道なき未知を拓く者たち① 一直線に伸びた道を一台のパトカーが走る。前後を走る車や対向車線を走る車はない。
リックとニーガンが乗るパトカーの中は静かだった。車の走行音以外に聞こえてくる音はない。以前の世界であればラジオを付けて様々な情報や音楽の波に乗ったり、無線が遠慮の欠片もなく本部からの指示を飛ばしてきたものだが、今ではスピーカーが吐き出すのはノイズだけ。
無言でハンドルを握るリックの隣ではニーガンも無言で流れる景色を眺めている。その横顔に疲労の色が見えるのは空振りの続く物資調達のせいだろう。
リックとニーガンはこの四日間、新たな物資や食料、そしてガソリンを手に入れられないでいた。路上に放置された車や家主のいなくなった民家を見つけては残された物資がないか必死に探したが、どれも目ぼしいものがなかった。二人がどれだけ節約しても手持ちの物資は確実に消費される。じりじりと減り続ける物資は人を精神的に追い詰めていく。
リックはフロントガラスの外に向けていた視線をガソリンメーターに移した。メーターが示す残量に溜め息が漏れる。ガソリンを補充できなければ明日には車を捨てることになるだろう。
リックが視線を正面の道路に戻して走り続けていると、道路から少し離れたところに倉庫がポツンと建っているのが見えた。少し速度を落として倉庫の周辺を観察したところ、周囲には畑が広がっており、そのことから倉庫に保管されているのは農機具や種などであることが予想される。何か役立つものが見つかるかもしれない。
リックは倉庫に視線を注いでいるニーガンに声をかける。
「ニーガン、どうする?俺は寄ってみてもいいと思うんだが。」
リックの提案にニーガンは首を縦に振った。
「それなりの大きさだし、トラクターでもあればガソリンが期待できる。行ってみるか。」
「わかった。行こう。」
賛同が得られたので、リックは倉庫に続く道へとハンドルを切った。
畑の間を抜けて倉庫に向かう中、目に飛び込んできたのは大量の枯れた作物だった。世話をする人間がいなくなってだめになってしまったのだ。遠目から畑を見た時にリックの心に密かに芽生えた「食料が手に入るかもしれない」という淡い期待は眼前に広がる作物のように萎びた。
倉庫の前にパトカーを停車させ、二人はそれぞれに武器を手にしながら降りる。二手に別れて倉庫の周辺を探り、危険がないかを確かめると倉庫正面のシャッター前で合流する。
「ウォーカーの姿は見えなかった。畑の作物が枯れているから遠くまで見えたんだが、それらしい姿もない。今のところは大丈夫そうだ。」
「俺もそう思うぞ。とりあえず中に入ってみるか。俺が開けるからリックは援護しろ。」
「わかった。」
ニーガンがシャッターの前に立ち、リックはその隣に立って拳銃を構えた。そしてニーガンがこちらを見て頷いたので頷き返す。
「開けるぞ!」
その合図と同時にシャッターが持ち上げられる。リックはウォーカーが飛び出してくることを警戒したが、中から飛び出してくる影も唸り声もない。しばらく待ってみても倉庫の中は静かなものだ。リックはニーガンと視線を交わらせてから一歩ずつ前に進む。
倉庫の中には農機具や種の並ぶ棚があった。奥にはカバーで覆われたトラクターがあり、調べてみるとガソリンが半分ほど入っていた。
「大当たりだったな。パトカーの寿命がちょっとだけ延びた。」
ニッと笑うニーガンに釣られてリックも笑みを零す。久しぶりにガソリンを手に入れられたことで心が少し軽くなった。
二人は話し合い、トラクターからガソリンを取り出してパトカーに給油する作業はリックが担当し、ニーガンは他に使えそうなものを探すことになった。
少し経つと「本当に大当たりだな」というニーガンの弾んだ声が聞こえてきた。リックはガソリンを携行缶に移し替えながら「良いものがあったのか?」と問う。
「こんな良いものが置き去りにされてた。似合うだろ?」
そう言いながら近づいてきたニーガンは黒の革ジャケットを着ていた。その姿を見てリックは目を瞬かせる。
「どうしてそんなものが置いてあるんだ?ここは単なる倉庫だろう?」
不思議がるリックにニーガンは薄汚れたリュックサックを見せる。
「このリュックと一緒に置いてあった。空になった缶詰が転がってたから、ここで寝泊まりしてた奴のものだろう。ただ、最後に缶詰が開けられたのは昨日や今日じゃなさそうだ。」
ニーガンの言葉にリックは表情を曇らせる。革ジャケットの持ち主は倉庫を寝起きの場として使っていたが、ちょっとした用事があって荷物を持たずに出かけたのだろう。そして二度と帰ってこなかった。それが意味するのは一つしかない。
リックは俯いて黙り込み、その頭をニーガンが撫でた。
「死んだ奴が残した物資は生きてる奴が使う。そうしないと俺たちは生き残れない。割り切れよ、リック。」
ニーガンは諭すように告げてからリュックサックを持ってパトカーに向かう。
「……ああ。」
リックは頷きながらも溜め息を止められなかった。さっきまでの軽さが嘘のように心がひどく重かった。
少ないながらもガソリンと物資を調達することができたリックとニーガンは倉庫を出て再びパトカーを走らせる。リックは無言で運転しながら倉庫での出来事とニーガンの言葉を思い返していた。
見知らぬ誰かの家や車を漁って物資を得ることは早々に慣れた。以前の世界であれば犯罪行為と判じられることへの抵抗感が薄れていくのは複雑ではあったが、生きるためには仕方のないことだと割り切れた。
しかし、先程のように誰かの死を生々しく感じてしまうと罪悪感で胸が苦しくなる。死者に鞭を打つような行為をしているように思えて気が滅入った。そして、「生きるために必要なことだ」とすっきりと割り切れない自分に嫌気が差して更に落ち込むという悪循環が出来上がっている。早く気持ちを切り替えなければならないと理解していても心は思い通りになってくれなかった。
リックが小さく溜め息を吐いた時、隣から「おい」と声をかけられる。チラッと視線を向ければニーガンが眉間にしわを寄せてこちらを見ていた。
「さっきのことで考え込んでるんだろ?ったく、お前は思い詰めやすいのが難点だな。『割り切れ』と言ったが今すぐにできるとは思ってない。お前は目覚めて一ヶ月も経ってないんだから仕方ないんだ。」
「ああ、わかってる。」
「わかってないから言ってるんだぞ。いいか、リック。お前は他の人間よりもスタートが遅かった。だからまだ今の世界に慣れてない。それを受け入れろ。俺はそれをわかった上で忠告してる。少しずつ適応していけばいい。」
「だが、それだとあんたに負担をかけてばかりになる。そんなのは嫌だ。」
リックが言い募るとニーガンは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「負担じゃないって何回言えば理解するんだか。お前が意外と石頭だって最近気づいたぞ、リック。」
それ以降は口を閉ざしたニーガンに、リックは意識だけを向けながら正面を見続ける。
ニーガンを怒らせてしまった。その事実はリックを落ち込ませるには十分だ。迷惑をかけたくない、重荷になりたくない、失望させたくない。それらの気持ちが焦りを生んで空回りの原因になっているのだと知りながらも同じことを繰り返す自身に呆れてしまう。
リックが重苦しい空気に耐えながら運転を続けていると、道路を埋め尽くす車の群れが前方に見えた。
もっとよく見えないか、とリックが目を凝らすと隣から呟きが聞こえてくる。
「奥の方に見えるのはガソリンスタンドか?」
「俺にもそう見える。車が道を塞いでいるから通り抜けられそうにない。ニーガン、降りよう。」
リックはニーガンが頷いたのを確認してからパトカーを停車させてエンジンを切り、武器と共にガソリンの携行缶を手にして車外へ出た。
ガソリンスタンドへ至る道は悲惨としか表現しようがなかった。衣類、簡易テーブルと椅子、おもちゃ、様々な本、そして生活雑貨が散乱する中に死体が混ざっており、腐敗しているせいでハエが集っている。その数は一体や二体ではない。
ポツポツと死体が転がっている状態でも人々の営みが存在していた名残が見られ、この辺りは避難民のキャンプ地だったのだと察せられた。異形の存在に脅かされた人々が身を寄せ合って生きていた場所にも脅威は容赦なく踏み込み、そして悲劇が起きたのだろう。
リックは周囲を警戒しながらも眼前に突きつけられた悲劇に心を引きずられそうになった。それではいけないと頭を軽く振って平常心を取り戻そうと努力する。
二人は慎重に進んでガソリンスタンドに辿り着いたが、「ガソリン切れ」の看板を見て揃って肩を落とした。
「キャンプ地になっていたみたいだからガソリンが残っていないのは当然だな。少し期待してしまったのがいけなかった。」
リックが苦笑するとニーガンは「全くだ」と頭をガシガシと掻く。
「一応、使えそうなものが残ってないか探してみるぞ。リック、油断するな。」
ニーガンはリックに声をかけると早速物資を探し始めた。その後ろ姿を眺めてからリックも周囲の探索を始める。
車を一台ずつ調べていると小さな足音が聞こえた。ニーガンの足音かと思ったが、ニーガンとは距離が離れている。自分たち以外に誰かがいるのだと悟ったリックは急いで足音の方へ向かった。
そして、足音を追いかけた先で幼い少女の後ろ姿と出会う。長く伸びた髪が印象的な彼女の年齢は小学生といったところだろう。リックはゆっくりと近づきながら優しく声をかける。
「ねえ、君。一人なのかな?お父さんやお母さんは?もし一人なら危ないからおじさんと一緒に行こう。さあ、おいで。」
リックの呼びかけに反応して少女が振り返る。その顔は口元から頬にかけて大きく裂けており、瞳孔は完全に開いていた。それだけでなく肌の青白さは生きた人間のものではない。
リックは唇を噛みながら後退り、それに合わせるように少女──ウォーカーがリックに向けて足を踏み出した。
なぜ気づかなかったのだろう?ほっそりとした足の色は生者のものではなかったのに。幼い子どもが一人で生きていけるような優しい世界ではないと知っていたのに。どうして「目の前の少女は生きている」と希望を持ってしまったのだろう?
リックの中で様々な感情が渦巻いている間にも幼いウォーカーは距離を縮めてくる。それでもリックは目の前の怪物を見つめていることしかできない。
ウォーカーの手がリックに届くまで後一歩の距離になった時。
「リック!」
ニーガンの怒声がリックの鼓膜を揺らした。それがきっかけとなってリックの時間は動き出し、迫り来るウォーカーを突き飛ばして転倒させてからナイフで頭を一突きにする。頭にナイフの刃が深々と突き刺さったウォーカーはピクリとも動かない。少女はようやく永遠の眠りを手に入れたのだ。
リックは手足が重たくなったように感じながらナイフを引き抜いて立ち上がる。
横たわるウォーカーから視線を外さないままでいると乾いた音と共に頬に衝撃と痛みを感じた。次に両肩を掴まれて体の向きを変えさせられ、怒りを隠そうともしないニーガンと視線が重なる。リックはニーガンと目が合って初めて自分は頬を打たれたのだと気づいた。
呆然とするリックの胸ぐらをニーガンが荒々しく掴み、「ふざけるな!」と怒鳴り声が響き渡る。
「死ぬつもりか!ふざけるな!ふざけるなよ、くそっ!俺の目の前で死んだらぶっ殺してやる!」
今のニーガンは怒り狂うという表現が相応しい。こんなにも激しい怒りを顕にする姿を見るのは初めてで、呆然としていたリックの心に強い後悔が湧き出した。
「……ニーガン、すまない。死のうとしたわけじゃない。」
「ああ、そうだろうな!どうせ相手が子どもだからだろ⁉子どものウォーカーだからお前は躊躇った!」
ニーガンの指摘をリックは項垂れるように肯定した。
息子と同じ年頃の子どもがウォーカーに転化したことに胸が痛くなり、攻撃を加えることに対して躊躇いを覚えたのは否定できない。それでも死ぬつもりは全くなかったのだが、それは言い訳にもならないだろう。
俯くリックは顎を掴まれて無理やり上を向かされる。そうすることでニーガンの怒りに燃える目を間近で見ることになった。
「よく聞け、リック。ウォーカーは人間じゃなくなった怪物だ。理性も感情もない。相手と自分との関係もクソもない。目の前の獲物を食いたいだけだ。くだらない同情なんてするな。」
真剣な顔つきのニーガンを前にしてリックは何も言えなかった。返す言葉など見つかるわけがない。
黙って話に耳を傾けるリックにニーガンは更に続ける。
「目の前にいるウォーカーの年齢や自分との関係に囚われると死ぬぞ。転化しちまったら、もうそいつはお前の知ってる相手じゃない。どれだけ可愛い子どもや弱そうな年寄りの姿をしていても怪物だ。そのことを受け入れろ、今すぐ。それだけは待ってやれない。」
ニーガンは伝えたいことを吐き出し終わったのか、慎重な手付きでリックから手を離して探索に戻っていった。リックは遠ざかる後ろ姿を立ち尽くしたまま見送る。まるで地面に足を縫い付けられてしまったかのように一歩も動くことができなかった。
遠くへ行ったニーガンから視線を引き剥がして足下に落とせば、先程までと変わらず地面に少女が横たわっている。その表情が穏やかなものに思えたのはリックの願望なのかもしれない。
リックはナイフをしまうと片手で目元を覆った。視界を遮った途端に目頭が熱くなり喉の奥に熱い塊がせり上がってくる。
泣いてしまいたい、と思った。押し寄せる現実の厳しさと世界の残酷さに心が悲鳴を上げて泣いている。だから自分も同じように泣いてしまいたかった。
しかし、そんなことをすれば自身の感情に押し潰されてしまいそうで恐ろしい。それは絶対に避けなければならないことだ。
リックは喉の奥にある熱い塊と目の裏の熱が引くまで視界を塞ぎ続けた。
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少女のウォーカーの件があってからリックとニーガンの間にぎこちなさが生まれた。交わす言葉の数はいつもより少なく、その数少ない会話も途切れがちだ。互いに相手の様子を探りながら「どのような言葉が相手の心に影響してしまうのか?」と迷っているからなのだろう。
ぎこちない雰囲気は翌朝まで残り、アトランタに向かう車中の空気は重たい。その空気にリックは溜め息を吐くことさえ躊躇った。
気まずい日中が過ぎ去って夕方になるとリックはパトカーを停めてニーガンと共に夕食の準備と荷物の確認を行う。他に誰も通らない車道に停めたパトカーの近くでニーガンが焚き火を用意する傍らでリックは物資と武器の在庫数を確認した。銃弾の在庫は豊富だが食料は残り一週間ほどになる。そろそろ調達しないとこの先が不安だ。
リックはトランクに荷物を収めると火を起こすニーガンの隣に立った。
「ニーガン、食料の残りが一週間ぐらいしかない。この先は道路脇に森があるから、そこで食料調達をしないか?」
ニーガンは顔を上げてリックを見る。
「弾の数は?」
「まだ余裕がある。」
「じゃあ、明日にでも森に入って狩りだな。他に食えそうなものも探す。」
「そうしよう。」
リックが頷いた時、足音が聞こえた。振り返るとパトカーの向こう側に見知らぬ一人の男が立っていた。髭面で、しわの入った服とくたびれたリュックサックを見れば放浪中であることが一目でわかる。
リックが振り返ったのに続き、ニーガンも立ち上がってそちらを睨む。
「声もかけずに忍び寄ってくるなんて度胸があるな。頭を吹っ飛ばされても文句は言えないぞ。」
ニーガンが警戒心を示すように話す声を聞きながら、リックはホルスターに収められている拳銃に手をかけた。
今の世界でこっそりと背後から近づくのは命取りだ。ウォーカーと間違えて撃ち殺されても文句は言えない。そういった状況であるからこそ、わざわざ気配を消して近寄ってくる相手に対しては何か企みがあるのではないかと疑わざるを得ない。
男はリックの右手が拳銃に触れているのを見てニヤニヤと笑いながら両手を上げる。
「弾の無駄遣いはやめてくれよ。一発でも惜しい。」
「どういう意味だ?」
男の言葉にリックが訝しげに眉根を寄せると同時に後頭部に固いものが押し付けられた。リックは背後に何者かの気配を感じ、押し付けられたのが銃口だと悟る。気配に気づかなかった自身に舌打ちの一つでも漏らしたくなる。
リックは両手を上げながら視線だけを隣のニーガンへ移してみたが、彼も同じように後頭部に銃口を押し付けられて両手を上げていた。
リックたちに最初に接触してきた男は「やったぜ!」とはしゃいで手を下ろし、近づいてきた仲間の男とハイタッチをする。相手は男四人であり、全員が拳銃を所持していた。下手に動けば撃たれる可能性があるため動向を見守るしかない。
最初に現れた男はリックとニーガンそれぞれの顔をじっくりと眺めながら愉快そうに笑った。
「お前たち二人だけってのが運が悪かったな。もっと大人数で動いてりゃ俺たちに目を付けられずに済んだのに。残念だが、お前たちは運が悪かった。それだけさ。」
男はわざとらしく眉尻を下げてからパトカーに近づいてトランクを開けた。もう一人の男も一緒になってトランクの中を覗いて「ワオ!最高だ!」と歓声を上げる。
リックは男たちがトランクから物資を取り出すのを見て唇を噛む。物資を全て奪われたら生きていけない。かと言って物資を全て持っていかないように頼んでも無駄だろう。それどころか殺される可能性の方が高い。
目の前で行われる略奪を見ていることしかできないリックの正面に背後に立っていた男が回り込む。無精ひげの目立つ男が舐め回すような視線を向けてくることに嫌悪を抱き、リックは顔を逸らした。
しかし、顎を掴まれて再び顔を正面に向けさせられた。眼前に迫る薄ら笑いに背筋がゾッとする。
「なかなかきれいな顔してるじゃねぇか。いいね、楽しめそうだ。」
リックの顎を掴む男が零した言葉に反応してニーガンに拳銃を向ける男が笑い出す。
「まーた悪い癖が出た!お前って奴は穴がありゃ誰にでも突っ込みたがるんだよなぁ。節操がなさすぎだぞ。」
「うるせーよ!お前らみたいなむさ苦しい顔はお断りだ!きれいな顔してたら誰でもいいってのは認めるけどな。」
下卑た笑い声と会話内容にリックは全身を強張らせた。そして突き飛ばされて地面に尻を着くと、銃口をこちらに向けたままの男に押し倒された。
「やめろ、放せ!」
リックは自分に乗り上げる男の体を押し返そうとしたが、リックに向けられていた銃口がニーガンに向けられたので動きを止める。ニーガンは二丁の銃に狙われながらもリックの上にいる男を睨みつける。
「リックから離れろ。頭を潰すぞ、クソ野郎。」
ニーガンが殺気を放ちながら言った言葉を男は鼻で笑う。
「その前に撃ち殺すから脅しにもならねぇな。お前はそこで見てろ。お楽しみが終わったら殺してやるから。」
ニーガンに言い返した男はリックを見下ろして勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「少しでもお友だちの寿命を延ばしたかったら大人しくしてろ。まあ、お前にも最後に良い思いをさせてやるから。」
男は拳銃を地面に置き、嫌らしく笑いながらリックのベルトを外す。それから制服のシャツとその下のTシャツを捲り上げて顕になった肌を撫でた。素肌に触れられる気持ち悪さに拳を振り上げようとしたが、ニーガンのことを思い出して思い留まる。
リックは思わずニーガンの方に顔を向けた。ニーガンはリックに跨がる男に鋭い眼差しを向けながら怒りの形相を浮かべている。「そいつから退け!」と怒鳴るニーガンには相変わらず銃口が向けられており、それを目にすると抵抗を躊躇わずにいられなかった。
恐怖と混乱で全身が硬直状態になったリックはトランクの中身を見ていた男二人がリックとニーガンのそれぞれに近づいてくる姿を目にする。囮役だった男はリックのところへ来てリックに跨る男の背後から覗き込んできた。
「本当にお盛んだな。この前も女とヤッたばかりだろ?散々弄んで殺すんだから、お前もひどい奴だよ。えーっと、リック、だっけ?お前は本当に運が悪い。こいつはきれいな顔なら女でも男でも構わないって奴なんだ。」
世間話をするように話しかけられてリックは頭を鈍器で殴られたようなショックを受ける。この男たちにとって略奪とレイプは日常の一部であり、人殺しも当たり前の出来事なのだ。奪い、犯し、そして殺す。それは男たちにとって呼吸をするのと同義だった。
ショックの余り呆然とするリックの耳にとんでもない言葉が飛び込んでくる。
「なあ、男とヤッても気持ちいいもんなのか?」
「手間はかかるけどな。お前も挑戦してみる?」
「そうだな、いいかもな。」
リックは目の前で交わされるやり取りの悍ましさに目眩がしそうになる。その時、ニーガンの「殺してやる!」と叫ぶ声が聞こえた。
こちらに向かって突進しかけたニーガンは男がリックの首に手をかけたのを見て躊躇し、その隙を突いてニーガンの近くに立っていた男が彼の腹部を蹴り上げる。そして呻いてその場に崩れ落ちるニーガンの後頭部に銃口が押し付けられた。ニーガンに銃を向ける男は忌々しげに舌打ちする。
「面倒くさい。さっさと殺すか。」
その言葉はリックの鼓膜を震わせ、瞬時に殺意を燃え上がらせる。
ニーガンを殺す?そんなことは許さない。
リックは自分を犯そうとする男が地面に放置した拳銃を手にするとニーガンを撃とうとする男に発砲した。リックが放った銃弾は男の頭を正確に撃ち抜き、男は悲鳴を上げる間もなく倒れた。続けて自分に跨る男の腹部に銃口を押し当てて引き金を引けば、醜い強姦魔は無様な叫び声と共に横に倒れた。
囮役だった男は慌てて逃げ出したが、発砲音の後に足を縺れさせて地に伏した。銃声の主はニーガンであり、その足下には彼の腹部を蹴った男が倒れている。ニーガンはリックの発砲をきっかけに反撃して拳銃を奪ったのだろう。
リックは呻いている男の下から抜け出したが、足に力が入らないため立てなかった。立ち上がろうと足に力を入れても震えるばかりなのだ。
リックが座り込んでいる間にニーガンはベースボールバットを取ってきて、自分の腹部を蹴った男の頭にそれを振り下ろした。人間の頭が殴り潰される様子をリックは眺めていることしかできない。
次にニーガンは逃げようとした男が倒れている場所に行って頭を潰し、こちらに戻ってくるとリックを犯そうとした男の傍に立った。男を見下ろすニーガンの目は寒気がするほどに冷たい。
「俺はレイプ野郎が大嫌いだ。絶対に許せない。そんなクズは生きる価値もない。特にお前はな。」
ニーガンから放たれる殺気に怯えた男は「許してくれ」とか細い声で乞う。
しかし、ニーガンはバットの先で男の頭を軽く小突きながら「この状況で命乞いか?」と嘲笑った。
「だめだね。お前は許されないことをした。まずは──リックに触った汚い手から消そう。」
次の瞬間、ニーガンは男の右手をバットで粉砕した。絶叫が響くのも構わずに左手も打ち砕くと血塗れのバットを男の眼前に持っていく。
「怪物の仲間入りをしなくて済むことを喜べ。」
それは死刑宣告だった。
ニーガンの振り上げたバットが男の頭部に勢い良く振り下ろされる。リックは自分を犯そうとした男の頭が醜く潰れる瞬間をしっかりと見つめた。男の頭が原型を留めないほどに潰されていく様子を見てもニーガンを恐ろしく思う気持ちはない。自分を犯そうとした男の方が恐ろしくて悍ましい存在に思える。
リックが身動きせずに様子を見守っていると男にとどめを刺したニーガンはリックの正面にしゃがんで血塗れのバットを横に置き、慎重な手つきで頬に触れてきた。
「助けてやれなくて悪かった。ケガは?」
その問いにリックは「大したことはない」と首を横に振る。腕を少し擦り剥いただけなので問題はない。
それに対してニーガンは何も言わず、大きな手でリックの両手を包み込んできた。リックは掌から伝わってくる温もりによって己の手が冷えていることを知った。
ニーガンはリックの手に注いでいた眼差しを顔へ移して唇を小さく動かす。
「震えてる。」
ぼそりと吐き出された呟きにリックは頷いて目を閉じる。
先程から手の震えが止まらなかった。寒いのではない。恐ろしいのでもない。ただ、他者の命を奪ったことの重さが手を震わせるのだ。
リックは息を吐き出しながら目を開けてニーガンの目を見つめ返す。
「保安官として勤務している時なら人を撃ったことはある。相手は凶悪犯。俺が撃たなければ市民や仲間が被害を受ける。だから撃たなければならないんだ、と。『これは仕事だ』という逃げがあった。だが、今は違う。」
リックは男の頭を撃ち抜いた瞬間に感じた発砲の反動を思い出す。「市民を守る保安官」としてではなく「リック・グライムズ」として初めて人を殺した時の感触を忘れることはないだろう。その重みも、きっと忘れられない。
「単なる個人として誰かを殺すことがこんなにも重たいことだなんて……今更になって知った。俺は、この世界で生きていく厳しさを理解できていなかったし、覚悟なんて全然できていなかったんだ。そのことがよくわかった。」
自身の甘さを認めるリックにニーガンは眉を寄せて「そんなことはない」と否定したが、リックは頭を振った。今の自分に必要なのは慰めではないと思ったからだ。
リックはニーガンをしっかりと見つめたまま新たに生まれた気持ちを口にする。
「仕事を言い訳にしないで俺個人の意思で人の命を奪った事実は重い。これから先も同じような選択をして、その度に俺はそれを背負うだろう。いつか潰れそうになるかもしれない。それでも俺はこの重たさを受け入れたい。そうしないと大事な人を守れないから。」
リックが告げた言葉にニーガンが驚いたように目を見開いた。その驚きもすぐに消えて、ニーガンは穏やかに微笑んで何度も頷いた。
そして、ニーガンはリックの手を擦りながら口を開く。
「リック、助けてくれて感謝するぞ。お前のおかげで助かった。お前が俺の命を救った。」
ニーガンの眼差しは真剣なものだった。心からそのように思ってくれていることがわかる。
リックは小さく笑みを浮かべて「逆だよ」と返す。
「助けられたのは俺の方だ。ありがとう、ニーガン。」
リックが感謝するとニーガンは頷き、それ以上は何も言わずに手を擦り続けてくれた。
ニーガンの手は温かい。手から伝わってくる体温が強張っている体を解していくような気がして、リックは思わず頬を緩める。
いつの間にか手の冷たさは感じなくなっていた。
ようやく足に力が戻ったリックはニーガンと共に移動の準備を急いだ。遠くまで届いた銃声と血の匂いがウォーカーを引き寄せるので、この場所に留まるのは命取りだった。
二人は男たちの所持していた荷物を漁って必要な物資を取り出し、それらを他の荷物と共にトランクの中に押し込む。最後に焚き火の後始末をして急いで車を発進させた。
いつもは運転を担当するのはリックなのだが、今はニーガンが運転している。何も言わずに運転席に座った彼はリックを気遣ったのだろう。その気遣いが心に染みた。
三十分ほど走り、先程まで居た場所からかなり離れたところで車を停めると改めて焚き火を行う。暗くなってしまったので焚き火を囲う石集めに苦労したものの準備は手早く進み、火を起こして明かりを確保した。
リックが焚き火の前に腰を下ろすのに続いてニーガンが隣に座り、缶詰を差し出してきた。リックは差し出されたそれに「食べる気分じゃないんだ」と首を横に振り、その返事にニーガンが渋い顔をする。
ニーガンは缶詰を地面に置き、リックの方に体を寄せて顔を覗き込んできた。
「さっきのことが原因か?」
顔を覗き込まれたことによりニーガンの目が眼前に迫る。その目が「お前を心配している」と訴えてくるのでリックは小さく苦笑いを零した。
昨日からニーガンに心配をかけてばかりだ。彼の負担になりたくないと願いながら心配ばかりさせてしまう自分が不甲斐ない。
そんな風にリックが自嘲していることに気づいたのか、ニーガンは「おい、リック」と言ってリックの肩に手を置いた。
「俺に迷惑をかけるだとか、負担になるなんて考えは今は横に置いておけ。お前が思ってることを素直に吐き出せ。俺はお前が溜め込む方が心配だ。」
「ニーガン……」
「情けない姿を見て俺がお前を見捨てるとでも思うのか?有り得ない。リック、お前は俺が救いたいと思う唯一の人間だ。だから余計な心配をするな。」
穏やかではあるが真剣な口調で語りかけてくるニーガンにリックは胸が苦しくなった。こんなにも必死に手を差し伸べてくれる彼に対して自分は「負担をかけてしまうから」と背を向けるようなことをしていたのかもしれないと気づいたのだ。
ニーガンは事あるごとに「リックの存在を負担だとは思っていない」と伝えてくれて、「だから頼ってもいい」と手を差し伸べてくれた。いつだってリックを救おうとしてくれた。それなのに当の本人であるリックは「負担をかけたくない」とニーガンの言葉を無視し、差し出された手に背を向け続けた。それがニーガンにとってひどい行為なのだと自覚していなかった。
なんてひどい奴なんだ、とリックは自身に向けて溜め息を吐く。これではニーガンを信じていないのと同じだ。ニーガンはリックが世界の残酷さや過酷さを受け入れて生きていくことができると信じてくれたのに。
リックは一度目を閉じて深呼吸し、再び開けてニーガンとしっかり目を合わせた。
「あんたはいつだって俺の存在は負担にならないと言ってくれたのに、俺はその言葉を心の底では信じていなかったんだな。それがあんたを傷つける可能性にも気づかないで……本当にすまなかった。許してくれ、ニーガン。」
リックが心から詫びるとニーガンはゆっくりと首を横に振った。
「傷ついてはないさ。ただ、俺に頼ろうとしないお前に腹が立った。それだけだ。」
「あんたは心が広すぎる。」
「今頃気づいたのか?遅いぞ。」
二人揃ってクスッと笑い、その笑みが引くとリックは「聞いてほしいことがある」と話し始める。
「さっきの男たちを見て、人間の残酷さと醜さを思い知らされたような……そんな気分だ。だから何も食べる気になれない。」
差し出された缶詰を断った理由を素直に告げるとニーガンは神妙な面持ちで頷いた。そして、ニーガンが話の続きを促すように頷くのを見てリックは言葉を紡いでいく。
「世の中に悪意を持った人間がいるのは当然だ。それでもそれを目の前に突きつけられてショックだった。ひどいことは勤務中に見てきたはずなのに……きっと心のどこかで他人事だったんだ。」
保安官の職務には真摯に向き合ってきたつもりだが、職務中に触れた人間の悪意を「ガラスの向こう側の出来事」と無意識に思っていたのかもしれない。そうでなければ心が壊れてしまうのかもしれないが、加害者も被害者も他人事として捉えて呑気に生きてきたのだろう。
しかし、人間の悪意は常に背後にあった。世界が変わったからではない。他人事であったはずのものはいつだってリックの傍に存在していたのだ。
「この世界があの男たちを悪意の塊に変えてしまったのかもしれないし、世界が変わったせいで抑えてきた本性が表れたのかもしれない。そのどちらであっても俺は人間の残酷さと醜さを見てしまった。それに触れてしまった。……その存在はいつも近くにあったんだと、気づいてしまったんだ。」
リックは声の震えによって自分が泣いているのだと知る。頬を滑り落ちていく涙がとても熱かった。
リックは涙を拭うこともせずに声を絞り出そうとする。涙を拭う僅かな間さえ惜しい。それほどに心に渦巻く感情を全てニーガンの前にさらけ出したかった。
「きっと、残酷さと醜さは俺の中にもある。誰にだってあるんだ。それを知ったから、俺は以前の俺のままではいられない。そんな気がする。」
今までの自分のままではいられない。それはこの世界で生きていくと決めた時に覚悟していたはずだった。それなのに涙が止まらないのは恐ろしいからなのだろうか?それとも悲しいのだろうか?
リックがハラハラと涙を零し続けているとニーガンに肩を抱き寄せられて距離が一段と近くなった。その近くなった距離の僅かな隙間を埋めるかのように抱きしめられる。
「ニーガン?」
どうしたのか、と尋ねる意味も込めて名前を呼んでも返事は返ってこない。ニーガンは黙って抱きしめてくれている。
優しい抱擁が「甘えても構わない」と言ってくれているように思えたので、リックは体の力を抜いて呼吸をしてみた。そうすることでニーガンの温もりと匂いを強く感じられて安心する。
リックはニーガンに身を任せて涙が止まるまで泣くことに決めた。今はニーガンの優しさに甘えてしまいたい。こんな自分でも「負担にならない」と言ってくれたニーガンを信じるのだ。
頬を濡らす涙はしばらく止むことはないだろう。それでも不思議と心は穏やかだった。
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衝撃の出来事から一夜が明け、ニーガンはリックが運転するパトカーの助手席でハンドルを握る彼の横顔にチラッと視線を向ける。前方に顔を向けるリックに陰りは見られない。普段と変わらない様子にとりあえずは安堵するが、注意深く見守る必要はありそうだ。
ニーガンは昨日の夕方に起きた出来事を思い出して噛み締めた奥歯に力を入れる。ぶり返した腹立たしさをリックに悟られたくなかった。
秩序が崩壊した世界では略奪・殺人・強姦が横行している。ウォーカーという脅威に立ち向かうには協力し合うことが不可欠だというのに、現実は自己中心的な考えに走る人間が余りにも多い。そういった輩は返り討ちにしてきたが、昨日ほど焦りを感じたことはなかった。
ニーガンはリックにこの世界の残酷さや厳しさを説いてきたが、それをあのような形で彼が理解することは望んでいなかった。もしリックがレイプされていたらニーガンは自身を死ぬまで許せなかっただろう。結果的にリックは自身とニーガンを守ったが、心に負った傷は皆無ではない。時間をかけてでも癒やしてやらなければならない。
ニーガンが考え込んでいると「ニーガン」とリックの柔らかな声が耳に届いた。顔をそちらに向ければリックが顔を正面に向けたまま微笑んでいる。
「昨日のことを思い出しているんじゃないか?怒っているのが丸わかりだ。」
ニーガンは驚いて目を丸くし、苦笑と共に両手を上げた。
「参ったね、隠そうとしてたってのに。お前に怒ってるんじゃないんだ。クソ野郎共に腹が立ってな。」
「俺なら大丈夫だ。完全に吹っ切れたとは言えないが、あの男たちみたいな人間が彷徨いているなら対応を考えればいいんだと覚悟が決まった。」
「本当に大丈夫なんだな?」
「ああ、無理はしてない。もし辛くなったら、その時はニーガンに甘えさせてもらう。それでいいか?」
いたずらっぽさを覗かせるリックの笑みにニーガンは惹きつけられる。最近は沈んだ様子を見せることが多いが、本来のリックは表情豊かな男なのだ。
ニーガンは一瞬返事をするのが遅れたものの、すぐに普段通りの笑みを顔に貼り付けて頷く。
「上出来だ。」
ニーガンが返事をするとリックの意識がニーガンから前方へ移る。それを察してニーガンも風景に目を向けた。
男たちとの一件の後からリックとの距離が近づいた気がすると思っていたが、どうやら思い込みではなさそうだ。彼は今まで以上に自分に信頼を寄せて心を許している。そのことを確信したニーガンは小さく笑みを浮かべた。
リックは甘えを見せない男だ。全く頼ってこないわけではないが、一定の辺りで勝手に線を引いてしまう。こちらが「踏み込んでこい」と呼んでも足を踏み出そうとしない。そこも彼の美点ではあるが、ニーガンとしてはもどかしさを感じる部分でもあった。
しかし、リックの引いた線はこちらに随分と近づいた。これまでならば「大丈夫だ」と頑なに頼ろうとしなかったところを「甘えさせてもらう」と言ったのだ。その変化は大きい。
リックは基本的に周りに頼らず自分一人で立つ人間。今は一緒にいるのがニーガンだけだから頼らないのではなく、元々がそういう人間なのだと読んで間違いないだろう。それならば自分が多少甘やかしたところで何の問題もない。寧ろ甘やかしてやらなければ彼はいつか折れてしまう。
これからどのようにリックを甘やかしてやろうか、とニーガンは思考を巡らせる。それだけでとても楽しい気分になった。
車で走り続けて三時間近くが経った頃、前方に一軒家が建っているのを見つけた。周囲に他の家はなく、ポツンと佇むそれはひどく寂しげだった。
「リック、あそこに寄るぞ。ガソリンがないか見てみないと。」
「そうしよう。あそこでガソリンが得られないなら車を捨てるしかない。」
ガソリンメーターに目を遣ってみれば残量はゼロに近かった。ガソリンを補給しなければ、これ以上走ることはできない。
一軒家の前でパトカーを停めて、ニーガンが携行缶を取り出している間にリックが先に家の玄関口に向かう。
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか?突然来て頼み事というのも申し訳ないんですが、ガソリンを分けてほしいんです。すみません!」
リックの呼びかけに応答する声はない。ニーガンは外から中の様子を探ることにして家の周りを歩き始める。
しかし、その足はリビングルームの窓の前で止まった。中の様子を見て、平静でいるよう自身に言い聞かせる。
「ニーガン、どうした?」
ニーガンはこちらに近づいてこようとするリックを手で制した。
「見ない方が良い。」
短く答えるとリックの顔が強張ったが、彼は意を決した表情で歩いてきた。そして部屋の中を覗き込んで悲痛に顔を歪ませる。
リビングルームの床には銃で頭を撃ち抜かれた女の死体が転がり、ソファーには銃で自殺を図った男の死体があった。恐らく、ウォーカーの蔓延る世界に絶望して心中したのだ。年齢的に若くないようなので逃げながら生き延びる体力と気力がなかったのだろう。
ニーガンが室内を見つめ続けていると指に温もりが触れた。リックの手だった。
リックはニーガンの指に触れながら顔を真っ直ぐに見上げてくる。
「家の中の探索はやめよう。ガソリンの残っている車がないか見てくる。あんたは車に戻って荷物を準備していてくれ。」
リックの眼差しには労りの色があった。悲劇を目にして衝撃を受けているはずなのにニーガンを思い遣ってくれている。その優しさがニーガンは嬉しかった。リックの提案に首を横に振って「一緒に探す」と返すと、リックは一瞬心配そうな顔をしたが、「頼む」と頷いてニーガンから手を離した。
二人揃って家の周囲を探索した結果、車があった痕跡しか見つからなかった。他の生存者が乗っていったのだろう。その代わりに思いがけないものを発見し、ニーガンはリックと共に目を瞠る。
「馬だ!」
歓声にも似た声を上げるリックは足早に馬のいる囲いに向かった。その後ろ姿を見てニーガンは笑いながら後に続く。
放牧用の小さな囲いの中には一頭の馬がいた。立派な体格をしており、見た限りでは元気そうにしている。こちらを興味深そうに見つめてくる馬をリックは嬉しそうに眺めている。
「世話をする人間がいなくなっても元気にしていたんだな。逞しい奴だ。」
ニーガンは笑顔で話すリックの隣に並んで「そうだな」と頷く。
「なあ、リック。こいつは俺たちを警戒してなさそうだから触ってみないか?誰にも構われなくて寂しかっただろうし。」
「ああ、そうしよう。」
リックの賛同を得たニーガンは囲いの扉を開けて中に入り、リックと共に声をかけながらゆっくりと馬に近づいていく。馬は初めて会う男二人に対して怯えも見せずに大人しくしている。傍らに立っても平然としている馬の首をポンポンと軽く叩いてみても嫌がらず、続けて撫でてやれば気持ち良さそうに目を細める姿が可愛らしい。
ニーガンと同じように馬に触れているリックは馬に「気持ちいいか?」などと優しく声をかけており、その嬉しそうな表情を見ていれば馬との触れ合いを喜んでいることがわかる。辛い光景を目撃した後に心がホッとする出会いがあったことにニーガンは心から感謝した。
ニーガンがリックを見つめていると彼がこちらに顔を向けたので目が合う。
「馬が二頭いたら乗っていけたんだが、一頭だけじゃ無理だな。かと言って荷物を運んでもらうのも量が多いからかわいそうだし。」
「まあ、仕方ないさ。歩いていこうぜ。」
「この子はどうする?囲いの外はウォーカーの脅威があるが、このまま中にいたらいつか必ず飢えてしまう。外に出してやりたい。」
リックの考えにニーガンは同意する。
「屋根がないから日差しも雨も防げないしな。自由に移動できる方がこいつのためになる。タフな奴だから、きっと大丈夫だろう。」
ニーガンはリックに答えながら馬の首をもう一度ポンポンと叩いた。
そして、ニーガンが囲いの扉を開け放つとリックが馬をこちらに誘導する。馬はゆったりとした足取りで囲いの外に出て、囲いから少し離れた位置で足を止めた。何かを問うようにリックの顔を見つめる馬にリックは微笑みながら声をかける。
「お前の飼い主はお前の世話ができないんだ。だから自力で生きていくしかない。大丈夫、お前ならやれる。さあ、行きたいところへ行け。自由に生きろ。」
馬は「わかった」と言うように短く鼻を鳴らして歩き出した。ゆっくりと歩いていたのが徐々に速度を上げ、やがて勢い良く走っていく。遠ざかっていく馬の姿を眺めるリックにニーガンは寄り添い、彼の肩を抱いた。
「あいつは賢い。自分の力だけでやっていける。それに町中じゃないからウォーカーの数も少ない。群れに囲まれることもないだろうし、大丈夫だ。心配するな、リック。」
「そうだよな……ありがとう、ニーガン。」
穏やかに笑うリックにニーガンは笑みを深める。
ニーガンは「俺たちも行くぞ」とリックの肩から手を離してパトカーの方へ歩き出す。その隣にリックが並んだ。
「荷物をもう一度見直そう。全て持っていくのは難しいから厳選しないと。」
「だな。お互いの荷物を一緒に見て考えるぞ。」
ニーガンはリックと頷き合い、パトカーに戻る足を速めた。
パトカーに戻ると二人は荷物を地面に広げて持っていくものを厳選する。不必要なものは一つもないが、徒歩の場合は荷物が多ければ多いほど体力を奪われてしまう。体力の消耗は移動速度の低下に繋がり、それは生存率低下の要因になりかねない。
二人で相談しながら持っていくものを選んでリュックサックに詰め込んでいく中、リックが「ちょっと待ってくれ」と声を上げた。ニーガンは自分のリュックサックに缶詰を入れようとした手を止めてリックに顔を向ける。リックは不満げな表情でニーガンを睨んでいた。
「よく見たらニーガンの方が量が多くなってる。少し俺の方に入れるから中身を出してくれ。」
「別にこれくらい大したことないぞ。俺はそんなに軟弱な男に見えるか?」
リックは「そういうことじゃない」と頭を振って眉間のしわを深くさせた。
「荷物の量に差があるのは不平等だから荷物を渡してほしいんだ。」
リックの言い分にニーガンは「なるほど」と頷く。
二人の荷物の量に差があるのは不平等だという見方は間違いではない。そういった判断は当然であり、リックのような真面目なタイプは特にそのように考えるのだろう。
しかし、ニーガンはこの状態が一番良い形だと考えている。
「リックの言い分は理解できるが、俺は今の状況ではこれが一番良いと思ってる。」
「どういうことだ?」
訝しげに自分を見るリックの唇にニーガンは人差し指を押し当てた。
「よーく聞けよ。俺とお前を比較すると俺の方が体格が良い。そうなると持てる荷物の量にも差が出る。つまり、俺の方がたくさんの荷物を持てる。そうだな?」
ニーガンの話にリックは渋々といった様子で小さく頷く。
反論が来なかったことに気を良くしたニーガンはニカッと笑ってから説明を続ける。
「例えば、俺は荷物を十個持ててお前は七個持てるとする。それぞれが荷物を七個ずつ持った時、俺は三個分の余裕があるがお前は余裕なしだ。そういう状況を良いことだって言えるのか?俺はそういうのを不公平と言って、良くないことだと思うね。」
それを聞いたリックがハッとしたように目を瞬いた。具体的な説明によりニーガンが言いたいことを理解したようだ。
ニーガンはリックの唇から指を離すと先程の缶詰を自分のリュックサックに入れた。今度はリックがそれを止めることはなかった。
「さっきの続きだが、俺が荷物を八個持ってリックが六個持てばどっちにも余裕があるだろ。俺はその方が良い。お前はどうだ?」
「……その方が助かる。気遣ってくれてありがとう。」
感謝を述べるリックの声は先程までよりも小さい。顔を見れば、どことなく落ち込んでいるように見えた。
今度は何に落ち込んでいるのやら、とニーガンは苦笑を漏らした。
「リーック?今の流れのどこに落ち込む要素があった?」
リックは気まずそうにこちらに顔を向けてモゴモゴと口を動かす。
「自分の視野の狭さが情けなくなった。もっといろんな角度から物事を見られるようにならなきゃ、と思って。ニーガンはすごいな。」
ニーガンは羨望の眼差しを向けてくるリックの頭を撫で回しながら「バカだな」と笑い飛ばす。
「リックが間違ってるわけじゃない。単純に荷物を移動させるだけなら俺もお前と同じように考えたさ。今回は旅に持っていく荷物だから体力の消耗を無視できなかった。それだけのことだ。ほら、早く準備しろ。」
「ああ、悪かった。」
リックは一つ頷いて再び手を動かし始めた。ニーガンはそれを見遣ってから手元に視線を戻す。
その後はポツポツと言葉を交わしながら準備を進め、荷造りが終わるとそれぞれにリュックサックを背負い、武器の入ったバッグを掴んだ。肩と手にズシリと重みを感じる。
ニーガンはリックと視線を合わせ、揃って歩き始めた。果てしなく続く道の先にはアトランタの影も形も見えない。後どれぐらい歩けば辿り着くのか予想もつかなかった。
「先は長いな、リック。それでもお前は行くんだろ?」
ニーガンが問いかけたことに対してリックはしっかりと首を縦に振って「行く」と返してきた。
「だよな。まあ、ちょっと長めの散歩だと思って楽しめばいい。気楽に行こうぜ、気楽にな。」
「散歩というより遠足じゃないか?」
「そっちの方が合ってるな。じゃあ、遠足だ。」
遠足と呼ぶには命懸けで困難の多い旅になるだろう。それでもリックと協力し合えばどうにかできる。それはこれまでの旅の中で、そして特に昨日と今日で実感したことだ。
ニーガンはひたすらに前を見て歩き続けた。
舗装された大きな道路。大都市へと続くそれの片側には車の列が続き、その逆で反対車線には一台の車も停まっていない。この異様な光景に出迎えられたリックとニーガンは揃って口を閉ざす。
そして、避難所を探すために足を踏み入れた街の様子を見て会話を試みる意欲はますます失われた。
徒歩での旅の末にようやく到着したアトランタは既に荒廃していた。ビルの森の中に生き物の気配はなく、嘗ては数えきれないほどの車や人々が行き交っていたはずの大通りは見る影もない。動いているものといえば生者の血肉に飢えた怪物ぐらいのもの。軍隊によって守られ、避難民の救済の場所であったはずの大都市はとっくの昔に滅びていたのだ。
リックとニーガンは避難所となる大型の公共施設が集中するのは街の中心部だと考え、廃墟と化した街の大通りをウォーカーを倒しながら進む。
「どうにも変だな。」
リックの少し先を歩くニーガンが緊張を帯びた声で呟いた。
「ウォーカーが少ないことか?」
リックの問いにニーガンが振り返った。
「ウォーカーってのは人間が大勢集まってるところに多い。つまり、大都市ほどウォーカーが多いんだ。それなのに遭遇する数が少なすぎる。これだけ大きな街ならバカみたいに彷徨いてるはずだ。」
「どこかに溜まっているとか?」
「可能性は高い。油断するなよ。」
油断なく周囲へ警戒の眼差しを注ぐニーガンの忠告に頷いて答え、リックも周りに意識を向ける。
進んでいくうちに直進の道と左へ曲がる道が現れた。左へ曲がる道を見て、リックの脳裏に嫌な想像が過る。
──もし、曲がった先にウォーカーの群れがいたら?
己の想像にゾッとする。大都市でのウォーカーの群れの規模など考えたくもない。
気を取り直して周囲に視線を向けると道路に転がるドアミラーが目に留まった。これを使えば安全に曲がり角の先を確認することができる。
「ニーガン、待ってくれ。」
リックはドアミラーを拾いながらニーガンを呼び止めた。立ち止まったニーガンはリックが拾ったドアミラーを見て納得したようにゆっくりと瞬きをした。
「これを使って曲がり角の先を確認するから少し待っていてほしい。」
「任せた。」
リックは曲がり角に立つビルに近づき、身を隠しながら角を曲がった先をドアミラーで覗こうと試みる。何度も位置を調整した末に映ったのは無数のウォーカーが蠢く様子だった。
リックはドアミラーに映った光景を見て全身が凍りついたように身動きできなくなった。広い道路を埋め尽くすウォーカーの群れは悪夢と呼んでもいい。大都市の大通りをウォーカーが埋め尽くす光景は何かに例えようがないほど恐ろしいものだ。
リックは伸ばした腕を引っ込め、少し離れた位置で待機しているニーガンの元に急いで戻る。
ニーガンはリックの様子を見て事情を察したらしく、励ますように肩を叩かれた。そのおかげで少し体の強張りが取れた。
「この先は通れない。ウォーカーが集まってる。他の道から行こう。」
「そうなると路地裏しかないか……。狭い道ってのはそれはそれで危険だぞ。逃げ場がない。今まで以上に慎重に動け。」
「わかった。」
リックとニーガンは広い通りを進むのを諦め、ビル同士の間にある狭い道へ入り込む。路地裏からでも街の中心部に辿り着くことはできるが、慣れない街の入り組んだ道を進むことになるため時間がかかる。しかもウォーカーを警戒しなければならないので歩みは当然遅くなる。避難所を見つけるまでにどれほど時間がかかるのか全く読めない。
リックは自分の額に滲む汗が気温のせいなのか緊張のせいなのかわからなくなった。
リックとニーガンが路地裏に入ってから二時間ほどが経った。未だに街の中心部には辿り着いていない。
「ちょっと休憩しようぜ。疲れてきた。」
ニーガンがうんざりとした様子で提案したことにリックは素直に首を縦に振る。気のせいだと無視できないくらいに疲れを感じていた。
二人は近くにあったレンガ製の壁の前に座ってペットボトルの水を飲んだり、脚を軽く揉むなど思い思いに休憩する。その間に会話はない。余分な発声をするだけで体力を消耗するように思えてしまうほど疲れ切っていた。
視界を遮るものがない直線道路を歩くのと、立ち並ぶビルの間の狭い道を警戒しながら歩くのとでは疲労の差が大きい。ウォーカーの集団に取り囲まれる危険と隣り合わせの状態で長時間過ごすのは精神的に消耗する。
リックはウォーカーに埋め尽くされた大通りを思い出して小さく溜め息を吐いた。あの様子では避難所が無事である可能性は低いかもしれない。目指すだけ無駄なのかもしれないが己の目で確かめなければ諦められなかった。それに、他の避難所の手がかりが残されている可能性も捨てきれない。とにかく前に進むしかない。
リックは沈みそうになった気分を無理やり引き上げて立ち上がり、周囲を見回してみた。よく見てみればこの辺りは路上に落ちているものが他の場所よりも少ない。それはレンガ製の壁で囲まれた建物を中心にしているように思えた。
リックは壁から離れて全体を見上げる。
(壁に出入り口がある。そこから人が出入りしていてもおかしくない。それで周辺の散乱物が少ないのかもしれないな)
人が住んでいるならば避難所のことや避難民について何か知っているかもしれない。妻と息子の写真を見せて行方を尋ねるのも有りだ。
しかし、相手が良識のある人間だとは限らない。見知らぬ誰かを訪ねるのは以前ほど気軽に行うことができるものではなくなった。略奪者たちとの遭遇が想像以上に自分の心に影を落としていたのだと実感し、リックは唇を噛む。
立ち尽くしたまま正面の壁を睨んでいるとニーガンから「どうした?」と声をかけられた。リックは微笑と共にニーガンに顔を向ける。
「大したことじゃない。このレンガの壁を中心に道路が妙にきれいだと思って。……もしかしたら、ここに誰か住んでいるのかもしれない。」
リックの返事にニーガンは微かに眉を寄せて立ち上がる。そして、リックの隣に並ぶと同じように壁を見上げた。
「もし誰かがいたら街や避難所の情報を持ってる可能性はあるな。中に入るつもりか?」
「いや、迷ってる。どんな人間が住んでいるのかわからないから。俺たちにとって良い相手だという保証はない。」
「それは言えてる。少し様子を探るか?」
「そうだな……」
リックがニーガンに対して明確な答えを返す前に壁の入り口から銃を手にした男たちが次々と出てきた。周りを取り囲まれ、リックとニーガンは瞬時にそれぞれの拳銃を構えた。
男たちは銃口をこちらに向けて睨みつけてくるだけだが、その雰囲気はひどくピリピリしている。彼ら全員に強い警戒と緊張が見て取れた。下手をすれば些細なことで撃ち合いになるかもしれないので相手が行動を起こすのを待った方が良いだろう。
リックはニーガンを見て「何もするな」という意味を込めて首を横に振った。ニーガンは一つ頷いて無言のまま男たちを睨む。意図が通じたようだ。
やがて、一人の男が決心したように口を開く。
「お前ら、ここで何してる?何の用だ?」
リックはその男に顔を向けて拳銃を構えたまま答える。
「避難所に行きたくてこの街に来た。今は休憩していただけだ。すぐに立ち去る。」
「騙されねぇぞ。避難所なんてとっくの昔に壊滅してる。今更何の用があるってんだ?」
男から返ってきた言葉にリックは表情を曇らせる。やはり避難所は機能していないのだ。
落ち込むリックに気づくことなく男は言葉を投げつけてくる。
「本当は物資を狙ってるんだろ。他にも仲間がいるんじゃないか?お前らは偵察しに来た。違うか?」
「違う。他に仲間はいないし、俺たちは人を探しているだけだ。俺の妻と子どもだ。母親と小学生くらいの男の子が一人の親子連れを知らないか?」
「知るか!本当のことを言わないと容赦しないぞ!」
男は興奮している。これ以上刺激したくはないが、こちらの話に耳を傾けてくれないのではどうしようもない。
リーダーを出すように要求すべきか思案し始めた時、男たちの出てきた出入り口から新たな男が姿を見せた。その男は自分の仲間たちを見回して呆れたように溜め息を落とす。
「自分たちだけで対処できるって言うから任せたのに興奮してんじゃねぇ。落ち着いて対応できないなら下がれ。」
男の口振りと他の者たちが指示に従う様子から、新たに現れた男がリーダーなのだと判断する。
リーダーの男はリックとニーガンの顔を交互に見てからリックの正面に立った。
「人数を見ればそっちが不利なのはわかるだろ。死にたくなかったら下手なことをするなよ。」
脅しなのか警告なのか判断のつかない言葉にリックは怯まずに言い返す。
「俺たちがやられるにしてもそっちの何人かは殺せるかもしれないな。試してみるか?俺は遠慮したいが。」
リックの言葉に相手の男は苦笑しながら頭を振った。
「俺も遠慮したいね。それで、目的は?」
笑みを消した男は真っ直ぐにこちらを見つめながら尋ねてきた。その目が「嘘は許さない」と警告している。
リックは拳銃をホルスターに収めて敵意がないことを示し、制服の胸ポケットから折りたたんだ写真を取り出す。
「この二人は俺の妻と息子だ。名前はローリ、カール。騒動が起きた時、俺は二人と一緒にいられなかった。彼女たちが無事に家を出たことまでは掴んでいるが行方がわからない。もしかしたら避難所に来たかもしれないんだ。どこかで見かけたことはないか?」
リックが差し出した写真を男はジッと見つめてから首を横に振った。リックは「そうか、ありがとう」と告げて写真を胸ポケットに戻す。
その時、壁の向こうから「フェリペ、どこなの?」という声が聞こえてきた。年老いた女の声だ。
声が聞こえて間もなく、壁の出入り口から一人の老人が顔を覗かせる。彼女の姿を見た途端に男たちが銃を下ろしたことに驚き、リックは思わずニーガンと顔を見合わせた。
「フェリペ!早く来て!」
老人からフェリペと呼ばれた男は拳銃をしまいながら「どうした?」と慌てて駆け寄る。
「また喘息が起きたの。早く助けてあげて。」
「わかった。すぐに行くから中に戻ろう。」
男の返事に安心した表情を見せた彼女は顔をこちらに向けて瞬きを繰り返す。視線がリックとニーガンを行き来したかと思うとリックに向かって一直線に歩いてくる。
驚いたのはリックだが、慌てたのは相手のリーダーだった。
「おい、婆さん!外に出たらだめだって言っただろ。」
リックと対峙していた時の毅然とした態度とは異なり、困ったような呆れたような顔の男にリックは目を丸くした。
焦りを覗かせるリーダーには構わず老人はリックの目の前に立つと「保安官さん、お願い」と訴える。
「孫を捕まえないで。この子は優しい子なの。悪いことはしないわ。」
老人はリックがリーダーの男を逮捕しに来た保安官だと思ったらしい。必死に「孫を捕まえないで」と訴える彼女の傍らでリーダーの男はガックリと肩を落としている。恐らく、マイペースな彼女に普段から振り回されているのだろう。そう思うと不思議と親しみが湧いてくる。
リックは微笑みながら「心配しないでください」と老人に優しく話しかける。
「俺たちは人捜しをしていて、お孫さんに見かけたことがないか尋ねていたんです。彼は俺たちが捜している相手のことは知らないそうですが、とても親切にしてくれましたよ。ステキなお孫さんですね。」
リックの言葉に老人はとても喜んで笑顔を見せた。そして彼女はリックの手を握って「こっちへ来て」と歩き出す。
「あなたもお連れの人もたくさん汗をかいているから少し休憩していきなさい。無理はだめ。」
「いえ、そんなわけには……」
「いいの。お客さんなんて久しぶりだから嬉しいわ。」
リックは老人と手を繋いだままニーガンを振り返った。彼は面白がるような表情で頷く。
老人に導かれて中に入るリックの耳に「ギレルモ、いいのか?」と慌てる声が届いた。リックたちに銃を向けていた男たちの誰かだろう。その声に「通してやれ」と溜め息混じりに答えたのはリーダーの男だった。
リックは老人に手を引かれたまま中庭を通り抜けて建物の中に入り、ボイラー室を抜けた先の光景に目を瞠る。それぞれの部屋では老人たちが読書をしたりボードゲームに興じるなど思い思いに過ごし、廊下には介助者に付き添われて歩く姿もあった。清潔感のある室内の至るところから明るい声が響いてくるので、まるで夢の世界に居るように思える。
「……ここは老人ホームだったのか。」
すぐ後ろからニーガンの呟きが聞こえた。リックが振り返るとニーガンは周囲を見ながら目を細めていた。そのニーガンの呟きを拾ったのはギレルモだ。
「今は入所者と職員以外に、爺さんや婆さんを心配して訪ねてきた入所者の家族がいる。人手は多い方が良いから助かってる。」
ギレルモはリックの手を引く老人の前に回り込むと「なあ、婆さん」と声をかける。
「婆さんはフェリペを急病人のところへ連れて行ってくれ。俺は客の二人に話がある。」
「わかったわ。それじゃあ、お二人はゆっくりしていってね。」
彼女はリックとニーガンにニッコリと笑いかけてからフェリペという名の男に連れられて去っていった。
リックとニーガンはギレルモに案内されて事務室へ通される。事務室に入ったのは三人だけだ。
「老人たちがいるのに、こんなにもあっさり俺たちを中に通していいのか?」
リックが問いかけるとギレルモは苦笑しながら頷く。
「あんたの婆さんへの対応を見て、あんたがとんでもなくお人好しだってわかったからさ。そんなあんたを楽しそうに見てた連れの方も悪い奴じゃないと思った。だから入れたんだ。」
ギレルモの答えを受けてニーガンの顔を見ると、彼は素知らぬ顔で窓の外を見ていた。そのわざとらしさに思わず苦笑が漏れた。
リックはギレルモの方に顔を戻して本題を切り出す。
「ところで、俺たちに話があるというのは?」
「あんたの家族についてだ。」
ギレルモは改まったように腕組みをした。
「あんたの家族は街に入れなかった可能性が高い。アトランタは避難民を受け入れてたが、街の入り口を一つだけにして、その入り口で検疫を受けた奴しか中に入ることを許さなかった。一日に検査できる人数は多くなかったから、街の外で待機してる車の列はほとんど進まなかった。」
「つまり、遠くから来た避難民はかなりの長期間待たされたということか?」
「そうだ。そのうちに市内で感染が広がって避難民の受け入れどころじゃなくなったから、実際に街に入れたのは近くの町に住んでた奴らぐらいだ。」
その時、ニーガンが「リック」と声をかけてきたのでそちらに顔を向ける。
「入院患者の移送の話は感染がかなり広がってから出てきた。きっとお前の場合もそうだろう。家族の同意と署名がないと患者の移送はできない。そうなるとお前の家族の避難はぎりぎりの段階になってからだったはずだ。だから、お前の家族はアトランタに入れなかったと考えていい。」
ニーガンの意見にリックはしっかりと頷いた。
リックが入院していた病院は軍隊の拠点になっていたようなので患者の移送が始まったのは他の病院よりも遅かったはず。ローリの性格から予想すると自分の夫の安全が保証されるまでは避難しないと考えられるので彼女たちの避難は遅かっただろう。その上、リックが住んでいた町はアトランタから離れている。二人がアトランタに入れなかったと考えても問題はない。
リックが再びギレルモの方に視線を戻すと、彼は「向かうならCDCだ」と言った。
CDC──アメリカ疾病予防管理センターの名前が出てきたことにリックは驚く。避難民の受け入れを行うようには思えなかったからだ。それを察したようにギレルモが説明を添える。
「CDCが避難民の受け入れをしてたわけじゃないが、CDCを軍隊が守ってると聞いた。それなら何か援助が受けられるんじゃないかって、そっちに行く奴らも多かった。あんたの家族も行く可能性は高い。」
「そうだったのか。……君たちは行かないのか?アトランタがこんな状況だと暮らしていくのは大変だろう。」
リックが尋ねるとギレルモは視線を窓の外に向けて「考えたことはある」と答えた。
「車を取ってきて脱出しようかとも思ったが、年寄りたちに車での長旅は無理だ。だから施設に残って世話をすると決めた。」
「ご家族が入居しているのか?」
「いや、俺はここの守衛をしてただけだ。単なる守衛だった俺をみんなが頼りにする。どうしてだろうな?」
その言葉にリックは瞬きを繰り返した後、ニーガンと目を合わせた。ニーガンも呆れたような表情を浮かべながら「こいつ、本気でわかってないのか?」と口の動きだけでリックに話しかけてくる。
リックはニーガンと目を合わせたまま微笑む。
「それは、もちろん──」
そのように言いかけたリックの後をニーガンが引き継ぐ。
「ギレルモが頼りになる男だからさ。だろ、リック。」
ニーガンが飛ばしたウインクにリックは笑顔で頷いた。
「その通り。」
二人のやり取りを見ていたギレルモは一瞬目を丸くした後、楽しそうにクスクスと笑い出した。
「あんたら良いコンビだ。」
実感の込められた言葉にリックはくすぐったい気持ちになる。ニーガンとの仲を褒められて嬉しいような照れくさいような不思議な気分だ。
ギレルモは笑いが治まると真剣な顔付きに戻る。
「あんたら二人には悪いことをしたな。ここの物資を奪おうとする奴らがいるから俺も仲間たちもピリピリしてるんだ。」
「襲撃されたのか?」
「今のところは追い払ってるけどな。」
ギレルモの顔に過った憂いを見て、リックは決断した。
武器の入ったバッグを床に置いてその前にしゃがみ込むとニーガンも同じことをした。二人はしゃがんだまま顔を見合わせる。
「ニーガン、きっと俺たちは同じことを考えていると思う。」
そう言ってリックがニヤリと笑えばニーガンも同じように笑みを浮かべる。
「ああ、絶対に同じことを考えてるぞ。」
リックはニーガンといたずらっぽい笑みを見せ合ってからバッグの中身を取り出して事務机の上に並べていく。いくつかの銃と銃弾の詰まった箱を机に並べると、ニーガンの分も含めてそれなりの数になった。
リックとニーガンはそれぞれにバッグの口を閉めてから立ち上がってギレルモの顔を見る。彼は机の上に置かれた銃と銃弾を見下ろして立ち尽くしていた。やがて驚きと戸惑いの混ざった顔をこちらに向けたが、すぐには言葉が出てこないようだった。
「……これ、本当に貰っていいのか?」
慎重さを滲ませた問いに「取っておけ」と答えたのはニーガンだ。
「俺たちはここに留まってお前たちと一緒に年寄りを守ってやることはできない。その代わりだと思え。」
ニーガンに続いてリックもギレルモに銃を受け取るよう促す。
「これからも襲撃が続くなら武器が必要なはずだ。受け取ってくれ。そうだな……情報料。そういうことにしよう。」
「──助かる。ありがとう。」
ギレルモは感謝を告げると机の上にある銃の一つを撫でる。その手つきは優しくて丁寧なものだ。
武器はリックたちにとっても必要なものだが、数は十分にある。そして移動し続けるリックたちとは異なり、荒廃した街に留まるギレルモたちは毎日がウォーカーや略奪者との戦いだ。どれだけあっても武器は足りないだろう。だから、これで良いのだ。
リックは再びニーガンと顔を見合わせて満足げに笑った。
リックとニーガンはギレルモに武器を譲り渡した後、すぐに老人ホームを出た。陽が沈む前に街から出なければならないからだ。
ギレルモは武器の礼として食料と水を分けてくれようとしたが、これは丁重に断った。食料や水が不足すれば老人たちの体力低下や体調不良に繋がりかねない。彼らは少しでも多くの物資を備蓄しておくべきなのだ。ギレルモは申し訳なさそうにしていたものの、リックたちの思いを汲んで物資を押し付けるようなことはしなかった。
リックはニーガンが去り際にギレルモに耳打ちするのを目撃した。話を聞くギレルモの顔が次第に強張っていく様子を見て、話の内容が「誰もがウイルスに感染していること」についてなのだと予想した。ギレルモは硬い表情を浮かべながらもニーガンに対してしっかりと頷いたので、ニーガンの言葉を受け入れたのだろう。
リックは無事に街を出てからニーガンに「ギレルモに全員が感染していることを教えたのか?」と尋ねてみた。予想した通り、ニーガンは首を縦に振った。
「ああ、話した。信じられないような話だから話すか迷ったけどな。だが、一人でも知ってないと奴らが全滅するかもしれない。あいつだけでも知っておくべきだ。」
「彼は信じたか?」
「どうだろうな。拒絶はしなかったから頭の片隅には置いておくだろ。後はあいつ次第だ。」
「そうだな。」
リックは何度も頷いてから目の前に続く道に目を向ける。
リックたちと同様にギレルモたちの生活も先が見えない。物資が不足する不安は絶えることがなく、略奪者との戦いは休む暇なく続く。救いの手が差し伸べられることもない。もし今の生活に終わりが来るとすれば全員の死だけだ。
皆の命を預かるギレルモは何度も苦しい思いをするだろう。重圧に潰されそうになる時があるかもしれない。だからこそ願わずにいられない。
「彼らにはいつまでも無事でいてほしいな。」
リックが願いを口にすればニーガンも「俺もそう思う」と頷く。
「ギレルモたちみたいにガッツのある奴らがあんなにも残ってるなんて思わなかった。リックと出会うまでに出会った奴らは怯えるだけで自分では何もしようとしない奴ばかりだったからな。そんな奴らは全員ウォーカーに食われて死んだ。……自覚してなかっただけで、俺は人間ってものに失望してたのかもしれない。」
そう語るニーガンの笑みには虚しさが滲んでいる。ニーガンは自分に縋るばかりの相手でも守ろうとしたのだろう。彼は強い男だが、それでも限界はある。守り切れなかった悔しさや虚しさは未だに消えていないはずだ。
ニーガンにかけるべき言葉を探していると、ニーガンの笑みから虚しさが消えて喜びに変わる。
「だけどな、お前が俺に人間の底力ってものを見せてくれた。自分の力で道を切り開こうとするお前に出会って、一緒に旅をしてきたからギレルモたちみたいな奴らにも出会えた。お前には感謝してる。」
穏やかに語るニーガンは心から嬉しそうに微笑んでいた。
リックは特別なことをしているわけではない。ただ必死に生きて、家族を捜している。それだけだ。それでもニーガンの心に光を照らすことができたのだと思うと誇らしい。
リックは胸の高鳴りを落ち着かせるように己の胸に手を当てる。
「俺の方こそ感謝してる。ニーガンに出会えて良かった。」
改めて感謝を伝えるとニーガンは嬉しそうに目を細めた。
「改めて感謝し合うと妙に照れるな。何か笑える話、あるか?」
ニーガンはおどけたように言ってから視線を他へと移した。いつもと同じ笑みを浮かべているように見えるが、そこに照れが混じっていることに気づいてリックは小さく笑う。
その時、不意にニーガンが前方を指差した。
「なあ、リック。俺たちが向かう先は──CDCでいいよな?」
前方を指差したままニーガンはニッと笑った。リックはニーガンと同じ方向を指差して告げる。
「もちろん。ローリとカールを捜しにCDCへ行く。付いてきてくれるんだろう?」
そう問えばニーガンは力強く頷く。
「当然だ。」
頼もしい返事だ、とリックは口の端を上げた。
アトランタまでの道のりと同様、CDCに至るまでにも苦難が待ち受けているだろう。もしかしたら今まで以上の難題が降りかかるかもしれない。そうであってもニーガンと一緒に乗り越えていけばいい。
「ところで、ニーガン。とりあえずは野宿できそうな場所を探さないか?人捜しの前に寝床探しだ。」
リックの提案にニーガンは吹き出しながら頷く。
「確かに、そろそろそんな時間だな。よし、快眠できそうな場所を探すぞ。」
「任せろ」と言って自身の腕を叩くニーガンを見てリックは明るく笑った。
CDCを目指す前に、まずは今夜の寝床を目指す。意見が一致した二人は視線を交わらせて笑った。
To be continued.