四月二日の彼ら「なんでお前らああいうくだんねえ嘘つくの」
それは高校三年生になった年度始め日のことだった。
エイプリルフールという習慣を知らないわけではなかったし、お祭り騒ぎが好きな友人数人の嘘に付き合わなければならない展開を予想していないわけではなかった。
だが、同じ部活で、レギュラーの及川、松川、花巻が岩泉に仕掛けた大掛かりな嘘は、岩泉にとって実に不愉快なものだった。
「俺岩泉のこと好きなんだわ」
そう言い放ったのは松川だった。
もちろん、岩泉もそう言われて素直に信じたわけではない。だが、松川の言葉に真実味を感じたのも事実で、そこに追い討ちをかけたのが花巻と及川だった。
「実は俺ずっと松川の相談受けてた」
「気づいてなかったの岩ちゃんだけだよ」
真剣な表情でよってたかって言われては、さすがの岩泉も彼らの言葉を信じざるを得なかった。
朝一番に告げられた突然の告白に、戸惑いはしたものの真剣に考え、考え抜いてもうまく自分の気持ちを言葉にできず、悩みに悩んで迎えた昼休み。
「ごめんね、朝のあれ嘘」
「...は?なんだって?」
「岩ちゃんびっくりするぐらい信じこんじゃうから、どうしようかと思ったよ」
「笑い堪えるの大変だったわ」
怒りと恥で頬が上気するのが、自分でもわかった。
ニヤニヤとこちらを窺う三人に思い切り蹴りを入れても、まだ岩泉の気は治まらなかった。
「悪かったって。いい加減機嫌直せよ」
翌日の夕暮れ時になってもむっつりとしている岩泉に辟易する松川が改めて手を合わせて謝罪の意を示す。
部活動を終えて、帰路につこうというところ、松川に家に行っていいかと訊ねられ、それを承諾したのだった。
怒りは治まらずとも、松川の顔を見たくないほど怒っているわけでもなく、丁度借りていた本を返すにいい機会だった。
岩泉自身、何故ここまで怒りが持続しているのか理解できなかった。ただ自分の誠意を踏みにじられたという理由だけではないような、そんな気がしていた。
「…もういい」
「全然いいって顔してないんだけど」
「いいっつったらいいんだよ。茶持ってくる」
一方的に言い放ち、岩泉はキッチンに向かう。
水出しのティーバッグが浮かぶ容器を冷蔵庫から取り出し、二つ並べたコップに麦茶を注ぐ。それから棚に入っていた柿の種を拾い、自室へと戻った。
「ありがと」
一連の作業で岩泉が少し落ち着いたのを感じ取り、松川は少し安堵したようだった。コップと菓子を受け取ると、一口含んで喉を潤してから、菓子の封を切って一つ二つと摘む。
岩泉も袋に手を突っ込んで一掴み手にとると、半分ほどを口に放り込んだ。
「そういや、今日現国の授業の時にさ――」
松川が話しだしたこの雑談をきっかけに、岩泉の怒りはなんとか収束に向かっていった。
話題が二転三転した頃に、岩泉はまた菓子の袋に手を入れた。
「…おまえ、さっきからピーナッツばっか食ってね?」
袋の中には、もうほとんどピーナッツは残っていない。岩泉が探っている間にも、松川はそれを一つ口に運んでいる。
「どっちかっていうとピーナッツのが好きなんだよな」
むぐむぐと口を動かしながら、くぐもった声で松川は言った。丸二年近い付き合いともなると、こういう場面で遠慮がない。岩泉も特別に文句や不平があるわけではなかった。
上機嫌に豆を頬張っている友人の姿もなんだか愛らしかった。
「ん」
突然、松川が妙な声を出す。見れば眉をしかめて口の中を探っているようだった。
「どうした?」
「んー、舌切ったかも?」
割れたピーナッツで切ったのかもしれない。口の中の傷など放っておけば自然と治るのだろうが、松川は岩泉にこう頼んだ。
「ちょっと見てみて」
岩泉が答えるのも待たず、松川はべろ、と舌を岩泉に向かって差し出した。
見せつけられた舌の先端から一センチあたりで、味蕾の襞に沿って赤く鮮血がじわりと広がっている。
滴る。
そう咄嗟に伸ばしかけた手は、松川の言葉で所在をなくす。
「どう?」
「あー、見事に切れてんな」
そうは言っても、傷口を視認することは出来なかった。血が滲んでいるから切れているだろうと判断したまでのことだ。
「うぇ、口の中鉄臭くなってきた」
一度舌を引っ込めた松川は、口の中に広がる血の味に顔をしかめて再度舌を露にした。
「血止まるまでそうしてるつもりかよ」
言う間にも、血はじわじわと松川の舌を濡らし、赤く染めている。
「ひっひゅ」
松川が舌を出したまま何か言葉を発した。岩泉は聞き返そうかとも思ったが状況と松川の発した音の語感で何を要求しているのか当たりをつける。
予想したそれを松川に放ってやる。どうやら正解だったようで、松川は一枚引き出すと舌先にそれを当てた。
「それあんま意味ねえべ」
ティッシュは血と一緒に唾液も吸ってしまい、すぐに吸水性を失う。多少口の中に不快な味が広がっても我慢するしかないだろう。
岩泉はそう松川に言ってみるものの、松川本人がそれを嫌がり舌を戻そうとしなかった。
朱に染まる舌に、自然と視線をやってしまう。
あまり肉厚でない、短く淡い色の舌だ。他人の舌などそうそう見る機会がないせいか、釘付けになる。
触れてみたいという、馬鹿げた考えが頭を過ぎる。触れたところでなんになるというのだ。感触など、誰のものでもそう大差ないはずなのに、何故だか目の前にあるそれが岩泉には魅力的に映った。
唾液で濡れる舌。腹の奥底が疼く。
いけないと思えば思うほど欲求は抑え難く、心の中で肥大化していく。見慣れない舌と血で、気持ちが高ぶっているのかもしれない。
「…松川、舌短いんだな」
もっと別の話題で気を紛らわそうとしたのに、開いた口は勝手な言葉を並べる。脳と体がちぐはぐだ。
「それ以上出せねえの?」
数センチだけ距離を詰める。松川が異変に気付いて拒絶してくれればとそればかり願う。
出来るだけ平和的に、二人の関係が崩れない方法を探してみたところで、体がそれに従ってくれないのだから仕様がない。
「…岩泉」
松川の舌に触れることばかり考えていた岩泉の意識が、名を呼ばれたことで現実に引き戻される。
安堵と落胆という反する感情を内包しながら、呼びかけに応える。
「なに」
視線が合致すると、松川はすうと目を細めて笑う。背筋が凍りそうなほど、扇情的な笑みで。
「今、やらしいこと考えてたでしょ」
あまりに的を射た言葉に、岩泉は咄嗟に否定できず硬直した。
厳密にはやらしいことを考えていたつもりはないのだが、松川の舌に見惚れ、それを性に直結させていたことは否定できるはずもない。
答えに迷う暇すらなく、松川は追い討ちをかける。
「一個隠してたことがあるんだけど」
松川が、岩泉を跨いで圧し掛かる。
為す術もなくされるがままになる岩泉に、松川はまた目を細めた。
「昨日さ、お前のこと好きって嘘ついたじゃん?あれな…」
この言葉の先を聞いてはいけない。そう脳が警鐘を鳴らしているのに、本能はそれ以上に大きな音で松川の言葉に耳を傾けろと命令する。
松川の声と息遣い以外、何も耳に入らない。
「嘘って言ったのが嘘だったんだ」
松川が何を言うか心のどこかで予想できていたのだろう。驚くほどその言葉は耳から脳へスムーズに伝達されて、即座に意味を理解した。
そして、それと同時に岩泉が最後に砦として残していたものが、静やかに崩れていった。
「好きだよ、岩泉」
今日は、四月二日だ。