Caplice.死んでしまいたいと、 彼は思った。
もちろん本気ではなく、彼の頭の中で浮かんでは消える、とりとめのない思考の断片だ。
しかし、と彼は、また思った。もし自分が本当に死んだとしても惜しむ者はいまい。両親は既に亡く、特に軍人であった父親との折り合いは良いとは言えなかった。
死んでしまいたいと、再び彼は思った。このまま雪と共に跡形もなく消えてゆけたなら、僅か数シリングの稼ぎの為にやりたくもない愛想笑いを浮かべるような、こんな惨めな思いをしなくてすむだろう。……ああ、わかっている。この考え自体が大罪だと言うことも、それを押し切り実行する度胸も無いことも。
陰鬱とした気持ちのままに歩き続け、気がつくと自宅近くの通りに辿り着いていた。灰色の空から降る雪は勢いを増し、単色の街から更に色彩を奪ってゆく。まだ晩餐の刻にはほど遠いというのに人通りは無く、果てなく白くなっていく世界で、彼はただ独りきりだった。
粉雪が散る鉛色の空を見上げ、彼は大きく息をついた。建築家としての仕事を探して一日中街を歩き続けたが、この不景気の最中に自分のようなみすぼらしい若造を信用する客などいるはずがない。朝から振り続く雪は午後になっても止む気配は無く、彼の着古したコートや金色の髪に銀粉を散らしていった。
歩みを止め、静かに眼を閉じる。早朝から仕事探しのために街を歩き続け、最早手も足も感覚が無い。ああ、このままここで眼を閉じていたら、自分の望みは叶うだろうか。もう明日の食費や来月の家賃に頭を悩ませる必要も、なかなか回復に向かわぬ「彼女」の容体を案ずることも無くなるだろうか。
「彼女」。
……そうだ。
「彼女」。
閉ざされた瞼の奥に、「彼女」のか細い姿がよぎる。その途端に彼は、何かに弾かれたように眼を開け、大きく息をついた。意識するのを忘れていた寒さが蘇り、彼の全身が絶え間なく震え始める。
歯の根も合わぬほどがくがくと震えながら、彼は思った。駄目だ、死ぬわけにはいかない。「彼女」を遺して消えるわけにはいかない。彼の帰りを待つ病弱な義妹を。この世でただ一人の、彼の家族を。
父の再婚相手の連れ子である「彼女」とは、血の繋がりは無い。だが「彼女」は彼の家族だった。無慈悲で酷薄なこの世の中で、彼とのか細い絆を持つ、たった一人の存在だった。
ああ、違うのだ。「彼女」を心底愛おしいと思っている訳ではないのだ。身体の弱い義妹の存在は、精神的にも経済的にも彼を追い詰めている。だけれど「彼女」を見捨てることはできなかった。父も母も、義理の母でさえ彼を遺して逝ってしまった。彼の側にいてくれたのは、「彼女」だけだったから。
……死んでしまいたいと、彼が思うのは変わらずだ。許されるなら今すぐにでも、こんな無情で冷酷な世界からは消えてしまいたい。だが、彼にはまだ「彼女」がいる。そして「彼女」にはまだ、彼がいるのだ。
冷たく暗いこの世界で繋がる、細くて脆い硝子のような糸。その糸が切れるまで、彼は死ぬ訳にはいかなかった。
懐の財布は空に近い。今日もまた、ろくな仕事は見つからなさそうだ。今日の食事に来月の家賃。かさんでゆくばかりの「彼女」の医療費。ああ死んでしまいたいと彼は思い、だが、微かに口元を緩ませる。
この寒さでは、「彼女」はまた熱を出してしまうだろう。今日の夕食は温かいスープでも作ろうか…。
羽毛のような粉雪が、街を白く染めてゆく。遠くに聞こえるのは、教会の鐘の音だ。
彼は再び大きく息を吐き、コートの襟元を合わせると、家路への道を足早に歩き出した。
fin.