座る男 秋晴れの、空を高く感じる日の午後。銀時は一週間ぶりではあるが、いつものように高杉の住む家へと行き、いつものように高杉の部屋へ行く。しかし部屋はいつもの光景とは少し違っていた。見覚えのない生き物が見た事もない座椅子の上にいた。
白い猫。
猫は柿渋色の古い座椅子に丸くなって寝ている。警戒心なんてまるでなく、銀時がどかどかと足音立てて歩いているというのに、目を覚ます気配すらない。置物ではないかとよく見てみたら、呼吸に合わせて身体が上下しているのが確認できた。正真正銘生きた猫。余り若くなく年がいってる感じがした。痩せて骨ばっていて、所々毛が薄かった。
勝手に入ってきたのかと、銀時は開けっ放しの縁側を見た。秋が深まり、庭の木々はすっかり色付いていた。毎日掃除しても枯れた葉が庭を覆う季節。今日は天気が良くて空気も乾燥している。番いの蜻蛉が空を行きつ戻りつしている穏やかな日。ここの主は姿が見えないが散歩にでも行ったのだろうか。
ナァーン
か細い声が、まるで話しかけるように聞こえた。振り向くと、さっきまで丸くなっていた猫がちょこなんと座椅子に猫らしい行儀の良さで座っていた。
ナァァン
金色に緑がかった瞳には銀時が映る。あきらかに銀時に向かって話しかけている。
「何か御用でも?」
あまりにも人間に慣れた様子は飼い猫の可能性が大である。そう言えば首に何かついている。よく見ると赤い首輪に木製の鈴が付いていた。鈴は控えめな音でコロンと鳴った。
「あぁ、丁度良い所にきたな」
縁側から声がした。銀時は振り返らずにその声に答える。
「猫に言ったんですー」
「猫とお話か?」
高杉は沓脱石の上で草履を脱いで縁側から上がってきた。高杉は猫がいるのを知っている風だったので、勝手に入ってきた猫でない事が銀時には判った。高杉は小さい笊を持っていた。裏庭のギンナンか栗でも拾ってきたのかもしれない。
「猫飼うの? ちゃんと最後まで世話できる? 結局お母さんが世話するパターンになんないよね? これ」
「誰がお母さんだよ…」
「それとこの座椅子は? 通販で買ったの? それにしちゃ古ぼけて…」
部屋にスッと入ってきた高杉の足元に、白猫は体をすりつける。これは昨日今日招き入れた感じがしない。
「え?いつから? いつから飼ってんの?」
「飼ってねェ、預かったんだ。飼い主が危篤だそうだ」
「……」
高杉が笊と火箸を、銀時の方に押し付けてきた。笊の中身はやはりギンナンだった。きっと茶わん蒸しでも食べたくなったんだろう。笊の中のギンナンはそれ位の量だった。ギンナンは食べ過ぎると毒になると聞くが、これを食べ過ぎる者はそういないと銀時は思った。
「医者がいただろう、村外れにある庵に住んでた。その医者の猫だ。座椅子もその医者が書き物する時に使ってたやつだってよ。殆ど猫が占領してたらしいが」
銀時の頭の中ではグルグルと聞きたい事が渦巻く。飼い猫を預かる程の知り合いがいた事も知らなかった。
「猫は危篤の事知ってんの?」
笊を受け取りながらの銀時の問いに、高杉はふっと息を吐いた。まるで人間みたいな扱いをしていることに笑ったつもりだったらしいが、溜息にしか聞こえない。
「鈴って名前なんだと。…さぁなぁ、気付いてるかもしれねェ」
白猫、鈴は高杉だけではなく、銀時の足にも体をこすりつけてきた。銀時は猫の側にしゃがむと痩せて固い身体を撫でてやった。鈴は気持ちよさそうに銀時の掌に頭を擦り寄せた。
その夜はとても静かだった。何もかもが息を潜めているような夜。夜は何かを待っているように、静かだった。
一つの布団で横になっている銀時と高杉の間に、鈴は潜りこんできた。一応猫のベッドも預かっていたのだが、そこでは寝るつもりはないようだ。
高杉が鈴の痩せた体をゆっくり撫でる。鈴の長い尻尾は銀時の手首にくるんと巻き付いていた。部屋の常夜灯の橙色が人間と猫を浮かび上がらせる。誰も、もう寝ようと言わなかったし、眠る気配もなかった。
夜が深くなった頃に、鈴が閉じていた目をパチリと開けて起き上った。座椅子の周りを落ち着きなくクルクルと回りはじめる。そして一旦ちょこんと座って、ナァンとか細い声で座椅子に向かって鳴いて喉を鳴らす。
「どうした? トイレ?」
銀時が恐る恐る聞いた。鈴は優雅に何かにすり寄るような仕草で障子の前まで行き、障子を開けて欲しいとばかりに手をかけた。銀時はそっと障子を開けてやる。鈴は縁側の雨戸にも両手をかけた。
「そこも開けろってか?」
そう言ってすっかり滑りの悪くなった雨戸をガタガタと開けてやる。外に飛び出した鈴は、白い身体を闇夜に溶けさせた。
コロンと鈴の音を残して。
「おーい…鈴さーん…?」
夜の闇からは何も返事はない。家の中から漏れる僅かな灯りは何者も浮かび上がらせなかった。銀時は耳に手を当てて注意深く音を拾う仕草をした。そんなお道化たポーズでもとらないと震えそうだった。
「銀時」
高杉がそっと銀時の名を呼ぶ声に、ビクリと体を強張らせた。
「あれってまさか…だよな、座椅子の所に…」
銀時は鈴が消えて行った闇に向けて呟いた。
「銀時、戻ってこい」
高杉に呼ばれて、茫然としたまま銀時は部屋の中に戻る。足先が酷く冷えていた事に気付き、足指をもぞつかせる。高杉は布団の上から一歩も動いておらず、横になったまま座椅子を見つめていた。
「……」
銀時もチラリと座椅子を見た。だが直視出来なくて、視線が泳ぐ。
「銀時、来い」
高杉が上目遣いで、銀時を見ながら自分の横の空白を指差す。今まで銀時が横になっていた場所は皺が人型に寄っていた。高杉に言われた通り、銀時は高杉の側に再び横になる。
「もう誰もいねェよ」
高杉の声だけが、部屋の中に静かに響いた。
「ここには、俺とお前しかいない」
二人、横に並んで。たった二人。高杉の言い方は銀時を安心させる為に言ったのではないようだった。
「鈴はもう戻ってこねェだろうな…」
高杉がそう言ってそっと目を閉じる。銀時には、高杉がもう眠そうに見えた。銀時はそっと、高杉の左の瞼を撫でた。潰れてしまった目を。それから右の瞼もそっと撫でる。瞼の下で眼球が動く感触がした。
「本当はテメェがくるまでは鈴も大分弱ってたんだ…」
あの座椅子に座って猫との日々を過ごした医者。
医者はさっきまでその座椅子に座って居たのかもしれない。大の男が一つの布団で二人横になっている姿はさぞ奇異に映った事だろう。鈴が間に入ってこなければきっとセックスをしていたと思う。一週間会わなかった分とばかりに。そんなものを目撃してしまったら気の毒だ。銀時は幽霊に対する恐怖をそんな滑稽な想像にすり替えて紛らわそうとした。
ふっと。
高杉が、微笑んだ。まさか同じ事を考えてたんじゃあるまいな、と銀時は高杉の睫毛をパラパラと親指でなぞる。指先で踊っているだろう睫毛は暗い照明の下ではよく見えはしないが、感触だけははっきりと残った。
[了]