そして彼女は飛んで行った ――その敗北は、オレにとって忘れられない汚点だった。
「アグネスフライト差してくる! フライト差す! フライト差す!」
「エアシャカール、ここまでか!?」
「エアシャカールとアグネスフライト、二人並んでゴールイン!」
「熾烈を極めた『日本ダービー』、勝ったのはアグネスフライト! ハナ差でダービーを制した! 二着はエアシャカール」
『皐月賞』を勝ち、「三冠ウマ娘候補」と言われていたオレは、『日本ダービー』で奴に負けた。僅か、七センチの差で。
「おい、トレーナー。徹夜でデータを計算して作った、トレーニングリストだ。『菊花賞』は、絶対負けねぇ」
オレに向けられていた期待と賞賛は、すべて奴に向けられた。オレは「計算を間違えた気性難」と謗られるようになった。
まァ、ノイズはどうでもいい。オレはただ、奴に雪辱を果たすため、『菊花賞』に向けてトレーニングを続けた。
そして――
「エアシャカール二冠達成! 秋の京都に、勝利を飾りました! 二着は――」
オレが汚名を返上したとき、奴は、五着に落ちていた。
『ダービー』以来、オレと奴は顔を合わせればライバルとして言葉を交わしていた。だが、『菊花賞』で敗けた奴は、しばらく姿を消した。学園のどこを探しても、まるでオレを避けるように、奴の姿は見当たらなかった。
――奴の去り際は、あまりにも呆気なかった。
「はァ!? 自主退学したってどういうことだよ!?」
『菊花賞』から、一ヶ月が過ぎた頃。
奴がオレを呼び出したのは、空港だった。奴はなぜか車椅子に座った姿で……その左足首は堅くギプスで覆われていた。
「どうやら、『菊花賞』で私の限界が来てしまったようだ。シャカール、『屈腱炎』という病を知っているかい? 遺伝性の、脚の病でね、私は生まれつきそのキャリアを抱えてたんだよ」
奴は言葉を続ける。
曰く、治療に専念するため、医療技術の進んでいるアメリカへ渡ると。
治療とリハビリが終わる頃には、もう"本格化"も終わっているだろうと。
そのため――トゥインクル・シリーズは、『菊花賞』が最後だったと。
「だが、限界まで走れてよかったよ。欲を言えば、君にもう一度勝ってから引退したかったがね」
「フライト……テメェ、いつ帰ってくる」
フライトの肩をすくめる仕草で、オレはすべてを察した。
「私がリハビリを終える頃には、君は卒業しているだろうね」
どうしようもない。握りしめる拳に力が入り、手のひらに爪が食い込む。
そんな痛みよりも、いつも通り飄々としたままのそいつに腹が立った。
「おい……! なんでそんなに平気そうな顔してんだよ!? もうレースで走れねぇんだぞ! 悔しくねぇのかよ!? 応えろよ、フライト!!」
気付けば、オレは奴の肩を掴んで揺さぶっていた。
しばらく、どちらも黙り込んで……沈黙の中で、奴は口を開く。
「悔しい? アハハハハッ! 悔しいに決まっているだろ!! エアシャカール、君というライバルともっと競いたかった!! 『天皇賞』も、『宝塚』も、『有マ記念』も!! もっと勝ちたかった!! 『アグネス家の最高傑作はフライト』と言われたかったさ!!」
奴は狂気的に笑う。その頬に、一筋の涙が流れた。
「だがね、シャカール……君に、一つだけ朗報がある。私の妹のタキオンを知っているだろう? あの子、もうすぐトレセンに入学するよ」
「タキオン……『ダービー』のとき観客席にいた、アイツか」
アグネスタキオン。アグネスフライトの妹。顔が奴と瓜を二つに割ったようにそっくりだったので、よく覚えている。そして、入学前から「素晴らしい素質を持つ」と噂されていることも聞いていた。実際にデータを比較・検証したところ、タキオンのラップタイムはフライトを上回っていると、オレは既に知っている。
「タキオンは、私より速くて賢い。奔放でクレイジーな奴だが、きっと君とも気が合うだろうよ」
「待てよ。そいつのどこが朗報だ! タキオンをテメェの代わりにしろってのか!?」
「アイツ、奔放すぎて友達いなくてさ……君が友達になってくれたら、私も安心だ。実験バカでわがままで手のかかる奴だけど、私にとっては世界一かわいい妹だから。タキオンを、よろしく頼むよ」
「話聞けよ! 入れ替わりにタキオンが入ってきたって、テメェの代わりはどこにもいねぇんだぞ!」
フライトは、クククッと乾いた笑い声を再び洩らした。口は笑っているが、目は笑っていない。奴の赤い瞳から、また涙がこぼれ落ちた。
「エアシャカール。君がそう言ってくれて、嬉しいよ。タキオンがデビューすれば、きっと私は忘れられる。アイツは、既に三冠ウマ娘の器を持っているから。けれど、君は私を忘れないでいてくれるんだな」
「たりめーだろ……テメェはテメェ、タキオンはタキオンだ。オレの三冠を阻んだのは、これまでもこれからもテメェだけだよ。だから……」
「行くな、なんて言ってくれるなよ。これは私の決断でもあるんだ。レースを引いても、私は私。タキオンとは別の道を歩んでみせるよ。だから、さ」
奴の冷たい手が、オレの手を握った。力強く、奴の決意を示すように。
「私が帰ってくるまで、タキオンを頼む」
そのときのオレは、奴の手を力なく握り返すことしかできなかった。
「トレーナー君、きちんと十キロ走ってきたかい? それでは実験といこう! まずは君の心拍数と」
「ぜぇ、ぜぇ……なんで私が走らされてるの……あなたの、トレー、ニング、でしょ……」
それから――アグネスタキオンは、華々しくメイクデビューを果たした。
タキオンのデビュー戦を、オレは見ていた。芝二千メートルの中距離。作戦は先行。中盤まで六番手につけて脚を溜めていたタキオンは、残り千メートルを切って一気に加速。データ通りの末脚で前方を走っていた奴らを抜き去り、一着に輝いた。実験体と呼ぶトレーナーを味方につけたタキオンは、選抜レースのときとは比べ物にならない。その走りは、オレの視線をも奪った。
「おお、シャカール君!」
グラウンドに戻ってきたタキオンと、うっかり目が合う。奴はオレを見つけるなり、クレイジーな瞳を輝かせ、駆け寄ってきた。思わず、「ゲッ」と声が出る。
「丁度いいところに来たねぇ! 今日完成した新薬の試作品なんだが」
「飲まねぇよ、この実験バカ」
「アッハッハッハ! 『実験バカ』とは、なかなかの褒め言葉だ! ただのバカではなく実験バカとはねぇ! ククッ!」
「あーもううるせぇ! 薬の副作用なしでも笑い止まらねぇのかテメェは!」
「それで、体重のデータをくれる気にはなったかい? 今ならこれと交換で」
「やるかよ! バァーカ!! 一生笑ってろ!!」
「ハハハ! それは激励と受け取っておこう! またな、シャカール君!」
まったく、アイツの託した実験バカは、想像を遥かに上回るクレイジーなバカだった。
実験に打ち込んで授業にもレースにも出ず、少し前までは退学の危機にあったというのに。そんなことは忘れてお気楽に実験体と遊んでやがる。
「タキオン。次のレース、『ホープフルステークス』のデータだけど……」
「やれやれ、『約束はできない』と言っただろう? それはそれとしてデータは見るがね! その前にこの薬を」
「もうぅ……何の実験?」
だが……学園内でいつも通りのマッドな姿を見せるタキオンに、安心しているオレがいた。こんな実験バカをいちいち気にするなんて、ロジカルじゃねぇ。まったくもって、ロジカルとは正反対だが。
「へェ……『全米勝負服デザイン・ジュニア級コンテスト 最優秀賞受賞 アグネスフライト』かよ」
「『アグネスフライトのデザインした勝負服の処女作は、妹アグネスタキオンに贈られた。タキオンは今春【皐月賞】にて、フライトの勝負服に手を通す予定。姉妹の共演は、果たしてクラシックレース一冠目に繋がるか』だってよ」
「はうぅ……タキオンさんのお姉さん、すごい人なんですね。アメリカで有名なデザイナーになったなんて」
「ドトウも作ってもらったらどうだ? テメェのデータと引き換えに、オレがアイツに口聞いてやるよ」
「む、ムリですぅ……私、勝負服なんてまだ……」
あの日飛んで行った飛行機は、海の向こうの空で奴らしく飛んでいるらしい。オレは、アメリカのニュースサイトに載せられた、小さな記事を右クリックする。
「あれ? シャカールさん、笑ってる?」
「アアン?」
「ひぃっ、ごめんなさいぃ!」
口の端を触る。確かに、オレは笑っていた。