【宗凛】思いのスキマ 高校水泳の活動は、3年の夏の大会が終わりではない。
特に凛のように実力で進路を決める選手の場合は、秋や冬に開催される単発の大会も公式記録を作る大切な機会だ。多くの3年生が夏の大会で引退となる中、鮫柄学園の3年生の引退は次の春。だから、凛は引き続き精力的に水泳に励んでいる。
ただ最近、彼の少し困った癖が宗介を悩ませていた。
「おい、凛……」
「んー」
「……」
宗介を羽交い絞めにするように、凛は背中にへばり付いていた。
いつの間にか、いつものこと、となったこの癖が始まると、彼は梃子でも動かない。まるで石に縛り付けられているかのように、腹に回された腕はびくともしないし、背中がじわりと汗をかいても怯まない。男らしくも力強い塊がそこに出現するのである。
それは、ふとすると華奢に見える凛が、やはり男だったんだな、と、実感する瞬間でもあった。
彼は今日、負けたのだ。
最愛の<ライバル>に。
3大会3敗。長水路のレースしか無かったのだ。短水路を得意とする凛にはもともと不利だった。しかし、そんな慰めは返って凛を頑なにさせるだけだろう。
宗介は凛を無視して雑誌に目を落とした。さらり、さらりとページを進めるが、凛の手が引っ掛かって捲りにくい。薄い紙は凛の手の甲を容赦なく擦っていくが、くすぐったいのか、その手は時々移動した。
「凛」
「……」
「りーん」
「……やだ」
「なんも言ってねぇだろ」
「……宗介の薄情者」
「だからなんも言ってねぇだろうが」
凛の腕に力が籠る。もう30分はこうしているのに、まだ気は済まないようだ。溜息を一つ落とし、再び雑誌に目を落とす。こんなにも近く、こんなにも触れているのに、いつもの劣情が起こらないのが不思議だった。背中の凛の鼓動は微かに感じるけれど、やはり彼は石のように重く動かない。
「……宗介……」
「なんだ?」
「暑い」
「殴るぞ」
横暴な凛に呆れるも、怒りは湧かない。読み終わった雑誌を投げ捨て、宙を見る。そのままぐぐっと後ろ手をつくと、同時に凛も傾く。しかし離れる気は無いらしく、腕に力は籠ったままだ。
――静かだな。
秋の夜。遠い虫の声。
二段ベッドの天井を見上げると、後ろ頭の刈上げが凛の頭頂部にぶつかった。悪戯するようにぐりぐりと頭頂部をつつくと、容赦なく頭突きを返された。
「いって」
そのまま凛の頭はずり上がってきて、肩口に鼻先をうずめるような体勢で止まる。耳元、顔をあげても、凛の前髪の分け目が見えるばかりで顔は見せてもらえない。
宗介は再びため息をついた。
「……」
「……」
「なぁ宗介」
「んー?」
「……俺の改善点は?」
「……」
片眉を上げて、そうだな、と一人ごちる。
「すぐ泣くとこ……痛って!」
真面目に返したのに、今度は首を齧られた。
「は―――。……今日の試合だと……、フォームは悪くなかった」
凛は首筋に噛みついたままで、威嚇しながら様子を窺う猫のようだった。
「……ほかには?」
「右に流れる癖も無くなってきてる。ただ、ハルとは逆隣のヤツのフォームが悪くて、波をかぶっていた。それが敗因、運が悪かっただけだ。お前のせいじゃない」
慰めるつもりはない。ただ、客観的な場所に居たからこそ分かる事実を淡々と伝える。
「……」
凛がぎゅうっと丸まる。悔しくて、悔しくて、仕方がない、といった様子で。
残念ながら、凛の思いは理屈ではない。凛が口先だけで求める「改善点」をいくら丁寧に理論立てて伝えたところで、そんなことは、言われずとも彼自身にも分かっているのだ。
「ほんっと、負けたくねーんだな……」
分からないでもないけれど。
宗介は凛の重みを感じながら、ふと思った。
凛は良いな、と。
悔しくて、悔しくて、負けたくなくて。けれど、負けるしか無くて。勝てる方法なんてとっくに失くしていて。ただ気持ちだけが悔しくて、苦しい。そんな思いはとうの昔に置いて来てしまったし、今すぐに取り戻せるものでも無いという自覚がある。
けれど、凛は違う。凛はずっと、どうしようもない悔しさをバネにして、時には道に迷いながら、辛い焦りに呑まれながらも、這い上がってきている。
凛には必ず、支える誰かが居てくれていた。
凛が片親の子だと知った時は、子ども心に少なからず驚いたし、可哀想だと思ったこともある。最初のうちは、自分がそばにいてやらなくちゃなんて、詰まらない憐憫の情があった時期ももちろんあった。最初の凛には俺が居た。
そして、凛のそばには江がいて、岩鳶の連中がいて、鮫柄のチームメイトもいて。
目指すべき光、ハルが居る。
悔しくてどうしようもなくなってしまったときに、こうしてしがみつく背中もある。
そのすべてが、凛のこの先を祝福して導くための、道しるべのように思えた。
……俺にはなんも無かったな……。
羨ましいわけでもなく、感慨深いわけでもない。ただ客観的な事実だけを宗介はぽつりと呟いた。
肩口で固まっている凛の前髪。悔しい時、一生懸命頑張ったのに、できなかった時。与えて欲しかったのは何だっただろう、と宗介は赤い髪を見つめた。やがて、腹の底から大きなため息を吐く。
「凛」
めいっぱい優しく囁いて、その頭をわしわしと撫でてやった。まるで犬か猫を撫でまわすように。くしゃくしゃになっていく髪が少し可笑しくて、宗介は思わず微笑んだ。
相変わらず顔を上げない凛。少し体勢を変え、伸びあがってきた頭が宗介の首を捉えた。今度は噛みつくのではなく、優しい口づけのような感触が降りてきた。
もう少しだけ、と凛の頭は撫でられることを受け入れていた。
「お好きに」
胸元に回ってきた腕を少し浮かせ、指を絡める。凛の耳に口づけを落とし、宗介は撫で続けた。
「……宗介、ごめん……」
ぽつりと呟いた凛に、宗介は答えなかった。