十二国人の天帝に対する勘違い前置き この文章は小説「十二国記」について考察するものです。
deityとGodの定義について触れますが、あくまで小説の内容理解の手助けに用いるのみです。
この作品は実在のいかなる宗教・信仰をも否定するものではありません。
ご了承の上、拙論をお読みいただければ幸いです。
天帝≠God説の提案 天帝はいわゆるGodではない、と筆者は推測している。カミではあるが神ではないものだと。
おい日本語しゃべれとツッコまれそうなので、次頁以降順々に説明していきたい。
deityとGod 『神』という漢字が意味する存在には二種類あって、deityとGodと英語では表現される。
その区別はなかなか難しいのだが、なんとかその違いをこの章で解説してみようと思う。
まずはdeityから。
deityは多神教の神。スサノオとかオーディンとかゼウスとかが有名。
日本人的に一般的な神様はこちら。八百万の神々や諸々の英雄などもdeityに属する。
人間を美化したり拡張したもの、人と同じ存在を持つもの、巨大なヒトガタ、人間の延長線上にあるもの。それがdeity。
deityは「神」と書くより「鬼」と書いたほうがニュアンスが伝わるかもしれない。
「鬼」の字義には
・死者の魂。幽霊。亡霊。
・ひとがみ。神として祭られた霊魂。
・不思議な力があると信ぜられるもの。
・人に害を与えるもの。もののけ。ばけもの。(新漢語林より)
があり、deityのイメージと近いと筆者には感ぜられたためだ。
スサノオは海の鬼であり、オーディンは知識の鬼であり、ゼウスは雷の鬼であり、竜は川の鬼であり、付喪はモノの鬼であり。
いずれも「不可思議な力を持」ち、そのくせ「人間臭く」「人と同じ存在を持つ」。
deityはそういう、人間にとって身近な不可思議の存在を指す。
次にGodについて説明したい。
Godは一神教の神。クリスチャンやムスリムが信じているもの。
いわゆる全知全能の創造主、全てを創り誰にも造られない唯一、全権なる絶対者。
人間が調子に乗ってくると洪水起こしたりバベったりしてくるあの人。
人間とは全く隔絶した次元の何か。この世でたった一人偉い人。他のものはたとえルシファーでさえ彼の下僕に過ぎない。
Godを神という言葉以外で説明するのは難しい。
例えると十二国人にとっての小野不由美先生、みたいなもの。
人間には理解も想像もできない、干渉することも観測することもできないもの。
Godは被造物を大事に思っているので誰一人絶対に見捨てない。
大事な大事な自分の被造物助けるためなら、物理法則を無視して海開き(物理)くらいはしてくれる。
日本は生粋の多神教国家なので読者の方々は一神教の神をイメージしづらいと思う。筆者も説明もしづらい。
一番偉い、何でも知ってる、何でもできる、被造物たちを愛してて、被造物を助けるためなら世界のルールを平気で無視する存在ってことを覚えておいて貰えれば。
多神教の方を「鬼」、一神教の方を「神」と書き分けてもいいのだけど一々入力分けするのは面倒くさい。それに読んでいても頭が混乱しそう。
なので文中ではdeityとGodという英単語を使って区別していきたいと思う。
天帝のGod的な側面いわく、元初に九州四夷あり。
百姓条理を知らず、天子条理を知れどもこれを嗤いて敬うことなし。
天地の理を蔑ろにし、仁道を疎かにして綱紀を軽んずること甚だし。
風煙毎に起こりて戦禍万里を燼灰にす。人馬失われて血溝を刻み大河をなす。
天帝、これを愁えて道を解き条理を正さんとせんも、人淫声に耽溺して享楽を恣にす。
帝悲嘆して決を下す。我、いまや九州四夷を平らげ、盤古の旧にかえし、
条理をもって天地を創世し綱紀をもってこれを開かん、と。
帝、十三国を拓き、中の一国をもって黄海・蓬山となし、王母をしてこれを安護せしむ。
残る十二国に王を配し、各々に枝を渡して国の基業となさしむ。
(天勅抜粋)
天帝が「十二国を造った」のは恐らく本当。ここら辺はGodっぽい。
しかしこれ以外に天帝がGodっぽいことをしたという情報はない。無から世界を創ったとか最初に人を造ったとかそういう逸話が。
でも世界を作り直したという神話はGodにもあるし(ノアの箱舟)、ごく単純に天帝が「自分が最初に世界を創ったんだ」とは言い残さなかっただけかもしれない。
天勅から分かるのは「天帝が今の十二国と運用システムを作った」ということだけ。
「元初」以前の情報が皆無なのでそれ以上は不明。
天帝は十二国の創造神だろうと思う。ただそれだけでは天帝がGodかHighest deityなのかは分からない。
天帝の非God的な側面 作品中にある碧霞玄君の台詞から推量するに、天帝は全知でもなく全能でもなく、この世で一番偉い存在でもないと筆者は考えている。
以下その論拠を述べる。
1.天帝は全能ではない
「蝕は摂理の中にはないのじゃ。天の意志で起こることではないゆえ、天が自在に支配することは叶わぬ。そんなことができていれば、みすみす泰果やそなたを蓬莱に流してしまうようなことはなかった」
(『黄昏の岸 暁の天』下巻、碧霞玄君)
まずここ。「(蝕は)天の意志で起こることではないゆえ、天が自在に支配することは叶わぬ。」というこの部分。
これが天帝=deityではないのかと筆者が疑う最も強い根拠となる部分である。
なぜなら天帝=Godであるなら十二国で起こる全ての事象を支配しているはずだからだ。
世界で起こる良いことも悪いことも畢竟Godが起こしていることなので、Godは良いことも悪いことも完全に支配している。
そういうものだ。
しかし天帝は蝕を起こすこともできず、支配することもできない。
つまり天帝の能力、権能には限界がある。
2.天帝は全知ではない
碧霞玄君は「(蝕を)天が自在に支配することは叶わぬ。そんなことができていれば、みすみす泰果やそなたを蓬莱に流してしまうようなことはなかった」と言っている。
つまり天は今もって蝕をコントロールする方法を知らないのだ。
ということは天帝も蝕のコントロール方を知らないということになる。
であるなら天帝の知識には限界がある。
3.天帝は無限の権力を持っていない
「……天には理があり、この理を動かすことは誰にもできぬ。」
(『黄昏の岸 暁の天』下巻、碧霞玄君の台詞)
誰にも……天帝にも、と玄君のこの言葉は理解していいだろう。
とすれば天帝の権限も玉京の能力も有限なのだと玄君は言外に述べている。
だどするなら天帝は「この世とあの世に対するあらゆる権限権能を持つ人」ではない。
つまり天帝の権力には限界がある。
4.天帝は全てを支配する主人ではない
「天もまた条理の網の中、民に非道を施すことなど許されぬ──それだけは、天も地も変わりはない。」
(『黄昏の岸 暁の天』下巻、碧霞玄君の台詞)
「天もまた条理の網の中、民に非道を施すことなど許されぬ」というのも、天帝がGodであるならありえない。
特に「許されぬ」という点が。
なぜならGodは一番偉いから。「許さぬ!」なんてGodに言える存在は何一つないから。
ということは天帝は「何者にも影響されない宇宙で一番偉い人」ではない。
※ただし玄君の言う「天」が「玉京」なら天帝=Godとしても意味は通る。
玄君の言葉を「玉京もまた条理の網の中、民に非道を施すことなど(Godたる天帝の命により)許されぬ」と読むことができるので。
まとめると、
・蝕をコントロールできていないので天帝は全能ではない
・蝕をコントロールする方法を知らないので天帝は全知ではない
・天帝は天の理を変更する権限がないため「この世とあの世に対するあらゆる権限権能を持つ人」ではない
・天帝は理に縛られているため「何者にも影響されない宇宙で一番偉い人」ではない
以上のことから、筆者は天帝はGodではなく、deityであると考えている。
十二国人はほぼ全員無神論者 章題で言いたいことは言ってしまったので、後は手短にその論拠を述べていく。
「うん。いろいろまつる連中もいるな、確かに」
「普通はしないの?」
「しねえなぁ。作物なんてのは、天気がよくてちゃんと世話してりゃ豊作になる。天気がいいか悪いかは、天の気の具合のもんだ。泣いても笑っても降るときには降るし、ひでるときはひでる。願ったところでしかたねえもん」
(『月の影 影の海』下巻、楽俊と陽子の会話)
「だって、里木は子供をくれるもの。いくらお供えをして祈っても、豊作になるとは限らないし、災害から守ってもらえるわけでもないわ。――だから、里木が一番。どうしたってそうなるでしょ?」
(『風の万里 黎明の空』下巻、陽子と蘭玉の会話)
「送生玄君が子供のもとを捏ねて卵果にして、送子玄君が里木にそれを運んでくるの。蓬莱はそんなふうじゃないの?」
「ぜんぜん違うな」
陽子は苦笑する。
「蘭玉はそれを信じている?」
陽子が訊くと、蘭玉は笑った。
「本当のところは知らないわ。でも、卵果がなるんだもの。お願いした枝の卵果でないと絶対に捥げないのよ、不思議じゃない? ――だからきっと神さまが恵んでくださるのよ」
(『風の万里 黎明の空』下巻、陽子と蘭玉の会話)
「それは、玄君を介して天の意向を問う、ということなのですか?」
「そういうことだが」
「では──では、天はあるのですか!?」
尚隆は頷く。李斎は何者かに背後から襲い掛かられたような気がした。
(『黄昏の岸 暁の天』下巻、李斎の台詞)
これらの文章から推測するに十二国人は
・神への祈りに効果があるとは欠片も考えていない
・卵果の不思議とか王の不思議とかは目に見えて分かるので「それを可能にさせる何かの力」はあるのだろうと思っている
・天帝や玉京の実在は信じてない
のだろうと思われる。つまり無神論者。
「色んな不思議を可能にさせる何か」を信じてはいるのだろう。
だが、それは信仰というよりも「リンゴが地面に落ちることを可能にさせる何か」の実在を信じている、というニュアンスの方が近いように思う。
『本当のところは知らない』けれど目に見える不思議があるのだから『きっと神さまが』あれこれしているんだろう、というような素朴な認識。
それで深く考えないで済むようにするための方便かもしれないと筆者は思う。この世にはそういう不思議があるものだ程度の軽さ。
天帝が間違った王を選ぶこともありえる 天帝はdeityである、と先に述べた。そしてまた十二国人は天帝や玉京についてほとんど何も知らないことも述べた。
この2つが絡んで、十二国には大変な誤解と混乱が蔓延していると筆者は論じたい。
その大変な誤解と混乱を名付けて「なぜ麒麟は昏帝を王に据えたのだ」問題。
この問題については斡由が分かりやすく論じてくれているのでそのまま引用したい。
「わたしは事実を述べているまで。麒麟は万民を度り、最良の者を玉座に据えるという。では、ならばなぜ梟王などを登極させた。真に天帝の意ある奇蹟の技なら、そもそも最初から決して道を誤らぬ者を玉座に据えればよろしかろう。天命といい麒麟の選定というが、選んだ王が事実最良である保証がどこにある」
「──卿伯!」
「そもそも天帝というが、天帝とはいったいどちらにおられる。諸神は悪を雷で討ついう。ならば麒麟が病むのを待たずとも、王が道を誤った瞬間に雷で打てばよろしかろう」
驪媚は血相を変えた。
「なんという──畏れおおいことを!」
「麒麟は最善の王を選んだのだというのなら、その証を見せていただきたい。天帝なる方がおられるのなら、連れてきてはもらえますまいか。わたしは、はっきりと申しあげる。天帝なぞおらんのだ。いたとしてもそんなものは必要ない。不遜だというのなら、いまここで雷罰を下していただこう」
(『東の海神 西の滄海』、斡由の主張)
事実から言えば玉京は実在するので斡由の主張は誤っている。
しかし十二国人の抱える深刻な疑問を明瞭に言語化できており問題が把握しやすい。
全てを見通す天帝が選ぶ王がなぜ愚王であったりすることが実際にあるのか。
なぜ王が道を過ち後戻りができなくなった時速やかに王を殺さないのか。
そもそも天帝は本当に最良の者を王に選んでいるのか。
これについては様々な意見があり未だ答えはない。
しかし筆者は今まで展開してきた論に基づき自分なりの解答を提出したいと思う。
天帝はdeityである。
deityは間違いを犯す存在である。
ゆえに昏君を王として選定することが十分にありえる。
つまり天帝に選ばれたからといって王が国内最良の者である保証にはならない。
つまり章題通りの結論である。陽子の結論と似たり寄ったり。
陽子の考える通り、天帝は王が官吏を選ぶように一人ひとりを(勝手に)査定して、その結果王として働けそうな人材を王として登用しているのだろうと筆者は考えている。
人間より遥かに認識力や判断力のあるdeityが判断するのだから、人間が選ぶよりは良い王になる可能性は高い。
しかしあくまで可能性であって確定事項ではないだろう。deityは全知ではないから。
けれども十二国人は天帝が間違いを犯すはずがないと考えている。
地の文にて『天帝の威信を疑うことはすなわち、世の成り立ちを疑うこと』(『東の海神 西の滄海』)とある以上、十二国人の一般的な認識とはそういうものと考えてよいだろう。
疑えない威信――Godの威信、と読み替えることができる。
deityに過ぎず、間違うことのある天帝を十二国人は絶対者のGodだと誤解しているのだ。
間違いを犯す存在に間違わないことを期待すればお互いに苦しいだけ。天とて間違いを犯すものだと知っていた方が天・人共にお得である。
とはいえ「過つことのない天意」が選ぶ王だからこそ権威があるのであって、天が時々王を選び損ねるなどと民衆に知れたら結構な大騒ぎになる。
陽子の見いだした「天意非無謬説」は、そんな訳で割と十二国を揺るがす説である。どうなるやら。
おまけ1_胎果組は多神教徒 陽子、尚隆、六太、蒿里は全員日本生まれ日本育ちなので間違いなく多神教徒。証拠を2つ。
「もしも天があるなら、それは無謬ではない。実在しない天は過ちを犯さないが、もしも実在するなら、必ず過ちを犯すだろう」
(『黄昏の岸 暁の天』下巻、陽子)
「天を当てにしてどうします?助けを期待して良いのは、それに所有され庇護される者だけでしょう。戴の民はいつから、天のものになったのですか?」
(『黄昏の岸 暁の天』下巻、蒿里)
定義上Godは「実在する無謬の存在」で、「全世界の全てを所有し庇護する存在」。
しかし陽子は「神がいるならそりゃ間違いの千や二千」みたいなことを言い、蒿里は「戴の国民は神のものじゃない」と言い。
つまり彼らの持っている認識は「神=deity」であると考えられる。
おまけ2_王の奇跡は箔付け用 前章で述べたとおり、十二国人は基本的に天帝の実在を信じていない。しかしシステムとして天は民衆に天与の王威を認めさせなければならない。
民衆が王に権威を認めなければ権力は成り立たず、王は国を治める権利を失うからだ。
「王様は偉い」から民衆はその「偉い人」の言うことを聞く、聞かざるを得ない。そうやって王は民衆を統制する権利を得る。
それが王権というものだし、だからこそ現実の歴史において王は自分の権威付けに必死だった。
そのために頻繁に用いられた論理が「神が選んだ人だから」である。
現実の地球、特に近代以前においては大体の人が何らかの神を信じていたのでこれは有効だった。
しかし十二国人はいかなる神をも信じていない。なら天はどうすればよいのか。簡単なこと。
目に見えないものは信じないというなら、目に見える奇跡を起こしてやればよいのである。
民衆が基本的には天帝の実在を信じていないからこそ、天は王にああも多くの権限を与えているのではないかと筆者は思う。
無神論者に神授の王権を認めさせるための方便としての奇跡の大盤振る舞い。
登極するだけで災害が減り郊祀を行うだけで気候が整うなど、目に見える奇跡を数々起こすことができる王を十二国人は崇めている。
現実に起きる事柄しか信じない十二国人の支持を得るためにはひどく効果的な箔付けであると思う。
結果として民衆が王を信奉こそすれ天を信仰しない状態が続いているにせよ。
とはいえ王の数々の奇跡も、民衆が天の実在を知らないなら王権の権威付けとしては弱いと筆者は考える。
王の奇跡も麒麟の選定もすべては天の権威を借りて為されるもので、そもそもの権威の元である天への信仰が薄ければ王の権威もそれだけ薄くなるからだ。
天帝を信じていないのに神授の王威を信じ尊ぶ。それが十二国の実情ではあるが根本的におかしい。
そのために李斎の台詞のようなとんでもない歪な認識が生じる。
『では、天はあるのですか!?』
これを一般人が言うなら問題はあるが事態はそれほど深刻ではない。
だが李斎は首都州の州将軍だ。アメリカに例えればワシントンD.C.の州兵総監に当たる。
州兵総監が「では、本当に大統領選挙は実行されていたのですか!?」と言うようなもの。おかしすぎてどこからつっ込めば。
なら李斎は今まで何の権威に頭を下げ、何の権威を代行して民衆を治めていたのか。
こういった民衆の天に対する無知と王の権威に対する盲目性を理解している王と麒麟は、多分少ない。
「この世には天意があるという。真実俺が天命のある王なら、謀反など成功すまいよ。あえて天意を試そうというなら好きにするがいい」
「主上は天命のご威光を信じていらっしゃるのでございますね」
信じるもなにも、と尚隆は苦笑した。
「玉座にふんぞり返っている以上、俺が天意を疑うわけにはいくまい。天意などないと言ってしまえば、そうやって頭を下げているお前たちの立場がなかろうが」
「さようで……ございましょうか」
(『東の海神 西の滄海』、尚隆と白沢の会話)
おまけ3_天意非無謬だと気付かれるとヤバい「儂は王の器量ではなかったのだろうよ」
塙王は淡々と言う。表情の欠落した声は、ひょっとしたら彼がすべてをあきらめているからかもしれない。
「おまえも天も王を選び損ねたのだ」
(『月の影 影の海』下巻、塙王と塙麟の会話)
天帝がdeityで間違いを犯す存在で時々は王を選び損ねるとしたら塙王の台詞は的中していることになり、大分悲しいことになる。
初めから尚隆や櫨一家に叶わない器量なのに王に選ばれてしまった可能性を思うと、何かしら切ない。
また阿選が「天は間違いを犯しえる」ことに気付いていたかどうかも気になる。
阿選はかなり詳しく天の理を理解して事を起こしたように見えるので気付いていたと思うが。
蒿里が王を選び損ねた可能性に気付いたなら、自分の方が実は王に相応しかった可能性に気付いたなら、しかしそれを証明する手立てがもう何一つないことに気付いたなら。
これはもう正気のまま狂うしかない。狂って天に中指立てるしかないのではないか。
阿選が戦いを挑んでいるのは恐らく天帝や玉京なのだと筆者は思う。正常な方法では決して驍宗=天に勝てないから異常な方法で。
天に喧嘩を売っているなら阿選が国を積極的に滅ぼしているのも個人的には納得が行く。
そして阿選は実質勝っていた。陽子の横槍が入らなければ阿選は天の条理と驍宗に勝ち越したであろうと筆者は思う。
なにせ玉京は驍宗を見捨てるつもりであったようだから。