細雨来たる An Early Summer Rain 私が審神者の任に就いたのは、時間遡行軍との戦いというものが世間に認知され、審神者を巡る環境も整った頃である。
義務教育を修了する年の健康診断で素質有りとされ、大学を卒業後は審神者となることを契約した。大卒資格が取れるまで待ってもらったのは、私と私の両親による希望だ。万が一のときには、審神者以外の道でも生活することができるようにと考えた。政府だって、個人の人生を勝手に決定するような強権は持っていない。曲がりなりにも我が国は近代国家だ。もしスカウトされた時点で、私が審神者となる道を選ばなかったとしても責められることはなかったはずだ。私のような審神者は少なくない。なぜなら審神者となる契約をすれば高校や大学の学費は免除されるからだ。そしてその間に審神者としての訓練を受ける。軍人のようなものだ。
そのような経緯で、私が新人審神者として正式に本丸に就任したのは、大学を卒業した年の四月一日。新社会人というわけだ。
政府の担当部署から挨拶の後、こんのすけを一匹渡され、施設の奥に設置されたゲートの前に立つ。
これより先は時空の狭間であり神と人の境が曖昧になる場所だ。資質のない人間が踏み入ることはできない。訓練で擬似ゲートを用いて人工的な本丸空間に滞在した経験はあっても実戦は初めてだ。流石に緊張する。
こんのすけを抱き、瞳を閉じてゲートをくぐる。余計なことは考えない。己を空っぽにするイメージだ。
予想より早く、今まで立っていた床と同じ高さで足が着いた。感触は床ではないが土でもない。目を開けて足元を確認すると平たい石の上だ。目の前には立派な和風の玄関。玄関から屋敷の奥に続く広い廊下は見えない。立派な衝立が置かれているからだ。屋敷の中は自然に明るく、外は暖かな日差しが降り注いでいる。床に埃などもなく掃除が行き届いているが、人の気配は全く無い。
「ささ、審神者様。まずは初めの刀をお選びください」
とりあえず屋敷の二階の最も上の部屋、審神者の自室に入り、荷物を置いたところで、こんのすけが話し掛けてきた。
「ありがとう。じゃあ、陸奥守吉行を」
「かしこまりました」
こんのすけがフワリとその場で宙返りをすると目の前に一振りの日本刀が現れた。
それを両手に持ち、目を閉じて押し頂く。どうかその霊力を振るい、我々を助け給えと。
手にあった刀の感触が消え、代わりに強い気配。目を開けば桜色が広がり、はらはらと舞う桜の花弁を纏って一人の青年が現れた。
「わしは陸奥守吉行じゃ」
一通り口上を述べた後、陸奥守は私を見てキョトンとした顔をした。
「どういたがじゃ?」
「あ、や、すみません…腰が、抜けて…」
「へ?」
「さ、審神者様?」
「あ、だって…ふふっ、だってすごくびっくりして、訓練は何回もしたけど、実際にお呼びするのは初めてで、ホッとしちゃって、ごめんなさい…」
失礼なのはわかっているのに、笑いながら涙が出てきた。
「本当はすごく不安だったんです、だって、だって…」
覚悟していたつもりだった。本丸の空間に入ることができる人間はそういない。訓練は十分に施されるがゲートの向こうで起きる問題は審神者がほぼ一人で初期対応を行うのだ。
多くの人間を見てきた心優しい付喪神は十分察してくれたらしい。大丈夫。自分は人間が好きだ。頼ってくれ。共に頑張ろう。そんな内容のことを訛りは強いが温かい言葉で伝えてくれた。
その日のうちに何とか初陣と初鍛刀をこなし、早々に床についた。やはり疲れていたのか、私はすぐに眠りに落ちたのだった。
半月が過ぎた頃、刀剣男士の数は順調に増え、二十人ほどになっていた。人数が少ないときには私も本丸の雑務を行っていたが、刀剣男士の数に比例して書類仕事や手入れなどが増えたため、陸奥守の発案で私は雑務から外れた。屋敷の一階の奥にある一室を書斎とし、そこで執務を行うことになった。部隊編成や内番、近侍のローテーションを組むのも私の仕事だ。
本丸運営の予算と刀剣男士の鍛刀や手入れのための最低限の資材は毎月決まった額と量が支給される。刀剣男士の人数や戦績によっては上乗せされることもある。
刀と言えども人の身を得ている以上、戦の用さえ済めばそのままというわけにはいかない。十分な休息は身体だけではなく精神にも必要なのだ。予算の使い途はいろいろあった。
まず皆が集まる広間にTVとパソコンを設置し、ルールを知っている者が多そうな囲碁と将棋を購入した。そのうちに短刀達がTVで見る玩具に興味を示し始めたので、据置き型のゲーム機と携帯型のゲーム機、それに話題のソフトを幾つか買ってみた。
その一週間後、乱藤四郎と薬研藤四郎が書斎の私のもとにやって来た。薬研は初鍛刀、乱はその次に来た短刀で、他の短刀達の面倒をよくみてくれている。藤四郎の短刀達には一期一振という兄分の太刀がいるらしいが、私の本丸には彼はまだ来ていない。
「主さん、忙しいとこごめんね」
「いや大丈夫。どうしましたか?」
「昨日、大将が言ってたろ。欲しいものや必要なものがあったら、遠慮なく言ってほしいって。でも、皆がばらばらと好き勝手に要望を言いに来たら、大将だって困るだろうと思ってな」
薬研はこちらに一枚の紙を差し出した。何かの一覧のようだ。
「試しに作ってみたんだが、皆の購入希望の一覧だ。これを見て、駄目な物は駄目って言ってくれりゃいい。大将の許可を貰えば、発注は座敷の端末で俺っち達がやる」
薬研の声を聞きながら一覧に目を通す。初めてで遠慮をしたのか、あまり数は多くない。ほとんどは書籍や雑誌、変わった物と言えば陸奥守が出してきている麻雀セットくらいだろうか。
「麻雀…」
「あ〜陸奥守か。あの旦那は新しいもの好きだからなぁ」
「陸奥守さん、やり方知ってるのかなぁ」
「まぁ、初めは説明書を見ながらでも覚えればいいんじゃないかな」
刀剣に人間の年齢を当て嵌めるのは意味のないことだとわかっているが、人型をとっていると、やはり外見の年齢に引き摺られてしまう部分が多い。打刀は少年期の終わりから青年期の男性の姿をしているし、短刀と一緒に遊ぶにも限度があるだろう。
再び一覧に目を落とす。本や雑誌の希望は様々だ。ゲームの攻略本、簡単な料理のレシピ本、園芸、小説、テレビ雑誌、日本史に関する書籍など。特に問題もないし、それほど高価なものもない。現在は座敷に小さな書棚を置いているだけなので、この調子で本を買うなら刀剣達に大きめの本棚も見繕ってもらった方が良さそうだ。
乱と薬研にその旨を伝え、二人が退席した後、今日の近侍である歌仙兼定に声をかける。彼は口を挟まず仕事をしていたが、やり取りは聞いていたはずだ。
「どう思います?今のやり方」
「悪くはないよ。とりあえずやってみてはどうかな」
歌仙は筆を置くと、お茶を淹れようと言って立ち上がった。休憩しようという意味らしい。
しばらくして温かい緑茶と干菓子を運んで来た歌仙に礼を言って、私も休憩に入る。
「さっきの話だけどね、物以外の要望はどうしたら良いだろう」
「物以外ですか。歌仙には何かありますか?」
「そうだね」
「う〜ん、なるべく対応したいと思いますよ。目安箱でも設置するかな…。参考までに、歌仙の希望を聞かせてもらってもいいですか?」
「…本丸の気候、かな」
「気候?」
「ここは毎日晴天で、とても快適だ。とても過ごしやすいよ」
本丸は現実世界に存在するものではないので、そこの気候は審神者によって調節されている。審神者の状態や外敵からの侵攻によって、天候が荒れるという話も聞いたことがある。
私はものぐさではないが、快適であるに越したことはなかろうと、本丸の気候は特に弄っていなかった。
「君が僕達のことを考えてくれているのはわかるよ。そんなこと気にしていない刀剣の方が多いかもしれないしね。だからこれは僕のごく個人的な希望なのだけどね」
歌仙はそう前置きをして話し始めた。
「僕は刀の身であるときから、主人に連れられていろいろな場に出ていてね。四季折々の風情を楽しむ人々を眺めて、僕もそれを感じてみたいとずっと思っていた」
歌仙は書斎の前の縁側から見える庭に目をやる。私も何となくその視線を追って庭を見た。葉が風にさらさらとそよぐ音がする。
「刀の身では感じられなかった風や匂い、空気の暖かさ。はじめはそれだけで感動したよ。今だって変わらない。でも…」
欲が出るのかなぁ、と歌仙は呟いて、私を見た。
「人々が愛でていた桃や桜の木を、実際にこの目で見てみたい。夏の蛍や中秋の名月、墨絵のような雪景色を見て、この身で感じてみたいんだ。もちろん、贅沢な望みだということは知っているけれどね」
「いや、贅沢ではありません。それについてはこちらの配慮不足です。そうですね、反対はないとは思いますが、念のため次回の打合せで皆に聞いてみましょう」
そう言うと、歌仙は大輪の花が綻ぶような笑顔を見せた。
「ありがとう。嬉しいよ!あぁ、そうなったら庭の一角を借りて、花を育てても良いだろうか。季節ごとの花を活けて…」
そこで我に返ったように口を噤んで、何やらごにょごにょ言いながら書類に向き直る。そんな歌仙を見て、私は先程の一覧に園芸のテキストがあったことを思い出した。誰の希望なのかリストを確認するまでもない。
毎週定例の打合せの日。その日は午前中に打合せを行い、午後から執務に取り掛かることにしている。今日の近侍は燭台切光忠で、彼は太刀の中では一番に我が本丸にやって来てくれた刀だ。
「歌仙くん、嬉しそうだったね。彼だけじゃないね、皆、人間の身で季節を感じられるのが楽しみみたいだ。もちろん僕もだよ」
「上手く調節できるかわかりませんし、もし体調不良になるようなことがあれば、すぐ教えてくださいね」
とりあえず、暦通りの季節に合わせてみようという話になり、私は本丸の季節を現世の五月あたりに調節した。風光る皐月、歌仙は上機嫌だったし、短刀達も「空気が変わった!」とはしゃいで庭を探索し始めた。午後に非番の者は昼食後も探索を続けているようだ。
歌仙の要望について、実は私は反省していた。前にも言ったように本丸空間での出来事には、基本的に審神者が一人で対応する。この職に就くまでの研修や訓練で、過去に培われてきたノウハウを学んでいるし、就任後もこんのすけを通じて本部に蓄積された過去の事例を検索することができる。
また、本部の構築したネットワークには審神者同士の交流のための掲示板が置かれており、そこでは他の審神者に向けて質問することもでき、検索をすれば刀剣男士の特徴などもまとめてある。本丸ごとに若干の違いはあれど、刀剣男士の性格や嗜好には傾向があるものらしい。稀に当て嵌まらない個体もあるが、本当に稀少なのであまり心配する必要はない。
そして、それによると歌仙兼定は元の主人が風流人であった影響を強く受けており、金銭的に余裕がある本丸の歌仙兼定は茶道具の蒐集や茶会の主催をしているのだ、と。
私自身には茶道華道の心得などなく、花々を見ても「キレイだなあ」以上の感想は持たない。今までどんなに歌仙をがっかりさせていただろう。歌仙兼定ほどでなくても、多くの刀剣男士達は名のある武将ややんごとなき方々の持ち物であったのだ。私は彼らのために快適な本丸を整えていたつもりであったが、本当にそうだろうか。
例えば目の前にいる燭台切光忠とて、かの伊達政宗公の持ち物で、後に水戸徳川家に贈られたとされる名刀である。先達による彼の評価を纏めると「刀剣男士の中では比較的穏やかな性質で癖もあまりなく、経験が浅い審神者にも扱いやすい」というものだった。世話好きなので個性的な刀剣男士達のまとめ役となることも多いそうだ。
「どうかしたかい?」
燭台切が顔を上げたので私は我に返った。考え事をしながら彼の顔をまじまじと見つめていたようだ。
「疲れちゃった?お茶を淹れようか」
そう言いながら、すでに腰を上げている彼を慌てて制する。
「いえ、疲れてはいません。少し考え事をしていて」
「考え事?」
「歌仙のように物以外の要望を皆さんも持っておられるのかな、と」
「なるほどね」
「もしかして燭台切も何かありますか?してみたいこととか」
「僕?うん、無いこともないかな」
燭台切は少し照れたように笑った。私が黙っているので続きを促されていると思ったらしく、彼は控え目な口調で言った。
「君を困らせたくないから言わなかったんだけど、僕は料理をしてみたいんだ」
「料理」
意味がわからなかったので、とりあえず復唱した。それは毎日の食事当番とどう違うのか。
「あぁ、毎日の食事当番とは違うんだ。だってあれは献立が決まっているだろう?」
「はい」
この本丸の台所は広い。刀剣男士達は厨と呼ぶが、学校にある給食調理室のような設備である。銀色に輝く業務用冷蔵庫と冷凍庫、何十人分もの焼き魚が作れる専用のオーブン、巨大な炊飯器が五台、ひっくり返すためのハンドルが付いた大釜、風呂桶のような流し台、備え付けの巨大食洗機…初めて見たときは驚いたし、少人数のときは逆にもてあまし気味だったが、本丸の構成員が十人を超える頃には、この設備の必要性を理解した。付喪神とはいえ食べ盛りの男性が数十人暮らすとなれば食事の量は大変なものになるだろう。
そして次に悩んだのが献立だった。カレー、シチュー、豚汁のようなものばかり作るわけにはいかない。しかし十人を超える分の食事を毎食セットするだけでも一仕事だ。審神者の掲示板で同様の悩みを検索すると、毎週一週間分の献立と必要な食材を届けてくれるサービスを使うという解決方法が示されていた。申込むときにわかったが、献立は一月分が決まっているらしい。届く食材は下拵え済なので、こちらで加熱と味付けをすれば良い。
これならば料理の得手不得手は関係なく、平等に食事当番を組める。味もなかなか美味しいし、短刀達は献立表を眺めて好物が出る日を楽しみにしている。私は全て解決したと思っていた。
「実は大殿は料理が趣味のお方でね、客人があった際には自ら腕を奮っておもてなしされてたんだよ。折角この身体を得たのだし、僕も料理に挑戦してみたいなって思ったんだけど、僕が来たときにはもう食事の準備の仕方は決まってたよね」
少し眉尻を下げて困ったように笑いながら燭台切は言った。
そうなのだ。燭台切が顕現したときには、既に今のやり方を始めた後だったのだ。
しかし、どうすれば良いのだろう。出陣だけではなく、その他の当番もある燭台切にずっと食事当番を任すわけにはいかない。公平性を考えると食事当番専任にするわけにはいかない。食材サービスは何ヶ月単位で発注しているので、途中で減らすのも難しい。
そもそも私は勘違いしていた。審神者用掲示板の燭台切光忠の項には「家事(特に料理)が得意なものが多い」と確かに書かれていたが、私はそれを「家事の当番を厭わず、文字どおり家事が得意」くらいの意味に受け取っていた。
趣味としての料理。私の両親は共働きで決して家庭的なタイプの人間ではなかったため、私も家事を趣味とする発想がなかった。
「ごめんね、こんなこと言って。君を困らせるつもりはなかったんだよ」
私が黙って考え込んでしまったので、燭台切に気を遣わせてしまったようだ。
「ううん、困ってなんかないですよ。…ちょっと待っててくださいね」
私は立ち上がって縁側の下駄を履き庭に降りた。確か彼は午後非番だったはずだ。
「やや!これは主殿!」
数歩進んだところで鳴狐に声をかけられた。散策していたのだろうか。
「陸奥守を見ませんでしたか?非番だし、季節を変えたので庭を見て廻っているかと思ったのですが」
「ええ、おられましたよ。作物の様子が見てみたいと言って、畑当番について行かれたようでございます」
「呼んでこようか」
お供の声の終わりに被せるように、鳴狐本人が小さな声で喋った。
「お願いします」
「お任せくだされ!」
「ほいたら、主と近侍の昼食分を作ればええんじゃにゃあか」
陸奥守はポンと手を叩いて言った。
「そうすると昼食が二食分余りませんか?」
「主はわしらの食欲わかっとらんのぉ。余裕ぜよ!むしろ取り合いぜよ!」
「取り合いは困りますねぇ」
「燭台切も出陣や遠征があるがじゃき毎日は無理じゃろ。でも昼食二人分くらいならどうとでもなるき。厨にゃ、まだ頭数が揃うとらんかったときの五徳、"こんろ"言うんか?あれがあったじゃろ。あの辺の道具を使うたらええ」
「ありがとう、陸奥守くん。でも他の皆はそれでいいのかな」
「皆にはわしから説明するぜよ!近侍は順番に回ってくるんじゃ。自分も食べられるなら文句言うもんはおらん」
そんなわけで、燭台切は審神者と近侍の昼食に腕を奮うことになった。食材は本丸への通販を使う。前日の18時までに発注すれば、珍しい食材でない限り翌日の朝に届く。配達員がいるわけではなく、午前9時に本丸の玄関に箱が現れるのだ。便利なものである。
結果から言うと、燭台切の料理の腕は確かだった。基本のレシピを確認すると少しアレンジを加えて見事な料理を拵えた。素人の私から見ても栄養バランスが良く、見た目も美しい。なるほど料理が趣味というのはこんなレベルなのか。
今日の近侍は長谷部だった。出会い頭に「長谷部と呼んでほしい」と言ってきた、やや変わり者だ。少し偏屈なところはあるが真面目で、元々器用なのか、何をさせてもソツなくこなす。
正午になり、燭台切が膳を二つ、書斎に運んで来た。
「お疲れ様。ご飯持ってきたよ」
「ありがとうございます、燭台切」
「ほら、長谷部くん。ご飯のときは仕事を休んでね」
「わかっている」
膳を見ると、今日は鰤の照り焼き、いんげんの胡麻和え、豆腐とワカメの味噌汁、蓮根の金平だ。特に珍しい料理ではないが、燭台切の料理はとにかく私の味覚に合うのだ。私が顕現させたことも関係あるのかもしれない。
「いただきます」
手を合わせて食べ始める。美味しい。
「どうかな?」
「美味しい!美味しいです燭台切。私の語彙力がなくて、いつも同じ感想ばかりで申し訳ないくらい」
「美味しいって言ってもらえるのが一番嬉しいよ」
「確かにうまいな。お前にこんな才があったとはな」
「ありがとう。長谷部くんに褒めてもらえるなら本物かな」
結局、燭台切は私と長谷部が食べ終わるまでそこにいた。自分のお昼はいいのだろうか。食事の後、膳を下げようとする燭台切に長谷部が後片付けの手伝いを申し出て、二人して部屋を出て行った。
今日は朝から曇り空で、障子を閉めて仕事をしていたのだが、二人が出て行くときに空がちらりと見えた。今にも雨が降りそうだ。そう言えば、もうすぐ季節は梅雨である。
「片付け手伝わせちゃって、ごめんね」
厨には誰もおらず、食洗機が動く音だけが響いている。燭台切と長谷部は流しに食器を置くと、スポンジを泡立てて洗い始めた。
「燭台切、俺は何とも思ってないから安心しろ」
「え?」
「俺は働きで主に認めていただくことが望みだ。お前のような…」
「ちょっと、ちょっと待って、長谷部くん!」
「いつも誰よりも主を気に掛けている俺が気付かないとでも?」
「え、ああ、そうかぁ。かっこ悪いなあ」
「俺は主をお慕いしているが、お前のそれとは違う。主がお望みなら構わん。ただし、主の意に反する近付き方をしたら貴様の本体をへし折ってやる」
「怖いなぁ。……気付いてるの、キミだけ?」
「さあな。俺達は長いこと人間を見てきたし、気付いてないのは主本人くらいかもしれん」
「そんなにわかりやすかったかい?一応僕も長生きのつもりだったんだけど」
「それは刀としてだろう」
長谷部は泡を流した食器を水切りカゴに並べ始めた。
「刀として、か」
ならば自分はどうだろう。燭台切は手を止めずに考える。自分の刀としての生は、まだ続いているのか。
今日は乱藤四郎は畑当番だった。相方は蜂須賀虎徹。大事にされてきたためか誇り高い故か、蜂須賀は畑仕事や馬の世話に嫌悪感を示す刀だ。彼を宥めすかしながら畑仕事を進めていたが、午後に入ると空がどんどん暗くなり始め、やがてポツポツと雨が落ち始めた。
「これは駄目だね。蜂須賀さん、今日は片付けちゃおう」
「ありがたいよ」
農具を納屋に戻すと、急いで本丸に駆け戻った。玄関を汚すことは憚られたので勝手口に回る。
「ちょっと、ちょっと待って、長谷部くん!」
「いつも誰よりも主を気に掛けている俺が気付かないとでも?」
昼の片付けも終わり、誰もいないと思っていた厨から声がする。
「俺は主をお慕いしているが、お前のそれとは違う。主がお望みなら構わん。ただし、主の意に反する近付き方をしたら貴様の本体をへし折ってやる」
「怖いなぁ。……気付いてるの、キミだけ?」
乱と蜂須賀は顔を見合わせると、そっと勝手口を閉めた。とりあえず雨のかからない軒下に立つ。
「何!?何なの今の!」
乱は声を抑えて、それでも興奮気味に青い瞳を輝かせながら蜂須賀に問う。
「長谷部と燭台切だったようだが…」
「そうじゃなくてさ!今の話!燭台切さんが主さんのことを…」
「確かにそう取れる内容だった」
「うっわぁ!どうしよう!本丸内恋愛だなんて、刀剣男士と審神者の禁断の恋ってやつ?僕、困っちゃう!」
「いや、その理屈はおかしい」
「こうしちゃいられないよ!蜂須賀さん、来て!」
「お、おい!乱!」
乱によって短刀が寝起きしている部屋に集められた刀剣男士は、平野藤四郎、秋田藤四郎、鯰尾藤四郎、山姥切国広、大和守安定、そして蜂須賀虎徹であった。
乱の話を聞いた鯰尾が目をキラキラさせる。どうも藤四郎の刀剣達はこの手の話が好きな者が多いと、蜂須賀は思う。
「刀剣男士と審神者の禁断の恋ってやつですね!」
「何それ?こないだのドラマみたいなやつ?」
さして興味もなさそうに煎餅を齧りながら大和守安定が尋ねる。
「それで、何だって俺まで呼ぶんだ…」
非番の日のジャージ姿でもトレードマークの布を手放さない山姥切が、ぎゅうと布を顔の前に下ろしながら呟いた。布越しに蜂須賀を見ているのがわかる。「あんたがついていながら…」と言いたいのだろう。
「そう言えば、僕は先日の近侍の際に御相伴にあずかったのですが、燭台切さん、とてもお優しい目でお食事をされる主君を見ておられました」
秋田がふわふわと言う。
「そうかぁ、あれはそういうことだったんですね」
「私も長谷部さんと同意見です。主君が望まれるなら、私は何も言いません。燭台切さんに限ってそんなことはないと思いますが、万が一にも主君に無理強いをするようなことがあれば、この平野藤四郎、刺し違えてでも主君をお守りいたします」
「まあまあ、確かに主さんの気持ちが一番大事だけどさ、僕は二人にくっついてもらいたいんだよね」
短刀の本分を語る平野を乱が制する。山姥切は眉間に皺を寄せた。
「…だったら放っておいていいんじゃないか。主にその気があれば自然にくっつくだろ」
「もー!わかってないなあ」
「悪かったな。だいたい俺はこういう話は苦手なんだ。もういいだろ」
「考えてみてよ。主さんはとても良い主だけど、僕らに対してちょーっと距離があるっていうかさ。遠慮してるでしょ?たぶんお役目大事で真面目なんだと思うんだけど、その分他人行儀じゃない」
乱の言葉に鯰尾が続ける。
「あーわかるなあ、それ。何て言うか『私の刀剣!』って思いが足りないと言うか」
バンッとちゃぶ台を叩く音がして、皆がそちらを見た。大和守安定がちゃぶ台に手をついた音だった。
「そう!それ!まるで大事な預かり物みたいでさ!こないだ清光とも話してたんだよ、独占欲バリバリの主って良いよねーって。良い主なんだけどさ、僕らはもっと肉食系で来てほしいんだよね」
「君達二人そんな話をしてるのか」
蜂須賀が額に手を当てる。
「何言ってるの蜂須賀さん。大事なことだよ。主さんが僕らに執着しないってことは、いつ審神者を辞めてもおかしくないってことなんだよ!」
「な、なんだってー!?」
乱の言葉に蜂須賀だけでなく、その場にいた全員に電流が走る。
「…そ、そんな…主君…」
秋田はすでに涙目になり、山姥切の顔からも血の気がひいている。
「だってお仕事だもん。そして、ある日突然、現世に親が決めた許嫁がいるってわかったら?それが上流階級出身の美男子だったら?」
「上流?」
「でも、すでに心に決めた男性がいるヒロインは真実の愛を貫き通すの!そういうものなの!そのためには」
「燭台切と恋仲になってもらっておけば、主は現世に帰らないということか」
乱が少女漫画から仕入れたであろう単語や設定は理解できなかったが、言わんとすることは全員が理解した。
要するに、刀剣男士に対していまいち遠慮がある審神者に、燭台切を通じてもっと執着してもらおうという作戦だ。
燭台切の恋心など二の次で、彼をダシに使っているのではと蜂須賀あたりは考えたが、彼とて自分を顕現させた主が現世に帰る可能性を示唆されれば冷静ではいられない。これは付喪神の本能のようなものなのだ。
「決まりだね!それじゃあ、皆で燭台切さんの恋を応援しちゃおう!」
乱藤四郎がノリノリで宣言した。
力をお貸しください、お助けくださいと声がした。溢れる霊力を感じてゆっくりと瞼を持ち上げる。
はて自分に瞼などあっただろうか。
光を感じる。力を貸してほしいと祈る人間の霊力が自分の魂を揺り起こしたのだ。
現世ではとっくに刀としては役に立たない。
それでもかつての煌めきを取り戻し、それを振るえるのなら。
そして再び人間の役に立てるのなら。
君の元へ行こう。
審神者と燭台切光忠を恋仲にしよう!と張り切った二週間後には、これはなかなか困難なことだと乱藤四郎は気付いた。
「……隙がないな」
鯰尾藤四郎の兄弟分の脇差である骨喰藤四郎が呟いた。鯰尾、骨喰、乱の三人は短刀部屋に集まっている。外は今日も雨だ。
彼らの今の主である審神者は、判で押したように、毎日きっちり同じ時間に起床し、働き、そして寝る。食事は朝七時に大広間、正午に執務室、夜七時に大広間で決まった時間に摂り、夕食後は二階にある審神者専用の浴室で湯を使い、その後は夜十一時の就寝まで自室で読書などをして過ごす。
審神者の自室の隣には近侍の控室があり、審神者が就寝した一時間後の正子に次の近侍と交代することになっていた。朝六時に審神者に声を掛けるのは近侍の仕事だが、近侍のが声を掛けるときには、彼女はいつも身嗜みを済ませている。
もしかしたら常に格好を気にしている燭台切が気に入ったのは、彼女のそういうところかもしれない。
実は昨夜、審神者の入浴後を見計らって乱と秋田で彼女を刀剣男士がくつろぐ広間へと連れ出したのだ。近侍だった今剣もついて来た。
燭台切の方は、鯰尾と彼から事情を聞いた骨喰が風呂場で声を掛け、広間へ誘導してくれていた。
ところが珍しく夕食後に審神者が姿を現したので、手が空いている刀剣男士達が何となく集まり、結果として広間はいつもより賑やかになった。
そうなると世話好きな燭台切は、お菓子があったかな、お茶を持って来ようかと席を立ってしまうし、事情を知らない獅子王や愛染国俊、にっかり青江までもが次々と審神者に話し掛けてきて、肝心の彼女と燭台切はほとんど会話を交わさないまま終わってしまった。
そのときも、乱は何とか審神者の恋愛観を聞き出そうと、少女漫画雑誌を開いて「主さんの好きなタイプはどれ?」と尋ねてみた。
しかし、「うう〜ん、私にはよくわからなくて……」と困惑させてしまい、隣でのぞき込んでいた今剣に「このえまきにかかれているおとこは、しょくだいきりやはせべににていますね。でも、しょくだいきりやはせべのほうがずっとうつくしいです」とご尤もな意見を言われてしまった。
他にも、大広間での食事の際に、上座にいる審神者の目の前の席に燭台切を座らせたりもしたが、当の燭台切は挨拶と当たり障りのない短い会話を彼女に振るだけだった。そのくせ、審神者が燭台切の方を見ていない時には彼女を見つめていたりする。あの調子なら遠からず、長谷部や自分達以外の刀剣の中にも気付く者が出るだろう。
「燭台切さん、自分のかっこよさに自信ありそうなのに、何でもっと大胆にいかないのかな」
鯰尾が腕組みをして誰に尋ねるともなく言った。
「無礼討ちが怖いんじゃないか」
しれっと涼しい顔で言ったのは骨喰である。
「無礼討ちって誰がするのさ、長谷部さんとか歌仙さん?」
「いや、刀解されるかもしれないだろう。主殿に」
しん、と短刀部屋が静まった。
「いやいやいやいや!何言ってんの骨喰!怖いこと言うなって!!」
「そうだよ!秋田や五虎退がいなくって良かったよ!!そ、それに主さんが僕らを刀解なんてするわけないでしょお!!」
「そうか。すまない」
特に深く考えての発言ではなかったのか、骨喰はさらりと前言撤回した。
「ただ僕、ここ最近ずっと主さんを見てて、少し心配になってきちゃったよ」
ふっと息を吐いて、乱藤四郎は何かを憂うような表情をした。
「……主さん、戦ってる僕達のために頑張ってるけどさ。じゃあ、誰が主さんを労ってあげるんだろうって」
その日の昼食後、大和守安定と加州清光は広間の縁側に座ってオセロに興じていた。本来なら大和守は遠征の予定だったのだが、今日は中止になったのだった。
このオセロという遊戯について、初めは囲碁のようなものかと思った。相手の駒を挟むことでひっくり返していき、最終的に自分の陣地が広い方が勝ちだと教わったときも、囲碁よりも単純そうだというのが感想だった。
しかし実際に遊んでみると、これがなかなか奥が深い。それから大和守と加州は二人でよくオセロを遊ぶようになった。たまに短刀の相手をしてやることもある。自分達の所縁の刀には短刀がいないが、元の主人は子供好きで、血腥い任務の合間にも屯所の近所の子供達と一緒に遊んでいたものだ。
「そういや、アレどうなったの?」
「アレ?」
自分の番に盤面を眺めていると加州が声をかけてきた。上目遣いにちらりと加州を見て、大和守はすぐ盤面に目を戻す。
「燭台切の」
「あぁアレねー」
大和守はぱちりと自分の白を置き、黒を二つひっくり返した。この流れだと清光に角を一つくれてやることになるな、と考える。
「何も進展なし。確かに主も僕らも忙しいけどさ、ちょっと情けなくない」
「あの人、あんな見た目なのに奥手だよね。もっとガツガツいくタイプかと思ってた」
「まーねー。主も主だけど」
「主、全然気付いてないの?俺さ、安定から聞く前から気付いてたよ。どう見たって燭台切は主のこと好きでしょ」
「鈍いよね、主。応援するって言っても、僕ら皆本丸にいるんだから、二人きりにさせることも難しいし」
「いっそ二人で万屋にでも行ってもらったら?」
「行ってどうするのさ」
「安定、知らないの?こないだ新しい甘味処ができたんだって」
「マジで?」
「マジで。先週届いた荷物と一緒にチラシが入ってた。調べたらさ、けっこう人気らしいよ。マンゴーとココナッツクリームのパンケーキ」
「何それ!絶対行くやつじゃん!」
「だよね!今度の非番が重なる日いつだっけ?」
すっと襖の開くか細い音がしたので、二人は会話を止めてそちらを見た。真っ青な着物からのぞく痛々しいほどの細い手足に包帯を巻いた少年、小夜左文字だった。両手で胸の前に大きな本を抱えている。
「小夜じゃん。何、一人なの?」
加州が聞くと、小夜はこくりと頷いた。
「こっちおいでよ」
大和守が優しい声で招く。小夜はとことこと近付いて来た。口数は少ないが根は素直な短刀である。
「宗三は出陣だったっけ?」
「うん。僕はここで借りた本を返しに来たんだ」
ほとんど表情を変えずに小夜は答えた。
「何の本?」
「園芸…植物の育て方の本だよ」
「へえ、何か育てるの?」
「育ててるのは僕じゃなくて、歌仙。とても嬉しそうに育ててる。でも……」
小夜はすうっと庭を見た。
「最近、雨が多いから…ちょっと心配かな…」
現世の暦では六月。本丸も梅雨を迎え、今日も朝からしとしとと雨が降り続いていた。
一時は順調に増えていた刀剣男士だが、最近は鍛刀がうまくいかず、新しい刀剣の顕現がなかった。
日々の時間遡行軍との戦も、大太刀、薙刀、槍などがいない編成では戦闘が最も激しい最前線まで辿り着けない。もちろん、そのような最前線にはベテランの審神者達が練度の高い刀剣男士を率いて攻略にあたっている筈で、私のような新人審神者の出る幕はないのだが。
(焦るな、焦るな)
湿度のせいで乾くことなく、皮膚と着物の間にじっとりと溜まる汗が不快だった。
今朝方、こんのすけを通じて遠征中止の連絡があった。遠征先の各時代に於いて異常気象とも言える長雨が続いており、刀剣男士の安全を考慮した結果だそうだ。そのため、今日は急遽非番になった刀剣男士達が本丸にいる。
皆も不快だろう。せめてもう少し快適にと気候の調節を試みるが上手くいかない。やはり私は未熟者だと、軽く落ち込む。
近侍の平野藤四郎に処理済みの書類を渡して綴じてもらうよう頼み、机に目を戻すと、スマホに先輩審神者からメッセージが来ていた。
『そろそろ審神者就任二ヶ月だね!調子はどう?あまり無理しないでね!』
現世での訓練のときに指導に来ていた中堅の審神者で、気さくな人だった。「本丸では現世のインターネットは繋がらないけど、審神者専用のネットワークが使えるから、無事に審神者になったら連絡ちょうだい」と連絡先を教えてくれたのだ。
少し考えて返事を打ち始めたとき、再び先輩からメッセージが来た。
『ところで、貴方のところは天候いじってる?どうも上手く調節できない本丸が多いみたいでね』
指が止まった。これはどういう意味だろうと考えていると、ふっと手元に影が差した。
「どうかされましたか?主君」
いつの間にか平野が後ろからスマホを覗き込んでいた。疚しいことなどなかったが、反射的にスマホを隠してしまった。
「あ!申し訳ありません、盗み見るつもりはなかったのですが」
「何でもないですよ。ただ審神者の先輩から…」
言い終わる前に、書斎の前の縁側に誰かがやって来た。
「おい、鍛刀が終わったぞ…何をやってるんだ、あんたら」
「あ、ありがとうございます。すぐ行きます」
私を呼びに来たのは大倶利伽羅だった。先輩への返事は気になったが、急いで鍛冶場へと向かった。
鍛冶場につくと、刀鍛冶の精霊が恭しくこちらに一振りの刀を差し出してきた。
蒔絵の施された鞘が美しい。
両手で刀を押し頂き、一心に祈る。しかし刀は応えてはくれない。
「…ダメかな」
久し振りにうまくいった鍛刀だったのだが。精霊が申し訳なさそうにこちらを見ている。
「気にしないでください。精霊さんのせいじゃないんですよ」
きっと駄目なのは私だ。
「主君、大丈夫ですか?」
私を追いかけてきたらしく、平野が鍛冶場の入り口に立っていた。後ろには大倶利伽羅もいる。
「おい。顔色が良くないぞ」
「主君、少しお休みになられては…」
平野が大きな声で私を呼んでいる。
上下の感覚がなくなって、床が壁になる。
持っていた刀が心配だった。
綺麗な刀なのに床に叩きつけられるのは可哀想だ。
気が付くと、見慣れた天井が見えた。
どうやら自室の布団に寝かされている。
「あ、気がつかれましたか」
「良かった。とりあえず一安心だ」
布団の横に目をやると、平野と歌仙がいた。
「頼むから無理をしないでくれ。多分、貧血だとは思うが……」
歌仙が眉間に皺を寄せて少し怖い顔をして言った。私はゆっくりと上半身を起こして自分の額に手を当てた。まだ少し頭がふらふらする。
「疲れているのかい?確かにここ数日は蒸し暑いけれど」
確かに疲れているのかもしれない。そういえば先輩のメッセージにも返事をしていなかった。
「この気候が身体に堪えるなら、別に変えてもらっても構わないのだよ。季節を感じることができるのは嬉しいが、主が病気になっては元も子もないんだ」
「はい。でも…」
「でも?」
「調節しようとはしたんですけど、上手くできなくて。きっと私が未熟なせいです…」
ぽたぽたと手の甲に涙が落ちた。歌仙はふうと小さく息を吐いて、盆に載せてあった手拭いを私の頬に当てた。
「そうかもしれないね」
ぽんぽんと優しく涙を拭いながら、歌仙は言った。
「仮にそうだとして、君がそれを嘆く必要はない。人間はそういうものだ。僕らはずっと見てきたよ。人間は成長する。本人に自覚がなくてもね。泣いたら咽喉が乾くだろう。燭台切に何か運んでもらうから、それまで少しでも休んでおくといい」
審神者が泣き止むのを見届けて、歌仙と平野は部屋を出た。
階段を降りて、屋敷で囲われた小さな中庭を見ると、天気は相変わらずの雨で、軒を伝って石の上に雨垂れが落ちている。
「人間は…あっという間に成長するから」
そうして、僕達の前から居なくなってしまう。
廊下の端の曲がり角を見て、その向こうにある厨で主のために働いているであろう仲間を思う。主のことが大事であるのは歌仙とて変わらない。それは他の刀剣男士達も同様だ。でも彼は違う。
「君もわかっていないわけではないだろうに、難儀なものだな」
歌仙から審神者が倒れたと聞いて、燭台切は動転したが、おそらく貧血だろうということと、何か飲み物を持って行ってほしいことを伝えられた。
「それはいいけど、本当に大丈夫なのかい?」
「きっと疲れもあるんだろう。後々のことは陸奥守と薬研が戻ってから相談しよう」
「そうだね」
折悪しく、今日は初期刀と初鍛刀の二振りが出陣中だった。
貧血ならばカフェインの入った飲み物はよくないだろう。本当は白湯が良いのかもしれないが、この蒸し暑さだ。燭台切は少しの蜂蜜を少量の湯で溶かすと、そこにレモンを絞り氷と水を入れて軽くかき混ぜた。審神者本人が良いと言ってくれれば鉄分たっぷりの夕飯も作るのに、とも思う。
準備が終わり、レモン水の入った水差しとコップを乗せた盆を持って廊下を歩いていると、平野と乱、鯰尾に呼び止められた。鯰尾は何かを隠すように後ろに手を回している。
「やあ、どうしたの?ちょっと今から主のところへ行かなきゃいけなくて…」
「それは平野から聞きましたよ。主、元気ないんでしょう?」
「僕らも主さんが心配なんだけど、あまり大勢で押しかけないほうがいいって平野が言うから」
「主君は年頃の女性ですし、お花をご覧になれば気分も晴れるかと思いまして」
「これ、ちょうど今、俺達が庭で摘んできたんです!」
鯰尾が背中に回していた腕を前に出した。薄紫色の紫陽花だ。歌仙が植えたものではなく、初めから本丸の庭に植わっていたもので、燭台切にも見覚えがあった。
今しがた摘んできたという証拠に、全体が濡れている。
「じゃ!よろしくお願いします!」
鯰尾は燭台切が持っている盆の上に紫陽花を乗せた。そして粟田口の三人はくるりと向きを変えると、ほとんど体重を感じさせない軽い足音を立てて廊下を走って行ってしまった。
私は途中になっていた先輩とのメッセージの返信をするため、 布団の上で上体を起こしていた。
確かに天候は弄っているし、最近はあまり調節が効かないのも事実だ。
『天候は変えていますよ。ここ数日はちょっと調子が良くないですね。少し疲れているのかもしれません』
先輩が何を心配しているのかはわからないけれど、なるべく軽い調子で事実だけを伝えることにした。
送信を押したところで、襖の向こうから声が掛かった。
「主、飲み物を持ってきたよ。開けてもいいかな?」
「はい。ありがとうございます」
返事が終わるのを待って燭台切は襖を開けた。
「具合はどう?」
「もう平気です」
「それは良かった。でも無理しちゃ駄目だよ」
燭台切は軽く笑いながら布団の横に盆を置いた。
「あら、これは?」
「ああ、それはね、君に」
「え?」
「君にって、鯰尾君と乱君と平野君から」
「あの三人から?可愛い…」
審神者はまだ濡れている紫陽花を手に取った。
「うん。可愛いよね」
「……私が、未熟なばっかりにご迷惑をおかけしているのに、こんな…」
燭台切は紫陽花を持つ審神者の手に自分の手を添えた。
「そう思う?君は自分がどんなに自分の刀剣に好かれているのか、わからない?」
「え…」
「皆、君ともっと仲良くなりたいんだよ」
「でも、いえ、こちらの都合で戦っていただいているんです。私の役目は…」
「だからこそ、だよ」
「燭台切?」
「ねぇ、主。僕らは確かにモノに宿った付喪神だけれど、本体である刀を作ったのは人間なんだよ。誰かが作って、何人もの人達が大事に大事にしてくれた。誰かが欠けたら、何かが足りなかったら、僕らはここにいなかったかもしれない。だから僕らは人間が好きだよ」
燭台切は紫陽花から手を離し、両手で審神者の頬を包み込んだ。
「特に、自分が主と定めた人間のことはね。主が僕らのためを思って、いろいろ頑張ってくれているのは嬉しいよ。大事にされてるって実感できるのは幸せだよ。でも、それが君の負担になるのは嫌なんだ」
「……」
「それにね、気を悪くしないでもらいたいんだけど、物として大事にされるのは慣れてるんだ。加州くんみたいなことを言うと思うかもしれないけど、ずっと大好きだった人の身体になれたんだ、人みたいに愛してほしい」
「え、でも、それってどうしたら…」
「何も難しいことじゃないよ。そうだね、試しに敬語をやめてみるとか」
「そ、それは急には難しいです…」
「じゃあ、名前で呼んでよ」
「…粟田口の短刀はどうすれば…あの、燭台切…」
「何?」
「せっかく持って来ていただいたお水が…」
審神者に指摘され、燭台切は弾かれたように膝元を見た。もう少しで、水差しを倒してしまうところだった。
「美味しい!さっぱりしてますね!」
「……僕としたことが、かっこ悪い」
ふふっと審神者が笑ったので、燭台切も苦笑いをしつつ彼女を見た。
「そんなにおかしいかい?」
「だって、燭台切のそんな姿、初めて見たから」
「そうかな?まあ、僕はいつだってかっこ良くありたいと思ってるからね」
「ふふっ、じゃあ私と同じですね」
予想外の答えに、燭台切は笑いをおさめて彼女を見た。彼女は近くの文机にコップを置いて燭台切に向き直った。
「私も、私の思い描く理想の主、刀剣男士の皆さんにふさわしい凛とした立派な審神者になりたいんです。歴代の持ち主の方たちには及ばずとも、皆さんが誇りに思ってくださるような、そんな本丸の主にです。本丸の天候一つまともに動かせずに何をと思われるかもしれませんが、私は…」
審神者の言葉はそこで途切れた。燭台切が彼女を思い切り抱きしめたからだ。
「しょ、燭台切、苦し…」
「あ、ご、ごめんね主」
太刀の力で抱きしめられれば苦しいだろう。燭台切は慌てて腕の力を緩めたが、彼女を抱くことはやめなかった。
「しょく」
「大好きだよ」
自然に口をついてこぼれた言葉だった。
全く理解できなかった。
気が付けば、たくましい腕に抱きしめられていた。
身動き一つとれず、目に入るのは彼が非番のときに本丸で着ている黒いジャージの生地だけだった。
彼の表情さえわからず、とりあえず名前を呼ぼうとしたときに、声が聞こえた。
「大好きだよ」
彼の腕の中で身体をよじって、何とか上を向いた。
今度は視界いっぱいに、隻眼の金色が見えた。金色の焔そのものではなく、焔の揺らめきを映す金色の燭台の色だ。
「大好きだ」
彼はもう一度言った。
音なのか衝撃なのかわからなかった。両方だったのかもしれない。
何か大きなエネルギーが本丸を直撃したのがわかった。
それと同時に暗闇が這い上がり、その中に感じる、おぞましい気配がぞくぞくと背中を駆け上った。
「何事だ!?こんのすけ!」
燭台切は私を左腕にかばうよう抱え込むと、右腕を広げた。右手の中に当然のように、先ほどまでなかったはずの、一振りの太刀が収まっている。
本体を喚んだのだ。
こんのすけが部屋に飛び込んできた。
「敵襲でございます!本丸の結界が破られます!審神者様!刀剣男士にご指示を!ご自身は避難してください!」
「結界が?どうして…」
「考えている時間はないようだね。敵の数がわからない以上、こんのすけの言うことに従うのが良さそうだ。主、みんなに指示を出して。君を逃がす」
「わかりました。でも私一人では逃げません。皆さんも一緒です」
私は文机の上にあった神楽鈴を手に取って振った。これで本丸の刀剣男士達には敵襲のことが伝わるはずだ。
鈴が鳴り終わると同時に、廊下を走る足音が近づいてきた。
「主君!ご無事ですか!」
秋田藤四郎が部屋に駆け込んできた。
「秋田くんか。こんのすけ、主を逃がすにはどうすればいいんだい?」
「ゲートから現世へお戻りいただきます。現在、ゲートは刀剣男士の出陣に用いるため、本丸の正門に設置されております」
「つまり、敵の規模はわからないけれど、そこまで行かなきゃならないってことだね」
審神者の部屋は本丸の二階にあり、一階に下りる階段は玄関に比較的近い西側と、もう一つは反対方向の東側にあった。
窓から庭を見下ろしたが、どろどろとした黒い靄に包まれていて様子がわからない。ただでさえ空は厚い雲に覆われ、雨も降り続いているため、昼間であるにも関わらず薄暗いのだ。
「正門に一番近いのは玄関ですから、西の階段が近いです。僕は渡り廊下にいましたが、主君のお声を聞いて、そちらから上がってきました」
「敵の姿は見たかい?」
「はい。あれは時間遡行軍です。結界が破られたと言っても、さすがにまだ本丸に足を踏み入れることはできないみたいですね。…時間の問題ですけれど」
「なるほどね、こちらの本拠地に攻め入ろうってわけか」
私は一つ気になることがあった。
「あの、鍛冶場に寄れませんか」
「鍛冶場?」
「実は、倒れる前に鍛刀が終わったんです。とても綺麗な刀で。でも私の力が及ばず顕現していただくことができませんでした。あの刀が、まだ鍛冶場にあるはずなんです。顕現はしていませんが、彼も私の刀剣です」
本丸は多少複雑な構造をしているが、大まかには漢字の「呂」に近い形をしている。大きな四角の方に、表玄関や大広間、厨、手入れ部屋、刀装部屋そして鍛冶場などがあり、渡り廊下を挟んで刀剣男士や審神者の寝室やくつろぐための広間などの生活空間になっていた。
私達が今いるのは小さな四角の方の二階。一階には非番でくつろいでいた者もいたはずだが、私の声を受けて臨戦態勢をとったはずだ。鍛冶場は本丸の北東にあり、西の階段を下りて廊下を奥に進んだ先だ。そして玄関とは正反対の方向である。当然、反対されるだろうと思っていたが燭台切はふむと考えている。
「相手もこちらが逃げ出す可能性を考えているだろう。だとしたら、本丸の正面に敵が集中するかもしれない」
「燭台切さん、庭を通って正門まで行くのは危険でしょうか」
「相手の数がわからない以上、迂闊に広い場所には出ないほうがいい。出るにしても、せめて北西の勝手口から…」
燭台切と秋田は素早く相談をまとめている。見た目は幼いが秋田藤四郎にも出陣経験があるのだと、場違いにも私は感心した。
「主、僕から離れないでと言いたいところだけど、なるべく秋田くんの側にいてね」
燭台切は刀の目釘を調べながら私に言った。
「時間遡行軍の瘴気だよ。戦場みたいに拓けた場所なら散ってしまうんだけど、建物の中だとそうはいかない。庭も、窓から見た限りでは塀のおかげで瘴気が散らないみたいだ」
あの黒い靄のことだろう。あれは瘴気だったのか。私のような人間は時間を遡ることはできないので、時間遡行軍を直に見たことなどない。すっと肝が冷えるのがわかった。今から私は彼らと接触するのだ。
「僕は太刀だから夜目が効かない。そうでなくても室内の戦闘には太刀は不向きなんだ」
確かに障害物の多い室内で太刀を振り回すのは難しい。
「大丈夫、心配しないで。必ず無事に逃してあげるから。秋田くん、主をお願いするよ」
「はい。必ずお守りしますからね、主君」
「主、こんのすけをしっかり抱いていてね」
「はい。こんのすけ、おいで」
私が呼ぶと、こんのすけはぴょんと私の腕の中に収まった。白い艷やかな体毛に触れると少しだけ落ち着いた。式神である彼には体重というものはないに等しい。好物の油揚げをやれば食べるし、感情表現のようなものもあるが、生き物ではない。
そもそも式神の式とは「一定の手順」のような意味であり、ある入力に対して決められた出力を返すもので、要はコンピュータプログラムのようなものだ。微量の霊力で運用できるため、審神者が生きてさえいれば、常時本部と繋がっている。
「この異常事態を本部に報告して」
「それなのですが、申し訳ありません。先程から回線が不安定でして」
「繋がらないの?」
「切断されてはおりませんが、データのやり取りが困難な状態です」
私は軽く溜め息をついて、こんのすけの頭を撫でた。
「わかったわ。とりあえず続けて」
「承知しました」
私はこんのすけをしっかりと抱きなおすと、燭台切と秋田とともに部屋を出た。
山姥切国広と同田貫正国は馬当番のため厩舎にいた。畑仕事ならば雨で休みになることもあるが、生き物の世話はそうはいかない。
どちらも口数の多い方ではないから、そのときも雨音が響く厩舎で黙々と己の分の作業をしていた。
腹に響くような衝撃に、二人は一瞬顔を見合わせ、雷でも落ちたかと厩舎の外に出た。
「これは……」
空は相変わらず厚い黒雲に覆われているが、その濃い灰色の半球の一部がゆらゆらと揺らいで見えて、山姥切は目を眇めた。
「何だありゃ、亀裂か?」
同田貫も空を見上げたが、ぴくりと何かに反応すると「おい」と山姥切に呼びかけた。山姥切が彼の視線を追うと、本丸の敷地をぐるりと囲む塀があるはずのあたりにも同様の歪みがじわじわと蠢いているのがわかった。同時に、覚えのある邪な気配がする。
しゃらしゃらしゃら、とその場でするはずのない音が聞こえた。二人は弾かれたようにお互いの顔を見た。
「今、主が……」
「敵襲ってか。見ろよ、山姥切」
同田貫に促された方向を見ると、歪みははっきりと亀裂の形をとり、その向こうに禍々しい影が見えていた。足元からぞわぞわと這い上がる黒い気は遡行軍の瘴気だ。
「はっ!まるで書割じゃねえか。板一枚向こうは地獄だぜ」
「……すぐには入ってこられないようだな」
本体を喚び寄せ、臨戦態勢をとりながら山姥切は観察した。
「どうするよ」
「奴らが本格的に侵入し始めたら応戦できるよう、注意を払いながら主と合流する」
「あっちにゃ他の刀もいるだろ。ここであいつらを足止めした方がいいんじゃねえか?」
「駄目だ。敵の数が見えている奴らだけとは限らない。今の俺達には刀装どころか防具もないんだぞ」
「ちっ!」
山姥切と同田貫は厩舎の軒下から飛び出した。
彼らを追うように、瘴気が黒い煙となって本丸の空間全体に吹き込んできた。
「ああもう!こんなのもう夜と一緒じゃん」
加州清光は悪態をついた。瘴気はますます濃く本丸を覆い、辺りは夜のようだった。
「小夜、大丈夫?」
「……僕は平気。まだ見えるし」
三人は広間の縁側から庭を警戒していた。本体はいつでも抜けるように構えているが、非番のため戦装束ではなかった。
「主、大丈夫かな」
「気になるけど僕らはここにいなきゃ。いつ奴らが入ってくるかわからないだろ」
ちらちらと屋敷の奥を気にする加州を大和守が叱咤する。
「二人とも、来るよ、上だ」
小夜が本体を握り直しながら宙を睨んだ。空に入った亀裂から身をよじるようにして蛇のような姿をした敵短刀が侵入してくるところだった。
「うえぇ、何あいつら、もしかして少しずつ結界を破ってるの?」
加州は嫌悪感を隠さなかった。一匹、また一匹と敵の短刀は侵入を開始した。大和守は本体を抜いて構える。
今はまだいい。だが少しずつ亀裂が開き、敵がなだれ込んできたら、その時は。
「上だよ、上にいる!」
乱藤四郎は縁側を走り抜けながら叫んだ。
ひゅっと風を切る音がして、敵の短刀の首が落ちた。
「うっひゃあ、これキリがないやつじゃない?」
鯰尾がおどけた調子で言うが、目は笑っていない。
「二手に分かれよう。俺と鯰尾はここで出来る限り敵を足止めする。平野と乱は主殿の警護に向かってくれ」
「わかった。二人とも気を付けてね!平野、行こう!今日の近侍でしょ!」
私達はどうにか敵が侵入を開始する前に鍛冶場にたどり着いた。瘴気はますます濃くなり、悪寒が止まらない。
鍛冶場の扉に手をかけようとしたとき、厨の方から歌仙と大倶利伽羅が走ってきた。それぞれ手には己の本体を持っている。
「光忠、お前、大丈夫なのか」
「まあ得意な状況とは言えないけど、まだ何とかなるかな」
大倶利伽羅は燭台切から私の方に向き直った。
「あんたのことだ、どうせ昼間の刀が気になったんだろう」
「彼が君達がここに来るんじゃないかと言うから来てみたが、正解だったね」
「あんたが倒れたとき、刀は俺が受け止めたからな。その後、精霊に預けておいた」
大倶利伽羅は鍛冶場の木戸を開いた。廊下の床よりも一段低い土間に、鍛刀のための炉が設置され、壁際に整然と道具が並べられている。
その土間の真ん中に精霊達が集まっていた。私の顔を見ると、一所懸命に身振り手振りをし始めたが、彼らは言葉を話さないので細かい意図はわからない。何か慌てているようだ。
「……刀が無くなっている」
大倶利伽羅がぐるりと部屋を見渡して言った。
「多分、こいつらは何か見たんだろう。それをあんたに伝えたいらしい」
「精霊さんの言葉は…ちょっと…」
「だろうな」
大して失望した様子もなく話を切り上げ、大倶利伽羅は燭台切を見た。
「どうするんだ」
「主を正門にあるゲートまで無事送り届けるよ」
「遡行軍に見つかって正門ごと破壊されてないといいがな」
「それは心配ありません。こちら側からのゲートは審神者様の霊力でなければ触れることができませんから、当然破壊することもできません。ゲートを操作できるのは審神者様とその霊力を受けた刀剣男士のみです」
私の腕の中でこんのすけが言った。
私はふと引っ掛かりを感じた。何かがおかしくはないか。
「ちょっといいかい」
歌仙が鍛冶場に入ってきた。手に何か持っている。
「隣の刀装部屋を確認してきた。出陣している部隊が持って行っているから多くは残っていなかったんだけどね」
軽歩兵の刀装だった。しかも特上だ。
「主を逃がすんだろう?これは秋田に着けてもらおう。さあ秋田藤四郎、最後まで主を守っておくれ」
歌仙は膝が汚れるのも気にせず土間にしゃがみ、秋田に目線を合わせて刀装を装備させた。秋田は幼い顔をぐっと引き締めていた。
秋田に手を引かれて鍛冶場を出るときも、私はずっと考えていた。
何かがおかしい。どこからおかしい?
「いた!主さん!」
鍛冶場から出て厨の方に向かう廊下で、乱藤四郎と平野藤四郎が追い付いてきた。
「結界の破れ目から遡行軍が侵入を開始しました!本丸の北東の廊下で鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎が、ここに来る途中の南東の広間で小夜左文字、加州清光、大和守安定が交戦中です!」
平野の報告を聞いて、首の後ろがぞくりとした。
「いけない!皆、逃げないと…」
黒い手袋を嵌めた手が、場違いに優しく私の口を塞いだ。ゆっくりと言い聞かせるような低い甘い声がした。
「主、そこまで。皆わかってて残ってるんだ」
「え?」
「後退戦で殿(しんがり)は必須だ」
少し後ろで大倶利伽羅が短く言った。
「主君、こちらに!」
私が何か言う前に、秋田が私の腕をぐいと引いた。
「ちょ、ちょっと待って!秋田!」
私がその場で踏ん張ると、「しかたがないね」と声がして、ぐるりと世界が反転した。
「ごめんね、主。ちょっと運ばせてもらうよ」
燭台切が私を肩に担ぎあげて走り始めた。どこをどう押さえられたものか、全く身動きが取れない。こんのすけを落としてしまわないように抱き締めながら「下ろして!」と叫んでも燭台切は聞き入れてくれなかった。
燭台切に抱え上げられたまま、厨の奥にある勝手口に着いた。
「よし、ここからのことだが…」
歌仙が口を開いたとき、がたがたと引き戸を開けて、山姥切と同田貫が転がり込んできた。山姥切が素早く戸を閉める。
「君達、無事だったか」
「何とかな…」
「屋敷の上の結界が破れて、あいつらが出てきてるのが見えたんだよ。本丸の庭周辺の結界はもう少し保つかもしれねえ」
「ここに集まっているということは、ゲートを使うつもりなのか」
山姥切が集まった刀剣男士を見渡して言った。
「正門の様子はわかるかい?」
そう聞きながら燭台切はやっと私を下ろした。
「方角的に確認は無理だ。だが、時間がたてばたつほど不利だぞ」
「そうだね。多少暗いけど外なら僕もまだマシに動けるし、僕と打刀の君達で援護しよう」
「燭台切?」
「さっき、その式神が言ってただろう。ゲートを起動できるのは審神者と刀剣男士だけだ」
大倶利伽羅がぶっきらぼうに言った。歌仙が「ああ、なるほど」と頷いた。
「僕が敵ならば、ゲートを起動したときを狙うな」
「こちらから援軍の要請はできないのですか?」
平野が私に尋ねた。私は首を振った。
「向こう側から私の本丸のゲートを潜るには、私の霊力が必要なんです。私本人でなく私の霊力をこめた呪具でも良いのですけど。とにかく霊力が本丸の鍵の役割を果たすんです。それに今は本部と繋がりにくくなっていて…」
「そういうことだよね」
燭台切は私に向かって微笑んだ。
「主は秋田くん達と現世に戻って、安全が確保できたら援軍をよこして」
「そんなこと……置いて行けって言うんですか!皆を!貴方達を!」
短刀達が「主君」「主さん」と小さな声で私をたしなめるのが聞こえた。
そのとき、私の腕の中にいたこんのすけがピクリと動いた。思わず腕を緩めると、彼はひょいと土間に飛び降りた。全員の視線がこんのすけに集まる。
「こちらの通知を本部が受信しました。本部からの通達が入ります。…当該本丸における緊急事態の発生を確認しました。審神者は速やかに退避してください。刀剣男士の持ち出しは許可されません。なお、審神者の退避を確認した時点で当該本丸を閉鎖します。繰り返します……」
「嘘でしょう、こんのすけ…何を言ってるの?」
血の気が引くというのはこういうことかと思った。
「…決まりだな」
同田貫が立ち上がる。
「待って!待ってください!…本部に伝えて、こんのすけ。何か方法が」
そこまで言ったとき、私は気付いた。
「結界…そう、結界が破られたと言ったけど…」
「主?」
燭台切が心配そうに顔を覗き込んできたが、私はそんなことは気にならなかった。
「あの時、音だけだったわ…」
「ああ、結界が破られたときかい?」
「雷かと思ったな」
山姥切の声が聞こえた。刀剣達がお互いにそのときの状況をざわざわと話し始める。
「私の張った結界が破られれば、私自身も何か感じるはずなの」
「主さん、何も感じなかったってこと?」
私は考えを纏めながらゆっくり話し始めた。
「…本丸の結界は万が一のときを考えて、審神者本人の張るものと政府が用意したものの二種類が張られているの。どちらかが破られても大丈夫なように」
「じゃあ、さっきの音で破られたのは」
「きっと政府の結界だったんじゃないかしら。そして今、遡行軍が潜り抜けようとしているのが、私の張った結界」
「何故ですか?主君の今のお話が正しければ、片方が破られても、もう片方は無事のはずでは?」
秋田が首を傾げている。私はこんのすけを見て言った。
「考えられるのは、審神者である私自身の霊力の枯渇です」
刀剣達が息を飲む音がした。
こんのすけは無表情に私を見ている。
時間遡行軍との戦いが世間に認知され、審神者を巡る環境も整い、それらに関係する研究も進んだが、霊力については解明されていない部分が多い。霊力の量や質は個人差が大きく、若くして枯渇してしまう者もあれば、死ぬまで豊富な霊力を維持する者もいる。
今思えば、兆候はあった。
操れない本丸の天候。失敗続きの鍛刀。顕現できない刀剣。私自身の体調不良。そして結界の綻び。
「兆候はあったのに、私はそれを見過ごした。それはひとえに私の弱さ故です。私は…」
帰りたくなかったのではないか。
ずっとここにいたかったのではないか。
「……ごめんなさい。こんなことに巻き込んでしまって」
「主」
燭台切が近付いてきて、私の手に軽く触れた。
「主、僕に触って」
よくわからないまま、私は燭台切の手を握り返した。
燭台切は腰を屈めて、私に顔を近付けた。私は両手で彼の頬に触れた。
「ね、僕はちゃんとここにいるよ。ほら、身体中に君の霊力を感じるし、さっきだって君を持ち上げて走ったでしょう」
「光忠の言うとおりだ。あんたの霊力はちゃんと足りてる」
「別に不足はねえよ」
「主さん、大丈夫だよ」
乱が私の正面から首に腕を回して、ぎゅっと抱きついてきた。反射的に私も彼を抱きしめる。
「本丸の閉鎖なんて、きっと何かの間違いだよ。だから行って。そして僕達を助けに帰ってきてよね」
私は頷いて乱から離れると、再びこんのすけを腕に抱いた。
「行こう。こんのすけ」
「はい。審神者様」
夜のような瘴気の霧の中を、秋田藤四郎が私の手を引いて全力で走る。
私の隣を乱藤四郎と平野藤四郎が並走し、守ってくれている。
背後から剣戟の音。その合間に気合の掛け声が聞こえる。
あの人の声だったような気がして、足が止まりそうになる。
「振り返っては駄目です!走ってください!」
秋田がこちらを見ずに叫んだ。
視界の端に黒い影が映った。乱がそちらに飛び込んでいく。反対側の平野も。
「見ないでください!走って!」
秋田が走る速さを上げた。私も足が縺れそうになりながら、文字通り疾走していく。
正門が見えた。
滑り込むように正門の屋根の下に入る。目の前に白く光る輪が現れた。
「さあ主君、急いで…」
秋田が言葉を止めて、大きな目を見開いた。
彼は私の腕を強く後ろに引き、代わりに自分が前に出た。私の身体はくるりと反転して、私の目に秋田の前に立ちはだかる異形が映った。
正門の屋根に届くほどの巨体に大太刀を構えた鬼のような異形の姿。
ゆっくりと、鬼は大太刀を振り被っていく。ゆっくりでも構わないのだ。あれが振り下ろされれば短刀では受けきれない。この間合いでは避けることも不可能だ。
「主君、一瞬だけ、この僕が相手を止めてみせます。その隙にゲートに」
秋田はこちらを振り返らずにそう言うと、本体を抜いてそれを両手で構えた。
「粟田口吉光が短刀、秋田藤四郎が、一騎打ちを申し込む!!」
振り下ろされる大太刀がスローモーションのように見えた。
秋田の刀装が剥がれ落ちる。
禍々しい刃が秋田藤四郎の胴体に吸い込まれるかと思った、そのときだった。
「ふむ。小さいのに感心感心。その心意気や良し」
私の後ろから飛び出した人影が、鬼の前でふわりと回ると、次の瞬間には巨体は真っ二つになり、地面に崩れ落ちた。
秋田がへたりと崩れ落ちたので、私は慌ててしゃがみ込み、彼を抱き起した。
その横を、数人分の足が通り過ぎていく。
「こちらの弟も、粟田口の名に恥じぬよう、しっかりやっておるようですな。しかし、可愛い弟を苛められて、これ以上黙っておく道理もありません」
ぽん、と誰かが私の頭を触った。
「いやあ、貴方に連絡して良かったわ~。とりあえず、遡行軍はあいつらに任せて、私達は瘴気を浄化しましょう」
私達を助けに来てくれたのは、私のスマホにメッセージをくれた先輩だった。
私と先輩が結界を張り直している間に、先輩の刀剣男士達が本丸内に入り込んでいた時間遡行軍を殲滅してくれた。殿(しんがり)を務めてくれた私の刀剣男士達は重傷だったものの、折れたものは一振りもなかった。
結界を修復した後、第一部隊と第二部隊を帰還させた。第一部隊長の陸奥守と副隊長の薬研には一体何が起きていたのか質問攻めにされ、第二部隊長の長谷部はゲートを開くなり本気の速さで抱きついてきた。もう二度とお会いできないかと思った、と泣いて私から離れず、燭台切が力ずくで引き剥がした。
彼らに説明しようにも、私にもわからない不可解な点がある。そこで殿(しんがり)組を除いて、ぞろぞろと皆で先輩のところに向かったのである。
先輩は今日は私の本丸に泊まるということで、庭を眺めることができる客間に入ってもらっていた。今日の襲撃で私の本丸は破壊された場所が多いが、ここは比較的無事だったというのも理由だ。
先輩には事前に皆で伺う旨の連絡をしておいたので、彼女は快く私達を迎えてくれた。
客間に入ると、先輩の刀剣男士は三日月宗近だけが縁側の柱に寄りかかってくつろいでおり、他の刀剣の姿は見えなかった。三日月は浴衣姿で胡坐をかき、彼の前には徳利と猪口が二つ載った丸盆が置かれていた。
さて、私達にはわからないことだらけで、何がわからないのかもわからない状態であったので、とにかく今回の件の全容を聞くことにした。
「一言で言うと、今回のはテロなの」
「テロ?」
刀剣男士達がお互いに囁きあう。その様子を見て、先輩の三日月は愉快そうに笑った。
「はっはっは、それ見ろ、主。俺は常にそなたの言葉はようわからんと言うておるだろう」
「つまり、今の世の中に不満があって、過去を変えればそれが解決すると考えている連中がいるの。今回は、そういう人間が政府の、しかも歴史修正対策室システム部門の職員だったってのが問題ね。これは政府にとっても頭が痛いの。たぶん採用担当部署の責任問題になるのでしょうね」
「まあ要するに、素破というやつだ」
三日月が刀剣男士達にわかりやすいであろう言葉に言い換えた。
「システム部だったのですか」
「そう。そいつがやったのはね、天候の制御システムを通じて、審神者の霊力を少しずつ盗むやり方だったの」
本丸の天候制御システムは、審神者がシステムに霊力を流して調整する。その霊力を、まるで電力を盗むように少しずつ盗むというやり方だったらしい。そして今度はそれを雨に混ぜ、元の本丸に流す。
「雨に混ぜても循環するだけじゃないのか」
薬研が顎に手を当てて首を傾げた。
「それだけならそうね。でも霊力を雨に混ぜるとき、ほんの少し遡行軍の毒気を混ぜ込んだ。本来ならそんなもの対策プログラムが弾くんだけど、まあシステムの専門家だってことで察してちょうだい。何度も言うけど、政府の不祥事なの」
「コンピュータウイルス……」
私が呟くと、先輩はため息をついて頭を掻いた。「おぬし達の主も、難しい言葉が好きだなあ。最近の人間は皆こうなのか」と三日月が軽口を叩く。
「まぁそんなとこね」
先輩が言うには、この職員の性質の悪いところは梅雨時を狙ったところだという。私のように暦に合わせた気候を設定している者は、この時期に多少雨が続いても疑問に思うことがないからだ。しかし、ごく微量の審神者の霊力と遡行軍の毒気がほんの僅かに入った雨は結界をすり抜けて本丸の空間を侵食していく。そうして、じわじわと本丸内での審神者の霊力の運用が阻害され始める。
「このサイクルが出来上がってしまえば、あとは相乗効果ね。本丸内での霊力の運用が阻害されれば無駄に力を使うことになるし、長雨続きの天候を制御しようとすれば霊力をかすめ取られる。何とかしようとあがけばあがくほど、審神者は疲弊していくことになるわ」
「何て卑怯な!全く雅じゃない!」
歌仙が憤慨して立ち上がった。この場にその職員とやらがいれば、たちまち首と胴が泣き別れになっていただろう。
「今回は後手に回ったけど、もちろん政府も本部も無能じゃないわ。体調不良を訴える審神者や本丸の異常に気付いた審神者からも報告があったからね。いろいろ調べて、どうやらシステム関係の部署にスパイがいること。そして、攻撃にさらされている国(サーバ)をつきとめたの。あとは異常を訴えた審神者の共通事項を探していって…」
「俺は地道な作業が苦手でなあ」
「貴方は何もしてないでしょう」
澄ました顔で酒をあおる三日月を先輩は睨みつけた。
「そして今日が、このテロの総仕上げだったってわけ。毒気の長雨で審神者が張った結界は弱ってる。そこで政府の結界システムをダウンさせたのね」
人間である審神者や刀剣男士にとっては毒気でも遡行軍にとっては違う。少しの破れ目に爪をひっかけて広げるように、結界を破った。
「最終的な狙いはゲートよね。今回のテロがうまくいけば、一気に現世まで時間遡行軍が侵攻していたかもしれない。こんのすけは審神者に避難を促すようプログラムされてるし。まあ、今回も不幸な本丸はいくつか出たとだけ言っておくわ。これで今回の概要はわかった?」
「あの、僕わからないんだけど」
乱が手を挙げた。
「どうして貴方達は僕達の本丸に入れたの?ねえ、主さん、言ってたよね。向こう側から本丸に入るには、その本丸の審神者の霊力がいるって」
あのとき私はまだゲートを開いていなかったのだ。
「ああ、そうだった。貴方の刀剣、返さなくっちゃね。お~い、入っといで」
スパーンと襖が外れそうな勢いで開いて、そこに一人の青年が仁王立ちしていた。何だかやたらと「白い」人だ。
「やっと出番か!そうさ!鶴丸国永だ!どうだ、俺みたいのが突然来て驚いたか?」
「鶴さん!!」
私の隣に座っていた燭台切が立ち上がった。大倶利伽羅も少し腰を浮かせている。
「よう、光坊!伽羅坊!久し振りだなあ!何だかちょっと背が伸びたんじゃないか?」
固まってしまった私の刀剣達の空気など意に介さず、鶴丸はずかずかと近付いてきた。
「君が主だな!なあ、俺は初日からなかなかの驚きを提供できたと思うんだが、どうだ?」
「えっと……すみません、どちらでお会いしましたか…」
「なんだ、つれないな。今日だよ。君が俺を起こしたんだぜ」
そう言われて思い出した。鍛冶場から無くなった一振りの刀剣。
「まさか、あのとき顕現できなかった…」
「お!思い出してくれたか。そうだよ。君の声は聞こえていたんだが、何だか変な力で頭を押さえつけられていてな。やっと人の姿になれたときには誰もいなかった」
鶴丸が言うには、誰もいないがそれも一興と、本丸を散策することにしたそうだ。外は何やら奇妙な雨が降っているが、とりあえず敷地内を端から端まで見て廻ろうとウロウロしているうちに、正門に辿り着いた。
「大きな門だなあと感心して近付くと、何か知らんが白く光り出してな。面白半分で足を突っ込んでみたら驚きだ」
鶴丸は現世の本部ゲートの前にいた。そこの職員に見つかって、すぐさま専門家として別件で本部に来ていた審神者が呼ばれた。
「それが先輩だったんですか」
「そういうことね。たまたま貴方を知ってた私で良かったわ。この鶴丸の霊力を照合したら貴方がヒットしたの。本部は手一杯で、とりあえず審神者には現世に戻るように指示をするだけで良いの一点張りだったんだけど、鶴丸の話を聞く限りでは明らかに今回の件に関係してるでしょ?命令無視して来ちゃったわ」
始末書ものね、と先輩は笑った。
「先輩、私のために…あ、ありがとうございます」
「あら~泣くことないのに。貴方けっこう泣き虫よね、昔から」
「だ、だって…今日は、あのとき、本丸は閉鎖するって通達が来ちゃうし…」
私がそう言うと、先輩は気まずそうに目を逸らした。
「あ、ああ、あの通達ね。あのね、これは言わずに済まそうかと思ったんだけど…」
いつもの先輩らしくない物言いに、私の涙も止まった。刀剣男士達も注目している。あわや本丸ごと封印されるところだったのだから当たり前だ。
「ほら、鶴丸が勝手にゲートを通っちゃったでしょう?ゲートの通過記録は全部残るのだけど、未登録の刀剣が一振り通ったっていうんで、本部は大騒ぎになったの。本来なら霊力を照合したら本丸に照会するんだけど、そんな悠長なことができる状況ではないし。正式には今回の件はこれから詳しい調査をしていくわけで、その通ってしまった刀剣が何らかの良くないものを運んでしまった可能性があるとか、まあいろんな理由があるんだけど」
「それで、閉鎖……?」
「私も本部の通達までは止められないから……」
呆然としている私に代わって、乱が先輩に確認する。
「つまり鶴丸さんのおかげで援軍に来てもらえたけど、鶴丸さんのせいで閉鎖されるかもしれなかったってこと?」
「ま、まあ、結果的には間に合ったけどね。そうね」
「ふうーん……」
乱は冷たい目をしたが、それ以上は何も言わなかった。でも私にはわかっている。これは一応お客様の前だから大人しくしているだけで、おそらく先輩が帰った後が鶴丸にとっての受難となるであろう。
「これで大体のことはわかったよ。主が倒れたときは本当に驚いたからね」
歌仙が私を見ながら、やれやれと言った顔をする。
「そうそう。そのことなんだけど…」
先輩が畳に膝をついて、私の方ににじり寄ってきた。
「ていっ」
「いった!」
本当は大して痛くなかったが、びっくりして大声が出た。彼女が私の頭に軽くチョップをしたのだ。
「痛い!じゃないでしょう。私、ちゃんと教えたわよね?審神者は自己管理が大事。刀剣男士の優しさに寄りかかって仕事をサボるなんてのは論外だけど、適度に休みを取りなさいって。せめて現世のカレンダーとおりくらいには」
「ちょ、ちょっと。どういう意味かわからないけど、何も叩かなくてもいいじゃないか」
燭台切が先輩に軽く抗議した。
「私達審神者は、本丸に滞在しているだけで常に霊力を使っているの。貴方達、この本丸のインフラがどうやって維持されていると思ってるの?」
「いんふら?」
「ああ、もういいわ。とにかく私達は居るだけで消耗するの。この子、ちゃんと休みを取っていなかったでしょう」
「えっと、休みの日は主はだいたい執務室で……」
「それは休みになってない。貴方達だって疲労状態になるでしょう?人間の身体には限界があるの。これを超えると、すぐにではなくても病気になったり死んでしまったりするのよ」
先輩が言い終えた瞬間、刀剣男士達が悲鳴を上げて私を取り囲んだ。「どういうことぜよ!」「あるじさま、死んじゃうんですか?」などの声が聞こえる。
「死なない!死にません!大丈夫です!」
必死で叫び続けて、やっと解放された。先輩は何故か満足そうに私を見ている。
「まあ、気持ちはわかるわ。私達は普段は一人でやってるから、自分が休んでいる間は仕事が進まない。休みどころがわからなくなるのよね」
「は、はい……」
「でも、これでわかったでしょう。カレンダーどおりなら、ちょうど明日から土曜日だし、きちんとお休みを取りなさいな」
次の日、私はとりあえず休みということで、いつもの時間どおりの朝食を済ませると完全に暇になってしまった。
天気は久し振りの晴れで、自室に籠っているのももったいない。本丸内をぶらぶらして短刀とゲームをしたり、打刀と雑談をしたりしながら時間を潰した。
手入れ部屋にはもう誰もいない。重傷だった刀剣達も一晩ですっかり治ってしまった。
建物の外を歩いていたら、勝手口が開いていたので入って厨を覗いてみた。
食事の準備をするには中途半端な時間だったが、燭台切がいた。
「やあ、どうしたの?お腹すいちゃった?」
「ううん。…何してるんですか?」
「折角のお休みだし、短刀くん達におやつを作ってあげようかと思ってね」
「え!?お休みの日はいつも作ってあげてるんですか?」
「まさか。時々だよ」
燭台切は優しく笑って言った。
彼はその長い指で枝豆を剥いているところだった。
「枝豆をおやつにするんですか?」
「うん、ずんだ餅だよ。食べたことある?」
「一回くらいはあるかも。私が生まれ育った地方では、あまり見ないんですよ。たまに東北物産展とかで売ってます」
「よくわからないけど、珍しいんだね。出来たら主にもあげるね」
「やった。ありがとうございます」
「どういたしまして。ねえ、主」
「はい」
「明日もお休みだよね。だったら僕に一日くれないかな」
今までの世間話と同じトーンで燭台切は言った。
「へ?」
「もしかして、もう予定が入ってるの?」
「い、いいえ…何も予定はないです」
「そう、良かった。じゃあ明日の朝十時に表玄関ね」
私は陸奥守のもとに駆け込んだ。
理由は彼が私の初期刀だからだ。
彼は自室の前の縁側に座って、ピストルの手入れをしていた。
「陸奥守!どうしましょう!!」
「何かあったがか?」
私は事情を話した。昨日、彼から抱きしめられて「大好きだ」と伝えられたこと。そして明日、おそらくデートに誘われたこと。
話を聞いた陸奥守は床に両手と両膝をついて蹲った。
リアルにorzのポーズだ。
「そ、そがなこと!ワシはよぉわからんぜよ!」
「そんなぁ」
陸奥守は私の顔を見ると、少し笑って右手の人差し指で自分の頬を掻くような仕草をしながら言った。
「ただ、おんしが嫌じゃったり困っとったりせんのなら、それでえいよ。燭台切は良い男やき、主が断ったがゆうて態度変えたりはせんち思うぜよ」
陸奥守と別れて、とりあえず自室に戻って来た私は、久し振りに現世から持って来た衣装の入った押入れを開いた。普段は支給された審神者の制服とも言える白い小袖と朱色の切袴を着ているし、この本丸にいる間は私はずっと審神者なのだと思っているから不都合はなかった。
でも、明日はどうしよう。
そもそも燭台切はどこかに出掛けるとは言っていなかったし、本丸で過ごすつもりかもしれない。
(やっぱり普段のこれでいいか)
別に審神者の装束で出掛けてはいけないという決まりもないのだし、と押入れを閉めようとしたときだ。
「あるじさま、こちらにいらっしゃるのですか?」
「あら、五虎退」
すらりと襖を開けて、虎を連れた少年が入って来た。彼は押入れが開いているのを見てピタリと止まった。
「あ、ご、ごめんなさい、お着替え中でしたか?」
「違うの違うの。ちょっと見てただけですよ」
それを聞いて安心したように五虎退は押入れに近付いて、中に吊るされている洋服を眺めた。
「わぁ、これが現世のあるじさまの服ですね」
「大したものは持ってないんですけどね」
「お召しにならないんですか?ボク、見てみたいなあ。いろんなあるじさま」
「え、そんなお見せするほどのものでは…」
「あるじさま、もちろん審神者の装束もお似合いですけど、その、何て言うのか……嬉しくないですか?」
「嬉しい?」
「ボクは、他の刀剣の方々の非番のときの格好を見ると、ホッとして嬉しくなります。ボク、あまり戦いが得意じゃないから。ああ今は戦闘中じゃないんだって。そうすると、出陣中とは違うおしゃべりも出来る気がするんです」
日曜日の朝、今日もよく晴れている。燭台切との待ち合わせの時間の五分前に、私は本丸の表玄関に向かった。
本丸の中に刀剣達の気配がないなあと思いながら、玄関近くの大広間の廊下に差し掛かったとき、玄関に賑やかな気配を感じた。明るい話し声も聞こえる。
「ねぇねぇ、どこに行くかだけ教えてよ、いいでしょ?」
「遅くまで主を引っ張り回すなよ。明るいうちに帰って来い」
「心配性だなぁ、長谷部くん。ところで何で君達はここに集まってるのかな!?」
「ワシが言うたき」
「あ、主」
大和守安定が一番に私に気が付いた。
「あ、主ー!わぁ!何コレめっちゃ可愛い〜!」
「きゃあ!主さん、かっわいい〜!」
本丸の可愛い番長の二人が寄ってきた。
「何を着ればいいのか、よくわからなくて…」
とりあえず、全体的に明るいイエローの小さな花柄のノースリーブのワンピースに薄手の白い七分袖のカーディガンを羽織っただけの、我ながら無個性な格好だ。
メイクはいつもより丁寧に、いつもはしないアイシャドウも付けてみた。ネイルも薄くピンクを塗った。
「ねぇ、今度は俺にコーディネートさせてよ。爪とかさ、俺とおそろいにしよ!」
「清光の真似なんかしたらケバくなるから、やめといた方がいいよ、主」
「あぁ!?安定テメェ!!」
加州と大和守がいつものじゃれ合いを始めた。良かった。二人とも元気そうだ。
「おぅ、新鮮じゃな」
「主、こんな男と出掛けるのに、そのような可愛らしい格好をされて……やはりお供いたしましょうか」
「長谷部くん、ひどいよ」
燭台切は白いシャツの首元を少しくつろがせて、黒いズボンに黒い靴だったが、よく見るといつものスーツで着ているものとは少し違う。さすがは伊達男と言ったところか。
こうして戦装束でも非番の格好でもない彼を改めて眺めると、本当にかっこいい。
私が靴を履いて立ち上がろうとすると、彼は自然に手を差し出してきた。私がその手を持つと、手を軽く引いて私が立ち上がるのを助ける。
自然に身体の距離が近くなった。燭台切は私の耳に口を近付ける。
「僕のために可愛くしてくれたの?だったら嬉しいな」
私が答えるより早く、燭台切は私の手を握ったまま後ろを振り返った。
「じゃあ、行ってくるね。夕ご飯までには帰るから」
「あ、い、行ってきます」
玄関を出て正門まで歩く間も、燭台切は手を離さなかった。
「どこに行くんですか?」
正門のゲートを起動して、私は彼に尋ねた。
「実はどこでもいいんだ。万屋でも行ってみる?加州くん達が新しい甘味処が出来たって言ってたよ」
「どこでも?」
「君と二人きりになりたかっただけだからね」
「あの、えっと、それは、つまり……」
くすっと燭台切は笑って、私の腰に手を回す。そのまま引き寄せられて、身体が密着した。
「何度も言わせるの?大好きだって、言ったよね」
「わ、たしも……」
「ん?」
「私も……燭台切が、貴方のことが……好き、です」
唇に柔らかいものが押し当てられて、カチリと軽く歯が当たった感触があった。身体のバランスが保てなくなって後ろによろめいたが倒れはしなかった。そのまま正門の壁に背中を預ける形になる。誰かが見るだろうかと思ったが、正門は屋敷からは直接見えない距離と方角だった。それにここは正門の中で、もともと陰になる場所だ。
燭台切は角度を変えて何度も口付けてきた。深いものではない。小鳥が啄むようなキス。
やっと少し顔を離す気配がして、私は閉じていた目を開いた。
目の前に、火を灯した燭台の金色があった。
もう一度、彼は唇を重ねてきた。今度はもう少し長く。
「ちょっとこれは…嬉しくてどうしたらいいのかわからないなあ。格好がつかないね」
くすくすと擽ったそうに笑う燭台切光忠の肩越しに、正門の屋根に切り取られた青く高い空が見えた。
梅雨が明けたのかもしれない。
日射しは強く陰影は濃い。
季節はもうすぐ夏である。