(2/12吾が手31サンプル)お行儀のよろしいことで。 答え合わせはしないけど ああ、やられた、と思った。
相手を侮ったわけでもなければ、ミスをしでかしたわけでもなかった。
ただ、王子は、読み負けた——敗北したのだ。
特徴のある白髪が視界から消える。ふわりと浮かぶような錯覚がある。
ぼすん、と落ちた先は緊急脱出用ベッドだ。は、と短く息を吐くと、王子は身を起こした。狭い部屋の入口から見えるデスクの周りには、三人の人影がある。
「おつかれさま」
口を開いたのは橘高だ。
「うん、おつかれさま」
生駒隊、玉狛第二と争ったランク戦第六ラウンド、王子隊は、——最初に全員が落とされた。
(後略)
ふくろの中身 ボーダーに属していると、本部へ突然泊まらなくてはならなくなるような事態は、めずらしいことではない。
けれども、他人の家に、というのは、少なくとも蔵内にとって慣れない事象だった。
「お邪魔します」
「はい、どうぞ」
部屋の扉をくぐって挨拶をすると、いままさにその扉を開けてくれた部屋の主が、返事をした。悪いな、と蔵内は彼に――王子に言う。
「急に泊めてもらって。迷惑をかけるよ」
「ううん。この天気だもの、立場が逆だったらきっときみだって、ぼくを泊めてくれたはずだ」
外ではごうごうと風が鳴っていた。
(後略)
弥生が明けてもうさぎは(ツイッター初出)
「クラウチ、好きだよ」
脈絡なく言われて目をまるくする。
日付に思い当たって、蔵内はカレンダーを見た。視線をもどすと、王子は実に彼らしい、底の読めない笑顔をこちらに向けていた。
すこしだけ考え込んでから言う。
「……それは、今日は嘘を『ついてもいい』日であって、嘘を『つかなくてはならない』日ではない、って話……か?」
「さすがクラウチ。そう簡単には騙されてくれないね」
「いや、ちょっと驚いた」
正直にそう告げると、そう、ごめんね、と返事があった。ほんのすこしでも動揺してしまった自分をごまかすように、蔵内は手を振る。
「発想はおもしろいと思うぞ。――王子、好きだ」
「おかえし、だね。きみのそういうところ、好きだよ」
今度こそ楽しそうに笑って、王子はいたずらっぽい響きを声に滲ませた。
「でも、うそかほんとか、わからないね。証拠がなくちゃ」
そう言って身を寄せるから、仕方ないな、と笑って、蔵内は彼の頬に手を添えた。
富士もかなわぬ(ツイッター初出)
クラウチ、と呼ばれた気がして、蔵内は顔を上げた。目の前に碧がひろがっている。それが見慣れた瞳のいろであることに気付き、王子、と名を呼び返す。うん、といらえがあって、碧がぐるりと蔵内を見る。蔵内は大きく首を反らして、それの全体に目をやった。巨大な眼。蔵内の背丈ほどもあるそれは、長い長い睫毛に縁取られており、瞬きのたびに梢が風に揺れるような音がする。目の下には鼻、鼻の下には珊瑚のいろをしたくちびるがある。王子? と今度は疑問符を付けて問えば、そうだよ、という返事とともに、大きなくちびるが震えて開閉した。間違いない、これは王子なのだ。あまりに巨大な顔。一房が抱えるほどもある色素の薄い髪が揺れる向こうに、富士の山が覗いている。絶句した蔵内をじいと見詰めて、海面のようにひかる瞳に、空を飛ぶ鳥が映り込んでいる。あれは鷹だろうか。ねえクラウチ、と王子が呼ぶ。なんだ、と返すと、きみを食べていいかい、ひどく穏やかな声音が降ってきた。蔵内はすこしだけ考えて、けれどもすぐに、うん、と了承した。これだけ大きな身体では、蔵内ひとりを食べたところでろくな栄養になりはしないだろう。だが、王子が食べたいと言うのならば、構わない。あーん、と大きく開けられた口腔内に舌が踊る。徐々に近付いてくるそれを見ながら、蔵内は、どうか美味しいと思ってくれますように――と、そう祈っていた。
「……クラウチ? ――クラウチ!」
呼ばう声に、蔵内は覚醒した。
ぱち、ぱち、と瞬きをする蔵内を、碧い瞳が覗き込んでいる。
「魘されてたみたいだけど。大丈夫? もうすぐ任務だよ」
そう言って眉を下げる王子は、いつも通り、蔵内よりもすこし背の低い、ふつうの青年だ。先ほどまでの光景が夢であったことを認識して、蔵内はため息を吐いた。
「初夢から悪夢かな? 運がないね、クラウチ」
くす、と笑いながら、王子はすこし心配そうにしている。
ここは王子隊の作戦室。一月二日の早朝だ。新年早々、王子隊は朝からの防衛任務が入っている。蔵内は王子とともに、樫尾と橘高がやって来るのを待っていたが、どうやらうたた寝をしてしまったものらしい。――この場合、見た夢は初夢としていいものなのだろうか。蔵内は首を傾げて、口を開いた。
「……そういえば、夢の中で富士山と鷹を見たな」
「それはすごいね。茄子は出てこなかったの?」
「茄子……は、出てこなかったな。でも、きっと吉兆の夢だったよ」
そう言い切ってみせると、王子はへえと相槌を打った。寝起きの思考が、だんだんはっきりとしてくる。夢の全容を思い出して、――ああ、そうか、と蔵内は笑った。たしかに、あれは吉兆を示す初夢に相違ない。なぜなら。
「――この世でいちばんすきなものが、食べきれないほどの大きさで出てきたからな」
負けずぎらいバースデー(ギャレリアに投稿予定。完了次第リンクを繋げます)
紅玉の聲(十l二l国l記lパロディ)□小野不由美(敬称略)著、十二国記シリーズのパロディです。
□おそらく十二国記を読んだことのない方にはかなり理解の難しい、優しくない内容になっています。
□サンプルでは省略しましたが、本では独自の用語にルビを振っています。また、不自然に空いた空欄には国名が入ります。
どうやら妖魔は去ったらしく、静まっていた鳥たちのさえずる声が王子の耳に届いた。
――喰われずに済んだ。
そうは思ったものの、王子は霞がかる思考のどこかで理解していた。自分の生はここで終わるのだ、と。
固い地面に投げ出された手足は萎えきって、いっかな動かすことが出来なかった。妖魔に抉られた腹から己の血が流れ出ているのを感じる。ひょっとしたら血だけではなく中身が溢れているのかも知れなかった。人間は血液の何割を失えば死ぬのだったか。止血しようにも、両腕に力が入らない。黄海のどことも知れぬ森の中、生き抜く術はないだろう。
「……弓場さん、……神田」
声はまだ、かろうじて出るようだった。とはいえ、そのことにどれほどの意味があるだろう。二人はもうここにはいない。 麒に選ばれた弓場は天勅を受け雲海の上を通って へ向かったのだし、神田はつい先ほどここを去った。王子を囮にして逃げろと、そう言ったのは王子自身だ。――もしかすれば、今頃は神田が妖魔に追われているのかもしれなかった。
――どうか、無事で。
白く靄のかかりはじめた視界に瞬きを繰り返して、王子は祈った。神田は弓場の部下の中でも非常に優秀で、これから弓場が作り上げる の王朝には、彼の姿が在るべきだった。――出来れば、王子もそこで弓場の役に立ちたかったが。
どこの国で生まれたかもわからない、親もなく学もなく戦いばかりに明け暮れていた王子を拾い、州師で働かせてくれた。それだけでなく、教育を与え、ものの道理を教えてくれた。王子は素直な性格ではないから生意気な態度ばかりとっていたが、彼のことは深く尊敬している。どれだけ感謝してもしきれない。その恩を、まだ少しも返せていないというのに。
「こんな、ところで……」
思い出ばかりが頭を過る。これが走馬灯というものなのだろう。
どうせなら過去よりも未来を見せてくれればいいのに、と王子は思った。
黄海を抜けて に帰りさえすれば、弓場の見せる夢の続きがきっと見られたのに。本当に、こんなところで、くだらない――不甲斐ない。
視界が歪むのは、意識が朦朧としているからなのか涙が流れ出ているからなのか、王子にはわからなかった。
――曖昧にぼやけた景色の中、一つの影を見つけたのは、そのときだ。
白く霧のかかったような視界の中、まるで墨を落としたように黒い影がある。霞む目でどうにか見詰めれば、影は緩慢に動いた。ゆっくりと、しかし確実に王子のほうへ近付いてくる。人間ほどの大きさ、四足歩行の生き物だ。
――妖獣か、妖魔か。恐らく後者。
王子は喉の奥で呻いた。血の匂いに引き寄せられてやってきたのだろう。王子を喰い散らかすために。
抵抗しようにも身体は動かない。静かな足音が迫り、王子は観念して目を閉じた。せめてこの妖が神田に迫らぬよう、少しでも時間稼ぎになればいい。
そうして己の最期を覚悟した王子の頬に、優しく触れるものがあった。
「…………なにを、」
獲物を検分しているのかとも思ったが、どうにも違う。怪訝に思って王子は今一度目を開き、――そして驚愕した。
「――麒麟、」
鹿に似た頭。こちらを見据える瞳は赤い。そして額から生える角。
――この世でもっとも尊いとされる神の獣が、王子の血濡れた頬に鼻先を寄せていた。
「どうして……」
軋む身体の痛みも忘れて、王子は呆然と目の前の生き物を見た。
蓬山の主である 麒は、弓場を王に選んだ。今頃は彼と共に雲の上に在るはずだ。こんなところに麒麟がいるわけがない。そもそも 麒とは少しばかり見た目が異なるように思える。だが、見間違えようもない。体毛は五色。鬣は赤銅。
――そうして、王子は気が付いた。空位の玉座は だけではない。治める者を失って十余年、荒れ果てた国。―― 。蓬山で孵ったはずの麒麟は、その行方が知れないと聞く。
――では、これが。
思い至ると同時、はっと目を見開いた。麒麟は慈悲の生き物、屍肉の傍にあっていいような性質ではない。王子の輪郭をなぞった鼻先は、既に赤いもので濡れていた。
「……駄目だ」
王子は歯を食い縛った。――ここにいては、穢れてしまう。麒麟は争いごとや血の流れることに耐えられないのだ。それらにあてられ、病む、という。
無念にも死すだけでなく、ようやく行方のわかった麒麟を穢悴に曝して。自分は何という役立たずだろう。
怪我の痛みだけではない苦しみが、王子の胸を締め付けた。あまりの口惜しさに、力を失ったはずの手が動く。
「貴方は……、――」
王子は震える指先で、尚も離れようとしない麒麟に触れ、押し返そうとした。
今の王子では抵抗する力に敵わない。――頼むから、と王子は願う。
「――きみは、ここにいたら、駄目だ……」
――何としても、この麒麟だけは蓬山に帰さなくてはならない。ここは危険だ。王子たちを襲った妖魔だって、いつまた戻ってくるとも知れない。
けれども、もう、王子の身体は限界だった。麒麟に向かって上げていたはずの腕が、ばったりと地面に落ちる。思わず咳き込むと濡れた音がして鉄の味がした。白く濁っていた視界が明滅して、急速に暗くなっていく。――何も見えなくなる。
微かに獣が立ち上がるような気配がした。――そうだ、それでいい、と王子は念じる。麒麟は仁の生き物ゆえ、死にかけた人間を見つけてしまっては放って置けなかったのだろう。けれど、たかだか王子一人のために、この世でもっとも尊い神獣が危険に曝されてはならない。一刻も早く捨て置いて立ち去るがいい。――だけれども、ああ、なんて、不甲斐ない。
――弓場さん、神田、ごめんなさい。
――どうか。
「許して……」
耳に届いたそれは、己の声ではなかった。低く、けれども清らかに澄んだ声。走馬灯か幻聴か、王子にはもう判断が付かない。ただ、その響きは確かに己の悔いを含んだものだと思った。ゆるして。ここで果てる自分を、どうか。――不甲斐ないぼくを。
「――離れ――――誓うと――」
声が早口に何かを言う。どうやら、王子の足元から聞こえるように思われた。ならばこれは妖魔の声だろうか。黄海を跋扈する妖魔の中には、人語を介するものもいる。
「許してくれ」
それとも、王子の今際の声を聞き取って反復しているのだろうか。声はあまりに悲痛だ。哀れだな、と王子は思った。惨めな自分を自嘲する。
「許すと……言ってくれ」
――それももういいか、と思った。最期まで、愚かな自分の矜持に付き合うことはない。
「………………ゆるす、」
きちんと声が出たかは定かでなかった。
けれど王子は、確かに許したのだ。己自身の不義理を、情けなくもここで生を終える惨めさを。
――ああ、だから、そんなに泣かないでほしい。
まるで世の終わりのように嘆く声を聞きながら、ついに王子の意識は失われた。
「まあ、そんなにお側に寄っては駄目。御身体に障ります」
「……でも、」
「玄君も大丈夫と仰ったでしょう。契約をお済ませなのだから、もう仙籍に入っていらっしゃる。ですからお怪我は治ります。けれど血の穢れはまだ取れていらっしゃらないのですよ。御病気になってしまわれるのは、台輔のほうですからね」
「……」
「そんなに意地を張って――」
「およしなさいな。彷徨って十余年、やっと見つけた主上なんですもの。お側を離れたくないのは当然よ。それに、 麒は他の麒麟よりも血の穢れに強いようだし」
「……そうかしら。では、 台輔、くれぐれも無理はなさらないでくださいまし。貴方は 国の希望そのものなんですよ」
「……はい」
ふと王子は目を覚ました。妙に身体が軽い気がした。視界が明るい。どこからか花のような心地よい香りがしている。
――ぼくは死んだのだろうか。だとしたらここは死後の世界か。
ふわふわとした心地で考えながら瞬きをすると、自分が豪奢な牀榻の中にいることに気が付いた。周りを囲う幄は紗と絹の二重になっている。衾褥は錦だ。
死した後の世界では、生前の罪を裁定し、それに応じた罰を与えるという。曲がりなりにも王子は武人だ。騎馬を屠り騎獣を屠り、何よりも人を殺めて、生きてきた。このような格別の待遇はそぐわないだろう。本当に死後の世界などというものを信じているわけではないが。
つまるところ、王子は――生き延びたのだ。
(後略)