ヴィーナスには敵わない!実験大好きお姫様ことアグネスタキオンは、結構なものぐさで。たぶん私がいないと生活が破綻するな、と思う。
今回は、カンヅメで研究に没頭しすぎて五日間お風呂に入らなかったらしい。本人は体臭さえ消せれば問題ないと思っているようだが大問題だ。お年頃の女の子が五日も身体を洗っていないなんて、言語道断である。私の部屋に連れて行き、浴室を貸せば、
「研究疲れでだるくてめんどくさいんだ。君が身体を洗っておくれよ」
と上目遣いでねだられた。ここで突き放してへそを曲げられると厄介なので、結局私は今回も彼女に尽くしてしまうことになったのだ。
「ウーン、気持ちいいねぇ……これで髪と尻尾も洗ってくれたらもっと良いんだが」
「頭と顔と尻尾は自分でやってください」
グレープフルーツの香りのボディーソープをスポンジの上で泡立て、彼女の首から肩と肩甲骨、背中に滑らせる。お姫様は、私とお揃いのシャンプーで頭をもこもこ泡だらけにしながら上機嫌だ。長い付き合いで、彼女はすっかり私にお世話されるのが大好きになってしまった。
「タキオンさん腕上げて。ばんざーい」
ばんざいした腕を取り、優しく丁寧にごしごし。
「タキオンさんこっち向いて」
後ろから正面に向き直してもらい、胸からお腹の下まであわあわ。
若い身体は白くて華奢で、肌は手入れを怠っていてもすべすべだ。私なんかは一回徹夜しただけで肌ボロボロになるのに、若さってずるい。
幼い研究者さんは、尻尾にシャンプーを染み込ませて、ラバーのブラシで梳くように洗っている。
彼女によって無理やり付けられた心拍計は、背中側を洗っていたときよりも高い数値を表示していた。
「ふぅン。君、心拍数が上がっているねぇ。どうしたんだい?」
そんなの、理由は分かっている癖に。悪趣味な研究者さんは、私に言わせようとする。
「なぁなぁ、言ってみたまえよ。その心拍数の理由を」
その余裕な態度に腹が立ち、私は一度スポンジから手を離して……彼女の脇腹をくすぐった。
「ククッ、アハハハ! やめっ、やめろモルモット君! あは、アッハッハ!!」
身をよじらせて笑い声を上げる彼女の脚を掴まえ、追い討ちとばかりに土踏まずをこちょこちょする。意地悪してくるわがままちゃんにはお仕置きだ。このくらいしてもバチは当たらないだろう。
「ひゃ、アハハ! ばかっ、ヒィ、やめろぉ! あ、アハハハッ!!」
ひとしきりくすぐり攻撃をした後、私は惚れ惚れするような美しい両脚にスポンジを滑らせた。一見すると細い脚は、触ってみると無駄のない筋肉で引き締まっているのがわかる。この脚が、超光速のスピードを生み出しているのだなと思うと、とても愛おしい。
「……ふー、笑った……それで、心拍数の理由は?」
私は、形の整った足を指まで洗ってあげながら、顔を上げずに答える。
「そんなの、貴方が綺麗だからに決まってるじゃない」
ただでさえ、勝負服でシルエットが隠れていても、きれいなボディラインだとわかるんだから。一糸まとわぬ無防備な姿は、それはもう生まれたてのヴィーナスのようにきれいなのだ。つい見蕩れて、心拍数が上がってしまうに決まっている。
「クククッ、正直者だなぁ君は! 私の肉体が美しいのは、研究の成果なのだから当然だろ!」
「はーい、流すよー」
調子に乗るお姫様に、頭から勢いよく温かいシャワーを掛ける。流れて消えて行く白い泡はヴェールとドレスみたいだ。じっとして耳を伏せ、目を瞑っている様子も可愛らしい。
尻尾の泡まできちんと流れたのを確認して、蛇口を締めた。
水滴を滴らせてしっとりしたタキオンが、ぶるんと一度頭を振る。そして、私の頬を、彼女の両手が捕まえてきた。紅茶色の瞳に、じっと見つめられる。
「けれど、私をここまで綺麗にしたのは君だろう?」
まったくもう! 彼女のペースに飲まれっぱなしだ!
「ああそうですよ! 走る姿だけじゃなくて、貴方は全部綺麗ですよ! だからもっと綺麗にしたくなるんです! わかったらもう少し身なりに――んんっ!」
言い切る前に、唇が押し当てられる。ちゅうぅ……という漫画みたいな音を立てて、時間が止まった。
彼女の唇は柔らかくて温かい。髪と素肌からは洗いたての爽やかな香りがして、私の顔の血行が過剰に良くなって行く。閉じられた瞼を見て、私よりずっと睫毛が長いなぁ、なんて思いながら、呼吸は段々と苦しくなる。
もうダメかも……と窒息を覚悟したところで、唇が離れた。
「……君、年上の癖にキス下手だなぁ。いい加減鼻呼吸を覚えたまえよ」
「ぷはっ……タキオンのばか! ナルシスト! キス魔!」
「そんなばかでナルシストでキス魔の私が大好きなのはどこの誰だい?」
ああもう! 完全に主導権を掴まれてしまって悔しい!
言葉で答える代わりに、次は私が彼女の唇をふさいだ。
髪と尻尾は、流さないトリートメントを塗ってツヤツヤ。
顔には、ヒアルロン酸やセラミドがたっぷり入ったフェイスマスクでしっとりもちもち。
前日に仕込んでおいた手作りのアイスクリームは、バタークッキー入りのアールグレイ味。
いつの間にか、タキオンに尽くすことがすっかり私の楽しみになっていることに気付き、自身の順応性の高さに驚いてしまった。モルモット兼助手は、当たり前のようにドライヤーで研究者さんの髪を乾かしていて。実験大好きお姫様は、当たり前のように風呂上がりのアイスクリームを味わっている。
「――というのが、今回の研究結果だよ。カンヅメしてたおかげで、いい論文ができた。後は推敲して、学会に提出するだけだな」
タキオンの語る科学の話は、難しくて時折私には理解できないこともある。けれど、私は難しい理論を嬉しそうに語る彼女の声が好きだから、他の用がない限りは止めない。研究・実験が成功したときの朗々とした語りは、いわば私だけに歌われるウイニングライブだ。
「トレーナー君、おかわり」
タキオンは振り返って、空になったアイスの器を差し出してきた。その顔にフェイスマスクをまだ付けたままなのが、なんともおかしくて笑ってしまう。
「ダーメ。お腹壊しちゃうよ」
「シングルじゃ足りないんだよ〜もう一杯おくれよ〜」
「じゃあ、次のレースで一着取ったらトリプルにしてあげる。バナナアイスとチョコアイスも付けるから。だから今日は我慢、ね?」
ドライヤーのスイッチを切って、フェイスマスクをはがしてあげると、彼女はトレーナー室に来たときとは見違えるくらい綺麗なお姫様になった。髪はツヤツヤで、肌はすべすべだ。お風呂からスキンケアまでは重労働だけれど、この達成感があるからなかなかやめられない。
「聞いたぞ? 言質取ったぞ? 次も勝つからな! その約束、忘れてくれるなよ!」
「そのために明日からトレーニングしようね」
「任せたまえ!」
トリプルのアイスの約束を取り付けると、タキオンは既に勝ったかのような笑顔で胸を張った。こういうまだ子どもなところも、かわいいとつい思ってしまう。レースのときは、別人みたいにかっこいいのだけれど。
「トレーナー君」
と、唐突に腕を掴まれて引き寄せられる。何度もされてきたから、この後何をされるかは予測可能だ。けれど回避は不可能。彼女は私を逃がさない。
今度のキスは、紅茶アイスの味がした。
「感謝と勝利の誓いのキスだ。甘いだろ?」
本当に、今日は彼女に負けっぱなしだ!