大広間で、ただ一人 完成が近い安土の城。天にも届きそうなほど巨大な城は権力の証だ。その大広間には城の主が一人きりで座っていた。
安土城城主・織田信長。各地を平らげて力を蓄えた男は時の将軍をも飲み込み、今では朝廷にまで深く入り込んでいる。強大な権力を手にした男に人々は跪くが、信長の前に膝を折ることを拒んで抵抗を続ける者も少なくなかった。その代表格は本願寺や丹波で、遠方の毛利も抵抗勢力の一つだ。他にも信長に抗う勢力がいくつも存在することにより戦が続くため、「平らかな世」が来る日は未だ遠い。
抵抗勢力との戦いが続く中でも新しい城の築城に滞りはなかった。この城が完成した時、立派な城を見た人々は感嘆と共に「日の本一の見事な城だ」と褒め称えるだろう。安土城の完成によって織田信長という武将は誰もが認める存在になるのだ。──そのはず、だというのに。
信長は座したまま、相対する茶釜を扇子の先で軽く突いた。周りに誰かがいたならば信長の行動に目を丸くするか顔を青くしただろう。なぜなら、目の前にあるのは名物と称賛される平蜘蛛の釜なのだから。
平蜘蛛の釜を見つめる信長の脳裏に一人の男の顔が浮かぶ。それは、この茶釜を差し出してきた男。家臣である明智十兵衛光秀だ。
その顔が浮かぶと同時に投げかけられた言葉が次々と思い出される。
『城を美しく飾るだけでは人はついてまいりませぬ。』
『この平蜘蛛の釜ほどの名物は持つ者に覚悟がいると聞き及びました。いかなる折も誇りを失わぬ者、志高き者……心美しき者であるべき、と。』
『殿にもそういう覚悟をお持ち頂ければ幸いと存じまする。』
手厳しい十兵衛の言葉を思い出したせいで腹立たしさまで蘇り、思わず舌打ちが漏れた。
「……よくもまあ、あれだけ小賢しい口を利けたものじゃ。」
信長は忌々しげに吐き捨てて釜を睨む。
先日、松永久秀が所持していた平蜘蛛の釜の所在について尋ねた際に「知らぬ」と嘘を吐いた十兵衛は今日になって釜を差し出してきた。その顔に緊張と覚悟が滲んでいたので、主君を欺いた罪により斬られることを覚悟していたのかもしれない。
しかし、彼の口から飛び出したのは謝罪というよりも諫言の意味合いが強い言葉ばかりだった。信長に向かって「誇り高き者であれ。志高き者であれ。心美しき者であれ」と説き、「覚悟を持て」と諭してきた男に対して感じたのは強い苛立ちだ。
「わしに嘘を吐いた者の諫言など受け付けぬわ。信用できぬ者の言葉は聞けぬ。」
信長は再び込み上げてきた怒りを言葉に乗せて吐き出した。その低く這うような声を聞くのは釜だけだ。
裏切ったのは十兵衛である。主君である信長への忠義よりも謀反人である松永久秀との友情を選び、「平蜘蛛の所在は知らぬ」と嘘を吐いた方が悪い。信頼を裏切った相手からの諫言など心に響くわけがないのだ。
確かに、信長は今まで十兵衛を信用して頼りにしてきた。彼の意見を採用すると大抵のことが上手く進んだので頼らずにいられなかった。処罰を恐れず率直な意見を述べる人柄も好ましく、誠実な彼への信頼は誰よりも深い。それだけに、あの嘘が信長に与えた衝撃と失望は大きかった。単純に言えば信長の心は深く傷ついたのだ。
しかし、十兵衛は己の嘘によって信長の心が傷ついたとは思っていない。信頼を損なったことは理解しているだろうが、深く傷つけたとは考えてもいないのだろう。だから今までと変わらず真っ直ぐに諫言する。
憎たらしい男だ、と信長は唇を噛む。だが、その顔には次第に笑みが広がっていく。
微笑を浮かべる信長は平蜘蛛の釜に手を伸ばした。茶釜としての役割を果たすわけでもなく、ただ座しているだけのそれに触れると掌にひんやりとした冷たさを感じる。
釜に触れる信長の手はぺちぺちと釜を叩き始めた。その手付きは二条城の築城に使用した地蔵を叩いた時と同じだ。
「こんなもの、ただの茶釜じゃ。誇りだの志だの……これは単なる茶道具。それ以外に意味はない。」
信長は釜を何度も叩きながら笑った。単なる茶道具を有り難がり、みっともなく欲しがった己は誠にうつけ者だったのだと思える。
信長は釜を叩きながら「のう、松永」と炎と共に散った謀反人に呼びかける。
「十兵衛はわしを選んだぞ。一度はそなたを選んだが……結局はこうして平蜘蛛を差し出した。あの男が選んだのはわしじゃ。十兵衛はそなたではなく、この信長を選んだのだ。」
十兵衛と松永久秀が何を話したのか、詳しいことは何もわからない。追及したところで十兵衛は話したがらないだろう。そのため彼が嘘を吐いた理由も不明だ。
だが、理由などどうでもいい。重要なのは「十兵衛が信長の元へ戻ってきた」ということだ。信長以外の者を選んでも、それ故に嘘を吐いても、最終的に十兵衛自ら嘘を白状して平蜘蛛の釜を差し出してきた。それが信長にとって何よりも重要なことであり喜ばしいことだ。結局のところ、信長は十兵衛のことが好きなままだった。
満足するまで釜を叩いた後、それを布できちんと包み直すことなく木箱へ入れて蓋をする。もう茶釜に用はなかった。
信長は木箱を見下ろしながら、ふと思いついたことを呟く。
「……いくらほどになるか、今井宗久に聞くだけ聞いてみるか。それを十兵衛に教えるのも面白い。」
「平蜘蛛を金に換える」と告げた際の十兵衛の顔を思い出すと笑いが込み上げる。常に冷静な男が狼狽える様子は物珍しさもあって面白かった。
実を言えば平蜘蛛の釜を売るというのは本気ではない。あのように言えば十兵衛が焦ると考えただけのこと。嘘を吐かれたことに対するささやかな意趣返しだ。主君を欺いた罪に対する処罰をその程度で済ませたことに感謝してもらいたい。他の者であれば打首だ。
十兵衛が裏切りを詫びたいと望むなら傍に在れば良い。他の者には目も暮れず、ひたすらに自分だけを見ていれば良いのだ。こちらに背を背けることは許さない。帰蝶も、帝も、将軍も、皆が離れていく中で十兵衛は己に残された唯一。だから絶対に手放さない。
信長は一人だけでは広すぎる大広間で「次に十兵衛を呼び出す理由は何にしようか」と無邪気に微笑む。その笑みを目撃する者や楽しげな独り言を聞く者は、ただの一人もいなかった。
終