増殖する忠犬へし公の群れに地獄の補佐官様は打って出るようです ここは地獄の閻魔庁、泣く子も黙る閻魔大王のお膝元である。
「あれ、ちょっとどうにかなりませんかね」
その男が猫であれば、たしんたしんと尻尾を床に叩きつけているだろう。不機嫌そうに腕を組んで、バリトンボイスを響かせているのは閻魔――ではなく、閻魔大王の第一補佐官、鬼灯だった。
地獄のナンバーツーと見せかけた裏番と人は呼び、その手腕は国外にも名をとどろかせる。EU地獄の王であるサタンですら、彼の名を聞けば身構えるともっぱらの噂。
そんな彼が今頭を悩ませているのは、つい最近報告が上がった案件についてだった。
西暦二二〇五年、歴史修正主義者による、過去への攻撃が始まった。時の政府は、眠っている物の心を呼び覚ますことのできる人間、“審神者”と、彼らによって顕現した刀剣の付喪神、“刀剣男士”を戦場へと送り、敵対する“時間遡行軍”との戦いへと飛び込ませた。
そうして長い時間を経て、ようやく戦争は勝利に終わる。お役御免となった審神者たちは人の世へ、刀剣男士たちは各々の本霊へ、皆が在るべき場所へと戻っていった――はずだった。
「あちらの戦で、こちらも諸々の処理で散々引っかき回されて……ようやく終戦だと思ったらこれですよ!」
どん、と金棒で床を突き、何度目かの舌打ちが補佐官の口から漏れる。
最初の報告は、地獄の門番、牛頭と馬頭からだった。
「刀剣男士を名乗る、生き写しの若い男たちが門の前に大挙して集まっている」
彼らは全員、同じ動機を口にしていた。主をここで待っているのだ、と。
「確かに、空から確認しました。おおまかに見積もって数百、といったところです」
「アリの大群ってあんな感じだよな……」
「でもね、悪い人じゃなさそうだよ! 俺なでてもらっちゃった!」
一羽は冷静に、一匹は恐れおののき、そして一匹はおおはしゃぎで。とり急ぎの一報をもたらした、日本昔話の立役者トリオのテンションはいつもと変わらない。
一番の適任だからと偵察に行ったルリオに、その背でさぶいぼを立てていた柿助、そして単身で群れへと突撃していったシロ。三者三様の報告に、鬼灯の眉間に改めてしわが寄る。
「へし切長谷部、でしたっけ。忠誠心の高い、真面目な個体が多いって聞きましたし。まあどかないでしょうねえ」
いわば、分霊たちの集団家出である。子供の家出であれば腹がすけば戻るだろうが、事態はそんな単純なもんじゃない。そういえば、と頬に手を当てたのは、鬼灯の隣に控えていた衆合地獄の副主任だった。
「戦争の真っ最中からちらほらいたわよねえ、あの人? たち」
「戦場で破壊、つまり死亡した個体ですね。極の実装後から――あのとき多少対策を練っていればよかったのですが、いかんせんそれどころじゃありませんでしたから」
「きわ……なに?」
聞き慣れない言葉に、閻魔大王が首を傾げる。つまりですね、と咳払いをした補佐官殿の表情は、彼の部下の一匹を彷彿とさせるほどの『無』であった。
「イ○ブイではなく、サ○ダースやブース○ー等に進化してから死ぬと、こちらで審神者を待つというルートに入れるんです」
「よく分かったけど、そんな可愛い例え使っちゃっていいの?」
「ワ○リキーとかよりは的確でしょう。個体差が激しいともっぱらの評判らしいですし、ピ○チュウはもういるそうですから」
「え、いるの!?」
「あだ名ですわよ、大王。あだ名」
「え、ええ……やめてよ鬼灯くん、真顔で言うからわかりにくいんだよ君の冗談……」
鬼灯様、という呼び声とともに、ぱたぱたと軽快な足音がこちらへかけてくる。一応彼らの所蔵場所に確認をと、現世とコンタクトを取っていた部下の小鬼コンビの姿だった。
「唐瓜さん、福岡と連絡取れましたか。本霊からのコメントは?」
「えーっと……気持ちは分かるし、同情もなくもない。第一、未練残ってる輩にわらわら戻られても。だそうです……」
「戻らなくても特に困りはしないので、対応はお任せするって。つまり、こっちに全部ブン投げられました!」
ぴしり、と敬礼した茄子の身も蓋もない要約に、唐瓜がため息をつく。それ以上に深くため息をついた鬼灯は、面倒くさいことになったという態度を隠しもせずに上司を振り返った。
「だ、そうです。どうしますか? 大王」
なんだかんだ言ってはいても、地獄の最高責任者の判断を違える補佐官ではない。片ひじをついてハの字に眉を下げた閻魔大王の声には、少しばかりためらうような響きがあった。
「うーん、確かに同じ顔が大量に集まってて威圧感はあるんだけど……なんか見ているとけなげでさあ、かわいそうになってきちゃって」
「忠犬ハチ公だ!」
「へし公ですかね、むしろ」
シロの呑気な一言に、鬼灯が律儀にツッコミを入れる。現世でのイメージはともかく、優しい部分を最初から捨てる気がない大王のことだ、誰も彼の同情に満ちた言葉に驚くことはなかった。
「戦争は終わりました、もう役目は終わったので戻ってくださいっていうのも、ちょっとね。だって、ずっと同じ本丸で一緒にいたんでしょ? 大切な人と人間の都合で出会ったのに、今度は引き離されて一生会えませんってなったらさ、へし切長谷部くん以外の子たちがこっちに来ないほうが不思議なほどだよ、むしろ」
「納得できていない個体は、まず確実に他の刀剣男士にもいたでしょう。おそらく執着心が多人数になったことで膨らんだことと、本霊の放任主義の結果かと。戦局が終盤のころには本丸の数が減っていて、あちらは大変だったでしょうが逆に助かりましたね、こちらとしては」
そう言うと思った、鬼灯の声がそんなことを言外に匂わせても、閻魔はまだ頭を抱えている。なにせ、最高責任者だ、同情なんてものから簡単に判断していい議題じゃないことを彼は知っている。
「でも、裁判の証人としてもねえ、主さんたちのこと大好きみたいだし、公平性とか大丈夫かなって……」
「初江王のところでしょうかねえ、証言させるなら。初期刀は派遣していただこうかと思っているんですけど」
「刀剣男士ってペット扱いでいいの? 怒られない? 天津麻羅さんとかにさぁ」
追い返そうか、どうしようか。迷っている様子はあるが、方向性としては決定だろう。己の中でそう判断を下し、鬼灯はぱん、と手を打ち鳴らした。
「それは追々考えるとして、まずは今直面している問題を片付けに行きましょうかね。唐瓜さんと茄子さん、一緒に来てください」
「ほ、鬼灯くん、お願いだから穏便にね?」
神か妖怪か、ジャパニーズ人外のご多分に漏れず微妙な立ち位置とはいえ、相手は付喪神。いくら地獄最強の鬼であろうとも、立場の上下は微妙なところだ。
「大王、勘違いしないでください。私は別に彼らを追い払おうとは思っていませんよ。そんなわけで、少し現世に行って参ります」
「え……君、まさか」
小さな舌打ちは、フラストレーションのなれの果てか、非情になれない上司へのいらだちか。それは、その場の誰にも判断できなかった。
「歴史改変のあれこれだの、戦後処理だの。ただでさえ万年人手不足だったところに、さらにあんなのブチ込まれてるんですよこっちは。使えるものは使うに決まってるでしょう」
「あの、鬼灯様。現世って、どこに?」
狙いが読めず、おそるおそる疑問を口にした唐瓜に、鬼灯はいくつかの施設名を挙げた。本当に穏便にね? と念押しのような閻魔の叫び声が響く。
「福岡、都内で数カ所、茨城に京都、大阪とそれから……ああ、個人宅もですね。目星は付いていますから、たぶん行けるでしょう。お香さんには、五官庁への伝達をお願いします」
上司の迷いを感じ取り、その意向に沿った結論へとお膳立てをする。そんな補佐官の職務を知り尽くしたベテランは、まったく世話が焼けるとぼやきながら自室へと準備に向かっていった。
「――すまんのお」
傍らから聞こえたのは、初期刀の小さな謝罪の声だった。
「何の話だ、陸奥守」
俺の視線の先にいたのは、伊達の刀。深々と頭を下げた大倶利伽羅の前では、太鼓鐘の背を抱いた主が微笑んでいる。燭台切の顔は涙と鼻水にまみれ、普段のあいつだったら憤死しそうな醜態をさらして鶴丸に二箱目のティッシュを差し出されていた。
いつになく、今日は泣き上戸が多い。肴も酒もそこそこに全員が話に花を咲かせ、挨拶して回る主が巻き込まれて……おそらく、こちらに戻られるにはもうしばらくかかるだろう。
壁際では泣き疲れたらしい大和守が相方にもたれて眠り、まぶたを真っ赤に腫らした加州はそれを邪険にすることなしに猪口を口にしている。その隣では堀川が、抱きついてきた彼の相棒と兄弟たちに埋もれて困ったように笑っていた。
団子のように集まった粟田口の中心では彼らの長兄が、薬研と包丁を離さない。江雪は小夜を、対抗するかのように宗三は不動をそれぞれ膝に抱き、最終的に泣き出した兄たちに釣られるかのように二振りもぽろぽろと涙を流している。
来の保護者は愛染と蛍丸を抱きすくめたまま動かず、いつもは辛辣な弟分たちも今日はされるがままだ。三槍で車座になっていた蜻蛉切の背には、膝を抱えた村正がそっともたれかかっていた。
「最後の夜じゃ。わしらも全員、はよぉ引き上げさせてやりたい思っちょるが……なかなかの、難しいきに」
そう、明日になれば、この本丸は解体される。
戦が終わり、三週間というあまりにも短い――もっとも、通告してきた役人どもにとっては長過ぎるほどらしいが――猶予期間を経て、何年もの時間を過ごした場所を俺たちは後にする。
それと同時に、ここで築き上げてきた仲間たちとの関係も終わりだ。
俺たちは本霊へと吸収されて、代わりの利く駒としてではなく、この世に唯一の歴史的な文化財という元通りの立場へと。
そして主はひとり、普通の人間としての生活へ。
「何を、今さら……そんなことを言ったら、俺のほうこそ」
今すぐ彼女を部屋へと連れて行きたい。一晩中どころか、最後の瞬間まで離さずに――いや、いっそのこと、“そのとき”が来る前にその手を引いてどこかへ。そんな馬鹿みたいな考えがよぎることは、弁解のしようがない事実だ。
けれど、この場所で過ごした年月が、その間に育った意識が、そんな幻想に警鐘を鳴らす。築き上げた仲間たちとの時間が、目を覚ませと俺の罪悪感に刃を突きつける。
いい加減にしろ。主を慕う皆の気持ちに偽りがないことはお前だって知っているはずだ。今までの時間を尊重するならば、このまま広間で最後の夜を明かすべきだろう、と。
「お互い様、じゃな」
視線の先で、大倶利伽羅の下げられっぱなしの背中が、何かをこらえるように震えている。伸ばされた彼女の手のひらを浅黒い腕が掴み、なにかをささやかれた主の瞳からとうとう涙がこぼれ落ちる。彼女の背中をさする鶴丸は、ただ寂しそうに、優しい笑みを浮かべていた。
狂おしいほどに思った。明日、人としての生へ戻られるあの人が、いつかその道の果てに到着されたとき。その場所で迎えるのが、俺であったのならと。
そうしてやってきた次の日。俺は主と別れ、気づけば地獄の入口にいた。
「大挙して居座られると、こちらとしても困るんですが」
閻魔の補佐官だと名乗ったその男は、俺たちを睨(ね)めつけて腕を組んだ。
意外と、地獄という場所は体制がしっかりしているらしい。ただひと振りでぽつんと数十年を待つことになると思いこんでいたが、ここへ来て最初に見た光景は、なにもかもが予想外だった。
「……終わったようだな、戦は」
そう言って立ち上がった、数振りの“へし切長谷部”たち。そして周囲には、見渡す限りの“へし切長谷部”の大集団。まるで自分が無限に増殖したような光景に、うわあ、と思わず声が出た。
「へし切長谷部はへし切長谷部ということか、どいつもこいつも……」
「昔、主と遊園地に行ったとき入った屋敷だな、まるで。ミラーハウスとかいう……」
傍らにいた別のへし切長谷部とそんな会話をしていると、門の向こう側から地響きのような足音が近づいてくる。顔をのぞかせた巨体の姿に、俺も周りの連中も、一斉に抜刀体勢を取った。
「あらあら、まあまあまあ!」
最初に現れたのは、華やかな装いをした、人語を解する白い馬。そしてそれに続いて見えたのは、髑髏の首飾りを身につけた茶色い巨大な牛。声は高く、聞いた瞬間に女性のものだと判断できる。
「驚かせちゃったかしら? ごめんあそばせ」
狐が喋る光景は見慣れていたが、巨大な二足歩行の馬と牛が女言葉で話しかけてくるなんてさすがに予想外すぎるだろう。おほほ、と呑気に笑いつつも、その瞳は俺たちを吟味するように見つめている。
「アタシは牛頭で、彼女は馬頭。地獄の門番よぉ」
「お兄さんたち、もしかして刀剣男士? どうしたの、こんなところで」
伝説に聞いたことのあるその名に、周囲から軽いどよめきが聞こえる。妖のような存在とはいえ、これから先大勢でここに居座ることになるのだ。余計なトラブルは避けたいと、前方にいたひと振りの“へし切長谷部”が前へと進み出て軽く会釈をする。
「失礼した。刀剣男士、個体名へし切長谷部だ。主がこちらに来る日まで、ここで待たせていただきたいのだが」
「ああ、そういうこと! 主さんって、審神者っていう人間よねぇ。話には聞いているけれど……牛頭、鬼灯様に報告しましょ」
「そうねぇ、そうしましょ。ごめんなさいね、アタシたちだけじゃ判断していいとも思えないし、ちょっと上に確認するまで待っててちょうだい」
役所か。そんな誰かのぼやきを、彼女? たちも聞き逃さなかったらしい。
「ああ、知らないわよねぇ。地獄にもね、お役所がきちんとあるの。大丈夫、トップまではすぐに繋がるし、判断も早いでしょうから」
「あなたたちの処遇は、私たちからじゃなくてそちらから伝わることになるでしょうね。だから、ちょっとだけ待っていてくださるかしら?」
と、聞いていたはずだったのだが。
確かに、上まではすぐに繋がったらしい。偵察らしい鳥が猿を背に乗せて上を飛んでいたり、白い犬が興味津々といった様子で突撃してきたりと、なにかしらの動きはあるのだろうとは察したが。
「いつ来るんだ、閻魔は」
「うーん、来るなら鬼灯様じゃないかなあ?」
シロとか名乗っていた犬が、俺のぼやきにそう言って(喋る巨大な牛と馬の時点で深く考えることはやめた)首を傾げる。
「鬼灯?」
「閻魔大王の補佐官だよ! 地獄のナンバーツーなんだけど、すっごく強いの!」
「補佐官、ねえ」
どんなやつなのやら。適当に返事をしつつ犬の頭をなでると、真っ白な尾が元気いっぱいに振り回された。
本格的に事態が動き始めたのは、それから二日ほどの時間が過ぎてからだった。
「お待たせしました。閻魔大王の第一補佐官、鬼灯と申します」
俺たちの前に現れたのは、まだ若造と言ってもいいほどであろう、一本角の鬼だった。確かに担いだ金棒はずいぶん重そうだし、眼光もなかなかに鋭いが。記憶に残る太刀だの大太刀だの槍だの薙刀だのと比べてしまえば、格段に勝るというほどではない。
すっごく強いのか? こいつが?
「ああ、勘違いされると面倒なので先に言いますけど。私あなた方よりもずっと年上ですので、あしからず」
「ッ、な」
鬼が片手でひょいひょいともてあそんだ金棒は、最終的に地響きを立てて地面にめり込んだ。まるで俺たちの思考を先回りするような言い方に、思わず背筋が伸びる。
「噂に聞く三日月宗近さんよりもずっと爺ですよ、私以上の爺なんてごろごろいるので、自覚はこれっぽっちもないんですけど」
神代生まれの神代育ち。想像を絶するような時の流れに、喉笛を鷲掴みにされるような心地がした。
「審神者に付き添っての地獄巡りですか、本来地獄の裁判は一人旅が基本なんですけどねえ。まあ、審神者という役職に就いていた人間については生前の功績もありますし、今度の会議にかけるとして……」
槍や薙刀たちに比べれば、そう長身という訳ではないはずなのに。腕を組んだその姿には、妙な威圧感がある。
「で、どうするんですか。これから先、ここでずっと暇を持て余しながら、審神者たちが現世を離れるまで待機すると?」
しかし、呆れたような顔で言われた煽るような言葉は、完全に想定内のものに過ぎない。
しゃらくさい。主がいつかは迎えに来てくれると知っている以上、待つ時間など俺たちにとっては取るに足りないものだ。途方にくれつつ、いつか来るかもしれない迎えを待っていたころとは違うのだから。
「正直こちらとしても、あなた方をどの枠扱いしたらいいのかは決めかねてるんですよね。現世に依代がある付喪神の分霊で、付喪神という妖怪の中でも信仰に近いものを集めているという点では神に近く、歴史的にきわめて重要な文化財でもある。とはいえ、そういった面倒くささは一度置いておくとしても」
ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らし、地獄のナンバーツーとやらは俺たちを見下ろすように睨みつけた。
「大挙して居座られると、こちらとしても困るんですが」
その文句も、そっくり予想できたものだった。そりゃあ困るだろう、俺だって困る。だからその程度の気遣いくらい、心得たものだ。
「心配せずともそちらの仕事の邪魔はしないし、迷惑はかけん。そもそも我々は本来食事も必要としない、休息など床や地面で十分だ」
確かに戦をこなす上では、食事と休養の質は大切だった。それを主が教えてくれた。しかし、ここは戦場ではなく、刀を振り回して駆け回ることもない。
「ほーう?」
いっさい変わらないその仏頂面の陰から、かすかに笑うような響きを感じる。
「なんだ、何がおかしい」
「浄玻璃鏡などで確認しました。早々に潰れたところはともかく、あなたがたの本丸は所謂ホワイト本丸がほとんどだったようですねえ……食事もきちんと用意されていたし、寝床にも気を遣っていただいたのでしょう?」
「当たり前だ! 我が主は俺たちをそれは大切にしてくれた、お優しいお方で……ん?」
くん、とひくつかせた鼻に、覚えのある香りが届く。俺の周りの長谷部たちも、まさかとその正体の名を口にしていた。
口のなかに、どんどん唾液が湧いてくる。
ああ、間違いない。夕方になってこの匂いが漂い始めると、短刀たちから長物連中までがそわそわと落ち着かず、誰もが厨を覗きにきていた。主がその名を告げた瞬間に沸き立った雄叫びまで、昨日のように覚えている。
「備中国、本丸IDろ―七三五二八九のへし切長谷部さん、いらっしゃいます?」
突然呼ばれた自分の本丸のIDに、俺は思わず手を挙げていた。ざっと割れた同位体の波の向こうに、巨大な鍋と炊飯器が運ばれてくる。
「ねえねえ! 俺も? 俺も食べていい!?」
「あらあら、ワンちゃんにタマネギとスパイスはダメよ」
先日俺たちに突撃してきた白い犬が、その鍋を運んできた、補佐官と似た着物の女性の鬼にじゃれている。
「オーライ、オーライ」
「いや、茄子! お前も手伝えって!」
炊飯器の台車を運ぶのは、短刀のような姿の小柄な鬼たちだった。あの背丈で、あんな大きさのものを車輪があるとはいえ運べてしまうとは。やはり鬼とは人間と比べて規格が違うらしい……なんて考えている場合ではない。
「こちら、おたくの本丸に行かれていた燭台切光忠さんと歌仙兼定さんの分霊にレシピを伺ったカレーです」
スパイスの刺激の奥にはしっかりと炒められた野菜の甘さと風味が。定番の鶏モモは、取り合いになることを見越して、大ぶりに切ったものをたっぷりと。米もいつもの三倍は炊いて、その日ばかりは副菜なんて口直しの漬物とスープだけで事足りた。確かに覚えのあるそれが、目の前に差し出される。
「…………」
カレー。その抗いがたい魔力を持つ名が、さざ波のように広がっていく。
夕方に近づくにつれて、あわただしくなっていく厨。味見という名のつまみ食いをねだる仲間たち。仕方がないなあと笑う主までが、よく歌仙たちにセットで小言を言われて……
きゅう、と鳴き出しそうになる腹の虫を慌てて押さえ付ける。それでも鼻の奥に漂う懐かしい匂いは、俺の……俺たちの決意をぐらつかせるには十分すぎるほどだった。
口から飛び出そうになり、慌てて押さえつけた郷愁は、うっかりすれば目から零れしまいそうだ。しかし、差し出された皿を前に立ち尽くした俺の思考は、別のへし切長谷部の冷静な声に引き戻された。
「……甘いな、うちは燭台切よりも歌仙のほうが厨で権力を握っていた和食派だ。さすがに食ったことはあるが、そう思い入れがあるわけでもない」
そうだ、こんなことに心を乱されてたまるか。皿の輪郭がにじみそうになる瞳をしばたたかせ、必死に意識を思い出から現実へとたぐり寄せる。
「ええと、そちらの本丸のIDをうかがっても……ああ、初期刀の山姥切国広さんから、袋ラーメンのこってりアレンジレシピを伺ってきましたよ。審神者がちょくちょく夜食に作っていたそうですし、ご相伴に預かっていたんじゃないですか?」
「…………」
それ以上の反論は、そのへし切長谷部から聞こえてはこない。
顕現して、最初に主と山姥切と一緒に食ったんだ、歌仙には内緒だと言って。後々このときの話を振ったとき、そいつは言葉少なく、そう言っていた。
何年も過ごした場所で、嫌というほど思い入れのあるレシピ。まさか全振り分聞き込みをした訳じゃないだろうな、なんて。恐れに固まった空気を破るように、目の前の鬼は呆れ顔でため息をついた。
「さすがにこれだけいらっしゃると、全員分は無理ですって。他には……そうですね、相模国、ほ―〇一六三八二の審神者はナポリタンでしたか。最初にニンニクと鷹の爪を炒めておいて、ちょっと良いベーコンも使ったピリ辛でしたっけ」
「うっわー、絶対美味いやつじゃん」
「茄子、お前なぁ」
「……な、ぜそれを」
「日本号さんに伺ったところ、それはそれはあっさりとゲロってくれました」
「リクエストがあれば作りますよ?」
カレーの鍋を運んでいた女性の鬼が、分厚いメモの束をめくっている。ちらりと見えた几帳面な文字は、どれもが取るに足りないと言えばそこまでな、日常的な料理のレシピを書き留めたものだった。
美術館だの博物館だの、どれだけ回ってきたんだこの鬼は。そしてなぜあっさり手を貸しているんだあいつらも。
「ああ、忘れていました。こちらのほうで、布団乾燥機を使った布団も用意してあります」
「…………」
「今さら戻れるんですか? 本丸という、健康で文化的な最低限度以上の生活を知った今になって」
「岩だらけだよなあ、ここら辺の地面」
小鬼とでも呼ぶのだろうか。白色の髪の、その鬼の呑気な声は、いやに俺たちの気持ちを焦らせる。
「……なにが望みだ」
決意をくじき、最後の情けとして食事と休息を取らせ、本霊の元へ戻そうというのか。身構える俺たちに向かって、鬼灯とか名乗った補佐官が取り出したのは、束になった契約書だった。
「地獄と契約して獄卒になってくれません?」
「ごくそ……は?」
獄卒。牢獄ので囚人を直接管理する下級役人、もしくは地獄で亡者の罪を責め立てる鬼。
「お恥ずかしながら、地獄はここ五百年ほどずっと人手不足問題を抱えておりまして。あなた方でしたら、ある程度の力仕事も事務仕事も可能でしょう? 近侍とやらを務めていた方もいらっしゃるでしょうし」
「いや、しかし、俺たちは主を……」
「無論、永遠にとは言いませんよ。契約期間は、それぞれの審神者がこちらへやってくるまで。お互い悪い話ではないと思いますが」
あ、とうとう誰かの腹が鳴った。それをきっかけに気持ちがゆるんだかのように、俺の腹も間の抜けた音を響かせる。
「……カレーは、卑怯だろう……というか燭台切たちも何を……」
「事情を話したら快く協力してくださいました。衣食住の保証と軽い給与で良ければ、手伝い程度で構いませんよ。まあ乗るにしろどうにしろ、冷めないうちにどうぞ。作ったのはこちらの樒さんですが、料理上手と評判の方です、味も間違いありません」
「ダメですよお。いくら付喪神様だってね、ちゃんとご飯食べて、あったかいお布団で寝なくっちゃ」
どうする? そんなひそひそ話が、周囲からさざ波のように聞こえてくる。確かに、悪い話ではない。だが……
そうしてぐらぐらと揺れる俺たちの心を決定づけたのは、俺のすぐ後方で掲げられた、赤黒く汚れた手のひらだった。
「――俺は、乗らせてもらおう」
そのへし切長谷部の極めた服は、血と埃でひどく汚れていた。
「俺が破壊されてから時間は経っているにせよ、主はまだまだお若いんだ。待つ時間はおそらく、俺が一番長くなるといっても過言ではないだろう……だから、気を紛らわせる手段は、正直ほしい」
忙しくありたいんだ、早く会いたいなどと、あってはならないことを願わず済むほどに。
そのへし切長谷部は、そう言って幸せそうに微笑んだ。まるで『その日』が遠くあることを夢に見るように。
それはいわば、呼び水だった。ぱらぱらと、あちらこちらで手が挙がりはじめる。そうしてほぼ全ての腕が挙げられたのを見計らい、閻魔の補佐官は相変わらずの仏頂面でうなずいた。
「決まりですね。契約とかは後ほどにするとして、ルリオさんとシロさんは大王に連絡をお願いします。柿助さんはこちらの手伝いを」
「了解しました」
「イェッサー!」
敬礼をした一羽と一匹が、門の向こうへ駆けていく。
「あらぁ、いい匂い! よかったわねぇ、お腹空いてたでしょ」
「聞いたわよ。地獄で働くんですって? これからよろしくね」
こちらの様子を見にきたらしい、にこにこと笑う牛頭と馬頭、スチロール容器を起用に並べはじめる猿、手早く器に米を盛る一本角の女性の鬼、それにカレーをかけはじめる小鬼と、俺たちを並ばせるもう一人の小鬼。
「はーい、こっちから並んでくださーい」
香りにつられて寄ってきた亡者を、鬼灯とやらが金棒で追い払っている。しかし、引き寄せられるのも無理はないだろう、周囲に立ちこめるカレーの匂いは殺人的だ。
地獄とは……地獄とは、なんだ?
「はい、スプーンはそっちです。おかわりはまた来てください」
スチロールの深皿に、たっぷりの白い飯とカレーが盛られる。ご丁寧に福神漬けまでが一緒だ。
一口食べ、舌に広がるのは確かに慣れ親しんだあの味だ。切られた野菜や鶏の大きさも煮込み具合も、俺は確かに知っている。
しかし、二口三口と食べ進めていくにつれて、脳が違和感を主張しはじめる。なにかが違う、言葉にできない、確かななにかが……
「確かに具材も同じで似た味だが、うちのカレーのほうが美味い……」
「あら、当たり前ですよ。作る人と場所が違えば、食べるときの気分も変わるものでしょう?」
口をついて出た失礼な俺のぼやきを、米を盛りつけていた樒と紹介された鬼が笑う。
「そちらは鶏肉派か。うちは主が関西の出身で牛肉以外はあり得ないと言われてな……塊のほうが食べでがあるからと、でかいブロックを切るのをよく手伝ったものだ。その分時々しか食えなかったが」
「うちは食費削減で豚こまだった。あの日も、江戸へ俺たちを送り出す主が、夕食はカレーだと言ったら短刀たちが本当に喜んで……」
同じく皿を持ったへし切長谷部が二振り、俺の隣に腰を下ろす。そのうちひと振りは、ついさっき先陣を切って手を挙げたやつだった。
薄汚れた服を着たその“へし切長谷部”は、やはり俺たちより先にここにいた者だった。事情を聞けば、極めて間もないころに白銀台で破壊されたそうで。
「……遠くへ来たな、お互い」
「……食うか。早く行かねば二杯目がなくなるぞ」
同じレシピを使っても、同じ味にはならない。しかし、カレーに罪はないし、もうあの場所には二度と戻れない。こんなことならもう一度くらい、燭台切たちにリクエストしておくんだった。もっと大切に食べればよかった。
そんな思いを必死に隠していても、スプーンを口に運べば、自然と口からは「美味い」という言葉がこぼれる。
「ホームシック……いや、本丸シックか」
「見事なパンデミックですね」
「家のカレーの話って無限に続くよなぁ」
どうしてもしんみりしてしまう俺たちの頭上を、補佐官と小鬼たちの呑気な世間話が通過していった。
「あっ、鬼灯くん。その子たち? へし切長谷部くんって」
カレーを食べ、門の奥、そして閻魔殿へと招かれた俺たちを迎えたのは、想像よりも穏やかな顔をした巨漢の男だった。
「ああ、これが閻魔大王です。ご挨拶を」
「ねえ、今これって言った? ワシ、一応上司なんだけど……」
半分諦めたような文句を無視して、補佐官は淡々と報告を続けている。
「仕える相手はただ一人と決めていらっしゃるそうなので、正規としてのスカウトは諦めました。その代わり、彼らの審神者がこちらへ来るまでの臨時バイト的な立ち位置なら、と」
契約書の束は、どいつもこいつも同じような内容になった。俺たちは正規職としてではなく、あくまでも期間限定の臨時雇われとして……とはいっても、人間の人生で考えてしまえばほぼ終身雇用になりそうなやつも出てくるだろうが。おそらく、他の獄卒と比べて立場も緩くなるということで話はだいたい決まっている。
「あ、そうなの? よかったねぇ。お迎え課とかに伝達しておこうか、そうしたら入口まですぐ迎えに行けるでしょ」
部下がわりと大切なことを勝手に決めてきても、特に気にするそぶりは見せず。泣く子も黙るはずの閻魔大王は、うれしそうににこにこと笑っていた。
「鬼灯様、仮眠室を新しくしようって話してたわよねえ、古いほうを使っていただくのはどうかしら。古いとはいっても、まだ十分に使えたはずでしょ?」
水色の髪を緩く巻いた女性の獄卒が、思案するように頬に手を当てる。
「ほーずきー、この布団の山どーすんだー?」
「あ、彼らか刀剣男士って。噂には聞いてたけど本当にイケメンなんだなー」
布団の山を担いできた男の獄卒二人組は、補佐官とやけに親しげだ。
「烏頭さんに蓬さんもお疲れさまです。そうですね、彼らに各自のを運んでもらいましょうか。地べたに置くのもなんですから……」
「鬼灯さまー! なんかねー、ルリオがブルーシート持ってくるって!」
「ルリオさん、さすがです」
「あらあら、じゃあアタシもお手伝いしてくるわねぇ」
シロの後を追いかけて、女性獄卒が鳥に引きずられるシートを手に取った。手早く敷かれたビニールの上に、布団のセットがどんどん積まれていく。
「しかし、鬼灯。よく説得できたよなぁ」
「……まあ、一度快適な環境を知ってしまったら後戻りできないのは同じでしょうからね、付喪神も人間も、鬼も。私だってそうです」
「あー……だなあ。俺も無理だわ」
「俺たちですら無理なんだから、お前なんて特にだよなー」
大変だった大変だったと昔話に興じる三人は、どうやら昔なじみらしい。詳しい事情は知らないし、今聞く話ではない。今俺たちがいるのは神代生まれがわらわらしている場所だ。たかが数百年程度しか知らない付喪神には想像のつかないような人生? があるんだろう、きっと。
そんなことを思い、俺は厚ぼったい布団を一式抱え上げた。あの女性獄卒が言っていた、仮眠室とやらに運べばいいのだろうか、補佐官に聞いてみようと雑談の真っ最中な三人組に俺が近づいたときだった。
「それに彼ら、なんだかんだ言ってましたけど箱入りじゃないですか文字通り。武将の元にあったときだって酷使されたまま放置なんてなかったでしょうし、ここ数百年は国宝として温度も湿度も完璧に管理されていた収蔵庫と展示ケースにいて、そこからの本丸ですよ? 無理でしょ、何十年もあそこで飲まず食わずで野宿は」
時として正論は、ただの弓矢と化して襲いかかる。上に乗せたままの枕を落としそうになり、俺はよろめきかけた足をどうにか踏ん張った。
「あそこで生きてるんだか死んでるんだかな状態で亡者待たれるよりも、さっさと手を打っておいたほうが吉ですよ」
「……おい」
「おーい、ほーずきー、後ろー」
顔をひきつらせた三本角の鬼が、ちょいちょい、と補佐官の背後――俺を指さす。振り返った彼の表情は、俺の顔を見ても相変わらずのままだった。
「ああ、聞いてましたか。反論があれば伺いますよ?」
「…………」
「あー、ま、いいじゃねーか。待ってるやついんなら、心身ともに健康で会えたほうがさ」
金髪のほうの鬼が、なれなれしく肩を叩く。これはたぶん諦めたほうがいいのだろうと、俺はがっくりと肩を落とした。
「えーと、なにかごめんね? 本当に優秀だし、悪い子じゃないんだよ……なにはともあれ、しばらくの間よろしくね」
そう言った閻魔大王の乾いた笑いに気を取り直し、俺は腕の中の大荷物を抱え直しつつ、できる限り頭を下げた。
「……しばらく、世話になる」
一宿一飯の恩という言葉を、知らないほどの頭じゃない。こうして俺は――俺たちは、地獄で働きながら主を待つこととなったのだった。
俺の目の前にいるのは、脂ぎった顔をひきつらせる小太りの男。
「へ、へし切長谷部!? なぜこんなところに……!」
まずは基本の拷問からと連れてこられたのは、如飛虫堕処。嘘によって私欲を肥やした者が落ちる地獄だった。
「この数年で増えましたねえ、ここの亡者も。私の仕事もだいぶ増えました」
「遡行軍との戦争で、現世の政府も人手不足でしたからね。一時期はコンプライアンスのチェックに割けるリソースも減ったことで、横領だのなんだのがだいぶ横行したとか」
手始めに亡者の呵責をと連れてこられたこの部署で、教官として紹介されたのはまさかの雌兎だった。習うより慣れろでーすよ、なんて小動物らしく可愛らしい仕草で言われ、まずは小手調べにと、一人の亡者を補佐官が引っ立ててきたところで。
「政府の元高官です。成績ランクを不当に操作して、自分の子供の本丸を上位に押し上げるわ、よその本丸から巻き上げた資材や資金を横流すわ、そりゃもう罪状が山積みで」
「……ほう?」
正直、亡者個々人の罪状にはさほど興味はないが、そんな話であれば事情も変わる。
「露呈したきっかけが、入ってくる資源や資金が急に増額されたことで不信感を持った息子さんからの通報だったとか。被害に遭ったよその審神者に謝罪して資源も資金も返却して親子の縁を切り、その後実力でランキング上位に返り咲いたそうですよ」
「トンビが鷹を……のパターンですか」
「ええ。他でもない父親が自分の実力を信じていなかったということですからね、息子としてもさぞかし屈辱だったんでしょう。供養も最低限どころかほぼゼロでしたので、その結果がこれです」
息子はさぞかし立派な審神者だったのだろう。その本丸のへし切長谷部も、地獄のどこかにいたりするんだろうか。それはともかくと、俺は己の鯉口を切った。
「どちらにせよ、俺の主がその被害に遭っていた可能性もなきにしもあらず、ということか」
「そうですよぉ。ですから、ご存分にどーうぞ」
久しぶりに鞘から解き放った刀身を、見慣れた業火が包む。間の抜けた叫び声が、不格好に響いた。
「お、おい。本丸のIDを言ってみろ、所属はどこだ? 関係があったかどうかだけでも、ぉッ――」
すぱん、と横一文字に動かした刃は、弁解をしようとした木っ端役人の首をきれいに両断していた。
ここしばらく、切っていたのは遡行軍の急所ばかり。何百年ぶりだろう、亡者とはいえ人間を切るのは。するすると繋がっていく首の上で、意識の戻った男が目を開けた。こちらを見た瞬間に浮かべられた絶望の表情に、俺の口元も自然と引き上がる。
「本当に復活するんだな、殺しても」
「さすが名刀ですねぇ。ですが、今のは私としてはまだまだです。一度に致命傷を負わせるよりは……」
手本を見せましょう、と教官殿が背負った櫂を手にする。するとなにを思ったのか、彼女の隣にしゃがみ込んだ補佐官が小さく、とある動物の名をささやいた。
「……狸」
その言葉を聞いた瞬間、今までの兎らしい可愛らしさは、丸ごと彼女の目から消し飛んだ。
飛び上がった教官殿の振りかざす木の櫂に勢いよく殴られ、毛髪の少ない頭皮が桃や葡萄の皮のようにべろりと剥ける。続けざまに繰り出された一撃は、亡者の顔面を絶妙な力加減でえぐり、頬の肉と金に輝く歯が血飛沫とともに数本宙を舞った。醜い悲鳴が、その痛みをこれでもかと物語る。
「何度見ても見事なものです、さすがここのエキスパート」
「……その、彼女は」
「ああ、そういえば言ってませんでしたね。かの有名な、かちかち山のうさぎどんです」
強烈なスナップが、今度は逃げようとする亡者の背を襲う。肩のあたりから、骨の折れる鈍い音がした。
「おのれ――狸ィィィィィィィ!」
つい今し方までとは似ても付かないドスのきいた声には、ありとあらゆる負の感情を煮詰めたような響きがあった。なるほど、道理で。
「……同田貫でなくてよかったな、ここに来たのが」
「私としては、どうなるか興味はあったんですけどね」
亡者の許しを乞う声と、彼女の勇ましい叫び声。渦巻く悲鳴をBGMに、補佐官が飛んできた肉片を金棒で弾く。
「いいですか、ここは戦場ではなく地獄です。とどめを刺すことではなく、苦痛を与えることが我々の仕事。生かさず殺さず、気絶させずをモットーにお願いします」
「ふう……はい、芥子味噌お願いしますね」
元のテンションに戻ったらしい教官殿に、怪しげな色の味噌らしき何かが詰まった壷を渡される。件の昔話は、確か小夜の読み聞かせを聞いた江雪がさめざめと泣いていた記憶がある。あの話のなかで芥子味噌は、さてどう使われていたか。
「……なるほど、こうか」
骨が飛び出し、鮮血を吹き出す傷口に、擦り込むように刷毛を押しつける。亡者の声にならない叫びが、刑場の空気を切り裂いた。
「素晴らしい。ああ、間違っても舐めたりしないようにしてください。年々進化する唐辛子のおかげで、ほぼ毒物扱いな代物ですから」
「素手で触るどころか、ゴーグルなしも危なくなってきましたからねぇ、そろそろ」
「で、どうですか、やってみて」
血を吐きながら逃げだそうとする亡者の横面を、鞘で殴り飛ばす。鮫皮を模した金属板が、傷口をさらに削り取った。
「そうだな、悪くはない」
「殺し慣れていたことでついた癖はありますが、筋はいいですよー。すぐに芥子味噌の使い道が分かるところなんて、さすが武器生まれの武器育ちです」
「何人かを記録課に回しましたが、葉鶏頭さんもほめていらっしゃいましたね。しかし、あくまで数十年だけの特別措置ですから、余裕がある間に採用活動は続けますが」
記録課ということは、なにか事務系の仕事なのだろう。そういえば、本丸でパソコンを使用していたかどうかを聞かれた記憶がある。俺も使用していた口だが、もっと上級スキルとやらに精通した者が回されたのだろうか――そんな俺の想像は、その記録課に配属されたへし切長谷部の話を聞くまで続いたのだが。
「いっそ、審神者の何人かを裁判でヘッドハンティングしましょうかねぇ。元人間の獄卒も実際いますし、篁さんとか平賀源内氏とか。ああ、そもそも大王も元は人間か」
なにかとんでもない名前が聞こえたような気がするが、気のせいだと思っておこう。
「……推薦するへし切長谷部は多いだろうな」
裁判で決められる死者の進路は、天国行きに転生、地獄行きと大きく三パターンに分かれる。その中で主とともにいつまでもいられる選択肢がひとつ増えるのだ、飛びつくやつも出るだろう。
「あなたもその口でしょう、どうせ」
「当たり前だ……しかし、決めるのは俺ではない」
「ええ、分かっていますとも。いずれにしても、裁判を見て判断しますよ」
地獄に住人が増えて、早くも半年。座敷童たちは変わらずに、遊び相手を探して閻魔殿を駆け回る。
住人が増えたからといって、遊び相手が増える訳じゃないし、へし切長谷部とかいう付喪神は、どうやら子供の相手が不得手のようだけれど。自分たちにそんなことが通用するはずもなく、そんなの関係ねえとばかりに、元気に突撃を繰り返していた。
今日のターゲットは、非番らしい彼だ。人気のない階段に座り込み、ぼうっと虚空を見つめている。
「へし切さんどうしたの」
「長谷部だ。座敷童だったか、遊ぶならよそに行ってこい」
邪険にするのでない限り、遊んでオッケーと見なすぞ貴様。一子は肩に、二子は膝に。防具を外してくれているので、肩車がやりやすくて助かった。
「座敷童じゃなくて名前あるよ、鬼灯様がくれた」
「一子と二子」
「……そうか、名をもらえたのか。良いことだ」
追い払う気力も失せたらしい。二子の頭を諦めたようになでながら、彼はぽつりと呟いた。
「へし切さんも名前をもらったの?」
「さにわから?」
審神者という人間については、噂として前から耳にしている。長く続いた戦だと聞いていたし、実際先に死んだ者の裁判だって目にしてきた。上に立つ者としての質は正直ピンキリだったようだが、最後まで本丸を維持できたのはピンのほうが多かったことも。
「違う。主がお付けになるなら、こんな変な名前にはならん。前の主だ、織田信長」
「信長知ってる」
「オッスオラ第六天魔王」
「ああ、あのマンガか」
「ノブナガ・THE・ロックンロールとヘシKILL・ハセーベ」
「……すまんがそちらは知らんな、というか俺の身に一体全体何があった」
サブカルワールドで引っ張りだこなあの魔王に、彼はなにかと思うところがあるらしい。前髪の分け目を両手でめりめりと伸ばしながら、一子がつむじに顎を乗せる。
「じゃあ、長谷部さんって名前は最初からあったの」
「……最初はあったはずなんだがな。付喪として生まれたときには忘れていた」
「思い出したの」
「……見つけてくださったんだ。信長とは別の前の主が」
「ふーん」
それでも地獄の空を見つめる彼の目は、死者を想うそれではない。
「長谷部さん、さにわに会いたいの」
「寂しいの」
この付喪が恋う生者といえば、一人しかいないだろう。そんな考えから座敷童が言った言葉に、彼は少しだけ口ごもった。
「……そんなこと、言えるはずがないだろう」
「どうして」
「主との再会は、遠い未来であるべきだ。本当にあのお方を想うならば、そうでなくては駄目だろう。早死にを願うなど……」
「でも寂しいんだ」
頭皮を引っ張る手のひらをどかす手は、そう話す一子の指を握ったまま静止した。
「……あのお方は、いつか必ず迎えに来てくださる。俺はそれを知っている、だから、寂しくなど」
「好きなんだ」
「今でも好きなんだ」
「ああ……そうだよ」
思わずといったように顔を伏せるのが、少々おもしろくない。髪の隙間から見える真っ赤な耳をつかんで引っ張り上げると、おい、と文句をいう声が飛んできた。
二子に顔を見上げられ、一子に両頬をぺちんと挟まれて。ぐいっと顔を無理矢理上げさせられた彼は、観念するようにため息をつく。
「赤いね」
「顔赤い」
「ふるはい」
そうしてさんざんいじり倒してから、おじゃましましたと少しだけすっきりした顔の彼を置いてその場を後にする。そうしてすぐに出会ったのは、自分たちや自分たちの保護者と親しい衆合地獄の副主任だった。
「こんにちは、童ちゃんたち。長谷部さんとお話してたの?」
「うん、恋バナ」
「恋バナしてた」
「あら意外……」
神出鬼没な座敷童は知っている。夜中彼らの部屋に行くと、必ず何人かがうなされて、あるじと譫言を言っていることを。そして何人かが、その声をBGMに何度も寝返りを打っていることを。
そんなとき、きっちりとした前髪の分け目を乱してやると、少しだけ眉間のしわが和らぐのだ。代用品とはいえ、自分たちの紅葉の手でも、ないよりはマシらしい。
座敷童はまじめに働く者の味方である。なのでここ数ヶ月のルーチンワークは、これからもうしばらく続くだろう。いやな役目ではないし、まあ遊んでくれるお代としては悪くないとも思うのだ。
警察まで使いに行ってほしい。そう頼まれて訪ねてきた場所で俺が目にしたのは、意外すぎる姿だった。
「今剣に岩融……?」
天狗のような稚児の格好の短刀に、いかにもな荒法師の服装。本丸で見慣れたその二振りの名を呼ぶと、彼らはくるりとこちらを振り返った。
「おや、あなたは……へしきりはせべさん、でしたっけ」
よそよそしい返答に、知っているあいつとは違う空気。かといって、別の本丸の個体……とも違うようだ。そうとなれば、選択肢としては一つしかない。
「本霊殿であったか。失礼をした」
「なんの、気にするな! 我らの分霊が世話になったようだな」
豪快に笑う岩融の後ろに、見慣れた仲間の顔が浮かぶ。懐かしいなと思いつつも、俺はここへ訪ねてきた相手の名を思い起こしてたじろいだ。
「烏天狗警察に、とは……まさか」
修行先から送られてきた手紙と、それを読んで思い悩む主の姿が浮かぶ。まさか、知らないのか。そう言いたげな俺の顔までが想定内だったのだろう。すい、と手のひらをこちらに差し出した今剣の顔は、ただただ冷静なままだった。
「おきづかいは、むようです。たくさんのぼくが、たびさきでなにをみてきたのかなど。ぼくじしんがしらないはずがないでしょう」
「長谷部さん、お待たせしました」
取り次ぎを頼んでいたし、そもそも俺が使わされることは閻魔庁から連絡が行っている。ここの指揮官の一人である、知らない者はいないだろう英雄が、通用門から顔を出した。
「ああ、あなたたちは……! 誰か、弁慶を呼んできてくれ、なるべく急いで!」
ほころんだその顔を見た今剣は、その名を叫んで“前の主”へ飛びついていく。ぱあっと輝いた笑顔は、俺の知っているあいつと全く変わらない。
「よしつねこう……よしつねこう!」
「今剣、ですね。初めましてでいいんだろうか」
飛びつかれた勢いで尻餅をついた源義経その人は、その短刀を愛おしそうに抱きしめた。
「ご存じ、なのか? 彼らを」
史実での彼の生涯で、存在しなかったとされる刀の付喪神。その名を知っているのはともかくとして、こんなにも親しげに接するのは予想外だ。
「もちろん、先の戦の話は私も聞き及んでいましたから。私たちに縁を持つ刀たちも、付喪となって武功を上げていると」
会いたいと思わないはずがないでしょう。今剣の銀の髪をなでる彼の声は、これ以上ないほどに優しいもので。
「だいたい、創作での私ってずるいじゃないですか! 美少年設定だったらまだいいんですけどね、下手したら実物よりも筋肉あったりして……その上、自分の刀がこんなにも慕ってくれるなんて、武将冥利に尽きますよ」
はー、羨ましい。武士の時代黎明期最強の英雄は、そう愚痴をこぼしながら伝説上での自分の守り刀にほおずりをした。
「ふっふっふ、よしつねこうにおあいするって、さんざんじまんしてきたんですよ、きょうのまちにいって。うすみどりのあのかおといったら! じだんだふんで、うらやましがっていました」
「髭切殿からも、よろしく伝えてくれとのことであった」
「……そうだったか。現世に行く機会があれば、私も伺いたいものだ」
まだ鳩が豆鉄砲を食らったような顔の俺を見た今剣が、まるで若輩者を諭す年長者のように俺を見上げる。そうだ、うちのあいつも確かに、時たまこんな大人びた顔をしていたっけ。
「ぼくらには、よりしろとなるモノはありません。それを、ふこうだというひともいるでしょう。けれど、ぼくはそうはおもわない」
うむ、とうなずいた岩融は、かつての“主君”とその“守り刀”に、にこにこと笑ってこう言った。
「我らに帰る場所はない。しかしそれは、我らは我らが望む、どこへでも行けるということ」
鋭い爪を持つ岩融の手のひらが、大切なものを包み込むように、そっと今剣の肩を抱いた。
「可愛い可愛いこやつのためだ、俺は地獄だろうがどこだろうが供をするさ。長谷部殿も、そうなのであろう?」
満足そうに顔をほころばせる岩融の目が、遠くに向けられた瞬間見開かれた。心の底からうれしそうに笑った彼は、息せききって走ってくる大柄な男に深々と頭を下げる。
「……すまん、これを後ほど渡してくれ」
「ああ、はい。確かに承りました、お気遣いありがとうございます」
近くにいた烏天狗に提出する書類を渡し、俺はそっとその場を後にした。水入らずの再会を邪魔するなんて、無粋なことをする気はない。かの武蔵坊弁慶の男泣きの声が、背後から聞こえてくる。
話してみたかったな。心に浮かんだその言葉を、道々俺は頭を振って追い払った。
誰のことを思ったのか、それすら定かではない願いだ。そんなこと、考えてどうするというのか。
分かることは、ただひとつ。一番会いたいと思う人間は、幸いにもまだこの場で出会うことのかなわない相手であることだけだ。
今日は、やけに法廷が浮き足立っている。獄卒たちがちらちらと視線を送る先を見やれば、補佐官のそばに若い娘が二人立っているのが見えた。
「ああ、マキさんにミキさん、一応紹介しておきますね。こちらへし切長谷部さん……の、一人です」
派手な服装の二人組のうち、短い髪の鬼の娘が、補佐官から聞かされた俺の名を口の中で小さく繰り返す。
「へしきり……へしき……ああ、ギターの!」
「だからその世界線の俺に一体なにが起きたんだ」
よくいって純粋無垢な性格らしい鬼の娘は、隣の狐目の娘とアイドル活動とやらをしているらしい。まきみきがどうのとか座敷童たちが言っていたような気がするが、どこぞの藤四郎兄弟のひと振りならともかく、そういったものに俺はどうにも疎い。
「織田信長から黒田如水に下賜された刀ですよね」
「ミキさん、正解です」
「地獄に刀剣男士が、ってニュースが出たときに、少しだけですが調べましたニャーン。国宝で、皆焼の最高傑作だって」
言動が少しおかしく聞こえるが、こちらの娘――野干という狐の妖怪だと聞いた――は、かなりの常識人らしい。刀剣男士のなかには逸話にさんざん振り回されるやつもいたが、それと似たようなものだろうか。
「そういえば、小判さんも記事を書いてましたね。閻魔殿でカメラを構えていたので、軽く締め上げた覚えが」
小判、とはあの猫又の記者のことか。ゴシップ誌にしてはまともな記事だと思ったら、どうやらこの鬼神による事前の検閲が入っていたらしい。
「で、アイドルとやらが裁判所になんの用事が?」
「ああ、時々イベントのゲストだの広報役だのをお願いしているんです。ですが今日は……」
「やっほー、鬼灯様! お元気?」
金の髪に、アイドルである二人に負けず劣らず華やかな服装。鬼ではないその南蛮人の女性は、手慣れたように補佐官の手を取って大はしゃぎしている。どうやら彼女たちに用事があったのは、このリリスという女悪魔らしい。
「そういえばミキちゃんって妲己のところの従業員の妹さんよね? サタン様が最近お好きなのよ、あなたたちのこと」
「とうとうアイドル沼にまで手を出したかあのオッサン」
話を聞けば、この西洋悪魔の女性が手がけている新しい化粧品の宣伝のために、この補佐官に直接の仲介を頼んだそうで。さっそくサンプルを、と鞄を漁る赤い瞳が俺を捉え、興味深げに笑う。
「この子が噂の? カタナソードのゴーストだったかしら?」
「ゴーストとは違いますが、だいたいそんな感じでいいですよ」
ふうん、と興味があるようなないような顔で、女のほっそりとした指が俺の顎をとらえた。
「噂には聞いていたけど、本当にかっこいいのねぇ」
「誘ったりしないでくださいよ」
「あら、ダメ?」
俺の頬に指を触れさせたまま、彼女の首が傾げられる。こういった女性を、妖艶とでもいうのだろう。しかし、俺の頭にあったのは、これが主だったらななんて、馬鹿げた思いだけだった。
「……断った場合、外交問題に発展したりは」
「かけらもありません」
お墨付きを得て、俺は丁重にその白魚のような指を払いのけた。
「申し訳ないが、俺はもう、この方お一人のみと決めた相手が――」
「あー、こちらこそごめんなさいね、お遊びに誘っちゃダメなタイプだったわ、あなた」
女悪魔はそう言って、意外なほどあっさりと引き下がった。
「か、かっこいい……!」
その一方で、きらきらと瞳を輝かせたのはマキと名乗っていた娘だった。なんだと聞けば、ミキというほうの娘がその理由を説明してくれる。
「レディ・リリスといったら、誘惑が本分の悪魔ですから。そんな彼女に誘われても断れるなんてすごいですニャーン」
「……そういえば、妲己も言ってたわねぇ、何人かお店に誘ったけど断られたって」
そう言われて思い起こせば、花街を通りがかったときに誘ってきた女がいたような。東洋最強の悪女の名を聞いても特に心が動くこともない俺に、おかしな質問をしてきたのは今まで部外者面をしていた補佐官だった。
「つかぬことを伺いますが長谷部さん、リリスさんの見た目についてどう思います?」
「は? ああ、美しいと言えるんじゃないか?」
「マキミキのお二人については?」
「そうだな、可愛らしい……?」
そりゃあ女性の美醜について知識がないわけでもないが、唐突になにを。そういぶかしがる俺に畳みかけるように、補佐官殿は矢継ぎ早に質問を繰り出した。
「では、一番見た目が優れていると思う女性は?」
「はあ……主に決まっているだろう」
「う、おおお……」
「あらあら、なんだか当てられちゃったわねぇ」
本丸でも乱や加州相手に同じことを思ったものだが、なぜ他人ののろけ話でここまで盛り上がれるんだろうか、こういった類の人間? は。きゃあきゃあと黄色い声を上げているアイドル二人組を、女性悪魔がほほえましそうに見つめていた。
「それ、あなたのマスターに言ってあげたりした?」
「……当たり前だろう」
「それで、それで? どんな反応されました?」
頬を赤く染めて、アイドルたちに期待するようなまなざしを向けられてはいるが。正直最初に言ったときのことなんて、ほろ苦い思い出でしかない。
「……困惑されていた」
「なるほど。イワ姫ほどではないようですが、そちらのタイプでしたか」
心からの言葉に戸惑われて、まさか失言したかと慌てふためいたのも今となっては笑い話だ。どうやらご自分をそういう評価をされるに値しない人間だと思っていたようだと知ってからは、負けじと連日言い続け。その努力が実を結んだのは、本当にぎりぎりのころだった。
「ただ、本丸が解体される前、別れのときにお綺麗だと言ったら、はにかみながらありがとうと言われて……」
「え、か……可愛い! でも切ない!」
「お別れの前に、そんな……!」
困惑したように「そんなことない」と言われ、「変な長谷部」と困ったように笑われて、そうして最後にいただいた「ありがとう、本当はずっとうれしかったんだ」という言葉。そうだ、本当に愛らしい方なんだ。
「いいわねぇ。そういう言葉を素直に受け止められたときの女って、一等に美しいのよ」
うれしそうに笑う女悪魔が、うん、と顎に指を当てて悪戯を思いついた子供のようにうなずいた。
「なーんか、毒気抜かれちゃったわぁ。アタシも帰ったら久しぶりにダーリン可愛がってあげようかしら」
「そうですね、ぜひそうしてください。ベルゼブブさん、もうすぐ会議で日本に来られるので、気分アゲさせておいてもらえると扱いやすくて助かります」
海外の要人相手にそれでいいのか、なんて言葉は喉元で封印することにした。鬼の娘が、興奮するように俺の背をばしばしと叩いてくる。
「また会えるといいですね、その。ハニワさん? に。あ、でも早く会うのはダメかぁ」
「マキちゃん、審神者だニャーン、さ・に・わ」
「と、いうわけで」
刑場には、湯気と熱気が満ちている。部屋に戻ったら刀の点検と手入れをしようか、俺はそんなことを考えて現実逃避の真っ最中だった。
「女性からの人気というものには、そういった要素も必要なんですよねぇ。あなた、それ以前の問題でしょう」
「ほ、放っておいてください! 同じ付喪神でもどうしてここまで……!」
今のは助け船だったんだろうか。俺にぐだぐだとよく分からないことを言って絡んでいた鉄鍋の付喪神に金棒を食らわせて、くわんくわんと音を反響させるそいつに補佐官が話して聞かせたのは、つい先月にあった出来事だった。
「だいたい、彼らは現世の人々の持つ想像力によって形作られた存在なんですよ。地獄で普段使いされているモブ釜のあなたと、慕われすぎてほぼ信仰みたいな歴史上の人物の刀、見た目を良くするならどっちですか」
この会話を第三者として聞かされる俺の身にもなってほしい。というかこの補佐官、俺たちの区別なんていちいちつけられないとか話していたが嘘じゃないのか。そうでなければ、どうしてこうもピンポイントに話を持ってくるんだ。
「ふん。そりゃあな、イケメンだと持ち上げられていたら性格も良くなるだろうさ」
「……は?」
だから、イケメンイケメンとさっきからなんなんだこいつは。首を傾げた俺に、付喪神の顔面がまさかとゆがむ。
「ああ、へし切長谷部さん、だいたいご自分の顔について自覚がないそうですよ」
それきり黙り込んだまま泣き出した鉄鍋だが、俺にはなにがなんだか分からない。付喪といっても、そもそも成り立ちが違うだろうに。
「なんなんだ、これは」
「敗北感ですね、それも特大の」
「は、はあ……?」
イケメンの自覚がない本物のイケメンほど、男の脅威となるものはない。そう補佐官は言うが、なるほど、よく分からん。
仕える相手は審神者のみ。口々にそう宣言をするこの付喪神の集団に、ルリオはちょっとした親近感を覚えていた。
「長谷部さん! お使い?」
桃源郷への道すがら、同僚の白犬がそう叫んで走り出す。
「シロだったか。どうした、こんなところで」
「俺たちはねー、桃太郎のところに遊びにきたの!」
「桃太郎、って……あの、桃太郎か?」
「まあ、その桃太郎しかいないだろうな」
「俺たち、昔家来だったんです。ほら、猿と犬と雉子」
「ああ、なるほど」
おとぎ話の英雄の実在なんて、信じるも信じないもあなた次第。それなのに彼があっさりと柿助の言葉にうなずいたのを意外だと思ったが、その理由はすぐに分かった。
「配属先が如飛虫堕処だからな。今さら桃太郎の実在程度では驚かん」
「あ、なるほどね。芥子ちゃん元気?」
地獄と違う、のどかな野原と青空に挟まれて進んだ先、桃の木畑を抜けた先に、自分たちの主人が働く店がある。ちょうど仙桃の収穫から戻ったばかりだったらしい彼を見て、シロが真っ先に走り出した。
「ももたろー!」
「お! シロ、柿助、ルリオ!」
真っ白なモフモフ弾丸に突撃されても受け止められるのは、さすが元英雄といったところだろう。ちぎれんばかりにしっぽを振り回すシロの頭をわしわしとなでつつ、彼は客人に向き直って会釈した。
「失礼しました、初めて来る長谷部さんっすね、桃太郎です。どうぞ中へ、鬼灯さんから話は伺ってますんで」
天国に就職して早数百年。自分たちの主人も、本当に丸くなったものだと思う。
「はい、いらっしゃい。えーっと、一昨日は金丹で、今日は……あー、はいはい、ちょっと待ってね。しかし三日とおかずにお使いとか、あの鬼も人使い荒いな」
そして、彼の更正に一役買った……というか、更正せざるを得なくした知識の権化たる神獣は、今日も男の客相手にぞんざいな立場を取る。一昨日? と首を傾げるへし切長谷部に、桃太郎がため息をついて上司へと耳打ちした。
「白澤様、一昨日とは別の長谷部さんっすよ」
「ん? あ、そっか。桃タローくん、これ調合よろしく」
「はいはい。なんかすみません、うちの師匠が」
さらに深いため息をついて、彼は深々と客人に頭を下げる。さすがに一番弟子に謝らせたのが心にきたのか、白澤が取り繕うようにひらひらと手を振った。
「しょうがないでしょ、ヤローの顔と名前なんて、ただでさえ余計な記憶力使いたくないの。しかも君たち、一卵性双生児の群れみたいなもんだし。悪いけど諦めてもらえるかな」
「はあ……」
男の客相手には、始終この神は変わらない。でもまあ、桃太郎のことは素直に評価しているし、同じオスでも自分たちのことは邪険にする訳じゃないのが憎めないところではあるけれど。
ところでさ、とがらりと変わった、期待をにじませる神獣の口調に、ああこれはとルリオは桃太郎と目配せをした。
「サニワだっけ、君の主。女の子? かわいい?」
「アンタ、こないだも別の長谷部さんにそれ聞いて刀突きつけられてたろうが! いい加減にしろ、このスケコマ神獣!」
「億が一オッケーもらえても、口説けるころには審神者さんいくつになってんだろうな……」
冷静な柿助に耳打ちされ、ルリオもまったくだとうなずいた。人の寿命から考えて順当にいけば、少なくとも女の子という年齢ではなくなっていると思うのだが。「知識があることと教養があることと馬鹿かどうかは、すべて意味が違いますよ」と憤怒を顔に浮かべた現上司が言っていたが、時々同意しそうになるのが恐ろしい。
殴られんばかりに師匠を叱責した弟子に平謝りされても、意外やこの付喪神の顔は怒りを浮かべはしなかった。代わりに感じるのは、そこはかとない余裕で……もしや、とルリオが察するよりも先に、おほん、と咳払いをした彼は耳まで赤くなっている。
「あー、女性だし、可愛らしい方だが、いくら俺より上位の神獣殿とはいえ、その……」
「……はいはい、そーゆーこと。残念だなぁ」
染色体XXと見れば、よほどのことがない限り口説く主義ではあっても、最低限の倫理観を持っているこの神獣は相手がいる女性には基本的に手は出さない。あっさり引き下がるのは、彼の長所といえば長所だろう。
「うおっ、リア充だ! 長谷部さんリア充だったの!? 先輩みたいな!?」
「り、りあ……?」
「こら、シロ! ホッントにすんません、さっきからうちの師匠とうちの犬が」
「ああ、いや別に気にしてはいないが……」
ぐわし、とモフモフとした後頭部をわし掴んだ桃太郎が、その手のひらに力をこめる。きゃうんと一声鳴いたシロのしっぽが、しゅるしゅると下がっていった。
「でも、いいですね。女性で可愛くて、そんな人が上司で恋人かぁ……」
「えー、でもさでもさ、本丸って長谷部さんの他にも男の人いたんでしょ? ライバル多くなかった?」
「柿助もシロも、失礼だろぶしつけに。いくら自分がそういう機会に飢えてるからって」
「はぁ? ルリオに言われたくないんですけどー!?」
身の回りでそういう話ができなくてはしゃぐのも分かるが、言い方っていうものがあるだろうに。そう懸念していた自分たちだが、この付喪神は思っていた以上によくしゃべる。
「初期刀とかの古株からは多少正座で詰問されたが、その他は特になにも。好意的に受け止められていたし、そういう対象として主を見ている刀も……俺が知る限りはいなかったな」
もしかしたらいたのかもしれないが、もしそうであっても主の気持ちを知っていて行動を起こそうとするようなやつらではない。長谷部のその言葉に目をむいたのは、思った通りだがこの場で一番の長老だった。
「え、嘘。ヤローだらけの屋敷に可愛い女の子一人なのに?」
「男が全員アンタみたいに八割下半身でできてるわけじゃねーよ! 今すぐ普通にまっとうに生きている世の中の大多数の男に謝れ!」
いくら師匠とはいえ、そろそろ手が出ても許されるんじゃなかろうか、そう言いたげな桃太郎が拳を握りしめた。しかし、仰天した顔の神獣は、不思議そうに首を傾げる長谷部の言葉にきつい精神的ボディーブローを食らう。
「そういう欲がなくても、主と認めた相手は大切だし、尽くすのが当たり前だろう。それに、むしろ……そう思わせてくれるお方だったからこそ、そういう意味でも好ましく思えたんだ」
「……お、おおぅ」
「すげー! 白澤様が浄化されてる!」
まるで、数年ぶりにプラトニックな学園青春恋愛映画を見た昼ドラファンの顔だった。知識のではなく煩悩の神と一部から揶揄されるこの男とは、女性に対する尊敬は同じくあれども、ある意味対局に立つ付喪神である。
しかし、この刀は本当によくしゃべる。
動物である自分たちは、別に冷たく当たられることはないにしても。我らが上司の幼なじみだの衆合地獄の野干だのがテンション高く飲みに誘えばけんもほろろに断ったりと、他者とのコミュニケーションを得意としないタイプが多いように思っていたのだが。
「意外と話すんですね、そういうこと。店で何度か会ったことありましたけど、業務連絡だけの長谷部さんが多かったもんで驚きました」
「……吐き出したくなることもある。へし切長谷部相手だと、気持ちに抑えが効かなくなるんだ。その、完全な部外者相手の方がまだ気楽で」
少し気まずそうにそう話す長谷部が、深々とため息をつく。じろじろとその顔を見た店主が、ふうん、と興味のなさそうに顎に手を当てた。
「はっきりとは言えないけど、柴胡加竜骨牡蛎湯ってとこかなぁ、処方するなら。あんまり眠れてもいないでしょ? あの闇鬼神野郎には言っておくから、ひどかったら改めてうちに買いにくれば?」
一応とはいえ直接雇用だし、保険だって利くはず。そう言った神獣は、傍らにあった問診票代わりのバインダーを指ではじく。
「ちゃんと症状とか聞かないと処方なんてできないし、ヤローには一切サービスしないけどね。他の君にも迷ったら来いって言っておいで、いろいろあったことは知ってるからさ、僕も」
この付喪神たちが地獄に来て、それなりに年月が過ぎた。最初はぎゅうぎゅう詰めだった彼らが寝床として使っている部屋も、最近は布団と布団の間に隙間ができるようになってきたらしい。それを「よかったね」と言っていいのかどうか、部外者である自分たちには分からないけれど。
少しだけしんみりとした部屋の空気は、打って変わって底抜けに明るくなった店主の声に混ぜっ返された。
「しかしまあ、女の子のためにウン十年も地獄にねえ……うん、その気概は買おう」
「白澤様には、どだい無理な話ですもんね」
「えー? 僕だって待つよ。その間に別の花が目に入っちゃうだけで」
「ダメじゃねえか!」
上司のダメ神獣発言にいつものように鋭いツッコミを返して、薬をリストと見比べつつ手際よく風呂敷に包みながら。桃太郎の顔が少し遠くを見つめるようにほころんだ。
「……でも、嬉しいもんですよ。誰かが待っててくれてたって知ったときって、やっぱり」
「桃太郎……」
彼の晩年は、そう華やかなものでもなかったらしい。自分たちは先に黄泉へと下っていたために知ることができなかったし、知ることができなくて幸運だったとも言えるけれど。
黄泉の道の先で不安そうにしていた彼の表情が、待っていたルリオたちを見つけてどう変化したのか。それだけで鬼退治の後のあれこれをチャラにしてしまった自分たちは、つくづく甘やかしが過ぎると思う。
「……えへへー」
シロにぐりぐりと頭突きされ、柿助に背中をよじ登られ、自分には肩にとまられて羽を寄せられて。元お供である二匹と一羽からの突然の愛情表現に、かつての英雄は戸惑ったように自分たちを見回した。
「ちょ、おい、なんだよお前ら!」
「えー? だってさぁ」
「だってねー、ねー! あー、俺、今日桃太郎のとこ泊まっていこうかなー!」
「いや無理だろ、俺たち明日シフト入ってるぞ」
「え、うそぉ!?」
ぎゅるぎゅると扇風機のように振り回されていたシロの尾が、分かりやすく耳と一緒に下がっていく。予定を忘れがちなシロに合わせて、たいてい自分たちで一緒のシフト希望を出すようにしているルリオと柿助だが、今度からは桃源郷に遊びに行く翌日も休みにしておくべきだろうか。
「あー、分かった分かった、これ終わったら遊んでやるから、ちょっと待てって! いいっすよね白澤様?」
「うん、モーマンタイモーマンタイ。いやー、仲よしだよねえ、君たち」
にこにこと笑う白澤が、シロの頭をわしわしとなでる。一瞬真顔になるだけで、面と向かってメス臭いなんて言わないだけあいつも成長したものだと思う。
ルリオは気づいている。付喪神と元英雄が、薬の受け渡しをしているときにこっそりこんな話をしていたことを。
「……うれしいものだろうか、やはり」
「そりゃあうれしいっすよ。あいつら鬼退治どころか、その後俺が調子乗ってたころもずーっと見捨てずそばにいてくれましたし」
残念だったな桃太郎。お前のお供は獣なので、聴力は人間の思っている以上にあるんだ。
早く遊ぼうと野原へかけていった残りの二匹は知らない、ルリオだけの秘密。ちょっとした優越感に胸を膨らませ、桃太郎ブラザーズのブレーンは、今も唯一の主は彼だけと認める、日本昔話最強の英雄の肩へと飛び乗ったのだった。
「長谷部さん、お久しぶりです!」
そろそろ昼に行くか、そう思って食堂へ向かう俺の背後からかけられたのは、ここで聞くはずのない声だった。
「うちの平野か!? お前、どうして」
藤四郎兄弟のなかでも、本丸最古参のひと振り、平野藤四郎。まさかもう一度出会うこともないだろうと思っていた相手の突然の登場に、俺はただ目を丸くすることしかできなかった。
「お迎え課に、臨時雇いとして入れていただけるよう申請に参りまして……主が、こちらに来られるときに」
俺たちがここへ来て、四半世紀ほどが経った。最初のころにはぎゅうぎゅうで、隙間なく布団をしいていた部屋は、今ではひと振りにつき二畳程度の余裕ができている。
「……そうだったか。久しいな」
「本当に、ご無沙汰しております」
やはり、懐かしい顔だと思うのだろう。他にも食堂へ向かう途中らしい“へし切長谷部”が、驚いたように彼を二度見しては通り過ぎていく。
「……五年ほど前だったでしょうか。先の戦に参加した刀剣のなかでも、現存しているものの特別展示会がありまして」
「……そうか」
「本霊の皆様が、一時的に僕ら分霊を会わせて下さいました。長谷部さんがいらっしゃらないなと思ったら、日本号さんが教えてくれたんです」
「それで、お前も?」
本丸では二番目に極めた短刀だ。元から忠義者である上に、主の側に仕えていた時間は、悔しいが俺よりも長い。
「……修行から戻ったとき、僕は主に言いました。地獄までお供すると」
「そうか、約束は果たさねばな」
「ええ、いち兄たちからも主を頼むと。全員でお迎えに行くことは難しいですから」
大挙して押し寄せても主は喜びそうだが、さすがにお迎え課もそこまでは管理しきれないだろう。
「え、刀剣男士ですか? まだ子供……いや、もしかして俺らみたいな?」
同じく昼休みなのか、通りかかったなじみの小鬼たちが平野を見て驚いたように足を止めた。忘れがちだが彼らは子供の鬼ではなく小鬼だ、子供ではなく短刀だとか、子狐と小狐のようなものだろう。
「初めまして、平野藤四郎と申します。本日はお迎え課に用事があり、こちらへ伺いました」
ぺこりと礼儀正しくお辞儀をする短刀に、あわてて小鬼たちも挨拶を返す。
「お迎え課ってことは、茶吉尼様の……え、大丈夫なんですか!?」
「……あの、大丈夫、とは」
「お? 茶吉尼様会ってない?」
「いいえ、お会いしました、お美しい方ですね。用件をお伝えしたら、快く了承してくださいました!」
それがなにか、と純粋そのものな顔で小首を傾げられ、茄子が唐瓜の肩を同情するように叩く。
この小鬼の、その、あれについては俺だって(あまり知りたくはなかったが)知っている。お迎え課の茶吉尼天がどのような姿なのかも、どんなタイプの獄卒が集まっているのかも。だが、詳しく説明なんてできっこないだろう、所蔵場所が同じはずのこいつの長兄に、地獄まで説教に来られてたまるか。
「まあ、もともとその気がない人には通用しないということですよ、あのお迎え課あるあるも」
以前に鉄鍋の付喪神に絡まれたときも思ったが、ちょうどいいタイミングで口を挟む趣味でもあるのかこの鬼は。
「閻魔大王の補佐官、鬼灯と申します。長谷部さんたちには何かと助けていただいていますよ」
礼節を尽くすように、補佐官が頭を下げる。ひえ、と出そうになった情けない悲鳴は、どうにか寸前で押しとどめた。なんでまた、いつになくそんなほめ言葉を。
「三者面談でもあるじゃないですか、学校の様子を親に話されたり、家での様子を先生に話されるのが恥ずかしいっていう。どうせなので、興味半分で真似してみました」
興味半分で付喪神をおもちゃにするな。そして平野もほほえましそうに笑うんじゃない。
「でも確かに、長谷部さんたち来てから楽になったよな」
「そーそー、俺もうわっかんねーもん、長谷部さんたち来る前にどうしてたか」
「不本意ながら、茄子さんに賛成します……あまりよろしくない傾向ではありますが」
楽になったとは、確かに聞いていた。一番ひどかったころがどうだったかなんて、あまり知りたくはないが。
「彼らの雇用は、あくまで一時的な措置にすぎません。今のうちに採用活動と後進の育成をと思いつつ、まだ大丈夫だろうと油断して先延ばしにしてしまう。しかし、そろそろ本腰を入れなくてはなりませんね。現に、最初よりは長谷部さんたちの人数も減っています」
部屋が広くなっていい、なんて憎まれ口を叩いていたやつもいる。じわじわと広がっていく部屋の余裕を、次作るのは自分かもしれないなんて、そんな不安は誰しもが持て余し気味だ。
「長谷部さんの手伝いが存在することを当たり前だと思ったまま、数十年後なんてことになってごらんなさい。文字通りの地獄絵図ですよ」
というわけで今日は説明会がありますので、みなさんも設営の手伝いを。そう言い残し、補佐官は小鬼たちを引き連れて食堂へ向かっていった。
「それでは、僕もそろそろ……お元気そうで、本当によかったです」
「あー、その、なんだ……会えてよかった、懐かしかったよ」
そう言えば、短刀の顔は僕もですとほころんだ。
あの場所への郷愁は、今も俺たちの胸にある。吐き出そうにも吐き出せないそれは、共有できる相手との邂逅であふれそうになってしまうけれど。
「一期たちに、よろしく伝えてくれ」
それが許されるのは、おそらく今ではないから、今はいったん別れの挨拶を交わす。
「ええ、しかと……それでは、またいつか」
いつか、はいつになるのか、それは主の天命次第だ。再会が遠い未来であることを互いに祈り、小さな背が廊下の先に消えるのを見送った。
柱に縛り付けられた亡者たち、それを取り巻く謎の猫のような何か、そして渦巻く猫のような鳴き声。精神にダメージを食らいそうなその館は、地獄の一角に建っていた。
「……ここは?」
「伊弉那美命の御殿です」
「イザ……!?」
国産み神話の二柱なんてとんでもない名をいきなり出され、思考が一瞬フリーズする。いや、確かに黄泉の女王ではあるが、こうも突然では驚きもするだろう。
「あ、いや、そうではなくてこの柱は」
「ああ、個人的な趣味です。大昔に私を生贄にした人間たちですよ」
「いけにえ」
「あれ、言ってませんでしたっけ。いけませんねぇ、どの長谷部さんに話してどの長谷部さんに話していないのか、ここまで来るとさすがにあやふやで」
神代のとある村で雨乞いの生贄として捧げられた子供と、その後の顛末。淡々と話す補佐官の様子はまるで他人事のようで、失礼なことだとは理解しつつも俺は違和感を拭えなかった。
「……復讐に取り付かれた者を一人知っているが、あなたのそれとはだいぶ違うな」
「ああ、小夜左文字さんでしたっけ。伺っていますよ」
刀剣男士に関する資料は、ある程度地獄側も手にしている。仇討ちの逸話を受け継いだ短刀の名も、補佐官はしっかり把握済みだった。
「そりゃあね、生贄が当たり前の時代に殺された私と、仇討ちを美談として扱った時代の小夜左文字さんとは、逸話に付随する感情なんて違うでしょうし」
ここは大焼処、殺生を救済と説いて殺しを行った罪で落とされる場所だ。地獄のシステムが整備される前にここに来たみずら頭の亡者たちは、本来ならばここに落とされるような扱いはされないが、彼のその執念によって“気の済むまで”というぼんやりとした刑期を与えられ、そのまま数百では足りない年月、ここで罪を償い続けている。
「茄子さんからは、乾燥した恨みだと言われたそうですよ」
「乾燥……」
「言い換えればポジティブな恨みだそうで。ほめ言葉だと受け取っています」
言い得て妙だとは思うが、ほめ言葉としてはどうかと思う。怯えた顔の亡者の額をその怪力で弾き飛ばし、地獄の補佐官はあっけらかんと、こうのたもうた。
「だって、疲れません? ネガティブな思いを抱え続けるのって」
そういえば、この鬼神は黒い感情を抱え続けるということがない。上司や部下の怠慢、天敵である桃源郷の神獣相手には、いらつきを感じたらすぐに発散している。元からそういう性格だったのか、環境によって身につけたサバイバルスキルなのかは、いまいち判別しかねるところだが。
うなされる弟を案じていた、左文字の兄たちを思い出す。ただのモノでしかなかった小夜がどう思おうと、研ぎ師の復讐の念は逸話でできた彼を縛り付け続けていた。まるで、呪縛からの解放を研ぎ師自身が拒み、逸話を伝承した人間たちもそれを支持するように。
「仇討ちが美談として扱われない時代だったら、研ぎ師が母を忘れて、幸せに生きていたら、この子の内側の淀みは存在しなかったでしょうね。それでも僕は、この子とともに、ここにあることができてうれしかった……だめな兄ですよ、まったく」
そもそも仇討ちの逸話が美談として語り継がれなければ、付喪としての小夜左文字は存在しなかったはずだから。最後の酒宴で、寝てしまった小さな弟の頭をなでながら、桃色の篭の鳥はそう言っていた。
では、俺はどうだっただろう。下げ渡された瞬間の絶望は、修行で消化できたものの今も忘却の彼方とは言えない。けれど、その先で出会ったまた別の前の主や、彼らとの穏やかな日々、そして“黒田の刀”として伝えられたことによる今の俺の存在と、それによって生み出された、今の主との大切な思い出。それらはすべて、あの日下げ渡されたことによるものだ。
しかし、それはあくまでも結果論にすぎない。あの日の辛さがあったから今の俺が、なんて言ってしまっても、あの喉を締め上げられるような感覚は消えはしないし、そんなきれいごとでなかったことにされてたまるかと、過去の俺がこちらを睨む。
湿った恨みの感情は、じわじわと精神を蝕む。しかし、それらを赦しという行為で落とし込むのも、どうにもしゃくに障った。けれど、いい加減に感情に振り回されるのも疲れたと思ったことも、何度だって。
そう考えれば、このように消化してでも抱え続けることを選んだこの鬼が持つ恨みは、もしかしたらとんでもなく巨大なものなのかもしれない。
……簡単にできれば苦労はないだろうが。
「まあ、私のほうがイレギュラーだと自覚はありますけどね」
「あるのか、自覚」
「私みたいなのが多数派だったら、地獄なんて成立しませんよ」
いや確かにそれはそうだが。ここに来てから何度も思い知らされたが、本当にこの鬼神にはどうしたって勝てる気がしない。
「不幸な事件で親兄弟を殺されるのと、風習兼やっかい払いで死に追いやられるのは、当人の内側でも扱いが違うでしょうしねえ」
「……それだけではないと思うがな。ところでそれよりも、なんだこの、この……?」
「ああ、言いたいことは分かりますよ言いたいことは」
にゃあん、という低い猫のような鳴き声の大合唱が、また不協和音としてその場に響きわたる。地獄の業火の燃える音と、風に乗ってどこかから流れてくる呵責を受ける亡者の悲鳴と相まって、まさに地獄というべき光景がそこにはあった。
桃源郷で漢方薬を処方してもらいはじめて、睡眠の質はだいぶ改善されているけれど。今夜は別の悪夢を見るかもしれないと背筋に寒気が走るが、前までの悪夢よりはだいぶましなものになりそうだ。
「よう、一年ぶり」
「……ああ」
懐かしいといえば懐かしい、冷房の効いた博物館入口ロビーにて。俺を出迎えたのは、相変わらず昼間から酒盛りをしている位持ちの槍だった。
「毎年思うんだが、盆の里帰りっつーのは死者の特権じゃないのかねえ」
「仕方がないだろう、顔を見せてこいと強制的に放り出されるんだ」
「ま、そのたびに分霊解放してるうちの本霊殿も本霊殿だがな」
夏の盛り。外は相変わらず、前庭の池が蒸発するのではというほど暑い。
十年ほど前には「そっちの近場に行くからね、ついでに乗っていきな」と火車殿のバイクで送られて、グロッキーになったところをさんざん笑われたものだったが。ここ数年ほど、こいつは俺の顔を見る度に安心したように相好を崩すようになった。
「……今年も来てたぞ、相変わらず。あの部屋にずーっといる」
「そうか」
「毎正月顔出して、もうあれから五十と……どのくらいだったかねえ」
俺が盆に戻るということは、まだ“そのとき”が来ていない証拠となる。年々確かに減っている“里帰り”したへし切長谷部の数に、どの“日本号”もわずかな怯えを見せるようになったのは、何年目のころだっただろう。
「……初めての盆だったか。別の分霊でな、言ってたやつがいたんだよ。うちの一振り目が戻らなかったって」
飲むか、と差し出された杯を、たまにはと素直に受け取ってやる。
「そういうこともあるよなあ、やっぱり」
「…………」
苦い記憶が、心の奥から掘り出される。
――ねえ、主。どうして?――
今にも泣き出しそうな声は、俺のよく知っているけれど知らないやつのものだった。眉間にしわを寄せる俺の様子に気づいてはいても、深く掘り下げようとはしないのがありがたい。
「今残っている“長谷部”は何振りになった」
「……俺を入れて、三振りだ」
「そうか、うちはずっとマシなほうだったか」
すい、と節くれ立った指が、誰かに杯を捧げるように持ち上がる。朗々とした、俺たちにしか聞こえない声がロビーにこだました。
「渭城の朝雨、軽塵を浥し。客舎青青、柳色新たなり」
「君に勧む更に尽くせ一杯の酒……王維か」
「ああ……いい詩だ。まさかお前相手に思い出すとはなあ」
遠くへ向かう友人との、別れの朝を唄った詩だ。古来から、国が違っても、感じることは変わらない。
「それもこれも、俺があの本丸の、あの審神者の元にいた日本号だからってことなんだろう。ある意味俺たちの枝葉は、あの嬢ちゃんでできてるようなもんだ」
ここ数年、現世の桜と紅葉のニュースに胸をなで下ろすことが年中行事になった。先の冬が明けたとき残っていたのは八振り、桜の季節に一、梅雨のころにまた一、そうして、初夏から盆の直前に、立て続けに三振りが去った。「部屋が広く使える」なんて強がりを言う者も、もういない。
「今年は入院中に無理して来たらしい、車椅子でヘルパーが付き添ってた。あんな状態でも、真冬に医者からこっちまで来る許可が出たってのは、そういうこったろうよ」
真夏と真冬は、地獄から去っていく“へし切長谷部”が他の季節と比べて多くなる。最近は特に、その傾向が強かった。もうそれだけ経ったのだ、俺たちがあの日、本丸を離れてから。
「去年以上に、記憶もあやふやになっていた。表情や話し方が出会ったころとそっくりになって……懐かしいと思ったよ」
長く人間とともにあった俺たちは、悲しいかなそういった“予兆”には敏感だ。
「たぶん、これが最後だろうな、こうしてお前と会うのも――だから」
後は頼んだ。そう言った日本号の吐き出す息が、わずかに震える。
「最初に聞いたときは、主馬鹿もここまで来たかと思ったもんだが。良かったよ、お前がいて」
西のかた陽関を出れば故人無からん。そんな目に遭わせず済んだ。そう呟いた日本号は、杯の中身を一気に干した。
「ひとりぼっちにだけはしてやるな。ほかの皆からの分も、この通りだ」
お前が頭を下げるなんて、夕立の予兆か。昔の俺だったら、そんな憎まれ口の一つでもたたいていただろうけれど。
「当たり前だろう、俺を誰だと思っている」
「……へーいへい」
それでもこんな状況では、染み着いた習慣にも頼りたくなる。礼を尽くすように懇願するこの位持ちに俺が返せたのは、そんなおどけたような答えだけだった。