Sorry We Missed Youエージェント・サービス 恋文を書いて欲しい。
執務室に入るなりサンクレッドは言った。
「出し抜けに何を仰います」
ウリエンジェは書面から顔を上げ、此方に向かってくる男の表情を窺う。
「まぁ、聞けよ」
空いた椅子を引き寄せ腰掛けるサンクレッドに、他意は無さそうだ。
現在、サンクレッドはウルダハの富豪へと潜入捜査を行っている。内容は砂蠍衆との癒着で、曰く「代わり映えのしないもの」との事だった。
「その任務と恋文に、どう関係があるのですか」
「富豪には一人娘が居てね。彼女から情報を引き出して裏取りをしたいんだ」
「潜入時に接触を試みては?」
ウリエンジェが問えば、サンクレッドは呆れた顔で溜め息をつく。
「それが出来ないから、お前に頼んでるんだろう」
相手は深窓の令嬢で外出の機会も少なく、加えて今回の任務でサンクレッドは商人に扮している。身分違いも良いところだ。そこで浮上したのが文通という選択肢だった。
「……分かりました、協力しましょう」
サンクレッドの態度に些か腹立ちを覚えたのもあり、ウリエンジェは恋文の代行を了承する。
「高くつきますよ」
重ねた言葉に「美味い酒でも持ってくる」とサンクレッドは笑った。
話の筋書きはこうだ。出入り商人が令嬢に一目惚れをし、恋文を送る。接触は難しくとも、好意を抱かれた相手に興味を持たせるのだ。その為、初手が肝心となる。
「貴方の言葉を添削する形で宜しいですか」
「それで頼む」
サンクレッドの言葉に卓上に用意されたスミレ色の便箋を避け、普段使いの羊皮紙に羽根ペンを載せる。
「草案か」
「いいえ。清書はサンクレッドに任せます」
「面倒だなあ」
背もたれを前にして座るサンクレッドは、組んだ腕に頭を埋めてみせた。
「筆跡が変わるでしょう」
商人として潜入していれば、令嬢からの接触も考えられる。そうでなくとも、彼の容姿は人目を惹くのだから。
「俺が筆跡を真似られるのは、知っているだろ?」
サンクレッドは羽ペンを奪うと、羊皮紙に所有者の名前を書きつける。サンクレッドが真似たウリエンジェの文字は完璧で、全体が右肩上がりになるのもそっくりだった。
「お見事」
ウリエンジェは率直に感想を述べた上で伝える。
「貴方の技量は私にも分かります。ですが、此れは情緒の問題です」
「情緒か。お前に教わる日が来るとはな」
サンクレッドはウリエンジェを堅物と落とし込むところがあった。常日頃から読み物は参考書が多いが、かと言って作り物語を手にしない訳では無い。
「サンクレッドの字は柔らかく、丁寧ですからね。私のような事務的な字体より、女性に好まれましょう」
その言葉にサンクレッドは面食らった様子だ。髪を掻き上げ覗く耳が、心なしか赤い。
「それでは、手紙の内容を」
気付かないふりをして促すとサンクレッドは内容を口述する。そして、その甘さに顔を顰めた。
「貴方の世辞は、どうしてそう胡散臭いのですか」
「放っとけ」
よくも歯の浮くような言葉が次々と思い浮かぶものだ。呆れを通り越して感心する。
「まぁ、良いでしょう。続けて下さい」
請われるままサンクレッドは甘い言葉を紡ぎ、ウリエンジェは羊皮紙にペンを走らせた。
完成した恋文を送ると、日の経たないうちに令嬢から返信があった。のぼせ上がる内容にウリエンジェは拍子抜けをしたが、そうでなくては困る。
文通は順調に進んだ。
ある時はサンクレッドの提案で花を。またある時は、読書好きの彼女へ手作りの栞を同封した。令嬢らしく奥ゆかしい文章はウリエンジェにも好ましく思えた。
そうして遣り取りを続けていたが、いつものようにサンクレッドがふらりと部屋を訪れた夜のこと。
「令嬢が会いたいと言ってきた」
卓上に令嬢からの手紙と蒸留酒を置きサンクレッドは告げる。蒸留酒は高級品で──大方、くすねてきた代物だ──これが手土産として渡されたのなら「潮時」を意味するのだろう。
「そうですか……では、返書は不要ですね」
「ああ」
ウリエンジェは戸棚からストレートグラスとチョコレートを取り出す。サンクレッドが蒸留酒をグラスに注ぐと、どちらからともなく杯を交わした。
「潜入捜査の進捗は?」
「証拠は出揃ったよ。家宅捜索が入る頃合いだ」
サンクレッドは口にチョコレートを放り込み、蒸留酒を胃に流し込む。口調は淡々として感情の揺らぎはない。
「……富豪が捕まるのなら、かの令嬢にも影響するでしょうね」
「そうだな」
頷けばウリエンジェの表情に陰りが見える。外交的でないにしろ、彼は人を騙すには優し過ぎた。
「ウルダハの女性はお前が思うより強かだよ」
じきに捕らえられる富豪も保釈金を払い、出所する。イタチごっこに過ぎないが、それでも得られる情報があった。
席を立ちゴーグル越しにも分かる、憂を帯びた男の膝に跨る。
「お前には向かない仕事だ」
フードを脱がして首筋に唇を這わす。服に手をかけても、ウリエンジェは抵抗しなかった。
それで良い。サンクレッドが心に溜った澱をウリエンジェへ吐き出すように、自分を使うのなら。
下肢に頭を埋める。見上げるとゴーグルを外した金目と視線が合わさった。
「貴方にとって数多の女性も私も、変わらないのでしょうね」
そこまで軽薄と思われていたとは。心外だな。少なくとも、俺はお前に信頼を寄せているのに。
ウリエンジェの言葉には答えず、代わりに頰に触れる褐色の掌へ口付けた。
サンクレッドの言うことは本当だった。
三日にあげず送られてくる手紙にウリエンジェは頭を抱えている。以前と比べて内容も質が落ち、やれ心変わりだの宿り木の下で待っていただのと、令嬢の心情が書き連ねられほとんど督促状に近い。当初は好ましかった印象も、封を切る度に疎ましさへと変わっていった。
『随分と律儀だな』
耳元でサンクレッドが笑った気がした。彼の女性に対する作法は知らないが、確かに儀礼的であると自嘲する。
先日「どうせ見えないから」と爪を立てられた項部が痒みを伴い、疼く。あの言葉にサンクレッドの返答は無かった。何処かで否定を期待したのかも知れない。彼でなければ、こんな面倒ごとは引き受けないのだから。
ウリエンジェはミコッテ族のつむじを眺めていた。
サンクレッドは何処に居るの。どうして私に会ってくれないの。
ムーンキーパーの彼女はその牙で噛み付くかの如くウリエンジェを糾弾する。
ゴーグルで表情が読めないことが幸いしたのか、はたまた淡々と頷くだけのウリエンジェに呆れたのか、ひとしきり話すと彼女は砂の家から離れて行った。
暁の拠点が石の家に移りしばらく経つが、最近は女性の訪問が絶えない。その全てがサンクレッドに関するものだ。
色恋に対する嗅覚の良さは諜報員もお手上げだろう。のらりくらりと躱し続けた結果であり、自身の詰めの甘さを省みるべきだ。
本来の目的であった郵便を手にして、ウリエンジェは執務室へと戻る。いくつかの書簡から見慣れた封蝋を見つけ溜め息を吐いた。
まだ諦めていないのか。
今回はどんな催促が書き記されてるのやら。と封を開けた瞬間、身の毛がよだつ。
中から出てきたのは一束の毛髪だった。用箋に挟まれた金糸が重力に従い卓上に落ちる。
手紙には一言だけ添えられていた。
『出逢いの喜びは一瞬 別れの哀しみは永遠』
ウリエンジェは震える指先で散らばった金色の髪──本人が愛用してたであろう赤紐で結ばれている──を纏めると封筒と合わせて、備え付けの抽出しへ仕舞い込んだ。
この抽出しには令嬢の手紙が全て保管されている。最後の手紙を受け取った現在、処分すべき対象だ。それも、なるべく丁重に。
女性の感情は欺くも恐ろしい。複数人を相手取るサンクレッドの気が知れなかった。
加担した責任はあるが、何故自分ばかりが恨みを抱かれるのか。小言を並べるくらいは許されよう。
ウリエンジェはリンクパールへ手を伸ばした。
シリアス・ムーンライト うたた寝をしていたと、ウリエンジェは薄らぼんやりと戻る意識の中で思った。
またたきを数度。卓上の明かりが頼りなげに、封の解かれた書面を照らしている。
返答を考えていたのだったと思い出し、しかし今夜中に仕上げるのは難しいと諦める。
カップに半分ほど残る紅茶を飲み干して、執務室から退出した。廊下は暗く静まり返っており、深夜であることが窺える。
自室へ向かう途中、ある場所でウリエンジェは足を止めた。
それは屋上に続くのぼり階段だった。砂の家は外部の侵入を防ぐため、出入り口は一階にのみ存在する。これは屋内からだけ行くことの出来る、いわゆる秘密通路になる。
執務長のウリエンジェは砂の家から二、三日出ないこともザラだが、何故か今日は外気に触れたくなり階段へと足を運んだ。
天井の重い扉を開けると、冷んやりとした風が頬をなでる。屋上に出たウリエンジェは身体を震わせ、起き抜けには肌寒いくらいだと空を見上げた。
今夜は満月。諜報活動には不利な夜だ。
しばらく顔を見せないサンクレッドを思い出して、杞憂に過ぎないと屋上の手摺りへ向かう。
ヒューランが基準となっている手摺りは、エレゼンのウリエンジェには些か低い。下を覗き込むと、その高さに足がすくんだ。
ウリエンジェは高所が苦手だ。
眺めるのはまだ良いほうで、今のように高さを意識すると足元に浮遊感が生まれる。
ウリエンジェの身長がサンクレッドより頭ひとつ分、低かった頃。
サンクレッドは気まぐれに建物との間を飛び歩いていた。
「そのような行いは危険ではありませんか」
ウリエンジェが問うと、サンクレッドは笑った。
「そんなヘマはしないさ。私はこの身軽さを買われたからね」
宣言通り、彼の身のこなしは安定していた。そして面白いほどに飛び移るのだ。人ひとり立てるかと言う窓枠や、不安定な木の枝へと。
ウリエンジェは生来の探究心で、どの程度の場所まで移動が可能かサンクレッドへ尋ね、せがんだ。彼も楽しんでいたのか断られた記憶はない。
とりわけ多かったのはサンクレッドへ声を掛け、ウリエンジェの場所まで移動する遊びだ。合図として二回、手のひらを叩く。
「ウリエンジェ?」
物思いに耽っていると、下から声が聞こえた。声のする方向を見れば、砂の家の入り口にサンクレッドの姿がある。
「相変わらず、宵っ張りだな」
サンクレッドの声は通りが良いので、屋上に居るウリエンジェの耳にも届いた。対して自分の声はくぐもっているため、声を出すかわりに頷いて見せる。
と、思いついて両手を目の前に広げた。
彼はまだ、覚えているだろうか。
手のひらを二回叩けばサンクレッドは気付いたようで、膝を屈伸させると次の瞬間には屋上へ姿を現した。襟足で束ねられた髪が煌めき、音もなく手摺りへと着地する。
「懐かしいことをするじゃないか」
「ええ、少し昔を思い出しまして。可笑しいですか?」
「いいや?」
手摺りに腰掛けるサンクレッドは笑った、ように見えた。白銀の髪が月明かりに照らされ、反射で表情を朧ろげにする。
「月に溶け込みそうですね」
顔色が読めないことはウリエンジェに彼の持つ危うさを思い出させ、言葉を紡がせる。
別段驚く訳でも無く、サンクレッドは夜に浮かぶ月へ目を向け「ユウギリが」と呟いた。
「ドマには月に還った姫の話があると言ってたな」
「月に、ですか」
サンクレッドは頷いて、目線をウリエンジェに戻す。幾らか目が慣れたのか、先程より表情が確認出来る。
「地上で暮らした娘が実は月の姫で、満月の夜に還ったんだそうだ」
「止められなかったのですか?」
「ああ」
話はこれで終わりらしく二人の間に沈黙が流れる。やがて、再びサンクレッドが口を開いた。
「俺が月に拐われたら、どうする?」
彼は往々にして軽口を叩くが、人を試す発言をするのは稀だった。ウリエンジェは目の前のサンクレッドから発せられる薄暗さを、確信に変える。
「……では私は、月の眷属となりましょう」
そうして、サンクレッドの唇を塞ぐ。
ウリエンジェは弁えていた。言葉が雄弁に語ることも、届かなければ響かないことも。
今夜は後者だ。付き合いの長さは人の群れで生きるのが苦手な自分にも、傾向と対策を身に付けさせる。
抱き寄せた身体は見た目よりも、うんと冷えていてウリエンジェの庇護欲を掻き立てた。
「夜風はお身体に障ります。どうぞ、今宵は休まれて」
身体を離そうとすれば追い縋るサンクレッドが、肩口に額を擦り付け強請る。
「……寒い。お前の部屋へ連れて行け」
「かしこまりました」
首筋に絡む腕をそのままに、ウリエンジェは造作もなくサンクレッドを持ち上げた。
かわいいひと ティーメジャーが三杯分の茶葉を運ぶのを、サンクレッドは眺めていた。
篤学者の荘園で生活をはじめて暫く、午後の休憩には紅茶を飲むのが習慣となっている。
湯の注がれたポットはティーコゼーが被せられ、抽出されるのを行儀よく待っていた。
「今日は細かい茶葉ですから、置き時間は二分半で十分でしょう」
テーブルの砂時計を返してウリエンジェが言う。
戴き物の焼き菓子がございますので、お持ちしますね。と続けて戸棚に向かう男はおよそ家事というものに馴染みが無いが、紅茶を淹れるのだけは上手い。
「お前が砂の家で紅茶を振る舞った時、あったよな」
「タタル嬢のお茶会ですか……」
硝子戸から取り出した箱を開けながらウリエンジェが小さく呻くのを見て、サンクレッドは苦笑する。
タタルのお茶会。
発端はウリエンジェの小さな親切で、応対続きのタタルへ自分用の紅茶を分けた事だ。それが、いけなかった。
ウリエンジェの紅茶をいたく気に入ったタタルが暁の仲間へ、その美味しさを吹聴して回ったのだ。あっという間に噂は広がり、ウリエンジェは事ある毎に紅茶をせがまれた。
解決策として提案されたのがタタル主催のお茶会だ。当日、持ち寄りの菓子を広げた仲間たちのテーブルへ、ウリエンジェがポットを片手に何度も往復していたのを思い出す。長身の背を屈め、タタルと連れ立つ姿は可愛くもあったのだが。
「あの時は、一生分の紅茶を注いだ気分でしたよ」
数種類の焼き菓子が飾られた皿をテーブルに置いてウリエンジェは溜息をつく。
「そう言えば、猫舌は直ったのか?」
焼き菓子の中からピスタチオのクッキーを選び取ると、サンクレッドは尋ねる。
「私は猫舌ではありません。熱いものが苦手なのです」
「同じだろ」
さくり。と音を立て口の中で崩れるクッキーが、程よく甘い。
猫舌にサンクレッドが気付いたのはタタルのお茶会で、ウリエンジェが紅茶を口にしなかったからだ。いくら何でも提供する間に飲むぐらいは出来るだろう。
お開きの時間となり、ようやくウリエンジェが口に運んだのは、すっかりと冷めた紅茶だった。
後にサンクレッドが確認したところ、先程と同じ言葉が返ってきた。
猫舌は高温のものを口にした際に舌を口内へ隠せず、神経の集中している舌先に当ててしまうと聞く。
それでサンクレッドは、ウリエンジェへ舌先を顎の内側へ丸めこむよう意識しろ。と伝えたのだが、実際に行えているかは怪しいのだった。
茶葉の開いたポットを手に取り、ウリエンジェは紅茶を淹れる。
高い位置から放物線が描かれ、落とされる液体。匂い立つベルガモット。ソーサーの添えられたティーカップを支える褐色の手。
その所作をサンクレッドは、ほんとうに美しいと思った。
控えめな音を立て置かれたカップをサンクレッドは受け取り、ひとくち含む。
鼻に抜ける香りに遅れて渋みが口に広がる。クッキーの甘さが洗い流されると、次の焼き菓子へと手を伸ばしたくなった。
向かいではウリエンジェが腰掛け、紅茶を淹れた時と同じ優雅さでカップを持ち上げている。
「火傷するなよ」
サンクレッドの揶揄うだけの言葉は、しかし現実となった。
「熱っ」
ウリエンジェは口元のカップを慌てて遠ざける。舌の扱いは下手なままのようだ。
くつくつと笑ってサンクレッドは言う。
「直ってないな」
「貴方が余計なことを仰るからです」
カップに息を吹きかけウリエンジェは言い逃れをする。そんな所ばかりが頑固で、だからサンクレッドは揶揄いたくなるのだ。
「どれ、見せてみろ」
「? はい」
テーブルから身を乗り出したサンクレッドの前で、ウリエンジェは素直に舌を伸ばした。エレゼンの舌は少し長めで、火傷をした舌先はほんのり赤くなっている。
その舌先にサンクレッドは吸い付いた。
「、っ」
震えたウリエンジェの肩を両手で抑えつけ舌から唇を離すと、もう一度深く口づける。
口内でウリエンジェの舌を弄れば、逃れようと舌先を丸めこんだ。
「……ん、は。ァ」
ウリエンジェの息が上がったところで唇を解放すると、サンクレッドは意地の悪い笑みを浮かべる。
「やれば出来るじゃないか」
口端から零れた唾液を親指で拭いつつサンクレッドが褒めれば、耳を赤に染めたウリエンジェは消え入るような声で呟いた。
「狡い。です」
歳下然とした姿にサンクレッドは目を細める。
大先生は、可愛いのだ。
ネームレス
カツカツと踵の高い靴音が聞こえてくる。
明らかに履き慣れていないと言った歩き方にサンクレッドが振り返ると、そこにはウリエンジェが居た。
「どうしたんだい。そんな靴を履いて」
ウリエンジェの履いている編み上げブーツはえんじ色をしており、品よく足元を彩っている。
「貴方と」
変声期の掠れた声がサンクレッドの鼓膜を揺らす。
「サンクレッドと同じ目線に、立ちたく思いました」
金目が一度瞬きをして長い睫毛が目元に影を作る。赤く色づく唇も、鈍色のふわりとした髪の毛も、見た目は少女のそれだった。声を発しなければ、男だと気付かれないだろう。自分も勘違いをしていた一人なのだが。
「相変わらず突飛な言動をするね」
踵の高い靴でもウリエンジェの目線はやや低く、上目遣いは変わらなかった。時々そうするように、サンクレッドは頭を撫でてやる。彼の髪質は猫っ毛で触り心地がとても良い。
「エレゼンの成長期は遅いのだろう?慌てなくとも、私の背などその内に抜かすさ」
「現在の貴方と同じものを見たいのです」
サンクレッドは後頭部から手を離すと、まるで理解が出来ないと笑った。
その表情をウリエンジェは苦く思う。人好きのする「作り笑顔」など以前の彼からは想像も出来なかった。
諜報活動を学ぶサンクレッドは元々の素質もあったのだろう。すぐさま頭角を現し、此処シャーレアンで一目置かれる存在となっている。
対してウリエンジェは地道に書物と向き合う日々だ。彼の大きな背中も瞬く間に遠くなり、そうして忘れてしまう。手足ばかりが長く「模範生」の自分の事を。
だから現在、サンクレッドと同じ目線に立つ必要があった。
「それで感想は?」
小首を傾げると白銀色の前髪が瞳にかかり、髪と同様に白い肌へ馴染む。曖昧なサンクレッドの輪郭は訓練の賜物だろうか。それとも。
「顔が近いです」
我ながら凡庸で稚拙な発言だった。
白銀色のカーテンから覗く淡褐色の双眸が愉快そうに細められる。少年と青年のあわいに佇む彼の顔立ちは美しかった。弾力のある唇は口角が僅かに上がっている。
この高さなら触れられる。
花弁のように薄い唇をウリエンジェが近づければ、白魚の指先がそっと押し留めた。
「それは君が大切な人とするものだよ」
年少者へ言い聞かせる物言いでサンクレッドは嘯く。性器への触れ合いはあるのに、可笑しな話だ。
後方へ足を差し出し、大人しく引き下がる。不安定な足元のせいでよろめくと、見かねたサンクレッドが腕を掴んだ。
「慣れない靴を履くからだろう」
「……申し訳ありません」
頭を垂れたウリエンジェの手を取り「しょうがない奴」と、サンクレッドは口元を緩める。
それはウリエンジェのよく知る「彼」の表情だった。
シガレッタ 久しぶりに、それを見た。
鈍色の柔らかい毛が襟足で結ばれている。
サンクレッドが記憶しているのはカウルを纏うウリエンジェが、フードを脱いだ時の姿だった。
装飾品を外した装いで椅子に腰掛ける彼の指には煙草が挟まれている。薄みどり色の巻紙を口へ運び、ゆるりと紫煙を吐き出す。
緩慢な動作で首だけをサンクレッドへ向けると、隈の刻まれた目元が三日月を描いた。
「お戻りなさいませ」
ペンダント居住区に充てがわれた部屋へ訪れるサンクレッドを変わらぬ言葉で出迎える。それが砂の家でも、篤学者の荘園でも、ウリエンジェはそこに居た。そこに「在るもの」だった。
節くれだった指が灰を叩き落とし、受け皿へ置かれる。燻る薄みどり色をそのままにウリエンジェは手招いた。
「お前が」
迎えられたサンクレッドが、ようやく口を開く。
「魔具の作製でひどく疲れてると聞いてな」
差し入れだ。言って、料理屋で手に入れた食料を卓上へと置く。バケットにソーセージ、それからブラッドブイヤベース。魚介好きのウリエンジェが気に入ると思ったのだ。
「お気遣い、痛み入ります」
サンクレッドがウリエンジェを訪れる時、彼は問い質すような真似はしなかった。理由が必要なのは自分の方で、それが悪癖となりいつまでも抜けない。その証拠に心得たとばかりに、ウリエンジェの腕が伸ばされる。
以前より筋質は変わったが、それでも細い腰を引き寄せて鼻先を擦り合わせる。
「嗚呼、貴方に触れたかった」
身体の線に沿い、這わされる掌。懇ろになって──或いはこの世界に渡ってからの──ウリエンジェの物言いは率直で面映い。
彷徨う指先がインナーを捉えると、外気に晒された臍に口付けられて身を捩る。
「……っ、俺を先に食べる気か」
「いけませんか?」
ふぅ。と息を吹きかけウリエンジェは自身が埋め込まれる位置を撫で上げた。
「煙草、そのままだろ」
触れられた場所がじんわり熱くなるのを堪え、嗜める。
「それは失礼を」
吸口近くまで消し灰になった煙草を持ち上げ味わう合間に、サンクレッドは愛機を立て掛けコートを脱いだ。
灰皿の中で火が揉み消される。ウリエンジェの口端から透明の煙が流れ出るのを見て、今日の舌は苦いだろうと思う。
「此方へ」
手を取られ寝台へと連れ立つ。ひとりに広すぎる部屋は調度品の距離も遠い。砂の家のウリエンジェの自室は、本棚に占領され手狭だった。卓上と寝台の距離はほとんど無く、雪崩込むには最適な。
現在のふたりには必要が無い。分別を弁え、待つ余裕がある。サンクレッドは、それが恐ろしかった。
寝台に腰を下ろすとウリエンジェがキスを仕掛ける。唇の表面を何度か啄み、薄く開いた隙間から舌が侵入する。絡まる舌先はやはり苦かった。
「っは、ぁ……ウリエンジェ……」
息継ぎの合間に名を呼ぶ。蕩けた金目に見下ろされて身体の奥が疼く。
「髪を解いては下さらないのですか」
己の首に回された腕を撫ぜ、ウリエンジェは尋ねる。束ねた髪を解くのは行為の合図で、いつもサンクレッドの役目だった。
選ぶのは自分だと思っていた。そうしてきたし、これからもそうだ。けれど今、自分は選ばれたい。
傍に在るものを知ってしまったから。
ともすれば泣き出しそうになるのを誤魔化し、重ねて名を呼べばウリエンジェが吐息だけで笑う。
「ね、サンクレッド」
褐色の手がサンクレッドの白い頬に触れる。かさついた指先と煙草の匂い。
「私は上手に
待てが、出来ていたでしょう?」
金目が悪戯な光を宿して、後ろ髪を解いた。