ナイトシーカーが自棄酒飲む話 冷えたタルシスの広場に、二人の青年の姿があった。
一人は長髪の青年。赤い眼光は血のようで、全身を包む黒い衣服が肌の白さを際立たせている。手には冴え冴えと光る短刀が握られていた。
もう一人は、亜人であった。隆々たる筋肉は薄灰に染まり、頭部と手首から先は狼のそれ。紅に輝く爪はそれ自体が凶器のようだったが、手には無骨な幅広の長刀が握られている。
二人は向かい合っていた。そうしてから既に十数分が経過していたが、二人ははたとも動かない。時折吹く風が、長い髪を揺らして行くだけだ。
周囲を円形に囲む街の住人達も、一言も発しない。野次の一つでも飛ばせば、この危うい均衡が崩れてしまうと知っているかのように。
空気が徐々に張り詰めて行く。それが高まり破裂する寸前、ようやく動きがあった。
「……行くぞ」
静寂を破ったのは、長髪の青年の方だった。石畳の地面を蹴り、亜人の青年との距離を詰める。そのままの勢いで短刀を閃かせた。
応、と答え、亜人の青年は短刀を長刀で受け止める。がきんと鋭い音。亜人の青年は力任せに刀を振り上げると、長髪の青年の肩に切り付けた。身を退いて避けられる。僅かに体勢が傾いだその隙を逃さず、更に刀を横に振り抜く。脇腹を掠めた。
長髪の青年は素早く体勢を立て直し、手にした短刀を投げた。刃が刀に弾かれた時にはもう、新たな短刀がその手に握られている。続く斬撃は防御が間に合わず、亜人の青年の胸を裂いた。
刃が閃き、金属音が響く度、街の住人達は沈黙の呪縛から解き放たれていくよう。長髪の方に幾らだの、俺は狼の方に賭けるだのの声が上がるまで、それほどの時間はかからなかった。
二人の実力は、ほぼ互角だった。刃は互いに届きはしても、深手を負わせるまでに至らない。剣戟の音は、どちらかの体力が尽きるまで続くように思われた。
果ての見えない決闘の終わりは、しかし唐突に訪れた。
それに気付いたのは二人同時だった。互いにはっと目を見開き、武器を構えたまま跳ねるように距離を取る。その直後。
たんっ、と目の覚めるような音を響かせて、二人の間に矢が突き立った。
「お兄ちゃん! アカガネも! 街中で何やってるのよ!」
街人達のどよめきを制して、一人の少女が円の中へ入って来る。
前髪をバレッタで留めた、小柄な少女だった。顔立ちは何処となく、長髪の青年に似ている。買出しの途中なのか、背負った背嚢からは葱が1本飛び出していた。
「ミンティアヌ殿、すまないが下がっていて頂きたい。これは決闘なのだ」
亜人の青年に言われ、ミンティアヌと呼ばれた少女は瞬きを一つした。そうしてにっこり笑った後、彼の傍らまでつかつかと歩いて行く。
ばちん、という音が響いた。ミンティアヌが亜人の青年の後頭部を引っ叩いたのだ。
「決闘だか何だか知らないけど、街中でやる事じゃないでしょ! やりたかったら人のいない荒野にでも行きなさい!」
「いや、そんな所行ったら魔物も出て来るからな……?」
長髪の青年がそう言った瞬間、ミンティアヌは弓弦を引き絞った。大きな青い瞳が、剣呑な光を宿して細められる。
「そもそもやらなきゃいいだけの話でしょ?」
「分かった、止める。一旦止めるから、弓をしまえ」
アカガネもそれでいいな――亜人の青年に向けてそう言って、長髪の青年は短刀を懐にしまう。アカガネと呼ばれた亜人の青年も、長刀を鞘に納めた。
なんだおしまいか、等と好き勝手な事を呟いて、街人達の輪が崩れて行く。彼らの姿が見えなくなってようやく、ミンティアヌは弓を下ろした。
「まったくもう……あんまり馬鹿な事しないでよね」
「すまない、ミンティアヌ殿」
緩く頬を膨らませたミンティアヌに言われ、髪から覗くアカガネの耳がしょぼんと垂れる。
「アカガネ、怪我してるじゃない。手当てしてあげるから、こっち来て」
「怪我ならお兄ちゃんもしてるんだけどな」
じろり。
正しくそう表すのが相応しいほど嫌そうな目で、ミンティアヌは長髪の青年を見た。
「お兄ちゃんは自分で出来るでしょ」
行きましょ、と言い置いて、彼女はアカガネの手を引いて歩いて行く。
広場には、長髪の青年だけが残された。
「おかみさん、酒飲んでもいいですか」
長髪の青年――エンディアは、宿に帰り着くなりそう言った。
「あらあら、荒れてるわねぇ。大人しくしていてくれるなら、別にいいわよ」
女将は酒瓶を抱えたエンディアの姿を見て何かを察したのか、ふんわりと微笑むと鍋を持ってカウンターの奥へ消えて行く。
宿の食堂に人影は無かった。食事時を過ぎて、みな部屋に戻ってしまったのだろう。隅の席に腰掛けて、酒瓶を開ける。
とんとん、と階段を下りる軽い音が聞こえて来たのは、2杯目のグラスを傾けた時だった。高く結い上げた紫の髪に、裾の長い紺色の上着。メディックのノエリアだ。
「お兄ちゃん、帰って来てたんですね」
お帰りなさいと、ノエリアは向かいの席に腰を下ろす。
お兄ちゃんと呼ばれてはいるが、エンディアとノエリアは兄妹ではない。ギルドが結成された際、何となく名乗りそびれていたせいで、この呼び名が定着してしまったのだ。
「……ノエリアは可愛いなぁ」
「お兄ちゃん、何かありましたね?」
どうしたんですか、と赤縁眼鏡の奥で、髪と同じ色の瞳が優しく細められる。グラスに残っていた酒を一息に飲み干すと、エンディアは細く長い息を吐いた。
「ミンティがうちのギルドに入れたがってる、イクサビトいるだろ」
「アカガネさんですね」
「ギルド加入権をめぐってそいつと街中で決闘してたら、ミンティに怒られた」
「……それは、私でも怒ります」
ですよね。
そう言いたいのを堪えて、3杯目を注ぐ。
「アカガネさんって、確かミンティさんとお付き合いされてるんですよね? お兄ちゃんはどこが気に入らないんですか?」
何もかも、と答えかけてぐっと呑み込む。まっすぐな眼差しが居た堪れなくて、エンディアはそっと目を逸らした。
「あいつと知り合ってから、ミンティは夜遊びが増えたし」
「でも門限は守ってますよね?」
7時。冒険者にとっては無理難題に思えるこの門限を、ミンティアヌは今のところ破った事は無い。
「ユディは戦闘狂になったし」
「それは元からですよね?」
苦し紛れに弟の名を出すと、こちらもあっさり切り返された。エンディアの弟であるユディットは戦闘狂だが、確かにそれは今始まった話ではないのだ。
うう、と呻いてテーブルに突っ伏し、やけくそ気味にグラスを呷る。
「たっだいまー!」
ばん、と勢い良く宿屋の扉が開く。聞き覚えのある声に目をやれば、今正に話題にされていたユディットが、髪飾りをちゃらちゃら鳴らしながらこちらへやって来るところだった。
その背には、もこもこと暖かそうな衣装をまとった少女の姿。ルーンマスターのメルティアだ。一見したところ、意識があるようには思えない。
「ノエちゃん、メルちゃんが倒れた! 起こして!」
「お前ら何やってたんだ!」
まさか二人だけで迷宮にでも行ったのか。
そんな思いを込めて一喝すると、ユディットがひゅっと首をすくめる。気まずそうだった表情は、しかし酒の匂いに気付くとすぐに嫌そうな顔に取って代わった。
「げ。兄貴、酒飲んでんのかよ」
「飲んでたら悪いのか」
ぐったりしたメルティアを床に横たえ、ノエリアは肩から提げた鞄の蓋を開ける。その中から目当ての薬品を取り出したのを見届けると、ユディットはぶんと両手を振り上げた。
「酔い潰れた兄貴を部屋まで背負って行くの、誰だと思ってるんだよ!」
自分の限界酒量くらい把握しろ、と叫ぶ間に、ノエリアは治療を終えている。丸い水色の瞳が、きょとんと辺りを見回した。
「ノエちゃん、ありがとー! メルちゃん、おかえり! また明日も探検しような!」
ぱっと顔を輝かせ、ユディットはメルティアの手を取る。起き上がった彼女はユディットの姿を認めると、花のような笑みを浮かべた。
「うん、今度は路地裏行ってみようね!」
「お前ら少しは懲りろ!」
エンディアの声が聞こえているのかいないのか。二人は手に手を取って、2階へと駆け上がって行った。
深く長い溜め息が、エンディアとノエリアの唇から零れる。
「妹が、ご迷惑をおかけしまてます……」
「いや、こっちこそ弟が迷惑かけて申し訳ない」
暫しの間、宿の時計が時を刻む音だけが周囲に響く。
沈黙を破ったのは、ノエリアだった。
「メルティアに比べれば、ミンティさんは随分問題の少ない妹さんだと思いますよ?」
「……分かってる」
吐息混じりに呟いて、エンディアは再びグラスを呷る。
そう――分かってはいるのだ。ミンティアヌの好いた相手が、悪い人間な訳は無いと。アカガネをギルドに入れたがっているのだって、前衛であるエンディアとユディットの負担を減らしたいからだ。
分かっている。分かっているが、それでも。
「それでも、気に入らないんだ」
お兄ちゃんにとって、年頃の妹に近付く男はみんな害虫なのだ。
くすくすとノエリアが笑う。
「お兄ちゃんも大変ですね」
かちりと時計の針が動く。それと時を同じくして、玄関の扉が再び開いた。ミンティアヌが帰って来たのだ。
「ただいまー」
「ミンティ! 門限は7時だぞ!」
「間に合ってるじゃない!」
ミンティアヌは背嚢から葱を取り出し、それで時計を指して見せる。それでも遅いと文句をつければ、何よと睨み返された。
「そうだ。アカガネ、明日も来るって言ってたから、午後から空けといてね」
「ふん。返り討ちにしてやる」
「決闘の申し込みじゃないったら!」
もう、と肩を怒らせて、ミンティアヌは2階へと上がって行く。
宿の時計が、夜の7時を告げた。