ねぇパパ 殺していいですかい? 既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。――『コヘレトの言葉』4章2-3節
ねぇパパ 殺していいですかい?
「正気の沙汰とは思えんな、Ai。」
成人男性一人腰掛けるのがやっとの狭いコックピットで精密機器と格闘している黒髪のアンドロイドは、携帯端末を通した旧友の声を聞くなり眉間に皺を寄せた。
「何だ不霊夢。Ai様の完璧な計画に文句でもあんのかよ?」
「Ai、お前は自分が何をしようとしているかわかっているのか。」
炎のイグニスが
決闘盤から身を乗り出して画面に目いっぱい近づき、
機巧に乗り移った闇のイグニスを威圧している様子が映る。闇のイグニスは冷めた眼つきに加えて一段と低い声で応答する。
「……そんなに自分の命が惜しいかよ?」
「Ai!」
「悪いケド、オレは
相棒を救うためならどんな手だって使ってやるから。それにさ、お前だって考えたことあるんじゃねえの? オレたちが生まれ得なかった未来でなら、あいつらはフツーの幸せを得られただろうにって。」
黒髪のアンドロイドは手元にある複数のスイッチを、順番を入念に確かめて切り替える。
「お前が何と言おうと、オレの決意は変わらねえから。じゃあな。」
ブツリ、と乱暴に通信が切れる。通話終了を示す無機質な音が響く中、不霊夢は腕を組みため息を吐いた。機械音が止まった頃、部屋の襖が開いて彼の相棒とその恋人がバタバタとやって来た。
「悪い、待たせたな不霊夢。」
「もー。尊、リンクヴレインズのイベントまで時間無いよ!」
「わかってるって! ……不霊夢?」
自分にとって家族同然の二人が繰り広げる楽し気な会話を耳にし、炎のイグニスは我に帰った。
「むっ。尊、綺久。」
「ん? 不霊夢ちゃん、誰かと電話してた?」
尊の決闘盤の傍らに転がった携帯端末を指差し綺久が尋ねると、不霊夢は首を横に振った。
「それより二人とも、早くログインした方が良いのではないか?」
「あ、そうだった。んじゃ、行くぞ不霊夢、綺久。」
少年が決闘盤を拾い上げるとイグニスは決闘盤の中に引っ込んだ。少年と少女は各々決闘盤を装着し、高らかに叫ぶ。
「イントゥザヴレインズ!」
電子生命体を乗せた鋼鉄製の籠は、時の流れをゆらりゆらりと遡る。あまりにも緩慢な旅路に――もちろん彼単独の技術力によって実現し得る最高速度ではあったのだが――耐え難いもどかしさを覚えて、彼は歯を食い縛った。
「ったく、一世紀にも満たないタイムトラベルにどーしてここまで時間がかかんのかねえ。」
自身の能力不足を呪いつつ背もたれへ寄りかかり、Aiは天井を見つめる。
あれから遊作はオレたちのデータの残骸を数ヶ月に渡って掻き集めオレたちを復元した。当然のことながら、ライトニングの姿は無かった(何せ、あいつが生きていると世界の滅亡が早まってしまうのだから、あのお人好しだって流石に捨て置くさ。かと言ってオレだけが復活したら結局は同じなワケで、だから不霊夢たちと一緒に生き返ったんだよな)。別にライトニングに思い入れがあるワケじゃねえけど、最期までよくわかんなかったあの天才的な思考回路を持ったあいつが生きててタイムマシンを作ったなら、きっとこうやってうだうだ考える間もなく一瞬で目的地に着いてたんだろうな。
今は亡き同胞に思いを馳せ、電子生命体を宿したソルティスは目を閉じる。冷たい揺籃に体を預け、アンドロイドはスリープモードへ移行した。
程なくしてタイムマシンは人気のない草原へ、半ば墜落するように着地した。シートベルトのおかげでかろうじて頭をぶつけずに済んだが、着地の際発生した揺れで膝を打ったらしく、スリープを解除したAiは数分間うずくまって膝を押さえた。脚の感覚を取り戻したのち外へ出て彼は周囲を見渡す。夕闇に浮かぶ、新品ながらも古臭いデザインのネオンサインを視界に捉え、目的とする年代の目的とする土地に辿り着いたことを実感して黒髪のアンドロイドはわずかに口角を上げた。
オレたちイグニスの生まれ得なかった未来、つまりロスト事件の起こらなかった未来を実現するのに最も確実な方法は、ロスト事件首謀者たる鴻上聖の誕生を阻止すること、要するに鴻上聖の両親の遺伝子が交配するのを防ぐってことだ。予めオレは奴の戸籍やアルバムを盗み見て標的となる男女を、そして二人の出会った時期と場所を特定しておいた。正しい時期と場所に到着できたし、早速取り掛かるとしようか。
Aiはポケットから取り出したスカーフを首に巻き呟く。
「ねぇ造物主、殺していいですかい? ……なんてね。」
玄関の戸を叩く音に気付き、下女は掃除の手を止めて玄関へ向かう。
「はい、お待たせいたしました。……ええと、どちら様でございましょう?」
下女は引き戸を開けるなり、舶来の書物に登場する吸血鬼に似た奇抜な恰好の西洋人らしき男を怪訝そうに睨んだ。男は下女の目線に一切動じる様子を見せずにこやかに話し始める。
「お初にお目にかかります、『田農町結婚相談室』の『井上』でございます。本日は鴻上様のご嫡男へ女性をご紹介に伺いました。旦那様とお話させていただけますか。」
「はあ。井上様、あいにくですが旦那様はすでに跡取り様の嫁は決めていらっしゃいます。お引き取りくださいまし。」
下女が戸を閉め始めた矢先、Aiは戸を足で止め強引に話を続ける。
「まあまあ、お話だけでも聞いていただけませんか? とある大財閥の社長が是非とも鴻上家のご嫡男を婿にと望まれていらっしゃいまして。」
「ですから、旦那様は――」
「かつての栄華を、取り戻したくはありませんか?」
「!」
下女は目を丸くしてAiを見つめ硬直する。何故高砂業の青二才ごときが鴻上家が遠い昔華族から没落した家系であると知っているのかと言いたげな表情の下女を見て、勝利を確信した黒髪のアンドロイドは畳み掛ける。
「将来、旦那様のお孫様に不自由させたくはありませんよね? 鴻上家が華々しく返り咲くまたとない機会です。この縁談を反故にしようものなら、この先平民から脱する機会と巡り合うことは無いでしょう。是非とも、旦那様へお目通し願いませんか。」
〈井上〉の提案に下女が目を泳がせている。――今だ!
アンドロイドは下女の眉間に人差し指をかざして囁く。
「ねえ?」
Aiの両目が金色の光を放つと、下女は一転して彼を家の中へ迎え入れた。その後、Aiは同様の手口で鴻上家全員と、縁談の相手となる社長一家を洗脳し縁談を成立させた。また、鴻上聖の母親となる予定だった女性を別の男性と結婚させることにも成功し、闇のイグニスは見事〈鴻上聖〉の存在を抹消したのであった。
タイムマシンの傍らに寝転がり、Aiは草原の上空をぼんやりと眺めていた。間もなく〈鴻上聖の生まれなかった未来〉、つまり〈ロスト事件の無かった未来〉が動き出す。それは彼の死期が迫っていることと同義のはずだが、彼は今世で一番穏やかな表情を浮かべていた。
「ハハハ、このAi様の手にかかれば未来改変だって朝飯前だぜ!」
黒髪のアンドロイドが右手を握りしめ空へ突き出すと、右腕は徐々に色を失い周囲の色と同化し始めた。先ほどまでの余裕が噓のように、闇のイグニスの表情がかげる。
ついにこの時が来た。これで良かったんだ。こうすれば、遊作たちは酷い目に遭わずに、フツーの幸せを得られるってのに。手の込んだ自殺、覚悟ならとっくにできてた。はずなのに。誰にも看取られることのない死。今度こそ、仲間や相棒とのリンク――繋がり――すらも意味をなさず霧散し、誰の記憶にも残ることのない消滅。電脳空間からも現実世界からも自分という存在が、自分の生きた証さえ遺さず無に帰す、無様で虚しい幕切れ。そんなものは重々承知の上でこの計画に臨んだ、のに。……今更になって怖くなってきた。
「……草薙、……尊、……不霊夢……、……遊作……。」
人工生命体を宿したソルティスは草原を抜ける風とともに消え失せ、彼の傍らに鎮座していたタイムマシンも姿を消した。
「ん……? ここは、リンクヴレインズ?」
意識を取り戻したAiは、眼前に広がる光景に驚き飛び起きる。計画は成功したはずだというのに、何故か意識があるのだ。
「オレは死んだんじゃ……もしかして、電子生命体にも涅槃ってヤツはあんのか?」
闇のイグニスは、両手を握りしめたり開いたりしつつ周囲を見渡す。彼があの時死んだはずの自分がリンクヴレインズにいる現状に戸惑っていると、空中を遊泳している炎のイグニスがふいに視界へ飛び込んだ。
「何を寝ぼけている、Ai!」
「ふ、不霊夢!? どうして……。」
「ソウルバーナーなら綺久を連れてGo鬼塚の試合を見に行っている。先程唐突にイグニスアルゴリズムがリンクヴレインズのネットワーク上に現れたものだから、二人が試合に熱中している隙を見計らって抜け出して来たのだ。やはりAi、お前だったようだな。」
不霊夢はAiの目の前で腕組みし、目を閉じつつ呆れた様子で語りだした。
「いや、そういうことじゃなくてさあ。」
Aiが苦虫を嚙み潰したような顔で口を挟むのを気にも留めず、不霊夢は淡々とAiが最も知りたがっているであろうことを指摘する。
「何故お前がリンクヴレインズにいるのか疑問なのだろう。簡潔に言えば、残念ながらお前の計画が失敗に終わったからだ。」
「はあ!?」
「過去に戻って鴻上博士を消そうとしていたようだが、それが成功する訳が無いというのはわかりきっていた。だのにお前が無駄骨を折ろうとするから止めたのだぞ。『正気の沙汰ではない』、『自分が何をしようとしているかわかっているのか』と。」
「で、でも現にオレは鴻上聖の両親の結婚を阻止して――」
「パラレルワールド、と言えばわかるか?」
「パラレル、ワールド……?」
「全ての事象に、それぞれの選択肢ごとの分岐の数だけパラレルワールドが存在している。」
「あー、ゲームのシナリオ分岐みてえなモンか。」
Aiがわざとらしく手を打ち大袈裟に表情を和らげたのを無視して、不霊夢は真顔で説明を続ける。
「そうだ。そしてお前は重要な点を勘違いしていた――別のパラレルワールドへの干渉は不可能なのだ。要するに、過去に戻って選択肢を選び直したところで別ルートの歴史が進行するだけで、我々の歩んだルートは変わらないということだ。」
「じゃあ、あの時オレがソルティスごと消えたのって……。」
「〈鴻上博士が誕生しロスト事件が発生した〉時空の住人であるお前が、〈鴻上博士の誕生しなかった〉時空から元の時空へ強制的に戻されただけだ。」
「ガーン!……本当にオレの努力はムダでしかなかったってことかよ。」
黒髪の人工知能は心底ショックを受けた様子でガックリと項垂れ肩を落とした。そんな彼を哀れに思い、炎のイグニスは慰めの言葉をかける。
「ただ、自らを犠牲にしてでも相棒を救いたかったお前の気持ちはわからんでもない。ソウルバーナーもあの事件のせいで不幸な人生を送っていたからな。確かに鴻上博士の所業は到底許されるものではない。しかし私は凄惨な過去を乗り越え立派に成長したわが相棒を、ソウルバーナーを誇りに思う。プレイメーカーたちも、戦いを経て過去を乗り越え未来へ歩み出したのだ。お前も過去ばかり見ていないで未来に目を向けろ、Ai。」
「不霊夢……。そっか、そうだよな。ありがとよ、不霊夢。」
リンクヴレインズのメインエリアはいつも通りの快晴。空を見上げたAiの晴れやかな顔が、麗らかな日差しに照らされている。上空では雲の代わりにごく少量のデータマテリアルがのんびりと流れていく。
ピロン
通知音とともに、Aiの手元に小さなウィンドウがポップアップした。
「お、噂をすればプレイメーカー様からメッセージだ。なになに、デッキを組み直したから決闘しよう……か。これは今すぐプレイメーカー様んとこ行かないと! じゃあな、不霊夢!」
「ああ。達者でな、Ai。」
罪人らのことに心を燃やすことはない。日ごと、主を畏れることに心を燃やすがよい。確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない。――箴言23章17-18節
〈終〉