【真荒真】ごらんあの星も遠く過去の5,000度 ここに来るのは誰かに忘れられたか何かを忘れたいまっとうじゃない人間ばかりなので、そいつはやけに浮いて見えた。お決まりのニットベストにきちんと包まれた背筋が見本のように真っ直ぐに伸びていて、思わず舌打ちをする。踵を返そうとしたが、変なところで耳の良いあいつは俺の方を見定め、そうして唇を動かした。
シンジ、と言ったのだろう。クラブハウスから立ち昇るぼやけた乱痴気騒ぎに紛れていても、聞き慣れたそれを耳が捉え脳が誤認する。
うすく丁寧なつくりの唇が、親愛の情をたっぷり含んで、俺の名前を呼んでいると。そんなはずは無かった。だからこの後に続く言葉も想像できた。
「戻ってこい」
「またそれかよ」
瞬発的に悪態をつくことにも慣れて、俺はずいぶんここに馴染んだ。恐ろしく清潔に見えるいでたちのこいつとは違って、季節外れの暗色のコートを着込んだ俺は、湿ったかげりによく溶け込む。俺の居場所はここにしかなかった。
顔を歪める俺に構わずアキはつらつらと言葉を重ねる。
「いつまで引きずるつもりなんだ。もう忘れろよ。
お前はこんなところにいていい人間じゃない。力を持つ者は、持たない者を守る義務がある」
「ちから?」
嫌な感じの笑い声が漏れて、それは俺の心理の管轄外にあるものだったけど、アキは俺が笑ったと思うだろう。
それがなんだって言うのだ。自分の意志とは別に発露されたものが、誰かを傷つける。そんなことにはもううんざりだったが、無力な俺にはどうしようもなかった。俺から飛び立ったものは牙を剥いて、誰かに―――あるいは俺に、容赦なく襲いかかる。悲しいことだ。だが同時に、ありふれたことだった。
「俺にはそんなもん無かったってことだろ」
「だから、シンジ、いいかげん―――」
続く言葉はアキの中に落ちて消えた。奴の顰めていた眉が、急な角度に持ち上がる。ああ、この後の展開も、俺はよくよくわかってしまう。
ちょうど俺との真ん中に、赤いほのおを灯したタバコがいっぽんだけ捨てられていた。
それが当然というように、アキはローファーのかかとを鳴らしてまっすぐ700度の火の元へ向かう。
忌々しげにほとんど仇を打つ顔できつく踏みつける、その一連の動作の淀みのなさに俺は打ちひしがれる。アキは靴底をつぶすみたいに擦ってからため息をつき、これだからここは嫌なんだ、というようなことを呟いた。引いた足の軌跡に、煙草の残骸が曲線を描く。
これも一度や二度のことではない。幾度となく繰り返してきたことだ。
アキは俺の想像していた通り、何かのスイッチが入ったみたいにぱっと顔を上げた。
「戻ってこいよ」
いつも通りの表情。
なあ、今のお前がそれを言うのかよ。
ぞっとするほどの絶望を滲ませ、それでも顔をあげてアキは言うけれど、俺はアキのように生きてはいけない。こいつの他にいったい誰ならば、こんなふうに死を見ないふりしてやり過ごせるのだろう。
思い出すのはあの寮のことばかりだ。眠るごとに見る夢は、悪夢ではなく現実のリプレイだった。汗と涙で身体をひやして、朝が来るまで震えた日々。桐条の身体が、まろい女けを帯びていくたび、やわい輪郭に怯えたこと。
ペルソナを制御する薬を飲みはじめて以来、夢をぱったりみなくなった。身体を正常に保つ機能をいくつか失い、それでやっと生き長らえている。
穏やかで美しい日常は、遠い過去のものだ。懺悔に脂汗を流すことさえ放棄した俺を、誰も許しはしないだろう。アキが俺たちを許せないように、俺も俺を許せないのだ。
もうなにも聞く気になれず、ビルの縁に切り取られた空を見上げる。
ネオンピンクの下卑た明かりを受けて、それでもアキはすぐ側に、清く正しく立っている。それを見留める勇気もないまま、僅かな星の光に目を細めた。