しらふの酔っ払いふわふわと心地良い酔いの夢から覚めたら、愛しい日常が地獄に飲み込まれていた。
勝手知ったる居酒屋は凄惨なまでに踏み荒らされ、小さな丸テーブルに酔いつぶれて突っ伏していた自分の周りには見知った顔がいくつも物言わぬ骸になって転がっていた。
(ああ、死ねなかった)
グランテールは心の中でひとりごちた。
革命前夜、夢と希望と熱気に包まれた友の勝利を思い描きながら永遠の眠りにつくことを夢見て目を閉じたが、そんな自分の身勝手な願いは叶えられなかったらしい。
失望を感じつつうつぶせの姿勢のまま目だけで周りを見渡せば、部屋の真ん中に陣取る兵隊の列と、ビリヤード台を挟んで対峙する青年の影が見えた。
「さあ、銃殺しろ」
彼の姿は兵の姿に隠れてよく見えなかったが、彼の絶望など微塵も混じらない澄んだ声はよく聞こえた。
君は変わらないな、アンジョルラス。
きっとあの毅然とした声そのままに、凛とした佇まいでそこにいるのであろう彼の立ち姿も容易に想像ができて、グランテールはゆるく微笑んだ。
ふいに沈黙の支配した部屋の中で、一人の男が声を上げた。
「いや、銃殺はやめよう」
グランテールはそっと顔を上げた。
グランテールのいる位置は扉から入った場合死角となっており、加えて兵士たちは今回の革命の首領たるアンジョルラスにばかり目がいっていたためもう一人、この部屋に生き残りがいることなど少しも気づかなかった。
「銃殺はやめよう」
男はもう一度口にした。
グランテールが目をこらせば、激戦の影響か顔が赤黒く腫れ上がり服のあちこちが爛れている男の姿が見えた。
「これだけ好き勝手やってくれたんだ。そう易々と殺してやる義理もなかろう」
男は引きつった笑みを浮かべて、静かに対峙しているアンジョルラスに向かってゆっくりと一歩を踏み出した。
「なあ綺麗な首領さんよ。あんた、昔フランス国王の暗殺を試みた男がどうなったか知っているか?
両手両足の爪を熱したペンチで剥がされた後に指を一本一本切り落とされて、胸を切り刻まれた後血の滴り落ちる傷口に熱した鉛を流し込まれたのさ。その時は男の絶叫が隣町まで響いたそうだぜ」
男はまた一歩アンジョルラスに近づく。
「その後、内臓を引きずり出されても両目をえぐられても、両手両足をバラバラにされる直前まで男は生きていたそうだよ。人ってなかなか死ねねぇもんなんだな。
さすがにそこまでのことはできまいが、兄さんも少しはこれまで付き合ってやった俺たちの慰みに、その綺麗な声で泣いてはくれないか」
冗談じゃない。
周りの兵士たちの纏う空気が不穏なものに変わり、グランテールは血の気がさっとひくのを感じた。
アンジョルラスは一言も発しない。
ただ静かに男の言葉に耳を傾けていた。
彼のことだ。例え凄惨な仕返しをその身に受けたところで、奴らの望む泣き叫ぶ姿など見せることはないだろう。
ただ痛みに眉をひそめることはあっても毅然とした態度で最期まで耐えきるだろう。
耐えられないのは、自分の方だ。
グランテールは不意に立ち上がると、数本空の酒瓶を投げ上げた。
空き瓶はくるくると弧を描いて舞い、うちの一本は下卑た笑みを浮かべてアンジョルラスににじり寄っていた兵の後頭部に当たって鈍い音を立てた。
「誰だ!」
突然の奇襲に兵士たちが慌てて振り返る前に、グランテールは部屋の隅に落ちていたビリヤードキューを蹴りあげて宙に浮き上がったそれを片手で掴み、色めき立つ兵士達の背後に回った。回転させたキューで振り返った兵士の側頭部を殴り付け、崩折れる兵士の横から掴みかかってきた男を躱しながら鳩尾に蹴りを叩き込んだあと、こちらに銃口を向けていた3人をひと振りでなぎ倒し、背後で銃の引き金に指を掛けた男の銃の下に棒を差し込んでいなした後軸足を回転させて男の脇腹に膝を叩きつけた。
最後の兵士が胸骨に棒の先を叩き込まれて崩れ落ちるのに、それから10分と掛からなかった。
「アンジョルラス」
大丈夫か、と続くはずだった言葉は、息が上がって言えなかった。
また沈黙が支配するようになった酒場の片隅で、ぼろぼろのビリヤードキューにすがったまま床にへたりこんだグランテールは一日ぶりに敬愛する友を仰ぎ見た。彼はつい先刻銃殺を受け入れようとした時の腕を組んだままの姿勢のまま目を丸くして立ち尽くしていた。
彼も心底驚くとこんな幼い顔をするのかとぼんやり思いつつ、上がった息を整える。
起きがけにこの運動量は流石に辛い。
「おはよう、グランテール」
長い睫毛をゆっくり二回瞬かせた後、アンジョルラスはぽつりと口にした。
「しらふの君はそんなつむじ風みたいな動きが出来るんだな」
「わからないぜ、酔った勢いかもしれない。東洋には酔拳って拳法があるそうだ」
「ばかをいえ」
にやりと笑って返せばアンジョルラスは眉をひそめてふいと横を向いた。
「でもおかげで助かった。ありがとう。・・殺したのか?」
「まさか。のびてるだけだ。」
そう答えて、グランテールは顔をしかめて倒れた兵士たちを見渡す。
「彼らに信仰心はないんだろうか。もし僕だったら君をいたぶるなんて思いついた時点で舌噛んで死ぬ。
主の国に行けなくてもいい」
「何言ってる」
アンジョルラスはため息混じりにそう言って、倒れた兵士のそばに落ちていた銃をひと振り拾い上げると扉へと向かった。
「行くのかい」
ようやく立ち上がったグランテールが声をかければ、アンジョルラスは扉の前でくるりと振り返った。
「君のおかげであともう少し戦える」
その答えに寂しげな笑みを浮かべたグランテールをアンジョルラスは真っ直ぐ見つめた。
「君はどうする」
「どうするもなにも」
グランテールは苦笑いして肩をすくめた。
「さっきは奇襲だったから何とかなったけど、次からはそうもいかない。
ぼくはきっと君よりさきにあっけなく死ぬだろうな。でも。」
静かにこちらを見つめるアンジョルラスに、グランテールは優しい眼差しを向けた。
「それでも、君が許してくれるなら。」
どこまでだって、喜んで。