同じ胸の痛み この場から一刻も早く立ち去りたい。
その思いに身を任せた十兵衛は「御免」の一言も残すことなく主君の部屋を後にする。そして、織田家の屋敷の廊下を逃げるように歩いて門を目指した。常になく早足な男にすれ違う者が一様に驚いた表情を見せることも気にならない。それほどに胸が痛くて仕方なかった。
門に到着すると、待たせていた供の者たちが十兵衛の顔を見るなり青ざめる。
「殿、額の傷はどうされたのですか?誰がこのようなことを……!」
主が害されたと知った者たちは怒気と殺気を放つ。このままでは犯人を見つけ出すために屋敷へ乗り込んで行きかねない。
十兵衛は「落ち着け」と努めて穏やかな口調で諭す。
「信長様の屋敷で揉め事を起こすな。柱にぶつかっただけだ。大したことはない。」
「しかし、殿……」
「ぼうっと歩いていたわしが悪い。さあ、帰るぞ。」
納得できない様子の供の者たちを置いて歩き出せば慌てて後を追いかけてくる。慌てたことにより怒りは忘れたようだ。
明智家の屋敷を目指して歩く十兵衛は額の傷がじくじくと痛むのを感じる。出血しているせいだろう。だが、それ以上に痛むのは胸の方だ。
(あのように一方的に殴られ続けた経験は一度もなかったやもしれぬ)
信長に徳川家の問題について考え直すよう諫言しに行ったはずが、正親町天皇に拝謁したことを問いただされて扇子で激しく殴られた。額の傷は殴られた際にできた傷だ。
美濃で暮らしていた頃や、それ以降にも理不尽な思いをした経験はある。幼い頃は同じ年頃の子どもと喧嘩をして、成長すると年長の武士から絡まれた。その中で拳を交えたこともあったが、今日のように目上の相手から一方的に殴られ続けたことは一度もなかったように思う。初めての経験に対する衝撃と主君から折檻を受けたという衝撃の両方が大きく、未だに現実を飲み込めていない。
「申せ!」と怒鳴りながら腕を振り下ろした信長の姿を思い出すと上手く呼吸ができなくなる。それは恐怖というよりも悲しみによるものだ。
(わしの考えが甘かったのだろうか?他の者が殴られ蹴りつけられる姿を見てきたというのに……自分だけは大丈夫だと、自惚れていたのだろうか?)
そのつもりはなかったが、無自覚に自惚れていたのかもしれない。だからこんなにも胸が痛むのかもしれない。
十兵衛は痛みを和らげるために己の胸に手を当てた。胸に手を当てたまま、もう一度信長とのやり取りを振り返ってみる。
信長は十兵衛が正親町天皇と接触を持ったことを知っていた。それは信長が十兵衛を監視していることを意味する。監視を必要とするほどに信用が置けなくなっているということだ。
それは平蜘蛛の件を考えれば当然である。釜を差し出した時点で斬られなかったことが奇跡なのだ。十兵衛は信長から警戒されて見張られると考えなければならなかったのに、そのことが頭から抜けていた。「愚かにもほどがある」と自身を叱りつけたい気分だ。
徳川家康の呼び出しに応じたことは問われなかったが、知らない振りをしているだけなのかもしれない。そのように考えてしまうことに嫌悪を抱く。
(あれほどに殿を怒らせるぐらいなら話してしまった方が良かったのか?)
「帝と話した内容を教えろ」と迫ってきた信長は必死だった。普段の威圧的な態度だけでなく懇願も混じえていたことから、どうしても正親町天皇との会話内容を知りたがっていたのが十兵衛にもよくわかった。
しかし、どうしても話すことができなかった。
(帝が殿を不安視しておられると正直に話せば、殿のお心は深く傷つくだろう。だからといって再び嘘を吐くこともできぬ。……どうすれば良かったのだ)
蘭奢待の扱いの件で、信長は自分が帝に疎まれていると受け止めた。その状態で「信長が道を間違えぬよう見届けるように命じられた」と話せばどうなるか?信長がひどく傷つくことは間違いなく、その影響がどのように表れるのかを考えると恐ろしい。譲位の強行どころでは済まなくなるかもしれない。
もし帝という尊い存在を害すれば、味方の離反だけでなく朝廷や公家までも敵に回すことになる。全てが信長に向かって刃を向けるという最悪な状態だけは絶対に避けなければならない。
しかし、信長は譲位を早めることに決めてしまった。十兵衛が頑なに口を閉ざしたことが却って正親町天皇に対する不信感を煽ってしまったのかもしれない。
何もかもが上手くいかない。ただただ、信長との距離が離れていく。
深い悲しみが十兵衛の胸を抉り、痛みが強まった。思わず荒くなった呼吸に気づいた供の一人が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「殿、呼吸が荒くなっておられます。傷の影響があるやもしれませぬ。東庵先生に診ていただきましょう。」
それを聞いた他の者たちも「その方がよろしゅうございます」と口を揃えて言った。
十兵衛は主思いの者たちに苦笑を見せながら首を横に振る。
「大事ない。わしも歳ということだ。明日に備えて今宵は早く寝るとしよう。行くぞ。」
何事もないかのように告げて、織田家の屋敷を出た時と同様に供の者たちを置いて先へ進む。そうすると再び皆が慌てて追いかけてきた。
「お待ちください、殿!」と呼ぶ声に十兵衛は振り返ろうとはしなかった。
痛むのは肉体ではなく心なのだから、医者に診せても意味がない。
*****
十兵衛が無言で去った後、部屋に一人残された信長は座した場所から動けずにいた。
硬い表情を崩さない信長の耳に「失礼いたします」という声が届く。十兵衛との話が終わったことにより、部屋の前で控えていた小姓が中に入ってこようとした。
「待て。」
信長が止めると小姓は不思議そうな顔をして足を止めた。
「しばらく一人になりたい。そこを閉めて、わしが許すまで誰も中に入れるな。」
命を受けた小姓は「はっ」と返事をして後ろに下がり、音を立てずに障子を閉めた。それにより信長一人だけの空間が出来上がる。
その一人だけの空間に転がる扇子に目が留まった。十兵衛を殴りつけた扇子だ。
信長はふらっと立ち上がり、扇子が落ちている辺りまで移動した。そして足下で存在を主張するそれを奇異なものを見るように眺める。近くで見下ろしてみて、扇子の先端が微かに汚れていることに気づいた。
「十兵衛……」
扇子の先端を汚すのは十兵衛の血だ。信長が扇子を用いて激しく殴ったために十兵衛の額に痛々しい傷ができた。その傷を付けた際に血が付着したのだろう。
信長は崩れ落ちるように腰を下ろすと震える手で扇子を掴んだ。
己の扇子に十兵衛の血が付いている。その原因は自身にある。自分が十兵衛を殴りつけたから──十兵衛を傷つけたから血が付いた。その消しようのない事実に血の気が引く。
扇子を見つめる信長の顔が後悔と恐怖に歪む。
「このようなつもりではなかった。十兵衛を傷つけることなど……しとうなかった。」
扇子を手にしていると十兵衛を殴りつけた時の感触が蘇る。それに加えて彼の顔が痛みに歪む様子も、苦しげに呻く声も、激しい殴打に倒れ込む姿も、あの瞬間の全てが生々しく思い出された。
自分が殴りつけているのが誰よりも傍にいてほしい相手だと認識していても手が止まらなかった。激流の如く押し寄せる不安が信長を飲み込み、それが元で生まれた怒りを十兵衛にぶつけることしかできなかった。
先日、自分を疎ましく思っているであろう正親町天皇が十兵衛と密かに会ったという報告を受けた瞬間、信長の心は乱れた。「帝と十兵衛は自分のことを話していたのではないか?それはどのような内容か?」と考えると話の内容が気になって仕方なかった。そして今日、十兵衛本人を前にした途端に不安が急激に膨れ上がった。
──帝は自分の悪口を十兵衛に吹き込み、彼を自分から遠ざけようとしたのではないか?
その疑念は妄執なのかもしれない。勝手に不安がっている自分が愚かなのかもしれない。
しかし、頑なに話すことを拒む十兵衛を見て押し止めていた不安が決壊した。
「……十兵衛を奪おうとするのなら、そのような帝などいらぬ。」
信長は手の中にある扇子をきつく握りしめながら呟いた。
明智十兵衛光秀という男は驚くほど多くの人間と縁を結んでいる。こちらが予想もしていない相手と繋がっていることも珍しくなかった。だが、この国の帝にまで目を掛けられているとは考えもしなかった。
憧憬を抱いた相手であっても十兵衛を連れて行ってしまうことだけは我慢ならない。どうせ譲位することになっているのだから、それを早めて何が悪い。十兵衛が連れて行かれる前にあの御方には退いていただかなければ。
暗い目をしながら考えを巡らせる信長の脳裏に今度は別の男の顔が浮かぶ。
「三河の、徳川家康。」
忌々しげに名を呟いて奥歯を噛み合わせると、ぎりっという不快な音が鳴った。
家康の正室と嫡男の件が既に十兵衛の耳に入っているとは思わなかった。十兵衛は以前から三河のことを気にかけている節があったが、こちらが把握していないだけで家康と懇意にしているのかもしれない。あの男までも十兵衛を己の手許に置こうとしているのではないかと疑いたくなる。
そこまで考えて、信長は軽く頭を振った。疑い出せばきりがない。確かなことがわかるまで頭の片隅に追いやるべきだ。
そのように気持ちを切り替えようとしたところに猜疑心が囁く。
「十兵衛は……家康のような者の方が好きだろうか?」
すぐに激昂する自分とは異なり、あの穏やかで大人しい男の方が十兵衛と気が合うかもしれない。
一度考え始めてしまえば止まらなかった。次から次へと悪い考えばかりが浮かんでくる。
各地の武将を従えられない無能と思われているかもしれない。
家臣に裏切られてばかりの情けない主君だと呆れられているかもしれない。
将軍にも帝にも背を向けられる品のない男だと判じられたかもしれない。
「怒ってばかりだ」と疎まれているかもしれない。
暴力的な人間だと恐れられたかもしれない。
十兵衛は自分を嫌いになってしまったかもしれない。
「──嫌じゃ。」
呟いた声は呻くようなものだった。
「嫌じゃ、十兵衛はわしに背を向けてはならぬ。」
吐き出した声が震えた。
「なぜじゃ?なぜ上手くいかぬ?なぜ十兵衛はわしに笑いかけてくれぬのじゃ!」
叫ぶと同時に扇子を握る手を床に叩きつける。
「なぜじゃ」と繰り返しながらも答えは出ていた。今日のように怒鳴って殴りつければ笑ってくれるはずがない。
十兵衛と会う時は「今日こそは」と笑顔でいるように努めていた。それでも最後には全てを台無しにする。大切にしたいと望むのに壊してしまう。全てを破壊するという母から疎まれた部分は未だに治っていなかった。
信長は己を取り巻く全てを壊そうとするかのように床を殴りつける。殴りつけた手が痛んでも気にならなかった。痛いのは手よりも胸だ。
「十兵衛、わしに背を向けるな。頼むから……十兵衛。」
目から溢れた涙が頬を伝い、顎を滑り落ちて床に水溜りを作っていく。それでも信長は涙を拭うことなく十兵衛の名を呼び続けた。
この胸の痛みを消すことができるのは一人だけ。その唯一の人を遠ざけたのは信長自身だ。
終