架空の猫の話 本丸の風呂場は広い。それに従って脱衣所もかなりの広さが確保されている。それもそのはずで本丸ではなんと百振りもの刀剣男士が生活を共にしているのだ。出陣や遠征、本丸の警護やその他諸々で出払っているものがいたとしても風呂に入る時間帯というのは大体どれもが似通っている。そのため毎晩脱衣所も風呂場もひどく混み合うことになるのだが、そんな中清光は隣で服を脱ぐ肥前の体にふと目が止まった。
「あれ、肥前」
「あ?」
「背中、それどうしたの」
自身の背中へ指を向けながら声を掛ければ、そこでようやく肥前は背中の傷に気がついたようだった。あぁ、となんてことはないように漏らされた声は平坦で、次いで煩わしそうに細められた目が清光をじろりと睨みつける。
「別に、なんでもねぇよ」
「ふーん」
極限まで絞られた薄い体に走った赤い線は爪で引っかいたような傷で。血は出ていないようだが正直かなり痛そうな代物ではある。最近急に暑くなったから寝苦しくなって引っ掻きでもしたのだろうか、と脱ぎ掛けていたシャツを籠に放り込みながら清光は肩を竦めた。
痛そうではあるが所詮引っ掻き傷。審神者に頼めばすぐに手入れしてくれるのだろうが、軽傷にも満たないようなこんな小さな傷で貴重な資材を減らすわけにもいかないだろう。肥前ももう特に傷のことは意識していないようで、やたらと長い包帯を解くことに集中していた。
「ねぇ、後で薬研の所にでも行ってきたら?」
それはそうと、やはり見ていて気持ちのいいものでもない。刀傷は見慣れていても、こういった小さな傷に清光は弱いのだ。薬研の所へ行けば塗り薬でもなんでも揃っているだろう。手入れするまでもないような傷は「ないよりはマシ」の精神で薬やら何やらで凌ぐこともままある。
「………いや、いい」
見た目とは裏腹に長い包帯を首元から外し終え籠の中に放り込んでいく肥前の動きは丁寧だ。きゅっと寄った眉間の皺もむくれたように下がった口角も、特に不機嫌というわけではなくこれが彼の常である。笑った姿など片手で数えられるほどしか見たことがない。だというのに清光より先に服を脱ぎ終えた肥前は珍しく、ほんの少しだけ口角を吊り上げると機嫌良さそうに笑ったのだ。
「躾のなってない猫に引っ掻かれただけだからな」
ちなみにこの本丸、猫は住んでいない。