桜襲 蛟の沼の水面は桜色の膜で覆われ、時折波打つ水面とその膜の連動はまるで沼が生きているように見えるものだった。
蛟はそれを「死骸の波」と呼んだ。桜の死骸が、自分の棲家である沼を覆うと。蛟は骸を忌避すべきものとは捉えていなかったが、この時期は水面に顔を出す事が少なかった。この様を見物する人間が沼を訪れることが多くなるからだ。この季節は九尾が沼に来る事も少ない。それは矢張り、満開の桜とこの沼の蠕動(ぜんどう)を見物にくる者が増えるからに他ならない。季節の移ろいは二人にとっては愛しいものに違いなかったが、花見は人の呪いだと感じていた。人間の桜に対する執着は凄まじい。
蛟と九尾はじぃっと桜の季節が過ぎるのを待った。九相図が描き表すように、瑞々しかった花弁が茶色く変色し、葉脈が浮き出て透けて水や土に融けてゆくのを待った。
九尾が蛟の沼を訪れたのは、人の姿が見えなくなった葉桜の頃であった。最後にここに来たのは花が咲く少し前だったから、そんなに時間は経っていない。経っていないのだが、九尾はもう何年も逢っていない者に会いに行く気分であった。長い時を生きる者にとっては、たった数週間なぞ瞬きするのに等しいようであるが、九尾にとってはそうではなかった。
夕日が周りの景色を変え始める刻限、九尾がいつものように蛟の沼の楓の樹の下へ行くと、そこにはぐったり座り込んでいる者がいた。赤い着物に白い着物を重ねて着ている黒髪の女が、青白い足を投げ出していた。まるで凌辱を受けたかのように見えて九尾は思わず走り寄る。
「てめェか」
走り寄る九尾を見上げたのは、蛟だった。
「???」
九尾はいつもと様相が違う蛟に戸惑い、言葉が出なかった。いつものキッチリと着こまれた浅縹色の着物ではないし、雰囲気がまるで違ったからだ。
「なに、何かあった?」
蛟はだるそうに九尾を見上げていたが、視線を自分の棲家に向けた。
「っていうかしまいなさいよ、それ…」
九尾に足の事を言われたのが判ったのか、蛟は着物を手繰って足を収めた。そして袂を探ると、どうやって入ってたと訊きたくなる長さの煙管を出し、一撫でする。それと同時にふわりと紫色の煙が出た。いつもの手品のような所作に九尾が見入っていると、蛟は煙管を吹かしながら
「人間の目から見たらこれは美しいんだろうかって、暫くこの姿で過ごしたよ」
蛟の視線の先には、少しだけ桜の残骸が残った沼が広がる。
「人間の真似事をして花見ですか?」
「所詮、俺は俺だ」
ククっと蛟は笑った。結局よく判らなかったのかもしれない。
「てめェだって、そうやってるとまるっきり人間に見えるが…」
舐めるように蛟は九尾を見上げた。九尾は人間のフリをして人間の社会で暮らしたりもする。九本の尻尾も今は完全に隠している。九尾は殆ど無意識に、蛟の横に屈んでいた。先程よりもずっと近い距離で蛟の顔をまじまじと見つめた。いつも見ている蛟の顔と少し違っていた。肌の色は白すぎだが普段の蛟からしたら血色というものを感じるし、鋭い目元は若干優し気になっている。唇の色は紅梅色でいつもの色よりずっと人間の色に近い。妖艶で近寄りがたい美しさだったものが、生々しく目の前に実る果実のように見えた。
「どうなんだ、人の気持ちは分かるか?」
映したものが見え難かった薄い色の蛟の眸は、今ハッキリと九尾を映す濃い色になっていた。九尾は蛟の顔に恐る恐る触れる。いつもだったらとても触れることは出来ない。蛟から触れることはあっても、こちらから触れることは出来なかった。ただの思い込みかもしれないが、九尾はずっと自分は蛟に触れてはならないと、触れたところから蛟が壊れてしまう、焼けて灰になってしまうと思っていた。
「これは人間の肌?」
弾力があって、暖かい。
「真似事だ」
蛟が想像する人間の姿、なのだろう。そう言った蛟は目を伏せる。重そうな黒い濃い睫毛が頬に影を落とす。頬に朱が散ったように見えるのは、木々の間を抜ける傾いた陽の色が届いたからだけではなさそうだった。九尾の心臓が九尾を叩く。もっと触れてみろと叩く。九尾が顔を撫でる間、蛟は目を閉じていた。
「お前のは真似事じゃないんだろう」
蛟は九尾が人間と交わることが出来るのを知っていて、人間を自分より理解しているのだと思っていた。
「てめェの手は気持ちがいい」
九尾は蛟が隠した足を着物の上から撫でた。そして自分で隠せと言ったのに、着物をまた剥いだ。蛟は閉じていた目を、カッと開いて九尾を見つめた。
「見せて」
「何を」
「どこまでお前が人間を知ってるか、見せてみろ」
露わになった左足を撫で摩る。
「俺は、骸しか知らない」
蛟がそう囁く。桜の骸がこの沼を埋めるように、この沼は人間の骸しか知らない。
「でも、生きてる人間みたいにあったかいよ、お前」
九尾の手は、ふくらはぎから膝を通って太腿へ、そして足の付け根に触れていた。蛟は先程よりも鋭い眼差しで九尾を見ていた。触れるのを拒否するというよりは、別の事が気にかかっている様子だった。
「あたたかい」
九尾の手は、下腹部の叢を自身の手触りとどう違うかと比較しながら撫でていた。自分のは九尾狐ということで、人の姿でも狐の毛に近いのかもしれない。その下に実る物にも触れる。蛟の身体が揺れた。九尾が蛟の顔を見ると、九尾は薄く唇を開けて自分の物に触れる九尾の手を凝視しているようだった。目元がさっきより赤い。
蛟のそれは、自分のとも人間のものとも大きな違いはなかった。普段の蛟の下半身は恐らく腰から下が蛇のように鱗に覆われていて、生殖機能や生殖器というものも人間とは違いすぎるだろう。そもそも、物の怪・妖怪・化け物、時には神とされる自分達に生殖などはそれ程重要ではない。神代ならまだ判るが。
弄っているうちに、蛟の陰茎は人間のものと同じ反応を示す。茎だけではなく袋の方も触る。蛟は死体となった人間からこの形を学んだのだろうか。それなら先が濡れてくるのも知っているということになる。これは死体から学べるものではない。
「銀時」
蛟は、九尾が人間の姿をしている時の名を呼んだ。そして白い手で九尾の着物を掴む。九尾も今日は白い着流しを着ているだけなので、二人は遠目には真っ白だった。行為自体は淫らとしか言いようがないが、どこか神聖な儀式にも見える。
蛟は女の姿になれば良かったと後悔していた。どうせなら、もっと九尾が気持ちいいようにしてやれば良かったと。そのうち自分が今どういう格好をさせられているか判らなくなって、今まで感じた事のない気持ちや感覚を覚えた。気が付いた時には九尾の太腿を跨ぐように座り、抱き合いながら九尾を受け入れていた。作り物の身体だったはずなのに、体液が吹き出す。死骸だらけの沼に二人の種が散る。実を結ぶことはないからこれもやがて死骸となる。蛟は九尾の肩に頭を預けて涙を流すままにしていた。快感なのか、哀しみなのか、蛟自身には何故流れるのか判らない涙だった。これは人間にしかない器官が働いているのだろうかと、ぼんやり考えた。
九尾は桜色に上気した蛟の身体を、桜襲ごと抱き締めた。何故蛟がこの格好をしていたか九尾には判らなかったが、これは昔の人間がやっていた着方だった。赤い着物の上に白い着物を重ねたり裏表が赤と白の着物で「桜」と称する人間の考え方には成る程と関心するばかりだった。現代では着物はあまり着られなくなったし、このような思考による色合わせで服を着る習慣が少なくなってきている。
人間を知らないと言った蛟の方が、きっと今の人間より人間を「覚えて」いるのかもしれない。水辺にやってきた人間達のことを。その人間達は生贄であったり、死ぬために沼を訪れた者達だったのだろう。九尾の方が人間を知っていると蛟は言うが、時々人間の中で生活する九尾よりも一人一人鮮明に「覚えて」いるのではないか。そう考えると九尾の中で金属が擦れて高い音を出すのを聞いたときのあの不快感が湧いてきた。蛟が桜襲を着たことも、興味がなさそうに見えて本当は桜が散っていくのを名残惜しんでのことかもしれないと、九尾はそれすら面白くないと感じる。
厭なのだ、とても。蛟が何かに心奪われることが。
蛟も同じだった。
九尾は陸を何処までも一人で行ける。狐の仲間が見つからなければ人間とも生活出来るし、恋も出来る。狐の妖怪は人との間に子を成す者もいる。この事が頭の中をよぎる度に蛟は耳の中でうわんうわんという羽音のようなものを聞いて気が塞いだ。どうしようもないから、唯塞ぐだけだった。沼から動けない自分は、一人が合っていると自分に言い聞かせる。九尾はここに縛り付けられない。いつでも何処でも、好きなように行き来出来る者を一か所に留めておく術等ない。
陸の者と水の者の隔たりは目に見えるよう。
しかし今は九尾と蛟は繋がっている。普段は陸の者と水の者という区分がはっきりと分かれていて、気軽にお互いの領域に入っていくことがないけれど、人間の真似事をお互いにしている今だけ。
九尾も蛟も、行為の最中に自分の痕を残すのを忘れなかった。お互いの身体に吸い付き、噛んだ痕。引っ掻き傷。いつか消えるものだけれど、せめてこれが疼く間だけは。
既に陽は落ちて宵が訪れていた。薄闇に沈んでいく沼の辺で、桜襲は花弁を落としながら揺れていた。
[了]