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    しおり
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    リボン 暮れていく青空は淡く、遠くに揺れる街に落ちる影は深い。夏の名残はすべて去り、今、窓の外を吹く風は、その一息ごとに空気を涼しいものへ、厳しいものへと入れ替えていくようだ。
     海風が強く当たるこの場所は、常に何かしらの音がする。風の唸る音、東京国際空港へと降り立つ飛行機のエンジン、東京湾に入港した汽船の遠吠、はためく警察旗と国旗が、絶え間なく刻む不定期なリズム。陽光は急激にその力を失って、世界は浅梔子のやわらかい光に包まれつつある。先日まではまだまだ昼間の範疇だったというのに、時は瞬く間に過ぎ去って、すべての形を変えていくのだ。
     変わり映えのないものが一年ごとに廻ってきているように見えて、同じ日は二度と来ない。螺旋階段のような時間を過ごして、そして気が付いたときには、うえへ上がり、したへと下り、全く知らなかったものや見えなかったこと、あるいは思いがけないものが見えたりする。
     まだ幼く、目に見えることだけを何もかも、ただ素直に信じていればよかったころには、判らなかったことだ。
     夕焼けは風のスピードで夕闇へと色を変えていく。頭上では旗が、いつまでもいつまでも鳴り続けている。
     
     弱い夕日が差し込むリノリウムの階段をぺたんぺたんと上がっていくと、隊長室の前に一人、いまだ見慣れない男が所在無く佇んでいるのが目に入った。
     いつでも年の割には高いスーツを着ているな。初めて会ったとき以来毎回意味もなくぼんやりと観察していた後藤だが、こうして違うものを纏った姿を見ると、彼の感性なりに、あの高級ブランド仕様の三つ揃いを着ていた訳があったのだと、そう、納得してしまう。
      とびきりではないが十分に整ったややバタ臭い顔つきに、黄味が強いオレンジと濃紺のパーツで出来た二課の制服は、見事なまでに馴染んでいなかった。とりあえず着てみたものの、 慣れてないこともあって明らかに浮いてしまっている、というところだろうか。
     そのことを自ら実感しているのであろう。一八〇に近い長身を小さく見せるように立っている姿は、どこか昔、ぬいぐるみに抱いたような感情を後藤に植え付ける。
     ――それこそミスコンよろしく制服審査でもあったら、ここに飛ばされることもなかったろうになぁ。
      そんな勝手なことを考えて同情されているとは夢にも思ってないであろう男は、近づいてきた足音に気が付いたのか恥ずかしそうに俯いていた顔をふと上げ、そこに後藤の姿を確認すると、まず最初に深く一礼した。 事前の顔合わせのときから含めて軽く三ヶ月は通っている場所だというのに、どうやらいまだ訪問客の気分が抜けないらしい。もっとも、いまだ男を見慣れない、と思ってしまう自分もまた同じようにお客さんという認識が抜けていないのだが。釣られるように頭を下げながら自分もまだまだ柔軟ではないことに自然と苦笑した後藤だったが、次の瞬間、
    「改めておめでとうございます」
     と言われ、階段を上りきったところで思わず足を止めてしまった。
     驚いたわけではない。単純に照れたのだ。
    「来週、でしたよね」
     バタくさい顔から打って変わった、清々しい爽やかな笑顔でそう続けられると、後藤は「ええ、まあ」と照れ隠し代わりの白々しい笑顔を浮かべながら、目を泳がせその場をやり過ごそうとすることで精一杯になってしまう。
      不幸体質と自嘲するほどひねくれてもいないが、だからといって幸福をそのまま味わうことを是とするほどまっすぐな性格でもない。一言で表すなら、心底こそばかゆいのだ、そういう空気やその他諸々が。はじめは二課全体に蔓延していたそんな空気も最近ではなんとか一層され、内心ほっとしていたからか、文字通り不意打ちを食らったような気分 であった。
      もちろん、ここ半年間ほどこつこつと用意してきて、いよいよ来週に待ち構えている祝い事自体は後藤自身も嬉しく思っているし、祝ってくれる相手に悪意がないのはわかっている。
      わかってはいるがこの照れくささはどうしようもない。
      しかし、そんな感情をいつまでも引きずっている後藤ではなく、すぐに表情をいつもの亡羊としたそれに変えて、
    「で、どうしました、真田さん。今日は午後から本庁で調整、じゃありませんでしたっけ」
    「あ、いえ、そうなんですよ。そうなんですけどですね、後藤警部補」
    「そうそう」、後藤は真田の方を向いてのんびりと言う。「そろそろいちいち階級付けて呼ぶの、とめません? 真田さんも明日からここの人間なんですし、それに、いちいち警部補ってつけるの、面倒くさいでしょ。互いに同じ立場なわけですから」
     一足先にその提案を実践している後藤に対して、真田ははにかんでいるようにも見える曖昧な笑みを浮かべたまま、ただ「ええ……」とだけ返事をした。
     つい半年前の昇進試験で警部補になったばかりだという真田は、未だに自身の階級を含めた環境すべてに対し、全く馴染めていないような様子である。年齢は確か後藤と十も違う。その若さで警部補になったという順調な警察官人生に一体何があり、そしてここにたどり着く羽目になったのか後藤は知らない。あるいはこの不慣れさがどこかで災いしたのかもしれない。だとしても、それは後藤に関係ないことであって、大事なのは、この男とこれからどのような関係を築いていけるか、だ。
      そのためにも、まずは真田がこの場所に一日も早く慣れるよう望むほかない。或いは荒治療が必要になるかもしれないが、それもまたまだ先の話だ。
    「で?」
     改めてそう促すと、真田は「そう、そうなんですよ」とまた繰り返した。恐らくは彼の口癖のひとつだ。
    「あのですね、書類がありまして」
    「書類? 引継ぎに関するもので?」
    「そうなんですよ。本庁の用事が終わったら改めてこちらに戻る予定でもありましたし、出来れば今日中に福島課長に渡していただきたい、と預かってきたものですから」
     真田はそういいながら手に持っていた封筒を、控えめに二、三度振って見せた。
    「だったら中で待っていてくれてもよかったのに。明日からは否応なしに入るわけだし、遠慮しないでも。にしても、俺の分の決済、あんだけ判子押し捲ってもまだ出てくるもんなんだねえ」
    「あ、違うんです」
    「違う?」
    「書類、南雲警部補の印が必要なもので」
      だったらなぜここにいるのだろうか。素直にそう疑問をぶつけると、
    「まあ、ええ、そうなんですけどね」
     間違いなく口癖だ。
    「自分も特に遠慮したわけではないのですが、どうも主のいない部屋に勝手に入るのはまだ勇気が要りまして。後藤け……隊長の言われましたように、明日、正式にそういうことになりましたら平気だと思うんですが、どうも、そういうあたり融通が利かないといいますか……。ああ、すみません、一小隊長たるものがこんなんじゃいけないんだと、自分でもわかってはいるのですが」
      その言い分は後藤にもわかる。誰もいない馴れない場所、というのは年齢関係なくなんらかの気後れを感じるものだ。明日、ドアの向こうに真田のスペースが出来たらそんなものは一蹴されてしまうのだろうが、今日のところはまだ、というところか。正直言って心許ない気もするが、それはまあ追々鍛えられていく部分だし、そうでなくては困る。そして、 真田本人もそう自覚しているようなので、恐らくは早晩どうにか解決するだろう。
     後藤は隊長室のドアノブに手をかけながら、改めて聞き質した。
    「まあその辺りは、隊員たちと二人三脚で行くしかないことだしね。俺だってはじめはそうだったし。……で、中、空なの?」
    「ああ、後藤隊長もそうでしたか。で、空です」
    「南雲隊長、いないの?」
     後藤の問いに真田は頷いた。
    「ええ、自分は南雲警部補に決裁印をいただきたく来たのですが、中に誰もいなかったもので。で、ここでお帰りを待ってたわけですよ。出来ればすぐ判子を押してもらいたくて。すぐにリターンするものではないんですが、でも早いに越したことはないじゃありませんか。福島課長も早くお帰りになりたいでしょうし。
     そうして……三分くらいですかね、戻ってこられたのが後藤隊長だった、というわけです。……えっと、ご存知かどうかはわからないんですが、南雲警部補、どちらにいらっしゃいますかね?」
     そう無意識のうちに屈みながら聞いてくる真田を見ながら、後藤は少しだけ顔を傾けた。珍しいこともあるものだ。
    「……まあ、とりあえず入って、待っててもらえます? ついでにコーヒーの入れ方とかも教えておきますから。あ、カップ、今日は紙コップ出しときますけど、できれば自前でお願いしますね。最近は百円ショップとか、ちゃんとしたものが欲しいなら陶器でも安いの売ってるから、そういうので」
     言いながら隊長室のドアを開ける。確かに、おぼろげな西日が差し込む部屋には、誰の気配もなかった。やはり所在無げな真田に自分のいすを勧めたあと、後藤は念のため南雲専用の着替え室を覗いても見たが、そこにはスーツが整然と掛けられているだけで彼女の姿はない。
     座ってもなおそわそわとしている真田に後藤はコーヒーメーカーのありかを教えながら、しばらくここで待っているよう、彼に頼んだ。
     いま彼女がどこにいるのか、なんとなくではあるが、後藤には大体の見当がついていた。

     はじめ、ここの屋上を案内してくれたのは確かシゲさんだったっけ。
     そう思い出しながら、後藤は隊長室前の階段を上がっていく。二課棟には屋上が二つあり、ひとつは隊員たちが洗濯などを干すのに使用している海側のもので、トタン屋根の真ん中に設けられている。
     もうひとつ、今、後藤が向かっているほうは、隊長室の真上に造られた、いわゆる普通の屋上だ。こちらは滅多に人が来ることもなく、灰色に塗られた鉄のドアは 常に閉まっている。ただ、ここから見る東京の夜景は素晴らしく、まるで絵葉書を見ているようだと、初めて目にしたとき後藤は思ったものだ。
     案内をしてくれた斯波は後藤の顔にかすかではあるが現れた反応に満足したらしい。整備班の要役として、自分たちや事務員よりも先に二課に赴任してきていた彼は、昔からの故郷を自慢するかのごとく、得意気に「どうです、すごいでしょう」と胸を張った。
    「確かに、これは見事なもんだ」
     素直に言葉に出すと、斯波は「ねぇ」と鼻の下を軽くこすって続ける。
    「第一小隊の南雲警部補にも見せたんですけどね、赴任したてのとき、やっぱ後藤さんみたいに控えめにだけど感動してましたよ。なんていうのかな、ここから見える範囲全部の街を守っていくわけじゃないですか。そういう重みもあるのかキリリとしてましてねえ。あの人それでなくてもきつそうでしょ、だから一層際立ってたなあ、あの顔。 決意した表情っていうのは誰でも特別綺麗に見えるもんだなあ、って改めて思ったりね。
     それはともかくとして、ここ、昼間でも十分に見ごたえある風景なんですが、俺なんて、ほら、メカニックだからでしょうね、海よりも夜景の方が好きでして」
    「まあ、海の方も、こんな暗くちゃなんも見えないしね」
    「そうそう。それに海風はパーツ錆びさせちゃうから、あんまり愛着もてませんわ。ま、それはおいて置いて、こうやって風景見てると、なーんか気合入るでしょ」
     そう笑う斯波の言葉を聞きながら、後藤はただ「うん、そうかもね」と納得してまた風景に見入る。
     東京で生まれ、育ち、そこで働いてきたゆえに、東京のことなら大体知っている。そんな感覚があったものだが、実際はまだまだ見えてない面ばかりだと、そんな風にも思えた。
     今まではどちらかといえば裏方として、東京を守っていた。しかし、これからは表舞台で、相手と四つに組みぶつかり合って、直にこの街を守っていくのだ。
     そんな風に単純に思ってしまった自分がなんとも不思議で、後藤はそんな自分を新鮮に感じた。前向きな姿勢を懐かしい、ではなく、なかなかに良い、と思えたことがなによりも驚きだった。
     振り返れば、「掃き溜め」とも「終点」とも揶揄されていた場所に飛ばされたことで、自分でもよく判っていないままに引きずっていたものを振り切れたのかもしれない。 この埋立地に立ったそのときから、後藤の中の何かが、少しずつとはいえ間違いなく変わり始めたのだ。
     そして、何年経っただろうか。
     今、ドアを開けた先に広がる街は夕日を浴び、蜃気楼のようにも悪夢の中の風景のようにも見える。
     朱い色は暖かなイメージと共になんとも不気味な印象も内包している。夕日に明日への希望を抱く人もいれば、逢魔ヶ時と呼んでその得体の知れなさを忌諱する人もいるだろう。
     同じような色が広がる夜明けから受ける印象は、そこまで極端に分かれないだろう。その違いが生まれる細かい理由はわからないし、これから知ることもないだろうが、もしくは「終わる」というイメージが夕暮れに含まれているからかもしれない。
     終わることはまた始まることに繋がる、と思えれば気持ちは明日に向かう。終わるものと始まるものの間の差異を見るなら、二度と戻らないものへの郷愁で悲しみが胸に満ちるかもしれない。
     それは、変化という出来事への、潜在的な意識の一端だ。
     手すりに軽く寄りかかりながら街を眺めているしのぶの後姿からは、そのどちらともいえない感情が取り巻いているように感じられる。ひとつにまとめた髪が風によって小さく揺らめいて、制服のオレンジは夕日を受けて一層深い赤みを帯びていた。
    「……しのぶさん」
     そっと呼びかけると、固まっていた肩がふっと動いて、しのぶが後藤の方へ振り返る。ようやく見えた顔は薄い微笑みに彩られていて、後藤は少しほっとした。
    「あら、どうしたの?」
     そう聞いてくる声もいつも通りで、先程感じた掴みようもないような雰囲気はもうすでに一掃されている。
    「いや、こっちこそどうしたのかな、って。隊長室空にするの、しのぶさん好きじゃないじゃない」
     逆に聞き返すと、しのぶは一瞬だけきょとんとしたあと、慌てて腕時計を見て、「あらやだ」と呟いた。
    「ちょっと席を立って、気分転換のつもりで寄ってみただけなんだけど、もう十分も経ってたのね。で、なにか用件があって呼びに来てくれたの?」
    「まあ、そうと言ったら、そうかな」
    「なに、その半端な返事」
    「いや、なんとなくね、いるならここかな、って思ったから」
     後藤は言いながら二歩、三歩と前に出て、しのぶの横に立つと手すりに同じく軽く手を置いた。
     目の前に見える街は、出来上がったばかりのジオラマのように美しい。
    「はじめさ、シゲさんにここ連れてきてもらったでしょ」
    そう思い出すように言うと、しのぶは少しだけ目を細めた。
    「そうそう。榊さんのお気に入りでもありますし、いい場所でしょ、って」
    「その豆知識は俺の時にはなかったなあ」
    後藤の台詞にしのぶは軽く笑った。
    「まあ、必ず言わなきゃいけない情報じゃないわよ」
    「それはそうだね」
      上の方から、旗がパタパタパタ……と絶え間なく鳴っている音がする。夕日は鮮やかで、明日も晴天であろうことが窺えた。
     昔、夕日はどうしても苦手だった。あの熟れすぎた柘榴のような赤がまぶたから離れず、捕らえられるような感覚すら覚えて、夕暮れはいつもより何割増しの速度でさっさと歩くのが常だった。
      日が明けたら、新しい時間が始まるのだと、またそう思えるようになったのは、そういえばいつごろからだったろうか。
      しのぶは、街の方を見たまま少し伸びをした後藤がすぐに動くつもりがないと見て取ると、一瞬困ったような顔をした。が、すぐに眉間に皺を寄せて、
    「ねえ、私が言うことじゃないけど、ミイラ取りがミイラになってどうするのよ」
    「まあ、それはそれ、これはこれ」
    「後藤さん」
     悲しいことにすっかり聞きなれてしまった、いつもの小言をいう前兆である口調で名前を呼ばれ、さすがの後藤も苦笑する。
     が、伊達に長い間彼女の隣にいたわけではない。
      後藤はあえてしのぶの方を向いて、にやりと口の端をあげて見せた。
    「まあ、あと三分ぐらいは」
    「その数字の根拠はどこから来ているのかしら」
    「立ち話の平均所要時間。ま、勝手に決めた平均値だけど」
    「立ち話なら戻ってからでも、そのあとでもイヤになるほど出来るでしょ。……今日はそんなこという資格もないのだけど」
      言いながら自己嫌悪に陥ったらしく、はぁ、と深くため息をつき、でもやっぱりそれとこれとは別よ、とすぐにいつもの調子を取り戻したしのぶを後藤は穏やかに見返した。
      朗らかに小さく笑う彼女も素敵だが、毅然とした態度でしゃんと立っているしのぶが一番魅力的かもしれない。なんてことを言ったらいい顔はしないだろうが。
      風が強く吹いた。
      先日までほてった体を程よく冷やしてくれたそれも、今は体から熱を奪おうとするやっかいものだ。それこそ長くいたら風邪のひとつも背負い込んでしまうかもしれない。
     そういえば、この地球上すべての場所において、風が全く吹いていないということはないのだという。温度や強さを替えながら、空気は風となって、世界のどこかで常に動き続けている。
      そうして、すべては流転していくのだ。拒んでいるつもりでいようが、少しだけ留まりたいと淡い願望を抱いていようが。
      後藤はそっと口を開いた。
    「やあさ、あとちょっとだけここの風景を味わうのもいいかな、って思って」
    「だから、なんで」
    「――判る気がするから」
     その言葉に、しのぶはふと表情を消して、後藤を見る。驚いているような、あるいは探っているような色を浮かべた彼女の目を見て、後藤は続けた。
    「始まりがここだったなら、最後にこの風景を懐かしむのも、なんとなくわかるから、さ」
     その後藤の言葉をどう捕らえたのか、しのぶは歩きかけていた体勢を崩し、また、暮れなずむ街に目をやった。
     間もなく、大きな区切りが来るものにとって、郷愁からの誘惑がどんなに抗いづらいものか、後藤にはよく判る気がする。
     その次に控えているものがどんな希望に満ち溢れたものであっても、なにかが行こうとする者の袖を引く。それは未来に潜むひとかけらの不安かもしれないし、それとも去りがたいと感じる愛着かもしれない。それは年を重ねるごとに強く感じるもので、まだ若く先にひとかけらの曇りも見えない子供時代には判らないものだ。
      しのぶも、後藤も、今までそれぞれに相応の時間を積み重ねてきた。だから尚更、なにかを抱えてしまうものなのかもしれない。
     そういえばさあ、と後藤は気が抜けた声で話し出す。
    「ここに来て何日目だったかな、ここで煙草吸ってたら、後ろから大きな咳払いが聞こえて」
      それも、今のような夕焼けの下だった。
      四月一日に第二小隊を正式に発足させるため、誰もがばたばたと働いている最中のことだ。最終候補の何人かの中からクセは強いが上手く動いてくれそうな、若手の男ばかり五人の配属を決定し、気晴らしにここに昇って 来た後藤は、無意識のうちに深く息を吐いていた。その日は書類仕事ばかりだったからか、体がいつも以上に強張っているように感じられた。
     立春が近いといっても一年で最も寒い季節の夕暮れだ。太陽の光は急速に弱まり、誰かに奪われるように、空気の中かすかに残る温もりが消えていく。吐き出す息の白さに、自らを物好きだと呆れ笑いながらも、後藤はかじかむ手で煙草をくゆらせた。
      ふと、この建物から出て、なにか景色が見たいと思ったのだ。窓越しではなく、直に、この目で。
      前に見た夜景は華美の一言だったが、今は遠く見える街が儚く、余りにも遠いように感じる。人が抱くはずの感慨をすべて他人事のようにして処理してきた自身の褪めた姿勢ゆえかと、そう思ったときだった。
    「振り向いたら、しのぶさん、ここにしわ寄せて」眉間を指でつつく。「苦虫を噛み潰したような声でさ、『できるなら喫煙所で吸って頂きたいのですが』」
     口調を真似すると、しのぶは困ったように笑いながらそうだったわね、と続けた。
    「携帯用灰皿をお持ちとは思えない、って確か言ったのよね。息抜きは結構ですが、いかんせん古い建物だし、マナーは守って欲しいものだ、って」
    「そうそう、よく覚えてるね」
      後藤がしみじみと素直に言うと、「それはあなたもでしょ。それに私の方は空覚えですから」とそっけなく返される。しのぶの言うとおりなのだ ろうが、後藤にとっては忘れられない理由があった。
    「で、言うことは言ったから、って感じで回れ右したときに確か、呼び止めたじゃない、『ところでしのぶさん』って。……あの時、まさか振り向くとは思わなかったから 、なんか意外だったな」
     いつもなら素直に謝って流してしまう類のことだった。が、長期間の間溜まっていた疲労がいつの間にか理性のボーダーを下げていたのだろうか。 正論なのだがどこか一方的な物言いだと感じたときに 反射的に口から出てしまった、間違いなく一種の攻撃、正確にいうなら、年下の女子だとからかうための呼び方だった。
     しかし、そのあとの反応は思っていたものではなかった。しのぶは眉間に皺を寄せたまま振り向いて、「なにか?」と険しいままの声で、しかし生真面目な様子で聞いてきたのだ。
    「絶対、気安く呼ばないで下さい、とか、そんな風に返って来るだろうな、って勝手にそう思い込んでたから」
    「だったら、そう返せばよかったのかしら。……そうしたら、すべて違ってたのかもしれないわね、本当にすべてが」
      いま、そういって笑うしのぶの表情はあの時とは打って変わってとても柔らかだ。声も凛としていながら角が取れた、もう聞きなれた響きのものである。
    「まあ、あのときは私もいらついていたんだと思うわ。だから、半分八つ当たりだったのよ。今から思うと大人気ないわね、我ながら。
     ……でも不思議ね、こっちの言葉を聞いてくれない、って腹が立つが先に来るにしても、不躾とか不愉快とはすぐには思わなかったんだから」
    「それって、ちょっとは自惚れていい話?」
    「すぐには、といったでしょ」
      そうすげなく返されて、後藤は思わず苦笑した。
     あの頃、なにに子供のような反発を覚えたのか、正直なところ思い出せない。しかし、思ったような反応が帰ってこなかったそのときからしばらく、後藤はしのぶを名前では呼ばなかった。そして慎重に機会を窺った上で次にその名を口に乗せたときは、年も経験も重ねてきたというのに、少し、ほんの少しだけだが、柄にもなく緊張したものだ。ただ、そんなことはおくびにも出さなかったが。
     こうして振り返ると、余りの青さにばつ悪く笑ってしまいそうになる。そう、まるでその瞬間に恋に落ちたようじゃないか、と。
     後藤の顔にどんな表情が浮かんでいたのか、しのぶは応えるように困ったような笑みを返した後、また都心の方へと目を向けた。
    「はじめここからこの風景を見たときのこと、立つ度に思い出すの。――それこそ、昨日のことのように」
      しのぶの目に浮かぶ色はただ暖かいもので、ここでの日々を後悔していないことの現れなのだろう。振り返れば山あり谷あり、文字通り波乱万丈な毎日だったはずだが――外国の皇太子来訪から黒いレイバー騒動、食中毒に手作りレイバーの襲撃、散々な幹部研修に銭湯での大捕り物などなど……。
      つらつらと思い起こされる騒動のうち、その大半(正確に言えば殆どすべて)が第二小隊のものであることに思い至り、後藤は内心で苦笑いした。しのぶの第一小隊がど んな隙なく任務をこなそうが、そんなことは関係なく第二小隊が、意図はないにしてもあれこれと騒動を巻き起こしてしまうのだ。そのことこそ、しのぶにとって一番の波乱万丈だったに違いない。
      しかし、そんな日々も今日で終わる。
    「なんか……、実感ってすぐには湧いてこないものね。明日から、守るんじゃなくて守られる立場になるって、どうしても思えなくて」
     しみじみというしのぶに後藤は相槌を打った。
    「そりゃしょうがないよ。スイッチがあるわけじゃないんだしさ」
    「ええ、判ってはいるのよ。今はそうでも、きっと気が付いたら、もうすっかり馴れているんだって。……否応なしに」
      そう呟いた語尾に滲むわずかな寂寥感が、後藤の胸に小さな波を起こす。
    「ひょっとして……なんていえばいいのかな。例えば……、頼りない?」
    「ううん、そうじゃないのよ。なにか頼りないっていうか……、ひょっとしたら、不安なのかもしれない」
    「不安」
      鸚鵡返しに聞く男の顔を見て、しのぶはなにか諦めたように笑う。
    「そう……、ずっと自信を持つように、持てるように、そう頑張ってきたけど、今度ばかりは勝手が違いすぎるのかしらね。なによりも、今が終わることが、なにかおぼつかないような……。あ、でも決して後悔してるとか、そういうことじゃないのよ。むしろきっと」
    「先への期待が大きすぎる?」
      後藤がそう続けると、しのぶは一瞬考えたあと、首を少しだけ傾げた。
    「……まあそういうこと、なのかしら。まあ、少なくとも、もういい年した女が抱く感慨じゃないわね」
      自分に照れたのか、呆れたのか、また後藤からそっと視線を外す。
      しのぶが抱えているものは何なのかは、曖昧にしか推測できない。が、似たようなものなら後藤の中にもある。 自分は見ないふりをして過ごしたが、常に、それは後藤の中にあるものだ。
     だからこそ、後藤はただ静かに、
    「そうだね……それに、それは俺にはどうすることも出来ないものだし」
      なぜなら、それはしのぶ自らが生み出したものだから。
     後藤の言葉をどう受け取ったのか、 しのぶはただ小さく「そうね……」と返した。
     しかし、彼女もまた、もう判ってしまっているのだ。人には渡すことも受け取ることも分け合うことも出来ないものがあることを。
     昔はそれが歯痒いと思っていた。
     しかし、さまざまな人と出会い、時に並び、去っていき、そうして年を取った分だけ、理解し、会得したこともある。それは決して、ただ寂しいだけじゃない、と。
     後藤はそれ以上何も言わず、しのぶにそっと笑いかけた。もし誰かがその場にいたら、まず目尻を少し下げ、ちょっとだけ口の端が上がったその不器用な笑顔を珍しいものと見入った後、そこに浮かぶ色の優しさに気付き、思わず笑みを浮かべたかもしれない。
     分け合えないものがあるかわりに、それを持つ人に対して伝えられるものがある。そして伝えることが出来る。それは、なんと幸せなことなのだろう。
      風が吹き抜ける間沈黙が続き、煽られていたしのぶの前髪がそっともとの位置に戻ったとき、彼女は余分な力を抜くように、そっと息を吐いた。
    「そこで、心配するな、俺にすべてを任せておけ、っていう傲慢さを持ち合わせている男を、女性は求めるらしいわよ」
    「あ、そういうもんなの? そりゃ知らなかった」
    「でも」すっとほける後藤のことを見上げ、しのぶは微笑んだ。「もしあなたがそんな普通に傲慢で失礼な男なら、はじめから選択肢にも入ってなかったわ、きっと。そんなことが嬉しいと思えるだなんて、そんな日が来るとはね、本当、意外だわ。ねえ、幸せってこういうことなのかしら」
     意図もなにもない、文字通りの不意打ちだった。
      一瞬にして、らしくないほど顔に血が上がっていくのがわかる。どのような種類の感情にしても、昔からストレートにぶつけられると、対処する前にまず戸惑うことが多かった。ましてやそれがこのような形で しかも彼女に。
      自身が鮮やかなアッパーを決めたことに気付いていないのか、後藤の変化に対して、しのぶは不思議そうな目をした。
    「あら、どうしたの? 突然赤くなって」
      この態度がもしすっとぼけているものだというのなら、彼女こそ自分をはるかに上回る、二課一の狸に違いない。
    「いや、別に、さ」
      ごまかすようにそうがしがしと頭を掻くと、しのぶは今度はよくわからないというような顔をして、ふと落とした視線の先の腕時計を見て「あら」と小さく声を上げた。
    「やだ、あれからまた五分も経ってるじゃない。さすがにのんびりしすぎだわ。ほら、後藤さんも戻らないと」
    「あ、うん」
     まだ赤い顔を意味もなくたたきながら、後藤も階段の方へと向きを変えた。視線の先にいるしのぶは、 気持ちの切り替えが済んだのか、先程までの空気など一片も残さないような足取りで、足早に階段に向かっていく。
      ふと、これまでも彼女はここによく来ていたのではないか。と、そんな考えが後藤の中に浮かんだ。
      この場所でなにかと対面し、割り切れない残滓のようなものをここに置いて、また日常の中へと戻っていく。その姿は容易に心に浮かんできた。この景色 、小隊長として赴任してきて、そして初めて見た守るべきものの姿を、その度に焼き付けて、また、戦いへと身を投じる力を取り戻していったのかもしれない。第一小隊の隊長として、先陣を切って立ち向かっていくために。
     その姿が思い描かれた瞬間、意識しないうちに後藤は彼女を呼び止めていた。
    「……南雲第一小隊長」
      そんな風に呼ばれたこと自体が稀だからだろう、ドアを開けて階段へと一歩踏み出していたしのぶは足を止め、訝しげな顔をしながら後藤の方を振り返る。
     後藤は足を揃えると、夕日に照らされたしのぶにそっと、美しい所作で、敬礼をした。
     後藤のその行動に、 しのぶはほんのわずかの間だけ呆気に取られそこに立ち尽くした。が、すぐに後藤の方を向き直ると、小さく敬礼をし返す。
      時間にしたら、ほんの十秒にも満たない、そんなやり取りだった。
      どちらともなく手を下に下ろしたとき、しのぶが小さく口を動かした。 かすかな声は後藤の耳に届くことはなかったが、しかし、それで十分だった。だから、後藤も小さく口を動かす。「どうもいたしまして」、と。
     その様子に柔らかく笑ったあと、しのぶはきびすを返す。今度こそ階段を下りようとして、だがまた半分だけ後藤の方を向くと、
    「そういえば後藤さん、さっきは呼びに来たのは……」
    「あ! そうそう、真田警部補が書類に判が欲しいって――」
    「なんですって!?」しのぶは声を上げると慌てたように腕時計を見る。「するともう十分ぐらいは……、って後藤さん!」
    「ごめん、言いそびれちゃってて」
    「言いそびれて、ってなに言ってるの! って人のこといっている場合じゃないのよね、とりあえず早く戻って真田さんに謝らないと……。あなたもさっさと戻ってらっしゃいよ」
     言うや否や、しのぶは今度こそ足音を立てながら階段を走るように降りていく。カンカン……という足音が、踊り場に薄く響くのを後藤は聞いた。
      しのぶの言うとおり、ちょっと怠慢すぎたよなあ、と 後藤は心の中で反省する。後で真田にも侘びを入れたほうがいいだろう。明日から先輩たる自分が迷惑をかけないように、改めて気を引き締めないといけない。そう、明日からまた。
      後藤はポケットを探り、煙草を一本取り出した。
      ライターで火をつけ、深く肺に吸い込むと、馴れた煙が中を燻していく。 紫煙をゆっくりと吐き出しながら、後藤はそっとはにかんだ。
      しのぶが小隊長として指揮し、陣頭に立つその姿が、後藤はとても好きだった。
      もう見られなくなるその雄姿や、性格が現れているきっちりとした敬礼、髪をきつく結んだ後ろ姿、制服に白い手袋、無意識に指を咬む癖、小言を言う前の小さな呼吸。
     「後藤さん」と呼びかける、様々なトーンを帯びた、あの独特の響き。
     そういったここでの日常を、これまでのすべてを、まぶたの裏に焼き付けるように、そっと目を閉じてみる。 もう見られないそのすべてを慈しむように。聴くことのない響きをそっととどめるように。ここに残っている彼女の残滓を優しく集めるように。
     やがて懐かしく感じるであろう日々は、こうして分かち合うことなく、ただ互いの胸に仕舞われていく。変わるために終わらせ、また新しいものを始めるために。
      明日から先に待っている未来がどこに行き着くのかは判らない。でも、もう一人の道行きではない。ともに一人で生きることに慣れすぎているもの同士だから、しばらくは朝目が覚めるたびに、一人でないことに戸惑いもあるのだろう。そして、喜びと同じぐらいの後悔も、きっと待ち受けている。
     でも、もし迷ったり、時に立ち尽くしたりしたとき、そっと肩を叩いてくれる手がある。そして相手が惑い、底に沈むときに、ためらわずに手を伸ばすことを許されたのだ。
     だから、次への扉を開けることに戸惑いはない。
    「いざとなったら、ちゃんと背中は守るから、さ」
      ねえ、南雲さん。
     風に向かって 後藤はそっと呟いた。この名を口にするのも最後だと思いながら。
     そう、この名の響きは、彼にとってとても大切なものだった。


      名前とは「ひと」そのもので、そのすべてを物語る、といったのは果たして誰だっただろうか。
      だとしたら、名が変わることは、生まれ変わることに等しい。
     そして今日で南雲しのぶという人物は消えて、明日はこの世界に、後藤を名乗る人が一人増えるのだ。

      長い長いひとつの物語はここに幕を閉じ、また、新しい話が始まっていく。もし明日からの後藤しのぶの新しいページの最初の一行を書くことが許されたなら、後藤は人に見えないようにしながら、素早くこう記すことだろう。
     ――そうしてふたりは、いつまでもしあわせにくらしました。

    いずみのかな Link Message Mute
    2022/07/02 15:25:59

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