僕のために、忘れていて【9】 俺は緊張した面持ちで大きな門の前に立っていた。周辺にはもっと大きな門扉の家が沢山あったが、ごくごく一般的なマンション住まいの俺からしたらどの家も俺が想像する日常生活からはかけ離れていた。
不審者感が出ないように注意を払いながら周囲を見回す。ここは所謂高級住宅街。そんな場所の一角にアキの家はあった。
「ここであってるよな……」
こんなに変な緊張感を味わうなら、勉強会は俺の家でしようと提案すれば良かったと後悔する。延期になる前は俺の家で、という話だったのだ。なのに、アキは急に自分の家でやろうと言い出し、アキの家に興味があった俺はその提案を快諾してしまった。
「うぅ……変に緊張してきた」
俺は意を決してチャイムを押す。するとインターフォンから聞き慣れた声がした。その声に緊張が一気に解けた。
「リュージ? 今行くね」
「あぁ、ありがと」
声がしてすぐにリュージがドアを開けて出迎えてくれた。いつも体型に合わないどうでも良さそうな服装をしているが、今日は更にそれが顕著でいかにも部屋着という格好をしていた。しかし、いつもと変わった点が一つあった。
「お前、前髪……」
「あぁ、これ? こっちの方が楽だなって」
海に行った時にアキの前髪を結んでから、アキはちょくちょく自分の前髪を結ぶようになった。自分でやっているからなのか、随分ボサボサでお世辞にも綺麗ではないのだが、本人が納得しているなら別に追求することでもないかと放っておいていた。
「それに、こっちの方がリュージのことよく見えるし」
「あっそ」
素っ気なく応えてみたが、内心嫌な気持ちはなかった。それを表に出すのが照れ臭くて目を逸らす。
「切ればいいじゃん。アキ、かっこいいんだし」
言ってしまってから、失言だったと慌てて口を噤む。一応恋人に向かってかっこいいなんて、ただの浮ついたバカップルになってしまう。
「リュージは僕のことかっこいいって思ってるんだ……」
噛み締めるように繰り返すのは恥ずかしいからやめて欲しい。
「でもリュージに嫌な気持ちになって欲しくないから切らない」
「え」
一体なんの話だ?と首を傾げようとしたがすぐに合点がいって言葉を失う。アキは海での出来事のことを言っているのだ。自分の顔に寄ってくる女の子たちに俺が良い思いを抱いていないことに気が付いていたんだろう。
俺のせいでアキに不便をかけるのはどうかと思ったが、俺の気持ちを優先させてくれようとしている嬉しさが勝ってしまった。どんどん自分が駄目になっていく自覚を押し殺して俺は笑った。
「じゃあ、俺が結んでやる」
「うん」
俺はアキに近付くと手を伸ばした。アキは少しだけ屈むように前のめりになって俺の前に頭を差し出した。
クーラーにあたっていたのか、微かに触れたアキの額は冷たくて気持ちよかった。
結び直し終わると、アキは笑顔で俺の手を引いて家の中へと誘導した。
まだ少しだけ緊張感は抜けないものの、隣にアキがいる心強さと共に俺はアキの家に足を踏み入れた。
***
「ちょっと休憩しようか」
勉強会という名の夏休みの課題の追い込みがひと段落したところでアキが言った。
「あー疲れたぁ……」
「お疲れさま」
アキは立ち上がると、ちょっと待っててと言い、部屋から出て行った。俺は机にうつ伏せになると息を吐いて、終わった課題の山を見つめた。アキはもう既に全ての課題を終えていて、俺の課題を手伝ってくれた。相変わらずアキの説明は的確で分かりやすく、おそらく今までの人生で1番課題が捗った。何かお礼しないとなぁ、とおもむろに部屋の中を見回した。正直、アキが何が好きなのかまだよく分かっていない。部屋の中に何かヒントがあればと思ったが、アキの部屋は広い空間にテーブルとパイプベッドが置いてあるだけの簡素な部屋だった。ベッドの柵にいつもの服と制服とカバンが雑に掛けられているだけで、他に私物らしきものは無かった。あまりの無機質さに少しだけ寂しい気持ちになってくる。
と、ベッドと制服の間に何か写真のようなものが挟まっているのが見えた。いけないと思いつつ、好奇心が優ってしまいベッドに近付いてそれを見ようとする。が。
「ごめん、遅くなった」
急にアキの声がして姿勢を正す。悪いことはまだしていないが、気まずくなって声が上擦る。
「え! いや全然!」
「お茶、飲む?」
「飲む飲む! 喉めちゃくちゃ渇いた!」
「えっ……早く言ってくれれば良かったのに……」
実際はそこまででもなかったが大袈裟に言って空気を変えたかった。アキは挙動不審な俺の動きに少し違和感を感じている様だったが、俺が課題について質問するとすぐに切り換えて応えてくれた。
「アキは本当に頭良いよなぁー!」
「そんな事ないって」
「あ、同じ学校なのに、見かけなかったのって、もしかしてアキ特進クラス? 俺、普通科だから棟違うもんな」
「んー、まぁ、そんな感じ」
なんだが歯切れの悪さを感じて少し引っかかる。しかし、もし本人が言いたくないことなら無理強いしたくない。
「あ、そうだ! 課題手伝ってくれたお礼何がいい?」
「お礼?」
「そう、お礼。勉強会とか言いながら完全に俺の課題の手伝いさせちゃってるじゃん。だから何かお礼させて欲しいんだけど」
「いいのに」
「そう言わずにさぁー! 何かない?」
遠慮するアキに俺は調子良くなり要求を促した。現状分かってるアキの欲しいものなんて一つしか思い当たらないことくらい冷静になって考えれば分かったはずなのに。
「じゃあ、リュージが欲しい」
言葉が出てこなかった。
欲しいって…………具体的にどういう意味で?
「欲しいって言われても……」
モゴモゴと言い訳を探す俺にアキはにじり寄って来た。徐々に近付いてくるにつれて心臓が大きく跳ね始める。
「駄目?」
「駄目って言うか、なんつーか」
俯いた俺の顔をアキが優しく持ち上げる。目が合わないようにしていたのに、思い切り捕らえられて動けない。アキの顔がボヤけるくらいの近さまで距離が詰まり、アキがそっと口を開く。
「いや?」
「嫌……じゃない」
咄嗟にでた言葉に、自分が1番驚いた。
「嫌じゃないなら……」
そう言ってアキは俺の唇に触れてきた。カサカサとした感触が今までしてきたものとは違い、強烈に脳裏に焼き付いた。
「リュージ、あのさ」
眉間にシワが寄るくらいキツく目をつぶっていた俺はアキの呼び掛けに薄目を開けた。
「口、ガチガチだからもうちょっと力抜いて欲しい」
「え、」
途端、急に恥ずかしさが膨れ上がっていく。キスなんてそれなりにしてきたし、いつも自分からリードして、下手なんて言われたこと無かったのに。よりにもよってアキに指摘されてしまうなんて。
「あれ? 力入ってた?」
誤魔化そうとなるべく軽い感じで声を出す。アキとのキスに緊張してガチガチになっているなんて、絶対に知られたくない。俺のちっぽけなプライドがそう叫んでいた。
「おかしいなー、いつもはそんな感じじゃないんだけど」
「いつもって」
「ん? 元カノとした時とか──」
口が滑った、と感じたのは、アキの空気が一変したからだった。現恋人に元カノの話をするなんてデリカシーのかけらも無い。アキとは友達との延長線の付き合いの感覚でいて、つい口から出てしまった。キスまでしておいて友達の延長線というのもおかしな話だが。
「その元カノとはどんなキスしてたの?」
「は?」
「そんなの忘れさせる」
「ちょっと、アキ──」
アキが力を入れて俺の腕を掴んだ。痛い、と声に出そうとするが、アキの気迫に圧倒されて空気を吐き出すことしか出来ない。
アキのことが怖い、そう思った瞬間。
「アキくん?」
ドアの方からアキを呼ぶ女の子の声がした。
俺は声がした方に目を向けた。そこには同い年くらいの女の子が立ち尽くしていた。ふわふわの茶色い髪が可愛らしい顔立ちを更に小動物のような印象にさせていて、守ってあげたくなるような容姿をしている。一言で言ってしまえばかなり可愛い。
突如として現れた女の子は大きな目を見開き、何故か愕然としたような表情で俺たちを見つめていた。
「乃亜」
アキが彼女の名前を呼んだ。知り合いらしい。
「タイミング悪い」
「タイミング悪いって何!? ってかこの人誰!?」
乃亜と呼ばれた女の子は高めの声でアキに食ってかかった。アキは一旦俺から離れるとため息を吐いた。
「アキくんは乃亜のものでしょ!」
「…………」
アキは否定も肯定もせず、立ち尽くしている。すると、乃亜は部屋の中に入って来て、アキの腕に纏わりついた。これでもかというほど身体を密着させ、アキの名前を呼んだ。
アキは何の反応も示さないまま、しばらく時間だけが過ぎた。
俺は状況が読めずに、どうしたらいいのか分からず、迫り来る疎外感に飲み込まれた。