【dnkr】花のにおいの男の子 湯上がりなのだろう。水気を含んだ甘い香りが漂ってきたから、顔なんか見なくても、背後に立つ人物が誰なのかすぐわかった。コスメティック・シドーのシャンプーは本格的な調香で、経過時間により香りが変わる。トップノートのブルガリアンローズはうっとりするような華やかさだ。もっとも蛍の好みからは外れていたけれど。
「……何? 白薔薇の騎士様は、鉢植えの薔薇よろしく黙るのが趣味になったの?」
蛍の呼びかけにも寡黙の人は答えない。何か言いたげに、蛍の後ろに立つばかりだ。
「今日言ったよね、モバイルルーターが壊れたって。僕だってこんな誰が座ったかわからないソファで寛ぎたくはないさ。でもWi-Fiが使えるのはこのラウンジしかないからね」
見せつけるようにタブレットを指先で叩く。閲覧しているのはアメリカのニュースサイトだ。ダンキラに特化したメディアで、トップにはムービーがずらりと並んでいる。ランブバートルの大会で高いスコアを獲得したというキラートリックの動画をタップして、蛍はすげなく手を振った。
「どんな馬鹿でも見ればわかると思うんだけど、今は忙しいんだ。晶の相手をしている暇はないんだよね。おしゃべりしたいなら、悪いけど他をあたってくれる。ほら、ローザンヌなんかちょうどいいんじゃないかな」
部屋着に包まれた脚を組み替えるも反応は無い。やれやれと首を振って、蛍はわざとらしく微笑んだ。
「晶が愉快な人間とは知っていたけど、まさか無言劇で笑わせてくれるとはね。明日ノエルにも見せてあげたら? 何より喜んでくれると思うよ」
そう言って画面を注視する。しかしいまいち集中できない。言わずもがな、背後にじっとりと立つ少年のせいである。
「……ノエルのこと?」
先程より心持ち声をひそめ、蛍はそう尋ねた。
「正直、理解できないよ。晶も毎日飽きないね。いい加減現実を見れば良いのに」
あからさまな揶揄も無視されて、蛍はいよいよため息を深くする。もうお手上げとばかりに首を振って、やさしく囁いた。
「はあ、本当に察しが悪いな。今は忙しいって言ってるだろ。……後でなら聴いてあげるから」
同情か腐れ縁ゆえの愛情か、その内訳はわからないけれど、蛍は蛍なりに晶のことを気にかけていた。普段鬱陶しいほどのポジティブさをみせる晶がここまで落ち込むなんて、よっぽどのことだろう。心配しているなんて、認めるのもしゃくだけれど、蛍は確かに晶のことを案じていた。
しかし薔薇の匂いの人物は、うんともすんとも言わない。
じわじわと頬が熱くなってきて、蛍は唇を引き結んだ。なんで他人の恋路に巻き込まれないといけないんだ。だいたい、人の厚意を無下にするなんて、何様のつもりなのだ。だからこれは照れ隠しではなく正当な怒りだと思いながら、蛍は声を荒げた。
「……ここまで言わせておいて、だんまりは無いんじゃない?」
憤りのまま、勢いをつけて振り返る。
「……蛍くんって晶くんにはそんな感じなんだ〜!」
破顔したまひるが、薔薇の匂いをさせていた。
「ふふ、ちょーっとからかうつもりだったのに、蛍くんひとりで喋りだすんだもん。あ、晶くんにシドーのシャンプー貰ったんだ〜。だから勘違いしたんでしょ? 蛍くんったら早とちり〜。……でも、俺が思ってたより、晶くんと仲良いんだね。いつもはあんな態度なのにさ。なんか可愛い〜!」
きゃあきゃあと黄色い声をあげてはしゃぐまひるにたっぷり、本当にたっぷりため息をついてから、蛍はにっこりと笑みをつくった。
「……君と夜野くんの仲には負けるかな」
「は? 零士は関係なくない??」
反撃に憤るまひるは知らない。これからきっちり一ヶ月、蛍に「人の後ろに無言で立つのが趣味の日向くん」と呼ばれることを。部屋でぐっすり眠っている晶は知らない。翌日、八つ当たりで蹴飛ばされることを。知るのは空に輝く星ばかりであった。