江夏優は配慮が足りない訓練と訓練の合間、任務のない隊員らは食堂で遅めの昼食を摂ったり作業の息抜きにコーヒーや紅茶を味わったりと思い思いに過ごしている。何事もない極平和な昼下がりだった。
「ああ、ここに居たのか。テルミット」
入口から食堂の中を覗き込み、目当ての人物を見つけたらしいエコーが入ってくる。名を呼ばれたテルミットは、ヒバナのガジェット点検と改良の案出しに付き合って食べ損ねていた昼食を食べる手を止めて近付いてくるエコーを見上げた。
「エコー?俺に何か用か?」
「ちょっと頼みたいことがある」
ヒバナのようにガジェットの改良の相談だろうか、しかし彼の得意とする分野と自分とは正直畑が違う気がするのだが。
疑問に思いつつ口には出さずエコーの言葉を待つ。エコーは相変わらず無愛想な表情のまま、テルミットが座っているテーブルの向かいに立ち僅かにこちらに身を乗り出して口を開いた。
「俺と番になってくれ」
食堂内が水を打ったように静まり返り、テルミットの手からこぼれ落ちたカトラリーが床に落ちて跳ねる音が派手に響き渡った。室内の空気を文字通り凍り付かせた当人は自覚があるのかないのか、気にした様子もなくテルミットの反応を待っている。センスの悪いジョークだとか、賭けにでも負けた末の罰ゲームと言った雰囲気でもなかった。
テルミットは自分の顔が強ばっていくのを感じた。何とか口を開こうとしても、混乱した頭では言葉も出てこず無意味に口を開閉させる。そもそも、まず何処から突っ込んだものか。
「な、え、あ、あー……念のため聞くんだが、なぜ急にそんなことを?」
「嫌か?なら別の奴に頼むから無理にとは言わない」
テルミットの尤もである筈の疑問を拒否と受け取ったらしいエコーの言葉に混乱が加速する。俄かに目眩のする頭に手を当てて小さく首を振った。
そんな、雑用頼む相手探すみたいなノリで番相手探すって正気か。
彼の考えつく作戦やガジェット案は突拍子のないものが多いが、ここまで特異を極めた言動は初めてお目にかかるかもしれない。
「理由を教えてくれ、なぜ急に番相手が欲しくなったんだ。何か心境に変化が?」
番は基本的に一生に一度の選択だ。故に関係を結ぶのには皆慎重になるし、自分から番の解消が出来ないオメガにとっては特にセンシティブな話題になる。だがエコーにそんな様子は感じられない。まるでちょっとした雑用を頼むような気軽さでテーブルを挟んだ向こう側に立っている。
自分が察せていないだけで、彼は彼なりに悩んで正当な事由から自分を番の相手に選んだのかと、そんな一縷の望みじみたテルミットの予想はエコーの次の言葉で粉々に打ち砕かれた。
「明後日から長期任務に入るんだが、ちょうどヒートと期間が被りそうなんだ。抑制剤も万能じゃないし、番を作ればより確実だと思って」
テルミットはその場に突っ伏したい衝動を、両手で顔を覆うことで何とか堪えた。
確かにオメガに数ヶ月周期で訪れるヒートは番が出来る前と後とで大きく変化する。無差別に振り撒かれるオメガのフェロモンを感知できるようになるのは番相手のみに限定され、ヒート期間中著しく増減するフェロモンの影響で不安定になりがちなオメガの心身も個人差はあるが安定する傾向にある。
抑制剤はオメガが生成し体外に放出するフェロモン量を減らし、周囲に与える影響を削減する機能を有してはいるが、エコーの言う通り万能ではない。使用者の心身に及ぶ副作用は無論のこと、完全にフェロモンの発生を抑制する程の効果はない為アルファならある程度近付けば分かってしまう。戦闘中そんな匂いをさせていれば傍にいる仲間のアルファの気が逸れてしまうだろうし、万一標的の中にアルファが居ればこちらの位置がバレかねない。そういったリスクを事前に回避したいということなのだろう恐らくは。
理屈は分かる。分かるが。
途方に暮れるとはこういう気持ちを言うのだろう。同じ言語を使って話している筈なのに、相手の考えていることが全く理解出来ない。日夜戦っているテロリストたちの方が目的や手段がはっきりしている分良心的だとすら思える。
つまり。
つまり、だ。
彼は『番』というアルファとオメガ間にのみ存在する特殊な関係を、ただ長期任務の間に発生するであろう生理現象対策として利用したいと言っているらしい。
――もう一度言うが正気か。
「きみの言いたいことは分かっ……いや、理解はできないが、発言の意図は分かった。分かった上での助言だが、もう少し自分を大事にしろエコー。番は一生ついて回る関係だぞ、任務が終わったからって簡単に解消できるものじゃないんだ」
「はあ」
冷静を努めてよく分かっていない顔をしているエコーをテルミットは懇々と諭した。彼とて番のしくみについては授業なり何なりで習っているだろうに、発想が余りに破天荒過ぎる。
エコーが黙り込んだ隙にテーブルの下に落としたカトラリーを拾うため頭を潜らせる。足元に転がっていたフォークを指先で手繰り寄せた時、エコーが口を開いた。
「だからあんたに頼んでるんだが」
「……何?」
思わずテーブルの存在を忘れて頭を上げそうになり、直前で気付いて慎重にテーブルの下から顔を出す。相変わらずテーブルの対面に立ったエコーの顔は愛想の欠片もない仏頂面のままで、今の発言が聞き間違いだったのかと自分の耳を疑いたくなる。
「俺だって誰でもいい訳じゃない。でも、あんたなら大丈夫らしいし」
「……らしい、というのは」
自分のことだろうに何故そんなに他人事なのか。彼にとっては自分の番相手のことすら興味の外にあるということなのか。
「ヒバナが、『テルミットは安全だ』って言ってた」
一つ隣のテーブルに座っていたパルスが静かに飲んでいたコーヒーを噴き出した。テーブルに突っ伏し激しく咳き込む背中を、近くにいたIQがさすってやっている。室内の至る所から同情の篭った視線を向けられ、テルミットは再度テーブルの下に潜り込みたくなるのを僅かに残った矜恃を総動員し何とか堪えた。
心の補強壁を吹き飛ばす言葉をエコーに吹き込んだ同僚への措置はこの際脇に置いておく(が、後日何かしらの報いは受けてもらおうと心に決めた)。問題は眼前の彼だ。
「……ヒバナが言ったから俺にそんな話を?」
「きっかけはそうだが、確かにあんたは番相手に申し分ないと思う」
「そうかい……それは光栄だ」
「それで、噛んでくれるのか?」
エコーの悪気等一切ないだろう催促にぐっと言葉を詰まらせる。迂闊なことを言おうものなら尾ひれどころか鰓に背びれまでついた噂が凄まじい速度で組織内に広まっていくに違いない。そういう話の好きそうな面子が視界の端で耳をそばだてているのが見える。否最早見なくても分かる。せめて共用施設ではなく一対一の場面で申し出て欲しかったと今更願っても無意味だ。
「……、少し場所を変えよう。皆の食事の手を止めてしまっているみたいだしな」
全員に聞こえるように言って立ち上がり、テルミットは昼食を食べ終えたトレーを返却し食堂内をぐるりと見渡した。後々厳重注意すべき顔を覚えておく。その他の面々から生暖かい何とも言えない視線で見送られながら、テルミットはエコーを連れ立って食堂を後にした。
「とんでもないことをしてくれたな」
肩を並べて廊下を歩く道すがら、思わず恨み言が漏れる。それを受け隣で神経質そうな眉がついと顰められた。
「だから、嫌なら断ってくれ。そしたら俺も他を当たる」
しかしそれもやっぱり食い違っている。決定的に、根本的なところから、認識のズレなんて生易しいものではなく、その土台から既に違う。故に互いの思惑はどこまで行っても交わらない。
自分は年上の男――それもスナック感覚で職場の同僚に番相手になってくれと申し出てくるようなトンデモ倫理観を持った――相手に保健の授業をしなければならないのだろうか。さすがに気が遠くなる。
「番になってもあんたに迷惑はかけない。これまでヒートは自分で処理してきたし、これからもそうする。番だから何かしてくれと要求する気もない。あんたが俺に操立てする必要もない、既に相手がいるならそっちと番ってくれて構わない」
一言発する度に隣を歩く男の機嫌が降下していることに気付かないまま、エコーは淡々と条件を並べ立てていく。
「オメガは無理だが、アルファは一度に複数の相手と番えるんだろう?」
エコーがそう言い終わるか終わらないかのタイミングでテルミットは彼の腕を掴むと目に付いた無人の空き部屋に有無を言わさず引き摺りこんだ。雑然と物が詰め込まれた埃っぽい部屋はどうやら小規模な倉庫として使われているようで、窮屈な空間でテルミットの唐突な行動に理解が追いついていないエコーを逃げ場のない壁際まで追い詰めることに然程苦労はなかった。
「……急になんだ?」
数秒後、漸く自分がテルミットに追い詰められていることに気付いたエコーが少しだけ声を潜めてこちらの顔を覗き込んでくる。テルミットの行動に対し訝しんでいる様子ではあるが、それ以上の感情はないようだった。この場から逃げようとする素振りもなければ、不躾に距離を詰めてきたアルファへの警戒心もない。
もしかして自分はアルファとして舐められているのだろうか、そんな邪推すらしてしまう。
「きみには危機感ってモンがないのか」
苦言を呈するとこちらを覗き込むため傾げられていた首が反対側に傾く。
「危機感?何に対してだ、今のこの状況にか?」
そこまでヒントを――というかほぼ答えだが――出してやる気はないとテルミットは口を真横に引き結んで答えなかった。沈黙をどう受け取ったのか、エコーは少し考え込んだ後また首を反対へ傾げた。
癖なのだろうか、そういう動きをする動物を見たことがある気がする。
「人の感情を推測するのは苦手なんだ。いくつか仮説くらいなら思いつくが……、あー、この場で俺を噛むと言うなら俺から異論はない。俺が望んだことだ。この話題があんたの癪に障ったと言うなら以降あんたの前でこの話はしないと約束する。このままじゃ腹の虫が収まらないんだったらこの場で一発殴って、それでチャラにしてくれ」
駄目だ、やっぱり何も分かってなかった。
諦念と呆れで脱力してしまう。がっくりと肩を落としたテルミットを、エコーはやはりぴんときてない表情で見下ろしている。
「どうした、さっきから変だぞ」
「……その台詞をきみに言われるとはな」
そもそもレインボー部隊が変人奇人才人の煮凝りのような存在であるし自分もそこに属している以上大衆から逸脱した点があることを否定はしないが、彼にそう評されるのは何だか納得いかない。
「一つずつ誤解を解こう。まず、俺はきみをこの場で噛むような真似はしない。そして別にこの話に腹を立ててるわけでもない」
「そうか」
「それと、きみには俺が簡単に二股するような男に見えてるようだが、俺は番は生涯に一人しか持たないつもりだ」
「……そうか」
手短に相槌を打つエコーの表情は余り変わらない。本当に分かっているのかと念を押そうとするより先にエコーが口を開いた。
「残念だが、そういうことなら仕方がないな。手間を取らせた、すまない」
「だァから、なんでそうなる?!」
予想通りに事故が起きていて思わず声が上擦った。間近で声を荒らげたからかエコーは切れ長の目を見開きパチパチと瞬かせている。
「え、なんだ、違うのか?」
「さっきからそう言ってるだろ」
「じゃあ俺を二人目にしてくれるのか」
「しないって。なんでそこまで俺に二股させたがるんだ。食堂での件といい、ヒバナに一体何吹き込まれたんだ?」
そのお陰で深刻な誤解が生じている気がするがエコーは言葉を濁して答えなかった。まあいい、どの道ヒバナへの聴取は決定事項だ。それについては当人からじっくり事情を聞き出すことにしよう。
「ヒバナの話はともかくとして、あんたの今の主張は筋が通ってないだろ。矛盾してる」
「どこがだ?」
「番を一人しか作る気がないんなら、俺とは番えないだろう」
やはり全く本気でそう思っているらしいエコーの発言に閉口する。ここまで鈍いと特大の溜め息も出ようと言うものだ。
「なんだよ」
全ては察せずとも、テルミットが自分に対して呆れ果てていることは分かったらしい。少しだけ不機嫌そうに声のトーンを落としたエコーの目を、今度はテルミットが覗き込む。
「なんだも何も、至極シンプルな話だろ。きみが俺の唯一の人になればいい」
痺れを切らしたテルミットがとうとう答えを口にすると、エコーは黙り込んだ。今までに見たことのない表情をしている。そも余り表情のよく動く方でもなかったが、不快を示すものでも、怒りを表すものでもなさそうではあるが。
「……正気か?」
どうやらこちらの正気を疑う表情だったらしい。
「もしかして俺のメンタルをサンドバッグか何かだと思ってるか?俺も傷つかないわけじゃないんだが」
「あ、ああいや、すまん、あの、あまりに予想外すぎて……」
「きみには初耳かもしれないけど、本来番ってのはそういうもんだぞ」
取り繕えず狼狽えるエコーは、どうやら本当にテルミットの提案が思いも寄らなかったらしい。落ち着かなさげに瞬きを繰り返している。いつも顰め気味の眉も今は外側に向かって垂れていて、その表情は少し可愛いと思った。歳も身長も上の男に可愛いという表現もおかしな話かもしれないが。
「話を整理しようか。俺は番を生涯に一人しか作るつもりがないし、きみからの提案を拒否する事由も今のところない」
「なんでだよ、あるだろ色々……」
ボソボソとした反論は聞こえなかった振りをする。
「もちろんきみの意思は尊重したいし、番う以上きみを幸せにする。必ず。ただ……」
言葉を一旦切り、無意識にか僅かに引けているエコーの腰の裏に腕を回しぐっと手前に引き寄せた。
「俺が安全だという評価については残念ながら保証しかねるな」
体の低い位置を引き寄せられ思わずたたらを踏んだエコーの股の間に大腿を捩じ込む。そのまま腰を指先で摩るとエコーは面白い位に動揺した。
「ね、根に持ってる……」
「はは、まさか。まったくこれっぽっちも気にしていないとも」
「意趣返しのつもりなら悪趣味だぞ」
「そんなつもりはないから安心してくれ」
「安心できる要素が見当たらないんだが……」
何とかしてテルミットの包囲から逃れようと身動ぎするエコーの耳元に口を寄せ囁く。
「何で今更嫌がる?俺はきみにとって申し分ない相手だったんじゃなかったか?」
今の彼はこちらに対し完全に及び腰で、解放すれば脱兎の如く逃げ出してしまいそうな雰囲気がある。
自分の耳元にある顔をぐいぐいと力任せに押し退けながら、エコーは険しい表情を作ってテルミットを睨み付けた。
「俺があんたを選んだのは、あんたが俺に何の感情も持ってなくて、これからも持たないと思ってたからだ。仕事関係にはドライそうだし、公私も分けて考えるタイプだと思ってたのに」
全部外れた、と余りに忌々しげに呟くので、口頭に上る当事者であることも忘れつい笑ってしまった。
「ともかく、そういうことなら悪いがこの話はなかったことにしてくれ。俺は番にそんな関係を求めてない」
「なんだ、折角その気になったのに」
「ならなくていい」
胸板を押された為逆らわず半歩下がって距離を取った。漸く人並みに戻った距離感に安堵する素振りを見せ、エコーはちらりとこちらの様子を伺う視線を寄越す。
まだ警戒されているのかと思い、テルミットは何もしないという意味を込めて緩く両手を広げて見せるとエコーは慎重に感じる口調で問い掛けてきた。
「……殴らないのか?」
「どうして?」
「どうしてって……怒ってないのか」
「何か心当たりでも?」
「……いくつか」
いつもの彼らしからぬ自信なさげな答えにテルミットはまた笑った。
「怒らないよ、こんなことで怒ったりしない」
より正確に言うなら怒りの沸点を通り越したが故の無心なのだが、エコーを余計に混乱させそうなので黙っておく。
「ふぅん、確かにあんたが本気で怒ってるところ見たことないな」
「そんな頻繁に怒ることもないだろ」
テルミットの言葉にエコーは無言で首を傾げる。まあ彼は苛立つことが多いようだし怒りという感情はテルミットのそれよりも身近なものなのかもしれない。
「怒ったりして感情が昂ると、感覚が鈍るだろ。指先も、思考も、自分の意思に従わなくなってしまう。その結果、被害を被るのが自分だけなら構わないさ。でも俺たちはチームで動く。一人が起こした行動の結果は、皆に降りかかる」
だから常に冷静で居られるよう努めているのだと告げると、エコーは瞬きの少ない黒瞳でじっとテルミットを見据えた。感情の余り乗らない双眸からの注視は存外落ち着かない。思考の奥底を浚われているような心地になる。無意味に居住まいを正していると、視線はふっと音もなく逸れた。
「ヒバナが言ってたことの意味が少しだけ分かった気がする」
「あいつまだなんかきみに吹き込んでるのか」
あることないこと好き勝手に言い触らすのは止めて欲しい。おしゃべり好きな同僚が脳裏で笑っている。
「あんたは善い人だ、テルミット」
何のてらいもなく真正面から言い切られ、先程とは違った意味で落ち着かない。
「そうか?善人ってのは、少なくとも銃は持たないだろう」
対象が誰であれ、相手を傷付け時には命を奪うことを生業とする者を善人とは言えないだろう。しかしエコーはテルミットの意見を想定よりも強い言葉で否定した。
「そりゃ、何事も暴力なしで解決出来るんなら銃なんてクソの役にも立たない不燃ごみだがな。でも現実は違う。銃を持たない者を平気で撃ち殺すクズが世界中に溢れてる。そういうクズをこの世から掃除する者を善人と呼んで何が悪い?」
「極論だな」
「俺は間違ったことは言ってない」
「まあ確かに、一理あるとは思うがね」
彼の黒く凪いだ水面のような瞳の奥に苛烈な意志が宿っている。それを覗き込みながらテルミットは胸中でのみ嘆息した。
ああ惜しいな、この宝石を自分のものに出来ないなんて。
「まあなんだ、気が変わったらいつでも言ってくれ。当面フリーだろうから」
名残惜しさを隠し軽い口調を努めて言いながら、テルミットは近くの棚の下に爪先を入れそこに隠れていたドローンを掻き出した。
「……ということだ、ツイッチ。トッケビも一緒か?面白い展開にならなくて悪かったな」
普段自分が使うものとは違う独特な形をした機体を持ち上げてカメラの部分に顔を近付けると、レンズが抗議するようにキョロキョロと動いているのが見える。ショックドローンを小脇に抱え、理解が追い付いていない顔をしているエコーを促して倉庫を出た。
どうやら隣室でドローンを操作して聞き耳を立てていたらしいツイッチとトッケビに厳重注意の下ドローンを返却し、二人は連れ立って廊下を歩く。
「出歯亀が好きな奴もいるから、今後ああいう話をする時はもう少し人目に注意した方がいいぞ」
「そうする」
仕方の無いこととは言え、娯楽が慢性的に不足している環境では他人の色恋沙汰等恰好の餌になる。
――まあ色恋沙汰まで発展しなかったが。今回が特殊過ぎるケースなだけだ。
「はあ、当てが外れた。時間ももうないしドクに頼むしかないか」
「ド……」
突然投げ込まれた爆弾発言に絶句するテルミットを見て、さすがにその反応の意味を正しく理解したらしいエコーが煩わしそうに首を振る。
「……ドクに抑制剤を処方してもらうって意味だからな?」
「あ、ああ、そうか、そういう……すまん」
「別に構わんが、ドクと既にそういう関係になっていたらあんたに頼まんだろ」
「そうだな……まだちょっと混乱してるみたいだ」
頭を抱えるテルミットをエコーは少しだけ愉快そうに見ていた。
「常に冷静たれ、がモットーじゃなかったのか」
「手厳しいな……」
それを言われるとぐうの音も出ない。わざとらしい空咳で誤魔化して話題を変えることにした。
「いつも抑制剤はドクから?」
「ああ、市場に出回ってるものより効きが強いのを工面してもらってる。まあ、貰いに行くたびに小言を言われるのが難点だがな……」
やはり効果の強い抑制剤は副作用も強烈らしく、立て続けに服用すると別の疾患を誘発することもあるようだ。服用し始めて暫く経つがそのような兆候はないから平気だと楽観しているエコーを横目で眺め、ドクの報われることのない心労に思いを馳せた。
「油断はするなよ、今まで平気だったからといって次も大丈夫だという保証はないんだ」
「まあそうだな。しかしだからといって抑制剤を飲まずにいる訳にも行かないだろ。命懸けの任務中にフェロモンだだ漏らしのやつが居たら成功する任務も成功しない」
だから番が欲しかったのだとエコーは言う。
そうやって順序立てて彼の思考を追っていくと此度のエコーの奇行もある程度納得いくもののように思えるが、それにしたってあの誘い文句はない。
「今回ばかりは仕方がない。ドクに少し無理を言っていつものより更に強いやつを処方してもらう」
「『少し』?『無理を言って』?」
不穏な単語が聞こえた気がしてエコーの方を振り向くと彼は何でもないことのように肩を竦めた。
「仕方ないだろ。やむにやまれぬ事態というやつだ、ドクも分かってくれる。俺としても副作用がキツいからあんまり使いたくはないんだが、それを使えば一時的にではあるがフェロモンを完全に消してしまえるからな」
「へえ、そんなものが……副作用にはどんな症状が?」
テルミットの問いにエコーは分かりやすく目頭に皺を寄せ顔を顰めて見せた。
「風邪の症状を三倍にしたような状態になって、あとはちょっと記憶が飛ぶ」
「……それは本当に安全な薬剤なんだよな?」
「ドクに人を検体にして劇薬試す趣味があったらマズいかもな」
「……」
「まあ死にはしない。ドクが作るものは確かだ」
「それは……確かにそうかもしれないが……」
テルミットもドクの腕を信用していない訳じゃない。だが副作用の内容を聞いてしまうとそれが本当に体内に入れていいものなのか判断がつかなくなる。そこまで強烈なものでなければフェロモンを完全に抑制しきることは出来ないということなのだろうか。
「これでもドクが改良に改良を重ねてマシになった方だ。俺が部隊に入って間もなくの頃の完全抑制剤は、体中の関節が痛んで身動きが取れなかった」
「強烈だな……」
「任務なんか当然参加させてもらえないし訓練もいつものメニューが地獄みたいに辛かった」
「もしかして、訓練の時やたら機嫌悪かったことあったがその時か?」
普段訓練の時でも拠点から余り動き回らず彼の手製ドローンを使った索敵や相手チームへの嫌がらせ等をメインに行っていた彼が悪態を吐きながら遊撃さながらに裏取りし弾幕を張ってきた時のことを思い出した。完全な意表を突かれたので結果として彼の突貫作戦は一応成功という形を収めたが、エコーのチームメイトも彼の行動は想定外だったようで勝手な行動をするなと訓練後に言い合いになっていたのを覚えている。
「身体中くまなく痛いのにご機嫌なやつって居るか?」
「まあ、そりゃそうだ」
常に顔の殆どを覆い隠すマスクのせいで顔色や細かな表情が傍から見て分からない彼だが、彼自身の不調をも隠してしまうのは少々問題かもしれない。エコーは自身の不調をなかなか表に出そうとしないから余計に。
「何にしろ、余り無理はするなよエコー」
彼は与えられた責務に対しての姿勢がストイック過ぎる。無理を無理と思っていないし、目標の達成の為なら自身を多少犠牲にすることも厭わない。
今回もそんな感覚で無茶をして体を壊してしまいそうな予感がして軽い気持ちで忠告すると、エコーは何故か奇妙なものを見る顔をする。変なことを言ったつもりはないが。
「もしかして、俺は今あんたに心配されてるのか?」
さすがに慣れてきたと思っていたこちらの想定を覆す反応に、テルミットは懲りずにまた言葉を失ってしまった。
「……そのつもりだが」
「ふぅん、あんたやっぱり変わってるよ」
エコーは読めない表情で一度緩慢に瞬きするとテルミットからすいと目を逸らす。テルミットは何となく視線を逸らし難く思い、暫く横から綺麗に揃った髪と同色の睫毛を眺めていたがエコーが居心地が悪そうに目を伏せる。
「……いや、違うか、違うな。心配された時は謝るんだったか、礼を言うんだったか」
「礼でいいんじゃないか?」
「そうか、あんたが言うならそうしよう」
悩んでいた割にあっさり迷いを振り払ったエコーが唐突にぴたりと立ち止まり、止まり損ねたテルミットは数歩先で足を止めた。
半身で振り返り急に歩くことを止めたエコーを見ると、彼は徐に姿勢を正し測ったような角度でこちらに向かって頭を下げた。
「礼を言う。ありがとう」
普段は見えない彼の旋毛が見える。いつもヘッドセットで押さえ付けられて若干癖がついている黒髪が目線より下の位置にあった。
急所をこちらに差し出すようなその仕草が彼の国の謝意を表す姿勢であることを思い出し、テルミットは慌ててエコーの肩に触れ顔を上げさせようとした。
「いや、待て待てそんな言葉ひとつで大袈裟だ、顔を上げてくれ」
肩を掴んだ手に力を込めると抵抗なく持ち上がり、彼の黒瞳はテルミットの目線の少し上に戻ってきた。
「きみはやることなすこと全部極端だな」
「そうか?」
「さっきから驚かされてばかりだ」
苦笑を零すとエコーは件の思考の底を浚うような目でテルミットをじっと見つめた。その目に見つめられるとこちらからは逸らせない。自然と視線が吸い寄せられてしまう。
「俺は人をよく苛つかせるらしい。俺とこれだけ長い時間話をして怒り出さなかったのはあんたが初めてだ」
「それは、とても……光栄と言っていいのかな」
「さあな」
ふっと目元だけで笑い、エコーは止めていた歩みを再開させた。テルミットも後を追う。
少し前を歩くエコーの項につい視線が行ってしまう。現在彼の首元を覆い隠しているのは何の変哲もない布一枚だけで、生物としての急所であると同時にオメガにとって重要な意味を持つ筈のその場所を守るにはあまりに頼りない。一体この先誰がその場所に触れることを許されるのだろうか。エコーの後ろ姿を眺めながら、テルミットは自分が無意識に舌先で自分の犬歯をなぞっていることに気付いた。
アルファの犬歯がベータやオメガのそれより鋭利に出来ているのは、オメガの項を噛む際その肌により深く突き立てる為なのだという説がある。
今まで意識したことはなかったが、こうして無防備に項を晒すオメガを前にすると犬歯の根元が疼く心地がする。確かにこの歯はオメガを自分のものにする為の器官なのだと本能が告げていた。
自分の中で良くない衝動が頭を擡げかけたのを察し、テルミットは意識して視線を引き剥がし緩く首を振る。テルミットの内なる葛藤を知る由もないエコーは、目眩を振り払おうとするような仕草をするテルミットの姿を振り返り不思議そうに首を傾げた。
「どうした立ちくらみか?あんたもドクに診てもらった方がいいんじゃないか」
「……そうだな、それがいいかもしれない」
オメガ同様にアルファにも専用の抑制剤は存在する。元々は第二次性徴期に伴い顕著化し始める第二性を上手くコントロールできなかったり、受け入れることが難しいアルファ性を持った子供の為に開発されたものだが、フェロモンを過剰に生成してしまう症状の出る疾病の治療にも利用されている。
アルファを誘引するオメガのフェロモンと違い、アルファのフェロモンは外敵を牽制し自分や自分の番を守ることに特化している為量が過ぎてしまえば他者を無闇に威圧してしまうことになる。ただそういったフェロモン量の制御は年を重ねて行くに連れて体で覚えていくものであって、余程特殊な状況下でなければ基本的に成人して尚世話になることはない薬だ。故にアルファの抑制剤は、オメガの抑制剤と比べれば知名度に雲泥の差がある。テルミット自身その存在は知識として知っていたものの抑制剤を服用せざるを得ない状況に置かれたことはこれまでになく、そしてこれからもない筈だった。
しかし腹の底から湧き上がってくる獰猛なこの衝動は看過できない。今はまだ目眩を堪える程度の労力で抑えておけるが、自分の中で時間を吸ってじわじわと大きくなっていくであろう未来が容易く想像できた。既に結果が見えているのなら、そして先見した光景がよくないものならば尚のこと、打てる手を早めの内に打っておくことは無駄にはならないだろう。エコーの為にも、自分自身の為にも、この衝動は今の段階で飼い慣らしておかなくては。
胸中でのみひっそりと決意し、テルミットは意識して襟を正す。容易く本能に屈する程己の意思はやわではないと自負しているが、念には念を入れるのが性分だ。
「俺もついていく。ドクに相談したいことができたから」
テルミットの提言を受け、エコーは訝し気に眉根を寄せた。
「やはりどこか不調が?最近根を詰めすぎなんじゃないか」
半分こちらを睨んでいるようなそれがどうやらエコーの心配する表情らしい。
「きみやリージョンたちほどじゃないさ。そんな深刻なものじゃない。ただ、念のため一本杭を打っておいた方が安心だと思っただけだよ」
杭が必要だ。本能を腹の中に飼い続けるための檻、理性が足を踏み外し奈落へ落ちてしまわないようにするための命綱。研ぎ澄まされた自分の牙が彼の首を食い締め繋いでしまわないよう、上下を噛み合わせた歯の上に笑みを覆い被せ、テルミットの言葉に首を傾げるエコーの促し歩き出した。
――望まない相手を手に入れても意味はないのだから。