魔法使いの砦急拵えの砦の上で、美しい青年が旗を振っている。
まるで撃ってみろとでも言いたげな挑発的な姿に、銃を携えた国民軍の男は忌々しげに顔を歪めた後おもむろに青年の額に狙いを定めた。
「やめろ。あの様子、絶対弾に当たらない自信があるんだ、銃弾が無駄になるぞ。」
その男の肩を掴み軍の別の男が忠告する。
「絶対弾に当たらない? まさか『魔法使い』だとでも? 馬鹿な。見ろよあの青年、背もすらりと高く髪はこのあたりじゃそうそう見ない美しいブロンドだ、しかも若い・・・きっと学生、モテてモテて仕方が無かっただろう。そんなやつが『魔法使い』でいられるわけが・・・。」
銃を構えた男ははっ、と鼻で笑って躊躇いなく引き金に指をかけた。
獲物を早々に貫かんとばかりに勢いよく放たれた弾は青年の額に当たる前に突如失速し、青年が翻したビロードの旗の表面を優しく撫でるようにして地面に落ちていった。
「『魔法使い』の砦だ!」
兵の誰かが絶望した声で叫んだ。
「これは長い戦いになるな・・・」
愕然とした男の隣で、先程彼を諌めた兵士が苦々しく言った。
■魔法使いの砦■
十九世紀フランス。
『処女もしくは童貞であれば銃弾に当たらない。』
その法則は絶対である。
銃口をこめかみに突きつけ引き金を引こうが当たらない。
百戦錬磨の兵士だろうが当てられはしない。
革命を経た今となってはもはや王制よりも絶対的なものになってしまった。
なぜギロチンなんてものができたかって、刃物であれば処女だろうが非処女だろうが平等に死を与えられるからである。
「さぁここは僕らに任せて恋人や配偶者のいる者達を今すぐに室内へ仕舞え!」
砦の上でアンジョルラスが叫ぶ。
「ボシュエ、さぁ、きみも一緒に」
ジョリがボシュエの肩を抱く。
「ボシュエもそうなのか?」
労働者が聞くと
「プライベートなことなので答える義務はない!!」
ジョリが後ろをきっと睨みつけた。
「それにボシュエのギニョンくんを舐めるなよ? 童貞だろうがなかろうが、跳弾か弾が当たったふとんか知らないけど何かしらが直撃するぞ!」
「違いない」
砦で初めて出会ったもののその短い間でのボシュエの惨状を目にしていた労働者は真顔で頷き、優しくボシュエの背中を押した。
「早急にボシュエを仕舞おう」
「マリウス!」
クールフェラックが焦った様子で叫ぶ。
「きみも早く下がるんだ! 毎夜愛を語り合う恋人ができたばかりだというのに・・・!」
バリケードから身を乗り出しマリウスを呼ぶクールフェラックを銃口が狙う。
「おっと」
そんなクールフェラックの前に身を乗り出したマリウスはすっと銃の軌道に手をかざした。
放たれた銃弾は、マリウスの手に当たる直前に止まり、凄まじい勢いで直角に軌道を変えると天に昇り二度と戻ってこなかった。
「・・・マリウス?」
「君こそ下がらなくちゃ、クールフェラック。」
マリウスがにこりと微笑む。
「ガールフレンドが山ほどいるんだろう?」
「えっ・・・どうしてマリウス・・・これまで毎日のように朝帰りだったじゃないか・・・ベッドの上で愛を囁いていたわけじゃ・・・? じゃあ毎夜一体何を」
「えっ、コゼットの家の外のベンチで愛を語り合ったりキスしたり肩を抱いたり愛を語ったりかわいい猫ちゃんの話をしたり愛を語ったり会えなかった期間に起こった面白い事の話をしたり渾身のポエムを贈りあって感想を言い合ったり」
「夜毎にそんなに話すことあるか?!!」
クールフェラックは手で顔を覆った。
「きみのこと誤解していた。淫猥な想像をしてしまってごめんな。」
「・・・そんな謝る必要があるほど鮮明に想像してしまっていたのクールフェラック・・・それなら真摯に謝ってほしい・・・コゼットに」
「流石に会ったこともないコゼット嬢について淫猥な妄想はしていないからな?!」
「いやコゼットについて妄想してたなんて欠片も思っていないからな? 僕に関して淫猥な妄想をしていいのは彼女だけだから・・・」
「・・・そうか・・・でも君の彼女ならそういう妄想とかしてないんじゃないか・・・?」
「『パパの食べているもちもちの白パンを見るたびに貴方を思い出す』って言われる」
「それで淫猥カウントするのか? 厳しすぎやしないか? 君の頬の話じゃないのか?」
その頃バリケードのとある一角では正体がバレたジャベールが学生たちに囲まれていた。学生たちは涙目で戦いている。
「スパイが砦に・・・! 俺たちの大事な童貞を狙っているのか・・・?」
「いや命は狙っているかもしれんが童貞は管轄外だ」
「コートを脱いだら全裸なのかもしれない・・・?」
「待てそんな露出狂みたいな格好で敵地に潜入するスパイなどいてたまるか」
「『薔薇を摘みに』来たのか・・・」
「だから違うと言っているだろう『摘み取れ学生』とは言ったが別に隠語じゃあない」
悲鳴を上げて走り去っていく学生たちの後ろからジャベールは叫んだ。
「やめろ!!! スパイとしての謗りならば甘んじて受けるがその誤解のされ方は何だか嫌だぞ!!」
そうこうしているうちに国民軍は次の一手として大砲を持ち出してきていた。
「いくら魔法使いだろうとたかが十年、二十年クラスの学生、流石に大砲は避けられまいよ。」
五十年クラスの『大魔法使い』だったら別だろうがな。まああの砦にはおるまい。
そう呟きながら指揮官は砲手に発泡の準備の指示を出した。
「あの砲手を撃つ気か、アンジョルラス。」
狙いを定める友の隣でコンブフェールは声をひそめる。
「ぼくらと同じくらいの年齢だ。これでもし弾が当たったら契りを交わした恋人もしくは伴侶がいて小さな子供の父親である可能性もある。・・・それを殺すのか?」
「これしか方法がないんだ」
アンジョルラスは硬い声で囁く。頬を涙が伝った。
「必要ない」
青年の持つ銃を軽く手で押し下げた後、男は身軽な身のこなしでバリケードの下へと降り立った。
一直線に砦を破壊せんと放出された大砲の弾は、男の眼前で急にふっと威力を落とし次の瞬間バリケード直下の石畳に土煙を立ててめり込んだ。
「大魔法使いだ!!!」
バリケードが沸く。
「嘘だろ・・・どうしたって弾が効かないなら剣で攻撃しろと?」
国民軍たちが脱力する。
「嘘だ・・・。コゼットの父親が童貞なわけが・・・?」
マリウスは目を見開いた。
「つまり彼女は・・・キャベツ畑でコウノトリが運んで・・・?」
その頃スパイジャベールは別室で、万が一他の者が変な気を起こさないようにと簀巻きにされ布団から顔だけ出していた。