春のうららの 非常線を示す黄色いテープが剥がされたころには、事件現場に集まっていた野次馬たちも三々五々に散っていき、家が壊れてたり車が潰れていたり電柱が倒れていたりする他は、町は日常を取り戻していた。
「はい、オーライー」
キャリアーを先導している野明の息は白い。三月も末だというのに来た寒の戻りは、関東一帯の季節を二ヶ月ほど巻き戻していた。膨らんだ桜の蕾の下、たまに通りかかるもこもこしたコート姿が現場の混乱のあとにちらちらと目をやりながら、足早に目的地へと去っていく。空は今にも振り出しそうな灰色で、時折吹く風が容赦なく体温を奪っていく。一応コートを着ているとはいえ、二課の制服自体が大して厚い生地ではないために、隊員たちは小刻みに体を動かして少しでも熱を発生させながら、少しでも早く帰還しようと撤収作業を進めていった。吹きっさらしの埋め立て地とはいえ、壁と最低限の仕事はしてくれる暖房装置があるおかげでここよりかはあたたかい。
一際強い風が、電線を鳴らしながら吹き去っていくと、さすがの道産子も思わず体を震わせた。
「うー、寒い」
「しっかりしろよ雪国育ち」
「うちのほうはあんまり雪つもんないもん」
「でも北国には変わりないだろうが」
「北海道の家はね、本土よりも冬あったかいの。こっちの方がよっぽど寒いよ。それに遊馬だって寒がってるじゃん」
「北関東は十分寒いんだよ」
だから俺はいいの、と勝手な論理を披露する遊馬に軽くつっこみをいれて、野明はまた撤収作業を再開した。こういうことはちゃっちゃと終わらせてさっさと帰るに限る。
見渡せば、ミニパトの側では我らが隊長である後藤が派出所から来た制服となにやら話し込んでいる。その横で野明と同じくレイバーをキャリーに載せ終った大田が、熊耳、進士と作業を進めている。この様子では間もなく撤収となることだろう。
人が殆ど残っていない現場の周りをざっと見渡しながら、あともうちょっとだ、と呟きながら改めて作業を再開しようとした野明は、しかしすぐに手を止めてもう一回周りを見渡した。
それが何なのか、明確に分かってはいない。しかし、無意識の部分で、今見た景色の中でひっかかるものがあると感じたのだ。その違和感、いうなれば靴箱を開けたらサンダルのかわりに英語の教科書が入っていたような感覚の正体を見極めようとして。
「あーっ!」
電柱の傍でビニル袋を持ちながら、こちらを見て目を丸くしている女性に向かって、野明は思わず素っ頓狂な声を上げてしまっていた。
朝の空気はラップのようにピンと張り詰めている。東京の方では桜が咲くの咲かないのと騒いでいたが、こちらでは春はまだ先だ。真冬に比べたらさすがに温かくなってきてはいるが、吐く息はまだまだ白い。
五年間背負いつづけてきたランドセルが、後ろで小さく揺れている。はじめは誇らしく、次第に重く不恰好に感じられ、最近ではなによりも愛着があるこの鞄とも、あと一年でお別れだ。
最上級生は大人ですごい存在、と新入生のころは思ったものだが、こうして学年を超えていくと実はそうでもなかったらしい、と気付いてくる。今は制服を着た中学生が眩しく見えるが、ひょっとしたら中学もそうなのかもしれない。いずれにしてもそのときがくればわかるし、それはまだまだ先なのだけれど。
「のあちゃーん」
後ろから可愛らしい声がして、すぐに息を切らしながら友人が追いついてきた。少年みたいな自分と違って、長めの髪を二つの三つ編みに纏め、ピンクのミトンを手に嵌めた彼女は、本当にお人形さんみたいだと野明はいつも思う。
「おはよう、これから歌の練習?」
「うん、まなちゃんは?」
「わたしも」
野明が朝から練習に行くのは、音楽が好きだけどちょっとだけ苦手だからだが、愛の場合は歌うのが好きだからすすんで参加しているのだ。学年の中でも歌が上手い愛は、合唱コンクールでソロを歌ったりもしている。今回の卒業式でも、ソロパートを歌うことになっていた。
「じゃ、早くいこ!」
愛はにっこりと笑って、野明の手を取ると走り出した。
「……ちょっと待て、卒業式で歌、って『蛍の光』とか『仰げば尊し』だろ? それにソロなんて入るか?」
遊馬の突っ込みに、野明は煎餅をばりんと食べてから「違うよ」と返した。
「どっちも歌ったけどね、知らない? 卒業式の歌」
「知らん」
「そうなの? うちの小学校さ、卒業式ずっと歌ってるんだよね。在校生も卒業生も」
「へー、ミュージカルみたいですねぇ」
横でコーヒーを啜っていた進士が、興味深いとばかりに感想を述べた。
「進士さんの学校も違った?」
「ええ、初耳ですよ」
「ひろみちゃんも知らない?」
「うちも、『蛍の光』と校歌ぐらいですねえ、歌ったの」
山崎がなぜか申し訳なさそうに告げると、野明は納得いったように頷いた。
「ふーん、そうなんだー」
「お前のところだけじゃないのか?」
遊馬の小さなツッコミに、きっと振り向くと、
「えー、中学の時、三小から来た子も歌ったっていってたもん」
「じゃあ北海道限定か」
「そうなのかな、そんなことないと思うんだけどなあ」
「ともかく」このままでは全国卒業式の検証に入りそうな空気を払うべく、遊馬は話を元に戻すべく改めて質問した。「あの子はお前の友達ってわけか」
女というのはなぜか、互いに大声を上げながらその存在を確認したりする。
野明が現場で叫んだすぐあと、それこそコンマ何秒の間で、電柱の傍にいた女性もまた「あー! やっぱり野明ちゃん?」と叫び返したのだ。もちろん勤務時間中、話したのはほんの僅かな間だったが、その時間で会わなかった間の溝を埋めたような雰囲気からも、それなりに親しかったことが伺えた。
同級生には見えなかったけどな、と遊馬は心で呟く。良くも悪くも純粋培養、という面がある野明と違い、その女性は過ぎた時間分以上に大人びて見えたのだ。裏返せば野明の外見が若いだけなのかもしれないが。
遊馬の質問に野明はそう、と答えた。
「そう。昔から可愛かったけど、今も可愛かったなあ。あ、紹介しないかんね」
「俺がそんな男に見えるか」
心外だ、と遊馬が反論しかけたところで、どこからか小さく単純な電子音が鳴り響いた。
「お、定時だ」
腕時計を覗き込んだ野明のセリフにつられて遊馬も壁掛け時計を見る。確かに定時だ。
「書類も終わってるし、他に急ぎもなし、と。じゃあ、今日はお先に失礼しますー」
「やけに早いな」
遊馬の問いかけに、野明はくしゃりと笑って答えた。
「うん、今日の夜約束してるんだ」
「約束、ってさっきの子と?」
「そうだよ」
「え、だって文字通り昨日の今日だぜ?」
「だってさ、来週から待機だから。善は急げ、っていうし。それにね、なんか嬉しいんだよね、こういう縁ってさ」
早口で話しながら、なぜかついしみじみと頷いてしまう。
「あ、それわかりますよ。僕も沖縄の友人と会ったら、やっぱり都合がつくなら少し話したいって思いますし」
「でしょ、これは地方ものの感覚なのかもねー」
ひろみとなにやら連帯感を共有した後、野明は改めて「お先に失礼します」と声を上げて更衣室へと向かった。
心は、時間を十年ほど前に遡っている。あの頃は何もかも大きく見えていた。
「でも野明は変わらんよね」
そんな感想を愛が漏らしたのは、デザートも終り、ゆったりとした空気がテーブルに流れているころだった。
落ち着いた、を通り越して薄暗い明度の灯りがチャコールグレーの壁を照らすイタリアンレストランは、値段こそお手頃なものの、そのすました外見がなにか落ち着かない。東京に出てきてから大体を埋立地と寮の往復に費やし、こういったスポットの探索に余り時間を割くことが無い野明にとって、久しぶりに東京という印象を味わっているような感覚がする。
いつもよりも気を使っているとはいえ、それでもズボンとシャツを基調とした野明と違い、愛はしっとりとした色調のカーディガンにボルドー色のアンダーを合わせており、洗練されたという印象が強い。柔らかい布のフレアスカートが揺れるところは、しかし昔そのままな気がした。
愛は山桜にも似た爪をカチカチと合わせながら、野明の方を見て微笑む。
「ほんと、変わってない」
「うーん、そう言われればそうなのかな。やっぱそろそろ大人にならないと、って頑張ってはいるんだけどさ。でも難しいよね、大人って」
「ううん、そういう意味と違うの」
いい意味で昔のままの部分があって、羨ましい。そう話す愛の目は優しいながらも真摯な光を宿している。
だからこそ、野明は盛大に照れてしまった。
「やだなあ、つまり子供っぽいってことかもしれないじゃん。……でも、ありがとう。言われていやな言葉じゃないよね」
「当たり前じゃない、誉めてるんだもん」
「誉められるほどのもんじゃないって。……まなはさ、こう大人の女、って感じだよね。なんつうかこう……、やっぱさ、そういうところ憧れるなー」
照れながらも率直に相手へ感想を述べると、愛は一瞬だけ、表情を無くした。
それは本当にほんの僅かな間のことで、だからこそ野明の脳裏に鮮烈に焼きつく。しかし、野明が口を開くその前に、
「やぁね、大人の女なんてもんじゃないわよ。野明こそ褒め過ぎだわ」
その笑顔の華やかさに、野明は飲まれることにした。
「え、そうかな。私なんかさ、まあ荒っぽい仕事やってるからもあるんだろうけど、どうもさ、こう、落ち着きっていうのかな」
「私の場合は落ち着いてるっていうより枯れたのよ」
「ちょっと待って、私とまな同い年じゃん」
「そうね、でも二十歳過ぎた途端にそんな気がしてしょうがないの。野明はないの?」
「ないなあ。区切りでは大人かあ、ってしみじみはしたけどさ」
小学校のころは、成人した人は一律で大成しているような錯覚も持っていたものだ。いざとなるとそれはなかなかに難しい。
「――なんかさ、成人しただけじゃダメなんだよね。今の目標は立派に偽善が出来る人」
「やだ、なにそれ」
愛が苦笑しながら、お冷で喉を潤す。「偽善なんて、野明らしくないよ」
「そうかなあ。でもまあ、そういう感じかな。……そだ、まなは今学校行ってるんだよね。やっぱり看護学校?」
小学校の卒業文集の一文を思い出して、野明はさりげなく水を向けた。歌手もいいけど看護婦さん、と書いてある同じページに野明は「バスケでオリンピックに行く」と書いた気がする。現実は首都圏のお巡りさんだが、そのことにも、大きな夢を見た当時にも後悔はない。
「あ、うん……。一応、ね」
「すごいね、夢叶えそうなんだ。まなならいい看護婦さんになるよね。あ、今は看護士さんか」
「そうかな……」
「そうだよ。……でも、なんかあった?」
また少しだけ表情を消した愛に、野明内心慌ててしまう。どうやら地雷だったらしい。どうしよう、無神経だったろうか、と思ったところで、愛が少し笑った。どこか昏い、自嘲しているような笑みだ。
つい眉を潜めた野明に気づいたのだろう、愛はすぐに表情を整える。一瞬にしてまた友人の顔に戻り、
「あ、ごめんね。いや、勉強が追いつかなくて、ちょっと自棄になってて……。でもありがとう、元気出たかも」
「本当? だったらいいんだけど」
とりあえずこの場は引くことにする。十年の月日が今更ながら、ずしりと感じられた。そのことから気を紛らわすためにも、とお冷に口をつけたところで、「あ」と愛が小さな声を上げる。
「なに?」
「ううん。……野明、目の下」
「あ、これか」。つ、と指でなぞりながら野明はへへ、と笑った。「名誉の負傷、かな。仕事でね」
「そんな危険な仕事だったの?」
「うーん、危険なんだろうけど、あんなに危ないのは多分もうないと思うんだけどね。えっと、黒いレイバーの……」
「あ、あの事件! やだ、野明だったの?」
「そうなんだよね。振り返ると偉い目に遭ってるよね、私」
友人の驚きぶりに、野明は改めて自分の身の上を思う。あの時は親も確か驚いていた。そんな危ないなら帰ってくるか、と口走ったのも父親で、その後お前も大きくなったんだよな、と呟いたのもまた父親だった。
記録的な夏だった。あれ程の夏は多分もう来ないだろう。
その前の年、13号を相手にしたあともそう思ったから、今年は今年で偉い目に遭いそうな気もするが。
野明のあっけらかんとした告白に、舞は形の良い眉を潜めて言った。
「偉い目、なんてもんじゃないわよ」
「でも、事件は無事解決したし。とりあえずはめでたし、って感じかな。……って、うーん」
「どうしたの」
「今の言い方、ちょっと上司に似てたかも」
「いやなの?」
「いや、っていうか微妙な感じで」
「あ、でもそれわかる。微妙よねー」
「だよね。ほんと」
二人はしみじみと頷きあったあと、思わず笑ってしまった。
食事の後にコーヒーショップでまた小一時間話をして、駅に向かう頃にはいい時間になっていた。門限に間に合うためには、途中少し走ることになるかもしれない。
「ありがとう、遅くまで。野明は時間大丈夫?」
「今ならなんとか。まなは?」
「私一人暮らしだもん。……それに、明日は二限からだから」
「そっか」
駅前には千鳥足のサラリーマンと陽気に騒ぐ学生たちらしいグループがコロニーみたいに点在していた。
「じゃ、また連絡するね」
そう言って、じゃ、と駅に向かおうとした野明に、愛が小さな声で呼びかけた。
「ねえ、野明……。私」
「ん? どうしたの?」
「私ね……。次会ったときには……。ううん。また、ね。また、ここで」
「ん? ……どうしたの」
「なんでもない。なんか昔を思い出してセンチみたい。……それじゃ」
今度こそ互いに次を約束しあいながら別れていく。愛が地下鉄の入り口に消えていくのをそっと目で追いながら、野明は先程のことを思い出していた。
軽口を叩きながら、彼女が野明を見る目に浮かんでいたのは、かすかな羨望だった。
友の武勇伝に憧れてる、というところから少しだけ歪んでいる。
そこまで考えて、
「――あーっ! もう、なに考えてるんだ私は!」
と強く頭を振った。
無意識にとはいえ、なんだかんだ言いながら尊敬している上司の影響はかなり強いらしい。
今日も今日とて東京は快晴だ。更に言うなら風も強い。
風向きを計る風がパタパタ……、と細かくリズムを奏でているのが心地よい。花粉もたっぷり飛び交っているらしく、整備員の何人かはゴーグルにマスクという完全防備で身を固め、シゲに「なんだ、これから強盗にでもいくかよおい」と突っ込まれていた。
その手の現代病から無縁なのが第二小隊の特徴かもしれない。
「しかし、南雲隊長は大変そうだったなあ」
その中でも特に丈夫な大田が心底感じ入ったように呟く。第一小隊隊長の南雲は今年ついに花粉の魔の手が及んだのか、目を真っ赤に充血させて業務に当たっている。
「鬼の霍乱、ってやつかもな」
「篠原、お前失礼だぞ!」
「大田君、声が大きいわよ」
熊耳の指摘に、はい、と大田がうな垂れるいつもどおりの漫才的会話の片隅で、野明はどこか上の空だ。
「野明、ところで最近どうしたんだ?」
「うん? ん、ちょっとね」
「あれか、大人の女性に華麗なる変身を遂げた友人を見て、複雑になってるとか」
「うーん、似てるけど違うんだよね」
「似てはいるのか?」
「まあ、似てる」
都会にもまれた、ってことなのかなあ、と野明はひとりごちた。
それとも、これが十年なのだろうか。
「会ったのは小学校以来なのか?」
遊馬がふと聞いてくる。
「うん、まなんちその頃札幌に引っ越してね、向こうで私立の中学行ったんだ、って手紙貰った。中学校の途中までは文通してたんだけどね」
「それだったら、ギャップを感じるのが当たり前だろうが」
「そりゃそうなんだけどさ」
目の奥の光りが気になった、と説明してわかってくれるか。
そもそも自分の自意識が過剰になっている可能性も高いのだ。
「でもなあ……」
それでもまた気にしてしまったとき、けたたましいサイレンが二課棟全体に響いた。
’警視庁より入電、東京、第二方面にて、レイバーによる立てこもり事件発生。特車二課へ出動を要請。繰り返す……’
「っと、ほら、いくぞ!」
春の日に相応しい雰囲気だった二課棟は、忽ちに殺気立つ。榊の怒号が飛び交う中、各自が出動に向けて動き始めた。
下町風情が残る小さな工場の隣に、いきなり会員制大型業務用スーパーが建っている状況はどこか残酷でユーモラスだ。
年内に開店することを告げる大きな看板の向こう、ガラスがまだ入っていないホールの真ん中にでん、とボクサーことASV-99がこちら側を向いている。その手に握られているのが人質の女性だろう。
「こう遠くからだとなんも見えんなあ」
後藤が向こう側をうかがいながら頭を掻いた。
「ねえ、もうちょっと、近づけないの?」
「警部補、先程も言いましたように、ここから先に出ますとあの女性を」
「ぎゅっと、って言うんでしょ。参ったなあー。……熊耳、なんかいい案、ない?」
「情報が集まるまでは待機しかないと」
冷静に語る熊耳の横で、隊員たちもいらいらとしながら、現場の方を見ていた。
道路を挟んだ歩道から先には、警官マスコミ一般人もろもろは入ってはいけない。それが犯人の要求だった。
つまりいるだけでなにも出来ない。
「歯がゆいよね、こういうの」
「全くだ。しかし、犯人はなにを考えてるんだかなあ」
大田の疑問に野明は深く頷いた。白昼堂々乗り付けてきたボクサーがその場を歩いていた女性をわしづかみにし、作業員を追い払った工事中の店舗に居座っている。
いかなる事件であっても人命を盾に取られたら、警察の選択肢は途端に狭まる。とはいえ、犯人の目的さえわかったら、そこから作戦を立てることが可能だ。
だが、その目的がわからない。
「ここも前工場だったのかなあ」
野明が誰に聞くともなしに呟くと、「そうみたいよ」と熊耳が応じた。
「二、三件の金属加工工場があったみたい」
「けっこう大きな工場だったんですね」
「この辺りではそれなりのものだったようよ」
それでもつぶれるときはつぶれる。正しく資本主義国の姿である。
まだ稼働している周りの工場の人も、この店舗を見るたびに、そんな複雑な思いを抱くのかもしれない。
「で、あとどれくらいこうやっていればいいのかなあ」
「俺が知るか」
遊馬がそう返したところで、どこからか「持ってきましたよー」という声が響いた。
「持ってきた?」
野明と遊馬が顔を見合わせるなか、後藤は「ありがとね」と軽く礼を言って、走ってきた警官からそれを受け取った。
「隊長、それは?」
「見てのとおり、高性能双眼鏡。とりあえず人質の無事は確認しないと」
言いながら後藤は筒を眼に当てて、向こう側を覗き込んだ。
「とりあえず無事みたいだ……ん?……泉、見てみるか?」
「はい」
人質の顔を確認することは大事な事柄である。しかしそれだけで名指しされたとも思えない野明は、心の中で首ををかしげながらも双眼鏡を覗き込み――。
「……あ」
とだけ、声を上げた。
「やっぱりこの前の彼女か?」
「はい……、友人、です」
どこか硬い声で後藤の言葉を肯定する。なんでよりにもよって再会したばかりの友人が、いきなり人質として事件に巻き込まれているのだろうか。
双眼鏡ごしに見る愛の顔はどこまでも無表情だ。諦めきっている、でも、恐怖の余り感情を放棄した、でもない。
その無表情が野明の心に風を起こした。
軽く混乱状態に陥った頭は、しかし一方で高速で動いているようだ。ぐるぐるとなにかを探し。
「……あ」
やがて一つの答えを導き出した。
「隊長、身元が割れました。高原純太、二五歳。職業は建築作業員ですが、本日勤務先の建設現場には来ていません」
「その高原は現場でなにをしていた」
「主にレイバーによる作業を担当していたようです。そして、履歴書によれば数年前はここにあった工場で働いていたと」
「人質と容疑者の関係は?」
「恋人、のようです。金居が働く飲食店で知り合ったと思われます」
後藤に報告する熊耳の声を聞きながら、野明はどこか呆然としていた。
狂言。
野明が至った答えはそれだった。根拠もなにもない。あるのは直感と本能だけだ。でもとりあえず、と遊馬、そして後藤に意見を述べてみて、そしていま裏付けが取れたわけだ。
第二小隊が出動してからすでに一時間近く時間は進んでいる。
篭城なら双方に焦りが見られることだ。しかし、これが狂言だとしたら。
「あのレイバーは無人の可能性がある、か」
いつもの無表情で、後藤があごを擦る。
「あるいは、仲間が別のルートで入っていて、高原はレイバーに乗っているか」
「この距離じゃサーモグラフィもきついですからね」
風は相変わらず強い。遊馬と進士がそれぞれの意見を述べてる傍で、野明はもう一度工事中の建物を伺った。
愛は、何が言いたかったのだろう。
なんで気付けなかったのだろう。
そういった私人としての自分がいる一方で、警察官としての野明は脳をフル回転させながら、自分の出来ることをこなしていた。
ショッピングセンターの大体の間取り。周りに集まってきている人の分布。現場周辺の地理。どこでなにをすると、どう影響を受けそうか。
僅かな時間のうち、出来るだけ詳細に頭に叩き込んでいく。
「後藤さん、ちょっと」
不意に所轄の刑事たちが後藤を手招きをした。一団は小声でなにやら話し込んでいたが、やがて戻ってきた後藤は徐に口を開いた。
「……よし、こちら側からいきますか」
「いいかー、今から交渉のため、特車二課のレイバーとわたしがそちら側に向かうー」
拡声器でこれでもか、と大きくなった声が響く現場のちょうど真裏で、野明の操るイングラムはそっと身を屈めていた。
『都内で盗難届けが出ているレイバーは現在一五台、だが、うちボクサーはこれだけだ。あとは工事用が二台と警備用ロボットが殆どを占める』
「中で待ってるとしたら、最悪でもサターンクラス、ってことだね」
『あと一台、豊作君にも出てるみたいだ』
「……それはコメントに困るなあ」
軽口で緊張を解しながら、野明は裏の搬入口からそっと内部へと入っていった。
現場作業員たちによると、この建物は倉庫型であり、壁をまだ入れてない個所のほうが多い、とのことだった。
第二小隊が取った作戦は単純且つ有効な戦術である不意打ちだ。正面から大田機が向かい犯人の意識を引き付け、その間に泉機が後ろから回り込む。
高原と金居以外に犯行に関わったものはいない、捜査本部はそう判断した。だからこそ生きてくる策だ。
人質を取りながら、なんの要求もせず、ただ警官をはじめ何人も近寄らせないということは、この場所の制圧自体が目的ということになる。共犯がいないのなら、この場所での目的を果たすために、高原がなにかしらの作業をしているはずだ。
『どうだ、入れそうか?』
「いまのところ平気」
まだ配線工事が終わっていない、薄暗い倉庫をイングラムは出来る限り静かに進んでいく。ジョイントが軋む音と電気系統の唸り、少しの振動。それらは思った以上に空間に響くが、所轄の睨んだ通り共犯がいないのなら、必要以上に気を配らなくていいのがありがたい。
サーモ画面はまだ異常を訴えていない。現場特有の空気に、何度か唾を飲み込みながら野明は慎重に足を進めていき、
「あ」
『どうした!』
「行きどまった」
工事は情報を提供した関係者の知る以上に進んでいたらしい。店舗側に続く壁にはシャッターは設置されているが、はたしてイングラムがしゃがんでぎりぎり通れるぐらいか。
「いい加減な情報だなあ」
『野明待機だ、今判断を仰ぐから』
「了解。……ん?」
『どうした?』
「ちょっと待って」
座席を上にして、野明は耳を澄ました。
埃舞う倉庫では、流れる空気すら音を立てていそうだ。
が。
……っ――! ――い!
「なんだろう……」
『どうした、野明』
「図面でいうと冷蔵庫かなにかになる側、ドアの向こうから、なんか聞こえる。怒鳴ってる感じ」
『サーモ向けられるか?』
「ちょっと待って」
出来る限り音を殺しながらそっとイングラムをしゃがみこませ、野明はカメラアイをドアの方へと向ける。
『……なにやってるんだ?』
遊馬がそう呟いたのも無理はない。サーモグラフィはなにかのがれきの山と動力が落ちたレイバーらしき機械の横で、人がなにかを手になんどもしゃがんだり立ったりしてるところを映し出していたのだ。
「……掘って、る?」
『うーん、多分そうだな。ちょっと待ってろ』
無線はそこで切れ、またかすかな音が耳に響いた。リズミカル、というわけではないが、途切れない音は、内部のものが作業に熱中していることを物語っていると思われた。
「遊馬」
『いまそっちに所轄が向かう。で、どうした?』
「ここは所轄の人に任せて、こっち側から、玄関の裏に回ってみる。どうかな」
『そうだな。って行けそうなのか?』
「シャッターくぐれば多分。捜査員の人が入る辺りで一緒に、って大丈夫かな」
『ちょっと待て。………………、よし。それじゃ合図と共に、だぞ』
「了解」
自分でも無理を言っている自覚はある。
野明はそっとシャッターの方に近付いた。
タタタタタ……、と足跡がいくつか場に響く。向こう側の声は今だ怒鳴りながら一層作業に没頭しているようだ。
捜査員の一人が野明を見て小さく頷く。操作レバーを握る手に、力が入った。
『三、二、……一!』
「警察だ!」
宣言と同時にイングラムは素早くシャッターをこじ開けエントランスホールに入り、速やかに前進し、そして迷うことなく警棒をボクサーの関節へと突き刺す。
すべてはあっけなく終り、予想通り無人だった盗難レイバーは、そのままの体勢で静かにうな垂れた。
座席を再び上げてボクサーの前面に回った野明は、膝立ちの状態で機体を止めた。目線の先に愛の顔がある。
無表情のまま、自分の方を見た愛に、野明は声を掛けた。自分でもわかるほどに、それは震えていた。
「……大丈夫?」
「なんで、って聞かないの?」
「今はそれよりも、怪我とか!」
耳のイヤホンからは、所轄の刑事たちが向こうの部屋でレイバーは無人、盗難された菱井製と推定、容疑者を確保、という無線が入ってきている。最後のクリア! という響きが妙に乾燥して響いた。
「……自白っていうのかな。羨ましかった」
ぽつり、と愛の口から言葉が漏れた。
「必要だ、っていうから。そんなとき野明と会って。ひどく羨ましかった」
「まな、それはあとで」
「だって野明はちゃんとしてるじゃない。そのレイバーですごい事件まで解決して。東京で、ちゃんと夢掴んで」
「まな」
愛が口を噤んで野明を見たのは、その響きにはっとさせられるような厳しさがあったからだ。野明は少しの困惑と、悲しみと、怒りを孕んだ目で旧友を見つめた。
「……私がいなくてもイングラムは動くし、いつかこのイングラムもそのうちにいなくなる。そんな、まなが羨んでるようなものは、多分幻なんだよ」
言いながら感情が大きくなってきて、野明は一度大きく息をついた。そして無線のスイッチを入れる。
「……遊馬、オールクリア。こっちも終わったよ」
『了解、お疲れ野明』
「……それで、出られそう?」
野明の促す声に、愛は手の間から体を引き抜いて、ボクサーの股あたりにそっと立った。ジーンズ地の、それでもフレアスカートを着た愛は少しだけ寂しそうに微笑んで、野明を見上げる。
「――ごめんね」
でもやっぱり、羨ましい、と愛が柔らかい声で告げたとき、向こう側から捜査員が入ってくる音が聞こえた。
「チンピラをやってるときにどうも偽札の原版を手に入れてたらしいんだよね。で、惚れた女と本格的に同棲するにあたって、金に替えようと昔こっそり埋めてた工場に戻ったらあらびっくり」
「それであんな短絡的な犯行に走ったと」
「昼間の方が音がごまかせるし、って臨時作業員装ってまずは床をひっぺ剥がすためのレイバー持ち込んで、って段取り踏んでくのはいいけど、最後どう逃げるかっていうのがすっぽり抜け落ちてるんだからもともと犯罪に向いてないんだろうな。さらに根が単純で純情なんだろうねえ。結局人質は共犯だ、って口割らないぐらいだし」
桜がほころんだ東京は、気温が高い状態が続いている。温くなったコーヒーを飲みながら、後藤はのんびりと南雲に笑いかけた。青空が薄く濁ってくると、東京の春だと後藤は思う。
「で、狂言の相手は釈放?」
「証拠がないからね」。後藤は肩をすくめた。
風は今日も強い。広がる雑草たちが勢いよくはためいている。
「そういえば、後藤さん」
「なに?」
「不明だった豊作君、中国行きの船で摘発されたって、連絡が入ったわ」
「中国の田植えか。さぞやりがいがあるだろうねえ」
「後藤さん」
「……すいません」
洗濯物がはたはたと揺れている。
「よっ」
ばし、と勢いよく広げて、次なるタオルを洗濯ハンガーに吊るしながら空を見上げると、そこには雲一つ無い。
「気持ちいいなあ」
ひとりごちながら伸びをしたそのとき、上空に一本飛行機雲が引かれていくのを見て、野明はそっと手を下ろした。
『歌手という夢に甘えていただけな自分が恥ずかしいです。……北海道に帰って、今度こそちゃんと看護学校に通おうと思います』
葉書に書いてあった文面を思い出す。昔どおりの丸みを帯びた読みやすい字で、愛は野明にただ謝ってきた。『古い友達に甘えて、ごめんなさい』。と。
そろそろ飛行機に乗る頃だろうか。不起訴、釈放となってすぐに帰郷の手続きをしたらしい。野明が驚くほど早く、愛は東京を去っていく。
『本当は、全部、東京のせいにしたかったんだと思います』
最後の方に書かれていた一文は、心なしか文字が小さくなっていた気がする。
海辺から見る大都市はいつもどおり飄々としていて、それ以上でもそれ以下でもなかった。
この街から、今日、旧友が旅立つ。
ぱん……! と新しい洗濯物をまた広げながら、羽田の方を見る。昼のラッシュ時に掛かったのか、空には何機も飛行機が散っていた。
それぞれに等分の思惑を乗せて。
また、一機、ジャンボジェットがテイクオフしていく。
ふと、昔歌った歌が頭でそっと鳴り出し、野明は自然とそれを口に乗せていた。
――うららかに 春の光が ふってくる