きみを描くはなし 三年生になって嬉しかったことは、ホームルームの教室が二階になって、昇降口から近くなったこと。それと――自分の座席が窓際後方に配置されたこと。
そう言ったら、友達はちょっと不思議そうにして、それから微笑んだ。
「なんで? ……先生に目を付けられにくいから?」
「ううん、それも少しあるけど」
窓の傍、やわらかいひかりが差し込んで、揺れるカーテンが机の脚をなぞってゆくその席は、たしかに教壇から見えづらい。お昼寝なんかにはもってこいだ。
でも、私がその場所を気に入っている理由は、それだけじゃない。
――この位置からは、王子様を観察することができるのだ。
ついさっきまで視界にあった彼の姿を脳裏に思い浮かべ、私は手元の鉛筆を斜めに寝かせて、さあっと動かす。描いた陰がほんのすこしずつ濃くなる。
「あ、また描いてる。王子くんに見つかったら怒られるわよ?」
「えー? そうかな?」
どっちかっていうと面白がるんじゃないかな、そんなふうに考えながら――私は、スケッチブックをそっと閉じた。私としては、本人に見られてもべつにいいのだけれど、とりあえず友達の忠告を聞き入れる。
表紙はクラフト、中はごく淡いクリーム色のスケッチブックは、私の「なんでもノート」だ。気になったことや、ちょっとしたスケッチ、荒目の紙にやわらかい鉛筆でなんでも書き留める。
一月に二、三冊を消費するそこに、ひとりの男の子の姿が頻出するようになったのは、ごく最近のことだ。
いわゆる無造作ヘアなのかそれともセットしているのか、ふしぎな跳ねかたをしている髪。おとなっぽいような、幼いような、ふしぎな輪郭線。下まつげの長いたれ目。
――王子一彰くんは、私の二つ前の席に座っている。いまは休み時間だから、いないけれど。
「もしかして、この席が気に入ってるのは王子くんが近いから? 彼みたいなタイプが好みなの? 意外ね、もっと硬派なひとがいいのかと思ってた」
たとえば、と出された名前は、馴染み深い同級生の名前だった。私は頬を膨らませ、せいいっぱい抗議をする。
「それ、よく言われる。ふたりは付き合ってるの? って訊かれるよ。でもそういうのじゃないの」
「じゃあ、やっぱり王子くんが好きなの?」
「それも違うよー! 私、恋愛に興味ないもの。わかってて言ってるでしょ?」
「ふふ、ばれた?」
目にかかる前髪をいじりながら笑う友達は、本気でそんなことを言ってるわけじゃない。
それをわかっているから、私もけっして本気で怒っているわけではないのだ。
遠く、内容の聞き取れない音量で、話し声がした。開け放たれている窓のほうへ身を乗りだして、私はそっと下を見る。そうすると、声がぎりぎりで聞き取れるようになる。
――王子、今日は学校終わったら、蔵っちと待ち合わせて本部?
――うん。迎えに来るって。
二階に位置するここの窓からは、中庭に設置されたベンチが見える。陽当たりはいいけれど職員室が近いからか、あまり人のこないそこに、座っているふたり。同じクラスの生徒で、どちらもボーダーに所属している。
王子くんと、北添くん。
その場所で、ふたりがよくいっしょにお昼ごはんを食べていることを、私は知っているのだ。
――次、どことだっけ。夜の部でしょ。東隊と?
――そうだよ。それから、荒船隊と……
――蔵っちが、新しいワザ? 練習してたでしょ。どんな作戦なの? ゾエさん、聞きたいなあ。
――いいよ。試合が終わるまでは、誰にもしゃべらないでね。
そこまでを聞いて、私は上半身を引くと、慌てて窓を閉じた。会話の内容が、私が聞くべきでない領域に差し掛かったからだ。彼らだって、さすがにこんなところでボーダーの機密情報を話しているわけではないけども。これは聞かないほうがいいって、私はそう判断した。
お昼どき、真上からのひかりをゆるくはねかえしている窓に阻まれて、王子くんと北添くんの声は聞こえなくなる。ただし、その姿を観測することは、まだできた。ふたりは会話を止めないまま、各々手に持ったパンをかじっている。
すこし食べて、飲み込んで、またしゃべる。たぶん、食べているのは同じパンだけれど、体格の違う彼らは消費スピードがまるで違って、それがおもしろい。
私は机の中から愛用のスケッチブックを取り出した。ぱらぱらっと捲って、まだなにも描いていないページを開く。
使う鉛筆は2B。王子くんと北添くんのまんなか、ぽっかり空いた空間をそのままノートの中心に持ってきて、ふたりの輪郭をぼんやりととる。それが済んだら鉛筆を寝かせて、ざあっと大まかな陰を写してしまう。パンを頬張って、ふっくらまるくなったシルエット。それから、
「あっ」
いざその表情を描こうとしたまさにそのとき――王子くんが、破顔した。眉を下げて、目を細めて。視線がうごいて、下に、上に、それから北添くんのほうに戻る。にこっと上がった口角が、またなにかをしゃべっている。それはそれは嬉しそうに。
王子くんにしてはめずらしい顔で、そして、すっごく、絵になる顔だ。うん、この顔だ。これがいい。私はその表情を目に焼き付けると、窓から目を背けてスケッチブックに集中した。
あれがどういう表情なのか、なんの話をしているのか、私には理解できる。今年度に入ってからこっち、すこし王子くんを観察していただけで知ることのできる、かんたんな法則だ。
王子くんがあんなふうに嬉しそうに話すのは、ボーダーの先輩や友達のこと、自分の部隊のこと。「カシオ」くんのこと、「羽矢さん」のこと。
とりわけ、「クラウチ」くんの話をするときに、彼はとってもしあわせそうな笑顔をする。
ところが。
王子くん、元気ないわね、と、友達がそう言ったのはわずか数日後のことだった。帰り支度を終えた鞄を私の机の上に置いて、そう思わない? と同意を求めてくる。
「いつもスケッチしてるの見てたら、私も、王子くんのこと気になってきちゃったわ――今日の王子くん、なんだか元気なかったんじゃない? 気のせいかしら」
私は、うん、と頷いた。お昼休みに見た彼の様子を思い出す。
今日も今日とて、王子くんと北添くんは、ごはんをいっしょに食べていた。教室の窓から覗き見るベンチの上、色素の薄いつむじはどこか意気消沈して見えた。
――ねえ、王子、なにかあった?
――え?
――王子がそんなにわかりやすいの、めずらしいよ。いつも、もっと上手に隠すでしょ?
――なんでもないよ。ゾエの気のせいじゃないかな。
――…………。
――……ほんとうに、たいしたことじゃないよ。今日、ボーダーで会ったら、ちゃんと謝ろうと思ってるんだけど。実は、昨日……。クラウチに。
いつもだったら楽しそうに呼ぶ名前を、王子くんは、彼にしてはか細い声で話題に乗せる。
その様を思い出して、私は、はあ、とため息を吐いた。
「そう、そうなの……。今日の王子くんからはインスピレーションが湧かないんだ」
「インスピレーション? ……ふふっ、そんなこと考えてたのね」
「考えてないよ! 感じるの」
「そういうことじゃないわよ。じゃあ今日は王子くんのこと描いてないのね」
「え? 描いたけど」
「描いたの? あなたって、ほんとうに、おもしろいわね」
呆れた顔で笑った友達は、くるりと振り返って王子くんの座席のほうを見た。そこに彼は座っておらず、置き去りにされた鞄だけがさみしそうに主人の帰りを待っている。王子くんは用事があって、職員室に出向いている。ちなみに北添くんはもう学校自体を出てしまった後だ――ボーダー隊員の任務があって、六限目を早退したのだった。
「明日になったらきっともとどおりよ。王子くんはなにかを引きずるような性格の人じゃないし……今日も蔵内くんが迎えに来るんでしょう? そしたら機嫌がなおるわよ」
「んー……そうかな……」
蔵内くん――王子くんがいつも楽しそうに話している「クラウチ」くん。彼が毎日のように王子くんを迎えに来るのは有名な話だ。
容姿も成績も優秀、六頴館高校の生徒会長さん。そんなスーパースペックの蔵内くんだから、他校の生徒とはいえ、こちらでも名が知られている。校門の前に佇む姿はとっても目立つ。私は、今度その姿を絵にしちゃおうかな、なんて思っている。
六頴からボーダーに向かうなら、三門第一に寄るのは遠回りのはずだ。それをわざわざ、すこしでも王子くんといっしょにいるために会いにくる蔵内くんは、まるで王子様に仕える従者だなんて、よく言われている。――心無い言葉だと、忠犬、なんていうふうにも。
とっても仲のいいふたり、だけど。
――ぼくは、クラウチのとなりに、居続けていいんだろうか?
そんな近しい距離の彼らだからこそ、見えないものだって、あるんじゃないのかな。
「噂をすれば、だわ」
友達が小声で示した先、校門の前に、そのひとは立っていた。陽のひかりが西に傾きはじめ、すこし汗ばむような気温のなか、彼はしゃんと背筋を伸ばして佇んでいて――けれども視線が、まるで水槽のさかなを見るかのように、みぎへひだりへと落ち着かないでいる。
蔵内くんは、たしかに王子くんを待ちながら、でも彼らしくもなく狼狽えていた。
「どうしたのかしら。なんだか様子が変だけど……」
それはきっと、王子くんの元気がなかったことと、関係しているに違いなかった。だけどそうと言ってしまうわけにもいかず――と、思ったとき、蔵内くんが私たちに向かって軽く手を挙げた。驚きながらも近寄ってみると、王子を知らないか、と言う。
「同じクラスだったよな。待ち合わせ時間は過ぎてるんだが、来ないんだ。先に本部に向かったのかな」
「王子くんなら、用事があって職員室に行ってるわよ。もう十分もすれば来るんじゃない?」
「え? あ、ああ、そうか……」
ありがとう、と手を振った蔵内くんを置いて、私たちは学校の外へ出る。
「やっぱり、へんね。なんだかそわそわしてたわよね?」
「うん……」
頷きながら、私は考える。――あれはたぶん、置いていかれたと思いながら質問していた。
つまり、蔵内くんにはうしろめたいところがあったのだ。
「……ごめん、先に行ってて。私、ちょっと、わすれもの!」
「えっ?」
友達のびっくりした声が聞こえたけれど、構わずに私は振り向いて、元来た道の短い距離を走り出した。
ばたばたと鞄が揺れる。そのなかに、入っているもの。なんでも描く、私のためだけのノート。
いまは、私のためだけじゃなく、ひとの役に立つかもしれないと、そう思ったから。
「――蔵内くん!」
慌てて戻ってきた私の姿を見て、蔵内くんはたいそう驚いたようだった。それは、そうだよね。私と蔵内くんって、そこまで接点があるわけじゃないし。友達の友達くらいの間柄だし。
でも、これでも私は、蔵内くんのことをそれなりに知っているのだ。友達の同級生。それなりに古参のボーダー隊員。六頴館高校の生徒会長さんで、最近、副会長ちゃんと付き合ってるなんて噂をささやかれてる、――ほんとうは、王子くんの、こいびとさん。
――クラウチに、否定ぐらいしなよって言ったんだ。
――冗談のつもりだったのに、すごく冷たい言いかたしちゃった。
――ぼく、思ったより、嫉妬、してたのかも。
――恋愛ごとにまつわるトラブルって、いままでもたくさんあっただろう? ボーダーの隊員として、部隊を預かる隊長として、ぼくは……。
――ねえゾエ。……ぼくは、クラウチのとなりに、居続けていいんだろうか?
「蔵内くん、これ、あげる」
「え……?」
私はスケッチブックのページを数枚引きちぎって、蔵内くんに向けた。
そこに描かれているのは、たったひとりの男の子だ。
いわゆる無造作ヘアなのかそれともセットしているのか、ふしぎな跳ねかたをしている髪。おとなっぽいような、幼いような、ふしぎな輪郭線。下まつげの長いたれ目。
一枚一枚ぜんぶ違う表情をした、王子くん。王子一彰くん。
「これは……」
「私が描いたの。いい? これが、今日の王子くんのスケッチ」
そう言って、私は最初の――時系列的に言えば最後の――一枚を見せる。すこし下を向いた王子くん。実際はこんな角度じゃ見えなかったのだけれど、かんたんなスケッチだから、てきとうに想像も交えて。
でも、こっちのほうが、きっと伝わるでしょ?
「……」
蔵内くんはすこしだけ眉を寄せた。おそらく、やさしい彼のことだから、王子くんにこんな表情をさせたのは自分だと思っている。
そのやわらかなこころを傷付けてしまうのは、すこしこわいけれど。私は次の一枚を示す。
「こっちが、『カシオの成長が楽しみだよ』って言ってるときの顔」
こちらは教室で喋っている王子くんのスケッチだ。北添くんとボーダーの話をしてたときの、いつもの微笑みよりもほんのちょっぴり楽しげな、笑顔。きっと蔵内くんもよく見たことがあるだろう。
「それで、これが」
ちょっとだけ硬さのある紙が、ぺらり、と宙に踊る。
その一枚を見た瞬間、蔵内くんは、ロボットみたいだなんて言われがちな目をこれでもかとまるくした。
こんなときだけど、私はすこし得意な気持ちになる。そうでしょ、見入っちゃうでしょ、我ながらよく描けてるもの。
うれしそうに膨らんだほっぺ、細められた眼。ふわふわの髪はまるでしあわせの象徴だ。こんなにも幸福そうなひとはそう見られない。
でも、王子くんがこんな表情を浮かべるのは決まってとある話題のときだけ。
「……これが、『クラウチはほんとうに面白いんだ』って言ってるときの顔なの」
あなたのはなしを、するときだけ。
「だから、あまり、悲しませないであげてね」
「…………」
蔵内くんはまじまじとそれらの絵を見たあと、しっかりと両手で受け取った。顔を上げて、まっすぐ私のほうを見る。それから、ひとつ、頷いた。
「――わかった」
その瞳を見て、私は一歩下がった。
もう大丈夫。これで、私がここに留まる理由はない。
「じゃあ私、行くね。仲直りしてきてね」
「ああ。心配かけて、悪いな」
今度こそ私は通学路に足を踏み出して――
「ありがとう、加賀美! また本部で」
――そう言って手を振った蔵内くんに、手を振り返して、返事をした。
「次のランク戦、負けないから!」