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  • 隣の部屋のお兄さん5- #再録 #薬燭 #現パロ #ホストと医学生



    「引っ越し?」
     休日の重なった朝、食前に甘いカフェラテを飲んでいる時だった。この部屋の主にそう提案されたのは。
    「あぁ、もう殆んど一緒に住んでるようなもんだし、…二人で住むなら今よりも広い部屋に引っ越してもいいんじゃないかと思ってな」
     光忠さんさえ良ければの話だが、と続けられて咄嗟に返事を飲み込んでしまった。口を開いて、反射のまま「いいね!」と言いそうになったのだ、危ない。
     つい一週間前の泥酔事件から、この目の前にいる青年とは更に微妙な関係になっている上、自分の不純な気持ちに気付いてしまった今、迂闊な事は言えないとそう燭台切は考えていた。
    「そうだね…そういう事も今後のために考えておいた方がいいかも…ね」
     向かいに座っている薬研から視線を逸らしつつ、曖昧に濁す。多分気のせいなどではなく、件の日からどうにもこの青年には積極的に来られている気がするのだ。自意識過剰でなければ口説かれている、ようなのだ、どうも。信じられないことに。
     それに対して、まだ自分がどうしたいのか正直分からず、戸惑っていた。大学生とはいえ、彼はまだ若い。万が一、ないとは思うが、一過性の好奇心でこの青年に遊ばれたりなどしたら立ち直れる気がしないのである。そんな事をするような子ではない、と思いたい所だが。
    「…そこまでは必要ないか」
    「あ、ううん! 前に話したかなと思うんだけど、僕は上司命令でここに住んでるからね、そっちの確認とか兼合いも色々あって…!」
     見て分かるくらいに、眉を下げた薬研へ慌てて言い訳をした。そんな表情をさせているのが自分だと考えるだけで胸がときめく。そして同時に、彼の曇りそうな顔を笑顔にしたいという欲求が湧き上がるので、ほとほと困ったものだ。
     相手の一挙一動に、完全に振り回されている。そう自覚があるのがまた、惚れた弱みというものを実感させられて、複雑な気持ちになるのだった。
    「そうだったな、そっちの返事を優先してくれて構わん。仕事だもんな」
     個人的な理由で断られた訳ではないと受け取ったらしく、少しほっとした様子で彼も同じく甘いカフェラテを飲む。
    「多分、そんなに煩くは言われないと思うんだけど…今すぐ返事は出来ないんだ、ごめんね」
     ぐらぐらと自分の理性が揺れるのを感じて仕方ない。今すぐ上司を説得して新しい所を探そう、と感情の赴くまま突っ走って言ってしまいたい自分と、恋仲でもないし友人とも少し違う相手と新しい新居で本格的に同棲を開始するだなんてどうかしている…もっと慎重になるべきだ、と冷静に諭してくる自分が葛藤している、脳内で。
     圧倒的に今はまだ様子を見るべき、と思って脳内の自分の意見は後者の方を支持している訳だが、理性がぐずぐずに崩れ去ってしまったなら、どんな行動に出るか想像もしたくなかった。
    「ただの思いつきだ。そんなに気にしないでくれ」
    「ん、了解」
     そう返事をしつつ、ひとつ気になってまた口を開く。
    「でも…仮に引っ越したとして、そうすると家賃とか色々折半になるよね?」
     僕が全部出してもいいくらいだけど、と相手が嫌がるだろう発言は内心だけで言葉を飲みつつ、話を続ける。
    「その場合、今の家賃よりは安くなるかもだけど…引っ越す場所によっては藤四郎君の負担が大きくなったりしないかい…?」
    「あぁ、その事ならちゃんと考えてるぜ。新しくバイトを始めてみようかと思ってな」
     流石に何もかも実家の世話になるつもりもねぇし、最悪でも引越し代は稼がねぇと。
     そう続いたのに、現実的な側面も考えた上での発言なのだなと安心した。思いつきで言っているとも思えなかったのだが、先に確認しておかないと後から拗れる事も少なくないのだ。物事の大半は。
    「でもあくまで学業は優先するんだろう? そうすると日常の生活が圧迫されないかい、選ぶアルバイトにもよるだろうけど…」
     つい心配になって、過保護な発言が口から滑り落ちてゆく。保護者か、と我ながら思うくらいのお節介加減だと思う。相手がどう思うかは、分からないが。
    「旦那に心配されるのは嬉しいが、それも考えてるぜ。長時間拘束されるようなものは、最初から候補に入れてねぇんだ。あんたにも負担をかけかねないからな」
    「じゃあ短期のものだけ、っていう事かい? でもそれって職種も大分限られるんじゃないかな。…もうバイト先って決まってるの?」
     自分に弟はいないのだが、弟のように思って扱っている知り合いにするように薬研の事も心配で、つい根掘り葉掘り聞いてしまった。声に出してから後悔しても遅いのだが、既に手遅れとしか言い様がない。
    「まだ本採用じゃねぇんだが…声を掛けて貰ってる所ならあるぜ」
     そしてそれらの質問に律儀に答えなくても良いのだが、難なく答える相手も相手だと思わなくない所だ。しかしまだ一緒に住居を共にするのなら、お互いがどんな生活をしようとしているか把握する必要はあるだろう。
    「ちなみにどんな職業なの? それ」
     危ない仕事ではないかだけ確認できたら、もうこの話は終わりにしよう。そう思って最後の質問のつもりだった。燭台切としては。
    「何だったか…男相手の売り専? で、スカウトされた。物好きだなぁ…と思ったんだが、抱く方だけでいいらしいし、給料もいいし短期で辞められるっつう話だから、検討中だ」
    「………う…? え、ちょ…待って…」
     思考が正しく働いているのか分からないが、何で検討してるの? という純粋な疑問が脳内を占拠している。どう考えても、選択肢にいれるような職業ではないだろう普通は。
     しかしそれよりも今は別の事が気になった。
    「君って…男相手でも、その…平気なの?」
     思わず怪訝な顔になってしまう。その上で聞きながら、君が好きなのは僕じゃないの、とむっとしている自分がいた。そんな風に感じるような関係ではないと自覚はありながら。
    「さぁ? 分からん。何でも物は試しかと思ってな」
     少しの淀みもなくきっぱり言い切られて、こちらが項垂れる。知り合った頃から、こちらの想像を超えることを優にやってのける男だとは思っていたが、ここまで斜め上の発想を披露されるとは思わなんだ。頭が痛くなってきた。
    「……そんな心持ちで受けていい仕事じゃないと、僕は思うよ」
     言葉を選んで、彼を諭そうと画策するか、迷う。存外、頑固だと思われるこの青年に余計な事を言って、今より事態がひどくなるのは避けたいのだ。かと言って、笑顔で現在検討中の仕事へと送り出すつもりはない。
     さて、どうしたものか。
    「試してみたいって言うなら…わざわざそんな怪しい所に所属しなくても僕が買うけど」
     冷静でいたいと思いつつ、内心で苛々としていた。そうでなければ、こんな際どい発言をしなかったはずだ。
    「は?」
     当然、言われた方も面食らっている。しかしそんな衝撃を受けているのは彼だけではない。発言をした張本人もであった。幸いそれらは胸の内に留まっているので、表情には出ていなかったが。
    「…聞こえなかった? 僕が買うって言ったんだよ。そうは言っても男に抱かれるのも抱くのも興味はないからセックスはしないけどね」
     職業柄、思ってもいない事をするすると話せる方だが、それでも今日この瞬間、内心の冷や汗が止まらない。ほとんど自宅のようになっているこの部屋で、こんなにも冷や汗を掻いた事がかつてあっただろうか。そんなことを思い出している暇もないので、考える余裕すらないが。
    「いや、だけど、っ…」
    「君に気遣われるような給料じゃないから、安心して。それに難しい事は頼まないよ」
     何事か言いかけた相手を遮って、続けた。もう勝手に言葉が口から溢れるようになっているらしい。止まりたいのに、止まれなかった。
    何より、自分以外の不特定多数に触れる薬研を、想像すらしたくなかったのだ。そのせいで、まさか自分がこんなにも無茶な提案を押し通そうとするとは思わなかったのだが。
    「……光忠さんが、それでいいなら」
     ふぅ、と短い溜息を吐いてから、青年は腹を括ったような眼差しをこちらに向ける。完全に納得しているようではないが、一先ず自分の発言を実行するのはやめたように見えた。
     思い止まってくれた事に心底安堵して、燭台切も詰めていた息を吐く。なるべく自然に、気付かれないように、だが。
    「でも、…じゃあ俺は具体的に何をしたらいいんだ? 添い寝…は、ほぼ毎日してるし、…やる事なくないか?」
     セックス以外に そんな副音声が聞こえた気がするが、全力で気のせいだと脳内から追い出す大人である。まだお互いどう思っているのか、はっきりさせた訳でもない内に体の関係を持つだなんて、爛れた事をしたくなかった。今までの過去は脳内の隅へ押しやって、そんな事を考える。自分が思っているよりずっと、目の前にいる青年に真剣な気持ちを抱いているからかも知れない。
     浅はかな事をして、彼に幻滅されたくない気持ちは確かにあった。正直、今の段階では少々手遅れになってしまった気はするのだが。
    (…ここまで言った手前、何も考えてなかったとか、言えない…)
     心の中だけで、泣いた。咄嗟に大口を叩くのは得意だが、こんなにも選択肢のない博打は打つものではない。そう自分に言っても遅すぎる。
     即答したいのだが、少しの間を置いて口を開いた。
    「背中を流す…とか、どうかな」
     言った傍から、己の失敗を悟る。これはない、こんな微妙な関係としか思えない相手に求める行為ではないだろう。何より困るのは自分ではないのか。ほとんど誘っているのと変わらない、…とそこまで思考が巡って青褪めた。
     どうして言葉というものは回収が不可能なのだろうか。今この瞬間を、非常にやり直したい。どんな手を使ってでも。
    「分かった。じゃあ、…今夜でいいのか?」
     こちらの動揺に気付いているのかいないのか、薬研は平素通りのような顔でそう聞き返してくる。君は動じないにも程があるんじゃないのか、とそんな文句を言いたくなるが、言える立場ではない。
    「うん、よろしくね」
     何も宜しくない。しかし本音を言えないまま、今夜の予定は決まってしまった。折角の休日は、まだ朝だというのに想定外の出来事で楽しめそうになくなっている。主に、己で導いた墓穴という穴に嵌った事により。

    ***

     二週間ぶりに休日が重なるから、と昼間はふたりで映画を見に行く約束をしていた。前々から見たいと言っていた巨大モンスターが出てくる映画だ。確かその計画を立てた一週間前、見る映画を決める際に燭台切からは何でもいいと言われ、それならこれにしようと薬研が提案したものだった。
     大きい生物には浪曼があるからな、と言った気がする。しかしその大きい生物を倒す内容なのだが、それを知ってか彼は苦笑していたようだった。しかしそんな水を差すような事は、前売り券を買ってまで準備したこちらに告げることはなかった。
     優しい男だ、と思う。そして同時に少し詰めの甘い大人だとも。
     今朝の一件があって、彼は普段のように何もなく振舞っているつもりのようだった。しかし、皿を洗っていると普段ならありえないのだが、それを手から滑り落としたり、出掛ければ移動に使う電子マネーのカードを忘れたりと、地味なドジが目立っていた、今日に限って。
     日々、色んな事をそつなくこなす男なので、余計に珍しく思えるのだが、明らかに今朝の件で動揺している、ようにしか俺には見えない。正直なところ、動揺しているのは彼だけでなくこちらも同じなのだが、あまりに相手の動揺が目に見えてはっきりしているので、逆に冷静になれていた。光忠さんには悪いが。
    「大丈夫か?」
     映画が終わって席を立ち、映画館から出た階段でよろけた大人の腕を咄嗟に掴んでそう聞いていた。明白に注意力散漫になっている彼を意識的に観察していたのだが、それが見事役に立ったようだ。
    「…っ、平気…! あ、りがとう」
     少しのぎこちなさを持って、そう返しつつ相手はこちらから距離を取る。目に見えて、意識されていた。それは今日に始まった事ではなく、こちらが口説くと決めたあの朝からなのだが、こんなにも態度に出てしまっているのは今日が初めてだと思う。
    (こんなに意識しちまうくらいなら、言わなきゃ良かったのになぁ…あんな事)
     今朝の問題発言について、薬研すらそう思っていた。ただこちらとしては好都合なので彼の墓穴は大歓迎なのだが、こうも大袈裟な反応を見ると少し可哀想になる。しかし可哀想、と思ってもそれを撤回するような優しさは持ち合わせていないのだが、生憎と。

     いつも通りのようなそうではないような雰囲気を維持したまま、外食をして少し買い物をしてから帰宅した。
     まるでデートだなと思ったのだが、ただでさえ気を張っている大人をこれ以上追い込まないために言わないでおく。殆んど彼の自業自得なのであるが。
     それに帰宅してから、目に見えて落ち着きがなくなっている燭台切の神経をあまり刺激しては、逃げられそうな気がしていた。
     この男は職業柄か元々の性格か、話をはぐらかしたり躱すのがとても上手い。それもあって、こちらが口説き始めたものも全て、笑って誤魔化すか流すか聞こえなかった振りをして、ことごとく受け流されていた。しかし本気にするつもりはないようなその態度が、こちらを拒絶しているようにはどうしても思えなくて、その曖昧さがまたずるいと思う。
     現状は維持したいが、人間関係のあり方を悩んでいる。というのは、言われなくても分かってしまうというものだ。何より同性から突然、そういう目線で見られていると知ったら誰でも戸惑うだろう。
     ただ気のない相手なら、早々にけじめを付けそうなものなのにそれもない。
    (まったく気がないっつう訳でもないのかねぇ…)
     隣で夕飯にリクエストしたハンバーグを焼いている大人を盗み見る。今は目の前の料理に集中しているようで、落ち着いた様子だ。
     肉のじゅうじゅう焼ける音と匂いに、こちらの気も燭台切から食事へと逸れてゆく。そう感じている間に、腹の虫が鳴った。
    「…腹減った…」
    「もう少しだよ…藤四郎君、手動かしてね」
    「はい」
     野菜スープの野菜を軽く炒めている途中でそう言われ、焦げていないか確認してしまう。止まっていたのは数秒だったので玉葱が良い色になり始めた程度だった。玉葱は先に炒めた方が甘さと旨味成分が出るから、と隣の男に教わったのでそうしているのだが、俺にはよく分からない。何せ、そうしなかった場合と、そうした場合の味の違いを知らないからだ。
     色が変わってきたのを見計らって、燭台切に声を掛ける。彼の指示に従って他の野菜や水分に、味付けもしてゆく。たまにこうして並んで料理をするのだが、毎回こうして聞いてばかりだ。答えて欲しい肝心な事には、一切触れてくれないが。
     食事が始まる前に薬研は風呂掃除を終えて、湯船にお湯を張っておいた。
    今更だが、この部屋の浴室を彼はあまり使わないなと思い出す。水道代などを気にしているのだとは思うが、毎回自分の部屋に帰って風呂だけ済ませこちらの部屋に帰ってくるのは面倒ではないのかと問いたい。あまり本人は気にしていなさそうな気もする所であるが。
    何気なく食事を始めてそれが終わる頃、食後に甘い物が食べたいと言い、冷蔵庫を覗き始めた大人に本題を切り出した。
    「…所で、何時に風呂入る?」
     がたっ、と冷蔵庫の上段に頭をぶつけた音がする。それから目に見えて動揺した声で、彼は「えっ…?!」と呟いたようだった。
     我ながら意地の悪いタイミングだなと思ったが、正直わざとなので甘んじて受け入れて欲しい所である。手に掴んだヨーグルトを変形させた状態で、相手は振り返った。その顔にはうっすらと汗が浮いている、ように見える。
    「ぁ…うん…そう、だね…」
     視線を彷徨わせながら曖昧に頷く。忘れていた、というよりは忘れていたかったという様子だ。そう易易と逃がしてやるつもりもないが。
    「あと二時間くらいはのんびりするか」
     時間を指定したのは彼に心の準備をさせるため、というより今より一秒でも多くこちらを意識させたかったからだった。勢いに任せたであろう先程の発言を、身を持って反省して欲しい気持ちもある。
     いずれにせよ、迂闊なこの男が心配だった。
     こんなにも簡単に、友人でもない大学生を己の懐に入れてしまうという事がどんなに危険か、知って欲しい。他の人間にも同じように、付け込まれる前に。
    「あぁ、うん、…片付けとか…一通り終わってからに、しようかな」
     ゆっくりと慎重に、燭台切は言葉を紡ぐ。本人にそんな気はないだろうが、僅かに怯えられている気配がして小動物を連想した。こんなに大きい小動物はいないと分かってはいるのだが、雰囲気がそんな感じだ。
    「そうか、分かった」
     これ以上虐めるのは一先ずやめておく。この律儀な男に限って突然逃げ出したりはしないだろうが、あまり追い詰められると人間という生き物は予想外な行動に出るものだ。どんな時も追い詰めすぎてはいけない。多分、どんな性格の人間でも。
    「…君もヨーグルト食べる?」
    「あぁ、もらう」
     明らかに容器が変形してしまったヨーグルトを受け取って、笑った。こちらに渡してきたものも、自分の分も同じように変形してしまっているヨーグルトの容器に、大人の動揺が滲み出ていすぎて。

    「……じゃあ、先に入るけど、五分くらいしたら入ってきて」
    「了解」
     その端正な顔からは、表情が抜け落ちていた。先程までの顔に出ていた動揺は、この数十分でどこかに置いてきてしまったらしい。腹を括ったという事だろう。
     脱衣所へと消えていった背中を見送って、リビングにある掛け時計に視線を向けた。九時を過ぎた所で、今から五分かと長針の位置を確認する。滑らかな動きで進み続ける秒針に気を取られ、少しだけぼうっとした。
     相手の墓穴を利用したとはいえ、現在の状況にあまり現実味を感じられない。たった今、口説いている相手が風呂場に向かった訳だが。
    (…これって、もしかしなくても据え膳なのか?)
     まさに今、浴室に入ったであろう相手は全裸で、こちらを待っている予定である。急に眩暈がしてきた。
    そして、半同棲状態にも関わらず、あの男の半裸すら見た事がないと思い出して、余計に動揺してしまう。
    (いや、今になって意識するとか遅くねぇか、何でだよ…!)
     自分にツッコミを入れて、頭を抱える。むしろ何故今まで平気だと思えていたのかがよく分からない始末だ。あまり現実として、想像していなかったからかも知れないが。
    (落ち着け…背中を流すだけだろう。っつうか、一応、バイトなんだよな、これ。別に光忠さんから金が欲しい訳じゃねぇんだが)
     深呼吸をして、後頭部を掻く。この仕事を引き受けたものの、正直あまりその対価を貰うつもりはない薬研である。そもそも、相手から金を貰うのは本末転倒な気がして仕方ないのだ。向こうがどれだけ気にしていないと言おうと、こちらは燭台切のひもになりたい訳ではないので。
     色々と葛藤している内に、五分経とうとしていた。上はTシャツなので、下に穿いているデニムの裾を何度か折って捲くり上げる。一緒に入浴する訳ではないので、これでいいかと自分の手足を拭くためのタオルを脱衣所の戸棚から出して、大人の洋服が畳んで置いてある籠の縁へと掛けておく。
     柄にもなく心臓が喧しい音を立てているのだが、聞こえないフリをして浴室にいる相手に声をかけた。
    「…もう入っていいか?」
    「どうぞ」
     磨硝子越しに、その背中が薄ぼんやりと見える。ほとんど間などなく返ってきた声に、こちらばかりが動揺させられているのではないかと思った。何だか、無性に。
    「失礼します」
     何も言わない方がいいのか分からないまま、敬語になっていた。バイトバイトバイト、と心の中で呟いて煩悩を脳の隅へ押しやる。その勢いのまま、目の前の戸を引いた。
     風呂場用の椅子に座っている広い背中が、真っ先に視界に入る。何も身に纏っていない素肌は、少し濡れて無数の水滴をつけていた。髪の毛も濡れていて、後ろへと撫で付けられている。
     髪の毛は洗い終わった所なのだろう。いつも眼帯を付けている彼が、それを外しているのも初めて見た。その顔の全貌は、この大人がこちらを振り返る事がない限り、見ることはないだろうが。
    「…遅かったね?」
    「旦那の支度が早く済んだだけじゃないのか」
     軽口で流したいのに、声が強張る。喉がからからに乾いていた。緊張から、下半身が反応する事はなかったが、これが良いのか悪いのかもよく分からない。あくまでバイトなので、きっと良い事なのだろうと深く考えずに流した。流すほか、なかったとも言う。
    「確かに…思ったより早く終わったかも」
     髪を洗うのが、と話す声がやけに室内に響いている気がして落ち着かない。どうしてこんな空間でのアルバイトを思いついたのだと目の前の男に詰め寄りたくもなるが、きっと相手も後悔している事だろうと、赤くなった耳の丸みを見て取ってから思った。
     後悔、しているのだろうか。否、後悔して貰わなければ困るのだ。他の場所で同じように自分以外の他人へ対して、こんな風に素肌を晒すような真似をして欲しくない薬研としては。
    「…じゃあ、背中を流すが…。スポンジでいいか?」
     落ち着こうと思えば思うほど、考えているように自然な振舞いは適わない。しかし逃げ出す事は出来ない今、ならばなるべくこの仕事を早く終わらせるしかないなと、聞こえないように深い溜め息を吐く。当然、彼には気付かれないように、彼とは反対に向いて息をした。
     ただ呼吸をする度に、自分が使っているシャンプーの匂いが燭台切から香るので落ち着くわけがないのだが。
    「うん、何でも」
     何でもってなんだよ!? と咄嗟に脳内で怒鳴った自分がいた。素手で撫でるように洗われてもいいのか! と余計なことを考えた所為である。煩悩が消える気配はない。
    (違う、落ち着け…深呼吸だ)
     今日だけで何度自分を叱咤するのか、と思うくらい脳内が忙しかった。相手の項を伝う水滴に目を奪われつつ、スポンジにボディソープを付けて泡立たせてゆく。
     普段、自分ではスポンジなど使わないので、新鮮な気持ちだ。そんな事を無理矢理考えて、目前に迫っているかのような健康的そのものの色な肌を注視していた。自分の方が白いとは分かっていたが、健康的にほんのり焼けている皮膚から暴力的なまでの色気が出ている気がしてならない。思わず下唇を噛んでいた。
    「……藤四郎君?」
    「っ、…あぁ、いや、何でもない…」
     思わず力んでいた手から、折角泡立てたボディソープが溢れ落ちていて、再度液体を追加すると泡立て直す。まったく、冷静でいられない。が、何とかこの現実を終わらせるためにと、相手の背中へ泡を付けるようにスポンジを滑らせた。
    「………痛くないか? あと、痒いところとか、あったら言ってくれ」
    「うん、大丈夫」
     返事をする低い声が、甘く感じる。局部を隠すためにタオルを一枚纏った程度の、心許ない格好でいるのにそんな油断をした態度を取らないで欲しい。視界に入る頭を叩いてやりたくなってきた。
    そんな事、震えそうになっている手では出来そうにないのだが。
    ただただ無心に努めて、なめらかな皮膚の上をスポンジで撫でる。暑くないはずの浴室内で、しかし頭の中は沸騰しそうだった。元々あまりなかった心の余裕も、更になくなっている気がしてくるくらい、何も話せない。柔い訳ではない背中を、洗っているだけにも関わらず。
    「…腕も、お願いできるかい?」
    「ん、…了解」
     上手く声が出なくて、少し焦る。尻の割れ目が視線の先に入ったせいだった。腰まで手を下げて、思わず凝視してしまったのだ。男の尻を。
     揉み心地良かったな、と当然のように思い出してしまう。記憶に新しいものなので、思い出さない方が難しかった。
     燭台切に言われた通り、肩から二の腕へとスポンジを移動させる。これはバイトだった、と自分にまた言い聞かせた。少しでも邪な思考がなくなればいいのだが、それも無理だとは分かっている。今までの経験から。
     それにしても、至る所に筋肉の隆起が見られる裸体は、同性から見ても羨ましい体付きだ。特に自分のような、筋肉の付きにくい体質の人間から見れば尚更。
    「しかし旦那、良い身体してるよな」
     だが本音を口にすると、我ながらどこのセクハラ親父か、と頭痛がしてくる台詞にしかならない。紛う事なき本音でも。相手が異性であったなら、訴えられたかも知れないと考える。ただの現状から気を逸らす妄想に過ぎないが。
    「職業柄、座っている時間の方が多いから…ジムに通ってるんだ時々。二十四時間空いている所も出来たからね、仕事終わりとか始まる前に身体動かすの、」
     気持ちいいよ 無駄に色気の孕まれた声で、囁かないで欲しい。下半身に悪い、などとは口が裂けても言えないのだが、いっそ本音をぶちまけてしまいたい心境に陥った。
     スポンジを滑らせていた手が、相手の手首に届いた所で思わず止まる。脳内の葛藤が喧しく、意思に反して事務的な動きが出来なくなったのだった。
    「藤四郎君…? …君、そんなに隙があると、付け込まれるんじゃないのかい」
    「…は?」
     それはあんただろう、と反射で思って声がした方へ顔を上げると、手首をぐっと掴まれる。そのまま引っ張られて、鼻先にふわっといい匂いがした。眼前に、眼帯をしていない燭台切の顔があって、心臓がどくっと大きく脈打つ。数センチで、その唇を奪えそうな距離だった。
    「ねぇ、君…これ以上の事をするバイトをしたいって言ってたよね? もし僕みたいな体格の男に捕まったら今みたいに逃げられないんじゃないのかな」
     手首を握る掌に、また力を込められて相手が本気で言っているのが伝わってくる。
    (あぁ…そういう事か)
     どうしてこの男がこの場から逃げなかったのか、やっと納得がいった。明白に言い寄っている同性に対して、その素肌を晒してでも言いたかったのは、これかと。
    「…そんなに俺が心配か? 優しいな光忠さんは。でも俺だってこんな頼りない身体かも知れんが、力はそれなりにあるんだぜ」
     掴まれていない方の手を、彼の後頭部に回して更に顔を近付ける。鼻先で、相手の鼻先を撫でた。ぎくっとした動きで、大人が息を呑むのが分かる。至近距離すぎて、お互いに隠せるものが少なくなった。呼吸も体温も、密着している部分から次第に伝わってしまう、お互いに。
    「今すぐあんたを押し倒すくらいの力はあるつもりだ。…実際にやってみないと分からんのは確かだが」
     確認するか? そんな事はしないだろう、と思いつつも聞いてみる。無表情になっている相手を、動揺させてみたくなったのかも知れない。冷えてしまった大人の手や身体に、少しの罪悪感を覚えながら。
    「…いいよ、やってみて」
     掠れた声で、そんな言葉を紡ぐなんてどうかしている。この男も大概どうかしてしまった、そう頭の隅で判断出来るものの、こちらも止まれない。止まる材料をたった今、奪われてしまったのだから。
     吸い込まれるように、目の前にある唇へ自分のそれを重ねた。後頭部を撫でた手を腰に回して、更に口付けを深くする。受け入れるように相手の唇が開いた所で、遠慮なくその口腔内へ侵入した。
     歯列に触れ上顎をなぞり、舌を絡める。表面の皮膚と違って、口内は温かい。あの夜からずっと、知りたかった体温を感じている現実に頭から痺れるようだった。
     もっと近付きたくなって、心が逸る。今日この瞬間に彼を自分に繋ぎとめられたなら、もしかして。そんな柄にもないセンチメンタルな考えが脳裏にあった。
    大人の腰を掴もうとして、指先が滑る。今さっき自分が付けた泡のせいだ、と認識したら己の動きが鈍る。本能のままに行動していた意識に、水を差されたみたいだ。でも、お陰で少し冷静になれた。
     誘われたから誘いにのって、この雰囲気に流されて得るものは、本当に俺の欲しいものなのか。
    「…ちがう、間違えた…」
     知らず、口から言葉が漏れる。ほとんど独り言だったそれは、しかし目の前の男にも聞こえてしまっていた。
    「何が違うんだい…? こういう事、試してみたかったんじゃないのか君は」
     毒を孕んだかのような声音だった。呆然としたまま、その言葉に反応して返事をしていた。
    「そういうんじゃない…」
    「僕じゃなくても、誰でも良かったんだろう」
     温度の感じられない声は続く。一瞬でも、想いが重なったと思ったのは、こちらの勘違いだったのか。浮き彫りになったかのような温度差に、戸惑う。
     このたった数十秒で、目眩を覚えそうなくらい暑かった室内は冷え切った気がした。
    「…そんな事、思ってねぇ。でも、こんな状態で何言っても言い訳にしかならねぇよな。俺が悪かった…もう、しない」
     そっと離れて、失った温もりを掌で握り潰す。何をどう何処で間違えたのか、はっきりとした事は分からない。何も分からないがただひとつ、触れられる距離にいた相手に拒絶されたのだけは分かった。
    「タオル、用意しとくから、…ゆっくりしてきてくれ」
     冷えたであろう体が心配だった。ただ、それを告げてもいいのか、今は判断出来ない。だから、最低限だけの言葉を置いて、浴室から出る。後ろは振り返れなかった。

    「……何を、やってるんだ僕は…」
     相手が完全にいなくなった浴室で、弱々しく呟く。情けなさしかない声に、我ながら頭を抱えた。自分がこんなにも幼稚な真似をする人間なのだと、この年齢になってようやく自覚する。
    遅すぎる発見に、縦に長い体を小さく折りたたんで反省しても、それすら遅いのは明確だ。
     あのまま雰囲気に流されてしまう事も出来たはずだった。今まで何回もそんな風にして、気になった相手とは関係を持ってきた。それなのに今回に限って、尻込みしたのだ。確かに自分は。
    (でも、だからって…あんな試すような事言って、本当…大人げない)
     年下の相手に甘えているとは思っていた、思ってはいたが、ここまで酷いとは知らなかったのだ。
    その上、確実に傷つけた。あの少し強引で優しい青年を。そんな事を望んでいた訳ではなかったはずなのに、自分が傷つく前にと予防線を張ったのだろう。
    こんなにも自分が情けないとは、知りたくなかった。
    冷え切って、指先の感覚が鈍くなっている。シャワーの蛇口を捻って、熱い湯を頭から浴びた。身体に残っていた泡が、排水口へ流れていくのを静かに見つめる。
    彼も自分も、一過性の熱だけであんな事をしたとは言い切れない。それでもその可能性が少しでもある事が、恐ろしかった。
    自分だけでなく相手を信じるのが、こんなにも難しいと感じるのは、いつ以来だろうか。
    幼い頃の記憶が脳裏を過ぎって、考えるのを放棄した。


    ..................................................................................
     6


     重く気まずい空気は、三日もすると薄れていった。双方が意識的に、そういう振る舞いをしていた結果だろう。
     あれから、薬研は燭台切を口説く素振りをやめた。
    一見、半同棲生活を始めた頃とそう変わりないような対応だが、しかし徹底して接触を避けているのは明らかだった。なるべく自然に、避けられている。
    そう仕向けたのは自分なのに、その現実に打ちのめされていた。とても静かに。傷つく資格など、ないというのにも関わらず。
     そんな矢先だった。彼の家族が訪れたのは。

    「…おや、これは私とした事が…部屋を間違えてしまいましたかな」
     呼び鈴が鳴って、家主の代わりに玄関ドアを開けると爽やかな水色の髪をした青年と対面した。古風な言い回しの喋り方は、誰かを思い出す。
    「あぁ、いえ、ここは薬研藤四郎君の部屋ですよ。僕はその…彼の…同居人、というか」
     彼にとって自分がどういう存在なのか、正直言葉に詰まってしまう己がいた。自分でどう思っているのかも今ひとつ分からないというのに、他人に説明する事などできない。
     そのせいで曖昧な説明をしたのだが、相手はひとつ頷くと「そうですか」と爽やかな返事をしてくれた。
    「私は薬研藤四郎の兄で粟田口一期と申します。苗字が違うのは少々訳ありなのですが、弟と好い仲の方とお見受けしますに、詳細の説明は藤四郎から、いずれさせて頂く事になるかと…」
     手本になるような、綺麗な会釈を一度すると、粟田口と名乗った男に手を差し出される。あまりこの手の接触をされた経験がないので一瞬戸惑ったが、握手を求められているのだと理解して、その手を握った。
     そして、握り返してから相手の発言に違和感を覚える。誤解を招くような言い方をされていた気がして。
    「…えっと…? いいなか、っていうのは…」
     自分の頭上をクエスチョンマークが飛び交っている。字面で何となく意味する事は予想できるのだが、外見的にそう判断する人間の方が圧倒的に少ないだろうと思って、念の為の確認であった。
    「……おや…、これもまた私の早とちりでしたかな…? あまりに弟の好みに嵌るお方だったので、てっきりそういうご関係かと」
    「兄貴、人の家の玄関先で何を言ってくれてるんだ…?」
     洗面所にいたはずの家主が、気付けば来訪者の胸ぐらを掴んでいる。風は感じたが、音もなくそんな物騒な事をしないで欲しいと思う燭台切だ。突然目の前に現れた同居人に驚いて、何を言われたのか良く聞こえなかった。
    「?」
     よく分からないまま、口ぶりから完全に兄弟らしいのでその様子を見守る事にする。今以上に喧嘩状態が悪化しそうなら、その時は止めに入ろうと思いつつ。
    「ははは、元気だったようだね、私の可愛い弟は」
    「…今日のは笑っても誤魔化されねぇぜ? …まぁ、まだ玄関先でなんだし、中に入ってくれ」
     朗らかに笑った相手に警戒しつつ、掴み掛っていた手を解いて薬研は相手を招き入れた。珍しく目が笑っていない彼が新鮮で、ついじろじろと見てしまう燭台切である。


    #続きなどない
    #再録 #薬燭 #現パロ #ホストと医学生



    「引っ越し?」
     休日の重なった朝、食前に甘いカフェラテを飲んでいる時だった。この部屋の主にそう提案されたのは。
    「あぁ、もう殆んど一緒に住んでるようなもんだし、…二人で住むなら今よりも広い部屋に引っ越してもいいんじゃないかと思ってな」
     光忠さんさえ良ければの話だが、と続けられて咄嗟に返事を飲み込んでしまった。口を開いて、反射のまま「いいね!」と言いそうになったのだ、危ない。
     つい一週間前の泥酔事件から、この目の前にいる青年とは更に微妙な関係になっている上、自分の不純な気持ちに気付いてしまった今、迂闊な事は言えないとそう燭台切は考えていた。
    「そうだね…そういう事も今後のために考えておいた方がいいかも…ね」
     向かいに座っている薬研から視線を逸らしつつ、曖昧に濁す。多分気のせいなどではなく、件の日からどうにもこの青年には積極的に来られている気がするのだ。自意識過剰でなければ口説かれている、ようなのだ、どうも。信じられないことに。
     それに対して、まだ自分がどうしたいのか正直分からず、戸惑っていた。大学生とはいえ、彼はまだ若い。万が一、ないとは思うが、一過性の好奇心でこの青年に遊ばれたりなどしたら立ち直れる気がしないのである。そんな事をするような子ではない、と思いたい所だが。
    「…そこまでは必要ないか」
    「あ、ううん! 前に話したかなと思うんだけど、僕は上司命令でここに住んでるからね、そっちの確認とか兼合いも色々あって…!」
     見て分かるくらいに、眉を下げた薬研へ慌てて言い訳をした。そんな表情をさせているのが自分だと考えるだけで胸がときめく。そして同時に、彼の曇りそうな顔を笑顔にしたいという欲求が湧き上がるので、ほとほと困ったものだ。
     相手の一挙一動に、完全に振り回されている。そう自覚があるのがまた、惚れた弱みというものを実感させられて、複雑な気持ちになるのだった。
    「そうだったな、そっちの返事を優先してくれて構わん。仕事だもんな」
     個人的な理由で断られた訳ではないと受け取ったらしく、少しほっとした様子で彼も同じく甘いカフェラテを飲む。
    「多分、そんなに煩くは言われないと思うんだけど…今すぐ返事は出来ないんだ、ごめんね」
     ぐらぐらと自分の理性が揺れるのを感じて仕方ない。今すぐ上司を説得して新しい所を探そう、と感情の赴くまま突っ走って言ってしまいたい自分と、恋仲でもないし友人とも少し違う相手と新しい新居で本格的に同棲を開始するだなんてどうかしている…もっと慎重になるべきだ、と冷静に諭してくる自分が葛藤している、脳内で。
     圧倒的に今はまだ様子を見るべき、と思って脳内の自分の意見は後者の方を支持している訳だが、理性がぐずぐずに崩れ去ってしまったなら、どんな行動に出るか想像もしたくなかった。
    「ただの思いつきだ。そんなに気にしないでくれ」
    「ん、了解」
     そう返事をしつつ、ひとつ気になってまた口を開く。
    「でも…仮に引っ越したとして、そうすると家賃とか色々折半になるよね?」
     僕が全部出してもいいくらいだけど、と相手が嫌がるだろう発言は内心だけで言葉を飲みつつ、話を続ける。
    「その場合、今の家賃よりは安くなるかもだけど…引っ越す場所によっては藤四郎君の負担が大きくなったりしないかい…?」
    「あぁ、その事ならちゃんと考えてるぜ。新しくバイトを始めてみようかと思ってな」
     流石に何もかも実家の世話になるつもりもねぇし、最悪でも引越し代は稼がねぇと。
     そう続いたのに、現実的な側面も考えた上での発言なのだなと安心した。思いつきで言っているとも思えなかったのだが、先に確認しておかないと後から拗れる事も少なくないのだ。物事の大半は。
    「でもあくまで学業は優先するんだろう? そうすると日常の生活が圧迫されないかい、選ぶアルバイトにもよるだろうけど…」
     つい心配になって、過保護な発言が口から滑り落ちてゆく。保護者か、と我ながら思うくらいのお節介加減だと思う。相手がどう思うかは、分からないが。
    「旦那に心配されるのは嬉しいが、それも考えてるぜ。長時間拘束されるようなものは、最初から候補に入れてねぇんだ。あんたにも負担をかけかねないからな」
    「じゃあ短期のものだけ、っていう事かい? でもそれって職種も大分限られるんじゃないかな。…もうバイト先って決まってるの?」
     自分に弟はいないのだが、弟のように思って扱っている知り合いにするように薬研の事も心配で、つい根掘り葉掘り聞いてしまった。声に出してから後悔しても遅いのだが、既に手遅れとしか言い様がない。
    「まだ本採用じゃねぇんだが…声を掛けて貰ってる所ならあるぜ」
     そしてそれらの質問に律儀に答えなくても良いのだが、難なく答える相手も相手だと思わなくない所だ。しかしまだ一緒に住居を共にするのなら、お互いがどんな生活をしようとしているか把握する必要はあるだろう。
    「ちなみにどんな職業なの? それ」
     危ない仕事ではないかだけ確認できたら、もうこの話は終わりにしよう。そう思って最後の質問のつもりだった。燭台切としては。
    「何だったか…男相手の売り専? で、スカウトされた。物好きだなぁ…と思ったんだが、抱く方だけでいいらしいし、給料もいいし短期で辞められるっつう話だから、検討中だ」
    「………う…? え、ちょ…待って…」
     思考が正しく働いているのか分からないが、何で検討してるの? という純粋な疑問が脳内を占拠している。どう考えても、選択肢にいれるような職業ではないだろう普通は。
     しかしそれよりも今は別の事が気になった。
    「君って…男相手でも、その…平気なの?」
     思わず怪訝な顔になってしまう。その上で聞きながら、君が好きなのは僕じゃないの、とむっとしている自分がいた。そんな風に感じるような関係ではないと自覚はありながら。
    「さぁ? 分からん。何でも物は試しかと思ってな」
     少しの淀みもなくきっぱり言い切られて、こちらが項垂れる。知り合った頃から、こちらの想像を超えることを優にやってのける男だとは思っていたが、ここまで斜め上の発想を披露されるとは思わなんだ。頭が痛くなってきた。
    「……そんな心持ちで受けていい仕事じゃないと、僕は思うよ」
     言葉を選んで、彼を諭そうと画策するか、迷う。存外、頑固だと思われるこの青年に余計な事を言って、今より事態がひどくなるのは避けたいのだ。かと言って、笑顔で現在検討中の仕事へと送り出すつもりはない。
     さて、どうしたものか。
    「試してみたいって言うなら…わざわざそんな怪しい所に所属しなくても僕が買うけど」
     冷静でいたいと思いつつ、内心で苛々としていた。そうでなければ、こんな際どい発言をしなかったはずだ。
    「は?」
     当然、言われた方も面食らっている。しかしそんな衝撃を受けているのは彼だけではない。発言をした張本人もであった。幸いそれらは胸の内に留まっているので、表情には出ていなかったが。
    「…聞こえなかった? 僕が買うって言ったんだよ。そうは言っても男に抱かれるのも抱くのも興味はないからセックスはしないけどね」
     職業柄、思ってもいない事をするすると話せる方だが、それでも今日この瞬間、内心の冷や汗が止まらない。ほとんど自宅のようになっているこの部屋で、こんなにも冷や汗を掻いた事がかつてあっただろうか。そんなことを思い出している暇もないので、考える余裕すらないが。
    「いや、だけど、っ…」
    「君に気遣われるような給料じゃないから、安心して。それに難しい事は頼まないよ」
     何事か言いかけた相手を遮って、続けた。もう勝手に言葉が口から溢れるようになっているらしい。止まりたいのに、止まれなかった。
    何より、自分以外の不特定多数に触れる薬研を、想像すらしたくなかったのだ。そのせいで、まさか自分がこんなにも無茶な提案を押し通そうとするとは思わなかったのだが。
    「……光忠さんが、それでいいなら」
     ふぅ、と短い溜息を吐いてから、青年は腹を括ったような眼差しをこちらに向ける。完全に納得しているようではないが、一先ず自分の発言を実行するのはやめたように見えた。
     思い止まってくれた事に心底安堵して、燭台切も詰めていた息を吐く。なるべく自然に、気付かれないように、だが。
    「でも、…じゃあ俺は具体的に何をしたらいいんだ? 添い寝…は、ほぼ毎日してるし、…やる事なくないか?」
     セックス以外に そんな副音声が聞こえた気がするが、全力で気のせいだと脳内から追い出す大人である。まだお互いどう思っているのか、はっきりさせた訳でもない内に体の関係を持つだなんて、爛れた事をしたくなかった。今までの過去は脳内の隅へ押しやって、そんな事を考える。自分が思っているよりずっと、目の前にいる青年に真剣な気持ちを抱いているからかも知れない。
     浅はかな事をして、彼に幻滅されたくない気持ちは確かにあった。正直、今の段階では少々手遅れになってしまった気はするのだが。
    (…ここまで言った手前、何も考えてなかったとか、言えない…)
     心の中だけで、泣いた。咄嗟に大口を叩くのは得意だが、こんなにも選択肢のない博打は打つものではない。そう自分に言っても遅すぎる。
     即答したいのだが、少しの間を置いて口を開いた。
    「背中を流す…とか、どうかな」
     言った傍から、己の失敗を悟る。これはない、こんな微妙な関係としか思えない相手に求める行為ではないだろう。何より困るのは自分ではないのか。ほとんど誘っているのと変わらない、…とそこまで思考が巡って青褪めた。
     どうして言葉というものは回収が不可能なのだろうか。今この瞬間を、非常にやり直したい。どんな手を使ってでも。
    「分かった。じゃあ、…今夜でいいのか?」
     こちらの動揺に気付いているのかいないのか、薬研は平素通りのような顔でそう聞き返してくる。君は動じないにも程があるんじゃないのか、とそんな文句を言いたくなるが、言える立場ではない。
    「うん、よろしくね」
     何も宜しくない。しかし本音を言えないまま、今夜の予定は決まってしまった。折角の休日は、まだ朝だというのに想定外の出来事で楽しめそうになくなっている。主に、己で導いた墓穴という穴に嵌った事により。

    ***

     二週間ぶりに休日が重なるから、と昼間はふたりで映画を見に行く約束をしていた。前々から見たいと言っていた巨大モンスターが出てくる映画だ。確かその計画を立てた一週間前、見る映画を決める際に燭台切からは何でもいいと言われ、それならこれにしようと薬研が提案したものだった。
     大きい生物には浪曼があるからな、と言った気がする。しかしその大きい生物を倒す内容なのだが、それを知ってか彼は苦笑していたようだった。しかしそんな水を差すような事は、前売り券を買ってまで準備したこちらに告げることはなかった。
     優しい男だ、と思う。そして同時に少し詰めの甘い大人だとも。
     今朝の一件があって、彼は普段のように何もなく振舞っているつもりのようだった。しかし、皿を洗っていると普段ならありえないのだが、それを手から滑り落としたり、出掛ければ移動に使う電子マネーのカードを忘れたりと、地味なドジが目立っていた、今日に限って。
     日々、色んな事をそつなくこなす男なので、余計に珍しく思えるのだが、明らかに今朝の件で動揺している、ようにしか俺には見えない。正直なところ、動揺しているのは彼だけでなくこちらも同じなのだが、あまりに相手の動揺が目に見えてはっきりしているので、逆に冷静になれていた。光忠さんには悪いが。
    「大丈夫か?」
     映画が終わって席を立ち、映画館から出た階段でよろけた大人の腕を咄嗟に掴んでそう聞いていた。明白に注意力散漫になっている彼を意識的に観察していたのだが、それが見事役に立ったようだ。
    「…っ、平気…! あ、りがとう」
     少しのぎこちなさを持って、そう返しつつ相手はこちらから距離を取る。目に見えて、意識されていた。それは今日に始まった事ではなく、こちらが口説くと決めたあの朝からなのだが、こんなにも態度に出てしまっているのは今日が初めてだと思う。
    (こんなに意識しちまうくらいなら、言わなきゃ良かったのになぁ…あんな事)
     今朝の問題発言について、薬研すらそう思っていた。ただこちらとしては好都合なので彼の墓穴は大歓迎なのだが、こうも大袈裟な反応を見ると少し可哀想になる。しかし可哀想、と思ってもそれを撤回するような優しさは持ち合わせていないのだが、生憎と。

     いつも通りのようなそうではないような雰囲気を維持したまま、外食をして少し買い物をしてから帰宅した。
     まるでデートだなと思ったのだが、ただでさえ気を張っている大人をこれ以上追い込まないために言わないでおく。殆んど彼の自業自得なのであるが。
     それに帰宅してから、目に見えて落ち着きがなくなっている燭台切の神経をあまり刺激しては、逃げられそうな気がしていた。
     この男は職業柄か元々の性格か、話をはぐらかしたり躱すのがとても上手い。それもあって、こちらが口説き始めたものも全て、笑って誤魔化すか流すか聞こえなかった振りをして、ことごとく受け流されていた。しかし本気にするつもりはないようなその態度が、こちらを拒絶しているようにはどうしても思えなくて、その曖昧さがまたずるいと思う。
     現状は維持したいが、人間関係のあり方を悩んでいる。というのは、言われなくても分かってしまうというものだ。何より同性から突然、そういう目線で見られていると知ったら誰でも戸惑うだろう。
     ただ気のない相手なら、早々にけじめを付けそうなものなのにそれもない。
    (まったく気がないっつう訳でもないのかねぇ…)
     隣で夕飯にリクエストしたハンバーグを焼いている大人を盗み見る。今は目の前の料理に集中しているようで、落ち着いた様子だ。
     肉のじゅうじゅう焼ける音と匂いに、こちらの気も燭台切から食事へと逸れてゆく。そう感じている間に、腹の虫が鳴った。
    「…腹減った…」
    「もう少しだよ…藤四郎君、手動かしてね」
    「はい」
     野菜スープの野菜を軽く炒めている途中でそう言われ、焦げていないか確認してしまう。止まっていたのは数秒だったので玉葱が良い色になり始めた程度だった。玉葱は先に炒めた方が甘さと旨味成分が出るから、と隣の男に教わったのでそうしているのだが、俺にはよく分からない。何せ、そうしなかった場合と、そうした場合の味の違いを知らないからだ。
     色が変わってきたのを見計らって、燭台切に声を掛ける。彼の指示に従って他の野菜や水分に、味付けもしてゆく。たまにこうして並んで料理をするのだが、毎回こうして聞いてばかりだ。答えて欲しい肝心な事には、一切触れてくれないが。
     食事が始まる前に薬研は風呂掃除を終えて、湯船にお湯を張っておいた。
    今更だが、この部屋の浴室を彼はあまり使わないなと思い出す。水道代などを気にしているのだとは思うが、毎回自分の部屋に帰って風呂だけ済ませこちらの部屋に帰ってくるのは面倒ではないのかと問いたい。あまり本人は気にしていなさそうな気もする所であるが。
    何気なく食事を始めてそれが終わる頃、食後に甘い物が食べたいと言い、冷蔵庫を覗き始めた大人に本題を切り出した。
    「…所で、何時に風呂入る?」
     がたっ、と冷蔵庫の上段に頭をぶつけた音がする。それから目に見えて動揺した声で、彼は「えっ…?!」と呟いたようだった。
     我ながら意地の悪いタイミングだなと思ったが、正直わざとなので甘んじて受け入れて欲しい所である。手に掴んだヨーグルトを変形させた状態で、相手は振り返った。その顔にはうっすらと汗が浮いている、ように見える。
    「ぁ…うん…そう、だね…」
     視線を彷徨わせながら曖昧に頷く。忘れていた、というよりは忘れていたかったという様子だ。そう易易と逃がしてやるつもりもないが。
    「あと二時間くらいはのんびりするか」
     時間を指定したのは彼に心の準備をさせるため、というより今より一秒でも多くこちらを意識させたかったからだった。勢いに任せたであろう先程の発言を、身を持って反省して欲しい気持ちもある。
     いずれにせよ、迂闊なこの男が心配だった。
     こんなにも簡単に、友人でもない大学生を己の懐に入れてしまうという事がどんなに危険か、知って欲しい。他の人間にも同じように、付け込まれる前に。
    「あぁ、うん、…片付けとか…一通り終わってからに、しようかな」
     ゆっくりと慎重に、燭台切は言葉を紡ぐ。本人にそんな気はないだろうが、僅かに怯えられている気配がして小動物を連想した。こんなに大きい小動物はいないと分かってはいるのだが、雰囲気がそんな感じだ。
    「そうか、分かった」
     これ以上虐めるのは一先ずやめておく。この律儀な男に限って突然逃げ出したりはしないだろうが、あまり追い詰められると人間という生き物は予想外な行動に出るものだ。どんな時も追い詰めすぎてはいけない。多分、どんな性格の人間でも。
    「…君もヨーグルト食べる?」
    「あぁ、もらう」
     明らかに容器が変形してしまったヨーグルトを受け取って、笑った。こちらに渡してきたものも、自分の分も同じように変形してしまっているヨーグルトの容器に、大人の動揺が滲み出ていすぎて。

    「……じゃあ、先に入るけど、五分くらいしたら入ってきて」
    「了解」
     その端正な顔からは、表情が抜け落ちていた。先程までの顔に出ていた動揺は、この数十分でどこかに置いてきてしまったらしい。腹を括ったという事だろう。
     脱衣所へと消えていった背中を見送って、リビングにある掛け時計に視線を向けた。九時を過ぎた所で、今から五分かと長針の位置を確認する。滑らかな動きで進み続ける秒針に気を取られ、少しだけぼうっとした。
     相手の墓穴を利用したとはいえ、現在の状況にあまり現実味を感じられない。たった今、口説いている相手が風呂場に向かった訳だが。
    (…これって、もしかしなくても据え膳なのか?)
     まさに今、浴室に入ったであろう相手は全裸で、こちらを待っている予定である。急に眩暈がしてきた。
    そして、半同棲状態にも関わらず、あの男の半裸すら見た事がないと思い出して、余計に動揺してしまう。
    (いや、今になって意識するとか遅くねぇか、何でだよ…!)
     自分にツッコミを入れて、頭を抱える。むしろ何故今まで平気だと思えていたのかがよく分からない始末だ。あまり現実として、想像していなかったからかも知れないが。
    (落ち着け…背中を流すだけだろう。っつうか、一応、バイトなんだよな、これ。別に光忠さんから金が欲しい訳じゃねぇんだが)
     深呼吸をして、後頭部を掻く。この仕事を引き受けたものの、正直あまりその対価を貰うつもりはない薬研である。そもそも、相手から金を貰うのは本末転倒な気がして仕方ないのだ。向こうがどれだけ気にしていないと言おうと、こちらは燭台切のひもになりたい訳ではないので。
     色々と葛藤している内に、五分経とうとしていた。上はTシャツなので、下に穿いているデニムの裾を何度か折って捲くり上げる。一緒に入浴する訳ではないので、これでいいかと自分の手足を拭くためのタオルを脱衣所の戸棚から出して、大人の洋服が畳んで置いてある籠の縁へと掛けておく。
     柄にもなく心臓が喧しい音を立てているのだが、聞こえないフリをして浴室にいる相手に声をかけた。
    「…もう入っていいか?」
    「どうぞ」
     磨硝子越しに、その背中が薄ぼんやりと見える。ほとんど間などなく返ってきた声に、こちらばかりが動揺させられているのではないかと思った。何だか、無性に。
    「失礼します」
     何も言わない方がいいのか分からないまま、敬語になっていた。バイトバイトバイト、と心の中で呟いて煩悩を脳の隅へ押しやる。その勢いのまま、目の前の戸を引いた。
     風呂場用の椅子に座っている広い背中が、真っ先に視界に入る。何も身に纏っていない素肌は、少し濡れて無数の水滴をつけていた。髪の毛も濡れていて、後ろへと撫で付けられている。
     髪の毛は洗い終わった所なのだろう。いつも眼帯を付けている彼が、それを外しているのも初めて見た。その顔の全貌は、この大人がこちらを振り返る事がない限り、見ることはないだろうが。
    「…遅かったね?」
    「旦那の支度が早く済んだだけじゃないのか」
     軽口で流したいのに、声が強張る。喉がからからに乾いていた。緊張から、下半身が反応する事はなかったが、これが良いのか悪いのかもよく分からない。あくまでバイトなので、きっと良い事なのだろうと深く考えずに流した。流すほか、なかったとも言う。
    「確かに…思ったより早く終わったかも」
     髪を洗うのが、と話す声がやけに室内に響いている気がして落ち着かない。どうしてこんな空間でのアルバイトを思いついたのだと目の前の男に詰め寄りたくもなるが、きっと相手も後悔している事だろうと、赤くなった耳の丸みを見て取ってから思った。
     後悔、しているのだろうか。否、後悔して貰わなければ困るのだ。他の場所で同じように自分以外の他人へ対して、こんな風に素肌を晒すような真似をして欲しくない薬研としては。
    「…じゃあ、背中を流すが…。スポンジでいいか?」
     落ち着こうと思えば思うほど、考えているように自然な振舞いは適わない。しかし逃げ出す事は出来ない今、ならばなるべくこの仕事を早く終わらせるしかないなと、聞こえないように深い溜め息を吐く。当然、彼には気付かれないように、彼とは反対に向いて息をした。
     ただ呼吸をする度に、自分が使っているシャンプーの匂いが燭台切から香るので落ち着くわけがないのだが。
    「うん、何でも」
     何でもってなんだよ!? と咄嗟に脳内で怒鳴った自分がいた。素手で撫でるように洗われてもいいのか! と余計なことを考えた所為である。煩悩が消える気配はない。
    (違う、落ち着け…深呼吸だ)
     今日だけで何度自分を叱咤するのか、と思うくらい脳内が忙しかった。相手の項を伝う水滴に目を奪われつつ、スポンジにボディソープを付けて泡立たせてゆく。
     普段、自分ではスポンジなど使わないので、新鮮な気持ちだ。そんな事を無理矢理考えて、目前に迫っているかのような健康的そのものの色な肌を注視していた。自分の方が白いとは分かっていたが、健康的にほんのり焼けている皮膚から暴力的なまでの色気が出ている気がしてならない。思わず下唇を噛んでいた。
    「……藤四郎君?」
    「っ、…あぁ、いや、何でもない…」
     思わず力んでいた手から、折角泡立てたボディソープが溢れ落ちていて、再度液体を追加すると泡立て直す。まったく、冷静でいられない。が、何とかこの現実を終わらせるためにと、相手の背中へ泡を付けるようにスポンジを滑らせた。
    「………痛くないか? あと、痒いところとか、あったら言ってくれ」
    「うん、大丈夫」
     返事をする低い声が、甘く感じる。局部を隠すためにタオルを一枚纏った程度の、心許ない格好でいるのにそんな油断をした態度を取らないで欲しい。視界に入る頭を叩いてやりたくなってきた。
    そんな事、震えそうになっている手では出来そうにないのだが。
    ただただ無心に努めて、なめらかな皮膚の上をスポンジで撫でる。暑くないはずの浴室内で、しかし頭の中は沸騰しそうだった。元々あまりなかった心の余裕も、更になくなっている気がしてくるくらい、何も話せない。柔い訳ではない背中を、洗っているだけにも関わらず。
    「…腕も、お願いできるかい?」
    「ん、…了解」
     上手く声が出なくて、少し焦る。尻の割れ目が視線の先に入ったせいだった。腰まで手を下げて、思わず凝視してしまったのだ。男の尻を。
     揉み心地良かったな、と当然のように思い出してしまう。記憶に新しいものなので、思い出さない方が難しかった。
     燭台切に言われた通り、肩から二の腕へとスポンジを移動させる。これはバイトだった、と自分にまた言い聞かせた。少しでも邪な思考がなくなればいいのだが、それも無理だとは分かっている。今までの経験から。
     それにしても、至る所に筋肉の隆起が見られる裸体は、同性から見ても羨ましい体付きだ。特に自分のような、筋肉の付きにくい体質の人間から見れば尚更。
    「しかし旦那、良い身体してるよな」
     だが本音を口にすると、我ながらどこのセクハラ親父か、と頭痛がしてくる台詞にしかならない。紛う事なき本音でも。相手が異性であったなら、訴えられたかも知れないと考える。ただの現状から気を逸らす妄想に過ぎないが。
    「職業柄、座っている時間の方が多いから…ジムに通ってるんだ時々。二十四時間空いている所も出来たからね、仕事終わりとか始まる前に身体動かすの、」
     気持ちいいよ 無駄に色気の孕まれた声で、囁かないで欲しい。下半身に悪い、などとは口が裂けても言えないのだが、いっそ本音をぶちまけてしまいたい心境に陥った。
     スポンジを滑らせていた手が、相手の手首に届いた所で思わず止まる。脳内の葛藤が喧しく、意思に反して事務的な動きが出来なくなったのだった。
    「藤四郎君…? …君、そんなに隙があると、付け込まれるんじゃないのかい」
    「…は?」
     それはあんただろう、と反射で思って声がした方へ顔を上げると、手首をぐっと掴まれる。そのまま引っ張られて、鼻先にふわっといい匂いがした。眼前に、眼帯をしていない燭台切の顔があって、心臓がどくっと大きく脈打つ。数センチで、その唇を奪えそうな距離だった。
    「ねぇ、君…これ以上の事をするバイトをしたいって言ってたよね? もし僕みたいな体格の男に捕まったら今みたいに逃げられないんじゃないのかな」
     手首を握る掌に、また力を込められて相手が本気で言っているのが伝わってくる。
    (あぁ…そういう事か)
     どうしてこの男がこの場から逃げなかったのか、やっと納得がいった。明白に言い寄っている同性に対して、その素肌を晒してでも言いたかったのは、これかと。
    「…そんなに俺が心配か? 優しいな光忠さんは。でも俺だってこんな頼りない身体かも知れんが、力はそれなりにあるんだぜ」
     掴まれていない方の手を、彼の後頭部に回して更に顔を近付ける。鼻先で、相手の鼻先を撫でた。ぎくっとした動きで、大人が息を呑むのが分かる。至近距離すぎて、お互いに隠せるものが少なくなった。呼吸も体温も、密着している部分から次第に伝わってしまう、お互いに。
    「今すぐあんたを押し倒すくらいの力はあるつもりだ。…実際にやってみないと分からんのは確かだが」
     確認するか? そんな事はしないだろう、と思いつつも聞いてみる。無表情になっている相手を、動揺させてみたくなったのかも知れない。冷えてしまった大人の手や身体に、少しの罪悪感を覚えながら。
    「…いいよ、やってみて」
     掠れた声で、そんな言葉を紡ぐなんてどうかしている。この男も大概どうかしてしまった、そう頭の隅で判断出来るものの、こちらも止まれない。止まる材料をたった今、奪われてしまったのだから。
     吸い込まれるように、目の前にある唇へ自分のそれを重ねた。後頭部を撫でた手を腰に回して、更に口付けを深くする。受け入れるように相手の唇が開いた所で、遠慮なくその口腔内へ侵入した。
     歯列に触れ上顎をなぞり、舌を絡める。表面の皮膚と違って、口内は温かい。あの夜からずっと、知りたかった体温を感じている現実に頭から痺れるようだった。
     もっと近付きたくなって、心が逸る。今日この瞬間に彼を自分に繋ぎとめられたなら、もしかして。そんな柄にもないセンチメンタルな考えが脳裏にあった。
    大人の腰を掴もうとして、指先が滑る。今さっき自分が付けた泡のせいだ、と認識したら己の動きが鈍る。本能のままに行動していた意識に、水を差されたみたいだ。でも、お陰で少し冷静になれた。
     誘われたから誘いにのって、この雰囲気に流されて得るものは、本当に俺の欲しいものなのか。
    「…ちがう、間違えた…」
     知らず、口から言葉が漏れる。ほとんど独り言だったそれは、しかし目の前の男にも聞こえてしまっていた。
    「何が違うんだい…? こういう事、試してみたかったんじゃないのか君は」
     毒を孕んだかのような声音だった。呆然としたまま、その言葉に反応して返事をしていた。
    「そういうんじゃない…」
    「僕じゃなくても、誰でも良かったんだろう」
     温度の感じられない声は続く。一瞬でも、想いが重なったと思ったのは、こちらの勘違いだったのか。浮き彫りになったかのような温度差に、戸惑う。
     このたった数十秒で、目眩を覚えそうなくらい暑かった室内は冷え切った気がした。
    「…そんな事、思ってねぇ。でも、こんな状態で何言っても言い訳にしかならねぇよな。俺が悪かった…もう、しない」
     そっと離れて、失った温もりを掌で握り潰す。何をどう何処で間違えたのか、はっきりとした事は分からない。何も分からないがただひとつ、触れられる距離にいた相手に拒絶されたのだけは分かった。
    「タオル、用意しとくから、…ゆっくりしてきてくれ」
     冷えたであろう体が心配だった。ただ、それを告げてもいいのか、今は判断出来ない。だから、最低限だけの言葉を置いて、浴室から出る。後ろは振り返れなかった。

    「……何を、やってるんだ僕は…」
     相手が完全にいなくなった浴室で、弱々しく呟く。情けなさしかない声に、我ながら頭を抱えた。自分がこんなにも幼稚な真似をする人間なのだと、この年齢になってようやく自覚する。
    遅すぎる発見に、縦に長い体を小さく折りたたんで反省しても、それすら遅いのは明確だ。
     あのまま雰囲気に流されてしまう事も出来たはずだった。今まで何回もそんな風にして、気になった相手とは関係を持ってきた。それなのに今回に限って、尻込みしたのだ。確かに自分は。
    (でも、だからって…あんな試すような事言って、本当…大人げない)
     年下の相手に甘えているとは思っていた、思ってはいたが、ここまで酷いとは知らなかったのだ。
    その上、確実に傷つけた。あの少し強引で優しい青年を。そんな事を望んでいた訳ではなかったはずなのに、自分が傷つく前にと予防線を張ったのだろう。
    こんなにも自分が情けないとは、知りたくなかった。
    冷え切って、指先の感覚が鈍くなっている。シャワーの蛇口を捻って、熱い湯を頭から浴びた。身体に残っていた泡が、排水口へ流れていくのを静かに見つめる。
    彼も自分も、一過性の熱だけであんな事をしたとは言い切れない。それでもその可能性が少しでもある事が、恐ろしかった。
    自分だけでなく相手を信じるのが、こんなにも難しいと感じるのは、いつ以来だろうか。
    幼い頃の記憶が脳裏を過ぎって、考えるのを放棄した。


    ..................................................................................
     6


     重く気まずい空気は、三日もすると薄れていった。双方が意識的に、そういう振る舞いをしていた結果だろう。
     あれから、薬研は燭台切を口説く素振りをやめた。
    一見、半同棲生活を始めた頃とそう変わりないような対応だが、しかし徹底して接触を避けているのは明らかだった。なるべく自然に、避けられている。
    そう仕向けたのは自分なのに、その現実に打ちのめされていた。とても静かに。傷つく資格など、ないというのにも関わらず。
     そんな矢先だった。彼の家族が訪れたのは。

    「…おや、これは私とした事が…部屋を間違えてしまいましたかな」
     呼び鈴が鳴って、家主の代わりに玄関ドアを開けると爽やかな水色の髪をした青年と対面した。古風な言い回しの喋り方は、誰かを思い出す。
    「あぁ、いえ、ここは薬研藤四郎君の部屋ですよ。僕はその…彼の…同居人、というか」
     彼にとって自分がどういう存在なのか、正直言葉に詰まってしまう己がいた。自分でどう思っているのかも今ひとつ分からないというのに、他人に説明する事などできない。
     そのせいで曖昧な説明をしたのだが、相手はひとつ頷くと「そうですか」と爽やかな返事をしてくれた。
    「私は薬研藤四郎の兄で粟田口一期と申します。苗字が違うのは少々訳ありなのですが、弟と好い仲の方とお見受けしますに、詳細の説明は藤四郎から、いずれさせて頂く事になるかと…」
     手本になるような、綺麗な会釈を一度すると、粟田口と名乗った男に手を差し出される。あまりこの手の接触をされた経験がないので一瞬戸惑ったが、握手を求められているのだと理解して、その手を握った。
     そして、握り返してから相手の発言に違和感を覚える。誤解を招くような言い方をされていた気がして。
    「…えっと…? いいなか、っていうのは…」
     自分の頭上をクエスチョンマークが飛び交っている。字面で何となく意味する事は予想できるのだが、外見的にそう判断する人間の方が圧倒的に少ないだろうと思って、念の為の確認であった。
    「……おや…、これもまた私の早とちりでしたかな…? あまりに弟の好みに嵌るお方だったので、てっきりそういうご関係かと」
    「兄貴、人の家の玄関先で何を言ってくれてるんだ…?」
     洗面所にいたはずの家主が、気付けば来訪者の胸ぐらを掴んでいる。風は感じたが、音もなくそんな物騒な事をしないで欲しいと思う燭台切だ。突然目の前に現れた同居人に驚いて、何を言われたのか良く聞こえなかった。
    「?」
     よく分からないまま、口ぶりから完全に兄弟らしいのでその様子を見守る事にする。今以上に喧嘩状態が悪化しそうなら、その時は止めに入ろうと思いつつ。
    「ははは、元気だったようだね、私の可愛い弟は」
    「…今日のは笑っても誤魔化されねぇぜ? …まぁ、まだ玄関先でなんだし、中に入ってくれ」
     朗らかに笑った相手に警戒しつつ、掴み掛っていた手を解いて薬研は相手を招き入れた。珍しく目が笑っていない彼が新鮮で、ついじろじろと見てしまう燭台切である。


    #続きなどない
    喉仏
  • 隣の部屋のお兄さん3-4 #再録 #薬燭 #現パロ #ホストと医学生
    3 


     最初は時計、次にオーダーメイドのスーツ、そして最後は駄目押しの香水だった。
     ただ何を差し出しても、彼には却下された。そんな高そうなもんは受け取れねぇ、という言葉付きで返されて。
     特に三度目には、また似たような事をしたら出禁にすると念まで押されてしまった。正直、僕には打つ手なしだ。こんなにも誰かに、贈り物をしたいと思ったのは初めてだったのに。
    「…ねぇ、本当に何も受け取ってくれないのかい?」
     朝方やっと眠りにつく僕と、何もなければ日付が変わる前には眠る彼とで睡眠時間帯の噛み合わない僕らは、こちらの休日以外では会話をする事が難しい。そんな状況なので今日は眠る時間をずらして、朝から彼に質問した。
    「んー…? 何の話だ、旦那…」
     一応返事を返しながら、しかしまだベッドへと沈んでいる相手は、また意識も沈んでいってしまいそうだ。すや、と寝息が上がりそうになる前に、朝ご飯作ったよと、もう一度声を掛ける。
    「…あと五分…」
    「藤四郎君の好きなしじみのお味噌汁にあおさ沢山入れたんだけどな…」
     起きてくれるように彼の好物も用意したのだが、その単語を聞き数秒してから、相手は上体だけ起こした。
    「………起きた」
     両目は閉じられたままだったが、はっきりそう言って後頭部を片手で掻く。それから一度、気の抜けたような欠伸をして目を擦る。起きるまでに時間のかかる日によく見受ける仕草だった。
    「じゃあ、リビングで待ってるね」
     またベッドへ戻らなそうな様子を確認してから、寝室を出た。
     すっかりこの部屋の台所まで燭台切は使い慣れてしまったが、お互いの関係性を思うと少し複雑な心境ではある。今はまだ彼にも自分にも恋人などの気配はないが、いつ相手が出来てもおかしくはないと思う。
    (そうなったら、…僕が持ち込んだものとか相手に勘違いさせそう、かな)
     元々この部屋にはなかった調理器具が、今や収納の至る所でその存在を主張していた。特に独身男性の一人暮らしにしては多いと思われる、調味料の種類の豊富さなども危惧されるポイントのひとつに見える。持ち込んだ本人としては。
     そもそも昔付き合っていた彼女に、指摘された事があるものでもあるので、女性目線を気にすると余計気になるというか。そんな目線を気にするという所に自分の職業病を多少なりとも感じるが、今更どうにかする気もなかった。
    「朝から悪いな」
     茶碗にご飯をよそって、隣に味噌汁を用意した所で着替えた家主がリビングへと顔を出す。美味そうだ、と感想を言ってから先に顔を洗いに洗面所へと向かう。
     その間に焼いておいた塩鮭を皿に盛って、納豆を開け小鉢に盛った。昨日準備しておいた浅漬けも同じく皿に盛っていく。白菜とセロリと大根と人参の入った浅漬けは、彩りが良く出来た。
    他にも生卵を用意しようかと思いつつ、しかし既にテーブルの上が埋まっているのを確認して冷蔵庫を閉じる事にする。そのタイミングで薬研がリビングへ戻ってきた。
    「おはようさん、今日は何かあんのか?」
     やっと目が覚めたらしい彼に挨拶をされる。
    「おはよう。うん、今まで色々お世話になってるからね…その事について、ちょっと話をしておきたくて」
     彼と向かいの椅子に座って、自分にも用意しておいた味噌汁に手を合わせた。いただきます、と同時に言って箸を手に取る。
    「…明らかに世話をされてるのは、俺の方だと思うんだが」
     あおさの沢山入った味噌汁は、磯の香りがして海を連想させる気がした。その海藻の下にしじみが隠れているので、余計そう思うのかも知れない。
    「そうでもないよ。僕はある意味、部屋を間借りしている身だからね」
     朝からご飯をもりもり口に運んでいる大学生を微笑ましく見ながら、少しずつ味噌汁を飲む。これから眠りにつく自分にとっては、この一杯の味噌汁のカロリーも気になる所だが、精神的に一人で食べる食事よりは数倍いい気がした。
    「それで? 寝起きに言ってたのは何だったんだ」
     思い出したらしい彼が、浅漬を小気味よい音を立て噛む合間に聞いてくる。
    「…僕の作ったご飯は食べてくれるけど、藤四郎君ってそれ以外はあまり受け取ってくれないだろう? そんなに何かを受け取るのに抵抗があるのかなって思って」
    「あぁ、その話か…」
     白米を頬張り味噌汁を飲んでから、彼は持ったままの箸で室内の隅を指し示す。
    「行儀悪いよ」
     苦笑交じりに指摘したら、素直にすまんと謝られた。が、その姿勢のまま「そこに見えるだろう」と彼は口を開いて続ける。そちらに視線を向けると、布団用のダニ捕り掃除機があった。
     自分が寝て起きてから、ソファの掃除をしようと燭台切が持ち込んだものである。
    「…俺の記憶が正しければ、あんたがほぼ此処に転がり込んでから買ったものだったよな、あれ」
    「えっ…、あぁ、…うん? そうだった、かなぁ」
     微妙に動揺しながら返事をした。
    何も誤魔化せないのは分かっているのに、味噌汁に口を付けゆっくり咀嚼している内に、彼が話し出すであろう話題が逸れてくれないかなと既に考えている。何を言われるのか、大体の予想が付いてしまって。
    「他にも色々…何だっけか、エスプレッソ? が飲めるコーヒーメーカーとか…思い当たる節があるだろう」
    「………」
     口元だけで笑顔を作って、返事を考えた。作ったお味噌汁が成功したのしか、今の自分に考える力が残っていなくて絶望する。
    「いや、…でもお世話になっている部屋を掃除するのは当然だよね!? 偶々欲しい機械を持っていなかったから買ったのをここで使ってるだけだよ、本当に」
     咄嗟に思い付いた言い訳を口から出したが、理由としてはそんなに悪くない気がした。
     しかし相手は微妙に怪訝な視線を送ってきていて、とても誤魔化されてくれる様子ではない。納豆を箸で掻き混ぜながら、へぇ、と信用していないと言いたげな声音で相槌を打っている。そこに醤油を入れてまた軽く混ぜたものを彼は自分の茶碗の中、半分ほど残っていた白米の上へ乗せて、大きくはない口を大きく開けて食べ始めた。
    いつ見ても豪快な食いっぷりである。食欲旺盛な高校生男子でも見ているような気持ちになる大人だ。
    「…とにかく俺としては、…あんたがこの家に来てから、前より明らかに快適になったのが気になる…から、他の物は受け取れん。…と、そう言いたかった」
     納豆とご飯を口にいれ咀嚼すると言葉を紡ぐので、薬研がもぐもぐと忙しなく口を動かしている間は無言になるのだが、全部聞き終わるまで口を挟む事はしなかった。
     それに彼の言わんとしたい事を考えると、下手な事を言って此方に不利になりそうな話題なので口を閉ざしているのが一番かと思える。少なくとも、部屋を間借りしている身としては。
    「褒め言葉として受け取っておこうかな」
     それだけ言うと空にしたお椀と箸をテーブルに置き、ご馳走様でしたと言って先に食事をやめる。食器を流しに置いて、また相手の向かいに座ると大学生の食事風景を眺めた。
     毎回がつがつと効果音が聞こえてきそうな食べ方をするわりに、この男の食事の仕方は綺麗だ。テーブルを汚す訳でも、茶碗などの食器も綺麗に中身を平らげられていて、作った側としては嬉しい限りである。
    「…美味しい?」
    「………あんたが飯を作るようになってから、大学の食堂で満足できなくなったくらいにはな」
     答えに笑ってしまったが、喜んでいい所なのか少し迷う。出来たての彼女にでも言って欲しい台詞なのは確かだが。
    「じゃあ、あまり納得できないけど話も終わったから僕は寝るよ。また明日ね」
     一応明日と口にはするものの、本当にまた明日顔を合わせるかは分からない。お互い相手が同じ部屋にいる時は、休みの日が被らない限りは相手が寝ているか出掛けているからだった。
    「あぁ、おやすみ。…添い寝するか?」
    「平気だよ、ありがとう」
    「駄目だったら言ってくれ」
    「…遅刻するよ…」
     今では自分もすっかり使い慣れた彼の寝室に入るまで構われたが、その扉を閉めて丁重にお断りしたつもりだ。折角起こした相手が授業に遅れる自体は避けたいし、何より同居相手の男の世話を焼いている場合ではないと思う。
     どうにも薬研には弟扱いされているような感覚を覚える事が度々あるのだが、こちらも結構な頻度で彼を兄弟のように扱っている節があるので、おあいこだろうと脳内の済で片付ける燭台切だ。
     こちらも大概心配性の自覚はあるが、相手もきっとそうなのだろうと思っておく。そうではないと、他に構われる理由を探さなくてはいけない気がして。
     部屋に入って、先に遮光カーテンを引く。眠る時はやはり暗い方が落ち着くのは、朝に働いていても夜に働いていても変わらないのだろうと思う。
    もうすっかり彼の温もりもなくなったベッドへと入って横になった。ふわりと漂う、この部屋の持ち主の香りに眠気が戻ってくる。
    欠伸をひとつして、大人は目を閉じた。
    (………ん…?)
     しかし己の体に違和感があって、意識が落ちない。
    いつもならベッドに入って十秒程度で既に寝落ちしているくらいには、このベッドの魔力に負けているのだが、今日はそういかないようだ。
    原因は目を開けて確認しなくても分かる。
    (…最近してなかったから、かな)
     男性特有の生理現象だった。
    一定期間中に処理しなければ健康にも害をなすそれを、この部屋での生活が中心になってからは放置しがちだった燭台切である。
    そもそも睡眠時間の確保の方が死活問題で、それ以外をあまり重要視してこなかった訳だが。
    (眠気が勝って欲しい……)
     だが処理に行くのも面倒で、目を瞑ったままそれが治まるのを待つ。毎回すぐに治まると言えば治まるので、放っておいても大丈夫だろうと思えた。
     その十五分後。
    (…待って、全然治まらないんだけど…)
     思わず目を開けてから、布団の中を覗き込む。見て確認したが、やはり自分のそれは元気だった。何というか、近年稀に見る元気さだった。
     まるで学生に戻ったかのような既視感に辟易しかけるのは、自分の中でそういう行為の優先順位が今は低いからだろうか。まだこういった事に気を使っていたのは、交際相手がいた時だなと思い出す。
     この部屋にお世話になり始めてから半年、更にその半年前にはそれまで数ヶ月ほど付き合っていた女性がいた。
     あまり真剣に考えていなかったが、その頃から誰とも交際などの関係を持っていないとなると約一年、誰とも恋愛をしていない事になる。
    自分にしては、相手がいない期間の最長記録を更新していた。
    (今まで欲求不満になった事なんてなかったんだけどな…)
     言い方は悪いが、それは交際相手が長期間途絶えたことがなかったからだ。それは重々、自覚している。
     ただ、こんなにも己の身に著しく変化が出るとは考えもしなかった。
    「…う~ん…とても、寝たい…」
     ベッドから出たくないあまり、そんな独り言が口から漏れる。幸い十分は前に、この部屋の家主は出掛けたようだったが、しかし明らかに他人の持ち物であるこの部屋で、今この状態をどうこうしたくはない。
    しかし起き上がりたくもない。
     ひとりで云々と脳内だけで悩むこと数十秒。結果から言うが、さくっと処理した。
    処理してしまった手前、とてつもない罪悪感に襲われているが、それと同時にとてもすっきりしている自分を自覚してしまい、また更に居た堪れない。
    (藤四郎君、ごめん。本当にごめん…!君が帰ってくるまでにちゃんとシーツ全部変えておくから…!)
     心の中だけで全力の謝罪をすると、眠りにつく。
    彼の匂いの染み付いたシーツに包まれて、自分が性的に興奮してしまった事実については、見ないふりをした。

     仕事に行く前にベッドシーツや布団カバー、それに枕カバー等も全て洗濯機へ放り込んだ。それが回っている間に寝室の掃除をして、洗濯機が止まった所で今度は中身を全て乾燥機へ移す。
     今度は乾燥機が動いている間に、自分は食べない夕飯を作った。放っておくと野菜不足になりがちな相手に、サラダを山盛り用意しておく。今日はシーザーサラダにしておいた。
     ちなみに本日のメインはパエリアだ。フライパンに作っておいて、彼が食べる時にこのまま温めればいいだろうとふんで。
     料理を終えて自分の身支度が整った頃、乾燥機が止まっていた。洗濯も料理も薬研の部屋ではなく自分の部屋で全て終わらせたので、それらを805号室から804号室へと移してから職場へ向かった。
    勿論、ベッドメイクを終わらせた後に。

    ***

    「…鶴さん…どうしよう…」
     仕事終わりの職場で、ひとり頭を抱えながら隣に座った同僚へと声を掛ける。
    「なんだ、どうしたどうした? 今日も売上トップだったのに何が不安なんだ」
     締めのマティーニ、と言って営業時間が終わった後で鶴丸国永は必ず飲む酒を片手に、こちらの助けを半信半疑に茶化してきた。自分より何年か長く生きているから、という理由で主に彼へ相談しているのだが、真面目に相談しようとしているのが段々と馬鹿らしく思えてくる。そろそろ相談相手を変える頃かも知れない。
    「……いや、やっぱりやめようかな。伽羅ちゃんは? 今日はいる日だったよね」
    「おいおい、結局教えてくれないのか? 少し揶揄っただけだろう…どうしたんだ光坊。この鶴お兄さんに話してみろ」
     解決してみせよう、とは言わんが 面白がった笑顔で言われて、肩の力が抜ける。
    「ちなみに伽羅坊は今、酒の補充で食料庫だ。暫らく戻ってこないぜ」
    「そっか…じゃあ一時間近くは帰ってこないかな」
     彼は真面目だから、と続けて相談事に関しては触れないでおいた。
    「あぁ、だから遠慮なく俺に相談してみろ。な?」
     明らかにわくわくとした好奇の視線を送られて、また相談したくなくなる。しかし毎回、何だかんだ彼に相談してしまうのだ。前回も結局、この白い男の助言に従って行動したら上手く事が運んでしまったせいもあって。
    「うぅん……じゃあ話すけど、僕は真面目に相談したいんだからね」
     じとっと、酒の入ったグラスを傾けて煽っている相手を視線で威圧しつつ、念を押した。
    「たまには真剣に聞くさ俺だって」
    (話の内容にもよるが)
     頭の中だけで付け足して、今日もシャツ以外は真っ白な男は続きを促す。
    「実はね………いや、うん…やっぱりこれは話すべきなのか、そこからもう分からない…」
    「そんなに混乱してるのか? あぁ、さては同居人になった大学生君のことだろう」
     君はすぐ彼の事になると取り乱すからなぁ… ちびちびと酒を舐めながら、にやりと笑って相手を見た。さっそく巫山戯た此方を、燭台切はひとつしかない瞳の眼力で責め立ててくる。本気で怒らせそうな空気を察知して、鶴丸は黙った。
    相手に自分が余計な口を出さない、と示すために一旦両手を己の顔の横に挙げ降参すると、今度は口の前で指を交差させ×を作ってみせる。今から黙るというジェスチャーだ。
    「…あながち間違ってはいないから、全否定はしないけど…余計な発言は身を滅ぼすからね」
     眼が据わっている相手に真顔で言われて、普通に怖い。口は閉じたまま、数回頷いて暫らく黙っていることを誓う。自分自身の安全のために。
     はぁ…、と深い溜息を吐いて燭台切は諦めたようだ。やっと話し始める決意をしたらしく、ゆっくり口を開いた。
    「今まで…あまり友人宅に泊まった経験がないから余計に分からないんだけど、…友達のベッドで、その…発散する、というか…そういうのは、普通じゃない、よね……?」
     言いながら声が小さくなっていく男は、百九十近い身体もだんだんと小さく折り曲げてゆく。顔には明らかに口に出したことを後悔しています、と書かれていた。
    「はぁ…、すると、なんだ…君はその大学生の布団で抜いちまったってのか?」
     はっきり言ってしまった方が楽なものもあるだろう、と単刀直入に聞けば、相手は明らかに項垂れて、床へ向かって呻くように「うん」と小声で返事をしてくる。こんなにあっさり認められるとは思っていなくて、鶴丸は心底驚いた。
     妙なところで、やけに素直な男だというのは知っていたつもりだった。だが、こういった所謂下ネタの部類の会話で、彼が素直に白状するような場面に未だかつて遭遇したことがなかったのだ。今日この日、この瞬間まで。
    「はははっ!! 君も存外、普通の男なんだなぁ…!」
     相手が真剣だというのは重々承知の上だが、だからこそ素直に認めた燭台切のことが面白くて仕方なかった。
    「鶴さん!!!」
     責める口調で名を呼ばれるが、愉快で中々頭の切り替えが出来ない。すまんすまん、と笑いながら謝って、少しずつ笑いを身の内へ引っ込めていった。
    「笑って悪いが、俺は安心したのさ…。最近の君は至って健康で健全、それがどうにも引っ掛かってなぁ。いつも悪い女を引っ掛けては乗り換えて、ってしていた何時ぞやの君があまりに大人しいから何かあるんじゃないかと思えば」
    「あの頃のことは忘れて…」
     大人しく聞いていられなくなったらしい燭台切が口を挟む。しかしその言葉は流して、続けた。
    「真剣な恋なら俺としては大歓迎だぜ☆」
     望んでいないだろう応援を軽率にしてやったら、真顔になった彼がこちらを見つめてくる。
    「………は?」
     考えてもいなかった、と言いたげな声音だった。そこには、冗談はやめろ、という副音声も含まれているように鶴丸には聞こえたが、聞こえなかったふりをする。
    「だから~恋なんだろう? 久しぶりに本気の❤ 隠さなくてもいいじゃないか。この際だから素直に認めて献杯しようぜ!」
     誰かいないかー?酒を持ってきてくれ、一番高いやつな! 部屋の外へ向かって叫んで、祝杯の準備を始めた。まだこちらの発言にしっかりとした反論を出来ないまま、固まりかけている相手を尻目に。
    「…ちょ、待って、…は? 一体、何がどう聞いていたら…そういう結論に至れるの?」
    「うん? 逆に君はどうしてそう思わないんだ?」
    「質問に質問で返さないでくれないかな?!」
     叫ぶようにツッコミで返してくる彼は、明らかに動揺している。正直、この反応が面白いのでもう少し弄り倒したいところだが、この余裕のなさを見るに引き続き揶揄った場合は自分の命が削られる予想しか出来ない。
     己の身が可愛いので、勿体ないがこれ以上はやめておこう。と鶴丸は内心だけで残念がった。それはもう心底。
    「…それじゃあ真剣に答えるが…、君はその大学生と一緒にいる時、何を考えている? 俺たち店の仲間に対して持つような友情と少し質が違うんじゃないのか」
    「質っていうと…?」
     ぴんと来ないようで、黒い男は首を傾げた。
    「そうだな…例えばだが、俺とこうして会話をしていても普通なら主に会話に重きを置いているだろう。それが彼といる時には別のことも特に気になるんじゃないか? 例えば相手の表情や仕草なんかに、気付けば自分が過剰反応したりしているだとか」
    「ううん…そうかなぁ…」
     言われた事を唸りながら考え始める。己の記憶を探っているようだが、こういう事は自覚がなければないほど気付きにくいものかも知れなかった。
    「あとは、その相手の事を考えている時間の長さだな。何をしていても何処にいても、好いた相手のことは他の誰よりも一番、考えてしまうものだからなぁ。単純に一番てっとり早く分かりやすいのはこれだと思うが…」
     思い当たる節は? 言い終わって相手へ視線を投げると、前屈みに座った状態で手を組み真顔になっていたはずの燭台切は、ゆっくりとした動きで顔を覆ってソファの背凭れへその身を投げていった。やっと気付きましたと言っているような有様だ。大変分かりやすい。
    「…光坊…君のような伊達男にこんな事は聞きたくないんだが…本当に今の今まで自覚がなかったのか」
    「お願い…今はやめてくれ」
    「まじかー…」
     苦笑しながら、グラスの中に残っていたマティーニを煽る。「いや、でも、」と正面に座ってぶつぶつと己の心と向き合って足掻いている男を横目で見て、また笑ってしまう。往生際は悪いようだ。
    「なぁ、じゃあこれは気付いていたのかい? 最近君の口から出る単語に毎日[藤四郎君]って必ず入ってる件は」
     日々積み重ねられてきた情報を、とどめに告げてみる。明白に顔を覆っている男が、びくっと体を揺らした。一々、過剰反応で面白い。
    「…そっ、そんな事なかった、だろう…?」
     動揺が隠せず、声が裏返ったことをきっと本人も自覚しているだろう。相変わらず顔を両手で覆っているのが、その証拠と言っても過言ではないと思う。
    「まぁまぁ、そんなに否定せんでも俺は別に責めている訳ではないぜ。昨今のこの国じゃ、同性婚も認められ始めているじゃあないか。何を恥じることがあるっていうんだ」
     にやにやとしながら、更に軽口を続けた。こんなに正面から相手をおちょくる機会はそう滅多にないので、つい口から言葉が滑り落ちてゆく。
    「…いや、恥じる…とかはない、けど…。普通戸惑うだろう、突然好きかも知れない相手が同性とか。どうして鶴さんがそういう方向で平然と話を進めてくるのか、僕には理解出来ないんだけど、正直なところ」
     今までそんな気配があったこともなかったし、と続けてくる黒い男の膝をぽんと叩いた。
    「諦めろ光坊。…食の好みが変わるのと同じで、ある日突然自分の嗜好が変わることも、そう可笑しな話ではないだろう。それに何よりこの方が面白いからな! このまま同居人君を口説き落として更に俺を楽しませてくれ」
    「本音はそこなんだね…」
     もう怒る気力はないらしい燭台切から、大きな溜め息混じりな返事が返ってくる。顔を隠すのはやめて、彼は背凭れに頭を預け、脱力していた。こんなにだらしない姿を見せるのは、泥酔していない時分には珍しい。
    「冗談はさておき、そういう可能性もあるっていう話さ。この先は自分で見て感じて考えるほかないからなぁ、俺の出来る助言はここまでだ」
    「……うん。もう少し様子を見て考えてみるよ」
    「そうしてくれ。一先ず今夜は飲もうぜ、ぱーっと!」
     君の奢りでな! と言えば相手は苦笑した。奢りなのは店一番の売上を出している身としては、わりと毎度の事なのでもう彼自身に抵抗はないようだ。
    「一番高いシャンパンを開けよう」
     一度やってみたかった提案をすると、燭台切の顔色が変わる。
    「待って、…それって社長の秘蔵のやつじゃない、よね…?」
     誰も触れようとしないフランスの高級シャンパンが、この店には飾られていた。一瞬でそこに思い至って、彼は確認してきたのだった。
    「………」
     無言のまま笑顔を作ると、一目散に部屋から出てゆく。高級シャンパンまでその距離、約十三メートルを走り抜けた。


    ..................................................................................
     4


     意識が浮上した、と分かった瞬間に猛烈な頭痛に襲われる。次いで思い出すのは、昨夜同僚にのせられて飲み明かしてしまったことだった。
     勝手に社長の秘蔵のシャンパン時価何十万を開け、それの支払いを人に押し付けて、酒を楽しみ始めてしまった男に付き合って自分もそれを飲み(同じ支払うなら僕も飲んでやると自棄を起こした)続けて他の仕事では飲めないような酒も出して、また別の同僚を誘い、帰宅出来る程度に泥酔して、家の玄関に入った所までは何となく記憶がある。かろうじて。
     それから部屋の主にただいまのハグをしたような…気がした。つい昨日、この男が好きかもしれない疑惑が持ち上がったこのタイミングで、まさか自分がそんな事をしているだなんて到底信じられなく、きっと妄想の筈だと頭を振る。
    「…っい、たぁ…!! ぐっ…なんたる…」
     強烈な頭痛に再度襲われて、頭を振ったのを後悔した。こんなに酒に弱かったつもりはないのだが、一年以上仕事以外で飲むことはしなかったせいか、弱くなってしまったのかも知れない。
     がんがんと脳内で鳴り響く不快な音に、頭を抱えながら起き上がる。脱いだ覚えはないのだが、捲れた布団の隙間から自分の足が見えた。下着は履いているのに、少し安心する。しかし着ていたスーツは何処に消えたのだろう、と部屋を見回してから隣に人が寝ていたのに気付いた。
    「やっと起きたか…水、いるか?」
     まだ殆んど目が開かない状態のまま、声だけで相手が薬研だと分かる。そもそもこの部屋に、自分の他には彼以外がいた試しもないので選択肢は限られている訳だが。
    「おはよう藤四郎君…色々、ごめんね…」
     帰宅後の記憶が朧ろげで、自分が何をしでかしてしまったのかも思い出せないのだが、多分迷惑を掛けただろうと先に謝った。そして差し出された水のペットボトルを受け取ろうと手を差し出して、掌にしっかり握れるように手渡される。あまり見えていないのが知られている、とそうされてから分かってしまい更に申し訳ない気持ちになった。のだが、如何せんまだ目蓋すら、よく開きそうにない。
    「…何処まで覚えてての謝罪なんだ? それは」
    「えっ?」
     存外、責めるような声で問われて、戸惑った。ほぼ記憶にございません、と言っていい雰囲気なのかも分からないのだが、ここは正直に話して何があったのか相手から聞くべき所だと思う。それが正解なのかは、ともかくとして。
    「ごめん…何をしたのか分からないんだけど」
     何か気に障る事でも…、と驚いた反動でやっと開いた瞳で彼を見れば、寝巻きにしている大きめのTシャツの襟首から所々赤く色付いた皮膚が見えた。虫刺されのようにも見えるそれは、しかし虫に刺されて出来た訳ではないとすぐに察しがつくというものだ。
    「…えぇ!? もしかして…藤四郎君、彼女できたの!?! 僕が邪魔しちゃったかい…言わずもがな…」
     二日酔いも覚めるほど、頭から血の気が引いてゆく。思わず口元を押さえたのは、罪悪感からだった。自分で口に出した話が事実なら、とても取り返しがつかない事をしたのではと思えてならなくて。
    「………はぁ―――…。…そうか、そうくるか…」
     深く長い溜息を吐いて、薬研は横になったまま曲げた自身の腕に頭を乗せた。それから、ゆっくりと上目遣いでこちらを見つめてくる。その紫紺の瞳には鋭さがあって、痛いかも知れない腹を探られているような、落ち着かない気持ちになった。
    「まぁ、…俺としても恋人なら良かったんだがなぁ…」
     じとっ、とした視線で続けられて、こちらは妙な汗をかく。それから相手の言葉の意味を、どう受け取ったらいいのか考えた。この言い草から、自分が悪いのは確かだろう。こんな恨めしささえ感じさせるような表情をされている、という事は。
    「もしかしなくても………それ、僕が、やったの…?」
     聞きながらまた青褪める。青褪めて、しかし動揺から耳が熱くなるのも感じた。嘘だろ、と思いながら否定して欲しい気持ちで彼を見つめ返す。
    「……」
     無言のまま、にかっと薬研が笑ったのに、自分の両手で顔を覆った。蚊の鳴くような声で「ほんと…ごめんね…」と言うのが精一杯である。
     昨日からずっと、何処にいてもこんな調子で困ったものだ。相手が誰でも動揺させられることが多いだとか、心臓に悪すぎる。穴があったら入りたい、しか考えられなかった。
    「流石に、男に襲われたのは初めてでびびったぜ」
    「…すみませんでした…!」
     ベッドへ倒れ込んで、自分がどんなテンションでそんなことをしたのか知りたくもあり、全くもって知りたくはないとも思う。
    「まぁ、まぁ。そんなに落ち込まんでも…悪い気はしなかったし、良いんじゃねぇか? たまに酒で失敗しても」
    「……それ絶対に褒め言葉じゃないし、フォローでもないじゃないか…」
     自分が悪いのは分かるが、恨めしい言い方になってしまった。
     ペットボトルをベッド上へ転がしてから、水が飲みたかったのを思い出す。しかし、とても水が飲めるような状態ではなかった。主に理性がぐずぐずだった昨夜の自分が、情けなくて。
    「…すまんな。あんたが本気で覚えてなさそうで、つい意地の悪い真似をしたくなった」
     そっと頭を撫でられて、肩が揺れる。寝起きのせいか、優しい声には甘さも混じっているようで、自分の心の内がざわざわとさせられた。
     だからどうして、こんな恋愛的要素を含ませたような雰囲気をこちらに向けてくるのかが分からない。好きな女の子にやりなさい、と心底思う訳だがそんな小言を言える状況でもないのに、震える事しか出来ない燭台切である。若いって、こわい。いや、若さは関係なく、怖いのはこの青年だけかも知れない。
     普段なら、他人に口説かれても口説き返すくらいは反射で出来る所だが、二日酔いの寝起きにそんな余裕はなかった。
    「君の方がホストに向いている気がしてきたんだけど…」
     就職先が決まらなかったら、うちにおいでよ そんな軽口を叩いて、今の言葉を受け流すくらいしか思い付く手はない。相変わらず合わせる顔はないという気持ちのままだが、そっと目元だけ覆った手を下げて、相手を見た。
     合わせる顔はないと思うものの正直今、薬研がどんな顔をしているのか興味があったのだ。声と同じように、表情まで甘くなっていたりするのだろうか、と。まるで好きな子を口説くように。
    「旦那の誘いなら断りにくいな」
     ふっと気を抜いたように微笑んで、ひとの髪の毛を指先に絡めて遊んでいる年下の男に、心臓を鷲掴まれて後悔した。一日の中で一番油断している時間帯に、不意打ちで見ていいものではなかったからだ。
     こんな顔を見てしまえば、否が応でも自覚させられてしまう。
     彼に恋へ落とされたのだ、と。
    「…冗談だから、本気にしないでくれ…」
     首や、耳が熱い。全身が急に熱を持って、訴えてくる事実から気が逸らせなかった。取り繕って笑いたいのに、そんな仕事で鍛えられた仕草さえ、今の自分には自然に出来やしない。
     まさか本当に恋をしたのかと、我ながら自分が信じられないのもあった。こんなにも、他人に心を震わせた経験が今までに一度でもあっただろうか、とそんな気にさえなる。多分、あったはずなのだが、急に思い出せない。ただ、不意に記憶が蘇らない、それだけだと思う、思いたい。どうか、そうであってくれと。
    「うん? どうかしたか…?」
     祈るような気持ちで、うつ伏せになると顔を隠す。それにどんな意味があるのか、薬研には分からないだろう。だからこちらにどんな心の機微があって、こんな行動を取っているのか理解出来ないのだと分かった。そもそも、全て知られていても怖いだけだが。
     今はそれが救いなようで、鈍い彼がひどい男のようにも思える。こんな風に考えるのは、明らかに可笑しいと解っていながら。
    「………なんでもない、です」
    「なんで敬語?」
     くすくす笑う、楽しそうな声が隣から聞こえる。どうして今日に限って、こんなに機嫌が良さそうなのか。相手の言動のひとつひとつが、一々こちらの心臓に悪い。
    「なんだか、機嫌がいいね?」
     自分の状態だとかを誤魔化すために、話題を逸らす。それと彼に何か良い事があったのなら、その話も聞いてみたかったのだ。
    「あぁ、…ちょっとな」
     シーツに顔を埋めたままのこちらへ、掛布団をかけ直しながら青年は曖昧な返事をする。
    「? 教えてくれないの?」
     ちらり、と彼を見るがまた笑みを深くするだけで、何も教えてくれる気配はない。
    「その内、気が向いたら話す、多分」
    「…あまり期待は出来そうにないな、それ」
     苦笑して、やっと顔の熱が引いてきたのに安心した。このままもう、普通の顔ができなくなったらどうしようかと思っていたのだ。そこまで重症だったなら、今すぐこの家から出て行くべきだと。
    「あんた次第だが、…まぁ、気長に待っててくれ」
     意味深な言葉の裏は読めそうにないが、まだもう少しこの部屋で暮らしたいなと考えていた。

    ***

     彼が目覚める七時間前。
     玄関の外からよく通る声が聞こえた。そうかと思えば玄関ドアの前で何やら物音がする。鍵を入れようとしているのに入らない、まるでそんな様子に間借り人が帰宅したのだろうと判断してそれを開いた。
    「…おかえり…?」
     相手を確認すると、考えていた通りの男がいて、しかしいつもと様子が違うのに思わず首を傾げた。
     そんなこちらとは対照的に、目の前にぼんやりした顔で立っていた男はゆるんだ表情で笑う。破顔する、というのはこういう事を言うのだろうか。
    「とうしろうくん~~~ただいま!」
     おぼつかない足取りで近付いてくる燭台切は、距離感を誤ったのかこちらへ体当たりするような勢いで倒れてくる。それを「おっと」と受け止めて、苦笑した。
    「珍しいな…酔って帰ってくるなんてのは。今日は何があったんだ? 光忠さん」
     背中をぽんぽんと軽く叩いて、まるで子供をあやしているかのような気持ちになる。たまにこの年上の男は、弟のような顔をして甘えてくるので、少し困っていた。そんな風に接せられるのに、抵抗がほとんどない自分自身にも。
    「うぅん…つる、じゃない、同僚、が…しゃちょうのお酒開けちゃって…ぼくも一緒におこられそう、だったから、やけ酒、してきた…ついでに」
     呂律が回っているか怪しい口調で、彼はごにょごにょと答える。なかば縋るように抱きついてくる態勢で、今にも寝落ちてしまいそうな気配があった。
     彼の眠りが浅い夜に、よくこうして抱きつかれているから知っているのだ、燭台切の眠りにつく瞬間を。ついこの前の夜にも、似たような状態でこの男を寝かしつけていたのだが、きっと本人は覚えていないだろう。
    「そうか、それは楽しそうだったな~じゃあ、一先ずベッド行こうぜ」
     まだ相手が歩けそうな内に移動させてしまおう、そう考えているせいで会話が雑になる。きっと明日には忘れているだろうとも思っているので余計だ。
    「え~…まだ飲めるよ、ぼく…とうしろうくんとも、飲みたい…な……」
     そう言いながら、すや…と寝息が聞こえ始めようとしている。おやすみ三秒、という気絶に近い眠り方をされそうで少しだけ焦った。
    「旦那、旦那…まだ意識を失わないでくれ。流石にあんたを俺ひとりで運べるかは、微妙なところだぜ」
     こちらの肩口に埋めている横顔を、ぺちぺちと叩いて起こそうとするが、効果はいまひとつである。こんな時に一瞬で起きてくれるような、そんな効果のある手があればいいのだが。
    または、この大人が気絶しても余裕で運べるような筋力が今すぐ自分の腕に実装されれば、問題は根刮ぎ解決されるのだが。あまりに現実味のない考えなので、すぐに想像するのすら、やめた。
    「…うぅ…ん……あと、ごふん…」
    「あと五分起きててくれな、頼むから」
     聞こえているかは分からないが、起こすためにも声をかける。半分引き摺るように相手を抱えつつ歩けば、こちらの動きに釣られるのか、相手の足も何とか動いた。そのままリビングを横切って、なるべく早足で寝室まで移動させると、もう後はベッドに寝かせるだけだ。
     無事にベッドへたどり着いて、そこへ何とか座らせた。
    「よっこいしょおぉ…よし、上着脱がせるぜ」
     濃い紺のスーツの上着を剥ぎ取ると、彼用のハンガーに掛けて今度は当然のようにスラックスを剥ぎ取る。皺になると気になってクリーニングに出しちゃうんだよね、といつか言っていた事を思い出したからだ。クリーニング代も馬鹿にならないから気を付けてはいるんだけどね、と続けて言っていたことも。
     しかしそれを主に考えて脱がしてから、シャツの下から太腿へ巻かれているベルトへ伸びるバンド…のようなものが現れて驚いた。シャツが上がらないようにする装置、のようなもののようだが如何せん見た目がいかがわしい。
    「…助平すぎやしないか、これ…」
     無意識下で、声に出しているくらいの衝撃だった。筋肉でむちむちしている太腿にベルトを巻く、それは異性の間で復旧しているガーターベルトによく似ているせいか、同性が装着してもスタイルのいい男がすると凶器になるのだなという事が分かった。少なくとも、自分には効果があった、思わず生唾を飲むくらいに。恐ろしいことだ。
     とてつもなく見てはいけないものを見た気がして、さっさとネクタイも奪い取ると、掛け布団の中に相手の姿を隠す。燭台切は、もうほとんど目も開けられない状態のようで、先程からぴくりとも動く気配がない。このまま朝まで大人しく眠っていてくれるだろう、そう思って後頭部を掻く。
    「はぁ……別に嫌いではないと思っちゃいたが…」
     まさか男もいける口なのか…? そう自分への独り言を零しそうになって、何とか口を噤む。
     今まで己の趣向はノーマルな方だと思って生きてきたのだが、この男に出会ってからどうにも様子が可笑しい。元々、自分に面食いのきらいはあったが、顔が好みなら同性でも抱ける、などと少なくとも考えたことはなかった。この大人に出会うまでは。
    「ん……ぅ、…ん…」
     寝苦しそうな吐息すら、今の薬研には性的にしか聞こえない。危ない、と思ってそっと部屋を出た。具体的に何が危ないのかは、今この時に考えてはいけない気がする。
    (…あ、つい移動させるの優先しちまったが、水を飲ませるべきだったか…? 一応、持って戻っておくかな)
     ふぅ…、と深い息を吐いて気持ちを落ち着かせようと心掛けた。普段なら隙のない相手に、ここまで心を乱されることはないので、余計に動揺させられているのかも知れない。
     冷蔵庫から水のペットボトルを二本取り出して、片方を開ける。そのまま、その中身を口へ運んで頭を冷す。本当は直接、頭から水でも被った方がいいのかも知れないが、同居人が帰ってくる数十分前に風呂から出たばかりで、そんな気も起きなかった。
     体内から少し冷えたところで、もう一度深い溜め息を吐いて呼吸を整える。精神が乱れた時は、呼吸から整える。そう教わったのは、いつの頃だっただろう。
     数分して、いくらか落ち着いただろうと寝室へ戻った。当然、相手は寝ているものだと信じていたからだ。その期待は、部屋に入った途端に裏切られた訳だが。
    「とうしろぉくん~…どこ、行ってたの~? さがしたんだよぉ…」
     明らかにうとうとした顔でそんな文句を言われるが、そんな状態で人が探せるものなのだろうか。疑問だ。
    「あ~…悪いな、水を取りにいってた。飲むかい?」
     念のため謝罪して、ペットボトルをその熱そうな頬にあてる。つめたい、と言われたが非難されている訳ではなく、気持ち良さそうに目を細めて、相手は笑う。とても年上には見えない無防備さだった。
    「…うぅん……のませて…」
    「…………」
     何を言われたのかは分かったが、分かったからこそ体が固まる。一瞬で。
     この男は、酔うと誰に対してもこうなのだろうか…と思わず疑ってしまう。こういう事は彼女にでもやってくれないかと考えるが、そんな相手がいないというのは半同棲生活が開始してから知っているので、思うだけ無駄だった。
     酔っ払いの言うことだ、と頭痛のしそうな頭を一度振ってからペットボトルを開ける。それをベッドサイドに一旦置いて、相手の上半身だけ起こさせると口元にそれを運んだ。こちらが無心でいれば、難なく済む筈だ、今夜における色々な事が。
    「旦那…飲むか寝るか、どっちかにしてくれ」
     こく、と一口二口飲んだかと思えば、すやりと寝息を立てそうになっている。赤子か、とそんな感想が出るが、あまりに今とっている行動が幼児退行じみているものだから、こう思っても仕方ないだろう。
    「ほら、どうするんだ?」
     ぺちぺちとまた頬を叩いて、相手に質問する。むにゃむにゃと口を動かして、彼は瞳を開けた。とろけるような蜂蜜色に、直視したのは失敗だったと目を逸らす。
     潤んだ瞳に今は特に想像してはいけないものが、脳裏を過ぎりかけたからだ。
    「…飲むのか? 水」
     こんな時、兄弟相手にはどう対応していただろうかと考える。が、酒をよく飲むのは一番上の兄だけで、酔って帰ってきても彼はすぐに自室へ入って寝てしまうことが多いから、こんな風に手は掛からないのだ、滅多に。または自分が、そんな手の掛かる兄に遭遇していないだけか。
     大学内の友人たちに関しては、酔い潰れてもその辺に転がしておくだけで済むので、何の参考にもならない。相手がこちらに好意を持っているような女子なら、一夜の過ち…という展開も起こりうる事もあるのだが、この男とそんな関係を持つには親しくなりすぎた。
     かと言って、親しくなければ関係を持つ訳ではない、はずだ、多分。如何せん、現状に参っていた。
    「もう、いいやぁ…」
     間延びした返事をしつつ、こちらに抱きついてくるので、身動きが取れなくなる前にボトルの蓋を閉める。この予測不能な行動をする酔っぱらいがいるベッドの上に、水を零してしまったなら、今より更に大変な予感がするからだ。
    「じゃあ、もう寝ようぜ。そろそろ眠い、だろ…?」
     言い聞かせながらベッドサイドへ水を置いたところで、首筋に、ふにっとした感触があった。ちょうど、唇を押し付けられたような、そんな柔らかさで己の動きがまた、一瞬で止まる。そのせいで不自然に言葉も切れた。
    「…旦那…?」
    「とうしろうくんって…いい匂い、するよねぇ…」
     ふにゃふにゃした低い声音は、甘えているようにしか聞こえない。しかしそんな魅惑的な声で、ひとの首筋を吸うのは流石にどうかしているんじゃないのか。酔っ払いにそんな事を言っても理解してもらえるかは微妙なところだろうが、突然同性に、おそらく性的な意味のある接触をされているこちらの身にもなって欲しいというものだ。
    「なぁ…どうして俺は今、首筋を舐められてるんだ?」
     まともな返答を期待している訳ではないが、念のため聞いた。動揺しているせいもあるが、今こんな事をしている彼が何を考えているのか知りたかったからだ。
    「うん~…おいしいから…?」
     半疑問系で返されても、こちらは困る。しかしそんな事はお構いなしに相手は、くんくん、と皮膚に接触したまま鼻を動かすので妙に擽ったい。
    何かを思い出すなと、ふと真顔になる薬研である。
    美形な人間にされているのであまりこうは思わなかったが、段々と大型犬に絡まれているような気分になってきた。今なら顔を舐められても軽く受け流せそうである。流せそうなだけで、実際は分からないのだが。
    「……でも、こういう事は俺以外にやった方がいいんじゃないか、光忠さん」
     相手が少しでも正気に戻ればと名前を呼んでみるが、今度は鎖骨下の皮膚を吸われていた。明日にも残りそうな気配がするそれに、この男はどんな顔をするのだろうか。少し考えようとするが、明日のことより今現在が気になって気もそぞろだ。
    つまり、何も考えられなかった。
    「ぅん…とうしろう、くんが、…いいから、だいじょうぶ」
     質の悪い大人だな、と天井を見つめながら思う。こんな期待をさせるような台詞を吐いておいて、自分は素面ではないときた。仮に今、襲われ返されても文句など言えない状況だろうに、そんな危機感もない。
     無理矢理、大型犬に舐められているのだと自分に言い聞かせようとしていたのだが、やはりそれには無理がある。せめて酒臭いだけなら良かったのだが、彼がいつも付けている香水がほのかに香ってくるのが、いけない。
    しかもその香りがどこからくるのか、知っているので余計だ。彼はいつも付け過ぎず匂いをきつく感じないようにと、太腿に香水を振り掛けていると言っていた。そんな過情報まで思い出してしまい、大変きつい。主に理性が。
     万が一にもこの大人が獣臭い所など想像もできないが、そんな匂いがしたなら、こんなにも理性を乱される事もなかったかも知れないと考える。やや天井を睨みつつ。
     四回目か五回目か、明らかにまた鬱血痕を付けられた時に口を開いた。
    「…なぁ、あんたはこんな無防備に俺に絡んでくるが…、襲われてもいいのか」
     こちらの薄い胸板の上に、相変わらず柔らかい感触が触れている。至近距離すぎてよく見えないのだが、覆い被さってきている男の頭はゆっくりと揺れているように見えた。
    「…………」
     返事に悩んでいそうな気配はないが、口を開く気配も感じられない。そんな相手の髪の毛を指先に絡めて、少しだけ弄んだ。燭台切の出方によっては、今夜はただで済ませられそうにない気がしている薬研である。
     平たく言うと、柔らかい筋肉質な身体の持ち主に抱きつかれてムラムラしていた。
     共同生活の中でひとりになる時間はあるが、そうそう毎度都合よく性欲処理が出来る訳ではない。今現在、恋人という存在もいないので余計かと思えた。そうは言っても淡白な方なので、そう困ったという場面に今まで直面せず、今日まできてしまった訳だが。
     密着してきている大人の色気に当てられた、などでは多分ないと言いたいところであるが、間違いなくそうだ、とはとても思えない有様だ。今にも元気になりそうな、己の下半身は。
    「旦那…あまり待たされるのは得意じゃないんだが、」
     言葉に詰まっているにしても、限度があるだろうと肩を揺するが反応はない。なさすぎるくらいのそれに、怪訝に思いながらも相手を押し倒して体勢を逆転させた。
     予想通り、燭台切は健やかな寝息を立てて眠っている。寝顔は天使のように可愛らしい、というのは知っていたが今夜も実に文字通りのそれだった。
     思わず、がっかりした。こんなにも残念な気持ちになったのは、初めて抱いた女の子が自分の兄弟とも以前、関係を持っていたのを知った時以来だ、と最低なことまで思い出してしまう。我ながら、そんな事を思っただなんて最悪だ。しかし間違いなくこの思い出自体も最低ではあった。
    「……こうなるだろうと思っちゃいたが…今か、今なのか…」
     もう少し何かこう…あるだろう普通 と、恨み言を述べて相手を布団に入れると自分もその中に入る。寝ている所を襲えるほど、どう思われても良い相手なら添い寝だなんて選択はしなかっただろう。
     こんな風に考えるくらいには、この男との微妙な関係を維持したいと思っている自分がいた。これが世間一般に言う「恋」というものなのかは、微妙に分からないのだが、正直、肉欲は感じずにいられなかった。
    それだけは否定できないくらい、確信を持って言える。最低なことに。

     そんな風に思いつつしかし眠った訳だが、無防備に寝ている所を何度か相手に抱きつかれ、その上でひとの身体に悪戯するような手つきで触れてくる大人にまた性感を煽られて、眠るのを諦めた所で腹を括った。
     意識し始めた動機は不純だが、こんな無意識下でも誘ってくるような大人に手を出さないまま、この生活を維持してゆくのはどう考えても無理がある。しかしだからと言って、この半同棲生活を今になってやめる気もない。それならもう、いっそ恋仲になってしまえば良いのではないかと考えを改めた。至って単純明快に。
     元々この男のことは嫌いではないし、一緒に生活してゆくのがお互いにストレスになっていそうな気配もない。全く喧嘩にならないという事はないが、そういう事は誰と暮らしても付いて回るものだろう。ただ現在進行形でシーツに埋まった人の身体をまさぐってくる彼の掌には、少々困ってはいるが、襲い返して良いのなら、むしろ悪くはない状況に思える薬研だ。
     数時間前まで同性に興味があるのかと悩んでみたものの、今ではこの男を喘がせてみたら楽しいのではないか、という発想に変わっていた。良くも悪くも、機転が利くのかも知れない。
    (…うん……、顔は好みだし、性格も好ましい。そうなったら…とりあえず、口説いてみるか)
     擦り寄ってくる美丈夫の寝顔をじっと見つめながら、決意した。これで駄目になるような関係なら、諦めもつくというものだ。
     思考の自己完結をすると、とてもすっきりした気持ちになった。今なら腰や尻を撫でられているのも、多少気にならないくらいである。ただこちらだけ一方的に触れられているというのも納得はいかないので、相手の肉付きのいい尻を揉みながら目を瞑る。
     揉みごたえのある自分好みなその尻のお陰か、翌朝とてもよい気分で目覚めた事を、燭台切だけ知らないのであった。
     そしてその上機嫌さで、本格的に彼を口説き始めることも。
    #再録 #薬燭 #現パロ #ホストと医学生
    3 


     最初は時計、次にオーダーメイドのスーツ、そして最後は駄目押しの香水だった。
     ただ何を差し出しても、彼には却下された。そんな高そうなもんは受け取れねぇ、という言葉付きで返されて。
     特に三度目には、また似たような事をしたら出禁にすると念まで押されてしまった。正直、僕には打つ手なしだ。こんなにも誰かに、贈り物をしたいと思ったのは初めてだったのに。
    「…ねぇ、本当に何も受け取ってくれないのかい?」
     朝方やっと眠りにつく僕と、何もなければ日付が変わる前には眠る彼とで睡眠時間帯の噛み合わない僕らは、こちらの休日以外では会話をする事が難しい。そんな状況なので今日は眠る時間をずらして、朝から彼に質問した。
    「んー…? 何の話だ、旦那…」
     一応返事を返しながら、しかしまだベッドへと沈んでいる相手は、また意識も沈んでいってしまいそうだ。すや、と寝息が上がりそうになる前に、朝ご飯作ったよと、もう一度声を掛ける。
    「…あと五分…」
    「藤四郎君の好きなしじみのお味噌汁にあおさ沢山入れたんだけどな…」
     起きてくれるように彼の好物も用意したのだが、その単語を聞き数秒してから、相手は上体だけ起こした。
    「………起きた」
     両目は閉じられたままだったが、はっきりそう言って後頭部を片手で掻く。それから一度、気の抜けたような欠伸をして目を擦る。起きるまでに時間のかかる日によく見受ける仕草だった。
    「じゃあ、リビングで待ってるね」
     またベッドへ戻らなそうな様子を確認してから、寝室を出た。
     すっかりこの部屋の台所まで燭台切は使い慣れてしまったが、お互いの関係性を思うと少し複雑な心境ではある。今はまだ彼にも自分にも恋人などの気配はないが、いつ相手が出来てもおかしくはないと思う。
    (そうなったら、…僕が持ち込んだものとか相手に勘違いさせそう、かな)
     元々この部屋にはなかった調理器具が、今や収納の至る所でその存在を主張していた。特に独身男性の一人暮らしにしては多いと思われる、調味料の種類の豊富さなども危惧されるポイントのひとつに見える。持ち込んだ本人としては。
     そもそも昔付き合っていた彼女に、指摘された事があるものでもあるので、女性目線を気にすると余計気になるというか。そんな目線を気にするという所に自分の職業病を多少なりとも感じるが、今更どうにかする気もなかった。
    「朝から悪いな」
     茶碗にご飯をよそって、隣に味噌汁を用意した所で着替えた家主がリビングへと顔を出す。美味そうだ、と感想を言ってから先に顔を洗いに洗面所へと向かう。
     その間に焼いておいた塩鮭を皿に盛って、納豆を開け小鉢に盛った。昨日準備しておいた浅漬けも同じく皿に盛っていく。白菜とセロリと大根と人参の入った浅漬けは、彩りが良く出来た。
    他にも生卵を用意しようかと思いつつ、しかし既にテーブルの上が埋まっているのを確認して冷蔵庫を閉じる事にする。そのタイミングで薬研がリビングへ戻ってきた。
    「おはようさん、今日は何かあんのか?」
     やっと目が覚めたらしい彼に挨拶をされる。
    「おはよう。うん、今まで色々お世話になってるからね…その事について、ちょっと話をしておきたくて」
     彼と向かいの椅子に座って、自分にも用意しておいた味噌汁に手を合わせた。いただきます、と同時に言って箸を手に取る。
    「…明らかに世話をされてるのは、俺の方だと思うんだが」
     あおさの沢山入った味噌汁は、磯の香りがして海を連想させる気がした。その海藻の下にしじみが隠れているので、余計そう思うのかも知れない。
    「そうでもないよ。僕はある意味、部屋を間借りしている身だからね」
     朝からご飯をもりもり口に運んでいる大学生を微笑ましく見ながら、少しずつ味噌汁を飲む。これから眠りにつく自分にとっては、この一杯の味噌汁のカロリーも気になる所だが、精神的に一人で食べる食事よりは数倍いい気がした。
    「それで? 寝起きに言ってたのは何だったんだ」
     思い出したらしい彼が、浅漬を小気味よい音を立て噛む合間に聞いてくる。
    「…僕の作ったご飯は食べてくれるけど、藤四郎君ってそれ以外はあまり受け取ってくれないだろう? そんなに何かを受け取るのに抵抗があるのかなって思って」
    「あぁ、その話か…」
     白米を頬張り味噌汁を飲んでから、彼は持ったままの箸で室内の隅を指し示す。
    「行儀悪いよ」
     苦笑交じりに指摘したら、素直にすまんと謝られた。が、その姿勢のまま「そこに見えるだろう」と彼は口を開いて続ける。そちらに視線を向けると、布団用のダニ捕り掃除機があった。
     自分が寝て起きてから、ソファの掃除をしようと燭台切が持ち込んだものである。
    「…俺の記憶が正しければ、あんたがほぼ此処に転がり込んでから買ったものだったよな、あれ」
    「えっ…、あぁ、…うん? そうだった、かなぁ」
     微妙に動揺しながら返事をした。
    何も誤魔化せないのは分かっているのに、味噌汁に口を付けゆっくり咀嚼している内に、彼が話し出すであろう話題が逸れてくれないかなと既に考えている。何を言われるのか、大体の予想が付いてしまって。
    「他にも色々…何だっけか、エスプレッソ? が飲めるコーヒーメーカーとか…思い当たる節があるだろう」
    「………」
     口元だけで笑顔を作って、返事を考えた。作ったお味噌汁が成功したのしか、今の自分に考える力が残っていなくて絶望する。
    「いや、…でもお世話になっている部屋を掃除するのは当然だよね!? 偶々欲しい機械を持っていなかったから買ったのをここで使ってるだけだよ、本当に」
     咄嗟に思い付いた言い訳を口から出したが、理由としてはそんなに悪くない気がした。
     しかし相手は微妙に怪訝な視線を送ってきていて、とても誤魔化されてくれる様子ではない。納豆を箸で掻き混ぜながら、へぇ、と信用していないと言いたげな声音で相槌を打っている。そこに醤油を入れてまた軽く混ぜたものを彼は自分の茶碗の中、半分ほど残っていた白米の上へ乗せて、大きくはない口を大きく開けて食べ始めた。
    いつ見ても豪快な食いっぷりである。食欲旺盛な高校生男子でも見ているような気持ちになる大人だ。
    「…とにかく俺としては、…あんたがこの家に来てから、前より明らかに快適になったのが気になる…から、他の物は受け取れん。…と、そう言いたかった」
     納豆とご飯を口にいれ咀嚼すると言葉を紡ぐので、薬研がもぐもぐと忙しなく口を動かしている間は無言になるのだが、全部聞き終わるまで口を挟む事はしなかった。
     それに彼の言わんとしたい事を考えると、下手な事を言って此方に不利になりそうな話題なので口を閉ざしているのが一番かと思える。少なくとも、部屋を間借りしている身としては。
    「褒め言葉として受け取っておこうかな」
     それだけ言うと空にしたお椀と箸をテーブルに置き、ご馳走様でしたと言って先に食事をやめる。食器を流しに置いて、また相手の向かいに座ると大学生の食事風景を眺めた。
     毎回がつがつと効果音が聞こえてきそうな食べ方をするわりに、この男の食事の仕方は綺麗だ。テーブルを汚す訳でも、茶碗などの食器も綺麗に中身を平らげられていて、作った側としては嬉しい限りである。
    「…美味しい?」
    「………あんたが飯を作るようになってから、大学の食堂で満足できなくなったくらいにはな」
     答えに笑ってしまったが、喜んでいい所なのか少し迷う。出来たての彼女にでも言って欲しい台詞なのは確かだが。
    「じゃあ、あまり納得できないけど話も終わったから僕は寝るよ。また明日ね」
     一応明日と口にはするものの、本当にまた明日顔を合わせるかは分からない。お互い相手が同じ部屋にいる時は、休みの日が被らない限りは相手が寝ているか出掛けているからだった。
    「あぁ、おやすみ。…添い寝するか?」
    「平気だよ、ありがとう」
    「駄目だったら言ってくれ」
    「…遅刻するよ…」
     今では自分もすっかり使い慣れた彼の寝室に入るまで構われたが、その扉を閉めて丁重にお断りしたつもりだ。折角起こした相手が授業に遅れる自体は避けたいし、何より同居相手の男の世話を焼いている場合ではないと思う。
     どうにも薬研には弟扱いされているような感覚を覚える事が度々あるのだが、こちらも結構な頻度で彼を兄弟のように扱っている節があるので、おあいこだろうと脳内の済で片付ける燭台切だ。
     こちらも大概心配性の自覚はあるが、相手もきっとそうなのだろうと思っておく。そうではないと、他に構われる理由を探さなくてはいけない気がして。
     部屋に入って、先に遮光カーテンを引く。眠る時はやはり暗い方が落ち着くのは、朝に働いていても夜に働いていても変わらないのだろうと思う。
    もうすっかり彼の温もりもなくなったベッドへと入って横になった。ふわりと漂う、この部屋の持ち主の香りに眠気が戻ってくる。
    欠伸をひとつして、大人は目を閉じた。
    (………ん…?)
     しかし己の体に違和感があって、意識が落ちない。
    いつもならベッドに入って十秒程度で既に寝落ちしているくらいには、このベッドの魔力に負けているのだが、今日はそういかないようだ。
    原因は目を開けて確認しなくても分かる。
    (…最近してなかったから、かな)
     男性特有の生理現象だった。
    一定期間中に処理しなければ健康にも害をなすそれを、この部屋での生活が中心になってからは放置しがちだった燭台切である。
    そもそも睡眠時間の確保の方が死活問題で、それ以外をあまり重要視してこなかった訳だが。
    (眠気が勝って欲しい……)
     だが処理に行くのも面倒で、目を瞑ったままそれが治まるのを待つ。毎回すぐに治まると言えば治まるので、放っておいても大丈夫だろうと思えた。
     その十五分後。
    (…待って、全然治まらないんだけど…)
     思わず目を開けてから、布団の中を覗き込む。見て確認したが、やはり自分のそれは元気だった。何というか、近年稀に見る元気さだった。
     まるで学生に戻ったかのような既視感に辟易しかけるのは、自分の中でそういう行為の優先順位が今は低いからだろうか。まだこういった事に気を使っていたのは、交際相手がいた時だなと思い出す。
     この部屋にお世話になり始めてから半年、更にその半年前にはそれまで数ヶ月ほど付き合っていた女性がいた。
     あまり真剣に考えていなかったが、その頃から誰とも交際などの関係を持っていないとなると約一年、誰とも恋愛をしていない事になる。
    自分にしては、相手がいない期間の最長記録を更新していた。
    (今まで欲求不満になった事なんてなかったんだけどな…)
     言い方は悪いが、それは交際相手が長期間途絶えたことがなかったからだ。それは重々、自覚している。
     ただ、こんなにも己の身に著しく変化が出るとは考えもしなかった。
    「…う~ん…とても、寝たい…」
     ベッドから出たくないあまり、そんな独り言が口から漏れる。幸い十分は前に、この部屋の家主は出掛けたようだったが、しかし明らかに他人の持ち物であるこの部屋で、今この状態をどうこうしたくはない。
    しかし起き上がりたくもない。
     ひとりで云々と脳内だけで悩むこと数十秒。結果から言うが、さくっと処理した。
    処理してしまった手前、とてつもない罪悪感に襲われているが、それと同時にとてもすっきりしている自分を自覚してしまい、また更に居た堪れない。
    (藤四郎君、ごめん。本当にごめん…!君が帰ってくるまでにちゃんとシーツ全部変えておくから…!)
     心の中だけで全力の謝罪をすると、眠りにつく。
    彼の匂いの染み付いたシーツに包まれて、自分が性的に興奮してしまった事実については、見ないふりをした。

     仕事に行く前にベッドシーツや布団カバー、それに枕カバー等も全て洗濯機へ放り込んだ。それが回っている間に寝室の掃除をして、洗濯機が止まった所で今度は中身を全て乾燥機へ移す。
     今度は乾燥機が動いている間に、自分は食べない夕飯を作った。放っておくと野菜不足になりがちな相手に、サラダを山盛り用意しておく。今日はシーザーサラダにしておいた。
     ちなみに本日のメインはパエリアだ。フライパンに作っておいて、彼が食べる時にこのまま温めればいいだろうとふんで。
     料理を終えて自分の身支度が整った頃、乾燥機が止まっていた。洗濯も料理も薬研の部屋ではなく自分の部屋で全て終わらせたので、それらを805号室から804号室へと移してから職場へ向かった。
    勿論、ベッドメイクを終わらせた後に。

    ***

    「…鶴さん…どうしよう…」
     仕事終わりの職場で、ひとり頭を抱えながら隣に座った同僚へと声を掛ける。
    「なんだ、どうしたどうした? 今日も売上トップだったのに何が不安なんだ」
     締めのマティーニ、と言って営業時間が終わった後で鶴丸国永は必ず飲む酒を片手に、こちらの助けを半信半疑に茶化してきた。自分より何年か長く生きているから、という理由で主に彼へ相談しているのだが、真面目に相談しようとしているのが段々と馬鹿らしく思えてくる。そろそろ相談相手を変える頃かも知れない。
    「……いや、やっぱりやめようかな。伽羅ちゃんは? 今日はいる日だったよね」
    「おいおい、結局教えてくれないのか? 少し揶揄っただけだろう…どうしたんだ光坊。この鶴お兄さんに話してみろ」
     解決してみせよう、とは言わんが 面白がった笑顔で言われて、肩の力が抜ける。
    「ちなみに伽羅坊は今、酒の補充で食料庫だ。暫らく戻ってこないぜ」
    「そっか…じゃあ一時間近くは帰ってこないかな」
     彼は真面目だから、と続けて相談事に関しては触れないでおいた。
    「あぁ、だから遠慮なく俺に相談してみろ。な?」
     明らかにわくわくとした好奇の視線を送られて、また相談したくなくなる。しかし毎回、何だかんだ彼に相談してしまうのだ。前回も結局、この白い男の助言に従って行動したら上手く事が運んでしまったせいもあって。
    「うぅん……じゃあ話すけど、僕は真面目に相談したいんだからね」
     じとっと、酒の入ったグラスを傾けて煽っている相手を視線で威圧しつつ、念を押した。
    「たまには真剣に聞くさ俺だって」
    (話の内容にもよるが)
     頭の中だけで付け足して、今日もシャツ以外は真っ白な男は続きを促す。
    「実はね………いや、うん…やっぱりこれは話すべきなのか、そこからもう分からない…」
    「そんなに混乱してるのか? あぁ、さては同居人になった大学生君のことだろう」
     君はすぐ彼の事になると取り乱すからなぁ… ちびちびと酒を舐めながら、にやりと笑って相手を見た。さっそく巫山戯た此方を、燭台切はひとつしかない瞳の眼力で責め立ててくる。本気で怒らせそうな空気を察知して、鶴丸は黙った。
    相手に自分が余計な口を出さない、と示すために一旦両手を己の顔の横に挙げ降参すると、今度は口の前で指を交差させ×を作ってみせる。今から黙るというジェスチャーだ。
    「…あながち間違ってはいないから、全否定はしないけど…余計な発言は身を滅ぼすからね」
     眼が据わっている相手に真顔で言われて、普通に怖い。口は閉じたまま、数回頷いて暫らく黙っていることを誓う。自分自身の安全のために。
     はぁ…、と深い溜息を吐いて燭台切は諦めたようだ。やっと話し始める決意をしたらしく、ゆっくり口を開いた。
    「今まで…あまり友人宅に泊まった経験がないから余計に分からないんだけど、…友達のベッドで、その…発散する、というか…そういうのは、普通じゃない、よね……?」
     言いながら声が小さくなっていく男は、百九十近い身体もだんだんと小さく折り曲げてゆく。顔には明らかに口に出したことを後悔しています、と書かれていた。
    「はぁ…、すると、なんだ…君はその大学生の布団で抜いちまったってのか?」
     はっきり言ってしまった方が楽なものもあるだろう、と単刀直入に聞けば、相手は明らかに項垂れて、床へ向かって呻くように「うん」と小声で返事をしてくる。こんなにあっさり認められるとは思っていなくて、鶴丸は心底驚いた。
     妙なところで、やけに素直な男だというのは知っていたつもりだった。だが、こういった所謂下ネタの部類の会話で、彼が素直に白状するような場面に未だかつて遭遇したことがなかったのだ。今日この日、この瞬間まで。
    「はははっ!! 君も存外、普通の男なんだなぁ…!」
     相手が真剣だというのは重々承知の上だが、だからこそ素直に認めた燭台切のことが面白くて仕方なかった。
    「鶴さん!!!」
     責める口調で名を呼ばれるが、愉快で中々頭の切り替えが出来ない。すまんすまん、と笑いながら謝って、少しずつ笑いを身の内へ引っ込めていった。
    「笑って悪いが、俺は安心したのさ…。最近の君は至って健康で健全、それがどうにも引っ掛かってなぁ。いつも悪い女を引っ掛けては乗り換えて、ってしていた何時ぞやの君があまりに大人しいから何かあるんじゃないかと思えば」
    「あの頃のことは忘れて…」
     大人しく聞いていられなくなったらしい燭台切が口を挟む。しかしその言葉は流して、続けた。
    「真剣な恋なら俺としては大歓迎だぜ☆」
     望んでいないだろう応援を軽率にしてやったら、真顔になった彼がこちらを見つめてくる。
    「………は?」
     考えてもいなかった、と言いたげな声音だった。そこには、冗談はやめろ、という副音声も含まれているように鶴丸には聞こえたが、聞こえなかったふりをする。
    「だから~恋なんだろう? 久しぶりに本気の❤ 隠さなくてもいいじゃないか。この際だから素直に認めて献杯しようぜ!」
     誰かいないかー?酒を持ってきてくれ、一番高いやつな! 部屋の外へ向かって叫んで、祝杯の準備を始めた。まだこちらの発言にしっかりとした反論を出来ないまま、固まりかけている相手を尻目に。
    「…ちょ、待って、…は? 一体、何がどう聞いていたら…そういう結論に至れるの?」
    「うん? 逆に君はどうしてそう思わないんだ?」
    「質問に質問で返さないでくれないかな?!」
     叫ぶようにツッコミで返してくる彼は、明らかに動揺している。正直、この反応が面白いのでもう少し弄り倒したいところだが、この余裕のなさを見るに引き続き揶揄った場合は自分の命が削られる予想しか出来ない。
     己の身が可愛いので、勿体ないがこれ以上はやめておこう。と鶴丸は内心だけで残念がった。それはもう心底。
    「…それじゃあ真剣に答えるが…、君はその大学生と一緒にいる時、何を考えている? 俺たち店の仲間に対して持つような友情と少し質が違うんじゃないのか」
    「質っていうと…?」
     ぴんと来ないようで、黒い男は首を傾げた。
    「そうだな…例えばだが、俺とこうして会話をしていても普通なら主に会話に重きを置いているだろう。それが彼といる時には別のことも特に気になるんじゃないか? 例えば相手の表情や仕草なんかに、気付けば自分が過剰反応したりしているだとか」
    「ううん…そうかなぁ…」
     言われた事を唸りながら考え始める。己の記憶を探っているようだが、こういう事は自覚がなければないほど気付きにくいものかも知れなかった。
    「あとは、その相手の事を考えている時間の長さだな。何をしていても何処にいても、好いた相手のことは他の誰よりも一番、考えてしまうものだからなぁ。単純に一番てっとり早く分かりやすいのはこれだと思うが…」
     思い当たる節は? 言い終わって相手へ視線を投げると、前屈みに座った状態で手を組み真顔になっていたはずの燭台切は、ゆっくりとした動きで顔を覆ってソファの背凭れへその身を投げていった。やっと気付きましたと言っているような有様だ。大変分かりやすい。
    「…光坊…君のような伊達男にこんな事は聞きたくないんだが…本当に今の今まで自覚がなかったのか」
    「お願い…今はやめてくれ」
    「まじかー…」
     苦笑しながら、グラスの中に残っていたマティーニを煽る。「いや、でも、」と正面に座ってぶつぶつと己の心と向き合って足掻いている男を横目で見て、また笑ってしまう。往生際は悪いようだ。
    「なぁ、じゃあこれは気付いていたのかい? 最近君の口から出る単語に毎日[藤四郎君]って必ず入ってる件は」
     日々積み重ねられてきた情報を、とどめに告げてみる。明白に顔を覆っている男が、びくっと体を揺らした。一々、過剰反応で面白い。
    「…そっ、そんな事なかった、だろう…?」
     動揺が隠せず、声が裏返ったことをきっと本人も自覚しているだろう。相変わらず顔を両手で覆っているのが、その証拠と言っても過言ではないと思う。
    「まぁまぁ、そんなに否定せんでも俺は別に責めている訳ではないぜ。昨今のこの国じゃ、同性婚も認められ始めているじゃあないか。何を恥じることがあるっていうんだ」
     にやにやとしながら、更に軽口を続けた。こんなに正面から相手をおちょくる機会はそう滅多にないので、つい口から言葉が滑り落ちてゆく。
    「…いや、恥じる…とかはない、けど…。普通戸惑うだろう、突然好きかも知れない相手が同性とか。どうして鶴さんがそういう方向で平然と話を進めてくるのか、僕には理解出来ないんだけど、正直なところ」
     今までそんな気配があったこともなかったし、と続けてくる黒い男の膝をぽんと叩いた。
    「諦めろ光坊。…食の好みが変わるのと同じで、ある日突然自分の嗜好が変わることも、そう可笑しな話ではないだろう。それに何よりこの方が面白いからな! このまま同居人君を口説き落として更に俺を楽しませてくれ」
    「本音はそこなんだね…」
     もう怒る気力はないらしい燭台切から、大きな溜め息混じりな返事が返ってくる。顔を隠すのはやめて、彼は背凭れに頭を預け、脱力していた。こんなにだらしない姿を見せるのは、泥酔していない時分には珍しい。
    「冗談はさておき、そういう可能性もあるっていう話さ。この先は自分で見て感じて考えるほかないからなぁ、俺の出来る助言はここまでだ」
    「……うん。もう少し様子を見て考えてみるよ」
    「そうしてくれ。一先ず今夜は飲もうぜ、ぱーっと!」
     君の奢りでな! と言えば相手は苦笑した。奢りなのは店一番の売上を出している身としては、わりと毎度の事なのでもう彼自身に抵抗はないようだ。
    「一番高いシャンパンを開けよう」
     一度やってみたかった提案をすると、燭台切の顔色が変わる。
    「待って、…それって社長の秘蔵のやつじゃない、よね…?」
     誰も触れようとしないフランスの高級シャンパンが、この店には飾られていた。一瞬でそこに思い至って、彼は確認してきたのだった。
    「………」
     無言のまま笑顔を作ると、一目散に部屋から出てゆく。高級シャンパンまでその距離、約十三メートルを走り抜けた。


    ..................................................................................
     4


     意識が浮上した、と分かった瞬間に猛烈な頭痛に襲われる。次いで思い出すのは、昨夜同僚にのせられて飲み明かしてしまったことだった。
     勝手に社長の秘蔵のシャンパン時価何十万を開け、それの支払いを人に押し付けて、酒を楽しみ始めてしまった男に付き合って自分もそれを飲み(同じ支払うなら僕も飲んでやると自棄を起こした)続けて他の仕事では飲めないような酒も出して、また別の同僚を誘い、帰宅出来る程度に泥酔して、家の玄関に入った所までは何となく記憶がある。かろうじて。
     それから部屋の主にただいまのハグをしたような…気がした。つい昨日、この男が好きかもしれない疑惑が持ち上がったこのタイミングで、まさか自分がそんな事をしているだなんて到底信じられなく、きっと妄想の筈だと頭を振る。
    「…っい、たぁ…!! ぐっ…なんたる…」
     強烈な頭痛に再度襲われて、頭を振ったのを後悔した。こんなに酒に弱かったつもりはないのだが、一年以上仕事以外で飲むことはしなかったせいか、弱くなってしまったのかも知れない。
     がんがんと脳内で鳴り響く不快な音に、頭を抱えながら起き上がる。脱いだ覚えはないのだが、捲れた布団の隙間から自分の足が見えた。下着は履いているのに、少し安心する。しかし着ていたスーツは何処に消えたのだろう、と部屋を見回してから隣に人が寝ていたのに気付いた。
    「やっと起きたか…水、いるか?」
     まだ殆んど目が開かない状態のまま、声だけで相手が薬研だと分かる。そもそもこの部屋に、自分の他には彼以外がいた試しもないので選択肢は限られている訳だが。
    「おはよう藤四郎君…色々、ごめんね…」
     帰宅後の記憶が朧ろげで、自分が何をしでかしてしまったのかも思い出せないのだが、多分迷惑を掛けただろうと先に謝った。そして差し出された水のペットボトルを受け取ろうと手を差し出して、掌にしっかり握れるように手渡される。あまり見えていないのが知られている、とそうされてから分かってしまい更に申し訳ない気持ちになった。のだが、如何せんまだ目蓋すら、よく開きそうにない。
    「…何処まで覚えてての謝罪なんだ? それは」
    「えっ?」
     存外、責めるような声で問われて、戸惑った。ほぼ記憶にございません、と言っていい雰囲気なのかも分からないのだが、ここは正直に話して何があったのか相手から聞くべき所だと思う。それが正解なのかは、ともかくとして。
    「ごめん…何をしたのか分からないんだけど」
     何か気に障る事でも…、と驚いた反動でやっと開いた瞳で彼を見れば、寝巻きにしている大きめのTシャツの襟首から所々赤く色付いた皮膚が見えた。虫刺されのようにも見えるそれは、しかし虫に刺されて出来た訳ではないとすぐに察しがつくというものだ。
    「…えぇ!? もしかして…藤四郎君、彼女できたの!?! 僕が邪魔しちゃったかい…言わずもがな…」
     二日酔いも覚めるほど、頭から血の気が引いてゆく。思わず口元を押さえたのは、罪悪感からだった。自分で口に出した話が事実なら、とても取り返しがつかない事をしたのではと思えてならなくて。
    「………はぁ―――…。…そうか、そうくるか…」
     深く長い溜息を吐いて、薬研は横になったまま曲げた自身の腕に頭を乗せた。それから、ゆっくりと上目遣いでこちらを見つめてくる。その紫紺の瞳には鋭さがあって、痛いかも知れない腹を探られているような、落ち着かない気持ちになった。
    「まぁ、…俺としても恋人なら良かったんだがなぁ…」
     じとっ、とした視線で続けられて、こちらは妙な汗をかく。それから相手の言葉の意味を、どう受け取ったらいいのか考えた。この言い草から、自分が悪いのは確かだろう。こんな恨めしささえ感じさせるような表情をされている、という事は。
    「もしかしなくても………それ、僕が、やったの…?」
     聞きながらまた青褪める。青褪めて、しかし動揺から耳が熱くなるのも感じた。嘘だろ、と思いながら否定して欲しい気持ちで彼を見つめ返す。
    「……」
     無言のまま、にかっと薬研が笑ったのに、自分の両手で顔を覆った。蚊の鳴くような声で「ほんと…ごめんね…」と言うのが精一杯である。
     昨日からずっと、何処にいてもこんな調子で困ったものだ。相手が誰でも動揺させられることが多いだとか、心臓に悪すぎる。穴があったら入りたい、しか考えられなかった。
    「流石に、男に襲われたのは初めてでびびったぜ」
    「…すみませんでした…!」
     ベッドへ倒れ込んで、自分がどんなテンションでそんなことをしたのか知りたくもあり、全くもって知りたくはないとも思う。
    「まぁ、まぁ。そんなに落ち込まんでも…悪い気はしなかったし、良いんじゃねぇか? たまに酒で失敗しても」
    「……それ絶対に褒め言葉じゃないし、フォローでもないじゃないか…」
     自分が悪いのは分かるが、恨めしい言い方になってしまった。
     ペットボトルをベッド上へ転がしてから、水が飲みたかったのを思い出す。しかし、とても水が飲めるような状態ではなかった。主に理性がぐずぐずだった昨夜の自分が、情けなくて。
    「…すまんな。あんたが本気で覚えてなさそうで、つい意地の悪い真似をしたくなった」
     そっと頭を撫でられて、肩が揺れる。寝起きのせいか、優しい声には甘さも混じっているようで、自分の心の内がざわざわとさせられた。
     だからどうして、こんな恋愛的要素を含ませたような雰囲気をこちらに向けてくるのかが分からない。好きな女の子にやりなさい、と心底思う訳だがそんな小言を言える状況でもないのに、震える事しか出来ない燭台切である。若いって、こわい。いや、若さは関係なく、怖いのはこの青年だけかも知れない。
     普段なら、他人に口説かれても口説き返すくらいは反射で出来る所だが、二日酔いの寝起きにそんな余裕はなかった。
    「君の方がホストに向いている気がしてきたんだけど…」
     就職先が決まらなかったら、うちにおいでよ そんな軽口を叩いて、今の言葉を受け流すくらいしか思い付く手はない。相変わらず合わせる顔はないという気持ちのままだが、そっと目元だけ覆った手を下げて、相手を見た。
     合わせる顔はないと思うものの正直今、薬研がどんな顔をしているのか興味があったのだ。声と同じように、表情まで甘くなっていたりするのだろうか、と。まるで好きな子を口説くように。
    「旦那の誘いなら断りにくいな」
     ふっと気を抜いたように微笑んで、ひとの髪の毛を指先に絡めて遊んでいる年下の男に、心臓を鷲掴まれて後悔した。一日の中で一番油断している時間帯に、不意打ちで見ていいものではなかったからだ。
     こんな顔を見てしまえば、否が応でも自覚させられてしまう。
     彼に恋へ落とされたのだ、と。
    「…冗談だから、本気にしないでくれ…」
     首や、耳が熱い。全身が急に熱を持って、訴えてくる事実から気が逸らせなかった。取り繕って笑いたいのに、そんな仕事で鍛えられた仕草さえ、今の自分には自然に出来やしない。
     まさか本当に恋をしたのかと、我ながら自分が信じられないのもあった。こんなにも、他人に心を震わせた経験が今までに一度でもあっただろうか、とそんな気にさえなる。多分、あったはずなのだが、急に思い出せない。ただ、不意に記憶が蘇らない、それだけだと思う、思いたい。どうか、そうであってくれと。
    「うん? どうかしたか…?」
     祈るような気持ちで、うつ伏せになると顔を隠す。それにどんな意味があるのか、薬研には分からないだろう。だからこちらにどんな心の機微があって、こんな行動を取っているのか理解出来ないのだと分かった。そもそも、全て知られていても怖いだけだが。
     今はそれが救いなようで、鈍い彼がひどい男のようにも思える。こんな風に考えるのは、明らかに可笑しいと解っていながら。
    「………なんでもない、です」
    「なんで敬語?」
     くすくす笑う、楽しそうな声が隣から聞こえる。どうして今日に限って、こんなに機嫌が良さそうなのか。相手の言動のひとつひとつが、一々こちらの心臓に悪い。
    「なんだか、機嫌がいいね?」
     自分の状態だとかを誤魔化すために、話題を逸らす。それと彼に何か良い事があったのなら、その話も聞いてみたかったのだ。
    「あぁ、…ちょっとな」
     シーツに顔を埋めたままのこちらへ、掛布団をかけ直しながら青年は曖昧な返事をする。
    「? 教えてくれないの?」
     ちらり、と彼を見るがまた笑みを深くするだけで、何も教えてくれる気配はない。
    「その内、気が向いたら話す、多分」
    「…あまり期待は出来そうにないな、それ」
     苦笑して、やっと顔の熱が引いてきたのに安心した。このままもう、普通の顔ができなくなったらどうしようかと思っていたのだ。そこまで重症だったなら、今すぐこの家から出て行くべきだと。
    「あんた次第だが、…まぁ、気長に待っててくれ」
     意味深な言葉の裏は読めそうにないが、まだもう少しこの部屋で暮らしたいなと考えていた。

    ***

     彼が目覚める七時間前。
     玄関の外からよく通る声が聞こえた。そうかと思えば玄関ドアの前で何やら物音がする。鍵を入れようとしているのに入らない、まるでそんな様子に間借り人が帰宅したのだろうと判断してそれを開いた。
    「…おかえり…?」
     相手を確認すると、考えていた通りの男がいて、しかしいつもと様子が違うのに思わず首を傾げた。
     そんなこちらとは対照的に、目の前にぼんやりした顔で立っていた男はゆるんだ表情で笑う。破顔する、というのはこういう事を言うのだろうか。
    「とうしろうくん~~~ただいま!」
     おぼつかない足取りで近付いてくる燭台切は、距離感を誤ったのかこちらへ体当たりするような勢いで倒れてくる。それを「おっと」と受け止めて、苦笑した。
    「珍しいな…酔って帰ってくるなんてのは。今日は何があったんだ? 光忠さん」
     背中をぽんぽんと軽く叩いて、まるで子供をあやしているかのような気持ちになる。たまにこの年上の男は、弟のような顔をして甘えてくるので、少し困っていた。そんな風に接せられるのに、抵抗がほとんどない自分自身にも。
    「うぅん…つる、じゃない、同僚、が…しゃちょうのお酒開けちゃって…ぼくも一緒におこられそう、だったから、やけ酒、してきた…ついでに」
     呂律が回っているか怪しい口調で、彼はごにょごにょと答える。なかば縋るように抱きついてくる態勢で、今にも寝落ちてしまいそうな気配があった。
     彼の眠りが浅い夜に、よくこうして抱きつかれているから知っているのだ、燭台切の眠りにつく瞬間を。ついこの前の夜にも、似たような状態でこの男を寝かしつけていたのだが、きっと本人は覚えていないだろう。
    「そうか、それは楽しそうだったな~じゃあ、一先ずベッド行こうぜ」
     まだ相手が歩けそうな内に移動させてしまおう、そう考えているせいで会話が雑になる。きっと明日には忘れているだろうとも思っているので余計だ。
    「え~…まだ飲めるよ、ぼく…とうしろうくんとも、飲みたい…な……」
     そう言いながら、すや…と寝息が聞こえ始めようとしている。おやすみ三秒、という気絶に近い眠り方をされそうで少しだけ焦った。
    「旦那、旦那…まだ意識を失わないでくれ。流石にあんたを俺ひとりで運べるかは、微妙なところだぜ」
     こちらの肩口に埋めている横顔を、ぺちぺちと叩いて起こそうとするが、効果はいまひとつである。こんな時に一瞬で起きてくれるような、そんな効果のある手があればいいのだが。
    または、この大人が気絶しても余裕で運べるような筋力が今すぐ自分の腕に実装されれば、問題は根刮ぎ解決されるのだが。あまりに現実味のない考えなので、すぐに想像するのすら、やめた。
    「…うぅ…ん……あと、ごふん…」
    「あと五分起きててくれな、頼むから」
     聞こえているかは分からないが、起こすためにも声をかける。半分引き摺るように相手を抱えつつ歩けば、こちらの動きに釣られるのか、相手の足も何とか動いた。そのままリビングを横切って、なるべく早足で寝室まで移動させると、もう後はベッドに寝かせるだけだ。
     無事にベッドへたどり着いて、そこへ何とか座らせた。
    「よっこいしょおぉ…よし、上着脱がせるぜ」
     濃い紺のスーツの上着を剥ぎ取ると、彼用のハンガーに掛けて今度は当然のようにスラックスを剥ぎ取る。皺になると気になってクリーニングに出しちゃうんだよね、といつか言っていた事を思い出したからだ。クリーニング代も馬鹿にならないから気を付けてはいるんだけどね、と続けて言っていたことも。
     しかしそれを主に考えて脱がしてから、シャツの下から太腿へ巻かれているベルトへ伸びるバンド…のようなものが現れて驚いた。シャツが上がらないようにする装置、のようなもののようだが如何せん見た目がいかがわしい。
    「…助平すぎやしないか、これ…」
     無意識下で、声に出しているくらいの衝撃だった。筋肉でむちむちしている太腿にベルトを巻く、それは異性の間で復旧しているガーターベルトによく似ているせいか、同性が装着してもスタイルのいい男がすると凶器になるのだなという事が分かった。少なくとも、自分には効果があった、思わず生唾を飲むくらいに。恐ろしいことだ。
     とてつもなく見てはいけないものを見た気がして、さっさとネクタイも奪い取ると、掛け布団の中に相手の姿を隠す。燭台切は、もうほとんど目も開けられない状態のようで、先程からぴくりとも動く気配がない。このまま朝まで大人しく眠っていてくれるだろう、そう思って後頭部を掻く。
    「はぁ……別に嫌いではないと思っちゃいたが…」
     まさか男もいける口なのか…? そう自分への独り言を零しそうになって、何とか口を噤む。
     今まで己の趣向はノーマルな方だと思って生きてきたのだが、この男に出会ってからどうにも様子が可笑しい。元々、自分に面食いのきらいはあったが、顔が好みなら同性でも抱ける、などと少なくとも考えたことはなかった。この大人に出会うまでは。
    「ん……ぅ、…ん…」
     寝苦しそうな吐息すら、今の薬研には性的にしか聞こえない。危ない、と思ってそっと部屋を出た。具体的に何が危ないのかは、今この時に考えてはいけない気がする。
    (…あ、つい移動させるの優先しちまったが、水を飲ませるべきだったか…? 一応、持って戻っておくかな)
     ふぅ…、と深い息を吐いて気持ちを落ち着かせようと心掛けた。普段なら隙のない相手に、ここまで心を乱されることはないので、余計に動揺させられているのかも知れない。
     冷蔵庫から水のペットボトルを二本取り出して、片方を開ける。そのまま、その中身を口へ運んで頭を冷す。本当は直接、頭から水でも被った方がいいのかも知れないが、同居人が帰ってくる数十分前に風呂から出たばかりで、そんな気も起きなかった。
     体内から少し冷えたところで、もう一度深い溜め息を吐いて呼吸を整える。精神が乱れた時は、呼吸から整える。そう教わったのは、いつの頃だっただろう。
     数分して、いくらか落ち着いただろうと寝室へ戻った。当然、相手は寝ているものだと信じていたからだ。その期待は、部屋に入った途端に裏切られた訳だが。
    「とうしろぉくん~…どこ、行ってたの~? さがしたんだよぉ…」
     明らかにうとうとした顔でそんな文句を言われるが、そんな状態で人が探せるものなのだろうか。疑問だ。
    「あ~…悪いな、水を取りにいってた。飲むかい?」
     念のため謝罪して、ペットボトルをその熱そうな頬にあてる。つめたい、と言われたが非難されている訳ではなく、気持ち良さそうに目を細めて、相手は笑う。とても年上には見えない無防備さだった。
    「…うぅん……のませて…」
    「…………」
     何を言われたのかは分かったが、分かったからこそ体が固まる。一瞬で。
     この男は、酔うと誰に対してもこうなのだろうか…と思わず疑ってしまう。こういう事は彼女にでもやってくれないかと考えるが、そんな相手がいないというのは半同棲生活が開始してから知っているので、思うだけ無駄だった。
     酔っ払いの言うことだ、と頭痛のしそうな頭を一度振ってからペットボトルを開ける。それをベッドサイドに一旦置いて、相手の上半身だけ起こさせると口元にそれを運んだ。こちらが無心でいれば、難なく済む筈だ、今夜における色々な事が。
    「旦那…飲むか寝るか、どっちかにしてくれ」
     こく、と一口二口飲んだかと思えば、すやりと寝息を立てそうになっている。赤子か、とそんな感想が出るが、あまりに今とっている行動が幼児退行じみているものだから、こう思っても仕方ないだろう。
    「ほら、どうするんだ?」
     ぺちぺちとまた頬を叩いて、相手に質問する。むにゃむにゃと口を動かして、彼は瞳を開けた。とろけるような蜂蜜色に、直視したのは失敗だったと目を逸らす。
     潤んだ瞳に今は特に想像してはいけないものが、脳裏を過ぎりかけたからだ。
    「…飲むのか? 水」
     こんな時、兄弟相手にはどう対応していただろうかと考える。が、酒をよく飲むのは一番上の兄だけで、酔って帰ってきても彼はすぐに自室へ入って寝てしまうことが多いから、こんな風に手は掛からないのだ、滅多に。または自分が、そんな手の掛かる兄に遭遇していないだけか。
     大学内の友人たちに関しては、酔い潰れてもその辺に転がしておくだけで済むので、何の参考にもならない。相手がこちらに好意を持っているような女子なら、一夜の過ち…という展開も起こりうる事もあるのだが、この男とそんな関係を持つには親しくなりすぎた。
     かと言って、親しくなければ関係を持つ訳ではない、はずだ、多分。如何せん、現状に参っていた。
    「もう、いいやぁ…」
     間延びした返事をしつつ、こちらに抱きついてくるので、身動きが取れなくなる前にボトルの蓋を閉める。この予測不能な行動をする酔っぱらいがいるベッドの上に、水を零してしまったなら、今より更に大変な予感がするからだ。
    「じゃあ、もう寝ようぜ。そろそろ眠い、だろ…?」
     言い聞かせながらベッドサイドへ水を置いたところで、首筋に、ふにっとした感触があった。ちょうど、唇を押し付けられたような、そんな柔らかさで己の動きがまた、一瞬で止まる。そのせいで不自然に言葉も切れた。
    「…旦那…?」
    「とうしろうくんって…いい匂い、するよねぇ…」
     ふにゃふにゃした低い声音は、甘えているようにしか聞こえない。しかしそんな魅惑的な声で、ひとの首筋を吸うのは流石にどうかしているんじゃないのか。酔っ払いにそんな事を言っても理解してもらえるかは微妙なところだろうが、突然同性に、おそらく性的な意味のある接触をされているこちらの身にもなって欲しいというものだ。
    「なぁ…どうして俺は今、首筋を舐められてるんだ?」
     まともな返答を期待している訳ではないが、念のため聞いた。動揺しているせいもあるが、今こんな事をしている彼が何を考えているのか知りたかったからだ。
    「うん~…おいしいから…?」
     半疑問系で返されても、こちらは困る。しかしそんな事はお構いなしに相手は、くんくん、と皮膚に接触したまま鼻を動かすので妙に擽ったい。
    何かを思い出すなと、ふと真顔になる薬研である。
    美形な人間にされているのであまりこうは思わなかったが、段々と大型犬に絡まれているような気分になってきた。今なら顔を舐められても軽く受け流せそうである。流せそうなだけで、実際は分からないのだが。
    「……でも、こういう事は俺以外にやった方がいいんじゃないか、光忠さん」
     相手が少しでも正気に戻ればと名前を呼んでみるが、今度は鎖骨下の皮膚を吸われていた。明日にも残りそうな気配がするそれに、この男はどんな顔をするのだろうか。少し考えようとするが、明日のことより今現在が気になって気もそぞろだ。
    つまり、何も考えられなかった。
    「ぅん…とうしろう、くんが、…いいから、だいじょうぶ」
     質の悪い大人だな、と天井を見つめながら思う。こんな期待をさせるような台詞を吐いておいて、自分は素面ではないときた。仮に今、襲われ返されても文句など言えない状況だろうに、そんな危機感もない。
     無理矢理、大型犬に舐められているのだと自分に言い聞かせようとしていたのだが、やはりそれには無理がある。せめて酒臭いだけなら良かったのだが、彼がいつも付けている香水がほのかに香ってくるのが、いけない。
    しかもその香りがどこからくるのか、知っているので余計だ。彼はいつも付け過ぎず匂いをきつく感じないようにと、太腿に香水を振り掛けていると言っていた。そんな過情報まで思い出してしまい、大変きつい。主に理性が。
     万が一にもこの大人が獣臭い所など想像もできないが、そんな匂いがしたなら、こんなにも理性を乱される事もなかったかも知れないと考える。やや天井を睨みつつ。
     四回目か五回目か、明らかにまた鬱血痕を付けられた時に口を開いた。
    「…なぁ、あんたはこんな無防備に俺に絡んでくるが…、襲われてもいいのか」
     こちらの薄い胸板の上に、相変わらず柔らかい感触が触れている。至近距離すぎてよく見えないのだが、覆い被さってきている男の頭はゆっくりと揺れているように見えた。
    「…………」
     返事に悩んでいそうな気配はないが、口を開く気配も感じられない。そんな相手の髪の毛を指先に絡めて、少しだけ弄んだ。燭台切の出方によっては、今夜はただで済ませられそうにない気がしている薬研である。
     平たく言うと、柔らかい筋肉質な身体の持ち主に抱きつかれてムラムラしていた。
     共同生活の中でひとりになる時間はあるが、そうそう毎度都合よく性欲処理が出来る訳ではない。今現在、恋人という存在もいないので余計かと思えた。そうは言っても淡白な方なので、そう困ったという場面に今まで直面せず、今日まできてしまった訳だが。
     密着してきている大人の色気に当てられた、などでは多分ないと言いたいところであるが、間違いなくそうだ、とはとても思えない有様だ。今にも元気になりそうな、己の下半身は。
    「旦那…あまり待たされるのは得意じゃないんだが、」
     言葉に詰まっているにしても、限度があるだろうと肩を揺するが反応はない。なさすぎるくらいのそれに、怪訝に思いながらも相手を押し倒して体勢を逆転させた。
     予想通り、燭台切は健やかな寝息を立てて眠っている。寝顔は天使のように可愛らしい、というのは知っていたが今夜も実に文字通りのそれだった。
     思わず、がっかりした。こんなにも残念な気持ちになったのは、初めて抱いた女の子が自分の兄弟とも以前、関係を持っていたのを知った時以来だ、と最低なことまで思い出してしまう。我ながら、そんな事を思っただなんて最悪だ。しかし間違いなくこの思い出自体も最低ではあった。
    「……こうなるだろうと思っちゃいたが…今か、今なのか…」
     もう少し何かこう…あるだろう普通 と、恨み言を述べて相手を布団に入れると自分もその中に入る。寝ている所を襲えるほど、どう思われても良い相手なら添い寝だなんて選択はしなかっただろう。
     こんな風に考えるくらいには、この男との微妙な関係を維持したいと思っている自分がいた。これが世間一般に言う「恋」というものなのかは、微妙に分からないのだが、正直、肉欲は感じずにいられなかった。
    それだけは否定できないくらい、確信を持って言える。最低なことに。

     そんな風に思いつつしかし眠った訳だが、無防備に寝ている所を何度か相手に抱きつかれ、その上でひとの身体に悪戯するような手つきで触れてくる大人にまた性感を煽られて、眠るのを諦めた所で腹を括った。
     意識し始めた動機は不純だが、こんな無意識下でも誘ってくるような大人に手を出さないまま、この生活を維持してゆくのはどう考えても無理がある。しかしだからと言って、この半同棲生活を今になってやめる気もない。それならもう、いっそ恋仲になってしまえば良いのではないかと考えを改めた。至って単純明快に。
     元々この男のことは嫌いではないし、一緒に生活してゆくのがお互いにストレスになっていそうな気配もない。全く喧嘩にならないという事はないが、そういう事は誰と暮らしても付いて回るものだろう。ただ現在進行形でシーツに埋まった人の身体をまさぐってくる彼の掌には、少々困ってはいるが、襲い返して良いのなら、むしろ悪くはない状況に思える薬研だ。
     数時間前まで同性に興味があるのかと悩んでみたものの、今ではこの男を喘がせてみたら楽しいのではないか、という発想に変わっていた。良くも悪くも、機転が利くのかも知れない。
    (…うん……、顔は好みだし、性格も好ましい。そうなったら…とりあえず、口説いてみるか)
     擦り寄ってくる美丈夫の寝顔をじっと見つめながら、決意した。これで駄目になるような関係なら、諦めもつくというものだ。
     思考の自己完結をすると、とてもすっきりした気持ちになった。今なら腰や尻を撫でられているのも、多少気にならないくらいである。ただこちらだけ一方的に触れられているというのも納得はいかないので、相手の肉付きのいい尻を揉みながら目を瞑る。
     揉みごたえのある自分好みなその尻のお陰か、翌朝とてもよい気分で目覚めた事を、燭台切だけ知らないのであった。
     そしてその上機嫌さで、本格的に彼を口説き始めることも。
    喉仏
  • 隣の部屋のお兄さん1-2 #再録 #薬燭 #現パロ #ホストと医学生
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    「っおい、どうして今日はそんなに泥酔しているんだ光忠! 送れる奴が誰もいない日に限って…!」
    「あははっ~! だいじょうぶだよ、長谷部くん、タクシー使ったらすぐそこだし❤」
     へらへら笑って、同僚にそう告げる。少し心配症な相手はそれでも納得していない顔をしているが、勝手にタクシーを止めて乗り込んだ時には諦めた表情になった。
    「…何かあったらすぐに連絡しろ。うちの稼ぎ頭に何かあったら、社長に申し訳が立たないからな」
     特にお前は人間関係に問題が有りすぎる そう念まで押される始末。僕は一体、どれだけ彼の信用がないのだろうかと考える、一瞬だけ。
    「あぁ、うん。わかってる、わかってる~! じゃあ、お先に」
     しかし思い当たる節が有りすぎたので、そこには触れないでおいた。職業柄、どうしても人間関係が拗れやすい自覚もあって、黙っているのが一番との判断から。
    「家に着いたらちゃんと連絡するから」
     一応そう告げて、彼と別れた。タクシーの後部座席に凭れながら、ネオンの眩しい街並みを眺める。夜でも昼間でも見た目からして騒がしいこの街が、静かになる日は来るのだろうか。そんな事をぼんやり考えた。
     少し疲れが溜まっているせいか、どうも思考回路が暗くなりがちだな、と自分を判断する。ここ一ヶ月ほど、熟睡というものをしていないのもその理由の一つだろう。
    (でも今日は沢山飲んだし…きっと眠れるよね、いい加減)
     心底眠れるとは正直思っていないものの、少しでも長く眠っていられればと期待せずにはいられなかった。それくらい、日々の睡眠の浅さと短さに悩まされていて。
     タクシーが自宅マンション前に着いて、支払いを済ませるとエントランスホールへと入った。
    最新鋭のセキュリティが売りのこの建物は、入るのにも出るのにも、そこそこ時間が掛かってあまり好きではない。のだが、上司命令で渋々住んでいるマンションだ。社長には、お世話になっている自覚もあるので断れなかったというのが本音だが。
    (出たり入ったりの時間さえ掛からなければ、他に不満はないんだけどな…)
     やっと正面入口から建物内へ入って、大きくはないエレベーターのひとつへと乗り込む。八階のボタンを押して、その箱に凭れた。
    まだご機嫌な酒が体中を巡っていて、自分の口から鼻歌まで漏れてくる。深夜三時になろうかという時間で、自分以外に人影を見ない。そのせいもあって、人目を気にすることもなかった。良くも悪くも、機嫌の良さに水を差すものは何もない。
     エレベーターを降りて、左に曲がると角にある自分の部屋へとふらふら歩いた。ここにきて、やっと自分の足元がふらついているのに気付く。千鳥足というやつだ。
    「あっはっは…これは、心配されるね~」
     独り言を呟くと、ポケットから鍵を出してそれと一緒にスマートフォンも取り出した。ラインの画面を開いて、同僚に「着いたよ、おやすみ」とだけメッセージを送っておく。これで今日の仕事は完全に終わったようなものだ。
     あとは機嫌のいいまま、ベッドへ沈んでしまおうと部屋のドアへ鍵を入れる。しかしその鍵を回す前に、その扉は開いた。あれ?おかしいな、と思いつつドアを開けて見慣れた玄関に対面してから、鍵を閉め忘れたのかな気を付けなくちゃと考え直して中に入る。少し靴を脱ぐのに手間取った。
     3DKの室内は、玄関から短い廊下があってすぐリビングダイニングへと続いている。その部屋の奥、右手側に扉が二つある内の奥、ベランダ側へあるドアの部屋が寝室だった。
     迷いなくその部屋へ入ると、机の上へ白いスーツの上着を無造作に掛けてベッドへ倒れ込んだ。いつもと違う匂いがする気がしたが、どうにも眠気が強くて何も考えられない。
     寝て起きてから考えよう、そう判断する前にもう意識は落ちていた。


    「…ぉい、……おい、って…」
     重たい意識が持ち上がってきて、耳が余計な音を拾ってくる。あと五分、ごにょごにょと発音の悪い声で答えた気がしたが、相手は諦めてはくれなかった。
    「また眠られちゃ困るんだ、こっちは」
     聞き覚えのない声に、やっと自分の目が開く。そうは言っても、ぼんやりとな上に、唯一見える左の片目だけなのだが。
    「………誰だい? きみ」
     目の前には、薄幸そうな線の細い美青年、と思われる男がいた。多分、男の子ではない、くらいの認識で本当に青年なのかも分からないが如何せんまだ眠気が勝っている。自由になる左目を擦って、視界を少しでも晴らそうと試みた。
    「誰って言われてもなぁ…。こっちからしたら、あんたが誰だっていう話なんだが」
     ここが何処か分かるか? そう続けられて、僕の部屋だけどと考えながら室内を見回す。結論から言おう、自分の部屋ではなかった。その事実に気付くまで、約一.五秒。
    思わずベッドから起き上がると、その床へ移動して正座をしていた。
    「えっと、すまない…全く覚えていないんだけど、ここはもしかしなくても君の部屋、だったのかな? 勝手にベッドまで借りてしまって本当に…何て言ったらいいのか…!」
     俯いて床を見つめながら頭を下げる。何たる無様な…と頭の中で、これ以上ない本音が回っていた。あまりの申し訳なさに顔も上げられない。
    「頭を上げてくれ、目が覚めたなら何よりだ。謝罪はいいから、すまんが先に出て行ってくれるか? もう出掛けなきゃいけない時間でな」
     特に責める訳でもなく、優しく言われた。何とか顔を上げて相手を見る。
    「本当にごめんね、えっと、名前を聞いてもいいかな?」
     僕は燭台切光忠、このマンションの805号室に住んでるんだ 流石にこのまま帰る訳にもいかなくて、名乗りつつ相手の名前を聞いた。後日お詫びに何か持ってこよう、せめてと考えている大人である。
    「あぁ、お隣さんだったのか…。俺っちは薬研藤四郎。ここ、804号室の住人だ。まぁ、よろしく頼むぜ」
     手を差し出されて、握手した。随分自然なその仕草に、正座していた体を起こされて立ち上がる。
    自分より目線が若干低いくらいの相手を見下ろした。やはり綺麗な顔立ちをしているなと思って、その所為か余計彼の話し方とのギャップを感じる。江戸っ子、と呼ばれる人達を連想させられた。
    「薬研君か、うん、宜しくね。また後日、改めてお礼をしに来たいんだけど、都合の悪い日はあるかい?」
    「いや、特にねぇが…そんなに気にしないでくれ」
    「でもこれじゃあ僕が格好つかないよ!」
     格好つかないって何だ? と言いたげな顔をされたが食い下がる。
    「せめて、それくらいはさせて欲しい…」
     駄目かな、ちょっと困りつつ小首を傾げて尋ねた。相手は一瞬目を見開いて、それから頷く。
    「そこまで言うなら、分かった」
     返事に安心して、やっと自分の上着を回収するとその部屋を後にした。玄関を出る前に再度、謝罪をしてから。
     マンションの廊下に出て、本当にお隣に居た事に改めて驚いた。角部屋の自分の部屋と、その手前にある部屋の扉をよく間違えて開けたものだと思って。
    (…今度から当分、飲みすぎには気を付けよう)
     今回迷惑をかけた相手が良い人そうで助かったが、相手によってはこうもいかないだろう。
    過去に付き合っていた彼女や、一度だけあった枕営業相手の客に色々と言われた記憶が蘇る。主に既成事実から結婚を迫ってくる、という一連の流れのあれだ。リアルにそんな昼ドラ展開を繰り広げられるとは、と心底驚いたのが忘れられない。またそんなトラウマ的な展開は、どう考えても御免だ。
     それに過去、自分に迫ってきた相手は女性だけではないのも問題だった。自分としては気を付けているつもりなのだが、相手からすると誘っているように見えるそうで(実際、そう言われた)男女関係なく油断出来ない状況だ。護身術と剣道を子供の頃に習っていたので、大事に至った試しはないが。
     自分の部屋に入って、壁掛時計を確認した。
    まだ朝の九時を回った所で、基本夕方からしか仕事のない自分には二度寝出来るくらい時間が余っている。人様の家で約六時間ほど爆睡出来たのなら自宅でも出来るのでは、そんな事を考えて先にシャワーを浴びてから自分のベッドへと入った。
    しかし睡眠は愚か、眠気すら全く来ないのだった。

    ***

    「甘いもの、好きだったかな?」
     宣言通り手土産を持って、相手の家を訪れる。普段、女性相手の接客ばかりなのもあって、気付けばそれなりに有名な店のケーキを数個見繕って買ってきてしまったのだが、これは好みが分かれそうだ。苦手だと言われたら持って帰ろう、そう思いつつ相手に聞く。
    「…本当にやってくるとは、律儀だなぁ~あんた」
     目を丸くしてから笑った彼に言われて、そんな事ないよと慌てて返す。不覚にも少し動揺した。
    「甘いの、結構好きだぜ。あんがとさん」
     時間あるなら寄ってかねぇか?茶くらい出すぜ その言葉に、子供の頃近所で仲良くしてくれていたおじいちゃんを思い出す。あまりに自然な様子に、一瞬断り損ねそうになった。
    「いや、それは流石に悪いよ。僕はお詫びに来たんだし」
    「まぁまぁ、忙しいなら無理にとは言わねぇが、…これもきっと何かの縁だろ。いいじゃねぇか」
     なっ! と無邪気に笑われるともう断れなくなる。
    「じゃあ少しだけ。お言葉に甘えて」
     笑い返して、ついこの間お邪魔した家の玄関を潜った。
    前回の時は正気じゃなかったのもあって、室内がどういう雰囲気か認識すら難しかったが今は違う。自分の部屋だと思い込んでいたのもあったが、自分の部屋とは当然ながら全然違う雰囲気だった。
     家具をほぼ黒一色で統一している自分の部屋と違って、彼の部屋はカラフルだ。家具の殆どは白で、床に敷かれているラグやソファの上のクッションは柄物で目に賑やかな印象を与えている。
     邪推でなければ、多分彼女が選んだものなんだろうなと燭台切は考えた。南国を思わせるその柄に、女の気配をびしばし感じて。
    「適当に座っててくれ。紅茶でいいか?」
    「あ、うん。お構いなく」
     ソファの端に座って、大人しくしておく。殆んど会話した事のない相手の部屋へ上がるのに慣れていない訳ではないが、その相手は圧倒的に異性が多いので同性というのは新鮮だった。
    「薬研君は学生さんなのかな?」
    「おう、今年から大学に通い始めた所だ。あんたは? 随分派手なスーツを着てたと思ったが、普通の会社員って訳じゃねぇんだろう?」
     台所に入ってガス台に薬缶をかけ、薬研はティーポットに茶葉を入れる。
    「っと、余計なこと聞いたか…?」
     はっとしたらしい相手に、返事を返す前に言われた。
    「ううん、気にしていないよ。あの格好目立つしね。僕は所謂ホストっていう職業をしているんだ。そうすると職業柄、ああいう格好は免れなくて…」
     だから慣れているよ、と言うのもおかしいのかも知れないがそう言っておく。
    「そういうもんか」
    「そういうものだね」
     少しの間の後、お湯が沸いたのでそれをティーポットに入れて、彼はお茶を運んできた。
    「でも確かに納得ではあるな」
     ソファの前にあるローテーブルへお茶一式を置くと、彼は頷きながらそう言う。
    「何がだい?」
     その様子を見ながら、何について納得されたのか分からずに問うた。答えが返ってくるより先に、目の前へ紅茶の入ったティーカップが置かれる。
    「あんたみたいな美人にはぴったりな職業だろうと思ってさ。違うか?」
     美人、と過去に言われたことは数えられる程度にあったような気がするが、こんなにも裏表のない言い方は初めてされた気がした。そんな事を考えていたら反応に遅れる。
    「あ、うん…? はは、そんな事を言われたのは久しぶりだよ。君は随分変わった視点を持ち合わせているみたいだね」
    「そうか…? あんたみたいな小奇麗な顔をしている奴は皆美人に見えるがなぁ」
     ケーキの箱を開けて、青年は無邪気に笑う。フルーツタルトを手に取って、あんたは何にする? と聞いてきた。僕は君が食べないものでいいよ、と答えておく。何せ彼のために買ってきたものだ、これらは。
     じゃあこれな、とチョコレートケーキとフォークを渡された。図らずも食べたいものが回ってきて、良いのかなと内心だけで思う。
    「…どうもチョコレートってやつは胃がもたれるんだよな」
     そう彼が言うならと、大人しく受け取っておいた。
    「フルーツの入ったものが好きなのかい?」
     いただきます、と手を合わせてから聞いてみる。
    「んー…そういう訳でもないんだが、バターケーキとか、ああいう懐かしい味がする方が好きだな。落ち着くっつーか」
     意外と思いながら、相槌を打つ。
    「珍しいね、君くらい若かったらその存在も知らなそうなのに」
     大きい一口でケーキを頬張って、彼は続けた。
    「上の兄貴たちの影響でな。大体俺の兄弟は皆好きだぜバターケーキ」
    「仲が良さそうでいいね。兄弟は多いのかな?」
    「あぁ、傍から見たら大家族ってやつだと思う」
     いっそ順調すぎるくらいに、世間話には花が咲く。自分もそうだが、相手もあまり人見知りをして喋れない質ではないらしい。
     気付けば一時間近くお互いの話をしていて、すっかり顔馴染みのご近所さん、というような状態だった。
    どこか親しみやすい相手には、いっそ覚えていない何処かで、出会っているのではないかとすら思う。ただそんな事をこちらが考えていると明かすには、付き合いが浅すぎた。冗談で言った所で、気まずい空気を作り出しても嫌なので黙っておく。
    「そろそろお暇するよ、ご馳走様でした。ケーキまで僕が頂いてしまって本当に良かったのかな」
    「あの量じゃ、一人で食いきれねぇから寧ろ助かったぜ」
     屈託なく笑って、彼は言う。そう言われると複雑だが、今後の為に覚えておくよと返しておいた。
    「でも君なら、一緒にケーキを食べてくれる相手くらい居るだろう」
     疑問に思ったことが、つい口をついて出る。反射とでも言えるくらい自然にそれは出てしまって、出た後に内心だけで後悔した。
    「ははっ、あんたと違ってそう上手くはいかねぇさ。生憎、女気は全くないものでな」
     しかし相手は気にした様子もなく軽く笑う。慣れていそうな台詞回しに、いつも言っているのかなと何となく思った。
    「そうなのかい? うちの店で働いて欲しいくらいだけど」
     年上のお姉さん方にモテそう、と判断しつつ冗談交じりに言ってみる。本気ではないが、うちの店の売上には貢献してくれそうな人材だと思って。
    「冗談が過ぎるぜ、燭台切さん」
    「結構本気なんだけどな~。…じゃあ、本当にご馳走様。お邪魔しました」
    「おう、また何かあったら声掛けてくれ」
     一礼してから玄関を出て、そのドアを閉めた。何かあったら等と告げる辺り、本当に素直な良い子なんだなぁと改めて考える。真っ直ぐ育ってきたのだろう。すれたような発言は殆んど聞かなかった。
     言うだけと思って、店の事を持ち出してみたりしたが、実際に働きたいと言われたら心配になりそうだ。
     そんなことを考えながら自宅へ戻ると、時間を確認してから着替えた。二時間後にはもう仕事が控えている。商売道具である自分の姿を今一度、頭の上からつま先まで確認してから出勤しなければいけない。
     またあまり眠れない日々が始まってしまったが、先日の爆睡事件のお陰でまだ顔色は悪くなかった。

     隣人に迷惑をかけてから、はや二週間が過ぎようとしていた。
    「はぁ……」
    「…どうした、そんな深い溜息なんか吐いて」
    「鶴丸さん」
     職場の控え室で盛大な溜息を吐けば、同僚に声を掛けられる。正直、あまり心配されるのは得意ではないのだが、今回ばかりはもう限界だった。
    「実は最近また眠れないんだよね」
    「あぁ、例の不眠症ってやつか」
     室内に用意されているソファに座って、両手で顔を覆いながら告げれば、隣に座った色の白い男は自分の横に同じく座り、用意された珈琲を飲んでいた。
    これから仕事なので、気付の一杯というやつなのだろう。
    「病院には行ってないのか?」
     ソファの向かいにあるテーブルの上にカップを置いて、彼は聞いてくる。それには首を横に振って答えた。
    「……格好悪くて行けない…」
    「ははっ、相変わらず阿呆だな君は」
     予想通りの返事が返ってきたのに項垂れる。分かっているのだ、本当は。いい加減、自分の身が限界だと肌で感じるくらいなら、専門の機関へ行って然るべき治療を受けるのが正しいという事くらい。
    「分かってるんだけど…でも二週間前は爆睡出来たんだよ…? だから多分、本気を出せば僕は眠れる筈なんだよ!多分!!」
     相手に向き合って少々熱弁紛いのことをしてみた。生温い視線で見守られただけで、止めておけば良かったと後悔する。
    「例の隣人君の家で、って話だろ? じゃあもういっそ泊めて貰ったらいいんじゃないか。向こうが良いって言えばの話だが」
     そんなに悪い奴じゃなかったんなら相談してみたら良いだろう、と随分簡単に言われてしまう。
    「それは…そうかも知れないんだけど…。流石に不躾過ぎるだろう」
     確かに相手の性格からして、相談すれば一晩くらい泊めてくれそうな気もしなくはないが、如何なものかと思う燭台切だ。そもそも二回しか顔を合わせた事のない男をわざわざまた宿泊させようという、そんな物好きはそう居ないと思う。
    「でも限界なんだろう? 君が俺にそんな事を言うくらいなんだったら、何でも試せるものは試してみる価値はあると思うがなぁ」
     にやり、とした顔で言われた。何となく、別の邪推もされていそうな表情で、あまり彼の言う通りにはしたくなくなる。
    「…そんな顔をしても鶴丸さんが期待している様な事は何もないからね」
     向こうもこちらもそういう趣味はないよ、と念を押しておく。向こうもと言ってはみたものの、確証がある訳ではなくただの希望的観測なのだが、相手の沽券を守るためには必要だと思って。
    「そんな事言って~侘びに行きながら軟派してたって話は廣光から入手済みだぜ? 口説くほどなら何かあって然るべきだろう。俺を驚かせてくれ!」
     完全なる私情で、随分斜め上な要求を簡単にしてくれる。そもそも軟派などはしていない。一緒にお茶をしただけなのに、何処でそんな尾鰭が付いたのか。
    「…他人事だと思って…」
     無責任な言葉に頭を抱えた。面白がって人を揶揄うのも大概にして欲しい所だ。特にこんな精神的に余裕のない時には、是非とも止めておいて頂きたい。
    「まぁ、まぁ!騙されたと思って話だけでも聞いて貰って来たら良いじゃないか」
     結果を楽しみに待ってるぜ そう笑い飛ばされたが本当に笑えない事態なので、癪だがこの相手のアドバイスをそれなりに検討しようとも思った。
     一先ず今夜の仕事を終えてから、ゆっくり考える予定である。ゆっくり考える、と思っても頭がちゃんと働いてくれるかは、また別の話だが。


    ..................................................................................
     2 


    「おぉ、いらっしゃい」
    「お邪魔します」
     相手の部屋の玄関を跨いで、その部屋へと入った。
    三回目になるこの部屋への訪問は、しかし前回と前々回とは事情が違って微妙に緊張する。何せ自分の手には毛布と枕などの入った袋が下がっているからに違いなかった。
    その上、今日は前回と前々回と違いジャージというラフな格好でもあるので余計だ。前の二回はスーツだった。
    「適当に上がって寛いでてくれ、今ホットミルクでも作る」
    「あぁ、お構いなく…!」
     二人でリビングダイニングへと入ると、薬研は真っ直ぐに台所スペースへ向かう。それを追いかける訳にもいかないので、燭台切は大人しくリビングのソファへと腰掛けた。数日前に訪れた時と何も変わっていないような部屋に、落ち着くような落ち着かないような、複雑な心境だ。
     ふぅ、と短く息を吐き出す。手持ち無沙汰で、やはり落ち着かない気持ちの方が勝っていた。
    「ほらよ、これで少しは眠れるようになればいいんだが」
     レンジで温めただけだけどな、と二人分のマグカップがテーブルの上に置かれる。
    「…本当にごめんね、何から何まで」
     いただきます、言ってカップに口をつけた。熱すぎない温度の牛乳は飲みやすく、喉を通っていく。体の芯から温まる感覚にどこかほっとする。
     秋から冬になろうとしている肌寒い夜には、こんな風に温かい飲み物は有難かった。
    「でも本当に良かったのかい…? 君から見たら、僕なんてまだ得体が知れないだろう。それに他の予定とか」
     無理を言ったのは自分だが、本当に受け入れてもらえるとは思わなくて、つい何度目かになる確認をしてしまう。
    「確かにあんたの事はよく知らねぇが、…まぁ、困った時はお互い様ってやつだ。それにうちに泊まるくらいでその不眠症?っつーのが治るとも限らねぇし、ちょっとした実験だと思えば楽しいぜ、俺は」
     それに平日の夜を一緒に過ごしてくれるような相手は、今の所居なくてな。と続けられるが、それが事実なのか気遣いなのかは判断出来なかった。
    「ありがとう」
     これ以上何か重ねて言うのも野暮か思って、お礼を告げるとその話はそれまでにする。それから思い出して、持ってきた袋の中からプラスチックの容器を取り出した。
    「薬研君の好みか分からないんだけど…これを一応渡そうと思って」
     半透明な箱を彼に渡すと、何を渡されたのか分からないと言いたげな顔をされる。
    「口に合うか分からないけど、一晩お世話になるし朝ご飯を作ってきたんだ。気が早いんだけど、僕と君とだと生活時間が違うし、何時でも食べられるだろうと思って」
     簡単なものなんだけど 説明している間に、相手はその容器の蓋を開けていた。
    「手巻き寿司か…!」
    「うん。生ものはあんまり使わないようにしたんだけど、野菜が入ってるから冷蔵庫に入れておいた方が傷まないかな」
     心なしか、その箱の中身を覗いている大学生の顔がきらきらしているように見える。嫌いなものではなかったようで、燭台切は安心した。
    「助かるぜ、ありがとさん! 朝はつい、手抜きしがちでな。食わないことも屡々(しばしば)なんだ」
    「へぇ、…でも納得かな。薬研君細いもんねぇ。三食食べてないならその細さも納得だよ」
    「そうか…? 昔からこんなもんで、大して肉が付かねぇ体質ってだけだと思ってるんだが」
    「えっ…全然体型変わってないの…?」
     嘘だろ、と思いつつ聞く。筋肉もあるが油断するとすぐ肉が付く自分の体質からしたら、相手の体質が羨ましくて。
    「まぁ、殆んど? そう、らしいな。兄弟にも相変わらずだってよく言われる」
     嬉しくはねぇんだが、そう苦笑する青年に彼には彼の悩みがあるのだなと思う。太りにくいというのも、ある意味悩ましそうだ。
    「流石に身長は変わったんだよね?」
     自分より低いとはいえ、日本人男性の平均身長よりありそうなので、念のため聞いてみた。勿論、冗談で。そこは流石に、と彼は笑う。
    「昔は結構なチビだったから、久しぶりに会う人間には驚かれる」
     何となく想像できるような、難しいような気持ちになった。
    そう話すと、一先ずしまってくるなと言って大学生は、渡された容器を冷蔵庫へ入れに立ち上がる。返事をしてその背中を見つめた。それから、手の中に収まっているカップの牛乳をまた一口飲んだ。まだ温かい。
    「…そうだ、薬研君の大学ってここから近いの?」
    「二駅隣だぜ。何かあるか?」
    「あぁ、うん。何時に起きればいいのかなと思って」
     通学時間にもよるけど早く起きた方がいいだろう もう大分飲みやすくなったマグカップの中身を、揺らしながら聞いた。
    「その話も先にしとかないとだったな。八時には出たいから…そうだな、七時くらいに一旦起きて貰えれば」
     後はまた寝てもらっても構わねぇし、と続いた冗談は笑って受け流す。ソファに戻ってきた彼もマグカップを手にして、その中身を煽った。随分、飲みやすそうな印象だ。
    「家を出る時間は結構早いんだね? 大学生ってもう少し朝は遅いイメージ強かったんだけど」
    「朝は図書館に寄って少し勉強したいのと本を借りたくてな」
    「へぇ、頑張り屋さんなんだね」
    「まだまだ授業について行くっていうのが出来てねぇっつうだけの話さ」
     苦笑して、相手はもう一度ホットミルクを飲む。もう中身を空にしたようで、軽くなったマグカップをテーブルの上へと置いた。
    「…学部を聞いてもいいかい?」
     こちらもまた、中身の残るカップへ口をつける。飲みやすいが、あっという間に冷えてしまいそうな温度だと思った。
    「あぁ、薬学部だぜ。名前のせいもなくはないが、昔から薬に興味があってな」
     周りにはネタ扱いされる事もあるが そう言って軽く笑う。
    「僕も人のことは言えないけど、お互い珍しい苗字だもんね」
    「そうだなぁ…あんたの苗字も初めて聞いたぜ」
    「だよねぇ。僕も薬研、って初めてだったよ」
     顔を見合わせて、笑い合った。燭台切はまたマグカップに口をつけて、ぬるくなった中身を全て飲んだ。空になった陶器をテーブルに置く。
    この部屋にいると時間が穏やかに流れているような気がして、落ち着く、と思う。少なくとも、この部屋に入ってきたばかりの時よりかは。
     両腕を上げて背筋を伸ばすと、ソファの背凭れに身を預ける。
    「…眠れそうか?」
    「うん、自宅よりはね…」
     自分の向かいにいる相手に聞かれて、思わず苦笑が漏れた。自己申告の内容が、我ながらひどいのも手伝って。
    「そういえば、僕って何処で寝たらいいのかな?」
     不意に気になって、相手へと視線を向ける。一人暮らしの室内で、部屋数も限られているマンションの一室に宿泊を許された時から気にはなっていたのだが、聞くタイミングを逃していて今になってしまった。
     今自分たちが座っているソファが一番その確率が高いよね、と考えつつ確認する。ただ、人によってはリビングの一番使用頻度が高そうな家具で、他人に眠られるのは抵抗があるかも知れない、という配慮から。
    「あぁ、それなら俺のベッドを使ってくれ」
     ちゃあんとシーツも替えておいたしな そう笑顔で告げられ、思わず笑顔のまま大人は固まりかけた。
    「…っは!? いやいや、何言ってるの、駄目だよ! 君がこの家の家主なんだからベッドで寝てよ?!」
     僕はこのソファにお世話になるからっ、と慌てて言い募る。何がどうしてこんな事を相手が言い出すのか、全く分からなくて。
    「いや、そう言ってもこの間見事に爆睡したのはベッドだったろう? 前回と同じか、似た状況じゃなきゃ不眠解消にはならんかもと思って、一応」
     そんな見方をされていたのかと関心するのと同時に、しかし突発的な宿泊を了承してもらった友人でもない顔見知り程度の知り合いに、唯一と思われる寝具まで譲られるのはどうかと思う燭台切だ。正直なところ、抵抗ばかりがある。
    「それは…そうかも知れないんだけど、流石にちょっと…」
    「まぁ、今回は本当に実験と思えば。俺のベッドを貸した所で本当に眠れるかは別の話だろうし、何でもやってみた方がいいと思うが…」
     テーブルの上へ視線を置いていたのを止めて、大人は薬研へと向き直った。
    「…君は本当にそれでいいの? 無理に付き合わなくていいんだよ、僕は君の生活を乱したい訳ではないし」
     言いながら手遅れな自覚はあるのだが、これ以上はという意味でだ。あまり手間や迷惑をかけたくはない、可能なら今以上には。
    「うん? そんなに畏まらなくても俺っちなら何処でも寝れるから気にしなくていいぜ」
     しかし大人の心配をよそに、言い出した本人は至って呑気だ。そんなに警戒心が薄くていいのか、と思わず更にこちらが不安になる。
    「そういう問題かな…」
     思わず頭を抱えて俯いた。
    「それにもう、前回一緒に寝ちまってるしな」
     相手の声が頭の上を通り過ぎる。かに思えたが、驚いた顔をした大人が頭を上げて、それを阻止した。
    「…何て?」
    「いや、だから一緒に寝たって」
    「いつ…?」
    「この前」
     全ての質問に答えてもらっているというのに、頭がその返答を理解してくれない。
    「ごめん、君の言っている事が全く分からないんだけど」
     相手の目を見詰めながら、理解不能の意志を伝えた。すると、そうかと短く言って、彼は前回の時の詳細の話をする気になったようだ。
    「俺たちが知り合うきっかけになった日があっただろう。あの日、あんたが部屋に入ってきた頃、俺は風呂に入ってた。で、風呂から出たら見知らぬ男が自分の部屋で爆睡してたと、ここまではいいか?」
    「うん、大丈夫」
     やっと日本語に聞こえてきた単語に、燭台切は頷く。
    「で、まぁ俺は自分の家だし、ちょうどベッドも半分空いてたから、ただそのスペースで寝たってだけの話なんだがな。意味は通じたか…?」
     事もなげに説明されたが、何か大事なものが足りない気がする彼の台詞に、こちらは素直に頷けなくなる。
    「…どういう経緯かは分かったよ。でもね、そこで同じベッドに入れる君が分からないかな」
     隠しようもない本音だった。自分が彼の立場だったなら、どうしただろうかと考える。そして、絶対に彼と同じ行動は取らない、とそれだけは断言できる自信があった。
    「そうか? 誰かと雑魚寝する感覚でついやっちまっただけなんだが」
     それに相手が美人だったし、寝顔も悪くなかったぜ 本気か冗談かも判断しにくい声音で、そんな事を言われてもと思う。
    「…そういう台詞は女の子に言ってよ」
     現役ホストが貰うには、とても頂けないであろう言葉に苦笑しか出ない。
    「とにかく、…あまり受け入れられないけど、前回の事が知れて良かったよ…。でもそうしたら、今日も同じ状況じゃないと実験にならないってことなのかな?」
     言いながら、どうかしているなと思う。どう考えても男二人で、ひとつしかないベッドに入るというのは、友人同士でも滅多にしない事だ。自分の周りでは。
     それをどうしてご近所さん、程度の相手としようと言い出してしまったのか。我ながら分からないのだが、睡眠不足で藁にでも縋りたいのだけは確かだった。
    「そうだな、あんたさえ大丈夫なら俺はどっちでもいいぜ。思ったよりベッドでの添い寝も狭くねぇしな」
     でかい抱き枕が横にあると思えば、と続いた言葉に何だか毒気を抜かれる。こちらが考えすぎなだけなのでは、という気持ちになってきて。
    「わかった、今夜は実験なんだもんね? 何でも試してみよう。君には迷惑をかけるけどよろしくね」
    「今更気にしなさんな」
     もう空になっているマグカップをふたりで手にして形だけの乾杯すると、ご馳走様とお粗末さまを言い合う。特に意味のない行動だと理解しているのに、いや、理解しているからこそ、何となく可笑しかった。
    それからシンクにカップを置いて、洗面所に移動すると交互に歯を磨く。その流れのまま、見慣れぬベッドへと入った。持参した枕と毛布と、少し見慣れた青年と一緒に。
    「…やっぱり…君はこれでいいの?」
     聞かずにいられなくて、肩が何とかあたっていない隣の男に話しかける。彼の部屋にある寝具がダブルベッドでまだ良かった、と思えばいいのだろうか。
     心なしかうとうとし始めてきていて、自分の考えはまとまらない。
    「くどいぜ旦那、実験だって話でまとまっただろう。今日の所はな」
    「うぅん…そうなんだけど…」
     やっぱりむさいと思う、という本音はふわふわした頭の中で言葉にならずに消えていく。前にも嗅いだ他人の匂いに、どこかで自分の意識がまた緩んだのを感じた。こんな感覚は初めてのはずなのに、どうして安心にも似た心地に自分がなれるのかよく分からない。
    「まぁ、あんたがどうしても気になるっつうなら…俺のことは抱き枕だと思ってくれ。抱き心地は保証しかねるが」
     相手の軽口に笑いたい気がするのに、目蓋がひどく重い。それに意識もあやふやだった。
     返事をしたい自分に反して、体は勝手に眠りにつこうとしている。それを喜びたいのに、考える暇も寝不足の大人にはなかった。
    「…おやすみ、燭台切さん」
     隣から掛けられた優しい声の挨拶も、彼にはもう届かない。

     聞き覚えのある電子音に、ぼんやりしながら目を覚ました。ただ視界に入った天井に、あまり見覚えはない。
    (あぁ、…そうだった薬研君の部屋に…)
     何度か瞬きをして、眼帯で覆われていない左目を擦った。それから、何だかあたたかい右側に視線を向ける。ほとんど距離のない場所に、たった今考えた男の顔があった。
    驚いて飛び起きるとその動作でベッドが揺れて、相手も瞳を開ける。
    「もう朝か…んんー」
     独り言を呟いて、起き上がると後頭部を掻く。あまりに自然な仕草で、多分隣に他人がいるのを忘れているのでは、と燭台切は思った。
    「おはよう…? 起こしちゃってごめんね」
    「…いや、起きたかったから助かった。おはようさん」
     一瞬だけ目を見張ったが、寝起きの緩んだ表情で薬研は笑う。
    そしてベッドから降りて部屋から出ていく彼に、歩きながら頭にぽんっと軽く掌を置かれる。幼少期ならいざ知らず、今では滅多に経験する事のない動作に、思わず大人は一瞬固まった。だが、それをした本人は何も気に止める事なくリビングへ向かったようだ。
     兄弟が多いという話を聞いたことを思い出して、彼の弟の誰かと間違われたのかなと流すことにした。優しかった掌に、青年の兄力を垣間見たような気がしないでもない。

    ***

    「…それで? 俺は大学に行くが、あんたはどうする」
    「どうするって聞かれても、自分の部屋に帰るけど」
     寝起きに熱い珈琲を淹れてもらって、それを飲みながら質問に答えた。久しぶりに七時間睡眠を貪れて、心身共に健やかだ。何日ぶりか分からないが、クリアになった頭で朝を迎えられるというのはいいものだと思う。
     ただ今、何を聞かれているのかはよく分からないのだが。
    「無事今回の実験は成功したが、そっちの仕事の都合もあるし、いつでも眠れる訳じゃねぇだろう? だから今日くらいは寝溜めするかと思ってな」
     何時間居てくれても構わねぇぜ 珈琲に牛乳を入れつつ、彼は言う。
    「…その気持ちは本当に嬉しいんだけど、流石にそこまで甘えられないよ。ねぇ、…所で僕には砂糖をくれる? 実はブラックって苦手なんだよね…」
    「ははっ、あんたも子供舌ってやつか。ちょっと待ってくれ」
     シンクの上にある戸棚から、角砂糖の入った硝子製のキャンディーポットを取り出した彼にふたつお願いして、それをマグカップの中に入れて貰う。続けて銀のスプーンも。
    「何でもない顔もできるんだけど…ここではそういうのも必要ないから」
    「モテる男は大変だな」
    「君に言われるのは複雑かな」
     僕より余程モテてるんじゃない? 本音を混ぜて相手を揶揄った。同級生の多い大学では、さぞかし人気がありそうで。
    「まさか。それだけは絶対にないな」
     軽く笑い流して、彼はカフェオレにしたマグカップへと口を付ける。どうしてそんなに断言できるのか分からないが、理由を聞く間もなく相手は着替えに部屋へ戻っていった。
     ついのんびりしてしまっていたが、あまり長居しても悪いなと気付いて甘くなった珈琲を飲み干す。
    こちらの仕事は基本的に夕方からだ。だが一般的な生活をしていれば、朝の八時を迎えようとしている今の時間帯はさぞ忙しいだろう。その上お世話になっている彼は学生であるし、その為に朝の予定も前もって聞いていたのだった。ここは今すぐ御暇するのが妥当と思われる。
    「ご馳走様、それじゃあ僕はこれでお邪魔するね」
     そうリビングから声をかけて、流しに借りたマグカップをまた増やした。本当は昨夜の分も洗って返したいくらいだが、ご近所さんにそこまでされるのはちょっとどうかと思うので止める。
     何となくこの部屋の主には嫌がられる気もしないのだが、そういう問題でもないので考えない事にした。
    「おぉ! あっ、朝飯ありがとさん! 遠慮なく頂くぜ」
     大きい声が隣の部屋から返事をしてきて、何かを漁っている音を立てながらそれは右往左往しているようだ。聞こえる声が移動しているのが気配で分かる。
    「慌てて忘れ物がないように、気を付けて!」
     玄関に立って、こちらも大きな声で話しかけるとその部屋を出た。扉を閉めるか閉めないか辺りで「またな」と彼が言うのが聞こえる。それに少しだけ笑って、返事はしなかった。
     この日から、一ヶ月に一度彼の部屋に宿泊させてもらう約束をしたのだが、それは三週間に一度になり、更に二週間に一度になり、一週間に一度になった。
     ただ一週間も睡眠不足が続くと、昼間に買い物などで偶然相手と会った時に心配されて部屋に連行されたりして、実際には三日に一度くらいのペースになっている。
     初めて出会った日から、もう季節はふたつ巡っていた。
     ただのお隣りさん、と呼ぶには、あまりに近い距離になって、しかし友人とも断言出来ないこの関係には、一体どんな名前をつければいいのだろう。
    #再録 #薬燭 #現パロ #ホストと医学生
    1 


    「っおい、どうして今日はそんなに泥酔しているんだ光忠! 送れる奴が誰もいない日に限って…!」
    「あははっ~! だいじょうぶだよ、長谷部くん、タクシー使ったらすぐそこだし❤」
     へらへら笑って、同僚にそう告げる。少し心配症な相手はそれでも納得していない顔をしているが、勝手にタクシーを止めて乗り込んだ時には諦めた表情になった。
    「…何かあったらすぐに連絡しろ。うちの稼ぎ頭に何かあったら、社長に申し訳が立たないからな」
     特にお前は人間関係に問題が有りすぎる そう念まで押される始末。僕は一体、どれだけ彼の信用がないのだろうかと考える、一瞬だけ。
    「あぁ、うん。わかってる、わかってる~! じゃあ、お先に」
     しかし思い当たる節が有りすぎたので、そこには触れないでおいた。職業柄、どうしても人間関係が拗れやすい自覚もあって、黙っているのが一番との判断から。
    「家に着いたらちゃんと連絡するから」
     一応そう告げて、彼と別れた。タクシーの後部座席に凭れながら、ネオンの眩しい街並みを眺める。夜でも昼間でも見た目からして騒がしいこの街が、静かになる日は来るのだろうか。そんな事をぼんやり考えた。
     少し疲れが溜まっているせいか、どうも思考回路が暗くなりがちだな、と自分を判断する。ここ一ヶ月ほど、熟睡というものをしていないのもその理由の一つだろう。
    (でも今日は沢山飲んだし…きっと眠れるよね、いい加減)
     心底眠れるとは正直思っていないものの、少しでも長く眠っていられればと期待せずにはいられなかった。それくらい、日々の睡眠の浅さと短さに悩まされていて。
     タクシーが自宅マンション前に着いて、支払いを済ませるとエントランスホールへと入った。
    最新鋭のセキュリティが売りのこの建物は、入るのにも出るのにも、そこそこ時間が掛かってあまり好きではない。のだが、上司命令で渋々住んでいるマンションだ。社長には、お世話になっている自覚もあるので断れなかったというのが本音だが。
    (出たり入ったりの時間さえ掛からなければ、他に不満はないんだけどな…)
     やっと正面入口から建物内へ入って、大きくはないエレベーターのひとつへと乗り込む。八階のボタンを押して、その箱に凭れた。
    まだご機嫌な酒が体中を巡っていて、自分の口から鼻歌まで漏れてくる。深夜三時になろうかという時間で、自分以外に人影を見ない。そのせいもあって、人目を気にすることもなかった。良くも悪くも、機嫌の良さに水を差すものは何もない。
     エレベーターを降りて、左に曲がると角にある自分の部屋へとふらふら歩いた。ここにきて、やっと自分の足元がふらついているのに気付く。千鳥足というやつだ。
    「あっはっは…これは、心配されるね~」
     独り言を呟くと、ポケットから鍵を出してそれと一緒にスマートフォンも取り出した。ラインの画面を開いて、同僚に「着いたよ、おやすみ」とだけメッセージを送っておく。これで今日の仕事は完全に終わったようなものだ。
     あとは機嫌のいいまま、ベッドへ沈んでしまおうと部屋のドアへ鍵を入れる。しかしその鍵を回す前に、その扉は開いた。あれ?おかしいな、と思いつつドアを開けて見慣れた玄関に対面してから、鍵を閉め忘れたのかな気を付けなくちゃと考え直して中に入る。少し靴を脱ぐのに手間取った。
     3DKの室内は、玄関から短い廊下があってすぐリビングダイニングへと続いている。その部屋の奥、右手側に扉が二つある内の奥、ベランダ側へあるドアの部屋が寝室だった。
     迷いなくその部屋へ入ると、机の上へ白いスーツの上着を無造作に掛けてベッドへ倒れ込んだ。いつもと違う匂いがする気がしたが、どうにも眠気が強くて何も考えられない。
     寝て起きてから考えよう、そう判断する前にもう意識は落ちていた。


    「…ぉい、……おい、って…」
     重たい意識が持ち上がってきて、耳が余計な音を拾ってくる。あと五分、ごにょごにょと発音の悪い声で答えた気がしたが、相手は諦めてはくれなかった。
    「また眠られちゃ困るんだ、こっちは」
     聞き覚えのない声に、やっと自分の目が開く。そうは言っても、ぼんやりとな上に、唯一見える左の片目だけなのだが。
    「………誰だい? きみ」
     目の前には、薄幸そうな線の細い美青年、と思われる男がいた。多分、男の子ではない、くらいの認識で本当に青年なのかも分からないが如何せんまだ眠気が勝っている。自由になる左目を擦って、視界を少しでも晴らそうと試みた。
    「誰って言われてもなぁ…。こっちからしたら、あんたが誰だっていう話なんだが」
     ここが何処か分かるか? そう続けられて、僕の部屋だけどと考えながら室内を見回す。結論から言おう、自分の部屋ではなかった。その事実に気付くまで、約一.五秒。
    思わずベッドから起き上がると、その床へ移動して正座をしていた。
    「えっと、すまない…全く覚えていないんだけど、ここはもしかしなくても君の部屋、だったのかな? 勝手にベッドまで借りてしまって本当に…何て言ったらいいのか…!」
     俯いて床を見つめながら頭を下げる。何たる無様な…と頭の中で、これ以上ない本音が回っていた。あまりの申し訳なさに顔も上げられない。
    「頭を上げてくれ、目が覚めたなら何よりだ。謝罪はいいから、すまんが先に出て行ってくれるか? もう出掛けなきゃいけない時間でな」
     特に責める訳でもなく、優しく言われた。何とか顔を上げて相手を見る。
    「本当にごめんね、えっと、名前を聞いてもいいかな?」
     僕は燭台切光忠、このマンションの805号室に住んでるんだ 流石にこのまま帰る訳にもいかなくて、名乗りつつ相手の名前を聞いた。後日お詫びに何か持ってこよう、せめてと考えている大人である。
    「あぁ、お隣さんだったのか…。俺っちは薬研藤四郎。ここ、804号室の住人だ。まぁ、よろしく頼むぜ」
     手を差し出されて、握手した。随分自然なその仕草に、正座していた体を起こされて立ち上がる。
    自分より目線が若干低いくらいの相手を見下ろした。やはり綺麗な顔立ちをしているなと思って、その所為か余計彼の話し方とのギャップを感じる。江戸っ子、と呼ばれる人達を連想させられた。
    「薬研君か、うん、宜しくね。また後日、改めてお礼をしに来たいんだけど、都合の悪い日はあるかい?」
    「いや、特にねぇが…そんなに気にしないでくれ」
    「でもこれじゃあ僕が格好つかないよ!」
     格好つかないって何だ? と言いたげな顔をされたが食い下がる。
    「せめて、それくらいはさせて欲しい…」
     駄目かな、ちょっと困りつつ小首を傾げて尋ねた。相手は一瞬目を見開いて、それから頷く。
    「そこまで言うなら、分かった」
     返事に安心して、やっと自分の上着を回収するとその部屋を後にした。玄関を出る前に再度、謝罪をしてから。
     マンションの廊下に出て、本当にお隣に居た事に改めて驚いた。角部屋の自分の部屋と、その手前にある部屋の扉をよく間違えて開けたものだと思って。
    (…今度から当分、飲みすぎには気を付けよう)
     今回迷惑をかけた相手が良い人そうで助かったが、相手によってはこうもいかないだろう。
    過去に付き合っていた彼女や、一度だけあった枕営業相手の客に色々と言われた記憶が蘇る。主に既成事実から結婚を迫ってくる、という一連の流れのあれだ。リアルにそんな昼ドラ展開を繰り広げられるとは、と心底驚いたのが忘れられない。またそんなトラウマ的な展開は、どう考えても御免だ。
     それに過去、自分に迫ってきた相手は女性だけではないのも問題だった。自分としては気を付けているつもりなのだが、相手からすると誘っているように見えるそうで(実際、そう言われた)男女関係なく油断出来ない状況だ。護身術と剣道を子供の頃に習っていたので、大事に至った試しはないが。
     自分の部屋に入って、壁掛時計を確認した。
    まだ朝の九時を回った所で、基本夕方からしか仕事のない自分には二度寝出来るくらい時間が余っている。人様の家で約六時間ほど爆睡出来たのなら自宅でも出来るのでは、そんな事を考えて先にシャワーを浴びてから自分のベッドへと入った。
    しかし睡眠は愚か、眠気すら全く来ないのだった。

    ***

    「甘いもの、好きだったかな?」
     宣言通り手土産を持って、相手の家を訪れる。普段、女性相手の接客ばかりなのもあって、気付けばそれなりに有名な店のケーキを数個見繕って買ってきてしまったのだが、これは好みが分かれそうだ。苦手だと言われたら持って帰ろう、そう思いつつ相手に聞く。
    「…本当にやってくるとは、律儀だなぁ~あんた」
     目を丸くしてから笑った彼に言われて、そんな事ないよと慌てて返す。不覚にも少し動揺した。
    「甘いの、結構好きだぜ。あんがとさん」
     時間あるなら寄ってかねぇか?茶くらい出すぜ その言葉に、子供の頃近所で仲良くしてくれていたおじいちゃんを思い出す。あまりに自然な様子に、一瞬断り損ねそうになった。
    「いや、それは流石に悪いよ。僕はお詫びに来たんだし」
    「まぁまぁ、忙しいなら無理にとは言わねぇが、…これもきっと何かの縁だろ。いいじゃねぇか」
     なっ! と無邪気に笑われるともう断れなくなる。
    「じゃあ少しだけ。お言葉に甘えて」
     笑い返して、ついこの間お邪魔した家の玄関を潜った。
    前回の時は正気じゃなかったのもあって、室内がどういう雰囲気か認識すら難しかったが今は違う。自分の部屋だと思い込んでいたのもあったが、自分の部屋とは当然ながら全然違う雰囲気だった。
     家具をほぼ黒一色で統一している自分の部屋と違って、彼の部屋はカラフルだ。家具の殆どは白で、床に敷かれているラグやソファの上のクッションは柄物で目に賑やかな印象を与えている。
     邪推でなければ、多分彼女が選んだものなんだろうなと燭台切は考えた。南国を思わせるその柄に、女の気配をびしばし感じて。
    「適当に座っててくれ。紅茶でいいか?」
    「あ、うん。お構いなく」
     ソファの端に座って、大人しくしておく。殆んど会話した事のない相手の部屋へ上がるのに慣れていない訳ではないが、その相手は圧倒的に異性が多いので同性というのは新鮮だった。
    「薬研君は学生さんなのかな?」
    「おう、今年から大学に通い始めた所だ。あんたは? 随分派手なスーツを着てたと思ったが、普通の会社員って訳じゃねぇんだろう?」
     台所に入ってガス台に薬缶をかけ、薬研はティーポットに茶葉を入れる。
    「っと、余計なこと聞いたか…?」
     はっとしたらしい相手に、返事を返す前に言われた。
    「ううん、気にしていないよ。あの格好目立つしね。僕は所謂ホストっていう職業をしているんだ。そうすると職業柄、ああいう格好は免れなくて…」
     だから慣れているよ、と言うのもおかしいのかも知れないがそう言っておく。
    「そういうもんか」
    「そういうものだね」
     少しの間の後、お湯が沸いたのでそれをティーポットに入れて、彼はお茶を運んできた。
    「でも確かに納得ではあるな」
     ソファの前にあるローテーブルへお茶一式を置くと、彼は頷きながらそう言う。
    「何がだい?」
     その様子を見ながら、何について納得されたのか分からずに問うた。答えが返ってくるより先に、目の前へ紅茶の入ったティーカップが置かれる。
    「あんたみたいな美人にはぴったりな職業だろうと思ってさ。違うか?」
     美人、と過去に言われたことは数えられる程度にあったような気がするが、こんなにも裏表のない言い方は初めてされた気がした。そんな事を考えていたら反応に遅れる。
    「あ、うん…? はは、そんな事を言われたのは久しぶりだよ。君は随分変わった視点を持ち合わせているみたいだね」
    「そうか…? あんたみたいな小奇麗な顔をしている奴は皆美人に見えるがなぁ」
     ケーキの箱を開けて、青年は無邪気に笑う。フルーツタルトを手に取って、あんたは何にする? と聞いてきた。僕は君が食べないものでいいよ、と答えておく。何せ彼のために買ってきたものだ、これらは。
     じゃあこれな、とチョコレートケーキとフォークを渡された。図らずも食べたいものが回ってきて、良いのかなと内心だけで思う。
    「…どうもチョコレートってやつは胃がもたれるんだよな」
     そう彼が言うならと、大人しく受け取っておいた。
    「フルーツの入ったものが好きなのかい?」
     いただきます、と手を合わせてから聞いてみる。
    「んー…そういう訳でもないんだが、バターケーキとか、ああいう懐かしい味がする方が好きだな。落ち着くっつーか」
     意外と思いながら、相槌を打つ。
    「珍しいね、君くらい若かったらその存在も知らなそうなのに」
     大きい一口でケーキを頬張って、彼は続けた。
    「上の兄貴たちの影響でな。大体俺の兄弟は皆好きだぜバターケーキ」
    「仲が良さそうでいいね。兄弟は多いのかな?」
    「あぁ、傍から見たら大家族ってやつだと思う」
     いっそ順調すぎるくらいに、世間話には花が咲く。自分もそうだが、相手もあまり人見知りをして喋れない質ではないらしい。
     気付けば一時間近くお互いの話をしていて、すっかり顔馴染みのご近所さん、というような状態だった。
    どこか親しみやすい相手には、いっそ覚えていない何処かで、出会っているのではないかとすら思う。ただそんな事をこちらが考えていると明かすには、付き合いが浅すぎた。冗談で言った所で、気まずい空気を作り出しても嫌なので黙っておく。
    「そろそろお暇するよ、ご馳走様でした。ケーキまで僕が頂いてしまって本当に良かったのかな」
    「あの量じゃ、一人で食いきれねぇから寧ろ助かったぜ」
     屈託なく笑って、彼は言う。そう言われると複雑だが、今後の為に覚えておくよと返しておいた。
    「でも君なら、一緒にケーキを食べてくれる相手くらい居るだろう」
     疑問に思ったことが、つい口をついて出る。反射とでも言えるくらい自然にそれは出てしまって、出た後に内心だけで後悔した。
    「ははっ、あんたと違ってそう上手くはいかねぇさ。生憎、女気は全くないものでな」
     しかし相手は気にした様子もなく軽く笑う。慣れていそうな台詞回しに、いつも言っているのかなと何となく思った。
    「そうなのかい? うちの店で働いて欲しいくらいだけど」
     年上のお姉さん方にモテそう、と判断しつつ冗談交じりに言ってみる。本気ではないが、うちの店の売上には貢献してくれそうな人材だと思って。
    「冗談が過ぎるぜ、燭台切さん」
    「結構本気なんだけどな~。…じゃあ、本当にご馳走様。お邪魔しました」
    「おう、また何かあったら声掛けてくれ」
     一礼してから玄関を出て、そのドアを閉めた。何かあったら等と告げる辺り、本当に素直な良い子なんだなぁと改めて考える。真っ直ぐ育ってきたのだろう。すれたような発言は殆んど聞かなかった。
     言うだけと思って、店の事を持ち出してみたりしたが、実際に働きたいと言われたら心配になりそうだ。
     そんなことを考えながら自宅へ戻ると、時間を確認してから着替えた。二時間後にはもう仕事が控えている。商売道具である自分の姿を今一度、頭の上からつま先まで確認してから出勤しなければいけない。
     またあまり眠れない日々が始まってしまったが、先日の爆睡事件のお陰でまだ顔色は悪くなかった。

     隣人に迷惑をかけてから、はや二週間が過ぎようとしていた。
    「はぁ……」
    「…どうした、そんな深い溜息なんか吐いて」
    「鶴丸さん」
     職場の控え室で盛大な溜息を吐けば、同僚に声を掛けられる。正直、あまり心配されるのは得意ではないのだが、今回ばかりはもう限界だった。
    「実は最近また眠れないんだよね」
    「あぁ、例の不眠症ってやつか」
     室内に用意されているソファに座って、両手で顔を覆いながら告げれば、隣に座った色の白い男は自分の横に同じく座り、用意された珈琲を飲んでいた。
    これから仕事なので、気付の一杯というやつなのだろう。
    「病院には行ってないのか?」
     ソファの向かいにあるテーブルの上にカップを置いて、彼は聞いてくる。それには首を横に振って答えた。
    「……格好悪くて行けない…」
    「ははっ、相変わらず阿呆だな君は」
     予想通りの返事が返ってきたのに項垂れる。分かっているのだ、本当は。いい加減、自分の身が限界だと肌で感じるくらいなら、専門の機関へ行って然るべき治療を受けるのが正しいという事くらい。
    「分かってるんだけど…でも二週間前は爆睡出来たんだよ…? だから多分、本気を出せば僕は眠れる筈なんだよ!多分!!」
     相手に向き合って少々熱弁紛いのことをしてみた。生温い視線で見守られただけで、止めておけば良かったと後悔する。
    「例の隣人君の家で、って話だろ? じゃあもういっそ泊めて貰ったらいいんじゃないか。向こうが良いって言えばの話だが」
     そんなに悪い奴じゃなかったんなら相談してみたら良いだろう、と随分簡単に言われてしまう。
    「それは…そうかも知れないんだけど…。流石に不躾過ぎるだろう」
     確かに相手の性格からして、相談すれば一晩くらい泊めてくれそうな気もしなくはないが、如何なものかと思う燭台切だ。そもそも二回しか顔を合わせた事のない男をわざわざまた宿泊させようという、そんな物好きはそう居ないと思う。
    「でも限界なんだろう? 君が俺にそんな事を言うくらいなんだったら、何でも試せるものは試してみる価値はあると思うがなぁ」
     にやり、とした顔で言われた。何となく、別の邪推もされていそうな表情で、あまり彼の言う通りにはしたくなくなる。
    「…そんな顔をしても鶴丸さんが期待している様な事は何もないからね」
     向こうもこちらもそういう趣味はないよ、と念を押しておく。向こうもと言ってはみたものの、確証がある訳ではなくただの希望的観測なのだが、相手の沽券を守るためには必要だと思って。
    「そんな事言って~侘びに行きながら軟派してたって話は廣光から入手済みだぜ? 口説くほどなら何かあって然るべきだろう。俺を驚かせてくれ!」
     完全なる私情で、随分斜め上な要求を簡単にしてくれる。そもそも軟派などはしていない。一緒にお茶をしただけなのに、何処でそんな尾鰭が付いたのか。
    「…他人事だと思って…」
     無責任な言葉に頭を抱えた。面白がって人を揶揄うのも大概にして欲しい所だ。特にこんな精神的に余裕のない時には、是非とも止めておいて頂きたい。
    「まぁ、まぁ!騙されたと思って話だけでも聞いて貰って来たら良いじゃないか」
     結果を楽しみに待ってるぜ そう笑い飛ばされたが本当に笑えない事態なので、癪だがこの相手のアドバイスをそれなりに検討しようとも思った。
     一先ず今夜の仕事を終えてから、ゆっくり考える予定である。ゆっくり考える、と思っても頭がちゃんと働いてくれるかは、また別の話だが。


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     2 


    「おぉ、いらっしゃい」
    「お邪魔します」
     相手の部屋の玄関を跨いで、その部屋へと入った。
    三回目になるこの部屋への訪問は、しかし前回と前々回とは事情が違って微妙に緊張する。何せ自分の手には毛布と枕などの入った袋が下がっているからに違いなかった。
    その上、今日は前回と前々回と違いジャージというラフな格好でもあるので余計だ。前の二回はスーツだった。
    「適当に上がって寛いでてくれ、今ホットミルクでも作る」
    「あぁ、お構いなく…!」
     二人でリビングダイニングへと入ると、薬研は真っ直ぐに台所スペースへ向かう。それを追いかける訳にもいかないので、燭台切は大人しくリビングのソファへと腰掛けた。数日前に訪れた時と何も変わっていないような部屋に、落ち着くような落ち着かないような、複雑な心境だ。
     ふぅ、と短く息を吐き出す。手持ち無沙汰で、やはり落ち着かない気持ちの方が勝っていた。
    「ほらよ、これで少しは眠れるようになればいいんだが」
     レンジで温めただけだけどな、と二人分のマグカップがテーブルの上に置かれる。
    「…本当にごめんね、何から何まで」
     いただきます、言ってカップに口をつけた。熱すぎない温度の牛乳は飲みやすく、喉を通っていく。体の芯から温まる感覚にどこかほっとする。
     秋から冬になろうとしている肌寒い夜には、こんな風に温かい飲み物は有難かった。
    「でも本当に良かったのかい…? 君から見たら、僕なんてまだ得体が知れないだろう。それに他の予定とか」
     無理を言ったのは自分だが、本当に受け入れてもらえるとは思わなくて、つい何度目かになる確認をしてしまう。
    「確かにあんたの事はよく知らねぇが、…まぁ、困った時はお互い様ってやつだ。それにうちに泊まるくらいでその不眠症?っつーのが治るとも限らねぇし、ちょっとした実験だと思えば楽しいぜ、俺は」
     それに平日の夜を一緒に過ごしてくれるような相手は、今の所居なくてな。と続けられるが、それが事実なのか気遣いなのかは判断出来なかった。
    「ありがとう」
     これ以上何か重ねて言うのも野暮か思って、お礼を告げるとその話はそれまでにする。それから思い出して、持ってきた袋の中からプラスチックの容器を取り出した。
    「薬研君の好みか分からないんだけど…これを一応渡そうと思って」
     半透明な箱を彼に渡すと、何を渡されたのか分からないと言いたげな顔をされる。
    「口に合うか分からないけど、一晩お世話になるし朝ご飯を作ってきたんだ。気が早いんだけど、僕と君とだと生活時間が違うし、何時でも食べられるだろうと思って」
     簡単なものなんだけど 説明している間に、相手はその容器の蓋を開けていた。
    「手巻き寿司か…!」
    「うん。生ものはあんまり使わないようにしたんだけど、野菜が入ってるから冷蔵庫に入れておいた方が傷まないかな」
     心なしか、その箱の中身を覗いている大学生の顔がきらきらしているように見える。嫌いなものではなかったようで、燭台切は安心した。
    「助かるぜ、ありがとさん! 朝はつい、手抜きしがちでな。食わないことも屡々(しばしば)なんだ」
    「へぇ、…でも納得かな。薬研君細いもんねぇ。三食食べてないならその細さも納得だよ」
    「そうか…? 昔からこんなもんで、大して肉が付かねぇ体質ってだけだと思ってるんだが」
    「えっ…全然体型変わってないの…?」
     嘘だろ、と思いつつ聞く。筋肉もあるが油断するとすぐ肉が付く自分の体質からしたら、相手の体質が羨ましくて。
    「まぁ、殆んど? そう、らしいな。兄弟にも相変わらずだってよく言われる」
     嬉しくはねぇんだが、そう苦笑する青年に彼には彼の悩みがあるのだなと思う。太りにくいというのも、ある意味悩ましそうだ。
    「流石に身長は変わったんだよね?」
     自分より低いとはいえ、日本人男性の平均身長よりありそうなので、念のため聞いてみた。勿論、冗談で。そこは流石に、と彼は笑う。
    「昔は結構なチビだったから、久しぶりに会う人間には驚かれる」
     何となく想像できるような、難しいような気持ちになった。
    そう話すと、一先ずしまってくるなと言って大学生は、渡された容器を冷蔵庫へ入れに立ち上がる。返事をしてその背中を見つめた。それから、手の中に収まっているカップの牛乳をまた一口飲んだ。まだ温かい。
    「…そうだ、薬研君の大学ってここから近いの?」
    「二駅隣だぜ。何かあるか?」
    「あぁ、うん。何時に起きればいいのかなと思って」
     通学時間にもよるけど早く起きた方がいいだろう もう大分飲みやすくなったマグカップの中身を、揺らしながら聞いた。
    「その話も先にしとかないとだったな。八時には出たいから…そうだな、七時くらいに一旦起きて貰えれば」
     後はまた寝てもらっても構わねぇし、と続いた冗談は笑って受け流す。ソファに戻ってきた彼もマグカップを手にして、その中身を煽った。随分、飲みやすそうな印象だ。
    「家を出る時間は結構早いんだね? 大学生ってもう少し朝は遅いイメージ強かったんだけど」
    「朝は図書館に寄って少し勉強したいのと本を借りたくてな」
    「へぇ、頑張り屋さんなんだね」
    「まだまだ授業について行くっていうのが出来てねぇっつうだけの話さ」
     苦笑して、相手はもう一度ホットミルクを飲む。もう中身を空にしたようで、軽くなったマグカップをテーブルの上へと置いた。
    「…学部を聞いてもいいかい?」
     こちらもまた、中身の残るカップへ口をつける。飲みやすいが、あっという間に冷えてしまいそうな温度だと思った。
    「あぁ、薬学部だぜ。名前のせいもなくはないが、昔から薬に興味があってな」
     周りにはネタ扱いされる事もあるが そう言って軽く笑う。
    「僕も人のことは言えないけど、お互い珍しい苗字だもんね」
    「そうだなぁ…あんたの苗字も初めて聞いたぜ」
    「だよねぇ。僕も薬研、って初めてだったよ」
     顔を見合わせて、笑い合った。燭台切はまたマグカップに口をつけて、ぬるくなった中身を全て飲んだ。空になった陶器をテーブルに置く。
    この部屋にいると時間が穏やかに流れているような気がして、落ち着く、と思う。少なくとも、この部屋に入ってきたばかりの時よりかは。
     両腕を上げて背筋を伸ばすと、ソファの背凭れに身を預ける。
    「…眠れそうか?」
    「うん、自宅よりはね…」
     自分の向かいにいる相手に聞かれて、思わず苦笑が漏れた。自己申告の内容が、我ながらひどいのも手伝って。
    「そういえば、僕って何処で寝たらいいのかな?」
     不意に気になって、相手へと視線を向ける。一人暮らしの室内で、部屋数も限られているマンションの一室に宿泊を許された時から気にはなっていたのだが、聞くタイミングを逃していて今になってしまった。
     今自分たちが座っているソファが一番その確率が高いよね、と考えつつ確認する。ただ、人によってはリビングの一番使用頻度が高そうな家具で、他人に眠られるのは抵抗があるかも知れない、という配慮から。
    「あぁ、それなら俺のベッドを使ってくれ」
     ちゃあんとシーツも替えておいたしな そう笑顔で告げられ、思わず笑顔のまま大人は固まりかけた。
    「…っは!? いやいや、何言ってるの、駄目だよ! 君がこの家の家主なんだからベッドで寝てよ?!」
     僕はこのソファにお世話になるからっ、と慌てて言い募る。何がどうしてこんな事を相手が言い出すのか、全く分からなくて。
    「いや、そう言ってもこの間見事に爆睡したのはベッドだったろう? 前回と同じか、似た状況じゃなきゃ不眠解消にはならんかもと思って、一応」
     そんな見方をされていたのかと関心するのと同時に、しかし突発的な宿泊を了承してもらった友人でもない顔見知り程度の知り合いに、唯一と思われる寝具まで譲られるのはどうかと思う燭台切だ。正直なところ、抵抗ばかりがある。
    「それは…そうかも知れないんだけど、流石にちょっと…」
    「まぁ、今回は本当に実験と思えば。俺のベッドを貸した所で本当に眠れるかは別の話だろうし、何でもやってみた方がいいと思うが…」
     テーブルの上へ視線を置いていたのを止めて、大人は薬研へと向き直った。
    「…君は本当にそれでいいの? 無理に付き合わなくていいんだよ、僕は君の生活を乱したい訳ではないし」
     言いながら手遅れな自覚はあるのだが、これ以上はという意味でだ。あまり手間や迷惑をかけたくはない、可能なら今以上には。
    「うん? そんなに畏まらなくても俺っちなら何処でも寝れるから気にしなくていいぜ」
     しかし大人の心配をよそに、言い出した本人は至って呑気だ。そんなに警戒心が薄くていいのか、と思わず更にこちらが不安になる。
    「そういう問題かな…」
     思わず頭を抱えて俯いた。
    「それにもう、前回一緒に寝ちまってるしな」
     相手の声が頭の上を通り過ぎる。かに思えたが、驚いた顔をした大人が頭を上げて、それを阻止した。
    「…何て?」
    「いや、だから一緒に寝たって」
    「いつ…?」
    「この前」
     全ての質問に答えてもらっているというのに、頭がその返答を理解してくれない。
    「ごめん、君の言っている事が全く分からないんだけど」
     相手の目を見詰めながら、理解不能の意志を伝えた。すると、そうかと短く言って、彼は前回の時の詳細の話をする気になったようだ。
    「俺たちが知り合うきっかけになった日があっただろう。あの日、あんたが部屋に入ってきた頃、俺は風呂に入ってた。で、風呂から出たら見知らぬ男が自分の部屋で爆睡してたと、ここまではいいか?」
    「うん、大丈夫」
     やっと日本語に聞こえてきた単語に、燭台切は頷く。
    「で、まぁ俺は自分の家だし、ちょうどベッドも半分空いてたから、ただそのスペースで寝たってだけの話なんだがな。意味は通じたか…?」
     事もなげに説明されたが、何か大事なものが足りない気がする彼の台詞に、こちらは素直に頷けなくなる。
    「…どういう経緯かは分かったよ。でもね、そこで同じベッドに入れる君が分からないかな」
     隠しようもない本音だった。自分が彼の立場だったなら、どうしただろうかと考える。そして、絶対に彼と同じ行動は取らない、とそれだけは断言できる自信があった。
    「そうか? 誰かと雑魚寝する感覚でついやっちまっただけなんだが」
     それに相手が美人だったし、寝顔も悪くなかったぜ 本気か冗談かも判断しにくい声音で、そんな事を言われてもと思う。
    「…そういう台詞は女の子に言ってよ」
     現役ホストが貰うには、とても頂けないであろう言葉に苦笑しか出ない。
    「とにかく、…あまり受け入れられないけど、前回の事が知れて良かったよ…。でもそうしたら、今日も同じ状況じゃないと実験にならないってことなのかな?」
     言いながら、どうかしているなと思う。どう考えても男二人で、ひとつしかないベッドに入るというのは、友人同士でも滅多にしない事だ。自分の周りでは。
     それをどうしてご近所さん、程度の相手としようと言い出してしまったのか。我ながら分からないのだが、睡眠不足で藁にでも縋りたいのだけは確かだった。
    「そうだな、あんたさえ大丈夫なら俺はどっちでもいいぜ。思ったよりベッドでの添い寝も狭くねぇしな」
     でかい抱き枕が横にあると思えば、と続いた言葉に何だか毒気を抜かれる。こちらが考えすぎなだけなのでは、という気持ちになってきて。
    「わかった、今夜は実験なんだもんね? 何でも試してみよう。君には迷惑をかけるけどよろしくね」
    「今更気にしなさんな」
     もう空になっているマグカップをふたりで手にして形だけの乾杯すると、ご馳走様とお粗末さまを言い合う。特に意味のない行動だと理解しているのに、いや、理解しているからこそ、何となく可笑しかった。
    それからシンクにカップを置いて、洗面所に移動すると交互に歯を磨く。その流れのまま、見慣れぬベッドへと入った。持参した枕と毛布と、少し見慣れた青年と一緒に。
    「…やっぱり…君はこれでいいの?」
     聞かずにいられなくて、肩が何とかあたっていない隣の男に話しかける。彼の部屋にある寝具がダブルベッドでまだ良かった、と思えばいいのだろうか。
     心なしかうとうとし始めてきていて、自分の考えはまとまらない。
    「くどいぜ旦那、実験だって話でまとまっただろう。今日の所はな」
    「うぅん…そうなんだけど…」
     やっぱりむさいと思う、という本音はふわふわした頭の中で言葉にならずに消えていく。前にも嗅いだ他人の匂いに、どこかで自分の意識がまた緩んだのを感じた。こんな感覚は初めてのはずなのに、どうして安心にも似た心地に自分がなれるのかよく分からない。
    「まぁ、あんたがどうしても気になるっつうなら…俺のことは抱き枕だと思ってくれ。抱き心地は保証しかねるが」
     相手の軽口に笑いたい気がするのに、目蓋がひどく重い。それに意識もあやふやだった。
     返事をしたい自分に反して、体は勝手に眠りにつこうとしている。それを喜びたいのに、考える暇も寝不足の大人にはなかった。
    「…おやすみ、燭台切さん」
     隣から掛けられた優しい声の挨拶も、彼にはもう届かない。

     聞き覚えのある電子音に、ぼんやりしながら目を覚ました。ただ視界に入った天井に、あまり見覚えはない。
    (あぁ、…そうだった薬研君の部屋に…)
     何度か瞬きをして、眼帯で覆われていない左目を擦った。それから、何だかあたたかい右側に視線を向ける。ほとんど距離のない場所に、たった今考えた男の顔があった。
    驚いて飛び起きるとその動作でベッドが揺れて、相手も瞳を開ける。
    「もう朝か…んんー」
     独り言を呟いて、起き上がると後頭部を掻く。あまりに自然な仕草で、多分隣に他人がいるのを忘れているのでは、と燭台切は思った。
    「おはよう…? 起こしちゃってごめんね」
    「…いや、起きたかったから助かった。おはようさん」
     一瞬だけ目を見張ったが、寝起きの緩んだ表情で薬研は笑う。
    そしてベッドから降りて部屋から出ていく彼に、歩きながら頭にぽんっと軽く掌を置かれる。幼少期ならいざ知らず、今では滅多に経験する事のない動作に、思わず大人は一瞬固まった。だが、それをした本人は何も気に止める事なくリビングへ向かったようだ。
     兄弟が多いという話を聞いたことを思い出して、彼の弟の誰かと間違われたのかなと流すことにした。優しかった掌に、青年の兄力を垣間見たような気がしないでもない。

    ***

    「…それで? 俺は大学に行くが、あんたはどうする」
    「どうするって聞かれても、自分の部屋に帰るけど」
     寝起きに熱い珈琲を淹れてもらって、それを飲みながら質問に答えた。久しぶりに七時間睡眠を貪れて、心身共に健やかだ。何日ぶりか分からないが、クリアになった頭で朝を迎えられるというのはいいものだと思う。
     ただ今、何を聞かれているのかはよく分からないのだが。
    「無事今回の実験は成功したが、そっちの仕事の都合もあるし、いつでも眠れる訳じゃねぇだろう? だから今日くらいは寝溜めするかと思ってな」
     何時間居てくれても構わねぇぜ 珈琲に牛乳を入れつつ、彼は言う。
    「…その気持ちは本当に嬉しいんだけど、流石にそこまで甘えられないよ。ねぇ、…所で僕には砂糖をくれる? 実はブラックって苦手なんだよね…」
    「ははっ、あんたも子供舌ってやつか。ちょっと待ってくれ」
     シンクの上にある戸棚から、角砂糖の入った硝子製のキャンディーポットを取り出した彼にふたつお願いして、それをマグカップの中に入れて貰う。続けて銀のスプーンも。
    「何でもない顔もできるんだけど…ここではそういうのも必要ないから」
    「モテる男は大変だな」
    「君に言われるのは複雑かな」
     僕より余程モテてるんじゃない? 本音を混ぜて相手を揶揄った。同級生の多い大学では、さぞかし人気がありそうで。
    「まさか。それだけは絶対にないな」
     軽く笑い流して、彼はカフェオレにしたマグカップへと口を付ける。どうしてそんなに断言できるのか分からないが、理由を聞く間もなく相手は着替えに部屋へ戻っていった。
     ついのんびりしてしまっていたが、あまり長居しても悪いなと気付いて甘くなった珈琲を飲み干す。
    こちらの仕事は基本的に夕方からだ。だが一般的な生活をしていれば、朝の八時を迎えようとしている今の時間帯はさぞ忙しいだろう。その上お世話になっている彼は学生であるし、その為に朝の予定も前もって聞いていたのだった。ここは今すぐ御暇するのが妥当と思われる。
    「ご馳走様、それじゃあ僕はこれでお邪魔するね」
     そうリビングから声をかけて、流しに借りたマグカップをまた増やした。本当は昨夜の分も洗って返したいくらいだが、ご近所さんにそこまでされるのはちょっとどうかと思うので止める。
     何となくこの部屋の主には嫌がられる気もしないのだが、そういう問題でもないので考えない事にした。
    「おぉ! あっ、朝飯ありがとさん! 遠慮なく頂くぜ」
     大きい声が隣の部屋から返事をしてきて、何かを漁っている音を立てながらそれは右往左往しているようだ。聞こえる声が移動しているのが気配で分かる。
    「慌てて忘れ物がないように、気を付けて!」
     玄関に立って、こちらも大きな声で話しかけるとその部屋を出た。扉を閉めるか閉めないか辺りで「またな」と彼が言うのが聞こえる。それに少しだけ笑って、返事はしなかった。
     この日から、一ヶ月に一度彼の部屋に宿泊させてもらう約束をしたのだが、それは三週間に一度になり、更に二週間に一度になり、一週間に一度になった。
     ただ一週間も睡眠不足が続くと、昼間に買い物などで偶然相手と会った時に心配されて部屋に連行されたりして、実際には三日に一度くらいのペースになっている。
     初めて出会った日から、もう季節はふたつ巡っていた。
     ただのお隣りさん、と呼ぶには、あまりに近い距離になって、しかし友人とも断言出来ないこの関係には、一体どんな名前をつければいいのだろう。
    喉仏
  • 告げられない想いに、行き場はあるのか #再録 #薬燭 #現パロ #援交





    横顔が、ひどく傷ついたように憂いていたのには、気付いていた。

    ―今日は今までで一番…ひどくして欲しい―

    ホテルの部屋に入って鍵を閉めたかと思うとその大人は呟いた。話しかける、というにはあまりに小さい声でしかし至近距離にいた自分の耳にはしっかりと届く。
    「…何か、あったのか?」
    いつもなら誰にも言えないバイトとして割り切っているので、こんな無粋な質問などしない。しかし今日はいつもとは違った。相手の大人がひどく傷ついた瞳をしていて、とてもこのままバイトの性行為に及びたいような雰囲気ではない。
    だが相手は首を振って、こちらの質問への回答を拒んだ。
    「おねがい、今日はいつもより出すから」
    そう言って大人は財布の中からすべての万札を取り出して、こちらの手に握らせてくる。思わずその枚数を目視で確認してしまった程だ。軽く二桁はある札束に、余計この男の本気を垣間見て苛々した。
    自分の把握していない所で勝手に傷つけられて、更に今自分にその傷口へ塩を塗る行為を手伝わせようとしているのが分かって。
    「分かった」
     しかし札を握らせている指先が震えているのに、了承せずにはいられなかった。
     今ここで断って他の男の所へ行かれるのも腹立たしいのだ。この大人と自分はただの援助交際相手という、公には出来ない金銭の絡む関係でしかないというのに。
     ぎゅっと札束を握って、制服のスラックスのポケットへと大雑把にそれを入れる。それから持っていた自分の通学用鞄を、まだ入っていない室内の廊下へと放ると、その上に学ランも一緒に投げた。
     大人の鞄も奪って、同じように似た場所へと投げる。少し力加減を間違えて、叩き付けたと思うような音がしたが流して、相手の腕を掴み短い廊下を進んだ。
     すぐにダブルベッドへと行き着いて、その場所に軽くはない男を投げるように押し倒す。されるがまま、シーツの上へと倒れた相手の上に乗り上げて、乱暴にシャツの釦を外した。何もかける言葉も、かけられる言葉もなくただ無言で。
     何かがベッドの下へ飛んで行った音がしたが、きっと無理に引っ張ったせいで華奢な釦は取れてしまったのだろう。構わず晒すようにした素肌に触れてゆく。
     前回と皮膚の表面には殆んど違いはないように見えた。違っているのは目に見えない部分なのだと、嫌でも思い知らされた気になる。今にも泣いてしまいそうな空気を纏ったままの大人に、何も与えてやれない子供の自分が腹立たしい。
    「んっ!!ぅ゙、っぁ゙!」
     苛立ったまま左側の乳首を思い切り抓ると、呻きながら彼が悶えた。まだ痛みの方が遥かに勝っていそうな声で、背中も耐えるように若干丸まっている。
    しかし痛がった後で少しだけ、ほっとしたような顔をされるのがまた堪らなく嫌だった。これがこの男にとって、自傷行為と変わらないのだと直接、告げられているようで。
     反対の乳首には、いつもより強めに噛み付いて歯型を残した。
    「ッぅ゙…っく、……っ!!」
     まるで痛みしかないと思われる呻き声は、彼が無理矢理に奥歯を噛んだ事によって聞こえなくなる。ただ鼻から抜ける息遣いが小刻みで、とても隠せているとは思えなかった。
     それから徐々に下へ、普段なら相手を喜ばせるためだけに皮膚の表面を丹念に撫でたり舐めたりする所だが、今日に限ってそんな行為は求められていない。
    自分の頼りない腕の中で、少しずつ確実に変化していく大人を観察しているのが好ましいのだが、そんな本音も今日は特に聞きたくないだろう。そんな空気を光忠とだけ名乗った男は纏っている。
     相手のスラックスへ手を伸ばして、留金を外すとすぐにジッパーも下ろした。明らかに反応していない相手の性器を下着越しに確認するが、ここでやめる訳にもいかない。
    仕方なしにスラックスも下着も一緒に、強引に脱がせて下半身を晒させた。それから後頭部の髪を片手で掴むと、強制的に俯せにさせる。
    「…枕でも噛んでな」
     こんな言葉をかけたい訳ではない。だが、他に言える言葉など、自分は持ち合わせていなかった。
    「ぅんん…んっ」
     何かを言いたそうなくぐもった声が聞こえた気がしたが、聞こえないふりをする。移動の際に制服のポケットへ入れ替えておいたワセリンを取り出して、指先へ乗せた。いくらひどくしろと言われても、怪我をさせる約束をした覚えはない。
     それを後ろへ塗ろうと指先が触れれば、相手が振り返ってこちらの動きを阻止した。
    「今日は…慣らさないで、大丈夫だから…!」
     全く大丈夫には見えない大人の掴んでくる手の力が強くて、思わず顔を顰める。彼が掴んでいる自分の手首は、止血でもされているようだ。
    「いくらあんたでも慣らさなきゃ入らねぇだろう。この手を退けな」
     だが何を言われても、こちらとて譲る気はない。自分の目の前でただ傷付く姿を見ているのは嫌だった。例えば今、彼を傷つけているのが自分でも。その根底にある傷を作ったのが自分以外の誰かなのが、特に許せなかった。
    「入るよっ…本当に、大丈夫だから、…優しくしないで」
     一秒も、と続いた言葉に自分の頭の血管が切れた音が聞こえた気がした。頭に血が上ったまま少し力が緩んだ手を振り払って、軟膏の乗った指先を大人の尻の穴に捩じ込む。
    「ァ゙あ゙ぁっ…!!」
     不意をついたのもあってか、無防備な悲鳴が上がった。それはそうだろう。毎回念入りに、慎重に解しているこの場所は、今日はまだ全く濡れていない。
    そんな固く閉ざした場所に、軟膏が塗ってあるとは言えいきなり指を突き入れればこういう反応をせざるを得ないのは明白だった。こうなる事を分かっていて我慢が利かなかったのは、自分の我儘を通したかったからかも知れない。
    「っ全然、大丈夫じゃねぇだろ…!」
     男の瞳から、一粒だけ流れた生理的な涙を見てついぼやく。
    痛みに震えている背中から相手を片腕で抱きしめて、シャツ越しにその背中へ唇を落とした。今日は体温が低いのか、シャツ越しでも身体が冷えているように感じる。震えながら、相手はベッドへ静かに沈んだ。
     内側に押し入れた指を引き抜いて、またそこに軟膏を取ると大人の後ろへとゆっくり塗りつけてゆく。なるべくいつもと同じように、いつもより優しく出来るように。
    「…っや、だ、…薬研、く、…それ、嫌だ……ぉ、ねが…っ…」
     力なく頭を左右に振って、光忠は哀願しているようだった。震える手が、枕を握っているのが見える。
     こんな日に、今にも消えいってしまいそうな程弱っている大人を前に、欲情している自分すら許せなかった。それなのに、相手の後ろを解す手も止められない。最悪だ。
    今この場で自分が何をしてもそれが正しいとは思えないのに、この男に対して何をしてやりたいのかも分からない。分かるのは、相手の身体の反応する場所だけ。まだ覚えて間もない男同士の、身体の重ね方だけ。本当は泣きたいであろう相手の心情だけ。
    それに、頼っても貰えない未熟な己自身。
    吐き気がした。
    「もっ…やだ…!!ぼくの、言うこと、聞けない、っなら、…お金、…返して!」
    耐えられなかったのは、こちらだけではないようだ。涙目で、頭だけこちらに振り返った大人に睨まれる。内側に埋めていた指を引き抜いて、相手から体も離した。
    この言葉に、正直ほっとした自分が居た。
    「あぁ、全部返す」
    制服のポケットに突っ込んでいた札束を、全てその場にばら撒く。明白に目を見張った相手を、立ち膝になって微妙に上から見下ろした。それから、動きを止めたその顔を両手で挟む。
    健康的な色艶をした頬は少しだけ熱くて、冷え始めている自分の指先に優しかった。
    「やげ、…!?」
    名を呼ばれる前に唇を塞いだ、つもりだったのだがそれは相手の掌によって防がれていた。
    「…っな、んで…、だって、キスはしないって、…そういう約束なのに」
    「悪いが、…今日に限ってそんなもん、聞いてられねぇ」
    自分の口を塞いできた掌を軽く噛んで、相手の手首を掴む。当然自分より華奢ではない大人の手首は、自分のような子供が押さえつけられるようには見えない。
    それなのに、相手の腕にはそれほど力が入っているようには思えなかった。
    「っひどい、やだ…やめて、なんでっ…今日は、いつもより、言うこと、…聞いてくれないんだ」
    俯いて文句を言う姿は、まるで泣いているようだ。相手の手首を掴んでいる手にまた力を入れて、その顔に自分の顔を寄せる。
    「あんたが、……そんな傷ついた顔、してるからだろう」
    びくっ、と彼の肩が揺れた。少しだけ顔を上げた相手に構わず、言葉を紡いだ。
    「誰にやられた? 言ってくれ、あんたの代わりに俺が殴ってきてやる」
    戸惑いがのった、金色の瞳は動揺で揺れている。うっすらと張った涙の膜のせいで、それは今にも零れ落ちてしまいそうだ。
    「やげんくん…」
    くしゃっと彼の目元が歪んで、その声はひどく頼りなく震えていた。普段の彼からは、とても想像の出来ない有様だ。
    「何でもいい…あんたが話したいことを話してくれ。本当に必要なら、その相手の名を言ってくれて構わない、何でもする」
    額同士が触れそうで触れない距離、それを保って相手の顔を覗き込む。だが、光忠は何も言わなかった。ただ軽く唇を引き結んで、頭を左右に振るだけ。
    「…っだめ、駄目、だよ…君に、関わって欲しくない…!それに、もう、僕に…っ」
     やさしくしないで
    掠れた声に、心臓を思いきり掴まれたようだ。目に見えて苦しんでいるのは、自分の正面にいる大人なのに、自分も苦しくて呼吸が止まったようだった。
    水の中に突然放り込まれたように苦しくて、酸素を求めて口を開く。そのまま相手の口に噛み付いた。
    「ッ!!」
    キスの仕方など知らない。この大人は肝心な時にいつもずるいから、教えてくれなかった。ただ自分からも教えて欲しいと言った事は一度もない。
    最初に、恋人ではないからキスだけはしないよ、と釘を刺されていたのもあって。
    「っひ、どい…!やだ、ひどいよっ、やめて…!…本当に、嫌だ…どうし、てっ…」
    唇を離した瞬間に文句を言い出す口を、何度も塞いだ。今度は噛み付かないでちゃんと、唇同士が重なるように。何度も何度も、角度を変えて。
    「いやだって…いってる、のに…」
    遂にぽろぽろと泣き出した大人の頬を親指で拭って、その涙を払う。止まる気配のないそれも、何度も指で払って頬を撫でた。出来るだけ優しく。
    「…いつも、好き勝手、ばっかり、なのに…なんで、今日に、…限って」
    嗚咽混じりの相手の言葉を、ただ黙って聞いた。唇を塞ぐのはやめて、抱きしめると大きな背中を撫でてやる。ただゆっくりと、泣いている弟にするみたいに。
    「やさしく、するの…もう、ほんと、信じられ、っない、…ひどい」
    今日一日で何度「ひどい」と言われたのか分からないが、ひどいのはお互い様だろうと思う。
    最初にひどくしてと言ってきたのは、あんただろうにと内心だけで返した。
    「…あぁ、全部俺っちのせいにしろ」
    その方がマシだ。見知らぬ誰かに、この男の心を占領され続けるよりかは何倍も。
    「今日は何時まででも付き合うぜ」
     あんたが泣き止んでくれるなら。その傷が、少しは癒えるなら。
    家出を疑われて身内に騒がれる数時間後の未来も、今日は受け入れられる覚悟だ。どんなに自分の成長の遅さを忌々しく思っても、急に大人にはなれない。
     ただ今すぐ大人になれなくとも、出来ることはある。
    「…きみは、ほんとうに、…ひどいよ」
     泣き言を流して、相手を抱きしめたままベッドへ倒れた。今日はこのまま、何もせずにただ抱き合っているだけでいいと思えた。



    #前後などない
    #再録 #薬燭 #現パロ #援交





    横顔が、ひどく傷ついたように憂いていたのには、気付いていた。

    ―今日は今までで一番…ひどくして欲しい―

    ホテルの部屋に入って鍵を閉めたかと思うとその大人は呟いた。話しかける、というにはあまりに小さい声でしかし至近距離にいた自分の耳にはしっかりと届く。
    「…何か、あったのか?」
    いつもなら誰にも言えないバイトとして割り切っているので、こんな無粋な質問などしない。しかし今日はいつもとは違った。相手の大人がひどく傷ついた瞳をしていて、とてもこのままバイトの性行為に及びたいような雰囲気ではない。
    だが相手は首を振って、こちらの質問への回答を拒んだ。
    「おねがい、今日はいつもより出すから」
    そう言って大人は財布の中からすべての万札を取り出して、こちらの手に握らせてくる。思わずその枚数を目視で確認してしまった程だ。軽く二桁はある札束に、余計この男の本気を垣間見て苛々した。
    自分の把握していない所で勝手に傷つけられて、更に今自分にその傷口へ塩を塗る行為を手伝わせようとしているのが分かって。
    「分かった」
     しかし札を握らせている指先が震えているのに、了承せずにはいられなかった。
     今ここで断って他の男の所へ行かれるのも腹立たしいのだ。この大人と自分はただの援助交際相手という、公には出来ない金銭の絡む関係でしかないというのに。
     ぎゅっと札束を握って、制服のスラックスのポケットへと大雑把にそれを入れる。それから持っていた自分の通学用鞄を、まだ入っていない室内の廊下へと放ると、その上に学ランも一緒に投げた。
     大人の鞄も奪って、同じように似た場所へと投げる。少し力加減を間違えて、叩き付けたと思うような音がしたが流して、相手の腕を掴み短い廊下を進んだ。
     すぐにダブルベッドへと行き着いて、その場所に軽くはない男を投げるように押し倒す。されるがまま、シーツの上へと倒れた相手の上に乗り上げて、乱暴にシャツの釦を外した。何もかける言葉も、かけられる言葉もなくただ無言で。
     何かがベッドの下へ飛んで行った音がしたが、きっと無理に引っ張ったせいで華奢な釦は取れてしまったのだろう。構わず晒すようにした素肌に触れてゆく。
     前回と皮膚の表面には殆んど違いはないように見えた。違っているのは目に見えない部分なのだと、嫌でも思い知らされた気になる。今にも泣いてしまいそうな空気を纏ったままの大人に、何も与えてやれない子供の自分が腹立たしい。
    「んっ!!ぅ゙、っぁ゙!」
     苛立ったまま左側の乳首を思い切り抓ると、呻きながら彼が悶えた。まだ痛みの方が遥かに勝っていそうな声で、背中も耐えるように若干丸まっている。
    しかし痛がった後で少しだけ、ほっとしたような顔をされるのがまた堪らなく嫌だった。これがこの男にとって、自傷行為と変わらないのだと直接、告げられているようで。
     反対の乳首には、いつもより強めに噛み付いて歯型を残した。
    「ッぅ゙…っく、……っ!!」
     まるで痛みしかないと思われる呻き声は、彼が無理矢理に奥歯を噛んだ事によって聞こえなくなる。ただ鼻から抜ける息遣いが小刻みで、とても隠せているとは思えなかった。
     それから徐々に下へ、普段なら相手を喜ばせるためだけに皮膚の表面を丹念に撫でたり舐めたりする所だが、今日に限ってそんな行為は求められていない。
    自分の頼りない腕の中で、少しずつ確実に変化していく大人を観察しているのが好ましいのだが、そんな本音も今日は特に聞きたくないだろう。そんな空気を光忠とだけ名乗った男は纏っている。
     相手のスラックスへ手を伸ばして、留金を外すとすぐにジッパーも下ろした。明らかに反応していない相手の性器を下着越しに確認するが、ここでやめる訳にもいかない。
    仕方なしにスラックスも下着も一緒に、強引に脱がせて下半身を晒させた。それから後頭部の髪を片手で掴むと、強制的に俯せにさせる。
    「…枕でも噛んでな」
     こんな言葉をかけたい訳ではない。だが、他に言える言葉など、自分は持ち合わせていなかった。
    「ぅんん…んっ」
     何かを言いたそうなくぐもった声が聞こえた気がしたが、聞こえないふりをする。移動の際に制服のポケットへ入れ替えておいたワセリンを取り出して、指先へ乗せた。いくらひどくしろと言われても、怪我をさせる約束をした覚えはない。
     それを後ろへ塗ろうと指先が触れれば、相手が振り返ってこちらの動きを阻止した。
    「今日は…慣らさないで、大丈夫だから…!」
     全く大丈夫には見えない大人の掴んでくる手の力が強くて、思わず顔を顰める。彼が掴んでいる自分の手首は、止血でもされているようだ。
    「いくらあんたでも慣らさなきゃ入らねぇだろう。この手を退けな」
     だが何を言われても、こちらとて譲る気はない。自分の目の前でただ傷付く姿を見ているのは嫌だった。例えば今、彼を傷つけているのが自分でも。その根底にある傷を作ったのが自分以外の誰かなのが、特に許せなかった。
    「入るよっ…本当に、大丈夫だから、…優しくしないで」
     一秒も、と続いた言葉に自分の頭の血管が切れた音が聞こえた気がした。頭に血が上ったまま少し力が緩んだ手を振り払って、軟膏の乗った指先を大人の尻の穴に捩じ込む。
    「ァ゙あ゙ぁっ…!!」
     不意をついたのもあってか、無防備な悲鳴が上がった。それはそうだろう。毎回念入りに、慎重に解しているこの場所は、今日はまだ全く濡れていない。
    そんな固く閉ざした場所に、軟膏が塗ってあるとは言えいきなり指を突き入れればこういう反応をせざるを得ないのは明白だった。こうなる事を分かっていて我慢が利かなかったのは、自分の我儘を通したかったからかも知れない。
    「っ全然、大丈夫じゃねぇだろ…!」
     男の瞳から、一粒だけ流れた生理的な涙を見てついぼやく。
    痛みに震えている背中から相手を片腕で抱きしめて、シャツ越しにその背中へ唇を落とした。今日は体温が低いのか、シャツ越しでも身体が冷えているように感じる。震えながら、相手はベッドへ静かに沈んだ。
     内側に押し入れた指を引き抜いて、またそこに軟膏を取ると大人の後ろへとゆっくり塗りつけてゆく。なるべくいつもと同じように、いつもより優しく出来るように。
    「…っや、だ、…薬研、く、…それ、嫌だ……ぉ、ねが…っ…」
     力なく頭を左右に振って、光忠は哀願しているようだった。震える手が、枕を握っているのが見える。
     こんな日に、今にも消えいってしまいそうな程弱っている大人を前に、欲情している自分すら許せなかった。それなのに、相手の後ろを解す手も止められない。最悪だ。
    今この場で自分が何をしてもそれが正しいとは思えないのに、この男に対して何をしてやりたいのかも分からない。分かるのは、相手の身体の反応する場所だけ。まだ覚えて間もない男同士の、身体の重ね方だけ。本当は泣きたいであろう相手の心情だけ。
    それに、頼っても貰えない未熟な己自身。
    吐き気がした。
    「もっ…やだ…!!ぼくの、言うこと、聞けない、っなら、…お金、…返して!」
    耐えられなかったのは、こちらだけではないようだ。涙目で、頭だけこちらに振り返った大人に睨まれる。内側に埋めていた指を引き抜いて、相手から体も離した。
    この言葉に、正直ほっとした自分が居た。
    「あぁ、全部返す」
    制服のポケットに突っ込んでいた札束を、全てその場にばら撒く。明白に目を見張った相手を、立ち膝になって微妙に上から見下ろした。それから、動きを止めたその顔を両手で挟む。
    健康的な色艶をした頬は少しだけ熱くて、冷え始めている自分の指先に優しかった。
    「やげ、…!?」
    名を呼ばれる前に唇を塞いだ、つもりだったのだがそれは相手の掌によって防がれていた。
    「…っな、んで…、だって、キスはしないって、…そういう約束なのに」
    「悪いが、…今日に限ってそんなもん、聞いてられねぇ」
    自分の口を塞いできた掌を軽く噛んで、相手の手首を掴む。当然自分より華奢ではない大人の手首は、自分のような子供が押さえつけられるようには見えない。
    それなのに、相手の腕にはそれほど力が入っているようには思えなかった。
    「っひどい、やだ…やめて、なんでっ…今日は、いつもより、言うこと、…聞いてくれないんだ」
    俯いて文句を言う姿は、まるで泣いているようだ。相手の手首を掴んでいる手にまた力を入れて、その顔に自分の顔を寄せる。
    「あんたが、……そんな傷ついた顔、してるからだろう」
    びくっ、と彼の肩が揺れた。少しだけ顔を上げた相手に構わず、言葉を紡いだ。
    「誰にやられた? 言ってくれ、あんたの代わりに俺が殴ってきてやる」
    戸惑いがのった、金色の瞳は動揺で揺れている。うっすらと張った涙の膜のせいで、それは今にも零れ落ちてしまいそうだ。
    「やげんくん…」
    くしゃっと彼の目元が歪んで、その声はひどく頼りなく震えていた。普段の彼からは、とても想像の出来ない有様だ。
    「何でもいい…あんたが話したいことを話してくれ。本当に必要なら、その相手の名を言ってくれて構わない、何でもする」
    額同士が触れそうで触れない距離、それを保って相手の顔を覗き込む。だが、光忠は何も言わなかった。ただ軽く唇を引き結んで、頭を左右に振るだけ。
    「…っだめ、駄目、だよ…君に、関わって欲しくない…!それに、もう、僕に…っ」
     やさしくしないで
    掠れた声に、心臓を思いきり掴まれたようだ。目に見えて苦しんでいるのは、自分の正面にいる大人なのに、自分も苦しくて呼吸が止まったようだった。
    水の中に突然放り込まれたように苦しくて、酸素を求めて口を開く。そのまま相手の口に噛み付いた。
    「ッ!!」
    キスの仕方など知らない。この大人は肝心な時にいつもずるいから、教えてくれなかった。ただ自分からも教えて欲しいと言った事は一度もない。
    最初に、恋人ではないからキスだけはしないよ、と釘を刺されていたのもあって。
    「っひ、どい…!やだ、ひどいよっ、やめて…!…本当に、嫌だ…どうし、てっ…」
    唇を離した瞬間に文句を言い出す口を、何度も塞いだ。今度は噛み付かないでちゃんと、唇同士が重なるように。何度も何度も、角度を変えて。
    「いやだって…いってる、のに…」
    遂にぽろぽろと泣き出した大人の頬を親指で拭って、その涙を払う。止まる気配のないそれも、何度も指で払って頬を撫でた。出来るだけ優しく。
    「…いつも、好き勝手、ばっかり、なのに…なんで、今日に、…限って」
    嗚咽混じりの相手の言葉を、ただ黙って聞いた。唇を塞ぐのはやめて、抱きしめると大きな背中を撫でてやる。ただゆっくりと、泣いている弟にするみたいに。
    「やさしく、するの…もう、ほんと、信じられ、っない、…ひどい」
    今日一日で何度「ひどい」と言われたのか分からないが、ひどいのはお互い様だろうと思う。
    最初にひどくしてと言ってきたのは、あんただろうにと内心だけで返した。
    「…あぁ、全部俺っちのせいにしろ」
    その方がマシだ。見知らぬ誰かに、この男の心を占領され続けるよりかは何倍も。
    「今日は何時まででも付き合うぜ」
     あんたが泣き止んでくれるなら。その傷が、少しは癒えるなら。
    家出を疑われて身内に騒がれる数時間後の未来も、今日は受け入れられる覚悟だ。どんなに自分の成長の遅さを忌々しく思っても、急に大人にはなれない。
     ただ今すぐ大人になれなくとも、出来ることはある。
    「…きみは、ほんとうに、…ひどいよ」
     泣き言を流して、相手を抱きしめたままベッドへ倒れた。今日はこのまま、何もせずにただ抱き合っているだけでいいと思えた。



    #前後などない
    喉仏
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