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    10,911m 羽京は、子供の頃から音楽というものが好きだった。
     聞いた人によって解釈が変わってくるが、複雑な音の組み合わせによって人の感情を動かすことが出来る。映画やアニメのBGMも重要だ。世界観は声や画だけでは作れない。その場のピリピリした緊張感もゆったりした安心感も音楽によって作り出すことが出来る。音楽はひとつの物語であり、世界であり、宇宙だ。
     だから羽京は仕事とは別に趣味で音楽制作をしていた。PCソフトで作った楽曲を自分のYouTubeチャンネルに投稿する。最初は細々と投稿していたが徐々に人気に火がつき、今では時々ゲームなどに楽曲提供をする程になっている。ネット上にいる音楽制作者は幅が広く、ピンからキリまでいる。まるで深海のように光を当てられない人間は幾らでもいて、羽京もスタート地点は深海だった。だからここまで人気が出たことに未だに少しだけ現実味がない。
     そして、まだちっぽけな深海住まいの作曲者だった時から今の今までずっとファンでいてくれている男がいた。
    『羽京! 今回の新曲も素晴らしかったぞ!』
    「待って音量調節するから、耳が、耳」
    『この曲は音楽ゲームに提供しないのか』
    「声がかかったらって感じ。君は本当に僕の曲をプレイするのが好きだよね、龍水」
     この通話開始早々挨拶もなしに羽京の曲の話をしている男が古参ファンの龍水だ。まだ再生回数が3桁程度だった時からほぼ全ての動画にコメントを残し、Twitterにも突撃してきて、羽京のLINEIDを奪っていった男である。正直最初は関わってはいけないタイプの人間だと思ってどこかで縁を切ることを考えていた。しかし話してみるとどうやらネット交流が苦手だっただけらしく、年下にしては一本筋の通ったしっかりした人間だった。態度が大きいところは愛嬌だ。
     そもそもネット交流を始めるにも許可が必要だったらしい。高校生にしては厳しい家庭環境な気もする。それでもわざわざ自分と話をしたいためだけに両親に頼み込んだりしたのだろうか、と思うとくすぐったい気持ちになった。そんなこんなで2年近く交流を続けている。
     羽京は本名をそのままもじった「UKYO」という名前で活動しており、龍水もTwitterやLINEのアカウントをそのまま下の名前にしているためお互いに本名で呼び合っていた。彼と通話しているのは大体休日の夜。週に一回か二回ある程度だ。もちろんお互いが忙しい時は一ヶ月ほど通話しないこともある。ただ、彼と話をしている間に曲が降りてくる事が多いため、アイデア出しに付き合ってもらう気持ちでいつも雑談をしていた。
     龍水のことは「自分の曲が好きな高校生」以外の情報をほとんど持ち合わせていない。住んでいるところも知らないし、会ったこともないので声から受ける印象しかなかった。いつも明朗快活と喋るため定期的に羽京の声が掻き消される。彼は高校生にしては随分と知識量が豊富で、高校ではおおよそ習わないであろう知識も色々と持っていた。龍水にひとつ質問すると勢いのままに事細かに説明される。彼の紡ぐ知識の声も、どこか音楽のようで心地よかった。
     羽京のファンと言うだけあって音楽ゲームは良くやるらしい。と、言うよりゲーム全般得意でその中に音楽ゲームも入っているようだ。羽京はそこまでスピードが速い曲を作ったりしないため、クリア難易度の高い曲は無いとはいえ彼は実装されたその日にフルコンボを取ってくる。それは初めて触れるゲームでも同じで、その上手さには目を見張る。
    『そうだ、この間実装された曲だがオールパーフェクトを取ったぞ! はっはー、見てみろ!』
    「わあランキング全国一位また取ってる……作った僕がフルコン止まりなのに……」
    『もちろん取るからには目指すのは全楽曲ランキング一位だ!! その上羽京の曲とあればみすみす逃すつもりはない!!』
    「……この世界に、君以上に僕の曲が好きな人間はいないんだろうね」
     そう言うと満足気な声が帰ってきた。龍水にとって羽京は「大好きな曲を作る作曲家の友人」。羽京にとって龍水は「自分の楽曲を本気で好きだと言い続けてくれるファンの友人」。
     自分が紡いだ世界をネット上にアップロードしなければ恐らくすれ違うこともなかったであろう見知らぬ相手は、すっかり楽しい夜のお供になっていた。

    『貴様の方から呼び出してくるとは珍しいな』
    「……もしもし」
     開口一番テンションが異常に低い羽京に少し驚いた様子の龍水は短くどうした、と返してきた。通話早々声量が大きいのもどうかと思うがこんなテンションで迎え入れるのも良くないなあとぼんやり思った。
    「こんどね、コンピレーションアルバムに参加するんだよ」
    『ついにCD音源化か! 欲しい!! 100枚でも200枚でも買おう!』
    「あはは、ありがとう……初めてお誘い受けたからまあ嬉しかったし、承諾したんだけど……問題は、テーマで……」 
    『フゥン、貴様は普段から何かしらテーマをもって楽曲を制作していたはずだ。だというのに悩むほどのテーマとは何だ』
    「感情の爆発だって」
     曖昧なテーマだが、感情が大きく動いたという内容であれば何でもいいらしい。喜怒哀楽、愛情劣情嫉妬憎悪どれでもありだ。他の参加者と被っても問題ないとのことだったので、かなり作りやすいはずなのだ。それなのに羽京には一向に曲が降りて来なかった。
    『なるほどな、扱いやすいのは恋愛や怒りか? 貴様の曲調なら恋愛の方が向いていそうだが』
    「そう、そこまでは僕も考えたんだけど……」
     自慢しているようで何だが、羽京は学生時代からまあまあモテる方だった。所属していた部活の後輩から告白されたり、隣の席だった女子から「付き合って欲しい」と頼み込まれたり。恋人が居ない、いわゆるフリーの時はそのまま付き合ったりしていた。
     ただ長く続いたことは無かった。大体の恋人たちからは「私のこと本当に好きなの?」と詰め寄られた。大事にしていてもそれを受け取ってくれるかどうかは難しく、大体一方的にフラれる。自分から告白したこともなければ自分から別れを切り出したこともなかった。
     そう、羽京にとって恋愛事は「感情の爆発」とは程遠いものだった。この世に何万もの恋愛を紡いだ曲があっても、羽京にとってそれは曲にするほどのものになり得ていなかった。それは確かに美しく、他の人間からしたら音に言葉を紡いで聞かせたいほどの感情なのだろう。でも羽京にとって恋愛は自分のそしらぬところで勝手に打ち上がって勝手に消えていく花火のようだった。
     かと言って他の感情を爆発させた場合のパターンが考えられるかと言ったらそうではない。元から羽京は冷静に状況判断して動くタイプであり、感情によって大きく行動が左右されるということが少なかった。別に羽京にとって分からないことでも曲は作れる。宇宙に行ったことがなくても宇宙の曲が作れるし神を見た事がなくても神様の曲は作れるのだ。それでも、羽京はどうしても曲が作れなかった。
    「適当に絞り出した曲を出すにはCDってハードルが大きいし、じゃあちゃんとしたものを出せるかって行ったら出せないし、納期は迫ってくるし、どうしよう……」
     何よりこれがお金を買って払ってもらうCDの曲、というのも大きかった。音楽ゲームであれば譜面の善し悪しや難易度も関わってくるが曲単体となると純粋な評価となる。他人の目など気にして曲を作ってきたことは無かったのに、直接的な金銭が絡まるとどうもダメだ。
     納期は1ヶ月後。別の人に編曲を頼む関係でそろそろ作り始めないと流石にまずい。正直こんなところで落ち込みながら自分のファンと話している場合ではない。
     龍水は少し考えているような間の後、今の状況とは違うがアイデア出しの一環として、とひとつ話をしてくれた。
    『羽京。これは趣味の話ではなく商品開発の話だが……何でもいい、1つ商品を開発する際に想定する人間の数、つまり買ってもらう対象はどのくらいの人数だと考える?』
    「え? そりゃ、売れれば売れるほどいいだろうから……女性向け商品だったら女性全員とか、そんな感じ……?」
    『違う! 買ってもらう対象、つまりターゲットユーザーは1人だ。たった1人に絞らなければその人間が本当に"欲しい"と思うものが見えてこない。人はそれぞれ見ているものも住んでいる環境も思考回路も違う。10人いれば10通り、100人いれば100通りの欲望がある。だから万人にぼんやりと受ける商品ではなくたった1人の欲望を完璧に叶える商品を作らなければならん。そうでなければ無駄が生じたりコンセプトがズレたりする』
     商品を作る際にはたったひとりのユーザーを想定する。しかもかなり事細かく設定するのだと龍水は言う。年齢、職業、性格、家族構成。細かくユーザーを決めることでそれに当てはまる人間が「欲しいもの」を導き出すらしい。
    『これはあくまで量産が前提のプロダクト……工業製品の話だ。つまり今羽京がやっている趣味の芸術作品とは違う話になってくる。そっちは自己表現が主となってくるからな。だがアイデアが出ないと言うならば、とりあえず1人ターゲットユーザーを想定し、そのユーザーが聴きたい曲を考えるというのも手だろう。違うか?』
    「……なるほど、面白いアプローチだ」
     まとめると、「作った曲を誰に聞かせたい」かを設定してみろと龍水は言っている。しかも職業や年齢も含めて。正直聞いた限りだと設定したところで曲が降りてくる気はしないが、実際龍水は過去に様々な曲のアイデア元になっている。やってみても損は無いだろう。
    「うーんじゃあそうだな、若い人をターゲットにしよう。とりあえず学生さん」
    『フム』
    「で、まあ普段から僕の曲を聞いてる層からしても男性がいいかな、男子学生の音ゲーマー」
    『いいだろう、もっと細かく』
    「細かく……せっかくだからずっと僕の曲を聞いてくれていた人がいいかな、コメント残してくれてる人とか。あとはどうだろう、今回明るめな曲調にするつもりだからそれが似合うような、はつらつとした人とか?」
    『……羽京』
    「うん、僕も言ってる途中で気づいたけどこれ龍水の事だね!」
     何とも恥ずかしい限りである。いや確かにずっと追いかけてきてくれている彼に作った曲を真っ先に聞いて欲しい、と思うことは多々ある。いいフレーズが思い浮かんだ時に彼が聞いたらどう反応するかな、なんて思うこともある。確かにあるのだが今こんなタイミングで本人に言うことではないだろう!
     龍水はくつくつと短く笑うと「そうか、貴様のターゲットは俺か」と随分と楽しそうな声で言った。穴があったら入りたい。
    『いいのか、俺がターゲットユーザーで。俺は世界一の欲しがりだぜ? 欲望を完璧に叶えるものなんてそう簡単に作れるものじゃあない』
    「ああ、いいよ。僕も君の好みならある程度把握しているからね」
     ほとんどやけくそ気味に言った買い言葉。気に入った、いいだろう!とまた羽京の声をかき消す勢いではつらつとした返事が帰ってきた。伝えてしまったからにはしょうがない。今更前言撤回したり他のターゲットを出そうにも止められるような相手ではない。
     いや、待てよ。そもそもあくまでアイデア出しの一環として試しにターゲットユーザーを決めるという話ではなかっただろうか? 今羽京の思考が詰まっているからこういったパターンもあるという形で提示された話だったはずだ。なのに今の羽京の返答だと完全に龍水のために曲を作ることに──
    『そうとなればまずユーザーの理解からだ! 俺と貴様は所詮通話越しの相手、お互いの素性など見せているところまでしか見えん』
    「あの、龍水?」
    『ユーザーの本質を理解し分析しなければ"欲しい"ものを出すことはできない。ならば会うのが手っ取り早いな。真面目に面と面向かってディスカッションをしてもいいが、生み出すものが芸術作品というなら趣味の場へ行っても構わんだろう』
    「ちょ、ちょっと待って追いつかない」
     流れるように話される彼の口を一旦止める。半ばスランプ状態に陥っていたためちょっと気晴らしがてら話したつもりがどんどん思わぬ方向に進んでいる。
     龍水はターゲットユーザーの理解が必要で、理解するには通話越しではなくちゃんと会ってみないと分からないと言っている。そしてお堅い話しあいではなくただ遊びに行くだけでもいいと。
     ということは。
    「……つまるところ、オフ会しようってこと?」
    『はっはー!! 行くならどこがいい! 好きなところを言ってみろ!』
     羽京は頭を抱えた。どうしてこうなった。

    「何と言うか、すごい、すごい声の擬人化が肉体持って目の前に現れた感じがする……」
    「フゥン、褒め言葉だと受け取っておこう」
     待ち合わせ場所にいた男は、態度に見合った体躯をしていた。相手の顔を見ながら近づくにつれ、自分の首が上がっていく感覚に軽く引いた。服の上からも見て取れる筋肉とその精悍な顔立ちに、彫刻のようだと感じながら近くの建物へ案内する。
     龍水が言うには一人で羽京とオフ会するためにそれなりの許可が必要だったらしい。随分心配性な親御さんだが、昨今の事件などを考えると未成年の子供を易々とネット上で出会っただけの人間と会わせるには不安だったのだろう。言い出しっぺは自分の息子の方だが。
    「む、チケット代くらい払えるぞ」
    「いいのいいの、こういう時は年上に花持たせてよ」
     龍水から学生証だけ預かり、窓口の係員に見せる。係員は少し驚いたような顔をしたが、そのまま大人1枚高校生1枚のチケットとパンフレットを渡してくれた。
     オフ会が半ば強引に決定した時、迷ったのはどこへ行くかだった。カフェなどで真面目なディスカッションを、と言ったところでする話題がない。いや、作ろうと思えば話題などいくらでも作れるだろうが出来る限り考えることを増やしたくない。ならただ遊びに行くだけの方がいいだろう。
     曲以外の共通点として、2人とも海が好きなところがあった。龍水の方は特に帆船が好きなようで、たまに作ったボトルシップの写真を送ってくる。船の博物館に行ってもいいが好きなものとはいえ初めて会う人間同士で行くにはハードルが高かった。「好き」の熱量がそれぞれ違う場合大分気まずくなる。
     気軽に行きやすくて、時間や距離もそこまでかからないところとして選んだ場所は水族館。ここなら家族でも友人でも詳しくても詳しくなくても楽しめるし無難だろう。期間限定で深海生物の企画展示もやっているところがあったため、せっかくだからとその水族館に行くことに決めた。
     QRコードのついたチケットをゲートにかざし中へ入ると、青で彩られた世界が2人を迎え入れてくれた。踊るように泳ぐ魚。揺られるがままに漂うクラゲ。人が再現した水面下の世界を歩く。パンフレットを確認すると主な展示は海や河川をモチーフにした水槽、大水槽、ふれあいコーナーなどのようだ。
     龍水は展示されている魚の種類だけでこの水槽がどこの海を模したものなのか分かるようで、1人でクイズのように答えて楽しんでいる。羽京はモーターが回す水の音と、よく通る彼の声を聞いていた。
     羽京の曲はちょくちょく波の音や水中の音を使っている。波が穏やかで静かなように見えたとしても絶えず水の囁き声が聞こえてくる海が好きだから、その海のような曲を作りたかった。ちゃんと海らしく聞こえるようにしたい時は本物ではなく自宅で作った音を入れている。だが隠しギミックのように入れたい場合は自分で海へ行きサンプリングした音を使用しているのだが、わざと分かりづらく入れても龍水には絶対に見つかってしまう。他の音は分からなくても海の音はわかるようだ。そういえば、彼が初めてコメントを残した曲は羽京が初めて海の音を使った曲だった。羽京が海を好きだったから、龍水も海が好きだったから、今こうして薄暗く青い世界で彼の声を聞く権利を得ることが出来ているのだろうか。
    「……コーラスとかで、入れてみたいね」
    「早速作りたい曲が浮かんできたか! いいだろう、存分に俺から曲のアイデアを出すといい」
    「意味がわからないほどのすごい自信」
    「俺は貴様が作る曲が好きだ、手に入るというならばいくらでも協力しよう」
     企画展示の深海生物コーナーには大きなリュウグウノツカイの標本が展示されていた。真っ暗な展示コーナーのところにはヒカリキンメダイが泳いでおり、説明パネルだけがライティングされている。目の下に青白い発光部のある魚たちが暗闇で泳いでいると、まるで星空のようだった。
     生物が住めるような環境では無いはずの深海に、適応して生きていくことを選んだものたち。過酷すぎる環境だからこそ、生き延びたものたち。それがダイオウグソクムシのように地上を選んだ生物と近しい形をしているものもいるのだから不思議だ。
    「すごいよね、マリアナ海溝の特に深いチャレンジャー海淵にも脊椎がありそうな生物はいるって言うし」
    「潜水艇トリエステの話か。あれはヒラメのような魚だったな」
     ヒラメのような生物だということは骨がある可能性が高い。深ければ深いほど水圧が大きくなるというのに、耐えられる骨が進化の過程で形成されたというならとんでもない話だ。そして何よりも、そんな深い海の底へ辿りついた有人調査船があるというのも凄い。人類は知識への飽くなき挑戦を続けている。光も音も届かない深い海を住処に選んでも、人間には見つかってしまうのだ。
     企画展示の次は大水槽のようだ。この水族館の目玉でもあり、縦にも横にも広い水槽は迫力がある。大小様々な魚と優雅に泳ぐエイ、手前の岩場にはウツボもいるだとか。龍水は大水槽が好きなのか待ちきれないとでも言わんばかりに先へ行ってしまった。深海展の最後のパネルを読むために立ち止まっていた羽京の名を呼び、魚が群れをなすその空間に照らされながら彼が振り返った。
     照らされていたから、分かってしまった。
     今まで音にばかり気を取られ、深海の展示で周りが暗かったから見えていなかったものが見えてしまった。

     そんなにも楽しそうに、幸せそうに、僕のことを見ていたのか。

     羽京、と急かすようにまだ深海にいる自分の事をもう一度呼ぶ。その表情を理解すると共に、全身の血液が湧き上がるように顔に集まってきた。今まで見ていた水の世界を捉えるのを目が諦めてしまい、青く柔らかく輝く彼しか入らない。
     怪訝そうな表情に変わった彼に何とか先に行っててと伝える。自分まで明るいところに出てきたら顔が赤いのがバレてしまうだろう。
     思えば龍水に思っていたことは全て恋愛感情だったのか。彼の声が心地よく感じるのも、彼に作った曲を聞いて欲しいと思うのも、このフレーズを聞かせたらどんな反応をするのだろうと考えるのも、全て彼への恋愛感情だった。それを「長く応援してくれている仲のいいファン」だからと理由をつけ、爆発さえしないほど深い感情の底に沈めていた。水圧に押さえつけられて、動けずにいた。
     だが、人類が深海への探査を諦めないから、恋する深海魚も見つかってしまった。光の届かないところを泳いでいたはずなのに見つかってしまった。あんなにも眩しくて焦がれてしまうような笑顔と共に。
     一歩、深海から外へ踏み出す。大水槽をキラキラとした目で眺めていた彼は、羽京が近づいてきたのに気づきまた嬉しそうに笑った。彼は大きいものや技術力の高いものが好きだから、多分欲しいだなんていつもの口癖を言っているのだろう。それなのに、羽京ときたらもう一度その笑顔をこちらに向けて欲しい、なんてことしか考えられない。
     初めて羽京は、この世に恋愛の曲ばかり発信されている理由を理解した。

    「だからと言って、これを出すわけにもいかないなぁ……ボツかなあ……」
    「衝撃的な言葉が聞こえてきた気がするがネコザメを遠い目で撫でながら話すことか」
    「いや龍水こそなんでヒトデ片っ端から裏返してるの」
     確かにターゲットユーザーに伝えたい大きな感情の爆発は起きた。だが作らなければならない曲はCDに収録される曲である。しかも羽京一人のCDではなく複数人が集まって作るアルバムだ。こんなところで「初恋」の相手へ向けた感情の曲を入れました!となったら純粋に恥ずかしい。恋人にカッコつける男子高校生でもあるまいし。いや聞く相手は男子高校生なのだが。
    「でもいつか今日のことも曲にはしたいな」
    「俺のために作った曲だな?」
    「うん、直球だね君は」
     自分の中でどう伝えたいか、彼がどう受けとってくれるか、そもそも伝えたいと思うのか、きちんと考えて向き合っていこうと思う。そしてその時は曲より先に言葉で伝えているかもしれない。それまでは深海を泳いでいよう。次に引き揚げられる時は、きっと羽京の手によって光の下に晒されるのだ。
     しばらくぶりだった昨日の通話はCDの感想から始まった。嬉しそうに感想を話す龍水の声は相変わらず心地よく、画面の向こうではあの時の眩しい笑顔を見せているのだろうと思うとまた会いたくなった。
     あの水族館の時の感情を音にして聞かせても、同じように感想をくれるのだろうか。それとも気づいて何か言ってくるのだろうか。羽京の作った物語を、世界を、宇宙をどう受け取ってくれるのだろうか。既に持て余している感情は、彼という存在を栄養分にしてどんどん大きくなっていく。なるほど、恋とは随分やっかいなものだ。
     さて、話は変わるがどうやら龍水がテレビの取材を受けたらしい。今夜9時から放送されるとCDの感想を言った後に話してくれた。昨日の今日で急な話だが、何とか放送時間に間に合ったのでテレビをつけた。番組表を確認したところ街角インタビューや普段は見れないところに突撃する番組らしい。彼のような人間が街にいたらついインタビューしたくなる気持ちも分かる。
     最初のコーナーはセレブのご自宅訪問という企画だった。テレビの中の女性リポーターが大袈裟なほど驚いた表情で羽京には考えられないほどの豪邸を進んでいく。これならしばらくは出てこないだろう。冷蔵庫からビール缶を取り出し、開けながらつまみになりそうなものを探す。
     数秒後に聞き覚えのある声がテレビから聞こえてきた羽京は、持っていたビールを床にぶちまける事となる。
    菜種兎 Link Message Mute
    2022/06/10 18:37:52

    10,911m

    ★勘違いしていた深海魚の話★DTMer羽×音ゲーマー龍の謎現代パロディです。何でも許せる人向け。
    ##版権  #dcst腐向け  #羽龍

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