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    媒鳥を鳴かす_前件の電車の怪異の依頼を解決してから二ヵ月が経過しようとしている。
    暁人はKKに言われた通り、その日の夜見た夢のことをすべて忘却したらしかった。時折夢見が悪いことはあるようだが、起きたら詳しい内容は覚えておらず不快感だけ残っているのだと不思議そうにしていた。元来素直な性質であったことが幸いし、KKが夢の中でかけた暗示も効きやすかったのだろう。あるいは彼の自己防衛なのかもしれない。夢の中の出来事のみでなく、怪異の電車に乗った後起きたことに関しても記憶がぼやけているようで、当時のことを聞いても曖昧な返事が返ってくるだけだった。
    あの日暁人自身の身に何が起きたのか、大まかな出来事についてはKKがかいつまんで伝えている。無論黙っておくことも出来た。忘れてしまえと言ったのは自分だ。彼をこれ以上無闇に傷付けないためには秘匿が最も正しい選択だったのかもしれない。
    しかしKK側の独断で当人に関する情報を取捨選択するのは対等な仕事仲間にすることではないと、KKと凛子の間で話し合った末に結論を出した。暁人を怪異に対する囮に使った時点で庇護対象という言い訳はもう使えない。
    一応当人に聞くか否かの希望は聞き、聞きたいと返答があったので欠落している記憶に関する情報を端的に口頭で聞かせた。
    夢の中での出来事を簡潔にした上、更にKKを経由した形で得たからか、暁人は話を聞きながら終始不快感に眉を顰めてはいたが、言ってしまえばそれだけだった。聞いた後の反応も「最後までしつこくて嫌な奴だね」という何とも他人事な感想のみである。
    余りに淡白な反応に若干肩透かしを食らったものの、彼が無闇に傷つかずに済んだことに関しては心の底から安堵した。
    今思い出しても怒りで吐き気がする。感情が大きく揺らぎエーテルの発現が不安定になる程度には、KKにとっても衝撃的な記憶だった。
    鮮明な事実を記憶しているのはKKのみだ。この先KKが自分からあの日のことを口に出すことはないだろう。苛烈な感情と共に記憶の底でゆっくりと風化していくのを待つしかない。
    電車の怪異を解決して以降、KKは暁人に人ならざるものへの対抗手段を仕込むことに注力した。これまでも双方の時間が空いた時等に基礎的な知識や簡単な自衛方法を教えてはいたが、積極的に時間を取ってやることにした。
    多少なりとも事前知識や自衛の術を知っていれば先の繰り返しも回避出来る確率は上がる筈だ。
    自分が傍についていながら二度とあのような事態を許すつもりもないが、想定が覆ることはままあるものだ。怪異というこちらの常識が通用しない変則的な存在を相手取る場合は特に。
    そもそもの素質か、生来の素直な性格故か、或いはKKと深く関わる過程で変容したのか、暁人はKKが教えることをよく聞き、よく吸収した。
    あっという間に教えたことを自分のものにし、弱い霊や妖怪の類なら一人で対処することも危なげなく出来るようになるまでに然程時間は要さなかった。
    「これで少しはKKの役に立てるかな」
    たまに成長を褒めれば嬉しそうに相好を崩し、そんなことを言う。暁人は教えがいのある生徒だった。

    白無垢を着た女の霊が夜な夜な村の外れで泣くという。
    珍しく都外からの依頼が舞い込んできた。山の麓に存在する小さな村からの依頼で、数ヵ月前から女の幽霊が出ると騒ぎになっているらしい。今もその現象は続いており、此度の依頼は幽霊騒ぎの取材目的で村を訪れたオカルト記者を介したものだった。
    ライターとはKKが以前怪異を解決する際必要な情報を得るためやり取りをした経緯があり、怪しい記事を書く割にそれ以外には存外常識的な男である。取材で村を訪れた折怯えきった村民からどうにかしてほしいと泣き縋られて断れず、KKに頼るに至った。
    都心から出て車で二時間超、大小ある山をいくつか越えた果てにその村は山の谷間に小さく身を縮めるようにして在った。
    「わあ……すごいね、なんか、風光明媚というか……」
    「ド田舎だな。電波も通りやがらねえ」
    「あっ言わないでおこうと思ったのに」
    KKは暁人を伴い仲介役のライターと合流し、村民の代表者といくらかやり取りをして情報を得た。
    どうやら女の霊が出始めてから他にも凶兆が続いているらしい。
    山から湧く水が黒く変色し、その湧き水を引いている田畑や知らずに口にした村民に被害が出ているとのこと。
    女の霊の心当たりとしては、数ヶ月前姿を消した村民の一人ではないかということだった。今から十数年前、村に久方振りに子どもが生まれた際母親の枕元に村が祀っている豊穣と雨の神が立ち、その子を是非嫁にと乞われたそうだ。その家の娘は成人を待って神へ嫁ぐこととなり、順当に行けば去年神に嫁ぐ筈だった。
    婚儀の前々日、花嫁衣裳の最後の丈合わせの最中娘は忽然と姿を消し、その村で娘の次に若い男も行方が分からなくなった。
    神に嫁ぐのが嫌で男と駆け落ちしたのだろうというのが村民らの見解であった。それまで嫌がる素振りもなく、むしろ嫁ぐことを喜びさえしている様子だったが結婚を目前に尻込みしてしまったのだろう。嫁ぐと言っても婚姻の儀を執り行った後は、定期的に山中の社に通って手入れをする程度の形式的なものでしかない。だが社と管理を担う以上この村から安易に離れることは出来なくなるし、人でないものと婚姻関係を結ぶことに抵抗がある人間も当然居る。
    村に逃げ出した娘を表立って責める者は居なかった。素直で心根の優しい娘を我が孫のように可愛く思う者こそ居れど、嫌う者は村には居なかったからだ。
    しかし神との約束を反故にしてからというもの、村に良くない兆候が現れ始めた。そしてとうとう白無垢姿の娘の霊が目撃され、村民らは大慌てで神の怒りを鎮めようと多くの供え物を捧げて懺悔した。しかし現在に至るまで神の怒りは収まる気配がない。
    娘の霊はさめざめと泣くばかりで、両親や村人が近付こうとすると幻のように消えてしまう。特に信心深い村民らは怯えきって部屋から出られない有り様のようだ。
    霊の目撃現場とされる場所に足を運び、KKは周囲をぐるりと見渡した。
    「さすがに昼間には出てこないんだね。夜まで待ってみる?」
    「面倒だ、居るなら顔見せてもらおう」
    KKは懐から普段吸うものとは違う紙巻煙草を取り出し、先端に火を付けた。深く煙を吸い、細く吐き出す。
    煙はKKの足元からゆっくり広がり、霧散することなくその場に留まった。
    「いつもの煙草じゃないね。なんか不思議な匂いがする」
    鼻をすんと鳴らした暁人の言葉に、KKは指先に挟んだ煙草を掲げて見せた。
    「煙草みたいな形にしてるのは単に便利がいいからってだけだ。役割としては線香に近いな」
    煙は隠れたものをあぶり出す、または逆に煙に巻くという言葉もあるように他人の目を誤魔化すことに使われる。簡易的に範囲の小さな結界を張る際や目視できない存在をあぶり出したい時にKKがよく使う手だった。
    元の形は全く異なるが自分が使いやすいように改良した結果紙巻煙草に酷似した形となった。
    「オレらはアンタを祓いにきたわけじゃない。話を聞きにきた。姿を見せてくれ」
    呼び掛けて暫く待つと、煙の奥からささやかな衣擦れの音と共に白い着物をまとった女が姿を現した。俯いており綿帽子に隠れて顔はよく見えない。口元の赤い紅だけが鮮明だった。
    「アンタが神に嫁ぐはずだった娘さんか。……生霊ではなさそうだな」
    KKの言葉に、女は啜り泣き始めた。どこか反響するような泣き声はこちらに悲痛さを切々と訴えかけてくる。
    「KK、あれ」
    暁人が指差したのは女の手先で、袖から覗く細く白い指に何かが巻き付いているのが見える。目を眇めて、その細いものを注視した。
    「赤い、糸かアレは」
    「どこかに繋がってるみたいだね」
    「ああ……つってーと、心中か」
    女は小指に赤い糸が絡んだ手で顔を覆い更に酷く泣く。
    互いの体の一部を結び合い、同時に死ぬことで死後の世界、或いは次の生を受けた時に結ばれる。今生では叶わぬ恋を成就するための手段としてはよく聞く話だ。
    「好きな相手と心中したんなら、ここで泣く必要はねえよな」
    「神さまに引っ張られて動けなくなってる可能性は?」
    「向こうがそのつもりなら、とうに山ん中に引き摺りこまれてる筈だ。どっちかっつーとオレには……」
    「? オレには?」
    やけに暗い色をした糸の先を視線で辿る。糸は山から逸れどこか遠くへ繋がっているようだった。
    「……オレの想像でしかない。本当のところは本人に聞くしかねえな」
    しかし彼女は泣くばかりで、どう宥めすかしても理由を話そうとはしなかった。見かねたらしい暁人がKKの隣に立ち耳打ちしてくる。
    「ねえKK、提案なんだけど」
    「駄目だ」
    「前にもあったけどさ、せめて最後まで聞いてから却下してくれないかな」
    「どうせオマエに娘さんを降ろすって言いてえんだろ。駄目だ」
    「名案だと思うんだけど」
    「後先考えずに誰でも彼でも受け入れようとすんな!心中だって言っただろうが。死因までは分からんが、彼女はもう死んでんだ。降ろせばオマエはその追体験をさせられる。どういうことか分かるか?」
    「痛い思いするかもってこと?僕なら平気だ」
    「オマエの平気は信用ならねえ」
    「なんで!」
    「オマエな……」
    この前安易に囮になると言い出した結果どういう目に遭ったかもう忘れたのかと言いかけて、忘れるよう促したのは自分だったことを思い出しKKは咥えていた煙草の端を強く噛んだ。
    「彼女が悲しんでるなら、話を聞いてあげたいし、解決できそうならしてあげたいよ」
    「お人好しめ」
    「それはKKも同じだろ」
    「オマエのそれと一緒にすんな。オレは引き際くらい弁えてる」
    「僕が危ないと思った時は、KKが助けてくれるでしょ。ねえ師匠せんせい?」
    下から掬うように覗き込んできた暁人に挑発的に微笑まれ、KKは煙草のみでない苦味が口の中に広がるのを感じ思い切り顔を顰めた。
    師匠というのはKKが暁人に何事かを教えている時たまに出る呼称だが、満更でもなく思っていたのが暁人に透けていたのだと気付き尚の事苦い気持ちになる。
    KKが黙ったことを肯定と取ってか、暁人は立ち尽くす女にゆっくりとした歩調で近付いた。俯いた女と視線を合わせるためか若干腰を屈め、柔らかな声音で語りかける。
    「はじめまして、僕は伊月っていいます。どうして泣いてるのか、理由を聞かせてもらえないかな?喋るのが難しいのなら、僕の体を貸してあげる。あなたに何があったのか、僕に教えてもらえたら、僕らに出来ることがあるって分かるしれない。どうかな?」
    迷子の子どもに接するような丁寧で穏やかな口調で問われ、女は泣くのを止めほんの僅かに顔を持ち上げた。それを少し離れた場所から眺めつつ、KKは内心でのみ舌を巻く。人であってもそうでなくとも、死んでいようが生きていようが、傷つき助けを求めているなら等しく手を差し伸べることのできる暁人の性質は、ありふれているようで実行に移すのはなかなか難しい。彼が持ち合わせる警戒心が特別乏しいが故の向こう見ずな言動なのかもしれないが、KKは彼のそういう面を長所と捉えている。
    自分には逆立ちしても出来そうにない芸当だ。
    更に根気よく話しかけ続け、やがて女がそろそろと躊躇いがちに暁人に向かって手を伸ばす。
    暁人はそれを待ち受け、女の指先と暁人の手が触れた。
    瞬きの間に女の姿は煙のように立ち消え、引き換えに暁人が体勢を崩した。首元を押さえ、体をくの字に曲げてよろめく。
    「暁人!」
    KKは駆け寄り、ふらつく暁人の体を受け止めて肩を抱えた。
    ほんの一瞬前まで健常だった筈の喉から末期の人間じみた呼吸音が漏れる。陸に打ち上げられた魚のようにはくはくと口を無音で開閉させていた。優しく霊に差し伸べていた手は自分の喉を掻き毟らんばかりに強く指先を肌に食い込ませ、喉から何かを引き剥がそうとしている。
    「……ぁ、……っ、!」
    言葉になり損なった音が口からこぼれ落ちる。暁人は突然目を見開き、自分を支えているKKを振り払うと転がるようにして道の端に寄り草地に嘔吐した。
    背中を擦ってやろうと一歩近付いた途端、顔はこちらに向けないままぱっと手を翳されそれ以上の接近を拒否される。暁人は蹲った姿勢で胃袋の中が空になるまで吐き続けた。
    「ゔ……っ、き、きっつい……」
    「大丈夫か」
    「みず……水飲みたい」
    「ほら」
    飲料水の入ったペットボトルを投げ渡すと、暁人は両手で受け取り一息で内容量の半分を飲み干した。
    残りの半分で口を濯ぎ、口内から嘔吐の名残を洗い流して漸く立ち上がる。
    ほんの数分の間の出来事だったが、暁人は見るからに憔悴していた。
    「ご感想は」
    「最悪だった」
    「だから言っただろうがよ」
    「最悪だった代わりに、いろいろ分かったから大目に見てよ」
    「なんでわざわざ自分の身を削るような真似をする。他にいくらでもやりようはあるんだぞ」
    暁人が不快そうに眉を顰めたのを見て、KKは自分の分のペットボトルを追加で投げた。暁人は今度は片手で受け取り、短く礼を言ってから口を付ける。
    「でも、これが一番確実だし、はやく解決できるでしょ?悲しいとか苦しいとかは、なるべく短くなった方がいいよ」
    だからと言って先の見えない霧の中に全速力で突っ込むヤツがあるかと言ってやろうかと思ったが止めた。言って治る癖ならもうとっくの昔に改善されているだろう。
    自分が見ていればいいだけの話だ。
    「オマエ、オレが目ぇ離した瞬間死んじまいそうだな」
    「縁起でもない冗談言わないでよ」
    「冗談じゃねえからな」
    暁人が胃袋の中身と引き換えに手に入れた女の霊の記憶は、村民から聞いた話とは随分違うものだった。
    娘は心から神に嫁ぐことを望んでいた。幼い頃から神は娘の夢の中やたまに現実にも現れて、彼女を大切に扱ってくれた。自分や家族、村の人々を守ってくれる神が大好きだった。妻にと選んでくれたことが誇らしかった。
    しかし婚礼の前々日、花嫁衣装の最終調整のため着替えていた時突然部屋に男が押し入ってきた。村で娘の次に若い男で、村長の家系の末の息子だった。若いと言っても娘とは一回り以上に年が離れている。男は以前から何度も娘に言い寄って付きまとい、婚礼に関しても最後まで反対していた。
    男は娘を無理矢理部屋から連れ出し、車で拉致した。男の様子は尋常でなく、娘は恐怖で震えることしか出来ずにいた。男はどこかの山中の山小屋に娘を監禁した。暴行され、言うことを聞かなければ顔を殴られ、帰りたいと泣くと首を締められた。
    そんな生活を強いられて何度目かの夜、男は娘と自分の小指を互いの血で染めた糸で結び、懇願する娘を括り殺した。
    死した後娘はせめて魂だけでもと何日もかけて山中を彷徨い、そして漸く生まれ育った村まで戻ってきた。自分の伴侶となる筈だった神のもとへ行くため山を登ろうとしたが、小指に絡んだ糸が張り詰めそれ以上先に進めない。滴る程の血を吸った糸はどうやっても外れも切れもせず、娘の魂を現世に縛り付け続けている。
    「つまり、その馬鹿息子の無理心中に巻き込まれてここで立ち往生してるわけだ。聞いてた話とずいぶん違うな」
    「彼女のこと解放してあげられないかな?」
    「解放するにはまずソレを切るところからだ」
    娘を体に下ろしたからか、暁人の左手の小指に糸が絡みどこかへ続いている。暁人が軽く引っ張ってみているが切れたり緩んだりする気配はない。
    「記憶の通りならこの先に彼女をさらって殺した犯人がいる筈だけど……辿ってみる?」
    「糸は重いか?」
    「え?うーん、確かに糸にしては重いかも」
    「他に何か感じるか」
    「えっと……なんか、脈打ってる感じがする」
    「なるほど。気色悪いやつだな」
    「どういうこと?」
    「それは赤い糸なんていう可愛らしいもんじゃないってことだ。血が巡って脈打ち始めてる血管だ。馬鹿野郎は自分の命を使って娘さんを自分に縛り付けてる。このままだと取り込まれて娘さんも悪霊化しちまう」
    「そんな、なら早くしないと!」
    「歩いて辿るつもりか?ホシの身元は割れてんだ、そっちに聞いた方が手っ取り早いだろ」
    「なんか刑事みたいだね、KK」
    「みたいじゃなくてそうなんだよ。元が付くけどな」
    二人は一度村へ戻り、村長の家を訪ねた。初めのうちこそ二人を歓待していた家人だったが、KKが末の息子の話題を出した途端明らかに口が重くなる。
    暫く言い訳のような言葉を並べていたが、最終的にKKの尋問に耐え切れず口を割った。
    村長の家は山一つ向こうに土地を持っている。山中に山の管理人用の小屋を建てたが、前任が加齢を理由に辞めてからは後任を立てることもなく放置されていて誰も使っていない。末息子はたびたびその小屋を私用に使っていたらしい。
    方角も赤い糸が続く方向と合致する。娘が監禁された小屋というのはそこで間違いないだろう。
    KKと暁人はその山の麓に車を走らせ、途中から歩きで目的の山小屋に向かった。舗装はおろか人が殆ど立ち入らない山は獣道に毛が生えた程度の小道しか存在せずただ前へ進むのにも苦労する有り様だった。
    意外なことに、先に疲労を見せ始めたのも、道半ばで立ち止まったのも暁人だった。道端の木に寄り掛かり、肩で息をしている。汗をかいているが顔色は青かった。
    「暁人、無理するな。オレが行くからオマエは車で待ってろ」
    「……大丈夫、心配しないで……」
    暁人はKKにでなく、自分が背負った娘に語りかけている様子だった。花嫁衣装を着た女性を背負っての登山はどれだけ体力があっても辛いだろう。
    暁人は道中で数度また吐いた。もう胃袋の中には何も残っておらず、吐き気を誤魔化すために水を飲んではそれを吐き戻している状態だが、いくら吐いても状態は向上しないようだった。
    「記憶が……だんだんはっきりしてきた……」
    何より暁人を苦しめているのは、追体験する娘の記憶だった。死の間際、特に強烈に残った記憶を何度も反芻され続けている。
    娘を背負うのを止めさせたいのは山々だったが、今暁人と引き離せば娘は恐らく男の方に引き摺られてしまう。一度取り込まれれば引き剥がすことにも苦労するし、最悪娘ごと祓わなければならない事態にも陥りかねない。
    何より、暁人自身がその提案を呑もうとしないであろうことは目に見えていた。
    大人の足で小一時間程、二人はその倍以上の時間をかけて目的の山小屋に辿り着いた。暁人の指に絡む糸はその山小屋の中に続いている。近付くだけで分かる程に、周辺に重たい死と負の空気が蔓延していた。
    「オレが祓ってくる。オマエはここで待機だ」
    「……うん」
    不満そうではあったが、立っているのもやっとのような状態で自分にできることはないと理解しているのだろう。
    「結界の張り方は教えたからできるな。殆ど自我も残ってないようなヤツだが、追い込まれたら何をしでかすか分からん。娘さんを守ってやれよ」
    「分かった。KK、気を付けて」
    暁人に見送られ、KKは朽ちかけた小屋の中に足を踏み入れた。扉は派手に軋み、開けただけでぱらぱらと木端が床に散る。
    鼻孔を強く刺激する強い血と腐敗した肉の臭い。狭く薄暗い室内の中央にはどす黒い何かが蹲っている。それが呼吸をするたび、生温い空気がKKの頬を撫でていく。
    「姿すら人であることを止めたか」
    話しかけると黒い塊はKKを睨みつけてきた。外見に人であった頃の名残りは感じられず、生物と呼ぶことすら躊躇われる様相をしている。
    「哀れな男だ。口説き方すら知らずに、好きな女を不幸にしかしなかった」
    KKが一言喋るたび黒い塊が明らかな怒りを帯びて膨張していく。
    「散々苦しませて殺して、彼女はテメエのもんになったか?……聞くまでもねえよな。好き放題もそこまでにしておけよ、テメエはこれから一人で地獄に逝くんだ」
    次の瞬間、黒塊が吠えKKに飛び掛かった。KKは表情ひとつ変えることなく正面に手を翳す。黒塊の前脚と思しき箇所の鋭く尖った爪がKKに触れようとした瞬間、薄暗い室内を強い光が満たした。
    話している間掌の内に集中させていたエーテルは黒塊の中心を過たず貫く。地の底から響くような悍ましい断末魔をあげ、黒塊は跡形もなく霧散していった。
    鼓膜にこびりついた長く耳障りな咆哮を振り払うために、動くもののなくなった小屋の中でKKは軽く頭を振った。
    室内は薄暗いままではあったが、じっとりと肌にまとわりつくような不快な空気ではなくなり、埃とカビの臭いが鼻につく。ひび割れた窓から差し込む僅かな光に照らされて、部屋の中央に横たわる姿があった。
    元の色が何色だったのか分からない程汚れ、腐蝕した着物をまとった体は殆ど白骨化しているのが見て取れる。その傍らにはどす黒い人型の染みだけが残されていた。
    KKが小屋を出た時、暁人は小屋近くの木の根元に蹲っていた。指示通り小規模な結界が暁人の周囲を取り囲んでいる。
    「暁人」
    声をかけると肩がぴくりと反応し、暁人は億劫そうにゆっくりと顔を持ち上げた。
    「……KK、お疲れさま。大丈夫だった?」
    「オレを誰だと思ってる」
    青白い顔に笑みを浮かべてこちらを労う暁人の頭を弱く掻き回し、立ち上がるために肩を貸す。
    「あの赤い糸がなくなったら、ずいぶん楽になったよ。彼女も同じみたい」
    そう言って見せてきた暁人の小指には糸が巻き付いていた圧迫痕が残されている。赤く擦れて、というよりはどす黒く変色しており見るだけで痛々しかった。
    「依頼の始末つけたら、治療してやる。それまで我慢できるか」
    「うん、大丈夫だよ。こんな見た目だけど痛くはないから」
    「……そうか」
    そこまでの霊障があって痛みを感じないのは逆に良くない兆候でもあるのだが、原因となるものは既に祓っている。無闇に不安を煽る必要はなかろうとKKは口を閉じた。
    山を下り、車で村まで戻る。KKらが戻るのを待ち受けていたらしい村長らの物言いたげな視線を無視し、KKは暁人を連れて神の座する山の麓に向かった。
    車で僅かばかり休息することができたからか、村に到着し車を降りる頃には肩を貸す必要はなくなっていた。だがまだ万全の状態とは到底言えない暁人に登山を強いるのも気が引けて、待機しているよう指示すべきか迷っていたところ当人から行きたいと申告された。
    「そんなふらふらしてて山登りできるか?滑落したオマエ抱えて山登りなんてゴメンだぜ」
    「十分気を付ける、だから一緒に行かせて」
    「……マジでしんどくなる前にちゃんと言えよ」
    結局のところ、相手のために厳しくあろうとしても自分は最後の最後で暁人に甘いのだとつくづく実感しながら、KKは暁人を伴い山の中へ足を踏み入れた。
    山中は驚く程穏やかで、これまで多くの村人が長い年月通ったであろう山道を歩くことに苦労はなかった。が、神域と思しき領域へ進入した頃からどこからともない視線を感じる。その視線は特に暁人へ、正確に言えば暁人の中の娘へと注がれているようだった。視線を送ってくるだけで害意は感じられなかったため、KKは一応の警戒心は持ちつつも何も反応せず山登りを続けた。
    暁人は最初の十数分こそ勾配のそこそこきつい山道に一歩踏み出すにも辛そうにしていたが、山が深まると共にその足取りは軽くなっていき、今ではKKを追い越さんばかりの歩調で歩き続けている。
    視線は常に道の先を見据え、どこか急いているように感じた。
    「……暁人、急ぐのはいいが足元気をつけろよ」
    声をかけると暁人は少し夢から覚めたような顔でKKを振り返る。
    「うん、気を付ける。彼女がはやく行きたいって急かすから、少し焦ってたみたいだ」
    「相思相愛なようで何よりだ」
    「神さまも?」
    「待っていられなかったみたいだぞ」
    KKはそう言って顎で前方をしゃくって見せた。暁人が視線を向けた先には、白い体の蛇が道の中央で鎌首をもたげこちらを見据えていた。
    「……あれは」
    暁人が呟いた瞬間、暁人の体から娘が抜けた。体勢を崩す暁人を受け止めてやりながら、KKは魂のみの姿で蛇に駆け寄る娘の背中を見送る。蛇は娘が駆け寄る間に大きく姿を変え、たちまち大の男三人分程の大蛇になった。
    大蛇に少しも怯むことなく、丸太のような胴へ抱きつく娘を蛇は愛おしそうに抱き締める。大蛇の柘榴のような赤い目には確かに知性があり、娘を見下ろす視線には慈愛が満ち満ちていた。
    「……良かった」
    暁人が小さく安堵の溜息と共に呟く。娘と蛇は互いを確認し合うように抱擁していたが、やがてKKと暁人の方を振り返り礼を述べた。特に蛇の言葉は古く神代の時代の言葉であったため、KKにも分からなかったが、娘が大まかに意訳して伝えてくれた。
    自分も妻も厚く感謝している。この恩は時や世代を経ても薄れることはない。一先ずの形ある謝礼としてこれを下賜したい。
    娘が暁人へ、上等そうな陶器の酒瓶を手渡してくれた。曰く、神が身を清める湧き水を使った酒とのことで、飲めば淀が祓われ、穢れを寄せ付けなくなるという。清流のように透き通っていることから、姿を偽るものや隠すものの正体をたちまちの内に暴くこともあるのだとか。
    神代の時代、人と神が同じ世界に生き同じ言葉を使っていた頃は、宴の際には神も人も等しく口にしていた酒のようだが今となっては神が作った酒を人が口にする機会というのは殆どない。貴重であることは考えるまでもなかった。
    酒をありがたく頂戴し、漸く再会が叶った夫婦の間に水を差すのも躊躇われ、簡単な暇乞いの挨拶をしてKKと暁人は山を後にした。
    亮佑 Link Message Mute
    2023/04/07 14:55:10

    媒鳥を鳴かす_前

    人気作品アーカイブ入り (2023/04/07)

    痴〇電車の怪異を解決した後、関係が変わりそうで変わらない、変わるかもしれないK暁。
    自分設定と趣味要素の闇鍋。
    前の話→前編(https://galleria.emotionflow.com/119485/663228.html)
      後編(https://galleria.emotionflow.com/119485/664274.html)
    #K暁

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