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    【10月Tokyo.Fes新刊サンプル】劇場内ではお静かに【舞台パロ羽龍本】この本には以下の内容が含まれます。

    ・年齢操作
    ・ネームドキャラの怪我描写
    ・モブの死ネタ


    【開幕】

    【西園寺羽京の独白】
    ちょっとだけ、昔話に付き合ってもらえる?
     僕がまだ音大を卒業していなかった時の話だよ。だから今よりずっと前。あの頃、二年ほどピアノの講師を頼まれたことがあったんだ。当時の僕は、それはまあ驚いてさ。もちろん、学生に頼むなんて思わなかったから、っていうのもあったけど……。頼んできた相手っていうのが、かの有名な「七海財閥」だったんだよ。びっくりするでしょ? 僕はてっきり変な夢でも見たのかと思った。
    僕が選ばれた理由っていうのが、雇われていた執事が僕の演奏を聴いて「頼むなら西園寺羽京にしよう」って思ってくれたからなんだって。君も聞きに来てくれた? ほら、僕が最初に出たコンクール。あれを聞いてくれたらしいんだ。
    ピアノの講師するって決まった時、教える相手も事前に聞いていなかったし屋敷の中にも入れてもらえなかったんだ。別に僕が何かしたわけじゃないよ! 変に疑わないでよ。
    七海財閥の私有地って隅の方に植物園があるんだ。その植物園の中央に、考えもつかないほど高級なグランドピアノがあって、僕はそこでレッスンをしていたんだよ。えっ、誰に教えていたか、だって?

    「せんせい」

     七海財閥の御曹司、七海龍水だ。そうそう、よくしゃべる大金持ちタレントとしてたまにテレビに出てるよね。最近は有名マジシャンの手品披露番組に出てた。

    「今日は、何を弾くんだ?」

     ピアノの講師をやっていたのは、まだ彼の背が僕の肩ほどしかなかった頃だ。週に一度、土曜日の午後に一時間半だけレッスンしていた。僕は毎回、最初にドレミの歌を弾いてから始めていたんだ。選曲に意味はない、あえて言うならサウンドオブミュージックにちょっとした憧れがあったかもしれない。
     彼はいつも嬉しそうに僕が動かす指を見ていた。彼は御曹司というだけあって帝王教育を詰め込まれているみたいで、考え方も態度もすごいしっかりとしていた。でも、僕の隣にいてピアノを弾いているときは年相応に見えた。
     たった一時間半だけの時間が、あの頃の僕にとってはすごい大切だったんだ。正直に言うと最初は何とかして辞める口実を探してた。だって怖いだろ、財閥の御曹司に何かしてしまったら。ただの一学生だ、財閥に糾弾されたらひとたまりもないよ。でも隣にいた龍水が純粋な目で僕を見ているって分かってから、楽しくなってきた。
    「お茶を淹れよう、フランソワを呼んでくる」
     最後の十分くらいは、ピアノとは関係ない話をして終わるんだ。学校の話とか、兄弟の話とか、将来の夢の話とか。等身大の僕と、等身大の彼で話をする。そうして時間が来て帰った後、今後のレッスンについて考えてた。

    「せんせい、また来週も来てくれるのか?」

     とても楽しかったんだけど、彼が中学に上がるのに合わせて僕は解雇されてしまった。それは僕自身が大学のあれこれで忙しかったから、っていうのもある。彼にちゃんと伝えた記憶はない。いつも通り植物園を出たら、偉そうな人が急に出てきたんだ。龍水の叔父だっていってたかな。その人と話をして、そこで僕の講師人生は急に終わっちゃったってわけ。それ以来、執事から連絡が来ることもないし彼と再会したこともない。
     何でこの話をしたのか、って? ……なんでだろう。この記憶が、ただの「思い出」になってしまうのがずっと嫌だと思っているからかもしれない。

    【暗転】

     潮風が髪を揺らしている。ざわざわとした人の話し声とざざ、ざざと寄せては返す波の音。吹き飛びそうになった帽子を押さえながら、羽京は一人桟橋に立っていた。奥の方には大きなクルーズ船が停泊している。真っ白なそれは、空に浮かぶ雲の色と同じくらい輝いていた。
     手に握ったチケットを覗き込む。そこには「特別優待チケット」という文字が書かれている。少しだけ緊張した面持ちでポケットへチケットを戻したところで急かすようにクルーズ船から音楽が鳴った。慌ててスーツケースを持ち乗船場所に向かう。羽京と同じようにスーツケースを持った人々が続々と入っていく中、羽京もそこに並んだ。
    「わあ、何だここ……」
     中は想像以上に広々としていた。やはり地図を見ただけでは分からないものだ。吹き抜けのある大きなロビーに入ると、受付でチェックインをする。既にチェックインを終えた人々が、荷物を置くために各々指定された客室へ入っていくのを眺めていた。羽京の部屋は展望も悪い一番安い部屋だった。ベッドはダブルだが部屋を使うのは一人だけだ。
     こんな豪華な客船に、羽京が一人で来ているのには理由があった。話は一か月前に遡る。
    「羽京ちゃん、船好きだったよね?」
    こぢんまりとした大衆居酒屋で、羽京はゲンにそう持ち掛けられた。ゲンはたまたまイベント会場の楽屋が一緒になった際話が盛り上がり、イベント後も友人として付き合いが続いているマジシャンだ。近況報告も終わり酒もだいぶ進んできたところで急に優待チケットを取り出したのだ。彼が言うには最近はご贔屓様となっている資産家のパーティーで手品ショーを行っているのだが、その資産家の男からねぎらいの意味を込めプレゼントされたのだという。
    彼がオーナーとして所有しているクルーズ船らしい。一か月もあるクルーズ船旅行に仕事以外で乗るのは正直厳しかったが、都合が合わなければ誰かに譲渡してもかまわないと言われたため羽京に声をかけたとのことだ。
    確かに羽京は海が好きだし船が好きだ。上手く都合をつければ一か月くらい旅行に出かけても問題ないだろう。というのも、羽京の仕事はピアニストなのだ。各地に赴き、借りたステージで演奏をする。ソロコンサートがほとんどなので、スケジュール調整はある程度融通が利く。
    受け取ったチケットには有効期限が書いていなかった。追加で注文を取っているゲンを尻目にチケットをしげしげと眺める。でかでかとプリントされた海を往くクルーズ船の写真は、堂々とした面持ちで波を起こしている。
    船の名前を見るとNANAMIクルーズと書いてある。その字面に、沈めていたはずの記憶が浮かび上がってきた。ななみ、幼い彼の笑顔が頭の中でぐるぐると巡る。ゲンはこのことを分かっていて渡してきたのかと一瞬勘ぐったが、つながりがあった事を話したことは一度もない。メンタリストでもある彼には何らかのきっかけでバレてしまうという懸念点だけはある。
    まさか、こんなところで。湧き上がった期待をすぐに打ち消した。彼がいた七海財閥には龍水以外にも人がいる。そもそも七海財閥は海運業を担う大財閥なのだ。その名前だけで彼とは判断できない。ゲンは少しだけ不思議そうな顔をしたが、そのまま酒をぐいと飲みほした。
     彼と会えるんじゃないか、なんていう淡い期待をしていなかったといえば噓になる。だが、優待チケットを持っていたとしても羽京が他の客から特別扱いされることはない。無料で招待してもらえるというだけで部屋だってこの通りだ。
    「……そりゃ、そうだよね」
     こんな立派な船に乗って、落ち込んでいるのも勿体ないだろう。荷物をある程度片づけた上で船内を見て回るため外に出た。案内図を片手にあちこちの部屋をのぞく。船内はとても広く、レストランだけでも三か所、自分がよく公演をしているようなホールが二つ、映画を見るためのシアターやカジノまである。大きな図書館もありこの船上だけで大体の娯楽はそろうようになっている。
     汽笛が鳴り、船が動き始めた。出港と同時に船内に音楽が流れ始める。曲を聞きながら、ゆっくりと目を細めた。近くにいた子供がメロディーに合わせて歌を歌っているのが聞こえてくる。
    港がどんどん遠くなっていく。ぶわ、と吹いた潮風に帽子を持っていかれそうになって慌てて押さえた。これからしばらくの間、羽京の住処は海の上になる。
     子供がはしゃぎながら甲板に走っていったので覗いてみるとそこには大きなプールがあった。船の動きに合わせ、小刻みに波が立っている。気の早いカップルなどは既にプールで遊んでいるようだ。水着は流石に持ってきていなかったが、売店で売っていた気がする。ただ、一人で楽しむようなものでもないだろう。
     そのままうろうろと一人で歩いていると、公演用のホールに繋がっている扉が開いているのに気付いた。まるで手招きしているように見えて、そっと入ってみる。中には誰もいない。しんとしたホールの中心に、大きなピアノだけぽつんと残っている。
     近づいてしげしげと眺めてみると、随分いいピアノのようだ。今日は仕事ではなくプライベートで来ているのだから、流石に触ってはいけないだろう。
    出ていこうと思ったその瞬間、足音が聞こえてきてとっさに幕の内側に隠れる。音を聞く限り体格のいい男性のようだ。何故隠れてしまったのだろう。見つかった時に怪しまれるくらいならばそのまま立っていた方が良かったのではないだろうか。
     男はしばらく何も言わずに周りを歩き回っていたが、ステージの前で立ち止まるとフゥン、と愉快そうな声を出した。その声に、その喋り方に心当たりがある。いや、まさか。
    「勝手に入るとは感心しないな、先生」
     上ずった、嬉しそうな声。注意をしているふりだけは保とうとしている。深呼吸をひとつしてから、ゆっくりと幕の内側から出てくる。
    「……龍水」
    「久しぶりだな」
     舞台から降り、龍水の隣に立つ。やっと会えた彼は随分と大きくなっていた。自分の肩ほどしかなかったはずの背は、見上げるほどになっている。がっしりとした体格のおかげでシャツに体のラインがくっきり浮き上がっていた。
    「大きくなったね」
    「おかげさまでな」
     あの時の、ハキハキと喋っていながらもたまに舌っ足らずになっていた幼い少年はもうどこにもいない。ここにいるのは巨大なクルーズ船のオーナーをやっている資産家だ。そこに少しだけ、淋しさを感じた。
    「ごめん、すぐに出ていくよ」
     出口に向かおうとする腕をつかんで止められた。顔を合わせるとくい、と首を傾げられた。何故だか彼は久しぶりに会えた「先生」相手にわざと可愛こぶっているように見えた。ピアノを教えていた頃だってそんなことしなかったじゃないか。
    「まだピアノを弾いているのだろう?」
    「……まあね、仕事にしてるし」
    「せっかくだ、一曲くらい聞かせてくれ」
     勝手に入った手前、断るのもどうかとうなずいた。もう一度舞台に上がった羽京はピアノの鍵盤蓋を開け、椅子に座る。龍水が当たり前のように隣に座った。
    「いつものでいい?」
    「……、ああ」
     いつも通りドレミの歌を二人で弾き始める。しばらく会っていなかったのにテンポも息もぴったり合った演奏がホール内に流れる。それもそのはずだ、出港の時にも聞いた曲だったのだから。
    あの曲を聞いた瞬間、期待してしまったのだ。彼の姿を探し回るほど、彼のことでいっぱいいっぱいになってしまったのだ。ピアノを共に弾いていた龍水が、姿はいくら変わろうともあの時のままここにいる。羽京のことを未だに覚えていて出港メロディーにするほど大切な思い出にしている。
    楽しそうに笑いながら弾いている彼の顔が愛おしくて、胸がきゅうと音を立てた。少しだけリズムを崩したのにもすぐ対応して合わせてくれる。羽京がいなくなった後も練習していたのだろう。
     二人きりの演奏会はすぐに終わってしまった。羽京が龍水のために弾いた最後の一音を鳴らし終わると、龍水が拍手を返してくれた。
    「先生、どうだ?」
    「ありがとう龍水」
    「ああ」
     龍水が少しだけ首をかしげる。一瞬、変な間があった。何かを待っているような彼の表情。羽京も気持ちが昂っていて、いつものように相手の言いたいことを汲み取ってあげることができない。少し困ったように笑うと、自分の行動に気づいたのか少しだけ恥ずかしそうな顔をした。
    「龍水?」
    「いや、何でもない。そうだ、先生がよければ明日ここで演奏会をしてもらえないか? もちろん休暇としてきているのだから断ってもらってもかまわない。だが、もっと先生のピアノが聞きたいんだ。出てくれるのであれば出演料は払うぞ」
     演奏会。一瞬固まった羽京を訝しむように見つめてくる。悩んだが、どうせ一人で来ているからやることもないのだ。久しぶりに再会できたこの船上で、ただ何もせず過ごすのも勿体ない。一回だけならいいだろう。うなずくと彼の表情がぱあっと明るくなった。
    「契約成立だな」
    「うん、よろしくね」
     握手を交わし、立ち上がった。太陽のように温かい手だった。その手が離れていったのが、少しだけ淋しく感じてしまった。

    【暗転】

     ざわざわと客席から声が聞こえてくる。女性客が多いようだ。予告も一切されていなかった突発的なコンサートだったのに、乗客の中に自分のファンがいてくれたらしい。運の良さに喜ぶ声も混ざっている。
    売店に楽譜すらあったのは驚いた。龍水と共にどの曲を演奏するか決めたが、あれも聞きたいこれも聞きたいと好きに投げてくるものだから羽京の腕は楽譜だけですぐいっぱいになってしまった。俺が払うからいくらでも買えと自信満々に言うものだから笑うしかなかった。
     その中から今日は一曲だけ演奏する。ディナー後の余興として船内放送がかかったのだ。元々今日のレストランには何のショー予定も入っていなかったし、お客さんも長い公演だとついてこられない可能性があるため、とりあえずお試しということらしい。
    確かに楽譜を確認してすぐ演奏できるとは言ったが、まさかこんなすぐにお呼びがかかるとは思わなかった。彼と共にいると全てが彼のペースになってしまう。振り回されているのも、何だか少し楽しかった。
    「先生」
     舞台袖で龍水がこそっと話しかけてくる。龍水はオーナーだけあって堂々とした面持ちで船内を歩き回っていた。だが目を細めたその顔が年下の男の子らしい、少し幼い表情に見えた。
    「急な予定で悪いな」
    「本当にね……でも僕の演奏を待ってくれている人がこんなにもいるんだからやりきるよ」
     龍水が機嫌よさそうに鼻を鳴らす。彼が曲を選んだのでほとんど彼のためのコンサートとなっている。もう一度楽譜の順番を確認してもらい、OKをもらった。
    「俺は特等席で聞くとしよう」
     そう言うと舞台袖にパイプ椅子を置いた。どかっと座って足を組んでいる。椅子だけでいえば出来る限り近くで聞きたいようだ。またきゅうと胸が音を立てた。
     時間となり、司会を担当している彼の執事が舞台の中心に立つ。だんだんと客席が静まり返っていく。執事がつらつらと羽京の経歴を話している。話し終わった後に名を再度呼ばれたので、マイクをもって執事の隣に立った。
    「急なコンサートにもかかわらず、来てくださってありがとうございます」
     期待をしている乗客たちの視線が羽京を貫いてくる。いつも、この時が一番緊張する。果たして彼女たちの求めるものを今から演奏できるのだろうか。彼女たちが求めている物は一体何なのだろうか。それが分かったことは一度もない。
     ある程度話したあと、執事にマイクを渡しピアノへ向かう。椅子を引き、ピアノの前に座る。しんとした空気の中に羽京が身じろぎする音だけが聞こえてくる。
     静かな水面にしずくを一滴垂らしたかのように、ピアノの音が鳴る。
     最初の曲はリストの「パガニーニによる大練習曲 第3曲ラ・カンパネラ」。期待には全力で応えて見せよう。有名で、なおかつ演奏が難しい曲だ。羽京ですらたまに運指を間違えることがある。だが、久しぶりに会った生徒に腕がなまっていないところを見せるにはちょうどいいと思った。
     音が連なっていき、指先が曲を奏で始めた。腕が軽やかに動く。誰もが集中して羽京の演奏を聴いている。このステージ上で、この劇場で、主役なのは間違いなく羽京だ。音を揺らす、鼓膜を揺らす、心臓を揺らす。びりびりと神経を痺れさせる重低音と硝子のように透明な高音を重ねる。今は誰もが羽京の奏でる旋律の波に乗っていた。
     作曲者のリストは「超絶技巧」や「ピアノの魔術師」なんて呼ばれることもある天才だった。彼の曲はテクニック重視が多く、激しい演奏をすることで有名だ。その中でもこのラ・カンパネラは元々同名のヴァイオリン協奏曲だったという。リストがそれを聞き、超絶技巧を目指すきっかけにもなったというそのヴァイオリンの曲をピアノ用に編曲したのがこの曲だ。リストの希望と憧れが、指の速さに現れている。
     あっという間に演奏が終わってしまった。終わったことに気づいていない観客が惚けている。一寸の後、ばらばらと拍手が上がる。その音はだんだんと大きくなり会場内を埋めつくすほどになった。拍手喝采の中、椅子から立ち上がり中心で頭を下げる。
    照れくさそうに笑いながら客席に向かって手を振り舞台袖に戻ると、キラキラした目の龍水がいた。勢いのままに抱き着いてきた背の高い男を何とか支える。
    「最高だ、先生!」
    「お気に召したようで何よりだよ」
     先ほどは離れて行ってしまった体温がこんなにも近くに感じられるのが嬉しくて、少しだけ強めに抱き返した。慕ってくれているのが、必要としてくれているのがこんなにも嬉しい。ずっと抱きしめているわけにもいかず体を離した。
    「また、弾いてくれ。このクルーズだけなんて言うな。何度でも俺の船で弾いてくれ。先生の腕が欲しい」
     何度でも。それは、一か月経ってここでの休暇が終わったとしても仕事として船に乗り続けることを指している。今度こそはっきりと言葉に詰まった羽京を見て、龍水が一瞬固まった。二つ返事で肯定が返ってくると思ったのだろう。まあいい、ゆっくり考えてくれと言い残し龍水はその場を去っていった。
    「……どうしよう」
     出来れば羽京も彼の傍で演奏したい。これきりにしたくないのは自分だって同じだ。大好きな海の上で、ずっと思い続けていた可愛い「生徒」と共に自分のやりたいことが出来る。これ以上ない好条件だった。
    だが、頷くに頷けない事情があったのだ。舞台袖で頭を抱える羽京とは裏腹に、客席では満足そうな人々の声であふれかえっていた。

    【暗転】

    『羽京ちゃんネットで話題になってたよ。クルーズ船でかの有名なピアニスト、西園寺羽京が突然現れゲリラ公演したって』
    「あはは、大変なことになっちゃったなぁ……」
    『船上でのコンサートはやらないって決めてたんじゃなかったの?』
    「……うん」
     突発的な演奏会も終わった次の日の昼、風がよく当たるラウンジで羽京はゲンと電話をしていた。潮風は柔らかく羽京を包み、カモメの鳴き声を運んでくる。穏やかな今日の天気は絶好の運動日和で、プールで楽しそうに遊ぶ人々の明るい声が空に向けてはじけ飛んでいる。
    電話口で不思議そうに聞いてくる彼にどう説明するべきか迷っていると、まあ羽京ちゃんがいいならいいんじゃないのと返ってきた。自分でも公演後「一回だけ」を許せたことに驚いていたのだ。自室で布団にくるまりながら、興奮と恐怖で脈打つ心臓を押さえていた。
     求められるがまま、呼ばれるまま。どこでも公演を重ねていた羽京が、唯一呼ばれても断っていたのが船上でのコンサートだった。海の上でやることに何か不安があったわけではない。安全性が絶対に確保できないなんてどこだって一緒だ。ただ、羽京にはずっと引きずっている昔話がもう一つあったのだ。
     音大時代に良くしてもらっていた同じ学科の先輩がいた。そのピアノの腕は誰もが目を見張るほどで、あちこちのコンクールで金賞を総なめにしていた。学生の時点で海外からも評価が高く、国内外問わずテレビ出演もしており天才ピアニストの肩書をほしいままにしていた。
    食事に連れて行ってもらったり、演奏指導を受けたりと随分と可愛がってもらっていたのを未だに覚えている。先輩は教えるのも上手く、羽京は彼から吸収できるもの全てを自分の表現に乗せていった。卒業した後も関係は続いていて、たまにチケットをもらってはコンサートに招待してもらっていた。
    そんな素晴らしい腕は海にさえ需要があったのだろうか。ある日突然先輩は波に攫われて行ってしまった。それは地球のすべてを飲み込んでしまうんじゃないかと錯覚するほど、風が強い大型台風の日だった。
    当時まだ駆け出しの新人ピアニストだった羽京は、たまたまその日手伝いとして先輩と共に公民館の大ホールにいた。前々日から準備のために現場に入ってはいたものの、ひどくなっていく一方の雨に公演中止を決め一晩雨宿りする予定だったのだ。そこで急に公民館の事務室に連絡が入った。
    「え? 子供が行方不明? こんな風の中で……? いや、うちには来てないですけど……」
    羽京が事務員に声をかけ、レスキュー隊への連絡などをしている間に先輩は合羽を羽織って探しに行ってしまった。有事の際、後先考えず飛び出していくのは先輩の悪いところだった。それを分かっていながら、歩いていく音が聞こえていながら、さすがに台風の中何の準備もせず出ていくことはないだろうと思っていた。だから羽京は連絡を優先させ最後の最後で止めることすらしていなかったのだ。
    結局、その日のうちに子供は見つかったのに先輩が戻ってくることはなかった。帰ってきたのは四日後。浜辺でゴミ拾いをしていたボランティアが、人が倒れていると警察に通報した。波にもまれ変わり果てた姿になっていたという先輩の姿さえ羽京は見ることが叶わなかった。久しぶりに再会した先輩は、灰色の小さな欠片だけになっていた。
    あの時、せめて出る直前に止めていればと何度も思った。止めていたところで話を聞くような人ではなかったが、可能性を思う度頭がぐらぐらと揺れる。先輩は優しいが頑固なところもあり、子供好きで大型コンサートホールでピアノを弾いていた方が儲かるだろうに子供向けのコンサートばかり開いているような人だった。羽京は先輩のそういうところも尊敬していた。だが、その性格が先輩の命を奪っていってしまった。
    羽京は海が好きだ。船に乗るのも、ダイビングも、水族館で魚を見るのも好きだ。だが、それでも船の上で仕事として曲を弾くことにはためらいがある。あんなにもピアノを愛していた先輩に自分の演奏が聞こえてしまうような気がした。もう二度と弾くことが出来なくなってしまった彼に、生者の特権を見せつけているような気がした。止めていれば、あの時「僕」が止めていれば。一緒にもう一度ピアノを弾くことだって出来ただろうに。
     こんなの結局自分の思い込みに過ぎないのは、羽京本人がよく分かっている。死者には何の音も届かない。そもそも亡くなった場所はここ近辺ですらない。それでもたった一度や二度の演奏だけならば自分をごまかすことが出来ても、回数を重ねれば重ねるほど脳内に先輩の姿が浮かぶ。
     せめて、仕事じゃなければ良かったかもしれない。自分のためだけに弾いているたった数回なら誤魔化しがきいただろう。でも、何度も何度も繰り返すとどうしても彼のことを思い出す。しばらくは、ピアノを弾いているだけでも駄目だったのだ。
     だが、今はそれと同時にきらきらと輝いていた龍水の表情も思い浮かべている。久しぶりに再会した、可愛い生徒の願いを叶えてやりたい気持ちも大きい。羽京にとって龍水との過去も、先輩との過去も大切だった。そして、こんなことを先輩が望むはずがないことも分かっているからこそ、出来るならば龍水の希望を通してやりたい。
    「……まあ、どこかで吹っ切らないといけないなとは思ってたんだよね」
    『もう結構経ってるからねぇ』
     いい機会なのかもしれない。死者が喜ばない後悔を勝手に押し付けて自分を縛るより、きちんと前を向いて歩きだすべきだ。しかも見知らぬ誰か相手ではなく、自分を慕っている龍水の希望だ。そうやって「他の人のため」と大義名分を立てられるのであれば、この後悔からも逃れられるかもしれない。
     自分が先輩から教わっていたピアノをまだ幼かった龍水にも教えていたから、当時彼の演奏はほんの少しだけ先輩の演奏に似ていた。羽京の演奏も先輩からの影響を多大に受けていたから龍水にもその表現法を教えていたのだ。そうして紡いでいった五線譜を、途切れさせてしまっては勿体ない。先輩のピアノを「死者の音楽」で終わらせないためには、羽京も動くしかない。
    『ちょっと声、明るくなったんじゃない?』
    「そうかな」
    『羽京ちゃんにとって、龍水ちゃんって特別だったのね。龍水ちゃんからはたまに先生の話も聞いていたけど、まさか羽京ちゃんのことだったとはね』
     やたら白々しい言い方をしている。やっぱり気づいていたようだ。

     クルーズ船のレストランは、食事も随分と豪華だった。シェフ長として彼の執事であるフランソワが指揮を執っていると聞いた。まだ彼にピアノを教えていた頃、執事の料理を一度だけ食べさせてもらったことがある。口に入った瞬間から、この世のものとは思えないほど美味しかった。特にパンがいいと感想を伝えた羽京に、恭しく頭を下げていたのを覚えている。
     テーブルは老夫婦や子供連れの家族、カップルなどで埋まっていた。一緒に来た相手のいない羽京は少しだけ居づらくて端のほうの席に座った。配られたメニューはどれも何をどう料理しているのか分からないものばかりだ。フランス語と思われる横文字は難解すぎて魔法少女の技名のようだ。だが、あの執事が監修したというのだからどれも味は確かだろう。適当に白身魚を使っているだろう料理を選ぶ。
    「失礼、相席しても?」
     わざとらしく近づいてきたオーナーは、有無を言わさず前に座った。足音が聞こえていたので特に驚きもせずメニューを渡す。さっとめくった龍水は、おおよそのメニューを覚えているのかすぐにワインと何かしらの料理を注文していた。
     先にワインが届いた。グラスは二人分。困ったように笑う羽京に何も言わずワイングラスを渡してきた。グラスがチリンと音を立てる。羽京が注文したものに合わせて白にしてくれたよだ。正直味の良し悪しは分からないが飲みやすい味だった。
     龍水はナイフやフォークの所作も美しいものだと感心する。指の先まで教育がされている。その指に、音楽を教え込んだのは自分だった。
    「綺麗だね」
    「……何がだ」
    「指の動き」
     ああ、と納得した龍水は自信ありげに笑った。凛としたこの表情は幼い頃にはなかった顔で、少しだけどきりとする。そのまま話すのも少し恥ずかしくて、わざとらしく話を逸らした。
    「ああ、そうだ。声をかけてもらってたコンサートの件なんだけど」
    「決まったか」
     自分の表情を見て、答えを察したのだろう。彼の頬がふわりとほころぶ。
    「今、このクルーズの間だけだったらいいよ。それ以降のことは悪いけど降りる前にもう一度考えてもいいかな」
     繰り返し考え、自分の中でちゃんと妥協点を探した結果がこれだった。この船を降りた後はどうなるかはまだよく分かっていない。また罪悪感に苛まれ身動きが取れなくなってしまう可能性もある。でも、彼と共に音楽を繋いでいきたい。
    「よかったらたまに龍水も一緒に弾いてよ」
    「それが条件か?」
    「あはは、そんな大げさなものじゃないよ。君が弾いてた音楽も大切にしたいだけ」
     この言い方は少しずるかっただろうか。自分の思惑を隠し幼子をだましている感覚がする。実際相手にしているのは立派な大人なのだが、未だに龍水のことを子供だと思ってしまっているところもあるのだ。
     対し龍水は考えるそぶりも見せず了承してくれた。この決断力は昔からのものだった。てきぱきと物事を決めていき、羽京が口をはさむ暇もなかった。決めたことに対し即座に行動し、離れて行ってしまう龍水の背中をよく見守っていた。
     食べ終わった皿が片づけられていく。これからまだ少しやることがあると言っていた彼と別れ、少しだけ酔った頭を冷やすために潮風に当たる。
     羽京の頭の中では、今ピアノのこと、先輩のこと、そして龍水のことで頭がいっぱいになっていた。いや、これは少し話を盛ったかもしれない。今はほとんど、龍水のことばかり考えている。
    「……龍水」
     真っ暗な、照明だけを反射している海にだけ内緒話をする。底の見えない海だったら、ずっと内緒にしていてくれる気がした。楽しそうに話している男女の声や、ゆったりとした船内放送が聞こえている。
    「なんだか、変な気持ちになっちゃったな」
     龍水。大学生の自分より、少しだけ小さな手をしていた龍水。彼の方がちょっとだけ見上げていた身長差は、逆転して今では羽京が見上げるようになっている。あの狭い植物園の中くらいでしか会えなかったのに、今では広い海の上を共に進んでいる。ここにいる等身大の龍水は、可愛らしい姿だけの男の子ではなくなってしまった。
     早鐘を打つ心臓の音が、自分の思考を阻害する。恐らくさっき摂ったアルコールのせいだ。思ったより酔いが回ってしまったようだ、ただのワインでこんなになることがあっただろうか。久しぶりに会った大切な生徒の影響で、昂っているのもあるだろう。
    ――こんなにも大切にしている思い出の相手なのに、何か忘れている気がする。彼と会うときに大切にしていたことがもう一つあったはずだ。あんなにも繰り返し思い出していた彼の姿にもやがかかる。
    「龍水が、ピアノを弾いた後にねだってきたことは……お茶会以外にもう一つあったはずなんだ。一体、僕は何を忘れてしまったんだろうか」
    菜種兎 Link Message Mute
    2022/10/07 23:33:02

    【10月Tokyo.Fes新刊サンプル】劇場内ではお静かに【舞台パロ羽龍本】

    #dcst腐向け #羽龍
    ★箱の中で愛を囁く話。★10月のTokyo.Fesで頒布予定の新刊サンプルです。羽京と龍水が舞台で演劇をしている設定で、ピアニスト×元生徒の話が展開されます。全年齢/A6文庫/72P/400円

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