【腐向け/つるみか】月の羽衣刀剣男士とは、刀剣を戦士として人の身に変えたものである。
審神者なる主の命令により、時代を遡り、過去の歴史を変えようと目論む歴史修正主義者の軍勢を倒すのが彼らの任務であった。
この日も刀剣男士の一振である三日月宗近は、仲間の刀剣男士と兵士たちを率いて、過去の時代の草原を駆ける。
敵の矢をこちらの兵士が受け、射られた二人が幻のごとく霧散した。幻影のようなそれらは、兵士の魂を模して具現化する刀装と呼ばれるもの。敵も味方も多くの刀装を擁するので、まるで大合戦の様相であった。
刀剣男士たちは敵方の刀装兵の群れに突っ込むと、まさに露のように切り払った。刀装は儚い。そのまま敵の軍勢へと肉薄する。
刀装兵の壁を破られたと知り、敵の一人が三日月宗近へ切りかからんとするが、力量に大きな差があった。三日月宗近には敵の剣筋はゆらり鈍く見え、眺めるほどの余裕がある。見定めて刃をいなし、風も起こさぬほど鋭い一太刀で正確に敵の首筋を断つ。
そこで、突然のことだった。
三日月宗近は悟った。全ては無意味なのだと。
特別苦戦した訳でもなかった。いつものように歴史修正主義者の軍勢を屠り、欠員も無く、善戦と言って良い調子で進んで来た。単調とも言える作業と化したその途中で、唐突に悟ってしまった。
人はいつか死ぬ。物はいつか壊れる。この世界もいつか壊れる。消えて無くなる。最後が決まっているなら、途中の道にどれほどの意味があるのだろう?
時代の流れを変えること自体無意味なのだ。人の営みによって作られるのが歴史なら、時間遡行による歴史改変さえ正史ではないか。敵も味方も、何を守ろうとしているのか分からない。
敵も味方も変わり無し。どちらも過去をいたずらに塗り替え続けているだけに他ならない。子供の陣取り合戦だ。すごく下らない。
両者を抹消して歴史を守ろうとする検非違使も、実に無意味なことをしている。そうして三日月宗近の目には、子供が3人に増えたようにしか映らなかった。
考えながら体を動かす内、気付けば戦いは終わっていた。此度の任務が終わったのだ。
敵を殲滅した後も呆然としたように動かない三日月宗近を見て、仲間の刀剣男士たちが気遣いの声を掛ける。反射的に笑みを返して、大丈夫だと言ってやった。安堵の空気が一同を包む。「心配させるなよ」と誰かが言った。
そう、何も問題は無かった。ただ、悟って、疲れただけ。
三日月宗近は隊を率いて、主の待つ本丸へ帰還した。
三日月宗近は、過去をやり直したいと思ったことが無い。生来、器が大きく、何事も受け容れることを良しとしてきた。
無意味でも良かったのだ。主の為に働きたいと思ったから。本体である刀から無理矢理呼び出されて、こうして人の身を与えられ、剣を振るうのも。一時でも、まがい物でも、正しいと信じるものの為に働く主は、可愛く見えたから。
初対面の頃を思い出す。主は正面から目を合わせることはせず、顔を盗み見るように視線を忙しなく動かしていたっけ。天下五剣の中で最も美しいと言われる刀であるゆえ、人の身になっても他を圧倒する美貌を三日月宗近は持っていた。
見ることを恐れているのか、では、見てよし、と言うと主は驚いて、やっと正面からこちらを見た。三日月宗近は嬉しさに微笑を深める。親になったような心持ちだった。
今度は主から三日月宗近の手に触れてきた。微笑ましくてたまらない。だから、触ってよし、と許した。緊張からか手が震えている。そっと見守った。
これらの一連の流れに何の意味があったか。きっと無かったのだろう。けれど三日月宗近は、楽しいと思った。嬉しかった。人との交流に心を和ませ、それを価値あるものだと感じた。
何故、そんな気持ちになったのか。全てが消える定めなら、全ては無意味なのに。
ただ若かった。
そうとしか言い様がない。
たったひと月ほど前の思い出であるが、その時分は、本当に若かった。
若かったとしか……言えなかった。
悟った今では、当時自分が何を考えていたのか、記憶が遠い。
もう微笑ましさを感じることもない。
不幸でもない。愚かと言うつもりも無い。
ただ、無意味だった。
そうして、疲れた。
それから。
いつものように、日の出と共に起き、布団を片付け、身支度を整える。
その後散歩をしたり、茶をしたり、仲間と会話をするのがいつもの三日月宗近だった。けれど今朝は、畳の上に座して動かない。
「珍しいですね」
三日月宗近と同じ程に早起きの誰かが、そんなことを言った。三日月宗近は黙して微笑みを返す。それがごく自然に見えて、誰かは気に留めず、会釈してその場を離れた。
食事に呼ばれれば食べ、内番もこなす。演練にも出かけ、行軍ではいつも通りの戦果を挙げた。けれど三日月宗近は絶対的に、口数が少なくなった。元々よく笑う刀だったが、微笑みを浮かべるものの、声を上げて笑うことが無くなった。
結局疲れたのだ。人の身を得た当時は無意味さも楽しかったが、今はその楽しささえ無意味だ。よって、自分から何かをすることを放棄した。
皆も主も心配したが、それらもどうでもよかった。
三日月宗近は器が大き過ぎた。最初からそうであったものが、人の身を得て臨界を越えた。見るものが見れば、全ての執着を断って悟りの境地に至った仏のようにも見えただろう。
一介の付喪神であった三日月宗近は、高天原の神々に近付いたのだろうか。いや、誰よりも人らしいのが神である。感情に振り回されるのが神だ。それなら三日月宗近は何なのか。これではただの物に戻ろうとしているだけではないのか。
そんな様子でしばらく経ったある日、演練の為に他の本丸に出向いた三日月宗近は、庭を眺めながら、試合の始まるのを待っていた。そこを、誰かに声をかけられた。
「綺麗だな」
と。
庭に咲き誇る花に対して言ったのか、三日月宗近に対して言ったのかは定かでないが、
「そうか」
とだけ返した。
一旦会話の終わりを迎え。けれど相手はまだ声をかけてくる。
「儚いねえ」
風で舞い散る花びらに対して言ったのか、三日月宗近に対して言ったのかは定かでないが、
「そうだな」
と返した。
「君は、意味はあると思うかい」
何に対して言ったのか定かでなかったが、三日月宗近は
「意味のあることなど、どこにも無い」
と返した。
それで相手は満足したようだ。
それだけの会話だった。
数日後、いつものように一番隊を率いて戦に出た三日月宗近は、些か違和感を覚えていた。山道を通り、林を抜けたところで臭いが鼻につく。
一瞬煙たさを感じたが、空気はすぐさま風にさらわれ気のせいか分からなくなる。仲間たちは気付いていないようだ。
三日月宗近は以前より感情に乏しくなったが、それでも任務は命じられた通りこなすので信頼は厚かった。主の擁する刀剣男士たちの中でも一等強い力と冷静さを持っていることもある。美しさに目を掛けられていたこともあったろう。だから此度も隊長を任された。それは皆にとって幸せなことだったか不幸なことだったか。
例え敵の罠に掛かったとしても、戦局が不利になろうが三日月宗近には興味が無い。皆も気付いていないようなので、違和感を黙殺する事にした。
足を止める。敵の隊だ。
茂みに身を隠しているので正確な数は分からないが、随分少ないような気がする。後ろを見やり仲間の意見を目で問えば、「構わんやろう」と皆の目が言っていた。
刀装から兵士を出し、突撃を命じる。合戦の始まりだ。
結論から言えば、挟み撃ちであった。
少ない数の敵を打ち倒している最中、別の方から奇襲をされた。これは予想の内、刀剣たちも予期できたものだった。しかしそれらを倒し切る間もなく、敵の別動隊が駆けつけたのだ。それだけならまだ何とかなったかも知れない。更に敵方のもう一部隊がこちらの背面から攻めてきたのだ。
最後に来た部隊は槍や大太刀を得物にする破壊に優れた勢力であり、これが一番いけなかった。刀剣男士たちはたちまち木に叩きつけられ、地を這わされ、ある者は五体満足でなくなった。
おかしくはあった。主とは通信が取れるはずなのに、こちらの声にうんともすんとも応じない。この敵襲も、いつもなら主が気配を察知して注意を促してくれていたはずだったろう。
三日月宗近は負傷した仲間に肩を貸し、逃走を選んでいた。全滅するならそれも良いと思っていたが、まだ仲間が残っている。主の為に使われるだけが今の彼の存在意義である。なるべく多くの仲間と共に主に結果を持ち帰る事を優先した。敢えてここで死を選ぶ理由も無かった。いや、刀剣なのだから死ではなく破壊か。
「逃げ切れんか」
呟いて、足を止める。生き残った数少ない仲間たちに先に逃げるよう命じる。三日月宗近も傷は負っているが、まだ充分動ける。敵の足止めができるのは自分だけだから、そのように動こうと思った。
が、その時。
逃げる仲間たちへ、横合いから銃弾、投石、矢の嵐が飛んでくる。
重傷を負っていた仲間たちはひとたまりも無かった。
仲間の全滅という惨状を見て、三日月宗近は眉を寄せる。
「うん…?」
後ろから追いかけられているのだ。横から奇襲を受けるのはおかしい。追いつかれて包囲されたのとも違う気がする。投擲を放ってきた刀装兵の格の高さが、今までの敵とは違うのだ。となれば五組目の勢力であろう。
「では、ここまでか」
三日月宗近は動くのを止めた。
破壊されるのを待つ。
――。
しかしそこで、甲高い笛の音が耳に入った。
途端に辺りに満ちていた殺気、闘気が消えていく。敵方の作戦が終わったのだ。なるほどそれでは、これ以上戦う必要も無い。
かくして、三日月宗近は一振りだけ残されたのだった。
主の待つ本丸は遠い未来にある。三日月宗近は過去の時代に居るので、まずは未来へ飛ばねばならなかった。
いつもなら主と通信して即座に飛ばしてもらうこともできるのだが、今回はそうも行かない。この時代にこしらえられた、仮の本陣を目指す。
本陣と言えども、一般の人や敵の目に触れないように隠された、ほとんど掘っ建て小屋のようなものである。そこに未来へと繋がる道がある。
たどり着き、道を潜った先で三日月宗近は、主の本丸が焼き討ちされていたことを知った。
本丸の跡に佇む三日月宗近を発見したのは政府の者だった。
政府とは、審神者たる主に歴史修正主義者の阻止を任命した側である。
その者達によれば、三日月宗近の本丸は全滅であったらしい。残っていた刀剣男士たちも、審神者なる主も炎に焼かれてなくなった。
いくら奇襲でも手際が良過ぎる。これは内部犯の可能性もあると、役人たちは恐れているようだった。三日月宗近は転送の記録が残っているので容疑者からは外されている。心当たりは無いかと問われたが、ある訳も無い。もしあっても、興味が無いので言わなかっただろう。
三日月宗近は傷を癒された後、暫し政府の監視下に置かれ処遇が講じられた。
主が亡くなった今、刀解で元の刀に戻ることも選択肢として提示された。その場合は人の身で得た記憶を全て放棄することになり、実質の死となる。
けれど三日月宗近は稀有で強力な刀剣男士である。主が居ないのなら是非我が本丸にという声も多くあった。
政府としても、戦力は多いに越したことは無い。三日月宗近さえ良ければ、他の本丸で戦って欲しいと要請した。三日月宗近は興味も感慨無く、
「好きにしてよい」
と返した。
三日月宗近は、果たしてあのような冷たい雰囲気を纏った刀剣男士であったろうか。他の三日月宗近を目にしたことがある役人たちは首を傾げたが、仲間と主を全て失った彼の境遇を思い出し、勝手に納得し、憐れんだ。
新しい主はそれほど実力のある男ではなかったが、ある程度政府の信頼を得ている審神者だった。ここならば三日月宗近の力を発揮できるだろうと選ばれたらしい。
本丸である屋敷に三日月宗近を迎えた主は、満面の笑みを浮かべた。
「よろしく、三日月宗近」
嬉しくて堪らないようだ。三日月宗近の顔を、体を、何往復も舐め回すように見つめてくる。
「よろしく頼む」
不躾な視線を厭うことも無く、涼しげに微笑んで挨拶を返した。
審神者は見とれたようで、溜息をつく。
「やはり美しいな…。そうだ、三日月と呼んでもいいかな。以前はそう呼んでいたんだ。ああ、私は以前も三日月宗近を持っていたことがあってね」
矢継ぎ早に言葉を続ける。はたと、主は三日月宗近を取次に立たせたままであることに気付き、恥じた。
「すまない!立ち話も何だからこっちへ」
座敷へ上げて、茶を淹れる。
主が言うには、自分は二振り目の三日月宗近らしい。一振り目は戦で受けた傷が原因で死んでしまったと。よほど三日月宗近を気に入っていたのか、説明しながら顔を翳らせた。
三日月宗近は、黙ってそれを眺めていた。何の感慨も浮かばなかった。
三日月宗近には私室が用意されていた。と言っても、以前の三日月宗近が使っていた部屋らしい。
他の刀剣男士たちの部屋とは離れており、渡り廊下を隔てている。主の部屋の隣で、近侍にふさわしい位置だった。新入りには勿体無いようにも感じられたが、三日月宗近は気にしなかった。
部屋の中を見れば、敷かれた畳がやけに新しい。襖も壁も、他の部屋よりも綺麗で新しく見えた。
「ここがお前の部屋だ。好きに使ってくれ」
あぐらをかき、子どものように畳を叩きながら声を張る主に、三日月宗近は静かに頷いた。
「わかった」
所属を移って数日間は、何もなかった。この本丸に居る刀剣男士たちが挨拶に来たが、それも数人のこと。この本丸には大勢の刀剣男士が居るのに、大多数とは言葉も交わしていないし姿も見せていない。三日月宗近は自分から動く事がないので自室に居るのみだったし、主も何も言わなかった。
前の主は刀剣男士に食事を取らせ、畑仕事や馬の世話もさせていたが、ここではそれもしていないようだ。珍しい話ではない。刀剣男士たちは本来食事を必要としないのだ。食事や内番は、元は刀である刀剣男士たちをなるべく人間扱いしてやり、人道を教えるという政府の方針に基づいた、言うなれば道徳の授業である。そうして刀剣男士たちの協調を強め、裏切るのを防ぐねらいがあった。
しかし効果が不確かなものである為、強制でもない。近い内に形骸化するかも知れない指針である。
よって、三日月宗近はいつも独りで居ることができた。
昼は座して夜を待ち、夜になれば寝るだけの生活。いつしか三日月宗近は、布団を敷くことも着替えることもしなくなっていた。壁に身体を預けて眠るので充分だった。
その夜も、いつも通り眠っていた。
はずだった。
障子が開けられる気配を感じて、三日月宗近は薄く目を開ける。
主が灯りを持ち立っていた。そのまま部屋に入ってきて、障子を閉める。待て。主は灯りの他に何かを持っている。
「三日月…」
壁に身体を預けたまま、目線だけを主に向ける三日月宗近の前に、膝をつき惚れ惚れと見る。
おもむろに手を伸ばし、三日月宗近の頬を撫でた。感触を堪能しながら、手は首を伝って下へ降り、鎖骨をなぞる。荒い息が掛かった。
「嫌がらないんだな……やはり三日月宗近は人懐っこいのかな。前のも、最初はくすぐったいと身をよじって笑っていた。でもお前は様子が違うようだ。その冷え切った目も悪くない……」
かわいい、と主は言った。そして立ち上がり、手に持った物を三日月宗近に振るった。感じたのは強い熱。次に、じくじくと痛みが溢れてきた。
腕にできた傷を見つめて、ああ斬られたのかと納得する。次に蹴られて畳の上に倒された。胸を斬られて、悶絶する。
「拒まないか。いい子だ。殺しはしない。後で治してやるから」
脚を刺される。主は懐から短刀を出していた。両の脚を刃で蹂躙される。
痛みに耐えながら、拙い技量だ、と冷静に思う。力も足りない。傷はどれも骨に至っていなかった。
「ーーっぁ!」
太刀で足の腱を断たれる。腰を斬られる。また短刀で胸を、腹を突かれる。
三日月宗近は堪らず声を漏らし、うずくまり、畳を引っ掻くが、主はその腹の上にのしかかり、無防備な体勢を強要した。
「ん……!」
息苦しさに呻く。生理的に涙が滲んだ。
かわいい、かわいい、とうわ言を何度も繰り返し、刃を振われる。
「こんな美しいものの、主になって、いくらでも、治せる。どうして、傷つけずに、いられようか」
何度も身体を貫かれながら、主の声を聞く。思考が焼き切れそうな痛みの中、三日月宗近は、まぁそういうものかと達観していた。
「三日月はいい子だなぁ、前のも、前のは、もっと泣いて、乱れてくれたが、何故と繰り返し聞いてきたが、終わった後に謝ると、嬉しい、気遣ってくれて嬉しいと、笑ってくれた。愚かだろう。かわいいだろう」
腹の底から熱いものがせり上がってくる。三日月宗近は、ごふりと咳をして、血を吐いた。
朦朧とする。熱い。寒い。何時間経ったのか。まだ全然外は暗い。
結局空が白むまで、三日月宗近は理不尽な暴力に耐えさせられた。
終わった後、主は三日月宗近の傷を癒してくれたが、脚の腱は外見だけ治され、使い物にならないままにされた。こんな事をしなくても逃げないのに。
畳は主が一応清掃したが、血の色も臭いも濃く残る。そこに布団を敷かれて、三日月宗近は寝かされていた。
天井を眺めながら、それでも三日月宗近は、失望も絶望も感じなかった。何が起きても、驚くようなことなどありはしない。意味を求めるのもまた無意味なことだ。
人が聞けば、何たる不幸な人生だと心を痛める話だろう。仲間を、主を、家を、全てを失い、新しく引き取られた先で暴行を受ける。笑えるほどついていない。
けれど当人が不幸だと感じていないのなら、この話は何色にも染まらぬ、ただの事実でしかない。
だから真っ白だ。三日月宗近の心は真っ白だった。
その夜も、主は三日月宗近の部屋にやってきた。
また傷つけるつもりなのだろう。刀を携えている。
三日月宗近は近寄ってくる主を無感情に眺めるだけだった。
「お前は感情が無いのか、三日月。前の主と仲間を亡くして、壊れてしまったか。ああ、その無表情も堪らない。恐ろしいほど美しくて、まるで人形だ」
好き勝手に言っている。反論する気もないので黙って聞いた。主の指が三日月宗近の髪を梳いた。やおら止め、刀を振りかぶり――
「おい」
聞き慣れない低い声が、部屋に響いた。
審神者の声でも三日月宗近の声でもない。
現に主は声を聞いた瞬間、恐怖のあまり肩を跳ねさせた。すぐ後ろから聞こえたのだ。
恐る恐る振り返る。
「よお。驚いたか?」
そこに、真っ白な男が立っていた。
「っ!」
顔を引きつらせて退こうとする審神者の首を、真っ白な腕が素早く掴んだ。骨と皮しか付いていないような細腕なのに、何たる怪力。自分と同じほどの背丈の審神者をそのまま宙吊りにした。喉が潰れる音が響く。
白い男は笑っていた。人間離れした怪力と気。間違いない、刀剣男士だ。
何とか解放されたいと、もがく審神者を吊り上げながら、白い男は三日月宗近に笑いかけた。
「やあ」
この場に似つかわしくない、優しい表情と声だった。
「お初…ではないんだよなぁ。俺を覚えてるかい?」
白い男に、三日月宗近はしばし考えた後、ああと頷いた。
「お前、演練で会った鶴丸国永か」
「嬉しいねえ。覚えててくれたか!」
興奮気味に喜びの声を上げながら、審神者を乱暴に柱に叩きつける。
そうだ、三日月宗近に綺麗だと声をかけ、意味を問ったあの男が、今目の前にいる鶴丸国永だった。
「二、三言葉を交わしただけなのに……よその刀剣の俺を覚えててくれたとは。こいつは自惚れてもいいかなぁ?
や、ちょっと待っててくれ。こいつを片付けるから」
気軽に言い放ち、自らの太刀を引き抜く鶴丸国永。片手は変わらず審神者の首を掴んでいる。
審神者は恐怖に顔を歪ませて震えていた。
「君、昨日はどれくらい三日月宗近を切り刻んだっけか。俺には人を痛めつける趣味は無いんだが……いやぁほら、殺す為の道具だったろう?でも今は、加減をしてみたい気分なんだ。付き合ってもらおうか」
審神者は目を見開く。
そこを脇腹に鶴丸国永が一閃した。声にならない声が上がる。
「また驚いたか?そうそう、俺は昨日も見ていたんだよな。あの時すぐに飛び出して、お前さんをバラバラにして、その肉を街に配り歩いて回りたいくらいの気分だったぜ。晒し首ならぬ晒し肉だな。お裾分けして皆を困らせるのさ。誰も不快に思うばかりで、悼む気なんて起こらんだろうよ。生ゴミだ。我ながら我慢強くなったもんだ」
饒舌に語りながら、三日月宗近の主を何度も貫いてゆく。三日月宗近に名を当てられた上機嫌のままの調子だが、内側に激しい怒りを滾らせているのが見て取れる。
肺に穴を開けられ、審神者は石に頭を何度も打ち付けて自死を選んだ方がマシなほどに苦しんだ。可哀想に失禁までしている。鶴丸国永は眉をひそめた。
「はぁ……恥ずかしくないのかね。仮にも三日月宗近の主なんだから、もうちょっとしっかりしてもらわなきゃあ困るぜ」
鶴丸国永の声が届いているのか否か。主は動かなくなっていた。その頭を柄で殴ると、また目を開けた。気を失っていたらしい。
「まだ行けるだろう?君が三日月宗近にしたことは、こんなもんじゃなかったよなあ」
肋骨に刃を沿わせる。無音の絶叫が辺りを震わす。
そんなことが幾度繰り返されたのか。審神者の身体は随分軽くなって、完全に物と化した。
「ふむ」
鶴丸国永は満足したようだ。物を見下ろして一人頷く。
太刀を清めて納めると、今度こそ三日月宗近の前に膝まづいた。
「遅くなってすまん」
愛しいものを見る目で、慈しむような音を声に乗せてくる。三日月宗近は、そんな鶴丸国永に対して何の興味も無かったが、ふわりと、思いついた疑問を口にした。
「俺を助けたのか?」
鶴丸国永は頭を掻く。
「うーん。助けたと言っていいのかな。話せば長くなるなぁ。道すがら説明しようか。……その前に」
人差し指をピッと眼前に立てた。
「君をもらうが、いいかい?」
拒否する理由も無い。
「好きにしろ」
鶴丸国永は、夜空に打ち上げられた花火のように破顔した。
「いやぁ、君の足を治させてから殺せば良かったなぁ。これはこれで嬉しいがな」
正装である狩衣に着替えた三日月宗近を背におぶいながら、鶴丸国永は楽しそうに笑う。
先の言葉は、単に三日月宗近を所有する宣言であったらしい。服を着替えさせるだけで、他には何もしてこなかった。
「お姫様を盗む武士か。はは、悪くない」
どこへ向かっているのか。夜の道を歩く。
「それじゃあ聞いてもらおうか、俺の身の上話を。興味が無いからって寝ないでくれよ?」
鶴丸国永は、三日月宗近一行が演練に赴いた本丸で、鍛刀によって生まれた。
元々退屈を嫌う性分だったらしい。最初の内は人間の身体を扱うことだけで楽しく、日常を謳歌していたのだが、その内苛立ちを覚えるようになったと言う。
過去、持ち主と共に墓に埋葬されていた鶴丸国永は、安らかな気持ちで眠りについていたところを人間に掘り起こされ、略奪された経験がある。人間とは何と浅ましい生き物か、この時ほど驚いた事は無かった。しかしそれ以来、彼は驚きの味を知り、虜となる。人の身を得た後でも、日常の生半可な新鮮味だけではすぐ物足りなくなった。
加えて、人間への嫌悪、憎悪が蘇る。何故自分はまたも人間の都合に振り回され、自分の意志で動けるのに、つまらない生き物なんぞに忠誠を誓わねばならないのか。元からあった恨みつらみが、人の身を得たことで鮮やかに花開いた。
鶴丸国永は人間だけでなく、この世の全てを恨んでいた。自身が物であった頃の無力感に起因することは分かっている。虚しい。この世は無慈悲だ。つまらない。必死に驚きと感動を探したつもりだったが、あの驚きに比べれば、他は些細なものでしかなく、結局鶴丸国永を楽しませてくれるものは何も無かった。そう悟ってしまった。鶴丸国永の心は既に死んでいたのだ。
何度か他の本丸で、同じ鶴丸国永から生まれた刀剣男士たちと会ったことがあるが、彼らはこの鶴丸国永とは全然違っていた。柔らかい雰囲気で、現状に満足している風に見えた。自分と同じ記憶を有しているのに、何故そんなに心穏やかで居られるのか。殺してやりたかった。
真っ赤に熱された鉄のように、鶴丸国永は怒りを内に宿していた。誰にも理解されない。させるつもりも無い。熱を分かち合うなど、それ自体が屈辱だった。
何でもいい、壊したい。仲間の刀剣男士に手を掛けようと思ったことは一度や二度ではない。それで刀解処分になっても、この苦しみと共に消えて無くなってしまうならそれでいいと思った。それでも踏みとどまってきたのは、主の誠実さと、戦闘任務に明け暮れることで発散してきたからに他ならない。
けれどそれも限界。任務をこなす度に、人間に使われる為に作られた自分を痛感せざるを得なかった。人間を恨みながら、人間らしい心を求め、人間に道具として使われる。退屈で。認めたくなくて、いいや世の中には驚きが満ちていて、毎日楽しいと、仲間の前では陽気に振る舞ってみせた。そうした矛盾が鶴丸国永の心を摩耗させて、息をできなくしていった。
人間たちは歴史を守れと言う。それなら、歴史全て壊してしまいたかった。
そんなある日だった。鶴丸国永が三日月宗近に出逢ったのは。
「あの日、俺は来客を誰でもいいから手に掛けようと思ったんだ。君を殺す気で居たんだぜ」
三日月宗近を皮切りとして、あの本丸に居た全員を亡き者にしようと思っていた。鶴丸国永は常に戦闘に明け暮れていた為に、あの本丸で一番強かった。とは言え、実行していたら全員に手を掛ける前に始末されていたかも知れない。けれど、この憎しみの強さなら、この世全ての命を滅ぼせると思った。
そう意気込んで、三日月宗近を初めて見た。その時、目の前が真っ白になった気がした。
何と清廉なのか。
三日月宗近という刀剣男士には、今まで幾度か出会ったことがある。美しく強い刀だと思ったが、それ以上の気持ちは湧いてこなかった。しかし今自分が目にしている三日月宗近は何だ。彼の気配からは、一切余分なものを感じない。
座して真っ直ぐ背筋を伸ばし、庭の桜を見つめる彼の目には、何の感情も浮かんでいなかった。その横顔に見とれた。見とれても足りぬほど見とれた。
虚ろな訳ではない。それではその辺の石ころと変わらない。三日月宗近は確かに心を持っていた。なのにその器は空っぽだ。ただ座っているだけで、何もかも全てを受け入れる在り方を体現していたように見えた。
呼吸を忘れ、思わず声を掛けていた。
「綺麗だな」
三日月宗近はこちらに目をやる。ぞっとするほど美しい容貌だった。
「そうか」
二人の間にはひと部屋分ほどの距離が空いていたか。それなのに、三日月宗近の声は、まるで耳元に囁かれたように鮮明に染み込んできた。心臓が熱く脈打つ。
うっとりと見つめている間に、ああ、三日月宗近が視線を正面に戻してしまう。会話が終わってしまう。
風が吹き、花びらが視界に舞い込む。三日月宗近の気配は死人のそれに近く、朧げに霞む気さえする。花のように、はらはらと消え去ってしまう錯覚を覚えた。
「儚いねえ」
溜息がちに、鶴丸国永は、三日月宗近だけを見て言った。
「そうだな」
今度は視線をこちらにくれず、声だけで答えられる。目を合わせられないことを残念に思ったが、不思議と腹は立たなかった。
興味が湧く。この三日月宗近は、自身を、この世をどう捉えているのだろうか。人に扱われるだけの生に疑念は無いのか。
「君は、意味はあると思うかい」
正確に答えが返って来ることを期待してはいない。曖昧にぼかした問いで、それとなく三日月宗近の心情を探りたかった。
けれど返答は、期待以上のものだった。
「意味のあることなど、どこにも無い」
――ああ、なるほど、意味は無い。
人の思惑も、歴史も、命も、死も、退屈も、鶴丸国永の憎悪にも、何の意味も無かったのである。
三日月宗近の言葉は恐ろしく素直に、胸にはまった。
合点がいった。
誰とも分かち合えなかった鶴丸国永の闇を、三日月宗近が初めて受け入れてくれた気がした。
だからその言葉で、鶴丸国永は救われた。
いや、三日月宗近の在り方が、鶴丸国永にとっての救いだった。
出逢った時に、既に救われていたのだ。
腹を焦がしていた憎悪が霧散していくのを感じた。塞いでいたものが消え、思い切り息ができる。ついぞ鶴丸国永は、仲間の命も客人の命も奪うことは無かったのである。
鶴丸国永は恋をした。刀が恋をするなどおかしいだろうか。でも、これを恋と言わねば何と言うのだろう。
おかしいと言うなら、刀に心が芽生えたことからおかしかった。何もかも最初から無意味でおかしかった。
だから確信を持って言う。これは恋だと。
それから鶴丸国永は、三日月宗近のことばかり考えるようになった。彼の所属を調べ、動向を探った。ははあ、今回助けに現れたのもその延長か。想い人の危機に颯爽と駆けつけ助け出した。人が聞けば美しい恋話だと思うだろう。だが、果たしてそうだろうか。
「試して悪かったな」
鶴丸国永は、三日月宗近の本音を知る必要があった。あれだけ三日月宗近の精神に救いを見出したものの、あの言葉が口先だけのものであったなら、ただでは済まさない。
異常な執着をしていた。
だから、三日月宗近の身の回りのものを、根こそぎ取り払って確かめようと思ったのだ。
「あの日、君の出陣を見届けてから、君の本丸に客人として訪ねたんだ。主も仲間もいい奴だったな。
あんな仲間たちを一斉に失ったら、誰もが絶望に打ちひしがれるだろう、普通の神経なら」
本丸の全員を亡き者にし、灰にしたのはこの鶴丸国永だった。
「その後君たちの後を追って過去へ飛んで……気付いたかい。敵に合図をしたのは俺なんだ。君たちの進路は分かってたからな」
三日月宗近たちの進路に敵を合流させ、窮地に追いやった。
何でもない事のように言う。
「君の仲間は大した強さじゃあなかったから、最後は君が残るだろうと踏んでな。飛び道具の刀装は、特別に持ち出したんだ。普通の行軍なら飛び道具を付けられる余裕は無かったが、俺は今回自分で戦う必要が無かったから、まぁ許してくれ」
敗走する仲間たちを全滅させたのも鶴丸国永だった。
「目の前で仲間たちを失っても、帰る場所を失っても、君は平然としていたなぁ。嬉しかった。
ああ、次の主がろくでなしだったのは僥倖だった。戦場より更に追い詰められた状況で、命の危機に脅かされる君を見ることができた。君を他人に触らせるのは、血液が逆流しそうなほど癇に障ったけどな。あいつが君に馬乗りになった時なんか目の前が真っ赤になったぜ。もし手込めにしようとしたら我慢できなかっただろう」
最初の夜に三日月宗近を助けなかったのは、心を確かめる最終段階だったことと、傷が癒されるのを待つ必要があったからだ。刀剣男士の怪我は審神者にしか治せない。正装も刀剣男士の一部ゆえ審神者が治す。髪の毛一本すら、切られれば自然には伸びないのである。
「君は、全てを受け入れてくれた。俺には君が必要なんだ」
深夜の無音。鶴丸国永は足を止め、公園の腰掛けに三日月宗近を座らせた。
正面に膝をついて、想い人の顔を見上げる。
「三日月宗近、君を愛してる」
まっすぐな目。
「俺と一緒になってくれ」
鶴丸国永は狂っていたのだろうか。
いや、これを狂っていると言うなら、物が心を持った時点で狂っている。生まれた最初から狂っていた。
物に人の体を与えた人間も狂っている。よって、鶴丸国永を狂っていると言うことは、誰にもできなかったはずだ。
三日月宗近は冷静に、鶴丸国永の金の瞳を見つめ返す。
「さっきも言ったであろう。好きにしろと」
「まぁ、そりゃそうだな。けど……」
鶴丸国永は困った顔をした。
「こうして改まって愛を告白したいってのも、人の性じゃないかい。俺たちは刀だが」
唇を尖らせて愚痴る。三日月宗近は無表情のまま、子どもに言い聞かせるように口を開いた。
「ではこう言っておこうか。
嬉しくもないが、ありがとう。受けてやる」
「ははっ」
鶴丸国永は吹き出す。立ち上がると、三日月宗近の隣に座った。腰に手を回して体を寄せる。
「君らしい」
頬に掌を添えて、穏やかな声を掛けた。そのまま、唇を重ねる。
宝物を扱うように優しく触れていた癖に、舌を三日月宗近の内部に侵入させると荒々しく絡めてかきまわし、口内を犯した。
頬に添えた手は後頭部にずれていき、美しい黒髪を掴んで乱す。
腰掛けの上で、三日月宗近に体重を掛ける。倒して、のしかかった。
「……ん……」
息苦しそうな声が下から漏れる。
いかほどの時間三日月宗近を味わっていたか、やっと鶴丸国永は、名残惜しそうに唇を離した。お互いに息が荒い。
「……すまん……苦しかったかい」
「気にするな……」
自分の下に横たわる美しい刀は、月を宿した双眸で、どこも見ていなかった。いや、視界全体を平等に見ているのか。
「君のことを、そうだ、月の羽衣を着せられた姫みたいだと、思ってたんだ……」
古い物語の主人公、竹から生まれた月の姫のことである。
月の姫は老夫妻に育てられ、幸せに暮らしてきたが、月から迎えがやってくる。月は清らかで死も無くつまらぬ所。老夫妻への恩義と愛着もある。姫は帰るのを嫌がり、拒んだ。
しかし月の使者が羽衣を姫に着せると、愛しく思う心はたちまち消え、姫は月に帰ってしまう。月の羽衣は、物思いを消してしまう力を持っているのだ。
「竹取の話か……。しかし俺は、不死の薬も持っていないし、お前に難題を課すつもりも無い」
「難題なら課されてるんだな、これが」
鶴丸国永が無邪気に笑う。
「俺は君に救われたんだ。だから、今度は俺が君を救いたい。君の為なら何でもしたいんだ」
これが……
これが、三日月宗近から全てを奪い、傷つけさせ、命を脅かした者の言葉だろうか。
「君は何をして欲しい?」
「お前は不思議なことを言う。して欲しいことなど何も無い」
「あはは、そうだろうな。
じゃあ、取り敢えず行こうか」
「どこへ」
「過去がいい。ここよりは追っ手の目を避けられるだろ」
鶴丸国永は元の主から盗み出した装置で、過去への道を作ることができた。一方通行ではあるが、政府にとっては大変なことである。
三日月宗近は知らなかったが、鶴丸国永はとうに指名手配犯になっていた。そして三日月宗近も、朝になれば主の死について容疑をかけられ、追っ手が差し向けられるだろう。
二人の罪人がこの地を追われるのは、至極当然のことだった。
「いや、ついてないなぁ」
検非違使の槍を躱しながら、鶴丸国永は歌うように愚痴る。
こちらの所在を突き止めるのは、時の政府より検非違使の方が早かった。もとい、偶然出会ってしまったのである。この時代には歴史修正主義者側と刀剣男士の戦いがいつも行われている。両者をまとめて抹消しようとする検非違使が巡回しているのは当然だった。
三日月宗近は戦えないので木の上に隠しているが、鶴丸国永はいつ見つかってしまうか気が気でない。早く片付けたい。
「俺みたいなはぐれ者より、人間のお仲間を相手にしてくれんかね!」
槍の薙ぎ払いを、間合いを詰めてかいくぐる。太刀を翻し、検非違使の目を斬ることに成功した。返す刃で首を落とす。
相手の絶命を確認し、鶴丸国永は辺りの気配を探った。
「他には居ないか……ったく、温存してた刀装兵をたっぷり持っていきやがって」
一本の木を見上げ、両手を広げる。すると、上から藍色のものが落ちてきた。鶴丸国永の両腕はしっかりとそれを受け止める。
腕の中の、三日月宗近の無事な姿を見て一息ついた。
「待たせたな」
「俺を連れていくのも限界ではないのか」
「冗談。墓まで連れて行くぜ。いや、墓から暴かれてもな」
気丈に笑った。
二人の逃避行も、長続きしそうにない。
手配されているため、刀剣男士達に見つかれば追われる。歴史修正主義者の軍にも幾度か見つかって戦闘を繰り返している。その戦いの跡を検非違使に察知される。希望が無かった。しかし鶴丸国永のしてきた所業を考えれば当然の報いか。
この日も、やっとのことで夜を迎えた。
今宵は洞窟で過ごす。鶴丸国永の羽織でくるまれた三日月宗近は、隣に座る疲れ切った様子の恋人を眺めていた。
「眠りたいだろう。俺が見張りをしても良いんだが」
「いい。君に見張りを任せたら、敵が来ても俺を起こさないだろ」
「俺の今の主はお前だ。命じられたことはその通りやる。が、信用が無いのも仕方ないことだな」
「……」
黙りこくったと思えば、鶴丸国永は唐突に手を繋いできた。
「じゃあ、少し話そう。俺が寝ないように相手を頼む」
「わかった」
三日月宗近の素直な了承に、ふ、と鶴丸国永の頬が緩む。
「……なぁ、三日月宗近」
「何だ」
「三日月」
「聞いている。何だ」
「君は、この世のどこにも意味など無いと言ったよな」
「ああ」
「俺もそれに同感だ。過去も未来もくだらない。正義も悪も、喜びも悲しみも、ただの見方の違いなら、何を信じても、信じる価値さえ無いんだ」
「そうだな」
「いつかみんな消え去る運命なんだから、この世に意味は無い。生に意味が無いなら、死後にだって意味は無いだろう。……君が俺に教えてくれた」
「うん」
「で、俺はもう少し深く考えてみたんだよ」
鶴丸国永は、絡めた指を強く握ってきた。
「世界っていうのは、俺が作ってたんだ。
地球とか太陽とかそういう話じゃない。俺が見て、感じて、思ったものが俺の世界だ。それ以外のものは無いのと同じだったんだ」
「ふむ」
「君は器が大き過ぎて、自分の世界が持てなくなったのかも知れない。全体を見ちまうんだ。それに俺は救われたけど……」
「……」
「三日月」
「聞いている」
「君は、世界だ。全体の世界を見てるから、神様みたいな視点を持ってるんだ。その神様に俺は赦された。君が受け入れてくれたから、自分はここに居てもいいんだって、そう思えたんだよ」
「……」
「俺の世界は狭かった。窮屈で、息ができなくて、本当に苦しかった。
でも君のおかげで、君の視点を知り、一つ高い所へ居場所を築くことができたんだ。
君は俺の救世主だ。すごいだろう?世界を救ったんだぜ」
鶴丸国永は幼い口調で語る。
「この世はいつか消えるけど、俺の世界は、きっと何度でも蘇るんだ。君さえいれば。それが君の教えからたどり着いた俺の考えだ。
だから、自分の世界が無い君を、俺は少しばかり不幸に思ったんだよな。
君はもう、幸も不幸も感じないだろうけど……」
指をより強く握る。
「今を永遠にする方法だって、俺は知ってるぜ。
俺の世界なんだから簡単さ。精一杯生きればいい。そうして記憶に焼き付けるんだ。
だから、三日月」
鶴丸国永が、三日月宗近の顔を見る。目が合う。
「意味がまるっきり無いわけでも、なかったんだ」
鶴丸国永は三日月宗近の在り方に惹かれて、彼の全てを奪うことにより救われた。
否。三日月宗近は自分の世界を持っていなかったのだから、何も奪われることなど無かったのだ。だから鶴丸国永も罪悪感を覚えていない。
何も奪っていないのだから、変わる訳もない。
空っぽの、真っ白な三日月を好きになった。
そこに自分の居場所を見つけたから。
「俺は君に助けられた。だから、そのお返しがしたいんだ」
「俺を助けたいのか。何も困っていることは無いぞ」
「聞いてくれ。君に出逢ってから、俺の世界は二つになったんだ。君の視点と、俺の視点。
二つの世界を持つことは、君にとっても快適なことじゃないかね」
鶴丸国永の意図を、三日月宗近は理解した。
「なるほど。難題だな」
「そうだろ?君の月の羽衣を、少しだけ剥がそうって言うんだ。幸せを感じられるように」
「しかしお前は、俺の空虚さに惹かれたのではなかったか。矛盾している」
「君を空虚だなんて思ったことは無いさ。君には心がちゃんとある。ゆとりがあり過ぎるだけさ。
だから……俺が入れば、ちょうど良くなるんじゃないかね」
鶴丸国永は甘えるように、絡めた指を擦った。
三日月宗近の肩に、自分の頭を置く。
伸び上がり、唇を合わせた。
今度は短い接吻だった。
「要するに、お前は俺に、恋をさせたいのか」
「ああ……ああ、そうだな。そういうことだ。
何だ。最初からそう言えばよかった」
ふふ、と鶴丸国永が笑った。
鶴丸国永は恋をして、相手にも自分に恋をして欲しかった。
何のことはない。それだけの話である。
片想いを両想いにしたいという、ごく普通の話だったのだ。
この夜鶴丸国永が語り合いたいと言い出したのは、旅の終わりを予感してのことだったか。
夜の闇を、人口の光が引き裂く。
鶴丸国永は三日月宗近を抱き締めた。
何かが風を切る音がして、続いて、ドス、と振動が伝わった。
三日月宗近は肩越しに、白い男の背から何かが生えているのを見た。いや、生えているのではない、刺さっているのだ。
政府の手先が突入して来る。
白い背中が赤く染まるのを眺めていると、突如、視界がぼやけた。
純粋な疑問が口をつく。
「どうして」
その声に、鶴丸国永は薄れゆく意識を必死で手繰り寄せ、力を振り絞って体を起こす。腕の中を見た。
「どうして、そこまで」
月の姫が、涙をこぼしていた。
どうやら最後に、羽衣を取り去ることに成功したようだ。
鶴丸国永は、一番優しく微笑む。
言葉になっているかどうかも分からない掠れた声で、こう返した。
「もう、わかってるんじゃないかい」
全ては自業自得だったか。
長く短い旅の末に、やっと望みにたどり着いた。
それなのに、こんな結末では泡沫の夢と何も変わらない。
意味が無い。
しかしこの世には元々意味が無いのだから、その言葉も今更だ。
だから、意味を感じる者だけが感じればいい。
物語はこれで終わりだろうか。
いや、月の姫の物語なら、月の羽衣を着たところでとうに終わっている。不死の薬を焼くのは別の者の役目だ。
これはもう、物語が終わったその先の話なのである。
それなら終わらせることにも意味が無い。
新しい物語を始めなければ、驚きも何もないだろう。
「……ですから、あなた方の精神の不安定さは、こちらにも非があると……」
「だから錬結で直すって?自分が何言ってるのか今一度よく考えな。若僧が」
政府の施設内、三日月宗近と鶴丸国永は捕らえられていた。
ーーあの夜。
生死の境をさまようほどの傷を負った二振りは、政府に回収された後も奇跡的に生きていた。
生け捕りは願ってもないことだった。政府側も、二振りがどうしてこのような行動に及んだのか調査をしたかったのだ。
傷を癒された二振りは検査と取り調べを繰り返し受け、今は力を出せないように注連縄で自由を奪われている。
拘束を解けば、今にも目の前の役人審神者を噛み殺しそうなほど、鶴丸国永はいきり立っていた。
審神者は慌てて説明をする。
「政府はあなた方の処分を望んでいますが、我々審神者は原因の解決を優先したい考えなのです。これからあなた方のような、障害を持つ刀剣男士たちが増えないとも限らない」
「障害、だって」
低い声。殺気。
もはや気配だけで相手を殺せるのではないか。
かわいそうに、審神者は怖気付いて数歩後ずさる。腰を抜かさなかっただけ誉められたものだ。
「……つまり」
今まで黙って話を聞いていた三日月宗近が、涼やかに言葉を紡ぐ。途端、鶴丸国永の纏っていた殺気は霧散した。
「鍛刀の際に何らかの不均衡が生じて、俺たちは元の刀が持つ性格から外れてしまったということか」
「はい、ええ、仰る通りです」
「性質も変わってしまったと」
「その通りです」
「なら、直せばいいのではないか」
「三日月ぃ!」
鶴丸国永が非難の声を上げる。
「鶴丸国永、お前は生きるのが苦しかったのだろう。ちょうど良くはないか」
「良くない!全然。というか、今は一番楽しい時だぜ!
もう……君は俺の話を聞いてたのか?」
大きい溜息をつく。
これが、三日月宗近の命を脅かし、仲間を奪い、その主を二度に渡って殺した残虐非道の刀なのだろうか。経緯を知らなければ微笑ましく思えただろうやり取りを、審神者は呆然と眺めていた。突然、その目を、鶴丸国永が鋭い眼光で射抜く。突然のことで心臓が竦み上がった。
「俺たちを消したいなら刀解でもするんだな。だが作り変えるのは駄目だ。
全く、人間はこういうのを個性と言うんだろう。それを消す権利なんてあるのかい」
「まぁ、それもそうだな」
「……さっきは直せばいいと言ったくせに。全肯定してくれるのが君らしい」
三日月宗近の言葉に一喜一憂する鶴丸国永は、とても健常に見えた。もしかすると、この不良品の刀たちは、二振りで一つの刀だったのかも知れないと、審神者はぼんやり感じた。
「第一、俺は重犯罪者なんだろう。人間の罪はよく分からんが。処刑して見せた方が示しがつくってもんじゃないのかい」
「それは、あなた方に責任能力を問うことになりますので……障害、いえ、その……。そもそも、刀剣男士の罪は我々には裁けません。
それと、民間人の不安を煽って刀剣男士の運用に支障が出てもいけないので、あなたがやった事は、関係者以外には伝わらないでしょう」
「あの暴力審神者のやった事と同じようにかい」
「はい……あれも、審神者の恥です。三日月宗近さんには申し訳ないことをしました」
「気にしておらんよ」
三日月宗近は薄く微笑む。相手を安心させる為に条件付けられて浮かべた笑みなのか、それとも気遣う感情があったのか。審神者には判別がつかない。けれどその後に続いた言葉は、きっと本心だったろう。
「あれのおかげで、鶴丸国永と一緒になれたからな」
そう。
今までが鶴丸国永と出逢う為の道だったなら、全てのことに、意味しか無かっただろう。
はっと息を呑む音がする。
鶴丸国永が三日月宗近を見た。
「まぁ、意味のない話だがな」
「ふっ……あはは、そうだな意味がない!確かに!」
鶴丸国永は縛られたまま笑い転げた。
審神者には訳が分らない。
しばらく笑い倒した後、ひぃひぃと息を必死で抑えながら、鶴丸国永は審神者に問った。
「で、どうするんだい。俺としちゃあ、このまま見逃してくれれば何にも危害は加えない。隠居して暮らすことを条件に生かして欲しいんだがね」
「俺は刀解でも錬結でも構わんが」
「君は黙って」
審神者は思案した。
鶴丸国永の目は本気だ。拒否すれば、また如何なる手を使っても脱走を謀りそうに見えた。
「実は、刀解は考えておりません」
「へえ」
「お二人は、三日月宗近と鶴丸国永という刀の本質から、ずれてしまったようなので……元の刀の中には戻せないだろうという話です」
「まぁ、道理だな」
三日月宗近はうすうす感づいていたらしい。冷静に頷いた。
「じゃあ破壊処分しか無いってことかい?祟るぜ。
いや、三日月共々、他の生き物に乗り移ってやるのも面白いな」
軽い口調で恐ろしいことを言う鶴丸国永。
だが、可能性が無い話でもなかった。刀の付喪神を人の身に降ろしたのだから、その気になれば、体を乗り換えることだって理論上できるかも知れない。特にこの鶴丸国永の執念と言ったら限りない。不可能でも可能にしてしまいそうだった。
審神者は頭痛がした。
「……お二人の意見は分かりました……。会議に上げますので、沙汰をお待ちください」
結果、どうなったか。
二人はある実験の対象となった。
実験と言っても二人は刀剣男士のまま、そのまま生きている。
命じられたのは、武装を取り上げられた上での監視付きの共同生活であった。
脱走すれば今度こそ錬結か破壊処分。人に危害を加えても同様。二人が共に居れば正常に機能をするのか、これはそういう実験である。欠けたものと、持て余したものを組み合わせるということだ。
結局鶴丸国永の要求を呑んだことになるが、これは審神者側の非を認めた上での最大限の譲歩であっただけではない。
この二人は、一緒に居ると殊の他強いのである。
時折出陣を命じて敵を倒させると、通常の鶴丸国永や三日月宗近よりも優秀な力を発揮した。
人間の手先なんか御免なんだがな、と鶴丸国永がぼやくと関係者は肝を冷やしたが、そこへ三日月宗近が贅沢は言えまい、と声を掛ければ忽ち機嫌を直すのだ。
扱いに注意が必要だが、元の刀剣より有用性があるのではないかと言う者さえ現れるほど。だがそれはこの二人の物語とは関係が無い話だ。
経過は良好で、いずれまた正式に任務に参加することになるかも知れない。
そうなった時、最も懸念されるのは片方が破壊された時のことだが、その場合は残された方も破壊を選ぶと二人とも即座に答えた。
これが正しい処置だったのかは誰にも分からない。殺されたものたちの無念はどうなる。裏切りの危険は本当に無いのか。問題は山積みだ。
簡潔な終わりより、面倒な生であることは誰の目にも明らかだろう。
けれど、物語の主人公は月の羽衣を脱ぎ捨てたばかりで、何もかも、始まったばかりだ。
全てはこれからである。
二人はこれからも生き続けるし、どんな終わりが待ち受けていようとも意味はない。
この世には何の意味もないし、物語という枠にも意味はない。
もはや二人は別物なのだから、三日月宗近と鶴丸国永という名前にも、意味はなかった。