紙風船「俺を主のもとへ返してくれ」
やっと連れ出した写し刀はそんなことを言う。
「それはできない」
「主が、」
「もうお前の主ではない」
「俺がいないと主はおかしくなってしまう」
「とっくにおかしいんだよ。だからお前を監禁していたんだ」
これは何度目になるかわからないほど繰り返されたやりとり。
もうお前は自由なのだから好きにしていいのだ。と何度いい聞かせてもこれは「主が、主に、主の命令がなければ」と主、主とくり返す。
まったく、自分の意思はどこへやったと言うのか。
これもこいつのクソ審神者がこいつを何年も監禁調教していたせいなのだとわかってはいる。わかってはいるが腹が立たないわけではなく。
この山姥切国広の審神者は気がふれていた。
この国広ひとふりを地下室に監禁し慰み物にしていたのだ。何年間も。おおかた以前に折れた初期刀の代わりだろう。他の刀剣たちの前ではまっとうな審神者としてふるまっていたというから質が悪い。
特命調査の報酬として配属された長義が決死の覚悟で盗み出さなければ、今もこいつは薄暗い地下室で這いずっていただろう。
「それより足の具合はどうだ」
「もう痛くない。問題ない」
「嘘をつけ、まともに歩いていないそうじゃないか」
そう言うと国広はぷいとそっぽを向いてしまう。歩く、走る、ということにまだ慣れていないのだ。
「あれほど長期間足の腱が切られたままというのは前例がない。経過観察のためにも毎日歩いてみろ」
「わかっている……」
不機嫌な国広はまだ『歩く』ことに抵抗を示す。
国広は俗に言う「隠れブラック本丸」から回収された刀剣だ。監禁期間が長すぎていくらか刀剣男士としての常識を失くしているが、まぎれもない長義の写しの山姥切国広である。
傍目にはごく普通の良い本丸だった。
長義は監査官として訪れた本丸を思い出す。
手入れの行き届いた庭には季節の花が控えめに咲き、審神者は穏やかな男で、刀たちの表情は生き生きと明るかった。
運営数年目。戦績も中の上といったところ。大きな問題のない中堅の本丸。
そんな印象だった。
己の写し刀が足の腱を切られた状態で監禁されていたことを知るまでの儚い平穏だったが。
本丸というのは大なり小なり問題があるものだ。人間が運営している限りそうなる。100%正しい本丸運営というものなどありはしない。
国広が監禁されていた本丸は実にうまく「ほどよい本丸」を装っていた。もちろん何も知らなかった本丸の刀たちに非はない。非はないが、ただひとふりの犠牲の上に成り立っていた平穏をどう思っているのかと長義は考えずにいられない。
ほんのわずかな期間『仲間』だった本丸の刀たちを思い出す。みな気のいい連中だった。主の非道を知ってさぞ衝撃を受けただろう。
だがもう過去のことだ。
件の本丸については報告書を読んだだけで後のことは専門の部署に任せている。その後の詳細は知りたくもない。が、そういうわけにもいかない。
「お前のいた本丸は解体が決まったそうだ」
「……主は、」
「審神者は厳しい処分を受けるだろう。刀剣男士への虐待は重罪だ。貴重な戦力を私利私欲のために占有していたことも重く見られている」
「主は弱い人間なんだ。戦になど関わるべきではなかった」
国広は必死で言い募る。長義はため息をついた。
「平行して精神科の治療も受けることが決まったそうだよ」
「医者にかかるのか?」
「そうだね。心の治療をするそうだ」
「そうか……主……せめて心安らかになってくれ……」
祈るように目を閉じた国広を見つめて長義はなんとも言えない気持ちになった。
なぜこの写しはそれほどまでに自分に非道を働いた審神者を思いやるのかまるでわからない。
ひとりきりで薄暗い地下室に監禁され、出歩かないよう足の腱を切られ、口に出せないような淫らな行為に使われていたというのに。何年間も。
あるいは国広もいくらか気がふれているのかもしれない。人間は共依存とかいう病になるという知識が長義にはあった。人間に似せて造られたこの人の身もそういった病にかかるのだろうか。
国広に関する報告書に記載することがまた増えたな。長義は頭を抱えたい衝動を辛うじて抑えた。
国広には言わなかった、いや言えなかったことがひとつある。
山姥切国広を奪われた審神者は錯乱してしまい、もうまともに話が出来る状態ではないということを。
精神科で治療を受けるしかないのだ。いまは薬でおとなしくさせているらしい。
(せめて心安らかに。か)
国広のその祈りが長義にはひどく虚しく聞こえた。