湿度100%のアクアリウム息をするのも億劫なほど蒸し暑い夜である。
「うーむ、何年住んでもこの湿気にだけは慣れんな……」
うへぇ、と舌を出した吸血鬼は、先ほどからクラバットを外すか否か、反らせた喉元に手を彷徨わせている。
「日本生まれでも今年はきちーわ……」
珍しく静かな居間でエアコンと冷蔵庫の微かな唸りと、暑さに弱った住人の呻き声が混ざる。
今年の梅雨は長引いて、7月になっても湿った空気がじっとりと肌に纏わりつく日が続いている。いつもフォーマルな装いの吸血鬼も今日はとうとう音を上げてシャツ一枚で袖捲り、トラウザーズの裾までからげてリビングの椅子にぐんにゃりと引っかかっていた。ソファに伸びている家主のロナルドも節約を棚に上げてエアコンの除湿モードをフル稼働させているが、あまり効果が上がっているとはいえない。
雨がしのつく窓の外では街並が微かに煙り、この天気では吸血鬼も出ないので今日は事務所を早く閉めた。ロナルドはせっかくなのでジョンと一緒に遊ぼうと声をかけたが振られてしまった。新品の傘をなぜか二本持ってどこかへ出かける予定があるのだという。
仕事を切り上げた暇つぶしの苦手な男と、悪戯を仕掛ける気力も失せた吸血鬼が顔を突き合わせているとなれば手持ち無沙汰な時間が宙に浮くだけである。会話が途切れた空間に、惰性でつけたままのニュースの音声が響く。
――ところによっては霧が出て、湿度はなんと100%……
「マジかよ湿度100%ってこれもう」
「水中だとでも言うつもりか?小学校の理科からやり直せ」
「うるせーバーカバーカ!なんでわかったんだよ!!」
言葉を遮られたロナルドが勢いよく起き上がり、ソファの背もたれから身を乗り出して怒鳴る。
「IQ2000のドラドラちゃんに五歳児の考えがわからいでか」
鼻で笑ったドラルクも億劫げに身を起こし、テーブルに頬杖をつくと講釈を垂れはじめた。
「いいか、湿度100%ってのはあくまで空気中に水蒸気が限界まで飽和している状態であって、断じて水中ではない。」
限界まで塩を溶かした塩水は塩じゃないことくらいはいくら君でも分かるだろう?とせせら笑うように付け足すが、いつもの煽りほどのキレはない。
「なんにせよそこらじゅう水でいっぱいなんだからほぼほぼ水中じゃね?」
「非科学ゴリラめ、水中に湿度の概念は成立しないし気体と液体の時点でも別モンだわ」
「形が違うだけで水は水だろ、やっぱり水中だって」
「いい加減にしたまえ屁理屈捏ねルド。違うものを同じと言い張ることよりも、どうしてそう思い込みたいのか、その動機を考え直してはいかがかね」
やたらとこだわるロナルドにドラルクがため息をつく。うんざりだという気持ちを込めた目で見やると、ロナルドも負けん気の滲んだ目で睨み返す。先程よりも重い沈黙が部屋をじりじりと満たしはじめる。言葉にせずともその意味を二人はいやというほど理解していた。つまり、天気の話をしたいわけではない。
梅雨前線が関東にかかろうという頃、ロナルドとドラルクはまったく同じような押し問答をもう少し繊細なテーマで交わしていた。最近この狭いワンルームを満たしはじめたあるものについて、その本質を乱暴に押しつけて結論を急ぐのがロナルド、その現れ方の細かな違いに拘っているのがドラルクだ。結論は出ないまま、話し合いは日々の忙しなさと梅雨の湿気に溶けてしまって今に至る。
なんでもなにも、と先に口を開いたのはロナルドだった。
「べつに、もしも今この部屋が水槽みたいに水でいっぱいで、その中を俺とお前とでふわふわ泳いでるとしたら楽しいだろうなって、想像しただけ」
「たのしかないわ、家中水浸しになったら生活が成り立たんだろう」
「なんかうまく暮らしてく方法も見つかるかもしれねえだろ。それに、いつまでもジメジメはっきりしねえくらいならいっそ飛び込んで泳げたほうが絶対に良い」
もうすぐ夏だし、と拗ねたように呟くロナルドを見て、冬なら雨より雪を喜ぶタイプだな、とドラルクは苦笑した。考えなしの子供の発想。いざそうなった後のこまごまとして面倒よりも、夢のような景色と、誰かとそこにいることへの憧れがきっと胸を占めているのだろう。妙にメルヘンなことを言い出したロナルドの表情はそのくせやたらと真面目くさっていて、瞳は微かに潤んで揺れている。ほんとうにどこもかしこも湿っぽくて困ると思いながら、ドラルクは差し出された幻想に想いを馳せた。
プールの中で目を開けたように薄青く染まる部屋の中、ゆらゆらとおぼつかない足元でいつもよりゆったり動く自分たちの姿を思い浮かべる。音の響かない水の中で口を開けば、悪口の応酬の代わりに銀色の泡が溢れてはちらちらと昇る。重たい水を蹴って楽しげに泳ぐロナルドの前髪がふわりと浮いて、今よりいっそう青く輝く瞳が露わになるのを見るのはやぶさかではない。しかし、今でさえ胸がつまりそうなほど飽和しているものが一分の隙もなく生活空間を満たしてしまったら、これまで通りに生活していけるだろうか。
ロナルドは形が違っても同じだと言った。それなら溺れて身動きが取れなくなってしまうより、少々物足りなくても暮らしやすい形を落とし所にしたいと今は思う。
「おい、ドラ公。なんとか言えよ」
ロナルドの不機嫌な声に意識が浮上する。相変わらずむすくれている男の顔を見てドラルクは我に返りため息をついた。どうも梅雨はぼんやりしてしまっていけない。体だけでなく思考までふやけてしまうようだ。こんな時に結論を出したってろくなことにならないと分かりきっている。とりあえず、子供じみた空想に引きずられていないでなにかもっと現実的なこと、できれば目下の気だるさを払う方法を考えるべきだ。
束の間の水中幻想を頭から追い出そうとして、ドラルクは閃いた。そうだ、水だ。
「なぁロナルド君、水風呂はろうか」
ロナルドが弾かれたように顔を上げ、目を輝かせた。
「いいな! そうだ氷入れようぜ」
「やめろアホ! 夏風邪引くバカを体現したいのか? どうしてもやるなら私が上がってからにしろ」
バスタブに水を溜めにドラルクが席を立とうとすると、テレビからは明日の天気予報が聞こえてきた。今日とは打って変わって晴天らしい。ロナルドが言った通り、もうすぐ夏だ。身を焼く暑さに耐えきれなくなったら、ロマンチックな若者の馬鹿げた提案に飛び込んでしまうのも悪くはないかもしれない。