菊有は喧嘩ができない* 菊有は喧嘩ができない
菊田と待ち合わせをするのは、いつも夜だ。
店の照明がオレンジがかった間接照明に切り替わるのを意識の端に認めながら、有古力松はぼんやりしていた。ベロア地のソファに体が沈んだのは、深く、息を吐いたからだった。
先ほど、珍しく時間に遅れず『おまたせ』と格好よく現れた菊田は、ベロアに手をかけたところで見計らったように鳴りだした着信音に、これまた格好よく洋画俳優のように肩をすくめて、申し訳なさそうに店外に出ていった。
端末と手帳だけを手に取って歩きだす彼氏に『俺のコーヒーも頼んどいて』と頼まれた力松は、了承の意味でこくりと頷いた。が、見てもらえていたかはあやしい。『おつかれ』と電話相手をねぎらう声が遠ざかっていくのを、黙って見守った。
その彼は、今は窓の向こう。店の入口からさほども離れていない、街路樹の下に立っている。トレンチコートを脇に携えている。
秋になったからなぁ、と、力松は心の中で独りごちた。菊田の服装に季節感を見るのが好きだった。
勤め人のスーツ姿に、これほどバリエーションがあるとは、力松は菊田に出会うまで知らなかった。
瀟洒という言葉の見本になれそうなオシャレな中年男性──彼の言葉で言うならば、おじさん。渋いものが好きなだけと本人は言うが、どう見てもオシャレである。派手さのないさっぱりした身なりで、かえって垢抜けた印象をかもしだせる人だ。見るものが見れば上等だと分かるアイテムのセレクトに抜け目がない、と、かつて二人の上司だった鶴見は言っていた。
力松にはまったく分からない領域だったが、たまに彼の買物につきあうのは楽しかった。普段は年上の面子を崩さない菊田でも、好きな物の前だと男子のようにはしゃぐ瞬間があるからだ。腕時計、ネクタイ、自分に縁のないものでも菊田と見るのは好きだった。彼と一緒にショーケースを覗くと、今まで気にかけたことのなかったものが、とても美しく見えてくる。
何より、菊田は力松に感想をよく求めた。力松が彼にとっては思いがけないことを言うらしく、面白がってくれる。
もしも、今日のトレンチコートの感想を語るならば、と、窓ごしの風景をより深く見つめるために、そっと目を細めた。
(薄曇の鹿色だ。木立の向こうに、ぼやけて見える……)
感想を求められたならば、そう答えるのに。秋の鹿のようで、落ち葉の匂いを思い出す。どこかに出かけたくなりますね、と。
こんな夜からどこへ出かけるというのだ。力松は苦笑する。そして、ふと、不満げな自分の感情に気づき、戸惑いを覚えた。
──菊田と待ち合わせをするのは、いつも夜だった。お互いに仕事の合間を縫って会うならば当然そうなる。特に最近は菊田がややこしい案件を抱えがちで、会う頻度が減った。
それでも「会いたいなぁ、会えないか?」といつも向こうから誘ってくれるし、頻繁に電話もくれる。それに、菊田は力松と食事ができるだけで大げさに喜ぶ男だ。前にモヒートというものを初めて飲ませてくれたあの店にまた行きたい、などと力松が言っただけで、「俺もそう思ってたんだよ」と、はしゃいでくれる。まるで夢の中にいるように喜ぶ、その反応を疑うほど、力松は愚かではない。本当に「会いたい」と思った時に会ってくれることほど、嬉しいことはないのだ。
不満などあるわけない、そのはずだった。夜の待ち合わせも好きだ。夜の間にいろいろな話をして、とりとめのない会話が、オレンジの灯に溶けていくのは好きだった。いつかこんな待ちぼうけさえも思い出になるから──と、そういう情緒的な思考によって気持ちを救われることも、人によってはあるだろう。
けれど力松は、基本的にはリアリストだった。目の前の事象をまっすぐに見つめる性分だった。己のなかにある違和感も、良い悪いを先に考えることなしに、とにかく静かに見つめてしまう。
(あ、もう湯気がでてない)
コーヒーが冷めきらない間は、まだ良かった、と気づく。向かいの席に置かれた磁気の器から、コーヒーの香りが漂ってくるたびに、自分の中にあるふわふわとした曖昧な憂いが去っていくような、香りが霧をはらしてくれるような気がしていたようだ。
だが冷めたら、もう違う。自分が頼んだコーヒーではない。こんなに冷めるまで放っておいたのは自分じゃない。
(……喫煙席、コーヒーはブラックで……頼んでおいて、と言われて……)
いつの間にか、全てがいつもの光景になっていること、力松はそれに違和感を覚えはじめているのだった。声にならない思いが、ぐるぐると頭のなかで回りだす。
(コーヒー、もう冷めちゃいましたよ? って、俺は今日も言わなきゃいけないんだろうか?)
おじさんは待つのが苦手だから、と、あの人はいつもそう返すのだ。
力松はコーヒーを嗜む習慣がないので分からないが、温かい方が美味しいに決まっている。もちろんそれは菊田が了承済みならば別にいい。しかし、単に、残念でならないのだ。飲食物が無下にされること。湯気の立ち上る、いわばベストな状態が失われていくのを、見ているのが辛い。
(いや、そんな風に感じる俺がおかしいのか? つまらないことだ、こんなこと……)
自分の器の小ささが嫌になって、がっくりとうなだれてしまう。
そしてもっと嫌なことに、こういった些細なことから〝始まる〟のかもしれない、と思えてきた。この落胆が、いつか何かの象徴になりそうで嫌だ。
コーヒーが冷めていくのを見るたびに不満や憤りに近い感情を覚えてしまうような、こんな小さなことから──いつか急に、相手の何もかもが嫌になっていったら? どうすればいいのか悩ましい。
「それはさー、言わなきゃ伝わらないって」
沈んだ物思いに、偶然、後ろの席から聞こえてきた会話が重なった。たしか若い女性の二人連れのはずだ。
力松は盗み聞きするつもりなど無かったが、気持ちが不意に落ちた瞬間には、言葉が強い響きとなって残りやすい。
「……年の差カップルの辛いところね」
思わず声が出そうなほど驚いたのを、口に手を当てて必死に抑える。
「それ年齢のせい? 言ってちゃんとケンカしなよ」
「分かってないなぁ、喧嘩にもならないんだよ」
(わ、分かる……)
遠慮のない関係らしい。力松は大所帯で育ったため、こうした女性同士のやりとりも聞き慣れないものではない。だが女の会話が始まると、男はなんとなく身を小さくしてしまうものだ。
所在なく背を丸めて、熊の置物のように気配を消そうと試みた。
「言ったら聞いてくれるだろうし、年上の余裕で受け止めてくれる。今度から気をつける、って、言ってくれる。……それでもまた同じことになるから、すごく悲しくなると思うんだよね」
「えー、何それ」
(分かる……!)
力松は内心で大きく頷いた。置物の熊でいる必要がなければ、声の主と握手をしたいほどだった。
「言う前から結果が分かってると、言う気がなくなっちゃうのかもしれないなぁ。あとは結局、自分でも、相手にどうなってほしいのか分からないのもある」
「アンタのそういう、落ち着いて考えすぎるところも、良くないっていえば良くないわよね」
「……なんか、べつに、相手に変わってほしいわけじゃないの」
「そこまで手遅れなの?」
「いやー、そういうのってない? 相手には出来るだけそのまま、あるがままで居てほしいっていうかさ」
(うん、うん)
思わぬところで同胞に会えたものだと思った。しかもどうやら言葉に含蓄のありそうな同胞だ。ぜひ参考にさせてもらいたい、そういう思考で、力松のテンションがにわかに上がる。
「あのさ、年の差カップルの別れる理由ベストスリーって知ってる?」
「えー、何それ!」
「こないだ雑誌で見たんだよぉ。一つは私と同じ、うまく喧嘩をしないこと。二つ目はね、」
「有古ぉ、ごめんな」
「うわあっ、っ」
突然、肩に手が触れ、力松は声が裏返るほど驚いた。
「うお……はは、驚いた顔見て驚いちまったよ」
菊田はそのままぽんぽんと肩を叩いて、力松を気遣った。
「大丈夫か? そんなに背ぇ丸めて、何考えてたんだよ」
驚いたせいで会話の最後は聞けず仕舞いになったが、力松は自然とほほ笑んだ。
あぁ、菊田さんだ、と思った。嬉しくて、笑みがこぼれた。
こういう、何気ないスキンシップでの間の取り方、力松の言葉をうながす柔らかい視線の送り方。菊田らしさをひとつひとつ実感して、嬉しいなと思う。と同時に、うろたえた。
「あっ、いえ、何も……電話、大丈夫でした?」
なんとなく後ろめたさで目が泳ぐ。幸いにして菊田はそんな力松の様子に気づくことなく、急に疲れを思い出したようにどさりと腰を下ろした。
「はぁ〜〜、まいった、つらい」
「お疲れですね」
「ん……でも、お前の顔見たら、元気でた」
頬杖をついて、ふわりと笑う。
(うわっ、これだ、この顔)
最初から手加減なしの菊田に、力松は面食らった。
「あー、おじさんにこんな事言われても嬉しくないか」
「何言ってるんですか、菊田さんはおじさんじゃないですよ」
実際どれほど魅力があるか、菊田は本当に無自覚でやっているというのだろうか。力松は不思議でならなかった。
下がりぎみの目尻は、疲れがにじむとさらに魅力が増して、大人の男の色気全開でこちらを見つめてくる。頬杖なんかついて少し上目遣いになるのもあざとい可愛さだし、そのくせ太い手首をスーツの袖口から覗かせてどきどきさせてくる。
(これを自然にやるから、菊田さんっておそろしい……)
もうとっくに力松は菊田のものになっているというのに、こうして常に口説いてくる。口説いている自覚がない可能性もあるが、どちらにせよ力松は振り回される。
「有古はいいな、そこにいるだけで俺に癒し効果がある。反応もぽやついてて可愛いし……おいおい、今さらこれくらいで照れることないだろ?」
いたたまれず身を捻る力松を、菊田は鷹揚に笑った。
「……照れます。あの、いつも言ってますけど、おじさんぶるの本当にやめた方がいいですよ」
「ん〜、そっかぁ〜?」
謙遜のひとつの表現方法が「おじさん」発言なのだろうが、実際の菊田とあまりにミスマッチだ。自分を下げて見せるのは良くないし、自分を恋愛対象外に見せたいのならば、かえって逆効果に終わるおそれもある。
「独身のおじさんなんて、その、かえって狙い目だと思われそうというか、」
「へ〜、有古がそういうこと言うの意外だな」
今は女性も積極的な時代だし、また、時に無防備な菊田が、気をもたせる可能性があるのは女性に限らない。(見る者が見ればそうと分かるのは〝性的指向〟においても当てはまる。)
「菊田さん、か、かっこいいですし、オシャレですし」
「そっかそっか〜、うれしいなぁ」
「さては俺の話、聞いてないですね?」
聞いてる聞いてる、と口では言うが、恋人の前で緩みきったモードの菊田は、力松の手をふにふにと弄び、己の疲れを癒すことに専念している様子だった。(「爪が丸い」と分かりきったことを言って感激して、勝手に癒されている。)
「そのうち言いがかりで訴えられても知りませんよ? まぁ、……弁護士さんに忠告するのもおかしいんですが」
「あー。〝 職場の同僚から子どもの認知を迫られたけど一切身に覚えがない 〟って相談も、いま抱えてんだよなぁ」
笑えない。明日にでも、菊田の身に実際に起こりそうな案件である。
オフの菊田はこうしてふにゃふにゃと恋人の手で遊ぶ男だが、社会的には、弁護士という、お堅い仕事に就いていた。それについても本人は日頃から「俺がやってんのは小さな事件ばっかで儲からないし、要は、町の便利屋だよ」と飄々と語る。そもそも、菊田自身にどこかスリリングな魅力が漂っているために、堅い仕事とのギャップが発生していることも心配要素だ。
「大丈夫だって、ちゃんと周りに言ってあるから。可愛い年下の恋人がいて、もうずっと夢中ですって」
「……あっ、それは菊田さん自身の話ですか?」
「今度は照れねぇのかよ!」
依頼人の話と混同しかけて尋ねれば、何が面白かったのか、菊田がけらけらと笑い出す。二人で話すとこうして会話がずれることも、ままあったが、菊田は力松の困惑顔すらも喜ぶ男なのだった。
本当によく分からない、菊田が楽しいならべつにそれでいいし、不快というわけではないが。力松はなんだか恥ずかしくなってきて、自分の手をパン生地のように揉みつづけてくる手を引っぺがした。でれでれしている男からは残念そうな声が上がった。
「さっきのは、その件での電話ですか?」
「んー? いや、もうちょっと面倒くさい件のほうかな」
「あの、もちろん、俺にできることは無いんですが……大変なときは話だけでも聞くので、頼ってくださいね」
「大丈夫、大丈夫!」
酔っ払いが「酔ってない」と主張する様なテンションで言われても、と思うが、不意にスッと姿勢を正した菊田に、
「有古は優しいな」
と真面目に返されてしまえば、力松の戸惑いはいよいよ明確なものとなった。──優しさ、として、受け止められてしまっていいものだろうか? 今の自分が抱えているこの気持ちを。
(優しさ、とは、違う……)
心の中にふわふわと広がる感覚は一致していたとしても、違う。秋の山道にころんと転がっているような、思いがけず不意に拾うような優しさも、誰かと生きていれば確かに経験する。今の力松は、足元にもやがかかっていてよく見えない、そんな心地だ。ただ、優しさのなかには〝 落胆の種 〟は含まれていないはずだ、と強く思う。
力松は、冷めていくコーヒーを見ていると嫌になってしまうあの感覚と同じ種のものを、菊田との間に不意に発見しそうで、怯えはじめている。自分はできれば、アレを拾いたくない。ならばどうすればいいのか? 道を引き返せばいいのか、それとも思いきって正体を確かめるか、はたまた、霧がはれるまで待つか──。
「さて、と、メシ食いに行くか?」
「あっ、あの、」
「おっと、そういえば」
菊田はまるで片づけるべきタスクのように、冷めたコーヒーを一気に半分ほど飲んで、席を立とうとする。力松はその瞬間に、あっ、と思った。なんとなく心が決まった気がした。
「あの!」
先手を取ってボックス席を出る。横に立って驚き顔の菊田を見下ろす。こういう時の自分は妙に冷静に立ち回れるものだと、力松は知っている。
慌てず息を吸って、柔らかく吐き出すように、なるべく威圧しないように告げなければいけない。
「あの、世の中には、言葉にしなきゃ伝わらないことが、あるそうです」
「……は?」
穏やかな口調で告げた。
菊田は、ぽかんと口を開けている。
「たぶん菊田さんに聞いてもらわなきゃいけないことがあって、でも今はまだ……まともに言葉になりそうにありません。なので落ち着いて考えてみるために、今日は一旦失礼します」
「え……世の中? って、何だそれ」
力松はそれ以上語る事なく、ぺこりと頭を下げた。落ち着いて自分のデイバッグを持ち、もう一度ぺこりと頭を下げてから、歩き出そうとした。しかしそこで、はたと気づいて振り返り、テーブルの隅から伝票を取った。
「申し訳ないので、今日は俺が払います。あの、心配しないでください、たぶん悪いことにはならないので。……それから、菊田さんはそのコーヒー飲み終わってから出てください、残すと勿体ないですよ」
ついでとばかりに気になっていたことを告げて、すっきりした。
菊田は事態にまったくついていけないまま固まっていたが、さっぱりした顔で会計に並ぶ力松を見るうち我に返ったようで、慌てて問いかけてくる。
「あっ、えっ、俺なんかした?!」
力松は少しだけ考えたが、結局は、困った顔で首を振り、支払いを済ませて店を出た。