マドモアゼルは拒む 綺麗に敷かれた石畳に、まるでミニチュアの玩具をそのまま大きくしたような可愛らしい家やショップ。道行く人々は彼女には少し新鮮な空気を纏っている。彼女からすれば奇抜なファッションだって街の空気によく馴染んでいるし、どこか映画の中に迷い込んでしまったような気持ちになりながら辺りを見回した。
「――レディ、もう少しオレに身体を預けて」
ふわふわとした足取りで、いつの間にかクルーウェルからだいぶ距離を取っていたらしい。苦笑して囁かれて、彼女は思わずほんのりと頬を染めた。まるで子供みたいにはしゃいでしまったことを恥じるように。
もごもごと口の中ですみません、と呟く彼女にクルーウェルはわずかに目を眇める。気持ちは分からない訳ではない、と。クルーウェルにだって新しい場所を好奇心たっぷりに観察してしまう気持ちがあるのだ。責めることはできない。
「気にしないでいい。ただ、貴女がオレからはぐれてしまわないか心配でな」
優しい手つきで頬を撫でられて彼女は言葉を見失ってしまう。どうしていいか分からなくて、視線をうろうろと彷徨わせたあとに彼女は「すみません」もう一度、今度ははっきりと呟く。謝ってほしいわけではないんだがな、と頭上から降ってくる言葉は少しだけ困っているような響きだった。
「……仔犬共を探しに行こうか」
気を取り直すように、優しく囁かれて彼女は小さく頷いた。それから「あ、でも」とはたと気付いて声を漏らす。とても心配そうな顔をしながら。
「麓の街へ、としか聞いていなくて。
どこに居るのか知らないんです」
彼女の言葉にクルーウェルはそんなことかと笑う。いつもの少し意地悪な、悪い大人の男の人が浮かべる笑顔だ。クルーウェルはパチリといつものように指を鳴らす。魔法の合図だ、と彼女は気付いた。だからクルーウェルや周囲を見るけれど、何かが変わった様子は特に見当たらない。
少しだけ首を傾げた彼女にクルーウェルは「なんて、な」とくすくすと笑った。彼女はゆっくりとまばたきをして、その時になってようやくからかわれたらしいと察する。
「さすがに仔犬を見つける魔法はオレも知らないな」
「……もう」
彼女は思わず唇を尖らせて、それからその可愛らしいいたずらにクスクスと笑った。だってまるで、子供みたいなことをするから。そんな彼女に「ようやく笑ってくれたな」とクルーウェルが表情を和らげるから、彼女は気まずくて「笑ってますよ、ずっと」と言い訳のように呟いた。
クルーウェルは彼女にそうだな、と返してからゆっくりと歩き始める。彼女の歩幅を考えてくれているような速さだった。それにくすぐったい気持ちと、後ろめたい気持ちと。抱えきれない想いを抱えながら彼女は口を開いた。
「どこか心当たりがあるんですか?」
「――オレにも仔犬だった頃があったからな」
答えになっているんだかいないんだか。よく分からないことを言ってクルーウェルは姿勢を綺麗に保って、迷うことなく足取り確かに歩くから、彼女はもうそれ以上何も言わないことにした。どうせ自分では分からないのだ。付いて行くしか、選択肢はない。
「ところでレディ、せっかくなのだから貴女も買い物をしたらどうだ?」
そうですね、と返そうとして彼女は言葉に詰まった。思い出すのはトレインとの会話。
この世界で生きていく覚悟もないのに、持ち物を増やしていいのだろうか、と彼女は急に不安になってしまった。だって、もしかしたら向こうに帰るその時が、明日にでも、次の瞬間にでもやってくるかもしれないのに。
「私は……いいです」
かろうじてそれだけを答えた彼女に、クルーウェルは何かを言おうとしてやめる。それに彼女は酷く安堵してしまった。だって、どうしてなんて聞かれてもなんて答えていいか分からなかった。自分のことを好きだと伝えてくるこの人に、私はあなたの知らない場所に帰るかもしれないから、なんて。そんな残酷なことを言えるほど彼女は酷い人にはなれなかった。
クルーウェルがそうか、と静かに頷くのを彼女は目も合わせずに「はい」と返答する。その目に映る景色がのどかで、楽し気で、穏やかだからこそ余計に寂しさなんてものを感じながら。
「それなら、オレの買い物に少し付き合ってくれないか?」
「それは、もちろん」
助かると口角を持ちあげるクルーウェルを見て、彼女は「これはモテるはずだわ」と心の中で呟く。何をするにもスマートなクルーウェル。今のだって、彼女を気遣ってくれたのだとすぐに分かった。向こうの世界の彼とは正反対だな、と考えてから胸がつきりと痛む。
あの店はぼったくりだとか、この店の店主は気が良くてとか、あの店はアシュトン・バルガスのお気に入りだとか。彼女に説明をしながら、時にジョークを交えながら案内をするクルーウェルは魅力的な男性そのものだった。そんな彼に、どうして自分はこんなふうに――まるで、お姫様のようにエスコートしてもらっているんだろう、と今更なことを考える。
そんな資格、一つも持ち合わせていないというのに。
「――……レディ、もしよかったらあそこの公園で少し休まないか?」
あそこでホットドッグでも買って、と促すクルーウェルの視線の先には、小さな露店販売の店があった。オレのおすすめだ、と言うから、きっとおいしいのは間違いないのだろうな、と彼女は確信する。
「そう、ですね。そう言えばお昼も食べていないですし」
繕ったような笑顔の彼女に、クルーウェルは何を思っているのだろうか。彼女の心の奥底を見透かすような視線が、酷く痛くて、居心地が悪かった。その居心地悪さに身を捩るようにすれば、クルーウェルは少しだけ申し訳なさそうに笑ってから「入ってすぐのベンチで待っていてくれ。すぐに行くから」とエスコートの腕をするりと解いてしまう。
それに、寂しい、だなんて。
どの口が言うのだろうと、彼女は自嘲気味に笑いながら「はい」と頷いた。
犬の散歩コースに使われているらしい。アーチをくぐった先の公園は存外広く、そして緑が多かった。入ってすぐのところに、確かにクルーウェルが言うようにベンチがあってそこに腰掛けようとしたとき、彼女は視界の端に映ったその人の顔に絶句する。その人も犬の散歩に来ていたらしい。犬に引っ張られて走り去ろうとするその背中を見て、彼女は思わず駆け出していた。
心臓がうるさく跳ねる。そんなはずはないと思いながらも、彼女がここにいる事実が、そうかもしれないと思わせる。だってその人は、あまりにも彼に似ていた。向こうの世界に残してきてしまった彼に。
「――!」
彼の名前を呼ぶ。待って、と。公園の奥へ、奥へと駆けて行って。ようやく追いついたその人の腕を掴んで、顔を見た時に彼女は「あ」と小さく呟いた。
驚いたように見開かれたヘーゼルの瞳。そばかすが散った顔。似ているようでまったく違う顔に、彼女は優しい空気だけが同じだな、と思った。
「ご、ごめんなさい、人違いで」
「いえ……」
慌てて彼女が掴んでいた腕を話せば、その人は柔らかく笑って「そんなに似てたんですか?」と尋ねた。その笑顔が、彼女の琴線に触れてしまった。
「とても」
小さく呟いた彼女はぽろりと涙をこぼしてしまう。ぽろり、ぽろりと、溢れて止まない涙が彼女の声を震わせる。ごめんなさい、と言いながら乱雑に目尻を拭う彼女の手を、その人はそっと押しとどめた。
「よかったらこれ、使って」
清潔なハンカチで彼女の涙を拭うその人の目は、やっぱり彼と同じに見えた。じんわりと染みを作っていくハンカチで、その人はめんどくさがらずに彼女の涙をぬぐい続けてくれた。足元では真っ黒な毛色の犬が心配そうに彼女を見上げている。くぅん、と切ない鳴き声が耳を打つ。
「ごめんなさい……本当に」
彼女はその人のハンカチを受け取って、自分で涙を拭いながら謝る。それしか伝えられる言葉を持ちえなかったのだ。
「気にしないで」
大丈夫だから、と返されたとき、彼女は心が震えた。彼女が泣いてしまったとき、確かに彼も同じ言葉で、同じ手つきで、同じことをしてくれた。隣りに居るから、大丈夫だから、と。
止まらなくなった涙に、溢れ出す嗚咽に。周りの音なんて彼女には何も聞こえなくなって。そんな彼女の肩をその人は優しさとほんの少しの下心で抱いた。優しくさすれば、彼女は身を寄せて泣いた。
「ごめんなさい、わたし、わたし……」
「大丈夫、大丈夫」
あやすような優しい声を聞きながら、彼女の心は彼の元へと帰っていく。忘れかけていた感情が呼び戻されていく。
「本当は、」
「――レディ!」
鋭い声がその人の手を突き刺した。ごう、と風が唸って吹き荒れる。枯れ葉が舞って、砂が攫われて。
その人はままならない視界の中で恐ろしくも美しい男を見た。目が真っ赤に充血し、口元は笑みを描いているのに引き攣っていて。鬼のような形相でその人を睨みつける男。白と黒の毛皮のコートと反対に、目にも鮮やかな赤いタイや手袋がやけに印象的で。
コートのファーがふくれて、男はくすぐったそうにしてから凄惨な笑みを浮かべた。
「その人に何をした」
地の底を這うような声は、明確な怒りが滲んでいた。彼女が呆然とした様子で「クルーウェル先生」と呟く。犬が威嚇するように吠えてもクルーウェルはただその人だけを睨んでいた。
「違うんです、クルーウェル先生、誤解です」
ハッとしてから彼女はクルーウェルに駆け寄る。彼女がその人に泣かされたと思ったのだ、とようやく思い至ったのだ。もうやめてください、と言いながらぽろ、と涙が一つ滴だけ頬を伝う。
クルーウェルはギラギラとした瞳を隠そうともせずに、その滴を指先で掬ってから「レディ」と囁く。そんな男をかばう必要がどこにあるんだ、と。怒りのせいだろうか、微かに震える声は、必死に理性を手放すまいとしているかのようだった。そのあまりの怒りの深さに彼女はふるりと震える。
こんなに怒ったクルーウェルを彼女は見たことがなかった。いつもどんなに失礼なことを彼女が言っても、どんなに彼女が逃げても仕方ないなと言わんばかりに余裕の態度を崩さなかったクルーウェル。その彼がこんなに恐ろしく怒るなんて、彼女はどうしていいか分からなかった。
「ちが……ちがうんです、本当に、彼は親切にしてくれただけで」
やめてください、とクルーウェルのコートを掴んで彼女が訴える。クルーウェルはその腕を掴んで彼女の顔を覗き込んだ。
「親切に、貴女を泣かせた、と?」
「違います!」
クルーウェルの怒りに呼応するように風が強くなる。クルーウェルの綺麗にセットされた髪も風に煽られて乱されていた。弾かれた小石がその人の頬を掠めるのを見て、彼女は小さく悲鳴を上げた。このままじゃいけない。彼女はクルーウェルの手を振り払ってその人の方へ戻る。
「レディ!」
己を呼ぶ声なんてどうでもよかった。目の前の親切なその人を、どうにかして守らなければと、ただそれだけを考えていた。
吹き荒れる風が二人を阻む。まるで彼と彼女のことみたいに。彼女はそれにまた泣きそうになりながら手を伸ばした。その人をかばうように、風から守るように抱きしめた。ごめんなさい、と泣きながら。
するすると風が解けていく。先ほどまでの暴風が嘘みたいに。
へたり、とその人が腰を抜かして座り込む。それに彼女も一緒になって座り込みながら、カバンから自分のハンカチを取り出して頬の小さな傷を労わるように拭った。
「君のハンカチ、汚しちゃったね」
お人好しなのか、なんなのか。その人の言葉に彼女は涙ぐんだ声で「ごめんなさい」と、何度目か分からない謝罪を口にする。親切にしてくれただけなのに、と。その人の犬は心配そうにしてその顔を舐めていた。
「気にしないで。ケガも……まぁ無いのと同じだし、彼の気持ちは分かるし」
その人はそう言ってからクルーウェルへと視線を向ける。はらり、と力を無くしたように乱れた髪のクルーウェルは呆然と彼女を見ていた。どうして、と言いたげな顔で。それにその人は、まるでうちの相棒と同じ顔をするんだな、と苦笑する。叱られた時の黒い毛皮を纏った相棒とあまりにも似ているから。
「大切にされてるんだよ、君」
フォローするような言葉に、彼女は何も言えなくて、ただ唇を噛みしめて俯いた。分かっている、と言えたならどんなにいいだろうか。そんなの知らない、と言えたならどんなに気が楽だろうか。
ぐっと涙をこらえて、最後にもう一度「ごめんなさい」と言った。
「ハンカチ……」
「君のと交換ってことで。ダメかな?」
彼女のハンカチを受け取ってその人は小さくウインクをした。それに彼女はうっすらと微笑んで「あなたが、それでいいのなら」と頷く。するとその人はあっさりと立ち上がって彼女へと手を差し出すから、それにそっと手を重ねて引き起こしてもらう。はたから見れば、仲の良い恋人のような光景に、いつの間にか集まっていた野次馬たちが見惚れる。
「じゃあこれで」
行くぞ、と飼い犬に声をかけて去って行くその人の背中を見送って、それから彼女は気まずい思いを抱きながらゆっくりとクルーウェルの方へと歩み寄った。小さく、掠れた声で「クルーウェル先生、」と呼ばれてクルーウェルはゆるゆると視線を落とす。まるで、今ようやく目が覚めたとでも言いたげな顔で。
クルーウェルもまた、小さく、掠れた声で、それでも労わるように「ケガは?」と彼女に問いかける。それに彼女は首を横に振った。だからクルーウェルはその手を彼女の頬に伸ばして、触れる少し前に手を止める。
「……触れても?」
酷く怯えるような響きだった。彼女が小さく頷くと、クルーウェルは息を吸って、それから決心したように優しく頬に触れた。ゆっくりと撫でながら上を向かせてケガがないことを確認する。
そんな二人を野次馬たちは最初、「痴情の縺れか?」なんて囁きながら見物していたが、やがて二人の世界を邪魔してはいけないと、一人二人と減っていった。
「レディ、オレは」
「心配してくれたんですよね、ごめんなさい」
クルーウェルの言葉を遮って彼女は困ったように笑う。何も言わないでくれ、と拒むようなその笑みに、クルーウェルは息が詰まった。彼女はいつだってそうだ。クルーウェルに肝心な言葉は何も言わせてくれはしないのだ。そして、自分のことも何も教えてはくれない。
「ユウさんたちを探しに行きましょう」
もう大丈夫ですから。
そう言った彼女を、クルーウェルはどう信じてやればいいのか分からなかった。
教科書を開くように。今日は人魚の文化についてだ。なんだ、デイヴィス・クルーウェル。質問があるのは結構だが、制服は規定通りに着るように。……頬杖をつくのも禁止だ。足を組むのもだ。――よろしい。それで何かね。
結構。なるほど、君たちにはこれがフォークにしか見えないと。たしかにこれはフォークだろうな。私も同意するところではある。しかし、それがどうした。君たちは笑っているが、たとえこれが人間の作ったフォークであったからといって、この歴史的資料の価値が下がるわけではあるまい。
君たちは船に乗ったことがあるかね?ほう、どこへ?熱砂の国か、あそこは良い。ジリつく日差しに、足を重くする砂地、ゆらゆらと揺れる空気。オアシスの水は飲んだかね?それはもったいない。あの清涼な水は何にも勝る味である。そうだ、熱砂紀行を読むといい。あれはいい。熱砂の国出身の生徒であればフィクションであると分かるだろうが、中々に興味深い内容だ。
……ふむ、話しがずれたな。
船の旅で危険を感じた者はおそらくごくわずかであろう。私だってそうだ。デイヴィス・クルーウェル、君は?そうだろう。
それはなぜか。もちろん魔法の恩恵であることは語らずとも知れたことである。異論があるものは?よろしい。
しかし今よりもずっと昔――そう、魔法がまだ世に広く知られていなかったころはそうではなかった。木で作られただけの船を、風と波の力で動かしていた時代。あぁ、そうだった。時々人の力も必要だった。何せ風が凪げば船は止まるからな。
そんな時代では行くも帰るも天候次第、運次第である。大嵐が来れば、人間の船なんてあっという間に転覆して沈んでしまう。信じられないか?それでもあったのだ、そういった歴史が。君たちが知らないだけで、な。
そうすれば船に乗せていた荷物はどうなると思うかね。そう、海の底へと沈む。金銀財宝はもちろん、王子様だってそうだ。それを好奇心旺盛な人魚たちが拾って持ち帰ったことで、当時の人間の歴史を紐解くための重要な資料が今も保管されている、なんてことは間々あることである。あぁ、もちろん王子様を保管しておくことなどできんから、その場合は陸へ返されたり――ま、君たちの想像通りであると述べておこう。
ところで諸君、居ないとは思うが、海へごみを捨てたものは?……よろしい。海は人魚の住む国。そんなところへゴミなど捨てれば最悪戦争になりかねん。ミドルスクールで習うことではあるな。とは言え、人魚の存在を知らなかった頃の人間はどうだろうな。もしかするとフォークの一本くらいは捨てたことがあるかもしれん。
さて、デイヴィス・クルーウェル。君は、このフォーク……失礼。銀の髪すきは、船もろともに沈んだものか、それとも捨てられたものか、どちらだと思うかね。
――ふ、なるほど。どうやら君は随分とロマンチストのようだ。平和で、愛のある解答だな。個人的には嫌いではないぞ。もちろん褒めている。
ぱちり、と目を開けてクルーウェルはぐっと背伸びをした。首を回せばパキパキと音がしてうんざりとする。どうやらデスクでうたた寝していたらしい。なんだか酷く懐かしい夢を見た気がする、なんて思いながら欠伸を噛みしめたときだ。
「居眠りをした者は分かっている」
さんざん学生時代に聞いた言葉にぎくりとして、それから苦々しく溜息をつきながらクルーウェルは振り返った。
「なんの真似だ、アシュトン・バルガス」
「いやなに、珍しいものを見たと思ってな」
からかうような言葉にクルーウェルは隠す気もなく舌打ちをした。バルガスはそれに「筋トレでもしろ。ストレス発散になるぞ」と言いながら自分のデスクに座る。誰が、と悪態をつくクルーウェルのことなどまるで無視して。
そういうところが嫌いなのだが、なぜだかバルガスはクルーウェルのことを嫌いではなかった。ひょろっとしていて気難しい男、くらいにしか思っていない。それが余計にクルーウェルの癇に障るのだが、もちろん本人は気づいていなかった。
「あのお嬢さんは元気にしているのか?」
「オレがお前に教えると思うか」
クルーウェルの言葉にバルガスは少しだけ考えるふりをして、からりと笑うと「思わんな」と言った。分かっているなら聞かなければいいだろうに、と寝起きで機嫌の悪いクルーウェルは眉間に皺を寄せる。
「まさかクルーウェルが本気になる女性が現れるとはな」
感心したように言うくせに、バルガスの目は書類へ落とされている。こんなもの放っておいてグラウンドへ行きたい、なんてぼやきながら。クルーウェルはその言葉をまるっきり無視して自分も書類へと視線を落とした。
ホリデーが近いこともあって書かなければならない書類は多い。さっさと済まさなければ、下手すればホリデー返上で仕事をするはめになる。そんなのは勘弁願いたい。しばらく無言で二人は書類へとペンを走らせる。
先に口を開いて沈黙を破ったのはもちろんバルガスであった。クルーウェルが好き好んで話しかけるはずがないのだから。この前ジョギングの時に見かけたんだがな、と聞いているのだかどうだか怪しいクルーウェルへ話しかける。
「まさかお前が女性に泣かれてあんな顔をするとは思わなかった」
「……見ていたのか」
ぐっと渋面を作るクルーウェルにバルガスは肩を竦めて見せる。たまたまだ、と言った顔はこれっぽっちも悪びれた様子がない。
「女泣かせのデイヴィス・クルーウェルがなぁ」
変わるもんだな、と笑ったバルガスにクルーウェルの口元は引き攣る。あぁ、だから、とクルーウェルはぼやいた。
「アシュトン・バルガス、お前のそういうところが嫌いなんだ」
脳筋め、なんて悪態が職員室に溶けていく。生徒たちの笑い声にかき消されるように。