Premières impressions
ラビだ。よろしく。朗らかな調子で手を差し出された日を鮮明に覚えている。
あんなに言葉を交わしてきたはずなのに、面と向き合ったのは今日がはじめてなのだと気がついてリュカは妙な気分に陥った。確かに彼が発する声は自室のスピーカーから聞いたことのある、人の良さそうな穏やかな声そのものだった。よろしく、とただそれだけを応えて手を差し出す。それをぎゅっと握られれば指の付け根、肉刺であろう硬い部分が皮膚にあたってああ確かに彼はドラマーなのだと、やっと自覚した。なんだか不思議な気分だよね、あんなに頻繁にお喋りしていたのに。手をゆっくりと離しながらラビがぽつりと呟く。その様子はSNSに貼り付けられた動画で見せていた荒々しいプレイとはかけ離れた、のんびりとしたものだった。人は見かけによらず、といったものだろうか。
ノアを先頭に空港出口へと向かっていくのについていきながら、二人並んで歩く。目の前でレオンと朝陽が物珍しそうにきょろきょろとしながら歩いているのを暫く眺めて、リュカが頷く。
「ああ、そうだな」
「でも皆、思った通りというか」
肩を揺らしてラビが笑う。一目見て分かったよ、ああ、リュカだなぁって。ノアや朝陽もだけど。
「お前はもっと……荒々しい奴かと」
「えっ?」
思わず口走ったリュカの言葉にラビが目を丸くする。はっと我に返ってリュカがすまないと付け加え、言葉を探して視線を彷徨わせる。
「チャットで話していた時も思っていた。あんなに荒々しい演奏をするのにおっとりしているというか」
「……」
「……すまない、うまく言えない」
動画で見た、暗く埃っぽいスタジオの中で録画された演奏動画を思い出す。未完成ながらも荒々しい、空気を揺らすリズム。そんな音を生み出す男は目の前でにこにこと笑い、どう言えばいいか迷っている自分を深い青色の目で見つめている。
「オレが?」
「気に障ったか」
「いいや、ちょっとびっくりしただけというか……嬉しいよ」
「嬉しい?」
「あー……ほら、メタルって怖がられるじゃないか」
苦笑いしながらラビが頬をかく。確かにSNSのフォーラムでもメタルはどこか独特の雰囲気があって、あまり深入りはしなかった覚えがある。
「お前も怖がられたのか?」
「…………少しね」
たっぷり間を置いてラビが頷く。メタル、いいのになぁとやはりのんびりした口調で言うものだから、思わず笑みが浮かぶ。
「なら、貸してくれ」
「聴いてくれるのか?」
「お前が叩いていたものは聴いた。歌詞は過激だったがいい曲だったと思う」
素直な感想を告げれば、ラビの表情が綻ぶ。帰ったら荷物開けて探さなきゃ、きっと段ボールが山積みだよ。どれがいいかなあとそわそわし出したラビに瞬きを繰り返す。
「部屋が片付いてからでいい」
オレの部屋もそうだから、無くしたら大変だ。それじゃあ片付いてからだね、そうだ、オレにも何か貸してよとラビが首を傾げる。
「お前の好みに合うかわからない」
「リュカの好きな曲がいいな」
オレの知らない曲で、リュカが好きな曲。楽しみだなぁとラビが零す。やはりその声は穏やかだった。
攻防戦
いつもはきりりとした眉は下がり、コバルトブルーの目が悲しさを滲ませていた。唇もきゅ、とへの字に曲がって、意思の硬さを示している。体格はさほど変わりない筈であるのに、悲しさの混じった、強い圧のようなものをリュカが感じた。
「駄目だよ」
「何故だ」
どいてくれ、ラビ。キッチンの扉の前で仁王立ちをしているラビをどうにかどかすか、避けて通ろうとリュカが彼の前でゆらゆらと揺れている。それでもラビはびくともしない。小さくない溜め息を吐いて、もう一度子どもに言い聞かせるように駄目だよ、と繰り返す。
「不当だ。何故オレはキッチンには入れない」
「うーん、そうだな。物事には理由があるから、それを知るのは当然だと思うよ。だから言うけど、キッチンの平和とオレ達の腹を守るためなんだ。わかってくれ、リュカ」
ラビの言葉に憮然とした顔で、そのカーマインの瞳を細める。ああ、綺麗だなぁと見惚れかけていやいや、そんな場合じゃないと気を取り直した。この調子だと納得はしていないだろう。普段はあんなに理路整然とした態度なのに、こと料理になるとこうなってしまうのだろうか。さてどうするか、いつまでもキッチンの前で押し問答をするべきではないだろう。さて、とラビが口火を切る。
「……ところでリュカ」
「なんだ」
「もしオレがリュカをキッチンに入れたとして、何をする気なんだい?」
「何を言っている。料理しかあり得ないだろう……本屋で誰にでも出来る簡単レシピというものを見つけた。これならオレにも出来ると思う。まずフライパンに卵を落とすことからはじまる本だ」
なるほど、リュカが今手に持っている本はそれなのだろう。へえ、見せてくれよとラビが乞えば、取り上げられると考えたのかリュカが渋い顔をした。絵本を取られまいとそれを守る子どものように、それを胸に抱え直すリュカの姿に苦笑いする。かわいらしい奴、と。
「ねえ、オレがリュカから何かを奪ったことある?」
「……色々と」
「ん、まあそれは、うん……じゃなくて」
そういう意味じゃなくて、ともごもごと言葉を口の中で転がすラビに、ふ、とリュカが笑った。しょうがないな、と言いたげにそれを差し出してくるそれを見てみる。なるほどそんなに分厚くない、親しみやすい表紙のレシピ本だ。
「どれどれ……」
気を取り直して受け取り、それを開く。ごく自然にリビングへと歩き出せば、おい、とリュカが焦った声をかけてきた。気にせずに、ソファに座る。レシピに視線を落としていたが、すぐ隣でどかりとリュカが座ったのを感じて、思わず笑みを浮かべてしまう。
「こういうのは先に読んで、何を作るか決めたほうがいいよ」
「そうなのか」
「料理は準備が大事だからな。ヨーグルトはミルクの代わりになれないからね」
「そうなのか……?」
「当たり前だろ」
どうしてそこを不思議がるんだと改めてこの恋人をキッチンに入れてはいけないと認識する。しかしことあるごとにキッチンに入ろうとして自分に諭され、レオンにどやされ、朝陽に涙目で説得され、挙げ句ノアがにっこりと笑いながら首を横に振るのを見ていると、いっそ気の毒になってくる。神は彼に作曲家として才を十二分に与えたが、かわりに料理に関しての一切を取り上げてしまったらしい。
日本にはこういう言葉があると聞いた。天は二物を与えず。
「リュカはどうして料理を作りたいんだ?」
そもそもの話をしよう、とラビがリュカを見やり問いかける。開いたページには確かにフライパンに卵を割って落とす写真が載っている。ラビの問いかけにカーマインの目がぱちりと瞬いた。
「作ってみたい。作って、皆に食べてもらう。オレの作った料理を美味そうに食べているお前達が見たい」
「……なるほど」
至極単純にして真心の籠もった解答だ。頷きながら再び視線を本に落とす。かんたんレシピ、と銘打っているだけあってボルシチは載っていないらしい。
Bonne nuit, notre compositeur
ここ数日のリュカの様子といったら、酷かった。作曲が大詰めを迎える事には大抵そうなるのでラビも下手に構うことも出来ず、ちゃんと休憩してる? クッキー焼いたからコーヒーと一緒に食べるんだよ、と振り向きもしない仲間の背中に呼びかけながらローテーブルにトレイを置いてとっとと退散するしかなかった。忍耐が必要だね、とノアに涼しい顔で同情されて、いやまあ、だってオレ達の曲だからと苦笑いするまでが様式美だ。
それでもノックをすればいつもより少し散らかった部屋に入れるので、受け入れられているのだと実感できる。シェアハウスを始めた頃は、リュカは一歩たりとも部屋に入らせなかったのだから。
そうして出来上がった新曲の楽譜を受け取りながら、ラビはちらりとリュカを盗み見た。疲れを滲ませているカーマインの瞳は時折しぱしぱと瞬きをしている。その下には薄いとはいえない影が浮かび上がっていた。集められた自分を含む四人はリュカの様子に気がついていて、新曲が出来たのは喜ばしい事ではあるがまず休んだほうがいいとそれぞれ、表情で訴えている。リーダーとしての務めを果たすべく、ノアが口を開く。
「次はオレとラビが歌詞をつける番だね。皆も各パートをそれぞれ練習しておくこと。でもその前にリュカ、君はすぐにベッドに行くべきだ。それから休んでほしい、少なくとも二日はね」
「何故だ。歌詞は任せるが早く合わせたい。明日にでも……」
「いやだってお前めちゃくちゃやべークマ出来てるし……」
「何故親父の話題が出る?」
「目の下の話だってば!」
「りゅ、リュカ……休んでください……オレ、リュカが休んでいる間に練習します……」
震えた声で朝陽が意見するのに、やっとリュカが自分が疲れ切っていると見られているのを自覚したらしく目を見開く。朝陽がこういうのだから、相当なのだと。それでも不満げな顔で口をへの字に曲げるので、朝陽がうぅ……と泣きそうな顔をして俯いた。さてどうするかな、とラビが片眉を上げる。
「リュカ」
ノアの澄み切った声に圧が籠もる。そらきた、とラビとレオンが目を合わせて、朝陽がひゅ、と息を飲んだ。その声色にぐ、とリュカも表情を硬くする。それから肩を落として。
「わかった」
と渋々了承するのだった。よろしい、にっこりとノアが満足そうに頷く。では来週開けに一度合わせるようにしよう。それまでに皆練習をしておいてね、と言い渡し、ついでにと直近のスケジュールを確認しだす。ミーティングはつつがなく終わり、ようやく、部屋中の空気が緩んだ。レオンと朝陽が一言二言話しながらスタジオから出て行く。ノアはデモテープを借りるよと言い置いて、それを取り出していた。良い曲だね、どんな歌詞をつけようか、と上機嫌で呟き、それから顔を上げてラビを見た。
「そうだ、ラビ」
「なんだい」
「リュカがちゃんと休むように、部屋につれていってあげてよ」
「……オレが?」
「適任だろ」
オレじゃリュカを持ち上げられないよ。とリュカを指差す。ソファに座りながらうつらうつらしはじめていていて、きっと一分もしないうちにかくん、と頭を垂れるだろう。やれやれと息を吐き、リュカ、部屋に行こうと声をかける。まだなんとか意識はあるらしくこくりと頷いて、立ち上がった。ふらふらとしているのを支えて、眉を寄せる。あまり体格差が無いので、大変だ。
「流石にオレでも……そこそこ大変なんだぞ?」
「それは本人に言うべきじゃないかい」
「ごもっとも。言い聞かせます」
「あはは、頼んだよ」
おやすみ、リュカ。とノアが声をかける。もごもごと何か呟いたようだが、言葉になっていない。ほら歩く、とラビに引っ張られて部屋を出て行く。一人になったスタジオに、誰かの忘れ物が無いかと見渡してノアが小さく頷く。それから手にしたテープを見つめ、それを愛おしそうに撫でてみた。
Lunettes de soleil
眩しいなぁとコバルトブルーの双眸を細めて、ラビが笑った。確かに照りつける太陽の光は目映く、少し目に痛いとさえ思えた。
「知ってる? 青い目って光を取り込みやすいから、暗い場所でも見えるんだって」
「……お前もか」
「うーん、どうだろうね」
他と比べたことがないからと目を伏せる。それからバッグに手を突っ込んで、なにかを漁っている。
「ということは、逆もしかりなんだよ」
「どういうことだ」
「つまりあまり眩しすぎると、つらいってこと」
やっと探し当てたのか、そこから出てきたのはサングラスだった。蔓を手に取り、それをかける。どうかなとリュカの方を向いて、自分を指差す。ぱちりと瞬きをさせて、リュカがまじまじとラビを見つめた。
「やんちゃだ」
「ははっ、やめておこうかな」
「いや、かっこいいと思う。オレは」
淡々と告げてくるリュカの声に、僅かに頬に熱が集まる。そう言われると悪い気はしないなぁともごもごと言葉を舌で転がした。
「しかし大事なのは機能だろう。眩しいのはなくなったのか」
「まあね」
「ならよかった」
どこか満足そうに頷くリュカを、光を遮断するレンズ越しに見る。勿論輪郭ははっきりと見えていたし、余計な光を遮断しているので目も痛くない。ただ、何か物足りない。
「うーん」
「今度はなんだ」
どこか得心のいかないような声を漏らすラビに、少しばかり呆れたような顔をさせて、リュカがラビを軽く睨む。あの鮮やかなカーマインも、仕方は無いとはいえくすんで見えるのが惜しくてしょうがない。小さく溜め息をついて、ゆるく首を振った。
「やめた」
「は?」
すっと、サングラスを外す。ラビの突飛とも言える行動にリュカは表情をぽかんとさせて、それから眉間に皺を寄せた。やはり眩しいのか一度きつく目を瞑って、ラビはゆっくりと目を開く。隠れていた深いコバルトブルーが再び現れて、柔らかく細められた。
「うん、こっちがいいな」
「お前の意図がつかめない」
「眩しくてもいいからこっちがいいんだ」
澄ました顔でラビが言い放つのに、リュカが奇妙なものを見るような目を向ける。ねえ、リュカ。視線を逸らさず、真っ直ぐに青が射貫いてきて、思わず狼狽し、言葉を失ってしまった。
「それを見れるなら、オレは目を焼かれてもいいんだって思ったからね」
「っ、……馬鹿じゃないのかお前」
リュカが吐き捨てて、ラビの手にあったサングラスを引ったくる。顔を茹だらせているのは夏の暑さのせいだし、夏の空よりも深く青い、目映い湖のような視線に耐えきれなかったから、恋人のサングラスを引ったくって、それをつけた。ああ、隠さないでよとラビが哀れっぽい声を出すが、その声色には微かにからかいが含まれている。うるさい、と吐き捨ててそっぽを向く恋人を眺めながら、ラビは口元に笑みを浮かべた。
そのひととなり
補う、埋め合わせる、調整する、バランスを保つ。難しいことだとは知っていたが、この国に来てからリュカは特に思い知ることになった。
「ほら二人とも、喧嘩はよせってば」「そろそろ休憩しないか、丁度クッキーが焼けてさ」「曲を聴いた時にこういうニュアンスかなって思ったからそれを歌詞にしたんだけど、どうかな。ノアとも相談するつもりだけど、作曲したリュカに見て欲しくて」「ここのリズム、もうちょっと走るか? だってリュカ、そんな顔をしてるぞ。オレはついていくから」
「リュカ?」
はっと我に返る。目の前で穏やかなコバルトブルーがまじまじと見てきて、頬に熱が集まった。
「な、なんだ」
「ぼーっとしてたよ。どうした?」
くつりと笑って、ペンを回す。さほど心配はしてなさそうな声色なのは、ただ目の前の恋人であるリュカが思考を巡らせ過ぎているだけなのだと知っているからだ。
「考えごとをしていた」
もごもごと言いにくそうに弁明して、リュカが小さく息を吐く。すまない、と一言謝って、手元のプリントに視線を落とす。撮影時のライティングの理解度を試す課題だった。音楽ならばすらすらと解答出来るが、それ以外はあまり興味が湧かないせいか毎回苦戦する。特に自分の身体を使って表現するモデル撮影に関してはリュカの最も苦手とする所だった。笑顔でだとか真面目にだとかで指示されるならまだいい。アンニュイにだとか色っぽくだとか、ふんわりとした言葉で指示されるとどうしていいのかさっぱり分からなくなる。せめて音楽用語で言ってくれれば分かるのかもしれない。
「ラビはもう終わったのか」
「うん。見せようか?」
「いい。課題は自分でやらないと意味が無い」
きっぱりと断るリュカに、レオンに言い聞かせてやりたいよとラビが苦笑いする。不機嫌そうにリュカが眉を寄せれば、おっとと口を閉ざした。
「もしかして見せてるのか?」
「どうだったかなぁ。ちょっとだけアドバイスはしたのは覚えているよ。身につけて貰わないと困るしね」
澄ました顔でラビが言い放つ。かといって課題を出せなくて練習出来ないっていうのも困るだろ、と肩を竦めるラビに小さく溜め息を吐いた。そういった仕草での抗議を彼にしても仕方の無いことではあるが。
自分では出来ない立ち回り方だと、常々思う。自分だと課題をやっていない事を責めるだけで、きっと手を差し伸べる事はしないだろう。それは所謂、不正だと思っているからだ。間違ってはいない。ただ。
「お前は、要領がいい」
「ん?」
リュカの言葉にいきなりどうしたんだとラビが笑う。それからややあって褒め言葉でいいんだよな、と確かめてきたので思わず笑ってしまった。
「羨ましい、お前が」
「……そうかな、どうだろう」
オレはお前の正しさが羨ましいよ。ラビが笑い、ペンの頭をリュカに向ける。にやっと笑う恋人のコバルトブルーの目は、先程の穏やかさが少しばかり失せて、きろりと光っている。
Cette miséricorde est seulement pour l'été
柔らかい檻の中で、それは揺蕩っていた。ボウル一杯分にも満たない水が入った透明なビニール袋の中で真っ赤な身体、薄い尾鰭を揺らして。
「ほら見てリュカ、きんぎょ」
ラビの声にはっと我に返り、ああ、きんぎょだなとつまらない返し方をしてしまう。平坦に近いリュカの声にもニコニコと上機嫌に笑みを浮かべながら、自分が持っているそれを眺める。
「お前が?」
「ああ、本当はもっと掬ったんだけど取り過ぎだって怒られちゃった」
だからコイツだけ連れてきちゃった。一番大人しいやつ。金魚鉢をきれいにしなくちゃな。嬉しそうに独り言つラビに頷きながら去年の同じ頃にいつの間にか空になった金魚鉢と、庭の隅でしゃがんだ恋人の姿を思い出す。
お祭りのきんぎょは中々長く生きられないんだって。
随分涼しくなった夕方の庭で、寂しそうな声で呟きながら庭仕事用のスコップで土を掘っていくラビの横顔を眺めて、そうか、とやはりつまらない返し方をした筈だ。そのまま無言で浅い穴を掘って、そこに愛でていたきんぎょを置いてから優しく土を被せるラビの横顔、青い目はいやに穏やかだった。
「懲りないな」
「はは……」
リュカの言葉にラビが苦笑いを浮かべる。リュカが言いたい事は理解していて、ラビ自身もその通りだとは考えている。
「どうしても放っておけなくて」
「お前のお節介がきんぎょにまで適用されるとは思わなかった」
そんな高尚なものじゃないよとラビが笑う。
「自己満足さ」
この赤い魚を見てたら、連れて帰らないとってなるんだよ。もう一度柔らかな牢獄の中でぼんやりとしているその小さな魚を見つめる。それから視線を外して、リュカをじっと見つめた。
「傲慢だろ」
「そんな大層なものじゃない」
首を傾げるラビにリュカが笑う。お前の数少ない子どもっぽいところだ。そう言ってやれば、ぱちりと青い目が瞬いてそうか、こどもかぁ、とラビがはにかんだ。早く帰るぞ、そいつを綺麗な金魚鉢に住まわせるんだろ。リュカの声に頷き、その手を握る。馬鹿、誰かに見られたらどうすると辛辣な声が飛んできてすぐに振りほどかれたので、つれないなぁと目を細めた。
間の悪さ
授業が座学だった場合、だいたいはグループごとにかたまって座る。Twinkle Bellの双子は必ずと言って良いほど隣同士で座っていたし、F∞Fの三人もだいたいはひとかたまりだ。Arsに関しては色々な日がある。ひとかたまりで賑やかにしている日もあれば、まったくばらばらに座って、各々授業を聞いている日もある。喧嘩したというわけではなく、本当にその日の気分でそうしているのだ。
I❥Bはというと、基本的にひとかたまりで座る。その中で隣同士になるのはその日それぞれだ。ノアの方針でリュカとレオンが隣り合うのは稀ではあるが。
「隣、いいかな」
穏やかな声が降ってくる。問いかける形ではあるが既に椅子をひいて腰を下ろした声の主にああ、とリュカが短く答えた。その左隣に、同じタイミングで教室に入ってきたノアが座るのも見て、リュカが視線を前に向ける。今日は教室の真ん中あたりに陣取っている。後ろの席からレオンと朝陽がお喋りをしている声が聞こえてきた。
「ねえリュカ」
授業のためのレジュメと筆記道具を取り出しながら、ラビがごく自然に切り出す。リュカがちらとホワイトボードの横にはりついている時計を見れば授業開始一分前だ。
「もう始まる」
「うん、後でいいよ」
リュカの優等生じみた言葉に苦笑いを零しながらもラビは頷く。大したことじゃ無いんだ、と前置きをして。
「今月空いている日はいつかなって聞きたかっただけ」
「……っ」
それは何故だ、と聞こうとした瞬間にチャイムが鳴り響き、扉ががらりと開く。始めるぞーと講師が声をあげながら教壇へと歩み寄るのを確認すれば疑問はずるずると喉の奥へ落ちていった。
「急がなくていいから」
引いていくざわめきに紛れて隣から小さな声が飛んでくる。ちらりと視線をやれば、隣の恋人は何事もなかったかのように前を向いて、くるりとペンを回していた。
「……」
前を向き、授業に集中しようと姿勢を正す。先週に続いて演劇論の授業だ。演技は得意ではない、が音楽と演劇の関係は切っても切れない関係であるのは理解していて、だからこそ受けるべき授業であるのは分かっている。ラビにとってもドラマやミュージカルの出演がメンバーの中でも多いので、きっとこの授業は彼にとって重要なものなのだということもリュカは重々承知だ。
しかし、だ。
講師の板書を眺めながら、リュカの頭の隅では数字が行儀よく並び始めていた。今月は真ん中で1が始まる。夏休みも終わり少し落ち着いた月になりそうだが来月のハロウィンイベントに向けての準備に追われそうだ。完全にオフなのは毎週日曜日と、今週と三週目の土曜日。それと平日に数日ほど。きっとラビとは何日かは被るだろう。ただ――。
月初、ラビがリュカに今月の空きを聞くのはこれが初めてではない。というよりも、毎月のことだ。そしてリュカはこの問い自体が示す意味を正しい意味で理解している。
(六日の月曜日は……WEBラジオの収録がある、から)
つまり今週末では駄目だ。そもそも平日の休日でも次の日はレッスンや授業があるのだから無理筋ではある。日曜日も同じ理由で、あまり無理はしたくない。
(ということは三週目土曜か? いや平日でも授業終わりにラビのバイクで……)
この時点でリュカの脳内は、講義内容への理解をラビの質問に対する考えがじわじわと浸食しつつあった。時折うつらうつらしている誰かの為に軽くトーンを上げたのであろう講師の声に肩をびくりとさせては、小さく息を吐いて授業に集中しようとするのだが、どうも上手くいかない。
(タイミングが悪いんだ)
内心毒づいて、もう一度隣を盗み見る。少し行儀悪く頬杖をついて講義を聴いているラビの表情は、その手と銀髪のせいでうかがい知る事が出来ない。
だが、人よりも鈍いと評されるリュカでもラビの状態は察する事が出来た。そして、それに対してふつりと怒りのような、呆れのようなものがこみ上げてきた。
「ラビ」
長い長い講義が終わり、講師が退室すれば静かだった教室が再びざわつき始めた。そんな中ですぐにラビに声をかけたのは隣に座っていたノアだ。
「ん? どうした」
ラビが首を傾げれば、ノアはいつもの微笑みを向けている。しかしどことなく、その笑顔の裏に不穏な気配が漂っているのにラビが気づくのは容易かった。
「……集中してなかっただろ」
「…………ちゃんと聞いていたよ?」
ノアの指摘にラビは否定するが、自分でも分かる白々しさに耐えきれず首を振る。
「ごめん……んー、ちょっとだけ、考え事してた」
「だろうね」
ノアが肩を揺らして笑う。ラビを咎めるならばこの会話で充分だろうと考えているのか、それ以上は何も言わずにノートを鞄に入れる。その様子にほっと安堵の息を吐いて、ラビはリュカに向きなおる。
「怒られちゃった」
「っ、自業自得だろう」
リュカの吐き捨てるような答えに後ろにいた朝陽がリュカ? と不安げに声をかけてくる。どうしたんだよ、とレオンが続けて聞けば、リュカは顔を真っ赤にさせて何でも無いと首を振り、がたりと立ち上がる。四人がぱちりと瞬きをして、それからラビが口を開く。
「リュカ、それで」
「今はいい!」
軽く叫んで、それから我に返ったのか飲み物を買ってくるから先に出てろと逃げるように席を立ったリュカの背中を見送る。
「ラビ、なんかやったのかよ」
「ううん、ちょっとタイミングを間違えたかも」
レオンの呆れた声に頬をかくラビの様子に、朝陽が首を傾げる。ノアがやれやれと溜め息を吐いて、ラビの背中をつついた。
「行ってきなよ、オレたちのベーシストがいないと困るだろ」
「Ладно」
軽く両手をあげて、席を立つ。また後でねと言い残して、足早に教室を去っていく。
Le meilleur du monde
とある小説に書いてあった台詞を、ラビは思い出していた。
――仕事とあたし、どっちが大事なの。
ワーカーホリックな彼氏に業を煮やした主人公が涙ながらに言い放った言葉。彼氏はその言葉にすぐに答えを返せずに、失望した主人公が別れを切り出す場面から物語は始まる。その主人公も傷心から仕事にのめり込むというまさにミイラ取りがミイラ状態になっていた所を新しく部署異動してきた上司に見初められて、というような話、だった気がする。あまり面白くなかったので、最後まで読んでいない。
さて、どうしてそんな台詞を思い出したのかというと目の前の恋人が原因だ。彼は集中しやすくて、特に音楽に関してとなれば寝食を忘れるほど――夢中になる。
そんな彼に仕事とオレ、どっちが大事なんだいと聞いても怪訝な顔をして何を言っているんだお前は、と言いたげに呆れた顔をするのは目に見えてるし、最悪機嫌を損ねてしまって、ならいい、と部屋を追い出されかねない。ぴしゃりと扉を閉められて、それが開くのはいつになるのか分からないまま、自分の不手際に頭を抱えることになる。
大人びた少年の恋人は、少しばかり扱いづらかった。ただ彼のそういう所も愛おしくて、普段は歳不相応に落ち着き払っていると言われる少年の心は、陳腐な言い方をすれば、燃え上がってしまうのだ。
新しく読み始めた本の頁から視線をふとあげれば、日付が変わったばかりの時間だった。あれ、こんな時間かと時間の進みの速さに少し驚きながら、ファンから貰ったブックマーカーを丁寧に差し込む。ぱたりと本を閉じて視線を動かせば、そこには部屋の主が数時間前と変わらずに机に向かっていた。ヘッドホンをつけ、キーボードと五線譜と睨めっこをしている。変わった事と言えば、彼の床に散らばる紙くずの量だろうか。
煮詰まっているなぁと直感した。あまり表情の変わらない横顔だが、眉間の皺は深く、その手元のペンは殆ど動いていない。手を伸ばせば届く位置にあった紙くずを拾い上げ、くしゃくしゃの皺を伸ばしてみれば、それは途中で途切れている。
「リュカ?」
声をかけてみる。ヘッドホンをつけているので中々聞こえないだろうと踏んではいるので、とりあえずといった所だった。案の定、返事は返ってこない。持っていた本をサイドテーブルに置いて、ラビがベッドから立ち上がる。ゆっくりと机に歩み寄って、もう一度声をかける。デスクに鎮座するキーボードの鍵盤、そのひとつに、そっと指を置いた。
「っ……」
びくりとリュカの肩が跳ねる。ヘッドホンを介して耳に届いた意図せぬ音に驚いて、それから顔をあげる。カーマインの目がこちらを向いたのに、やっと安堵してラビが笑みを浮かべた。
「どうした」
「構って欲しくて」
白鍵から指を離してそう言えばリュカの目がすっと細くなった。それから迷ったように視線を動かして、小さく息を吐く。
「すまない、もう少し」
「外すよ」
リュカの言葉が終わらないうちに、彼の耳を覆っているヘッドホンに手をかけてゆっくりとそれを外す。少し強引だとは思うが、恋人に振り向いてもらうためにはこうするしかない。
「ラビ」
少し怒ったようなリュカの声に、ごめんねと笑う。恋人を閉じ込めていたそれをデスクの空いている場所に置いてから、ペンを握る手に、手を重ねる。
「でももう零時だよ」
「いや、もう少しで新しいフレーズが……ラビ、おい」
わざとらしい口づけの音を恋人のこめかみに落として手の甲を撫でる。もう片方の手は肩に添えて逃がさない意思を伝えた。もう一度ラビ、と苛立ちを含めた声を発したものの、暫くして雑にペンを転がす。それが合図となって、ラビがその腕をゆっくりと引けばのろのろとリュカが立ち上がる。デスクから数歩、シンプルなベッドに導けばどさりと腰を下ろした。相変わらず不機嫌さを隠そうとせずに、見おろしてくるラビを睨む。
「お前のせいだ」
「うん」
「浮かびかけてたのに消えた。もう出てこないかもしれない」
「そうだね」
詰るリュカを否定せずに、ラビがその隣に腰掛ける。引き離されたデスクをちらりと見て戻りたそうにするのに笑って、その肩を軽く押す。シーツに組み敷かれる格好になってもまだ意識は置き去りにされた五線譜に向いているのに小さく息を吐いて、こっち、と顔を向かせた。そろそろ諦めなよと頭を撫でれば、カーマインの双眸が細められる。それから小さく舌打ちをするので、肩を揺らした。
「オレのせいだよ。リュカのせいじゃない……ただ、今は……」
いたって穏やかな調子で肯定して、自分の瞳よりも深い青、深海で染めたような色をした短い髪を、がっしりとした指で撫でつける。
「世界いちの一小節より、今はリュカがいい」
「……は」
そんなことを真剣な顔で言い放つラビがひどく愚かに見える。しかし不思議と怒る気にもなれずに、代わりに出たのは大きな溜め息だった。リュカの手がのろのろと持ち上がり、ラビの頬をゆるく摘まむ。白い頬がむにりと伸びて、それを軽く引っ張ってから離せば僅かながらに痛かったのか、ラビの勝ち気な眉は軽く下がって、それから締まりなく、笑った。それがどうにもおかしくて。
「お前はたまに馬鹿だ」
「ばかでいいよ」
今オレが捨てさせたフレーズは、もしかすると世界に届くものだったのかもしれないけど。低く穏やかな声がリュカの鼓膜に触れる。それでもオレはリュカを独り占めしたかったんだと嬉しそうに囁くラビの指が恋人の輪郭をなぞれば、ようやく、リュカも諦めた。好きにしろ、と吐き捨てて、目を瞑る。
「ごめんね、リュカ。我が儘を言って」
「……慣れた。はやく」
どうせやるのだろうとリュカが問えば、うん、とラビが頷く。それから暫く黙って、何か言葉を飲み込んだかと思えばもう一度、愛しているとだけ告げた。それがリュカの心に染み入るか否かは、さほど問題では無かった。
[chapter:un doux poison dans la gorge]
ほら、リュカ。と押しつけられたのど飴は蜂蜜と柑橘の味がした。冬の冷たい空気の中で冷やされていたらしいそれは体温に溶かされてどろりとした甘さを広げていく。
それを渡してきた当の本人はこの時期にしてはひどく薄着で、それでも平気な顔をしながら授業の終わりに出された課題を眺めていた。
おそらく、授業の中で声が掠れていたのに気がついたのだろう。理由も言わずにゆるく微笑みながらそれを渡してきた仲間の気遣いにありがたさと同時に気恥ずかしさも覚える。どうしてこの男はこうした振る舞いが出来るのだろうか。きっと自分には逆さまになったって出来やしない。
「ちょっといいな、って思ったけど」
唐突にラビがぽつり、呟く。何が、と視線を向ければ課題を眺めていた筈の深いコバルトブルーの瞳とかち合った。その拍子にすっかり小さくなったのど飴の最後のひとかけが砕ければ、包まれていたエキスがどろりと舌に流れ込んだ。
「掠れた声のリュカ」
ラビの切れ長な目がきゅ、と細まればそれは僅かな意地の悪さを孕んだ。エロいなぁって思っちゃった。笑みを形作る唇が申し訳程度に抑えた声でそう囁けば一瞬の間を置いて恋人の頬に恥じらいか怒りか、熱が灯った。
「っ、馬鹿か!」
「ちょっとだけね、ちょっとだけ」
「ちょっとだけならいいと思ってるのか!?」
「怒鳴らないで、リュカ。喉痛めちゃう」
飄々とした様子で宥めてくるラビを睨むカーマインの瞳はひどく冷たい。しかしそれすらもこの恋人の愛すべきところだと、ラビは心の底から思うのだ。とうとう機嫌を損ねきって、黙ってしまったリュカをまじまじと見つめて、彼の恋人は口を開く。
「だからだよ、オレがのど飴を渡したのは。他の奴らに聞かせたくないからね」
ワントーン低い声がリュカの耳に届く。言葉ではなくその声の調子に驚いてリュカがばっと顔を上げれば、変わらずラビは薄く笑っていた。
「そもそも喉は大事にしろってノアが口酸っぱく言ってるだろ。冬場は乾燥するし、ケアはしないと。もしリュカの声が掠れて不調だってノアにバレたら真っ先にオレが怒られちゃっАй!」
「うるさい。課題に集中しろ」
そう吐き捨てプリントと睨めっこしはじめたリュカの横顔を、じんと痛む肩をさすりながらラビが見つめる。耳まで真っ赤だよと言うのはいよいよ命知らずだろうなと結論づけて、自分もプリントに向き合うことになった。
Fin de la saison des pluies
六月の半ばに梅雨入りをして、さて雨が降ったのは何日ほどだっただろうか。
数日前にはたしかに窓を破らんばかりの激しい音と共に雨が全てを濡らしていたが、今日の空はすっかり夏の到来を告げている。春の優しさを忘れ去ったような青空と日差しが熱を運んできた。
「昨日、傘を新しくしたんだ」
のんびりとした調子で切り出され、リュカは隣を歩いている男を見やる。確かに昨日、シェアハウスの玄関にネイビー色の真新しい傘が傘立てに居座っていた。普通よりも少し大きめだったそれを思いだしていると、ラビはうーん、と小さく声を漏らして言葉を続けた。
「でもしばらくはいらなさそうだ」
「残念だったな」
そう言ってやるしかなかった。リュカの、ともすれば愛想のないように聞こえる声色にラビはぱちりと瞬きをする。残念、と慰められたのが意外だというような顔でこちらを見つめてくるので、少しばかりばつが悪い気になりリュカは眉を寄せた。
「そうかも」
うん、とラビが頷く。それからややあってそんな顔してたかい? と自らを指差した。いや、と首を振りかけたが、どうもあの穏やかでどこか無機質に思える声の端々に早すぎる梅雨の去りようを惜しむような気配を感じたように思えたのは確かで。
「ああ、残念そうだった」
感じたことを素直に言ってやれば、ふふ、と肩が揺れる。
「リュカが感じたなら間違いないな」
まるで自分の心の機微を他人事のように受け入れているラビに呆れた眼差しを向ける。
「しかしもし……もし、梅雨がこのまま終わってしまったからってその傘をもう使う機会がないというわけじゃないだろう?」
「勿論。でも……なんていうか、梅雨だから傘を新しくしようって思ってたらもう梅雨明けだって言われると寂しくないか」
「次に雨が降った時にでも使えばいい。梅雨に使っても、七月に降る雨に使っても傘の価値は変わらない」
リュカの言葉にラビが目を細める。僅かに口角をあげて笑みを向けながら隣の恋人をじっと見つめ、小さく小首を傾げた。
「リュカらしいな」
「分からん」
「そのままでいてくれよ」
「……口説くな」
乞い願うラビの声にはっきりと甘さを感じて、リュカが苦笑いする。まだ季節には相応しくない気温の高さにじわりと肌を焼かれる気配をよすがに、それにしても暑いなと下手なりに話題を変えた。
濃淡
ほんとうに夏というものは。
この時期の日差しは暴力的とも言えた。照りつける真夏の太陽がアスファルトに反射して、視界をちらつかせている。ゆっくりと瞬きをして目を慣れさせていると、おい、と聞き慣れた声が飛んできた。そちらを見れば仲間が心配そうにこちらを見ている。
「……大丈夫か」
「うん?」
問いかけにラビが首を傾げれば、その額からつう、と汗が流れた。その様は彼のファンからすればさぞ健康的で、色っぽく見えるのであろうが今は別にライブでもなくファンイベントでもない。スクールへと登校中の学生である。問いの意図を察せずにきょとんとした仲間に口をへの字に曲げて、リュカは不機嫌に赤い目を細める。雪国生まれのこの男を、日本の夏は容赦なく焼いている。コンプレックスだという色白の肌も、シルバーアッシュの長い髪も、深い湖のようなコバルトブルーもそのせいで淡く輝いているように見えた。今にも噎せ返りそうな熱のせいで溶けてしまうのではないかと心配になるほど、リュカから見えるそれはどこか、儚い。しかしそんな事を言えば十中八九この男は正気? と笑って、リュカこそ熱にやられた? と逆に心配してくるのだろう。
「すごい汗だ。暑さにやられてるんじゃないか」
「気温三十五度にやられないやつなんていないよ。リュカだって暑そうに見えるけど」
まあそうだが、と背中に滲んだ汗がつう、と転がり落ちていくのを感じながら頷く。噎せ返るような空気の中で二人の足取りは重い。しかしさっさとスクールについて、屋内に逃れたいのも確かだ。
「……さっさと行くぞ。お前がバテてもオレにはお前を引き摺っていけない」
リュカに促され、うん、とラビが頷く。それから青い目でじっと彼を見つめそれから、ねえ、と声をあげた。
「なんだ」
「手を繋いでよ、リュカ」
「は?」
いきなりなんだ、と怪訝な顔を向ければラビの口が緩く微笑む。穏やかに細められた双眸を縁取る睫は汗のせいか、それとも日差しのせいか、きらきらとしていた。
「駄目?」
「暑いだろう」
「ううん、確かに。でも――」
リュカがくっきりしてるから。そう言うラビがいよいよ分からなくなって眉根を寄せる。いよいよ熱気でおかしくなってしまったか。
「リュカの髪の毛も目もくっきりしてて、安心しちゃうんだよな」
「……分からない」
「リュカがいるなあって思うんだよ」
そう言ってラビが嬉しそうに笑うのに、深く眉間に皺を寄せてリュカが小さく息を吐いた。ちらりと赤い瞳で、淡い色の恋人を見やる。
――お前は今にも溶けて消えそうだなんて言えば、笑うだろう。
スクールの手前までだぞ、と舌打ちして手を差し出す。やった、と言い漏らして握ってくるその手は、じわりと汗ばんでいて、彼にしては珍しく熱を持っていた
まなざし
「リズムパート特集ね」
なんだか新鮮だ。とラビがプロデューサーに渡された資料を眺めながら呟く。その隣ではリュカも同じものに目を通していた。バンド雑誌の特集の中のほんの1ページだがアイドルやモデルの仕事だけでなく彼らの本業部分の仕事もとってくるのは流石だと舌を巻く。メジャーシーンからインディーズまで数組のバンド、そのベーシストとドラマーに視点をあてた特集の中にアイチュウである自分達が入り込んでいるのは恐らく、異質だろう。
責任重大だ、とラビが笑い、資料から視線をあげて向かいのソファに座るリュカを見やる。眉間に皺を寄せ、真剣な眼差しを手元のそれに向けていた。
「…………」
恐らく、メンバー以外の者が見れば怒っているのかと勘違いするような顔だ。けしてそうではなく、元々表情が無愛想なのに加えて集中しだすと自然と眉間に皺が寄って、少し怒ったような顔になるのだ。本人はいたって無意識で、指摘されればぽかんとした顔で、いや? と首を横に振るのだ。
無言でリュカを眺める。
真っ赤な目が文字列を追って動いて、時折睫の影がおりる。唇は相変わらずへの字に結ばれていて、資料のページを捲る指先の爪は切り添えられて、彼の気質を感じた。
「おい」
ラビがそうやってぼんやりとしていると、視線に耐えかねたのかリュカが声をあげる。
「ん?」
深く青い目をぱちりと瞬かせて視線を合わせれば困惑したような表情でリュカがこちらを見ている。
「なんだ」
「何が?」
どこか気まずそうに問いかけられた言葉の意味が分からずにラビが首を傾げると赤い目が不機嫌そうに細まった。
「さっきからこっちを見ているから落ち着かない」
「ああ、ごめんね」
謝罪の言葉を口にしつつ、ラビは肩を揺らす。怪訝そうな顔をさせつつリュカが仲間を見つめる。
「言いたいことがあるなら言え」
「眺めていただけだよ。真剣な顔してるなあって」
「本当にそれだけか?」
む、とリュカが疑えばラビの青い目が細められる。そして唇を軽く歪めて、笑った。
「本当にそれだけ」
「…………」
ならいい、と小さく息を吐き、ローテーブルに置いてあった紅茶を一口飲む。それから気を取り直して資料に向き直った。その動作も穏やかに眺め、ややあってラビが口を開く。
「ねえリュカ。オレの目に意味をつけていいなら、言うけど」
ラビの低く穏やかな声に、再び文字を追っていたリュカの目が止まる。それでも視線を上げずにいる相方に目を細めた。
「その顔好きだよ」
返答の代わりに、大きなため息が部屋に響く。それでもラビはどこか意地の悪い笑みでリュカを眺めていた。目の前の男が呆れ声で何かを呟くが、彼の故郷の言葉で意味は分からない。ただ褒めた言葉ではないだろう。
「見惚れていた、ってやつ。リュカ」
「いい、もう、言わなくていい」
「ふふ」
黙ってろ、と一言短く吐き捨てられ、分かったよと目を瞑る。それでもくすくすと笑いながら、ラビは再び資料に視線を落としたのだった。
Deux personnes qui n'ont pas l'habitude
どこが? と聞かれたのに咄嗟に答えられなかったのが無性に悔しかった。その問いを投げかけてきた仲間は答えられない自分にベイビーブルーの目を丸くさせて、それからニヤっと笑ったので余計に腹が立った。
――どこが。
「オレはお前のどこが好きなのだろうか」
「大丈夫か?」
恋人が出し抜けに呟いた言葉にぽかんとした顔でラビが聞き返す。その言葉にリュカはムッとした顔をさせたが誰だってそんな事を言われれば心配の言葉の一つぐらいかけたくなるものだ。
「また誰かに変な事吹き込まれた?」
「違う。レオンと話していただけだ。その時答えられなかったのが癪で」
ああ、とラビが片眉を上げる。レオンにとっては何気ない疑問だったのだろう。ただその疑問を投げかける人間をよく考えるべきだとは思うが。
「お前の前で考えれば分かると思った」
「なるほどね」
リュカの言葉に肩を揺らし苦笑いしながら頷く。二人しかいないリビングのテーブルに向かい合って座っている今の状況の理由が全て説明された所でラビは手にしていた本に栞を挟んだ。それを置いて結露したグラスの中で揺れるアイスコーヒーを飲む。溶けた氷と混じり合った苦みが喉を潤した。
「それで……分かった?」
「…………」
ラビの問いにいよいよ難しい顔をさせて、リュカが目を伏せる。ベレンスの髪と同じ色をした睫が鮮やかな赤の双眸にやんわりと影を落としたのを眺めるラビの表情は柔らかかった。
誰しもが容易く自分の感性や気持ちを言語化出来るというわけではない。特に目の前の仲間はそのあたりが苦手――苦手というよりも本人が大事にしている事だからこそ内に仕舞ってしまう傾向があるのをラビは知っていた。
その点、レオンに向けて躊躇なく飛ばす罵詈雑言は別の信頼が見えて羨ましくもある。
「その、上手く言えないが」
「うん?」
言い淀みながらも切り出したリュカをじっと見つめ、言葉を促す。今から目の前の仲間が自分を好ましく思っている所を伝えてくるというのに、さほど緊張しないでいるのは照れより興味が勝っているからだろう。
「目が……好きだと思った」
「……へえ」
リュカの言葉に深いコバルトブルーの双眸をゆっくりと瞬かせる。
「青くて綺麗だ。きらきらしている。でもたまに……そうだな、ドラムを叩いてる時とかはぎらついている。オレはぎらついている時の目は、結構好きだ。どっちも見ていて飽きない。お前の目を見たら、なんとなく何を思っているか理解できる、気がする。自惚れかもしれないが」
「…………」
唖然としているラビの様子に気づかず、リュカは目を伏せたまま、あとは、と思案する。
「あとは髪も好きだ、太陽の光で淡く光る。お前がドラムを叩いている時に跳ねるのも、ドライヤーで乾ききらなくて少し湿ってるのを障るのも好きだ。それと、手が」
「わかった、わかったから! 充分!」
悲痛な声をあげるラビを、リュカがちらりと見上げる。目の前にはいつもは色白の頬を茹だらせたラビが信じられねえと言いたげな顔をさせている。リュカはじっとその顔を眺めて、緩く首を振った。
「いや、しかしまだ全部……半分も言えてない。続けていいか」
「勘弁してくれ……」
大真面目に答えるリュカにラビが呻く。そういえばこの男は硬派ではあるが生粋のフランス人だったと思い出して自らの軽率さを悔やんだのであった。
かさねかさならない
どうしようもなく、重ならない時がある。拍の僅かなズレは小節ごとに大きくひずんで、ついには取り返しのつかないまでに離れてしまう。勿論わざとでなはなく、お互いどこどこかで修正をしようとしてそれでも――。
「ごめん」
「――……」
レッスンルームの空気を震わせていた重低音がぴたりと止んで、ラビの掠れた声が零れた。リュカもその声に同調して、弦をつま弾いていた手を止めて、ひらりと振る。打開し難いような空気の中、ラビはひとつ息を吐きながら手の中のスティックをくるりと回した。
今日が、そうらしい。
不思議と焦りはない。こういった現象が時折避けようのないものとしてやってくる事にもう慣れてしまった。嵐のようなものだ。
「帰るぞ」
互いに確認が済めばそこからは早かった。今日はもうどうにもならない日だ。どれだけリズムを刻んでも、がむしゃらに叩いても、弦を響かせても重ならない。そんな中で足掻いても苛立ちともどかしさが募るばかりでいいことなんて一つも無い。この国に来て、この男とリズムパートを担っていく中で得たもののうちのひとつだ。
言葉少なに片付けていく。額からひとすじ汗が流れ、手の甲で拭う。達成感のない疲労がじわりと身体に沈んでいくのを感じながらリュカはラビを見やる。ケースにスティックを仕舞うラビの横顔は相変わらず穏やかだったが、やはり少しの疲れを滲ませている。
掃除も終わり、レッスンルームを出る。手にした鍵を眺めながら、背後でぱちん、と電気が消される音を聞いた。
暑さも幾分ましになり、こと夜になると冷えさえ感じるようになってきた。他の三人は既に家に帰っているようで、ラビは今から帰るつもりだとグループトークに伝えてから、ポケットにスマホを突っ込めば、うん、と伸びをした。リュカが相変わらず表情を動かさないまま、歩き出す。ラビも大人しく仲間についていく。
こんな日は、たいてい何も喋らない。練習が上手くいかなかったので不機嫌になっているというわけではない。ただいつもは重なっているものが、今だけはすっかり離れてしまっているのを理解しているからこそ、沈黙を守っている。特にラビがそうだった。仲間がうまくいかない時によく働くのがこの男だが、この時ばかりはじっと、沈黙を守りがちになる。不機嫌、というわけではないのもリュカは知っていた。ただ静かになるだけだ。
人通りの少ない道を歩いて行く。僅かに湿った風が二人の間を縫って、もの寂しさを運んでくる。
「アルビレオを知っているか」
唐突に問いかけられ、ラビが視線を上げる。ちらりと隣を見れば、リュカはこちらを見ないまま返答を待っているようだった。
「何それ」
「はくちょう座のくちばし辺りにある星の名前だ」
リュカの言葉に、星、と呟いて青い目を夜空へ向ける。閑静な住宅街でも都会の空はずっと明るくて、ひとつ、ふたつの明るい星しか眺められない。そもそも、ラビは星空が少し苦手だった。故に、星の名前もあまり知らない。
「肉眼で見ると一つの星だが、望遠鏡でみると金色と青色の二つの星に見える。二重星というやつだ」
「へえ……ああ、それって、聞いたことあるかも」
リュカの説明に耳を傾けていたがふと思い出し、ラビが瞬きをする。静かに回るトパーズとサファイヤの観測所、二人の少年が銀河を巡る鉄道の旅。この国の有名な作家が書いた話をラビは少し前に読んだのを思い出した。ただ唐突にその話を切り出したリュカの意図が掴めず、言葉を探す。そうしている内に、リュカが続けた。
「二重星には二つある。重力を共有して、回っているもの。もう一つは」
一度言葉を句切り、リュカが小さく息を吐く。
「もう一つは、見かけだけだ。偶然、同じ方向にあって、隣り合って見える星」
「赤の他人というわけか」
「人ならな」
ラビの言葉に軽く苦笑し、肩を揺らす。ようやく二人の間の空気が柔らかくなった心地に、ラビがそれで、と首を傾げた。
「そのアルビレオっていうのは、どっち?」
ラビの問いにリュカが瞬きをする。暫く逡巡して。
「分からない」
「分からない?」
「ああ、まだ結論がついていないんだ。いや、殆ど結論は出ているといった方がいいかもしれない。『見かけの二重星である可能性が高い』」
リュカの言葉になるほどな、とラビが頷く。はっきりとした答えはまだ出ていないのだろう。遙か遠くの宇宙の事だ、当然かもしれない。
十字路を左に曲がる。もう少し先に、五人の家がある。先に帰った三人に、二人はおかえり、と迎えられるだろう。
何故、リュカがその星の話をしたのか、ラビに真意は分からない。ただ星の話を語るリュカの声は好ましく、心のどこかにあった冥い疲れが失せた気がした。