遠い日の約束ひょんな事から2人の子どもを養うことになった福沢は慣れない育児に日々奮闘していた。生活の違いは勿論のこと、子ども特有のはしゃぎっぷりや感性に振り回されっ放しだ。何とか互いの生活環境にも慣れたある日のこと。
「あの、諭吉さん」
「ん?どうした、作之助」
洗濯物を取り込んでいる福沢の袴の裾をくいくいと引いたのは養い子の片割れである作之助だった。やたら真剣な眼差しで見上げる幼子に福沢は襷掛けはそのままに手を止めて目線を合わせるのにしゃがみこんだ。
「あの、」
「あぁ」
「えっと」
「うん」
何か言い辛いことなのか、中々言えないでいる作之助を福沢は急かさずにじっと待つ。いつもは言葉少ないながらも自分の意思をはっきり伝える作之助が口篭るのは珍しい。漸く決心がついたのか、右へ左へとうろうろしていた双眸が青灰を射抜いたその時。
「俺とけっこんしてください!」
後ろ手に持っていた玩具の指輪を小さな指で差し出して。つるりとした頬を赤くして真摯な光を帯びた海色に戯言を、なんて一蹴することも憚られた。ともに暮らし始めた時は警戒心丸出しで態度も素っ気なかった作之助が、伝えられた内容はともかく懐いてくれていたことは福沢にとっても嬉しいこと。しかしどう返事をして良いものか考えあぐねていると、福沢からの答えをじっと待っている作之助の顔が徐々に泣き出しそうな顔へと変わっていく。
「作之助。どこでそれを聞いた」
「よしえさんです」
「鈴木さんか」
問えばあっさり返ってきた答えは福沢宅の裏に住んでる鈴木芳枝という名前。忙しい福沢の代わりに時折、作之助や乱歩の面倒を見てくれる頼もしい婦人だ。
「よしえさんの指にいつもぎんいろのわっかがあるのが気になってて。さっきあったときによしえさんに聞いてみたんです。そしたら」
『大好きな人からずっと一緒にいてくださいって約束をこの結婚指輪という形にしたものよ』
そう教えてもらったのだ。作之助は先程の会話を脳裏に描く。
『だいすきな人と……?』
『そうよ。作之助君はずっと一緒にいてもらいたい人はいる?』
『うん、います!』
そう言われて一番最初に出てきたのが福沢だった。しかしパッと嬉しそうに輝いた笑顔がすぐに曇ってしまう。
『……その人にだいすきって言っていいのかな』
『どうして?』
『だって……めいわく、かけてるから』
芳枝の優しい声が、零さないように必死に留めていた想いを外へと押し流す。
福沢に拾ってもらえたのはとても嬉しい。暖かな寝床や美味しい食事に着る物まで与えられ、乱歩という同い年の友人まで出会うことも出来て毎日がとても楽しい。それに福沢自身に出会えたことが作之助にとって何よりの幸せでもある。が、それに甘え過ぎてはないだろうかとも思う。成り行きとはいえ急に見知らぬ子どもを2人も育てることになってしまった福沢の迷惑になってるだろう。厳しくも優しい人にこれ以上の負担はかけたくない。
ほろほろと溢れた言葉はあまりにも切なくて。俯いてしまった夕焼け色の髪を暖かな手がそっと置かれた。
『作之助君は優しい子ね』
そんなことはない。本当はまた捨てられるのが嫌で、我侭を言ってしまうと福沢に呆れられてしまうのがとても怖いだけ。優しくなんてなくてただ自分を守りたいだけの身勝手さしかないのだ。ぶんぶんと頭を振る作之助に、優しく撫でる手は止まらない。
『前ね。福沢さんが言っていたことがあるのよ』
『……何を?』
恐る恐る上げた顔には悲壮感さえ漂わせて。そんな作之助に芳枝は安心させるようににこりと笑みを浮かべた。
『"あの子らが来てからは毎日が楽しい"って。大変なことも慣れないことももちろんあるけど、それ以上に乱歩君と作之助君と一緒に暮らしてることが楽しくて仕方ないみたいよ』
『え……』
初めて聞いたのだろう、海色の双眸を驚きに染めて芳枝を見上げたまま固まる作之助にそれにね、と芳枝は続ける。
『"作之助は手が掛からないが無理をしてはいないだろうか"』
『ッ!』
『とっても心配そうな顔をしてたわ』
あまり表情が変わらなかった彼の人のそんな顔を初めて見たから。
『迷惑だなぁって思っている子に心配なんてしないんじゃないかしら』
だから大丈夫よ、と穏やかな声が作之助の縮こまった心を溶かしていく。
『……ほんと?』
『えぇ。福沢さんって少し顔は怖いけれど、とっても優しいって作之助君は知っているでしょう?』
『うん』
研ぎ澄まされた抜き身の刀そのもののような福沢は、その実懐に入れた者にはとても優しい。不器用な気遣いは一見解りにくいけれどとても嬉しくて。時折浮かべる柔らかな笑みが綺麗だと思うしもっと色んな姿を見たいとも思う。
『ちゃんと言ってみます』
『がんばってね!』
曇りから晴れた海色を芳枝の穏やかな双眸が応援するように笑みを刻んで。恋心に目覚めた少年は、決意を新たに福沢への想いを伝えることにした。
そして今に至る。
芳枝とのやり取りは胸に秘めたまま、作之助は福沢の言葉を待つ。泣き出しそうな中にも揺るがぬ想いを見つけた福沢は、暫し思案した後そっと指輪を少年へ返した。
「……やっぱりダメ、ですか?」
「そうではない」
声を震わせる作之助に、言葉を慎重に選びながら福沢は答える。
「作之助の気持ちはとても嬉しい。だが、今はまだお前に応えることは出来ぬ」
しかし。
「お前が成人になっても気持ちが変わらなければ、もう一度言ってくれないか」
その時は必ず返事をしよう。
見つめる海色に同じだけの真剣さを青灰に乗せる。きゅっと唇を一瞬だけ噛み締めて、福沢の言った言葉を飲み込んだ。
「やくそく、」
「ん?」
滅多と動かぬ顔がゆるりと笑みを象る。銀色の代わりに差し出されたのは幼い小指。
「約束してくれますか?」
「あぁ。約束だ」
立てられた小さな指に武骨な小指が絡まり、未来へ向けた約束が交わされた。
「諭吉さんに見合う男になってみせます!」
「楽しみにしている」
「はい!」
躰に喜びを溢れさせながら家屋へ向かう小さな背を眩しそうに見ていた福沢に、冷静な声が浴びせられる。
「そんな約束していいの?福沢さん」
「乱歩」
声の方に福沢が振り向くと作之助と同じような年頃の少年がいた。
「作之助に応えるつもり、ないんでしょ」
「何故そう思う」
「だって歳がちがい過ぎ……あぁ。そういうこと」
言いかけて何か気付いたのか、翠玉を猫のように細めた。子どもとは思えぬ鋭さに射貫かれても僅かも表情を変えぬ福沢に、心底呆れたと言わんばかりのため息を落とす。
「福沢さんがそれでいいなら止めないけど。ああ見えて作之助は手強いよ?」
「だろうな」
頷く福沢に両方面倒くさい!と乱歩はそっぽを向いて家屋へと入っていく。大方買い溜めしてある駄菓子でも作之助と一緒に食べるのだろう。何だかんだと言っても双方が良き友となっているようだ。
乱歩を見送った福沢は止まったままだった洗濯物の取り入れを再開したのだった。
◇◇◇
時は流れて十数年後。
漸く冬の寒さが通り過ぎ、春の暖かさが花々の芽吹きを誘うある日のこと。
夕焼けを思わせる赤銅色の髪と穏やかな海色の双眸を持った男が、緊張した面持ちである門の前に立っていた。手の中の小箱を見つめ、良しと頷き中へ入る。
「諭吉さん、いますか。織田です」
玄関先で声を掛けるも応答はなし。今日は仕事も休みだから家にいるはずなのに、と不思議に思い庭へまわればちょうど洗濯物を取り入れている福沢がいた。
「ん?どうした、作之助」
邪魔になるのか普段羽織っている羽織は肩から外れ、草色の袖を襷掛けにしていた。まるであの日の再現のような光景に固まる作之助を怪訝な顔で福沢が訊ねる。落ち着いた声音にハッと気を取り直し福沢へ視線を向けた。
「あの日の約束を果たしに来ました。返事を頂けますか、諭吉さん」
愛しています。俺と結婚してください。
差し出されたのは小さな濃紺の箱。外と同じ濃紺の天鵞絨が敷き詰められた中には、陽光に凛と輝く白金の指輪が慎ましく座っていた。
「お前が成人になったら返事をする。そういう約束だったな」
厳かに頭上から降る声に、まるで断罪者のようだと他人事のように思う。差し詰め自分は裁かれる側だろう。振り下ろされるのは言葉の刃かはたまた祝福の喇叭か。
じっと待つ作之助の耳に届くは果たしてどちらなのか。
「──お前の求婚を受け入れよう」
「ほ……本当、ですか」
望んでいたとはいえ、受諾の答えに目を瞑る作之助に柔らかな笑みが静かに頷いた。
「私もお前を愛している。伴侶にしてはもらえぬか」
生憎若くはないが。
自嘲気味に呟き、袂から取り出したのは作之助が用意した小箱と同じもの。真逆と思う作之助の目の前で開かれた中には意匠もないもない素朴な白金の指輪が一つ収められていた。
「ゆきち、さん」
「返事はくれぬのか?」
小首を傾げて問う想い人に、愛しさが溢れて思わず片手で抱き寄せ腕の中に閉じ込める。
「作之助」
「はい」
「少し苦しいのだが」
「すみません。もう少しだけ」
肩に顔を埋めたままの赤銅色をくしゃりと撫でる大きな手。
「作之助」
「…はい」
「返事がまだ貰えていないのだが」
低く優しく響く声にゆっくりと顔を上げ、正面から穏やかに凪いだ青灰を見つめる。
「喜んで伴侶にならせて頂きます」
「そうか」
作之助の答えを聞くと固く閉じていた蕾が綻ぶように小さく笑みを刻む。珍しい福沢の表情に作之助の口が勝手に言葉を紡いだ。
「綺麗だ……」
「作之助?」
「普段の貴方も綺麗だが、笑うと尚美しいな」
「なっ……!」
ふわりと愛おしさに彩られた笑みで、何処で覚えてきたのかそんな台詞を零す作之助に思わず福沢の頬が朱に染まる。
「可愛らしい……このまま接吻けても?」
「そ、その前に指輪は交換せぬのかっ」
近づき接吻けを交わそうとする作之助にまだ終わっていないと赤らんだ顔で宣う。改めて互いの指輪を取り出すと作之助の指輪も福沢のものと同じで、飾り気のない素朴なもの。ただ内側にそれぞれの頭文字と誕生石が嵌め込まれていた。作之助は福沢へ蛋白石を、福沢は作之助へと柘榴石を互いの指へ丁寧に嵌めて。
「綺麗です」
「先程も聞いたが」
「何度でも言います。俺の伴侶はこんなにも可愛らしくて綺麗だと」
「~~~ッ!も、もう解った!それ以上は、」
言うなと羞恥から作之助の顔を押さえようと伸ばした右手は逆に絡め取られてしまう。そのまま引き寄せられて、これ以上縮まない距離まで詰められ掌に接吻が落とされた。
「諭吉さん」
ビクリと痩身を跳ねさせる福沢に静かな声が忍び寄る。
「なんだ」
「接吻けをしてもいいでしょうか」
熱を帯びた双眸が福沢を捕らえて離さない。幼いと思っていた子はいつの間にかこんな顔もするようになっていたのか。
「──あぁ。大丈夫だ」
来なさい。
言うが早いか青灰をゆっくり閉じて。
接吻けを待っている福沢があまりにも可愛らしくて無防備で、うっかりそれ以上のことをしたくなるのをぐっと耐える。
(あぁもう。本当に可愛い人だ)
触れるだけの接吻けを薄い唇へそっと落とす。
他の誰もいない庭で誓いの接吻けを交わす二人の左手の薬指には、約束の証が静かに煌めいていた。
End.