8. 白旗の使い方何も言わずに避けるなんて卑怯だと自分でも分かっている。
それでも、今の私にはそうする以外に自分を守る方法が見つけられなかったのだ。
白旗の使い方
試験期間が終了したところで週末と試験休みが続き、数日の空きができた。
その後は少ししたら長い夏季休暇の期間に入る。
大学に行かなければいかない理由が圧倒的になくなる。
そのことにほっとしながらも、胸の中は後ろめたさに似た黒いもやがかかったままだった。
返事をすることができない。
そう思った時から、橙くんからのメッセージは開いていない。
読んで何も返事しないのと初めから読まないのとどちらが失礼なのかと考え、結局どちらも失礼だという結論に達した私は、自分にとって心の負担が少ない方を選んだ。
保身だ、卑怯だ、と心の中で私を責める声がする。
一方で、このままでいたら何かが壊れてしまいそうだから身を守らないといけない、という声も聞こえる。
人に関心を持たなかったときは、こんなに心が大きく揺れることはなかった。
穏やかでいられた。
踏み込まなければ踏み込まれることもない。
そうやって私は自分の領域を守ってきた。
そんな生活がずっと続くのだと思っていた。
その均衡を破る人が現れるとは思っていなかったから。
均衡を崩されて、私は今まで知ることのなかった楽しい気持ちと恐れる気持ちを知った。
少しずつ壁を崩して距離を縮めてくれた立花さん。
ろくに会話も成立させられなかった私を辛抱強く待っていてくれた。
誰かと同じ時間を共有することの楽しさを教わったし、誰かといるからこそ経験できることがあるのだと身をもって感じることができた。
立花さんは、自分一人では感じることのできない世界を私に見せてくれた。
私にとっては恩人とも言うべき存在。
だからこそ、立花さんは私の大切な人であり、これからもこの穏やかな関係が続けばいいと思っている。
あの日起こった心の動揺はまだ決着がついていないけれど。
一方で、急激に心を揺さぶってきたのが橙くんだった。
あっという間に近づいて、私の視界を、選択肢を掬い取ってしまった。
橙くんはこれまで私が受けたことのないことばかり言ってくる。
きっとそれは受けて嬉しい言葉ばかりで。
けれど私はそれを真っすぐ受け止めることができない。
どうして、という疑問が先に立ち、彼に返す言葉を否定が占めてしまう。
それなのに、橙くんは更に踏み込んで来ようとするのだ。
最初は本当にいたずらだと思っていた。地味な私をからかって遊んでいるのだ、と。
でも、最近は分からない。
橙くんが何を望んで行動を起こしているのか。
言葉や態度の距離は近いのに、その心は遠くにあると感じることがある。
手を伸ばしたら簡単に触れられそうな距離にいるのに、いつまでも触れることができないような感覚。
だから余計戸惑う。
この人は何が『本当』なのか。
心地良い言葉で誘う笑顔は確かに魅力的だとは思うけれど、そこに真実がないような気がして、足を止めてしまう。
ただ。
不意に見せる無邪気な笑顔があまりにも無垢で綺麗で・・・信じてみたくなってしまうのだ。
踏み出したらそこには真っ暗な穴がぽっかりと開いているかもしれないという恐怖を感じるのに。
自分自身の中に相対する気持ちが金縛りのように身動きを取れなくする。
(ごめんなさい・・・)
心の中で謝罪をしつつ、私はスマホを視界に入れないようにして、何者にも侵されない時間にひと時の安らぎを覚えるのだった。
「朔良さん」
自分を呼ぶ聞き慣れた声に、思わず耳を疑った。
試験休み明けの通学日。
それも今まで行き会ってきた工学部棟とは別の、一般科目棟の傍で。
その人はにっこりと笑いながら私の進路を遮った。
「ど、ど、ど、どうして」
驚きのあまり舌がうまく回らずどもってしまったのは仕方ないと思う。
この広い構内で、いつどこに来るかも分からない人間を押さえようとするためには、その人のタイムスケジュールを知っているか、刑事よろしく張り込みをするかになる。少なくとも、私は彼に講義スケジュールを伝えた覚えはない。
張り込みはさすがに大学に配備されている警備員のおじさんが目を光らせているから難しいとは思うが・・・。
(じゃなくて)
一切メッセージを遮断し、言外に拒絶したはずなのに、なぜこの人は何事もなかったかのように私の前に現れているのだ。
「橙くん・・・」
「こんにちはー。いい天気だね」
「っ・・・」
連絡を絶っている人間が、その相手に直接会いたいと思うだろうか。
誰だって思わないだろう。
だから、この人はそれを理解した上でここにいる。
変わらない笑顔で、変わらない態度で、私を追い詰めていく。
後ろめたさと恐怖と困惑で鼓動が嫌な音を立ててはいたが、私はなんとか会釈を返し、橙くんの横をすり抜けようとする。
しかし、私の歩みは物理的に止められた。
「逃げないで」
私の腕を掴む手の強さと熱さに思わず振り返ると、今まで見たことのない真剣な眼差しとぶつかる。
「・・・俺から、逃げないで」
切ない哀願を滲ませた声に、私の足は完全に止まった。
ここでその表情は・・・その声は、ずるい。
どんなに避けても、どんなに逃げても、この人は追いかけてくるのだ。
どんな手段を使っても。
だとしたら、もう向き合うしかない。
すっ、と自分の中で一つの結論にも似た覚悟ができた。
「・・・これから講義だから、今は話せない、です。今日は半日で終わるので、お昼からでもいいかな・・・?」
伺うように橙くんを見上げると、彼は掴んでいた手をぱっと離し、満面の笑顔で頷いた。
「もちろん!終わったらメッセージくれれば、迎えに行くよ。だから―」
「逃げないから」
彼の言葉を遮るように私ははっきりと告げた。
驚いたように少し目を見開く橙くんとしっかり目を合わせる。
もう、逃げない。橙くんにも、自分にも。
「朔良さんはさ、兄さんのことが好きでしょ」
開口一番飛び出した言葉に、私は口に含んでいた紅茶を思い切り吹いた。
現実にお茶を吹くことがあるのだと咳込みながら思う。
「な、な・・・」
この人の前ではどもってばかりだ。
そして橙くんはいつだって容赦なく切り込んでくる手を止めない。
「誰が見てもそう思うよ。兄さんのこと目で追いすぎ」
「そ、それは・・・」
「大体、兄さん以外の人と楽しそうに話している朔良さんを見たことないし」
「ええと・・・」
「あの日もさ、兄さんが女子と待ち合わせしていたくらいで動揺しすぎだよ。それに俺と話してたのに他のことに気を取られるなんてさ」
「・・・」
それについてはごもっともすぎて何も言い返せない。
「兄さんは誰にでも優しいけど、自分の行動がどういう結果を引き起こすかってことにまるで気が付いてないんだよね」
「あ、あの」
「ん?」
ここでようやく彼の口撃を止めることができた。
「なんていうか、今日の橙くんはいつもと違う意味で勢いがあるというか、遠慮なし全開というか・・・」
「そう?普通だよ」
にっこり。
音を立てそうな笑顔が怖い。
「これまでの経験から、朔良さんにはきちんと伝えないと分かってもらえないなってことを理解したから、思ったことを口にしているだけ」
(私としてはもう少しオブラートに包んでもらってもいいんだけど・・・)
無言のアピールはいとも簡単にスルーされた。
「とにかく、兄さんに好意がないとは言わせないよ。言葉でどんなに否定しても、行動が物語ってるから」
「・・・」
違う、と言いかけた口が止まる。
違うだろうか、と自問する。
考えるのをやめていた思考を再び巡らせる。
これまであんなに考えるのを避けていたのに、今は何故か自分と向き合うことができた。
そして出た結論は一つ。
違わない。
立花さんを好ましく思っているのは事実だ。
だから、私は橙くんの言葉を無言で受け止めた。
「それで、朔良さんは兄さんとどうなりたいの」
「へっ」
またもや思わぬ質問に腑抜けた声を上げてしまう。
「どうって・・・」
どうなんだろう。
そういえばまともに考えたことがない。
強いて言えば、今まで通りの関係性を続けていければそれでいいと思っている。
居心地のいい環境を守りたい。
「色々あるでしょ。付き合いたいとか結婚したいとか子供作りたいとか」
「こ、子供!?」
相変わらず橙くんの発想は色々突き抜けている。
頬が熱いのは、別に何かを想像したわけではない、断じて。
「顔が赤いけど」
「あ、暑いから」
「ふうん」
含みのある相槌はやめてほしい。いたたまれない。
「と、とにかく、橙くんの言う通り、立花さんのことは大切だと思ってはいるけれど、だからどうしたいとかはない、かな」
「ないの」
「う、うん」
「本当に?」
「え?うん」
確認するように尋ねられても、今はそう答えるほかに答えられるものがない。
「ふうん」
今度の相槌は言外に意外さを含んでいた。
「じゃあさ、俺は?」
「はい?」
「俺とはどうなりたいとか、ある?」
冗談なのか本気なのか区別がつかない問い。
突拍子もない話の振り方をするけれど、その中に橙くんの気持ちが見え隠れしている気がする。
だから・・・。
「・・・橙くんが本当は何を考えているのか知りたい」
「え」
今日は橙くんの色々な表情が見られる日だな、とぼんやり思う。
それとも、今まで下を向きすぎていたのだろうか。
本当は今までもこんな様々な顔を見せてくれていたのだろうか。
だとしたら少しもったいないことをしてきたかもしれない。
「橙くんは私のことを気に入ってくれているみたいだけど、その理由をはっきり見せてくれない。だから怖いし、近づくのを躊躇ってしまう。それに・・・」
不意に心の距離が遠く感じることがある。
見えない線引きをされているような・・・。
「・・・私にとって、橙くんはまだどう接していいのか分からない人だから、もう少しあなたを見せてほしい」
知りたい、と素直に思った。
「・・・参ったな」
一つ息をついて、橙くんは少し複雑そうに口元を上げた。
「まさか朔良さんからそんな切り返しをされるとは思ってなかった」
「切り返しというか、聞かれたから答えただけで・・・」
「そういうところがさ、朔良さんのいいところでもあり怖いところでもあるよね」
(怖い?私が?)
橙くんの言葉は時折難解な問いになる。
(どういう意味なんだろう)
橙くんは参ったな、と口の中で再度呟く。
正直そこまで参るようなことを言ったつもりはない。
もしかして、自分のことを知られるのが余程嫌なのだろうか。
それについては私も思うところがあるので何も言えないが。
少し考えこんだ橙くんを見つめながらぼんやりとりとめもないことを考えていたら、視線を上げた橙くんと目が合った。
その瞳には冗談やからかいは少なくとも浮かんでいなかった。
「俺はね」
橙くんの身体がテーブルを挟みながら前かがみに近づいてくる。
私は予想もしない彼の行動に驚いたまま身動きが取れず固まった。
やがて、自分の顔が橙くんの瞳に映るくらいの距離まで近づいた後、橙くんは囁くように私に告げた。
「朔良さんとどうなりたいって、具体的に考えてるよ」
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