。
森から戻ってきたクロノスは入江へ向かい、焼け焦げた船を見上げているハルヒに声をかける。
「酷いな……」
クロノスの口から漏れ出たのは独り言のようなものだった。ザッと見る限り動きそうな船は見当たらない。それはじっくりと入江を見て回っても同じであろうことは予想できた。
マーテルへ逃げるための手段は消え失せた。ハルヒたちとフィヨドル人は、外海とアメストリア率いる白獅子軍に挟まれて身動きが取れなくなった。
いまはまだその影は見えないが、黒獅子軍とのこう着状態が崩れたいま、アメストリアのフィヨドル掌握を邪魔する障害は消えた。フィヨドル側としてみれば、敵がすり替わっただけで最悪な状況は変わっていない。そして、考えうる中でこれ以上はないだろうと思える最悪の状況は、誰もが考えるよりもずっと早くやってきた。
□◼︎□◼︎□◼︎
黒獅子の軍施設を掌握したアメストリアが、入り江に隠れるフィヨドル人たちを見つけるには、1日とかからなかった。
朝霧が立ち込める中、入り江は白獅子軍に取り囲まれた。出航できるような船は一隻しかない。それはハルヒたちが乗ってきた小型船だ。だが、それではとても全員を逃がせるわけがなかった。
だれかが、白獅子軍からは逃げなくてもいいのではないかと口にした。相手はゴッドバウムではなくアメストリアだ。自分たちに牙を剥くとは限らない。敵の敵は味方。そう思いたい気持ちはわからないではない。だが、ハルヒはアメストリアがフィヨドル人を助けるという図式にはならないことを知っていた。
「皆殺しにされる」
アメストリアの残虐性は、スタフィルスの内乱のときにハルヒも垣間見ている。実際にその目にしたカゲトラの話を聞いたフィヨドル人たちは、それ以上口を開くことはなかった。
「フィヨドルの民よ」
白獅子軍の代表として声を上げたのは、アメストリアの騎士であるヨウヘイ・カガリヤだった。
「ゴッドバウム率いる偽りの獅子軍はもういない。アメストリア様は慈悲深きお方だ。もはや逃げ隠れする必要はない」
慈悲深いと言いながら、白獅子の騎士たちの手には武器が握られている。それを離す様子もない。
「全員を助けると約束しよう。我らは砂の侵略者ではない。おまえたちを救いにきた解放者である」
疲れきった顔をした女性がフラリとひとり立ち上がる。
「やめとけ」
ハルヒがジロリと彼女を睨んだ。
「本当に敵じゃないのか確かめてくるだけよ……」
ハルヒの制止を聞かず、女性は入り江を出てフラフラと砂浜を歩いていく。自分の前までやってきた女性に、カガリヤは両手を広げた。
「歓迎しよう」
女性は肩に毛布をかけられ、保護されたように見えた。その姿を見ていた入り江の人々がざわめく。
「この通り、怖がることはない。ここには温かい食事も綺麗な服もある」
長い避難生活で人々の心は疲れ切っている。保護された女性の姿に、ひとり、またひとりと、ハルヒたちが止めるのも聞かずに入り江から出ていく。
「これだけか?」
100人ほどの避難民を見回し、カガリヤは再び入り江に声をかけたが、返事をする者はいなかった。
「思ったよりも出てこなかったな」
彼はふうっとため息をつき、最初に保護した女性の胸を銃で撃ち抜いた。パン!という乾いた音の後、女性は砂浜に倒れる。その身体の下の岩肌を、流れ出した赤い色が染めていった。
だれかが悲鳴をあげると、恐怖は連鎖的に繋がり、保護を求めた人々は入り江へと駈け戻る。白獅子軍はその背中から襲い掛かった。瞬く間に入り江の外は地獄と化し、飛び出そうとしたハルヒをカゲトラが押さえ込んだ。
ハルヒひとりが行ったところで状況は変わらない。死体がひとつ増えるだけだからだ。ココレットはまだ眠り続けているルシウスの頭を抱き締めた。
あっという間に100人足らずの人々を始末し終えた白獅子軍は、次なる獲物を求め、血で濡れた武器をはらった。
スタフィルスでのクーデターの折に、アメストリアの命令のもと行われた殺戮で彼らは変わった。もはや白獅子の騎士などと言うのは名前だけで、そこにいるのは狂戦士でしかない。カガリヤもそのひとりだった。
「皆殺しにしろ」
カガリヤの命令で騎士たちが入り江へと向かってくる。後ろは海だ。ハルヒたちに逃げ場はない。
「クソ!」
カゲトラの制止振り切ったハルヒが入江から飛び出した。続いてカゲトラが姿を見せたことで、カガリヤはそれがハルヒだと気づき、白騎士たちを止めた。
「驚いたな。ハルヒ・シノノメ。カゲトラ・バンダ。こんなところで会うとは。一体ここで何をしているんだ?」
カガリヤはそう言いながら、足元に転がる死体の頭を踏みつけた。
「……やめろ」
「なんだと?」
「やめろって言ってんだ!」
ハルヒはカガリヤに殴りかかる勢いだ。
「なぜ俺がおまえの命令に従わねばならんのだ」
「戦う力もない人たちを殺してどうなる!」
「楽しむのだ!」
カガリヤは叫んだ。その顔には確かな狂気が見えた。
「虫けらのように嬲り殺すのだ!楽しいぞ!どうせ、黒獅子に捕らわれても実験体だった命だ!惜しくもあるまい!」
「てめえッ!」
「ハルヒ!」
カガリヤに飛び掛ろうとしたハルヒを、カゲトラが羽交い絞めにして止める。
「まだそんな小娘のお守をしているのか!おまえも大変だな、バンダァッ!」
「……!」
「アメストリア様を裏切るからだ……」
カガリヤはそう言うと入り江へ手を向けた。
「カゲトラ・バンダとハルヒ・シノノメは生かして捕えろ。他は皆殺しだ」
白獅子の騎士たちが入り江に向かって来る。その勢いを止める手段はハルヒにはなく、人々が逃げる手段も残されてはいなかった。
ドン!
怒号と悲鳴に負けない音が砂浜を揺らす。だれもが予想しなかったその音は、霧が立ち込める海から聞こえた。すうっと霧が晴れていく。
そこには海を埋め尽くすほどの船の姿があった。
「な……」
大型船3隻。中型小型は数え切れないほどの数が浮かんでいる。どこの船だ。だれもがそれを確かめようとする。もし黒獅子の船ならばこれ以上最悪の展開はない。だが、船が掲げているのは、獅子ではなく髑髏の旗だった。
「海賊船……?」
カゲトラがそう漏らした。
(敵……?味方……?)
海賊に知り合いはいない。どこの勢力なのかはわからないが、敵ならば完全に挟み撃ちされていた。どちらに逃げるべきか、すぐにでも判断しなければならないハルヒの耳に、潮風に乗って声が聞こえてくる。
「ハルヒ―――ッ!」
それは自分の名前を呼ぶ声だった。ガレオン船の上で大きく手を振っている人物に気づき、ハルヒは胸いっぱいに息を吸い込む。
「キュラぁ―――!」
「走ってください!」
固まっていた人々に、ココレットが大型船から次々に降ろされる小船へ向かうように指示する。
「彼らは味方です!早く走って!逃げてッ!」
「走れッ!」
クロノスが声を張り上げる。人々はこちらへ向かってくる小舟へ向かって走り出した。大型船からは次々と小船が下ろされていく。
「死ね!死ね!死ねぇ!」
入り江に入って来た白騎士が、岩の突起で転んだ老婆に向かって槍を振り上げた。
「このクソ野郎オッ!」
ハルヒの体当たりで白騎士は転倒する。さらに、倒れた白騎士に馬乗りになると、ハルヒはその顔を殴りつけた。
「トラ!連れて行け!」
ハルヒに言われるまでもなく、カゲトラは老婆を抱え上げる。反対の腕にはすでにふたりの子供が抱かれていた。
振り返れば、最初に入り江へ寄せられた小船は、乗せられるだけの人々を乗せて母船へと引き返している。
「ハルヒッ!」
ココレットが叫ぶ。ハルヒが振り返るとそこにはカガリヤの姿があった。血に塗れたその手が、ハルヒの顔面を掴むと、軽々と彼女の身体を持ち上げる。
「姉ちゃんッ!」
ナツキがカガリヤの腰に飛びついた。それでバランスを崩したカガリヤはハルヒから手を離し、ナツキと一緒に岩の傾斜を転がり落ちる。
「ナツキッ!」
転がり落ちたその場所でナツキを引き剥がし、カガリヤは腰に指していた銃を引き抜く。
パン!すぐに銃声は響いた。ぐらりと身体が傾き、水しぶきを上げて海の中に倒れたのは、ナツキではなくカガリヤだった。
鳴り響いた音に、自分が撃たれたのだと思って硬直していたナツキは、どこも撃たれていないことに気付いて息を吐く。顔を上げると、傾斜の上には硝煙の上がる銃を構えたハルヒの姿があった。ハルヒがカガリヤを撃ったのだとナツキは理解する。
「姉ちゃ……」
真っ青な顔で立ち尽くすハルヒの目に、ナツキの背後で立ち上がったカガリヤの姿が映る。その顔は灰色に色を変えて硬化していた。皮膚を貫通できずに変形した銃弾が岩の上に落ちて音を鳴らす。
(グリダリアの適合者……!)
ボッ!
炎が猛り、ナツキの身体を貫こうとしたカガリヤの拳は、それに遮られて押し戻される。それはココレットの膝に抱かれていたルシウスが放った炎だった。
「ハルヒッ!」
ココレットの声で硬直から脱したハルヒは、傾斜を滑り降りてナツキの手を掴む。炎に巻かれながら奇声を上げて暴れるカガリヤは、それでもふたりに向かって襲い掛かろうと拳を振り回す。
ハルヒはナツキの手を引いて砂の上を必死に走った。だが、次第に姉弟の距離は縮まり、波打ち際へ戻る頃には、ナツキがハルヒの手を引いていた。
「ハルヒ!」
もう逃げ遅れた人がいないかを確かめようとしたハルヒの腕をクロノスが掴む。すでにロクサネを船に乗せたクロノスは、人々を守るためにまだ砂浜に残っていた。
「ここはもうだめだ!きみも乗るんだ!」
「だが……!」
「弟も道連れにする気か!」
ハルヒが船に乗らない限り、ナツキも乗りはしない。説得しても無駄だとその顔には書いてある。
海賊船も、現場に敵味方が入り混じりすぎて、不用意に攻撃できない。いまできることは、ひとりでも多くのフィヨドル人を船に乗せることしかなかった。
「さっさと行け!」
真っ赤な炎が迸る。フィヨドル人に容赦なく襲いかかる白獅子の騎士を、ルシウスの炎が包む。
「クソ……!」
ハルヒはナツキを小舟に乗せると、クロノスと一緒に押して海に出し、それに自分も飛び乗る。最後にクロノスを乗せると、船は全速力で母船へと向かって漕ぎ出した。
(俺を助けやがった……)
遠ざかっていくルシウスの背中を見ながらハルヒは唇を噛んだ。遠ざかる岩場ではまだ殺戮が続いている。
「大丈夫よ!もう大丈夫だから!」
親とはぐれて泣いている子供を船に乗せたココレットは、ルシウスを振り返る。ルシウスは白騎士の頭を掴んで岩に叩きつけていた。
「お兄様!」
助けに来る小舟の数は減ってきている。もう助けられないと判断したのか、一度戻った船が戻らないせいだ。空を飛ぶことができるなら話は別だが、この機を逃せば逃げられない。
(いつまでもモタモタと……)
ルシウスは走ってきたココレットを受け止めて、そのまま担ぎ上げると大股で小舟まで向かい、彼女を小舟に乗せた。
「さっさと出せ」
操舵を握る男にそう言って、ルシウスは船体を足で押しやる。
「お兄様!一緒に……!」
「行け」
もはや全員を船に乗せることは不可能だ。こうしている間にも、逃げ遅れたフィヨドルの人々は白獅子の騎士に殺されていっている。いかに適合者であろうと、ルシウスひとりが奮闘したところで限界がある。
(だが、ココレットの小舟が辿り着くまでの時間稼ぎくらいなら……)
「お兄様!」
そんなルシウスの思いを無視して、ココレットが小舟から飛び降りた。腰まである波を掻き分けながら、ココレットはルシウスのもとへ戻ってくる。
「いったい何をして……」
「一緒に来てください!」
ココレットはそう言うと、ルシウスの腕をつかんで海の中を自分が乗っていた小舟に向かって水を掻き分けていく。海面がココレットの胸を越える。ルシウスはため息をつき、ココレットの身体を抱き上げた。
「掴まっていろ」
ルシウスにそう言われ、ココレットは彼の頭にしがみ付いた。たどり着いた小舟の上にココレットを押し上げると、ルシウスは自分も海水に濡れた重い身体を船の上に引き上げた。
最後の小舟が砂浜を離れた。その上で息を切らしながら、クロノスは遠くなっていく祖国の大地を見つめていた。
□◼︎□◼︎□◼︎
コシュナンからマーテルへ戻る船から、キュラトスはある男の手引きで違う船へと乗り換えた。その男は、万が一のために船に護衛としてもぐりこんでいたパルスの手下だった。
男は、護衛対象のキュラトスが船長と一悶着を起こしているのを目撃し、注意深く観察していると、案の定、彼は小舟を盗んで船から抜け出した。
男は近くの海を航行していた味方の船に救援信号を出してキュラトスを保護し、彼の望み通りフィヨドルへ向かうことになった。
キュラトスはまるでパルスの若い頃のような性格をしていて、男はなぜパルスが自分を護衛として船に乗るように言ったのかを理解した。
霧の濃い航路を慎重に進んでいると、双眼鏡を覗いていた船長が、白獅子軍の旗が上がっていることを知らせた。フィヨドルは黒獅子軍の領土だった。そこにアメストリアの旗が上がっているということは、ずっと変わらなかった情勢が変わったと言うことだった。
そして、彼らは入り江の虐殺現場に出くわした。
ハルヒたちを救出した後、船はマーテルへ航路を取っていた。いまはまだアメストリアの追手もかかる様子はない。もうすぐマーテル領にも入るため、船はゆっくりと進んでいた。
甲板でぼんやりと海を眺めていたハルヒを見つけ、声をかけるとキュラトスはその隣にやってくる。
「よう」
ハルヒは海からキュラトスへ視線を移した。
「同盟とってきたぞ」
「え?」
「コシュナンとの同盟だよ。すげえだろ?」
「ああ、そっか。そうだったな」
ハルヒはいま思い出したように、さすがは王子様と、キュラトスの胸を拳で軽く押した。疲れているだけとは言えない。ハルヒの心がここにないことに、キュラトスは気づいていた。彼女はまだ、いまはもう遠いフィドルにいる。
キュラトスはパルスが言ったことを、自分がフィヨドルへ向かうきっかけになったことについて考えていた。
(ラティに会ったのか……?)
キュラトスはそれを声に出すことはできなかった。
パルスはああ言ったが、アキがフィヨドルに行ったかどうかは定かではない。ハルヒはまったく別のことを考えているのかもしれない。だが、キュラトスは、ハルヒがこんなふうになってしまう原因がアキ以外にあるとは思わなかった。
「なあ。それはそうと、ルシウス・リュケイオンが船に乗ってるのはなんでなんだ?」
キュラトスの当然の疑問に、それはココレットに聞けと、ハルヒは肩をすくめた。
□◼︎□◼︎□◼︎
船室の中で目を覚ましたココレットは、いつの間にか自分が眠ってしまっていたことに気づいた。
「私……?」
小船から大型船へ引き上げられたところまでは覚えているが、ココレットの記憶はそこでプツリと切れていた。
(お兄様は……?)
船室にその姿はない。まさか、あの後ルシウスはフィヨドルへ引き返したのかもしれない。言いようのない不安に駆られたココレットは、居ても立ってもいられずに船室を飛び出した。
船室から甲板へ上がると、波の音と、潮風が彼女の長い髪に吹き付ける。甲板には多くの人の姿があり、その中には助かったことを安堵する者、船に乗れず、助からなかったものを嘆く声もあった。ココレットは広い甲板を歩き回り、ようやく船尾から海を見ている兄の姿を見つけた。
「お兄さ……」
「なんで黒獅子軍が船に乗っているのよ」
ルシウスに声をかけようとしたココレットは、耳に入ってきた言葉に足を止める。ヒソヒソと、ルシウスに聞こえないように話しているのは、数人のフィヨドル人だった。
「なんなの?脱走兵?」
ルシウスは黒獅子軍が着用する軍服を着ている。もう彼は黒獅子軍に属していないが、軍服のせいでそう思われても仕方がなかった。
「私、あの男が手から炎を出すのを見たわ」
「黒獅子の奴らはみんなあんなバケモノらしいって、」
「お兄様!」
声を張り上げたココレットに、話をしていた女性たちはビクリと肩を震わせた。彼女たちには目も向けず、ココレットは振り向いたルシウスのそばへ駆けていく。
「お兄様。こちらにいらっしゃったんですね」
「………」
ルシウスは無言のままココレットを見下ろす。話をしていた女性たちは、振り返ったルシウスの美しい顔立ちに驚き、顔を赤らめていた。
「……なぜ私を助けた」
リバウンドを起こしかけて意識を失ったルシウスが次に目を覚ましたのは、ココレットの腕の中だった。悲鳴を上げたココレットの視線の先には、白獅子の騎士に追い詰められたハルヒの姿が見えた。気づいたときにはルシウスは炎を放っていた。
「いいえ。助けてくださったのは、お兄様です」
ココレットはそう言う。
助けられなかった。エルザも、リジカも、助けることができなかった。失ってしまったものは戻らない。無言のままルシウスは自分の手を見下ろした。
(今度こそ守れたのか……?)
その問いに答えるように、ルシウスの手にココレットの手が添えられる。ルシウスが視線を戻したそこには、じっと自分を見上げるココレットの大きな瞳があった。
□◼︎□◼︎□◼︎
マーテルまで後少しと言うところで天候が変わった。にわかに荒れ出した波に船は大きく揺れだした。
「ナツキ」
ナツキの様子がおかしいことには気づいていたが、船に乗ってからも怪我人の治療などで忙しく、なかなか話す機会がなかったカゲトラは、創薬その隣に腰を下ろした。
声をかけると、ナツキはボンヤリとした表情で顔を上げた。
「大丈夫か?」
「……え?」
カゲトラが言っていることの意味がわからず、ナツキは首を傾げる。カゲトラはその額に手を当てて、少し熱っぽいかとぼやいた。
「横になったほうがいい」
ナツキは首を振った。船のベッドは限られているし、怪我をした人も大勢いる。自分はここでいいと頷く。
「……軍施設で何かあったのか?」
何もなかったというほうがおかしいだろう。フィヨドルに来てからというもの、まさに息つく暇もなかった。全員が無事だったのが奇跡だと言えるだろう。ハルヒにもナツキにも見せたくはない虐殺だったが、時代はそれを許してはくれない。
「……たぶんもう……お父さんは生きてないと思う」
ナツキの頭の中では、あの少女の声がずっと響いている。何度も何度も、同じ言葉がぐるぐると回っていた。
「ナツキ……」
ルシウスのせいでフィヨドルの軍施設は燃え尽きた。あの場所にアキラがいたかどうかはもはやわからない。
「トラ……人って、なんで人を殺すのかな……」
「……ナツキ」
ナツキはカゲトラではなく、じっと床を見ていた。カゲトラの知らないところで、ハルヒがナツキを襲おうとしたカガリヤを撃った。カゲトラがそれを聞いたのは、船が出航してかなり経ってからだった。
「ハルヒは、おまえを守るために撃ったんだ」
「……守るために」
ナツキはその言葉を繰り返す。人が人を殺す理由が、だれかを守るためだというのなら、アキはだれを守ろうとしてアキラを殺したというんだろう。
守られたその人は、自分の父親の命はその人よりも軽かったのだろうか。そもそも命に重いも軽いもないのに、父親はアキに殺されてしまったんだろうか。
「ナツキ。何を考えてる?」
カゲトラはふと、ナツキが言っているのはハルヒのことではないのではないかと思い当たる。ナツキは何か別のことを考えているのではないか。それは長年、親代わりとしてナツキのそばにいた彼の直感だった。
「フィヨドルで何があったんだ」
「………」
「ナツ―――」
突如、横っ腹に波を受けた船体が傾いた。傾斜のかかった床に手をつき、カゲトラは外の嵐に目を向けた。もうすぐマーテルにたどり着く。だが、獅子の牙は水の国の目前まで迫っていた。
□◼︎□◼︎□◼︎
神の研究は日々進化する。最初は手術でしか手に入れることのできなかった神の力は、いまは注射器一本で手軽に適合者を作れる時代になった。
昔ながらの方法での手術が完全になくなったわけではないが、あれは適合者の心臓に負担をかける。逆を言えば、それが命を守るためのリミッターになっているのだが、大した適合率でなければ消耗品には必要ないものだ。
注射器の中身をすべて打ち込むと、実験隊は数秒して拒否反応を示し、身体を緑色に変化させると、人の形を失っていった。
本日予定していたナンバーズはすべて使い終わりました。その報告を受けたヴィルヒムは、肩を竦めてその部屋を後にした。
第二世代。そう名付けた実験隊の適合者はまだひとりもいない。まだ試作段階ではあるが、理論的には問題ない。適合者が現れないのはナンバーズの中に資格があるものがいないからだろう。フィヨドル王家の血を引くロクサネは是非とも欲しかったが、逃げられたのでは仕方ない。
ネクタイを緩めながらヴィルヒムが部屋へ戻ると、デスクに腰掛けてファイルを読んでいたファイルを閉じた。
「構わないよ」
ヴィルヒムは微笑み、外したネクタイをソファーへ落とす。ネクタイは一度ソファーの背に引っかかりはしたが、するすると蛇のように滑って床へ落ちた。
「もういいの」
「何を見ていたんだい?」
「適合者のファイルよ」
「珍しいね。なにか気になることでもあったかい?」
「いいえ」
少女は首を振って立ち上がる。
「セルフィ。良かったらこれから食事でもどうかな?」
父親からかけられた言葉に、セルフィはもちろんと頷いた。