恋人の母親 テーブルを挟んだ正面。初めて会ってから、これがまだ三度目くらいのはずなのに、彼女には妙な安心感を覚えている自分に驚いた。正直、『商売人モード』になっていない時のアズールはどちらかといえば人見知りで、自分から進んで話すこともない。まして、身の上話だなんて。それもこれも、きっと彼女が「恋人の母」であるからだ。
「いいなぁ~! 私も海に住んでみたいなぁ~!!」
無邪気にそう言う彼女はきっと、イデアによく似た眉を狭めて唇を尖らせているに違いない。黒いヘルメットは華奢な身体に随分と重たそうに見えたけれど、極限まで軽量化しているそうで、全然重たくないの、と初めて会った時に笑っていたのを思い出した。
「これを水中用に改良したらいけるんじゃないかしら」
そうよ、そうすれば呼吸だってできるじゃない。酸素を作り出しつつ皮膚を守るスーツを……ヘルメットの頬の辺りを摩りながら、ぶつぶつと呪文を唱えるように自分の世界に入り込んでしまった彼女を眺めつつ紅茶のカップを傾ける。
こういう時の対応には慣れたものだ。如何せん、普段から一緒にいるイデアによく似ているものだから、どうかしたのかと思うよりも前に、やっぱり母子だなと思ってしまう。
「あッごめんね、私ったら」
「いえ、大丈夫です」
こうして突然はっと我に返るのもよく知っている。両手で口許を隠すのも、幼い頃から彼女がそうするのを見ていたせいなのかも知れない。イデアも同じようにそうすることが多い。彼の骨張った大きい手が青い唇を覆うのを見るのが好きだった。それから、照れたように髪を梳く仕草も。耳の辺りに手をやるのは彼女にも似たような癖があるのかも知れないが、残念ながらそれはヘルメットの上からは見られなかった。
ふと視線を感じてティーカップを下ろす。テーブルに頬杖を着いた彼女がじっとアズールを見詰めて、何となく微笑んでいるような気がしたから、アズールも僅かに艶黒子の口元を緩めた。
「怖いと思わなかった?」
「ヘルメットですか?」
「やだ、違うわよお」
からからと笑った彼女にアズールも同じように小さく笑ってから、思わせ振りにううんと小さく唸ってみせる。何の話題なのか、直接聞かれずともすぐに分かった。
「……きれいだと思いましたよ。透き通る硝子みたいで」
あら、と零れたのはきっと、思わず落ちた声。ヘルメットの下の彼女の髪は、イデアやオルトのような透き通る蒼い髪なのだろうか。または、その髪を持つのはすらりと背の高い彼の父の方であろうか。いつかそれを知れる日が来るといいなと初めてイデアの髪を見た時のことを思い返した。
中庭で見かけた透き通った蒼は、炎であり水であり、硝子であり空だった。アズールの知る『蒼』を総て詰め込んで溶かしたようなその色に目を奪われたのを今でも覚えている。
「わたしも」
内緒話をするように小さな声で肩を竦めた。彼女がうふふと笑ってテーブルに身を乗り出す。
「わたしもそう思ったの。だから言ったのよ、『何て綺麗なの』って。そうしたらパパったら、『冗談はやめて』なんて言ったんだよ」
不貞腐れたみたいにそう言って腰掛けていたイスの背凭れに小柄な背中を預けた。少しだけ苛立ったように腕組をしたその態度に目を細める。
「僕は逃げられました」
「ええっ!? ヤダお兄ちゃんたら逃げるなんて! 折角こんなに綺麗な子が話しかけてくれたのに!!」
「ちょっと!? 何やってんの!?」
イスを転がす勢いで彼女が立ち上がるのと同時に、その後ろから現れたイデアがこれ以上ないほどに目を剥いて声を上げた。滅多に聞かない彼の大声にアズールも思わず何度か瞬く。
「あっイデくん」
「あっじゃないよ! 何!? ここどこだと思ってんの!?」
「ボドゲ部の部室だけど」
「だけどじゃないんだよなあ!? は? 何!? 何普通にお茶してんの! アズール氏も馴染み過ぎでは!?」
普段は血色の悪い頬が気色ばみ、両手に抱えた駄菓子をそのままに二人のテーブルに駆け寄って来た。ぽろりと棒状のスナック菓子が零れ落ちたのをアズールのグローブを嵌めた手が拾い上げ、小さく溜息を吐く。
「イデアさんまた駄菓子ですか?」
「も~ホント言ってやって、こんなのばっかり食べてるから栄養が」
一対二の構図にうんざりとした表情をしたイデアがアズールの手からスナック菓子を取り上げて宝物のようにお菓子を抱え直した。
「そんな事よりマジで何、何なの」
「進路の件で呼ばれたんだそうですよ」
「いやそういうことは息子に言いなよ何でアズール氏が知ってんの」
「だってイデくんママのメール見ないじゃない」
「見るよ! 見たうえで返事してないだけです~」
「返事はした方がいいんじゃないですか」
「既読になるんだから読んでるかどうかはわかるでしょ」
「どうせ送るなら返事があるアズくんの方に送るよ」
「ていうかいつの間に連絡先交換したの!? 距離詰め過ぎでは!?」
「いいじゃない、イデくんの恋人はママの息子だもの」
ね。相変わらず表情は分からないけれど、その向こうでは絶対にいい笑顔が浮かんでいることだろう。
堂々とそう言われると気恥ずかしくなってしまって、耳の先が熱くなるのを感じながらそっとひとつ頷いた。頭上から「は? とうと…」という謎の言葉が落ちてきたのには気付いていたけれど、流石に中々顔を上げられないまま。
互いに頬といわず耳といわず真赤になってしまった二人を、母は微笑ましく見守りながら、ヘルメットの頭部に搭載した小型カメラで連写していたことには、イデアですら気付くことはなかった。