【日郁】欠片あつめ日和が、あの絵本のことを嫌いだと言ったのは、ちょっと意外だった。
ううん。僕が好きだったから、とか、そういうことじゃなくて。
日和に好き嫌いがあるんだってことが、意外だったんだ。
日和はカフェが好きだ。コーヒーや紅茶、香りの豊かな飲み物が好きだ。直接聞いたことは無いけれど、よく変わったお店に連れて行ってくれるから、たぶんそういう物が好きなのだと、郁弥は思っていた。
「あれ? 日和、それ、嫌いだっけ?」
「……うん、ちょっとね」
お洒落に盛り付けられた、所謂カフェごはん。主が何なのかよく分からない豆ごはんに、肉や惣菜が乗って、さらによく分からない珍しい野菜が乗せられている。そのてっぺんを飾っていた香草を、日和は皿に避けていた。いつもそうだっただろうか。郁弥はあまりにも当たり前に過ぎてきた日々を手繰った。
ピスタチオクリームのケーキやジュースを教えてくれたのは日和だ。香ばしいナッツとバニラの香りと、ざらざらした食感が癖になる美味しさで、最近のお気に入り。牛乳が苦手なので、必然的に生クリームやチーズクリームの乗ったケーキを避けてきたけれど、日和が「これなら郁弥にも食べられるでしょ」と教えてくれた。カフェは魅力的な所だからと言う日和に付き合ううちに、なんとなく、自分も新しいお店や情報誌のカフェ特集を目に留めるようになって久しい。
「ねぇ、日和」
「ん?」
「この前言ってた、あの綺麗なゼリージュースの所には、いつ行くの?」
意外だったのか、日和はぱちくりと瞬きを一つ。そして、直ぐににっこり笑った。
「覚えてたんだ」
「日和が誘ったんじゃないか」
「ふふ、そうだね」
いいよ、いつでも。ちょっと遠いから、講義が早く終わる日にしよう。自主練習も早めに切り上げてさ。にこにこと言う日和は、嬉しそうだけど、少し遠慮気味で、でも、たぶんこれが日和の笑顔で。口にした紅茶が甘く香り、視界を燻らせる。
そうか、日和は、こうやって笑うんだ。
郁弥は綺麗な睫毛をゆっくり瞬かせる。それは、なんとなく。意味なんてないけれど、郁弥はゆっくりと日和の顔に手を伸ばした。
「え、郁弥? どうした、の? あ、ちょっと」
郁弥が触れたのは日和の眼鏡。主張の強い黒淵の眼鏡をするりと抜き取ると、そこには予想外なほどに主張のない笑顔が困惑の眼差しを向けていた。
「郁弥、僕の眼鏡に興味なんてあったっけ?」
「ううん。なんか、日和だな、って思って」
「何それ」
可笑しくなったのか、日和はくつくつ笑う。
そうだ。そういえば、日和はこうやって笑う。
「わ、結構、度、強いね」
「そう?」
「今、どのくらい見えるの?」
「あのねぇ郁弥、眼鏡の人間が眼鏡を取ったときに、本当に全然見えなくなるなんてこと無いから。このくらいの距離なら見えてるよ、郁弥の姿も、表情も」
「なんだ」
はい、ごめんね、ありがとう。日和に眼鏡を返すと、日和の笑顔はまた主張を取り戻した。
日和は、コーヒーが好き、たぶん。紅茶も、嫌いじゃないと思う、たぶん。
日和は、ケーキが好き。チョコレート。
日和は、ご飯の上に乗ったよく分からない香草が嫌い、たぶん。
日和は、『人魚姫』は嫌い。これは、この前聞いた。
日和は、困ったように、こうやって笑う。声だけ聴いていれば、自信満々に聞こえる。でも、顔を見るとそうでもない。
眼鏡を取ると、日和がどうか分からなくなる。ごめん、これは失礼だった。
「日和は……」
「ん、何?」
「いや、なんでもない」
なんてことのない普通の日。部活が終わって、少し自主練習をして、日和が見つけた新しいカフェに晩ごはんを食べに行って、一緒に帰る。一歩前でも、後ろでもない、真横に並んで帰るのだ。
日和は、僕のことが、たぶん、好き。
恋仲かと聞かれると自信は無かった。友達であることは間違いないが、それ以上の関係を持った時、そこにどんな名をつければよいのか、分からなかった。なんせ、郁弥と日和がお互いを本当の意味で『認識』したのは、つい最近のことだったから。
一緒に住んでいるわけじゃない。アパートが近いから、お互いに、その時の成り行きでどちらかの部屋にお邪魔する。今日はたまたま僕の部屋だった。それだけのこと。
「あのさ、郁弥」
「うん」
ベッドに腰掛けた日和が少し口ごもる。顔を赤くするわけでも、慌てるわけでも、かといってスマートなわけでもない誘い方。答える郁弥も、ただ、いつものように、単調にうなづくだけ。こんな調子で、一体どうして、この行為が成立するのか、郁弥には不思議だった。
つと日和に寄り、向かい合わせで乗り上げる。
「重くない?」
「大丈夫。触っていい?」
「いいよ」
「ありがとう」
味気ないスウェットの隙間から日和の温かい手が入ってくる。お互いに緊張はしているかもしれない。でも、それは心地好い程度の緊張感。何故だか、日和とくっつく時はゆったりとした水の揺蕩いを思い出す。
そうだ。日和は、手が温かい。
少しずつ隙間を詰めて、日和の肩口に顔をうずめる。日和の愛撫に合わせて、郁弥の手も彼の背を這う。どのくらいそうしていたのか、温め合いに少し痺れが出てきた頃。ゆっくりと押し倒される。
「郁弥……」
「いいよ」
日和の影に閉じ込められて、日和の背に回した腕を引き寄せると、彼の体は完全に上に乗ってしまう。今度は日和が郁弥の肩口に顔をうずめた。
日和は、キスをあまりしない。たぶん、好きじゃないんだ。映画で良く見るような濃厚な営みにはあまり興味が無いらしい。
日和は、体を舐めたりもしない。濡れた吐息、耐える音を聴いたことはあるけれど、その唇が体を這うことはあまりない。僕たちはスイマーだから、痕をつけないようにと遠慮しているのかもしれないけれど、理由を聞いたことが無いから、真相は分からない。
「んっ、……」
「あ、ごめん、大丈夫? 郁弥」
押し潰されているせいで少し漏れてしまった声を心配して、日和が体を離した。困ったような顔、遠慮がちな、怯えるような顔、変な顔。郁弥はふと気づき、そっと日和の顔に手を伸ばした。
「日和」
「何?」
日和から抜き取られたのは、重厚感のあるいつもの眼鏡。
「眼鏡、危ないよ」
「あ……ごめん、忘れてた」
眼鏡をとってしまうと、日和はとたんに主張を失くす。何かに怯えて、何かに隠れて、ずっと透明になって生きてきたみたいに。そう、日和は、こういうやつだ。
日和はずっとそばに居てくれた。郁弥もずっと日和のそばにいたつもりだった。それは当たり前すぎて、空気のようで、でも、そこに見えていたのはお互いに別の物だった。そのことに気づかされ、やっとお互いの顔を見た時、二人はやっと始まることができたのだ。
――泳ごう、日和。
そう、一緒に。
郁弥は日和のことを何も知らなかった。今だって、少しずつ日和を発見して、その欠片を拾い集めている。
「見える?」
「見えるよ。近いから」
「そう。続ける?」
「いい?」
「いいよ」
「触るよ」
「うん」
スウェットをたくし上げられ、日和も自分のシャツを脱ぎ捨てる。特に盛り上がっているわけでもなんでもないから、汗をかいているわけでもない。特に何もない、いつもの日和。少し影になって、大きくなって見えるくらいだ。
いや、日和は、大きいんだ。
触る、とわざわざ断りを入れてきたのだから、てっきり胸を触るのだと思っていた。しかし、日和の温かい手はそのまま郁弥の頬を包んだ。ゆっくりと顔が近付き、額を擦り付けるような、不思議な行為。
「日和?」
「ね、郁弥……」
「何?」
「見える?」
「見えない。近すぎて。」
「ふふ、だよね。僕も見えない。」
「何してんの?」
「郁弥……キス、しても?」
あれ?
そう、日和はてっきりキスは好きじゃないのかと思っていたけれど。
前言撤回かもしれない。
「いいよ」
「いいの?」
「うん。どうして?」
「いいや。ありがとう」
「うん」
遠慮がちな軽いキス。そのあとに少し長いキス。目を閉じているし、近すぎるから、日和の顔は見えないけれど。キスの音だけはよく聞こえる。
日和の欠片。日和は、どういうやつだっただろう。
何が好きで、何が嫌いで、何が得意で、何が苦手だっただろう。
何も、知らないや。
そのまま沈んでしまいそうな揺蕩いの中、郁弥は一人浮上した。日和のこと、知らないことが多すぎるけれど、一つだけ、聞いておこうと思ったのだ。
「ね、日和」
「何?」
「日和は、僕のこと、好き?」
「えっ?」
驚いた顔、直後に耳が赤くなって、無い眼鏡で顔を隠そうとする仕草。
「なぁんだ」
日和は、僕のことが好き。これは、確信。
「郁弥、どうしたの、急に」
「ううん、何も」
離れてしまった体を強請るように、日和の頬に手を伸ばす。
「日和、続き」
「あ……うん……」
そして、もう一度キスをする。
僕は弱いから。つい、考えすぎて、深みにはまって、気づくべきことにも気づけない。だから、少しずつ確かめなくちゃいけない。だから、これでいいんだ。今は、これがいいんだ。
少しずつ、僕らは知っていく。始まったばかりのまっさらな道を。