黄金の泡沫 アンティークのドアベルが、軽やかに今日初めての来客を告げる。一瞬、店内の空気に水の気配が混じって消えた。今夜は夕方から雨になるだろうと、天気予報でアナウンサーが言っていたことを思い出す。もうそれなりに路地は濡れているのかもしれない。この店は地下にあるせいか、こういう日は少し冷えがちだ。
あとで空調の設定温度を上げるべきか。そう店内に泳がせた視線がちょうど、来客の視線とかち合った。
「――ああ、いらっしゃいませ。お久しぶりですよね?」
「こんばんは。そうですね、……ちょっと色々あって」
そう苦笑いして答える彼。いつもならば姿勢がいい、すらりとした立ち姿が少しだけ萎んで見える。それほど仕事が忙しかったのだろうか。スーツを着て来店することは稀だから、どうも会社員ではなさそうではある。
「どうぞ、カウンターへ」
ともあれ、こちらからあれこれと問うのは野暮だろう。今日のチャームのナッツとチョコレートの盛り合わせをカウンターへ置く。彼はジャケットをハンガーへかけると、いつものようにそこへ座って、脱力した息を吐いた。
眼鏡を外して、レンズを磨いてからケースへと仕舞う動作は緩慢で――なるほど、よほど疲れているらしい。
「伊達眼鏡でしたよね」
「そう。ちょっと事情があって……まあ、もう慣れちゃったけど。……それに、そろそろ老眼が入って伊達じゃなくなるよ」
ははは、と笑う声もどこか力なく空々しい。普段は無茶な飲み方なんてしない人だが、今夜は彼が酒を過ごさないよう、こちらがよく見ていたほうがよさそうだ。
「――今日はまず何にします?」
「じゃあ……唐揚げとポテサラに……IPAで何か」
顔の輪郭が少し鋭くなったように見えないこともないが、食欲は充分あるようで何よりだ。
ビールを樽からグラスに注いで、紹介しながら特製のポテトサラダと一緒に出せば、エールはふたくちみくちと味を確かめられたあと、すぐにグラスの半分ほどが消えていく。
IPAはアルコールの度数が少し高めなものが多いせいか、彼はいつもなら真っ先に頼まないのに、今日はいい飲みっぷりだ。
「おいしい」
ぺろりと唇を舐めて、なんとなくほっとしたように緩む彼の目元。こういう情景を見るのは、日々、店をやるうえでのささやかな楽しみである。
「限定品なんですけど、けっこう人気なんですよ、それ。まだあるうちに来てくださってよかった」
「ああ……そんなに間があいてたんだ」
「そうですね、もともと、まめに来てくださってましたから……ちょっと心配してました」
グラスを置いた彼の動きが、一瞬止まったように見えた。おや、と思って伺ったが、もう何事もなかったかのようにチョコレートを摘まんでいる。
今日のチョコレートは苦めのもので、オレンジの風味がきいている。強さの中のかすかな甘さが、あのIPAとはよく合うはずだ。
「立て込んでたのは終わったから、またちょくちょく来れると思いますよ」
そう言った彼の口の中に、チョコレートが消える。その味を確かめる沈黙のあと、彼はそのままグラスを手に取って、残りを飲み干した。
「――何もなかったんで。俺にはね」
何故だかその微笑みは、エールよりも苦く見えた。