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    菊有は喧嘩ができない* 菊有は喧嘩ができないATOGAKI* 菊有は喧嘩ができない
     菊田と待ち合わせをするのは、いつも夜だ。

     店の照明がオレンジがかった間接照明に切り替わるのを意識の端に認めながら、有古力松はぼんやりしていた。ベロア地のソファに体が沈んだのは、深く、息を吐いたからだった。 

     先ほど、珍しく時間に遅れず『おまたせ』と格好よく現れた菊田は、ベロアに手をかけたところで見計らったように鳴りだした着信音に、これまた格好よく洋画俳優のように肩をすくめて、申し訳なさそうに店外に出ていった。
     端末と手帳だけを手に取って歩きだす彼氏に『俺のコーヒーも頼んどいて』と頼まれた力松は、了承の意味でこくりと頷いた。が、見てもらえていたかはあやしい。『おつかれ』と電話相手をねぎらう声が遠ざかっていくのを、黙って見守った。

     その彼は、今は窓の向こう。店の入口からさほども離れていない、街路樹の下に立っている。トレンチコートを脇に携えている。
     秋になったからなぁ、と、力松は心の中で独りごちた。菊田の服装に季節感を見るのが好きだった。

     勤め人のスーツ姿に、これほどバリエーションがあるとは、力松は菊田に出会うまで知らなかった。
     瀟洒しょうしゃという言葉の見本になれそうなオシャレな中年男性──彼の言葉で言うならば、おじさん。渋いものが好きなだけと本人は言うが、どう見てもオシャレである。派手さのないさっぱりした身なりで、かえって垢抜けた印象をかもしだせる人だ。見るものが見れば上等だと分かるアイテムのセレクトに抜け目がない、と、かつて二人の上司だった鶴見は言っていた。

     力松にはまったく分からない領域だったが、たまに彼の買物につきあうのは楽しかった。普段は年上の面子を崩さない菊田でも、好きな物の前だと男子のようにはしゃぐ瞬間があるからだ。腕時計、ネクタイ、自分に縁のないものでも菊田と見るのは好きだった。彼と一緒にショーケースを覗くと、今まで気にかけたことのなかったものが、とても美しく見えてくる。

     何より、菊田は力松に感想をよく求めた。力松が彼にとっては思いがけないことを言うらしく、面白がってくれる。

     もしも、今日のトレンチコートの感想を語るならば、と、窓ごしの風景をより深く見つめるために、そっと目を細めた。

    (薄曇の鹿色だ。木立の向こうに、ぼやけて見える……)

     感想を求められたならば、そう答えるのに。秋の鹿のようで、落ち葉の匂いを思い出す。どこかに出かけたくなりますね、と。


     こんな夜からどこへ出かけるというのだ。力松は苦笑する。そして、ふと、不満げな自分の感情に気づき、戸惑いを覚えた。

     ──菊田と待ち合わせをするのは、いつも夜だった。お互いに仕事の合間を縫って会うならば当然そうなる。特に最近は菊田がややこしい案件を抱えがちで、会う頻度が減った。

     それでも「会いたいなぁ、会えないか?」といつも向こうから誘ってくれるし、頻繁に電話もくれる。それに、菊田は力松と食事ができるだけで大げさに喜ぶ男だ。前にモヒートというものを初めて飲ませてくれたあの店にまた行きたい、などと力松が言っただけで、「俺もそう思ってたんだよ」と、はしゃいでくれる。まるで夢の中にいるように喜ぶ、その反応を疑うほど、力松は愚かではない。本当に「会いたい」と思った時に会ってくれることほど、嬉しいことはないのだ。

     不満などあるわけない、そのはずだった。夜の待ち合わせも好きだ。夜の間にいろいろな話をして、とりとめのない会話が、オレンジの灯に溶けていくのは好きだった。いつかこんな待ちぼうけさえも思い出になるから──と、そういう情緒的な思考によって気持ちを救われることも、人によってはあるだろう。
     けれど力松は、基本的にはリアリストだった。目の前の事象をまっすぐに見つめる性分だった。己のなかにある違和感も、良い悪いを先に考えることなしに、とにかく静かに見つめてしまう。

    (あ、もう湯気がでてない)

     コーヒーが冷めきらない間は、まだ良かった、と気づく。向かいの席に置かれた磁気の器から、コーヒーの香りが漂ってくるたびに、自分の中にあるふわふわとした曖昧な憂いが去っていくような、香りが霧をはらしてくれるような気がしていたようだ。
     だが冷めたら、もう違う。自分が頼んだコーヒーではない。こんなに冷めるまで放っておいたのは自分じゃない。

    (……喫煙席、コーヒーはブラックで……頼んでおいて、と言われて……)

     いつの間にか、全てがいつもの光景になっていること、力松はそれに違和感を覚えはじめているのだった。声にならない思いが、ぐるぐると頭のなかで回りだす。

    (コーヒー、もう冷めちゃいましたよ? って、俺は今日も言わなきゃいけないんだろうか?)

     おじさんは待つのが苦手だから、と、あの人はいつもそう返すのだ。
     力松はコーヒーを嗜む習慣がないので分からないが、温かい方が美味しいに決まっている。もちろんそれは菊田が了承済みならば別にいい。しかし、単に、残念でならないのだ。飲食物が無下にされること。湯気の立ち上る、いわばベストな状態が失われていくのを、見ているのが辛い。

    (いや、そんな風に感じる俺がおかしいのか? つまらないことだ、こんなこと……)

     自分の器の小ささが嫌になって、がっくりとうなだれてしまう。

     そしてもっと嫌なことに、こういった些細なことから〝始まる〟のかもしれない、と思えてきた。この落胆が、いつか何かの象徴になりそうで嫌だ。
     コーヒーが冷めていくのを見るたびに不満や憤りに近い感情を覚えてしまうような、こんな小さなことから──いつか急に、相手の何もかもが嫌になっていったら? どうすればいいのか悩ましい。



    「それはさー、言わなきゃ伝わらないって」

     沈んだ物思いに、偶然、後ろの席から聞こえてきた会話が重なった。たしか若い女性の二人連れのはずだ。

     力松は盗み聞きするつもりなど無かったが、気持ちが不意に落ちた瞬間には、言葉が強い響きとなって残りやすい。

    「……年の差カップルの辛いところね」

     思わず声が出そうなほど驚いたのを、口に手を当てて必死に抑える。

    「それ年齢のせい? 言ってちゃんとケンカしなよ」
    「分かってないなぁ、喧嘩にもならないんだよ」

    (わ、分かる……)

     遠慮のない関係らしい。力松は大所帯で育ったため、こうした女性同士のやりとりも聞き慣れないものではない。だが女の会話が始まると、男はなんとなく身を小さくしてしまうものだ。
     所在なく背を丸めて、熊の置物のように気配を消そうと試みた。

    「言ったら聞いてくれるだろうし、年上の余裕で受け止めてくれる。今度から気をつける、って、言ってくれる。……それでもまた同じことになるから、すごく悲しくなると思うんだよね」
    「えー、何それ」

    (分かる……!)

     力松は内心で大きく頷いた。置物の熊でいる必要がなければ、声の主と握手をしたいほどだった。

    「言う前から結果が分かってると、言う気がなくなっちゃうのかもしれないなぁ。あとは結局、自分でも、相手にどうなってほしいのか分からないのもある」
    「アンタのそういう、落ち着いて考えすぎるところも、良くないっていえば良くないわよね」
    「……なんか、べつに、相手に変わってほしいわけじゃないの」
    「そこまで手遅れなの?」
    「いやー、そういうのってない? 相手には出来るだけそのまま、あるがままで居てほしいっていうかさ」

    (うん、うん)

     思わぬところで同胞に会えたものだと思った。しかもどうやら言葉に含蓄のありそうな同胞だ。ぜひ参考にさせてもらいたい、そういう思考で、力松のテンションがにわかに上がる。

    「あのさ、年の差カップルの別れる理由ベストスリーって知ってる?」
    「えー、何それ!」
    「こないだ雑誌で見たんだよぉ。一つは私と同じ、うまく喧嘩をしないこと。二つ目はね、」

    「有古ぉ、ごめんな」
    「うわあっ、っ」

     突然、肩に手が触れ、力松は声が裏返るほど驚いた。

    「うお……はは、驚いた顔見て驚いちまったよ」

     菊田はそのままぽんぽんと肩を叩いて、力松を気遣った。

    「大丈夫か? そんなに背ぇ丸めて、何考えてたんだよ」

     驚いたせいで会話の最後は聞けず仕舞いになったが、力松は自然とほほ笑んだ。
     あぁ、菊田さんだ、と思った。嬉しくて、笑みがこぼれた。

     こういう、何気ないスキンシップでの間の取り方、力松の言葉をうながす柔らかい視線の送り方。菊田らしさをひとつひとつ実感して、嬉しいなと思う。と同時に、うろたえた。

    「あっ、いえ、何も……電話、大丈夫でした?」

     なんとなく後ろめたさで目が泳ぐ。幸いにして菊田はそんな力松の様子に気づくことなく、急に疲れを思い出したようにどさりと腰を下ろした。

    「はぁ〜〜、まいった、つらい」
    「お疲れですね」
    「ん……でも、お前の顔見たら、元気でた」

     頬杖をついて、ふわりと笑う。

    (うわっ、これだ、この顔)

     最初から手加減なしの菊田に、力松は面食らった。

    「あー、おじさんにこんな事言われても嬉しくないか」
    「何言ってるんですか、菊田さんはおじさんじゃないですよ」

     実際どれほど魅力があるか、菊田は本当に無自覚でやっているというのだろうか。力松は不思議でならなかった。
     下がりぎみの目尻は、疲れがにじむとさらに魅力が増して、大人の男の色気全開でこちらを見つめてくる。頬杖なんかついて少し上目遣いになるのもあざとい可愛さだし、そのくせ太い手首をスーツの袖口から覗かせてどきどきさせてくる。

    (これを自然にやるから、菊田さんっておそろしい……)

     もうとっくに力松は菊田のものになっているというのに、こうして常に口説いてくる。口説いている自覚がない可能性もあるが、どちらにせよ力松は振り回される。

    「有古はいいな、そこにいるだけで俺に癒し効果がある。反応もぽやついてて可愛いし……おいおい、今さらこれくらいで照れることないだろ?」

     いたたまれず身を捻る力松を、菊田は鷹揚に笑った。

    「……照れます。あの、いつも言ってますけど、おじさんぶるの本当にやめた方がいいですよ」
    「ん〜、そっかぁ〜?」

     謙遜のひとつの表現方法が「おじさん」発言なのだろうが、実際の菊田とあまりにミスマッチだ。自分を下げて見せるのは良くないし、自分を恋愛対象外に見せたいのならば、かえって逆効果に終わるおそれもある。

    「独身のおじさんなんて、その、かえって狙い目だと思われそうというか、」
    「へ〜、有古がそういうこと言うの意外だな」

     今は女性も積極的な時代だし、また、時に無防備な菊田が、気をもたせる可能性があるのは女性に限らない。(見る者が見ればそうと分かるのは〝性的指向〟においても当てはまる。)

    「菊田さん、か、かっこいいですし、オシャレですし」
    「そっかそっか〜、うれしいなぁ」
    「さては俺の話、聞いてないですね?」

     聞いてる聞いてる、と口では言うが、恋人の前で緩みきったモードの菊田は、力松の手をふにふにと弄び、己の疲れを癒すことに専念している様子だった。(「爪が丸い」と分かりきったことを言って感激して、勝手に癒されている。)

    「そのうち言いがかりで訴えられても知りませんよ? まぁ、……弁護士さんに忠告するのもおかしいんですが」
    「あー。〝 職場の同僚から子どもの認知を迫られたけど一切身に覚えがない 〟って相談も、いま抱えてんだよなぁ」

     笑えない。明日にでも、菊田の身に実際に起こりそうな案件である。


     オフの菊田はこうしてふにゃふにゃと恋人の手で遊ぶ男だが、社会的には、弁護士という、お堅い仕事に就いていた。それについても本人は日頃から「俺がやってんのは小さな事件ばっかで儲からないし、要は、町の便利屋だよ」と飄々と語る。そもそも、菊田自身にどこかスリリングな魅力が漂っているために、堅い仕事とのギャップが発生していることも心配要素だ。


    「大丈夫だって、ちゃんと周りに言ってあるから。可愛い年下の恋人がいて、もうずっと夢中ですって」
    「……あっ、それは菊田さん自身の話ですか?」
    「今度は照れねぇのかよ!」

     依頼人の話と混同しかけて尋ねれば、何が面白かったのか、菊田がけらけらと笑い出す。二人で話すとこうして会話がずれることも、ままあったが、菊田は力松の困惑顔すらも喜ぶ男なのだった。

     本当によく分からない、菊田が楽しいならべつにそれでいいし、不快というわけではないが。力松はなんだか恥ずかしくなってきて、自分の手をパン生地のように揉みつづけてくる手を引っぺがした。でれでれしている男からは残念そうな声が上がった。

    「さっきのは、その件での電話ですか?」
    「んー? いや、もうちょっと面倒くさい件のほうかな」
    「あの、もちろん、俺にできることは無いんですが……大変なときは話だけでも聞くので、頼ってくださいね」
    「大丈夫、大丈夫!」

     酔っ払いが「酔ってない」と主張する様なテンションで言われても、と思うが、不意にスッと姿勢を正した菊田に、

    「有古は優しいな」

    と真面目に返されてしまえば、力松の戸惑いはいよいよ明確なものとなった。──優しさ、として、受け止められてしまっていいものだろうか? 今の自分が抱えているこの気持ちを。

    (優しさ、とは、違う……)

     心の中にふわふわと広がる感覚は一致していたとしても、違う。秋の山道にころんと転がっているような、思いがけず不意に拾うような優しさも、誰かと生きていれば確かに経験する。今の力松は、足元にもやがかかっていてよく見えない、そんな心地だ。ただ、優しさのなかには〝 落胆の種 〟は含まれていないはずだ、と強く思う。

     力松は、冷めていくコーヒーを見ていると嫌になってしまうあの感覚と同じ種のものを、菊田との間に不意に発見しそうで、怯えはじめている。自分はできれば、アレを拾いたくない。ならばどうすればいいのか? 道を引き返せばいいのか、それとも思いきって正体を確かめるか、はたまた、霧がはれるまで待つか──。

    「さて、と、メシ食いに行くか?」
    「あっ、あの、」
    「おっと、そういえば」

     菊田はまるで片づけるべきタスクのように、冷めたコーヒーを一気に半分ほど飲んで、席を立とうとする。力松はその瞬間に、あっ、と思った。なんとなく心が決まった気がした。

    「あの!」

     先手を取ってボックス席を出る。横に立って驚き顔の菊田を見下ろす。こういう時の自分は妙に冷静に立ち回れるものだと、力松は知っている。

     慌てず息を吸って、柔らかく吐き出すように、なるべく威圧しないように告げなければいけない。

    「あの、世の中には、言葉にしなきゃ伝わらないことが、あるそうです」
    「……は?」

     穏やかな口調で告げた。
     菊田は、ぽかんと口を開けている。

    「たぶん菊田さんに聞いてもらわなきゃいけないことがあって、でも今はまだ……まともに言葉になりそうにありません。なので落ち着いて考えてみるために、今日は一旦失礼します」
    「え……世の中? って、何だそれ」

     力松はそれ以上語る事なく、ぺこりと頭を下げた。落ち着いて自分のデイバッグを持ち、もう一度ぺこりと頭を下げてから、歩き出そうとした。しかしそこで、はたと気づいて振り返り、テーブルの隅から伝票を取った。

    「申し訳ないので、今日は俺が払います。あの、心配しないでください、たぶん悪いことにはならないので。……それから、菊田さんはそのコーヒー飲み終わってから出てください、残すと勿体ないですよ」

     ついでとばかりに気になっていたことを告げて、すっきりした。
     菊田は事態にまったくついていけないまま固まっていたが、さっぱりした顔で会計に並ぶ力松を見るうち我に返ったようで、慌てて問いかけてくる。

    「あっ、えっ、俺なんかした?!」

     力松は少しだけ考えたが、結局は、困った顔で首を振り、支払いを済ませて店を出た。

     ***


     外はとっぷりと日が暮れていて、夜の深まりがさまざまな音と光を運んでいる。別れの挨拶をする声がすぐ隣をすれ違う。時がせわしなく流れるような雑踏を、力松も足速に進んだ。街路樹の間を繋いでいくような照明の、あたたかな光の列に踏み入っていく時、どうしてか非日常感がよぎって、わずかに高揚した。

    「えっと、なんだっけか? 世の中には、言葉に……? いや駄目だ、さっぱり分からん」

     数分後、ぶつぶつ呟きながら追ってきた菊田を背に、やはりこうなるかと力松は困り顔のままで思案していた。

     確かにいきなり「世の中」なんて大きな主語が飛び出てきて、菊田が戸惑うのも当然だ。
     しかし力松は歩みを止めず、駅へと向かう。

    「ありこぉ〜、なんで怒ってんだよ」
    「いえ、怒ってないです」
    「嘘つくなよ、さっきから機嫌悪いじゃねぇか」
    「き、げん……?」

     力松は思わず聞き返した。

    「……機嫌、悪いですかね、俺」

     静かに聞き返された声に迫力を感じた菊田は、一瞬言い淀み、しかしさらに言葉を重ねる。

    「機嫌悪いんじゃなければ、なんで帰るなんて言い出すんだ? もっと怒ってもいいし、上手く言えんでもいいから、」

     努めて抑制しているものを、子どもっぽい不機嫌のように言われて、冷静だったはずの力松も──さすがに心持ちが複雑になってきた。そんな恋人の内面に気づくどころか、今だと気合をいれた菊田が革靴で走ってきて、あれよという間に追い抜かれて正面にまわられる。

     そうして通せんぼをする者と、される者に分かれて、多くの人目のある駅前で二人は立ち止まった。

    「ん? 言ってみろよ、な」

     困り眉が格好良くて、額の皺がキュートで、全てが力松の好みな顔だった。好きだから、嫌だ。ドキドキさせられて嫌だった。

     俺なら大丈夫だから、と、受け止めてやる、と、そう言わんばかりの菊田の顔つきに、年上の恋人の厄介さを感じる。
     ときめきとイライラが同時に、力松の胸の内を駆け巡る。こんな感覚は初めてだなと思ったら、なぜか、ふっと口元に笑みが浮かんだ。もう一段階、吹っ切れた証だったのかもしれない。

     それを見た菊田はひぇっと声を上げ、ようやく何かを察知する。

    「あれ、ハハ、なんか、目が笑ってねぇけど」
    「言うので黙ってください」
    「あ、はい」

     つるつるとした暗い路面はヘッドライトの点灯をはじいて、赤や橙がバスロータリーをめまぐるしく彩る。立ち止まっているのは自分達二人だけだ。こんな場所で話したくはなかったが、仕方ない、と口を開く。

    「今日、依頼人と接見してきたんですよね?」
    「ん、ん〜、なんで?」

     なんで? は、ほぼ肯定といえる返事だ。

    「菊田さん、その人に服とか本とか買ってあげてますよね、お菓子の差し入れなんかも。弁護士って、そこまでする必要があるんですか?」
    「ハ、ハハッ、なんだよお前、名探偵か?」
    「いいえ、二階堂から聞きました」

     力松は菊田の働く〝 鶴見法律事務所 〟でアルバイトをしていたことがあり、知り合った人々とは今でも付き合いがある。事務所はそもそも二人が出会って付き合い始めるきっかけになった場所であるし、皆は二人の関係を知っていて(面白がっていて)いまだに飲みにも誘ってくれた。

    「…………、」

     菊田はとりあえず半端な笑みを投げかけながら、どうしたものかと必死に考えを巡らせていたが、やがて笑うのをやめた。

    「何も答えないんですね。守秘義務ってやつですか?」

     力松だって、珍しくつっかかる物言いになった自覚はある。

    「……言うさ、言える範囲でな」

     菊田は声にやや苦々しいものを混ぜながら、語り出した。

    「……今度のやつなー、日雇いの現場を転々としてた宿なし男で、現場監督を殴っちゃったんだと。理由もちゃんとあるらしいが、まだ言わねーんだよ……」

     警戒心の強い〝 ノラ犬 〟みたいな顔をしているんだ、と、男に対する菊田の所感が続く。

    「信頼してもらうのも仕事だよ、それに……穴の空いた靴下履いてんのが、もう、気になっちまって……」
    「あぁ、なるほど」

     よく分かります、と、力松は本心から相槌を打って、真剣に話を聞いた。

    「家族とかいない奴なんだよ、だから、」

     だから、で音節をぷつりと切って、一拍置いて、菊田はまたあの顔になった。
     あぁ、と力松はため息を吐く。
     困り眉と、額の皺と。きれいに整えられた髭に縁どられた、男っぽく厚い唇──力松の愛するそれら全てで彼の魅力が総動員された、ずるい大人の笑顔だった。

    「勘弁してくれないか、って、俺が言うのもおかしいよなぁ?」
    「えぇ、まぁ」
    「だって、有古、そのことで怒ってるんじゃないもんな?」
    「そうですね、まったく怒っていません」

     だよなぁ〜、おっかしいな、じゃあ何が……。そうやってまたぶつぶつと呟きはじめた菊田を横目に、夜空の下でひと心地をつく。ふっ、と息をひとつ吐いた。

    (そうなんだよな、俺がそんなことでは怒らないと知ってる。この人は、分かっている)

     停留所にバスが着いて、並んでいた人々が乗り込んでいき、やがてまた新たな列もできた。
     菊田が隣にいるだけで、どこに行くわけでなくただ夜の中に佇んでいるだけでも、力松の時間は、決して無意味にはならなかった。

     気づけば二人は、しばらくの間、何もせず黙りこんでいた。二人が何をしているのか伺うように、時折りこちらを見る通行人もいたが、争いも揉め事もおきていないと確かめたら、そのまま通りすぎていった。

     力松はふっと『喧嘩にもならないんだよ』というあの女性の声がまた聞こえた気がした。やけに印象的な言葉だ。


    「……菊田さん……年の差カップルの別れる理由ベストスリーって知ってます?」
    「おっ、ま、またいきなりだな、有古の口からそんな言葉が」
    「知ってるかなと思ったので」
    「……え、それだけ?」
    「はい」
    「教えてくれねぇの?」
    「はい」

     ぱちぱちとまばたきをしながら、菊田は困った笑みを繰り返した。どこか無防備で、可愛くて、力松の中で張りつめていた糸が緩んでいく。

    「いじわるだなぁ〜」

     いじわると言われたので、わざといじわるな冗談で返す。

    「いえ、機嫌が悪いだけです」

     にこっ、と笑いながら言い放つ。その意外さに菊田が見惚れた瞬間──おそらくお互いに、同じことを思ったのだろう。

    『敵わないなぁ』

     そう思って、二人で同時に吹き出してしまった。

    (菊田さんとは喧嘩ができない……本当にそうだなぁ……)

     お互いがお互いに甘くて、ちゃんと怒れない。要はベタ惚れなのだ。幸せな不毛さを抱えた、どうしようもない二人だ。そこに立ち戻って考えると、全ての悩みが些細に思えた。だけど些細だからと無視しなくてもいいはずで、それを確かめたい。

     そうして力松はもう一度迷い、腹の前で両手を軽く揉みあわせて、ようやく覚悟を決めた。

    「俺、今日、帰りたくなったのは、もうすこし考えてから言葉にしなきゃ伝わらない事があると思ったからで……」

     眉を下げて笑う。ハァッ、と思いきり息を吐いても、ろくに次の息を吸いこめない。都会の空気には、自分に深呼吸をさせてくれる隙間もろくにないのか、と悲しくなる。

    「でも、全部、つまらないことなんです。最近よく、待ちぼうけをくうな、ってことも。自分のコーヒーはできれば席についてから頼んでほしいし、美味しいうちに、残さず飲んでくれたほうが、なんとなく気分が良いなってことも」
    「お、おぉ……」
    「おじさんぶるのも、けっこう無防備なのも、どうなのかな? って伝えたかったけど、やっぱり全部、どうでもいいんです」
    「おじさん、って、あぁ俺の話かぁ?」
    「依頼人への差し入れなんて、靴下なんて、もっとどうでもいい。だって俺の方がもっと色々な物を貰ってますし、いや、俺は俺が上げた物を菊田さんがずっと大事に使ってくれているから、それで嬉しいんです。……すみません話が逸れました」

     力松が菊田に贈ったものは、革製の手帳カバーだった。良い革製品を選ぶことには自信があった。革の風合いは、時の経過でますます柔らかくなって、菊田の手により馴染んできたように思う。
     そういう、どうでもいいけれど大切な事柄が、次から次へと頭に浮かんできて当惑しながら、急に、そうか、と理解した。

    「……俺は、菊田さんとずっと一緒にいられれば、それで良いんです……」

     はぁ、と力松の吐いた息は震えていた。菊田は神妙に話を聞いていたが、閉じた唇にぎゅっと力がこもる。

    「だけど、ずっと、ちゃんと好きでいたいと思うから。そう思うと、なぜか些細なことを探して、上げ連ねてみたくなります。
     世の中は言葉にしないと伝わらないらしいので、いつも何かをちゃんと伝えて、いつも何かを更新していなきゃいけない気になります」

     良いことも、悪いことも。考えるより先に、じっと見つめてみたくなる。言葉遊びに過ぎないと分かっていても懲りずに日常から〝 種 〟を取り出して、並べ重ねて、ほら見てくれと相手に差し出してしまう。

    「そうか、だから俺は、菊田さんと一度ちゃんと喧嘩をしてみたかったんだ。……それだけです」

     はぁ、ごめんなさい。
     勢いよく話し続けたことが嘘のように、最後はほとんど吐息だけでそう声にして、力松はやりきれずに手で顔を覆った。
     そうか、と受け止める菊田のかすかな声も、まるで気の抜けた炭酸水のように夜に消える。

    「喧嘩したら、仲直りもしないと、どうしようもねぇよなぁ」

     もう一本バスが通り過ぎるのを待って、二人で顔を見合わせる。

    「喧嘩して、仲直りして、だんだんどっちも上手くなって。……それって安心するよな、そういうことだろ?」
    「はい」
    「俺も、力松と、そうなりたいよ」
    「……はい」

     力松は泣きそうになった。今の言葉を聞けただけでもう十分だ。と、すぐ満足しそうになった──けれど、まだ菊田が何か話しつづけそうなので、せっかくだから黙って聞いていた。

    「何かいろいろ言ってたけど、整理してちゃんとしたいから、後でもういっぺん言ってくれ」
    「いえ、それはもう……本当にいいので……」
    「……でもなぁ〜〜!」

     急にがしがしと頭を掻いた菊田に驚き、力松はうわっと背を丸める。

    「言葉でいわなきゃ伝わんないっていうのは、おじさんにはしんどいよ」
    「菊田さんは、おじさんじゃ、」
    「いやいや、聞いてくれ」

     言う前から、菊田の顔が赤くなりだして、おや、と思う。

    「なんでかって、言葉なんて結局それまでの人生からしか出てこねぇからさ? 俺が、お前に出会う前に得た語彙なんて、お前への愛を示すには、もう足りんわけよ」

     そして力松も、自分の顔が、鼻先から唇から両目の奥にある涙腺から、じわぁっと熱くなり、あっという間に赤面していくのを感じた。

    「語彙が、全然、足りん」

     もう真っ赤になった菊田は、んっ、と両腕を広げた。言葉にできないならボディランゲージで、ということらしい。

    (あぁ、俺たちは、何をやっているんだろう)

     力松はくらくらして、迷わず、抱きしめられにいった。

    (あぁ、俺たちは、なんて……)

     あたたかい胸に抱きとめられると、力松の体は、まるで菊田にしっくり馴染んでいくように、呼吸をすればするほど菊田を好きになっていけるように感じられた。
     菊田の手は優しく迷いなく背をさすってくれて、まるで力松の背にしっくり馴染んでいけるように、隙間を埋めたがっているように感じられた。

     ──その瞬間、きっと同じ愛しさを感じていた。
     嬉しい。たまらなくなって、ぎゅうっと抱きしめかえす。痛い痛い、と菊田が笑う。
     ずっと自分の隣で笑っていてくれたらいい、もうそれだけでいい。そう思うと力松の目は涙でうるみだして、ぼやける視界では赤や橙やさまざまな色が夜に溶けていって、夜が単純な色ではなくなっていった。

    「あー、月が出てる、きれいだな」
    「……俺も、見たいです」

     抱擁を解いてから同じ方向を見上げると、なるほど、月が出ている。見ていたら、菊田が自然に手を握ってくれた。一緒に見るから綺麗なんだよな、と、なにやらロマンチックなことを言っている。

     力松に言わせれば、そういう菊田がいつも隣にいて、二人の時間に意味をもたせてくれるから、月が綺麗なのだ。彼のようなロマンチストの存在によって、世界はより複雑に、純粋に、意味を増していく。それは信じられないほど眩しく、幸せなことだったが──力松だけが知っていればいいのかもしれない。

    「……とりあえず、メシ食いに行かないか?」
    「菊田さんはそんなに俺とご飯に行きたいんですか?」
    「行きたいよ! 行きたいし今夜は帰したくねぇよ、悪いか!」

     何も悪くないし、本当に可愛い人だ、と思うと、笑えた。
     夜の中から拾い上げた、あたたかい気持ちを分け与えるように、力松は年上の恋人の手をぎゅっと握った。




    end.



    ::::
    2022.10 (加筆修正・2024.1/27)
    雨子



    寝てるちゃん、ラブ。心から感謝を伝えます。

    私をゴカムにハメるために、せっせと漫画を貸してくれたり、同人誌を貸してくれたり、「お礼は牛家と菊有を書いてくれればいい」と言ったり、萌え語りをいっぱい聞いてくれたり、作品背景についてもたくさん教えていただきました。

    ゲストのお誘い・再録許可 ありがとう!



    ATOGAKI
    以下、読まなくてもいい後書きです。
    (長々と菊田さん語りをしているだけなので、ご遠慮なく飛ばしてください。)



    すごく申し訳ない程度にしか入れられなかった、< 菊田さんが弁護士 > という設定……。

    いわゆる"町弁"で、遺産相続から傷害事件からセクハラ相談から、細々となんでも仕事がきちゃうひと。
    本人いわく町の便利屋。
    仕事とプライベートの一線が引けなくなりがちに見えるけど、彼の生活は有古くん第一なので、そこは大丈夫です(?)。



    ***

    誰と見ても『あの月』は大事なわけじゃなくて、有古くんと見たから大事なんだなぁ、と思ったこと。そこから膨らませていった話でした。

    菊田さんを見ていると感じる、一種の〝感動〟みたいなものの、正体について、自分なりに考えてみることから始めました。



    『共有してきた思い出があるから戦友だし、隣に戦友がいたから思い出になる。』

    『人が生きるから人生だし、人生だから人は生きる。』

    菊田さんについて考えていると、こういった、愚直でシンプルな言葉遊びがしたくなります。

    あの月を見たから有古くんが大事だし、有古くんと見たからあの月が大事。
    そうだよ。そうだよな? と、こちらに語りかけてきそうな、優しい肯定感があふれていて、何故だかそれが〝感動〟のレベルにまで至っているのです。不思議です。


    菊田さんは、一般にロマンチストと言われるタイプの男性だと思います。スマートな印象が強いですが、それでいて、あたふたしたり、心情が豊かに動いているところが見えます。人としての勇気を振り絞っている感じがして、とても魅力的です。

    本当に欲しいものを欲しいという勇気。
    (生きていてほしい人に、生きろと言える勇気。)

    一生に一度でも言えるかどうかの言葉を、彼らしい言葉選びで、言ってみてほしいなぁと。
    そういう妄想をしながら書きました。


    (私はもともと攻め溺愛派だというのもあるのですが、マジで菊田さんについて考えてると文字数が増えすぎて、自分でも怖いです、すみません。)


    ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
    雨子 Link Message Mute
    2024/01/27 17:06:24

    菊有は喧嘩ができない

    「 たまらなくなって、ぎゅうっと抱きしめかえす。痛い痛い、と菊田が笑う。 」

    菊有・ゲスト寄稿【再録】
    +α

    :: :: ::

    <並盛牛丼/寝てるちゃん>様の同人誌に寄稿した小説を再録します。

    +α 同軸設定でTwitterにのみ上げていたSSがあったので、そちらは画像で上げています。(https://galleria.emotionflow.com/111499/694841.html)


    ***

    ◇拍手(https://rb.gy/mybc3)

    ◇マシュマロ(http://tiny.cc/1zh6vz)

    感想をいただけますと幸いです。
    ◆くるっぷ(https://crepu.net/user/juouj_off) にてお返事を上げています。
    

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    #菊有  #WEB再録  #現パロ  #腐向け

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    • CAn'T #6月2日は露普の日  #露普の日  #露普

      猫にときめいているのか、猫を抱くお前にときめいているのか、分からなかった。
      雨子
    • 夕陽のカナリア 前編「図書館で恋に落ちるパロ」呟きを元に書き下ろした話でした。違いを知り、正反対だからこそ惹かれあう二人に希望を感じたい、そういう願いで書いた話です。

      夕陽のカナリア | 夏と図書館と初恋

      ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰

      ・先天性難聴のイヴァン×片腕ギプスの高校生ギル
      ・本田とルッツ(&アルがほんの少し)
      ・全年齢

      ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰

      後編は紙の同人誌とDL版にのみ収録しておりますので、よろしければご覧ください。
      通販()※一時停止中です;;

      本作品「夕陽のカナリア」は、他の作品と違い、今後一切web再録等しないことにしています。

      マシュマロ(http://tiny.cc/1zh6vz)感想をいただけますと幸いです。


      ____
      #露普  #全年齢
      雨子
    • 2 #6月2日は露普の日  #露普の日  #露普
      小説です
      雨子
    • 4挿画用(浴室のアイスベーア)小説の挿画にするために作りました。
      写真はいずれもpublic domainのものを使用、加工したものです。
      二次配布は許可されていないため、無断使用・無断転載はおやめください。

      #浴室のアイスベーア
      雨子
    • 5夜の待ち合わせ、少しだけ【SS】習作として書いたものですが、実は小説本編の後日談になっています。合わせてお読みいただければ幸いです。
      (◇菊有は喧嘩ができない https://galleria.emotionflow.com/111499/694818.html)

      :: :: ::


      初出 2022.8/24
      Twitterにて上げていた菊有SSです。
      もったいない精神で再掲しました。
      
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      #菊有  #現パロ  #文庫ページメーカー  #腐向け
      雨子
    • 眠れる森の香り(更新日:7/27)
      前後をつけたしました! 時系列ばらばらです。
      あともう1つだけ小さなエピソードあるので、そのうち書けたら書きます。

      ・・・・・・

      (投稿日:7/19)
      Twitterで思いつきで書いていた掌編です。
      清書しました。前後が思いついてるので書きたいのよな……。


      7月からSNS移転してます。

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      #露普 #イヴァギル #全年齢
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