眠れる森の香り ギルベルトは静かに憔悴することがある。悪夢でも見ているのか、眠りながら手足を縮こめて、胎児のような体勢をとる。
ぐっと息を詰め、冷たい汗をかく。波が通り過ぎるまで何時間もそのままでいる。
イヴァンは夜中に目を覚まして、そういう状態の恋人を見つけると、決まって膝に抱いて揺さぶった。もちろん性的なものではなく、船のように、波のように、ただゆったりと呼吸に合わせた動きを繰り返すだけだ。
子どもをあやすような技能や経験が彼にあるわけもないので、この行為に何の意味があるのか、彼自身も分かってはいない。
ギルベルトはそのうちに、ほっ、と息を吐いて、自分の体を取り戻す。不必要な力を抜いて、それでも抜ききることはなく、きちんと芯が通る感じだ。
「馬の背に揺られているようなんだ」と、ある時、たわむれに教えてくれた。本能的に安心する感覚であるらしい。
「乗り心地の悪い馬だと思うと、目が覚めて、お前だったのかと分かる」そういう憎まれ口付きだった。一筋縄ではいかない彼らしさに、イヴァンも安心した。
「今日は、昔の匂いが、した」
「何の?」
「黒い、雨の、香りだ」
「こないだ買った香水?」
「寝る時に香水はつけないだろ」
すんすん、と、かすかな音をさせながら、頭をもたれかからせてくる。
「お前じゃないな……お前からは、眠った森の匂いがする」
小動物のように鼻をひくつかせている、あどけない気配を感じる。行動がどこか幼い。ギルベルトは寝ぼけているのかもしれない。
「ぼく? 何もつけてないよ」
「知ってる」
「……良かったら、ぼくがどんな匂いか教えてくれる?」
イヴァンはそう言って、さりげなくまた体を揺らしはじめた。
「……シダの葉と、苔……つめたい、あたたかい……雪が溶けて……ベリーの茂みに、鹿の角……」
それが一体どんな香りなのか、今ここにはないのに、なぜだか分かる気がした。
──懐かしい香り、それでいて胸を苦しくさせない香りが、眠りの世界にあふれている。彼らを包みこむ。彼らに思い出させる。彼らの記憶を整理し、再定義する。彼らには、それが、必要だ。
むにゃむにゃと覚束ない言葉を紡ぎながら、彼の体の力がほどけていく。どうやらイヴァンは寝かしつけに成功したようだった。
目が覚めたら、一緒にシャワーを浴びたい。そうして、ギルベルトは嫌がるだろうが、たまには揃いの香水をつけるのも悪くはない、かもしれない。イヴァンはそんな明朝を夢見ながら、自身も目をつむった。
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香りを嗅いでいる時の、真剣な顔が好きだ、と思う。
「それ、お試し用の紙、なんて言うんだっけ」
「あ? あぁ、ムエットな」
「むえっと?」
「……もう一回」
「むえっと」
肩が震えてるよ、ギルくん。
静かにツボに入っている彼の、くつくつと震えて悪い顔になるところを見て、あぁいつもの彼だなと思う。
「もっぺん言ってみろ、お前、ほんと唇ふにゃふにゃだよな」
「もう、怖いよ。なんで笑ってるのにそんなに怖いの?」
変なギルくん!
ギルくんがご機嫌で、僕も機嫌がいい。今日はそれなりに平和なデートになりそうだと思う。
「それ嗅がせて」
「ん」
「さっきの方がいいなぁ」
「こっちか?」
いちいち鼻先にもってきてくれるのが嬉しくて、先程からずっと肩を抱いたままでいる。目立って仕方ないだろうけど、いちゃつけるのは嬉しいし、見せつけている自覚も少しあった。
「うん、重くないほうがいい」
「じゃあ、こっちにするか。……って、なんでお前が好きな匂いになんなきゃいけないんだよ!!」
「え〜〜、選ばせてくれるんじゃないの?」
たまに正気に戻るみたいに怒りだすのが可笑しいから、わざと調子にのってみる。どうせ君はこれを買うよ、そういう自信たっぷりに。
「ありがとう、お返しに僕の香水も選んでいいよ?」
「…………」
「うわぁ、本気の目になってる〜」
「なってねぇ」
なってるよ、ギルくん!
僕は恋人に「楽しいね」と伝えるように、甘く笑った。
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炎天下に日傘ごしに見た、昼間の月──青空の印象が強すぎるせいで、目を凝らしてようやく見えるようなそれを、なぜか〝見つけてしまった〟と思った。
明暗のくっきりした木立の影が、白いビル壁に映える。空を眺めて立ち止まるにしては暑すぎる気温だったので、ギルベルトは一瞬それを心に留めて、歩き続けた。
真夏の不快指数と裏腹に感じる、すがすがしさ、景色と自分との落差、鮮烈なギャップを感じているその日々の隙間みたいな場所に風が吹いてきて、はっとしたような気持ちになる。浅い息を吐く。
空調機の排気音や、熱されたアスファルトとタイヤが擦れる音が、喧騒のなかに入り混じる低音となって、いつからかこの都市の夏を当たり前に包んでいる。
「ギルくん、待って」
足を止める。イヴァンの足音が近くまで来てから、ようやく後ろを振り返った。こういう無意味な一瞬に、自分の居場所があるような感じがした。
「日傘、似合うね」
「……そうかよ、お前も待てば?」
「やだよぉ」
いわゆる日傘男子になったのは今年からだ。どうしてもっと早くこうしなかったのだろう、と思う。どちらかと言えば、ギルベルトは機能性を採用する男だ。
一方でイヴァンの場合は、財布など最低限の物だけポケットに入れて、手ぶらで歩く。何かあれば平気で隣にいる人間を頼る。機能と見た目のどちらを取るか以前の問題だ。
どこか幼い仕草で手先を遊ばせたり、かと思えば長い腕を組んだり。イヴァンが常に自由にさせておく両手は、外交時には相手に印象とプレッシャーを与えるための道具だが、しかしそれは、日常においてはただの癖なのだった。無邪気で、とらえどころがない。
約束をした駅前でも、後ろ手を組んだどこか幼い
姿勢で待っていたのを、ギルベルトは遠くから見つけた。こちらの存在に気づくと同時に笑顔を浮かべて──腕を大きく振って、はずむように歩いてくるのを見ていた。好意だけは本当に分かりやすい、と思いながら。
「僕も陰に入れて〜」
「だぁっ、暑い!! 近づくな、俺様の顔に二酸化炭素を浴びせるな!!」
「省エネルギーで行こうよギルくん、怒らないで」
「誰が効率下げてると思ってんだ、厚かましいんだよ!」
「はー、君の声って暑苦しい」
「は? てめぇ」
口喧嘩の最中だが、二人はとりあえず目的地の建物内に滑りこんだ。ふぅっと息を吐いて辺りを見回してから、「……何階?」と色のない声でイヴァンが言う。
「三階だ、ついてこなくてもいいぜ」
「うん」
昇降機のスイッチを押して、待つ間は無言だった。
すぐ機嫌が悪くなるんだから、と、自分を棚上げしてイヴァンは思った。
それでも涼しいところにいるうちに機嫌が回復してきて、三階の目当ての店にたどりつく頃には、ギルベルトの肘が自分の体に自然と触れてきているのに気づいた。〝嫌いならこんなに寄り添って歩かない〟と教えているような近さだ。動物みたい、と思いつつ、心の距離が分かりやすい恋人に、自然と笑みがこぼれてしまう。
二人とも子どものようなところがあるので、気分の乱高下が激しい。それでも何とか上手くやっている。
だいたいこのまま、どちらかが冗談を言って背中を叩いて、そのまましれっとした顔で肩か腰を抱くのが常だ。べたべたしない程度に、それとなく。そういうのがおそらく二人とも好きだ、くだらない談笑をして、互いの体に触れ合いながら歩くことが。
(それとなく、と思っているのは当人達だけで、傍目には本当に仲睦まじいゲイカップルだとしか映らない。)
その日、ギルベルトは夏用の香水を選んで買った。
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細いスタンドテーブルには、一脚しか椅子がついていない。
「俺の椅子は?」
イヴァンが狭い場所にちんまり可愛らしく座っているのを見下ろしつつ、ギルベルトはまずは当然の疑問を投げかけた。
「ここしか空いてなかった」
店は繁盛していて、立ち飲みをしている客がそれなりにいる。バカンスで出払っているのかと思いきや、人々はただ日暮れを待っていたようだ。
猛暑が続くと、こうして夜型の生活になっていくのだろう。これからの夏の観光需要は夜にありか、と、つい勤勉なことを考えているギルベルトの腰に、イヴァンの手が伸びる。
「はぁ、ちょっと疲れちゃった」
イヴァンはうそぶいて、恋人の引き締まった体をふんわりと捕らえた。いつもよりかなり低い目線を楽しみつつ、Tシャツの胸に顔を埋める。
「人に買いに行かせといてよく言うぜ」
コトン、と二人分の飲み物が卓上に置かれた。
肩を抱き返すギルベルトの手は、まんざらでもないことを伝えるように、厚みのある鎖骨や柔らかい髪を撫でた。グラスの泡に口をつけながら、しばらく無遠慮に撫でる。
力を抜いた手のひらで触れるときと、力を込めた指先で擦るときと、どちらも互いに心地が良い。
イヴァンは外での触れ合いに高揚しながらも、こんな日が来るとは、という感慨に浸る。嬉しくて、こっそりとギルベルトの匂いを嗅いだ。先ほどの香水店の残り香と、汗の香りが混じっている。不快どころか、より瑞々しく、いきいきとした香りに感じる。
「なんでそういう可愛いことをするんだよ」
「そういう、って?」
「その大きな鼻を、俺様の腹にこすりつける動き……」
「あぁ、そうなのかな」
イヴァンも自分の飲み物を手にした。舌をしめらせるようにシロックを少し味わいつつ、片手は腰を抱いたままで答える。
夜のざわめきが満ちていて、絞られた照明はそれぞれの席を適度に照らし、また隠してもくれている。ここでは誰もが暗がりを心地よいと感じている。
「それ、よくやるよな」
「してるかな、いつ?」
「…………」
ベッドの中だろ、と、直接は答えないまでも、瞳をとろんと溶かしているギルベルトの顔が予想できて、イヴァンは上目遣いに見上げた。目を合わせ、予想通りだと微笑んで、また顔を伏せる。
ギルベルトの深く上下する胸が、二人の気分を徐々に上げていく。戯れにスキンシップを楽しみながら、唇が物欲しそうに降りてくるたび、イヴァンは当然のように応えた。何度も無言でキスをして、合間に少しずつグラスを傾けた。
「……椅子、かわれよ」
「やだ」
「じゃあ、一杯飲み終えたら出るぞ」
このままだと羽目を外しすぎる、という予感が互いにしてきたところで、この後の予定を探りあう空気になる。
「……早く飲め、それ」
泡のグラスはもう空だ。ペースが速い、可愛い、とイヴァンは思った。目の前にある胸の鼓動をもてあそぶように、頬や鼻をまた擦りつける。
「ギルくん、買ったやつ、今日さっそくお風呂上がりにつけて遊ぼう?」
「……泊まるつもりかよ」
「うん、泊まるよ」
ギルベルトはイヴァンの耳たぶをつねったかと思えば、腰をかがめて、たまらなさそうにキスをした。
あとでやり返そうと思いながら、イヴァンはギルベルトを独占している喜びを、胸いっぱいに吸いこんだ。
「あぁ、夏の匂い」
「ん、そうだな」